死者に対する意識改革―葬儀のあり方を考える

2010年09月06日 10:00


★ 死者に対する意識改革
           ―葬儀のあり方を考える ★



死者を弔う際、わたしたちはこれまで寺や神社、教会などに依存してきました。
しかし、これからは弔いや葬儀のあり方を考え直し、自分たちの手で死者を送る時期に来ているのではないかと感じます。
宗教などの信仰の対象をもっていない一般の人たちは、形式だけの葬儀をおこなっているので、世間的な形式から脱却していく必要があると思うのです。
わたしは自分の母が亡くなった際の葬儀の様子を見て、そのことをつくづくと感じました。

最近、宗教学者の島田裕巳著「葬式は、要らない」が流行っているそうですね。
わたしは読んでいないので内容は把握していませんが、もしかしたら重複していることがあるかもしれません。
ともかく、これから書くことは、わたし個人の真実から生まれた発想であるので、ひとつの意見、考え方と思って読んでいただきたいと思います。


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★まず日本の葬式の多くは仏教式であると言ってもよいのではないかと思います。
そこで、僧侶と呼ばれている人々に対して心から願うことは、「自分は本当に死者の霊を浄化し、昇天(仏教でいう成仏)させているのだろうか?」という正直な問いを、自分自身に投げかけてみてほしいということです。

その力不足のために、まっすぐに「あの世」へと旅立てない人たちが増えつづけたのだと言っても過言ではないからです。
これは、クリーンゾーンに行けないままでこの世に留まっていた霊人たちの浄化を、毎日のようにおこなっていたわたしの体験からもはっきりと言えることです。

僧侶が読み上げる経文に、霊を説得する力はないように思われます。
もし、お経そのものにパワーがあるのであれば、みなすでにクリーンな場所に行っているはずで、その後の供養の必要はないからです。
「○○回忌」と言って、何十年経っても同じ形式で追善供養をしつづけているのは、効果がないことを証明しているようなものではないでしょうか。
一体いつになったら供養は終了(成仏?)するのでしょうか。

供養」というのは「死者の霊に物を供えて冥福を祈る」ことですから、すでにクリーンな光の次元に往っている人に対しては逆に失礼な行為であるといってもよいかと思います。

もうすでに生まれ変わっているのに、まだ供養をつづけている場合もあります。

亡くなった人がその後どうなっているのかわからないでいる家族に対して、「もう大丈夫ですよ。ちゃんとクリーンな領域に行っておられますから、今後の供養は必要ありません」ときちんと教えてあげるのが、僧侶の役割であると思います。

家族の人たちも、その後ご先祖たちがどうなっているのか、まだ供養の必要性があるのかどうかを真剣に尋ねてみてもよいのではないでしょうか? 

僧侶がどのように答えられるか、確かめてみることも大切です。
もし、返答に困っているようであれば、詐欺師とさほど変わらないですから、供養はお断りしたほうが賢明です。
そのような人に、迷っている死者を浄化する力はないからです。

すべて納得できないことは、ひとつずつ検証していく必要があります。
けっして盲信はしないことです。

また、経文というものは、書かれている内容を深く理解し、覚醒するためのものですから、何が書かれているかよくわからないのに単に写経をしたり、読経したりしてみても、効力がないことを知っておいてほしいと思います。



★ どれだけ意識してそれをおこなうかが重要 ★ 



★大切なのは、「どれだけ意識してそれをおこなうか」ということです。
単に記憶した経文を無意識で唱えているのと、一言一句意識して読むのとでは、まるでちがうということですね。


また、仏教では死者に「戒名(かいみょう)」という新しい名前(法号)をつけますが、それも考え直してみる必要はあるでしょう。
なぜなら、死者がその名前を自ら希望したわけでもなく、仏弟子になったわけでもないのに、名前を改める意味がわからないからです。
(★「戒名」とは、本来は「僧としての名前」で、「仏弟子とされた名前」のことです。生前に本人が希望していた名前であれば、よいと思われます)

ただでさえ「ここはどこ? わたしは死んだの?」と困惑している霊人が、意味のわからない戒名で呼ばれたとしても、本人にはだれのことだかさっぱりわからないからです。(実際にそうなのです)

親しみをこめて、本名のままで呼んであげるのが一番よいのです。
生きている者の自己満足のためではなくて、真に故人の立場に立って考えてあげることが大切だと思います。


わたしがまだ若い頃は、僧侶が葬儀に立ち会うことは、自分の死に気づいていない死者に「あなたは死んだのですよ。ですから、あなたに見合った世界にちゃんと行くのですよ」という気づきを与えるために必要なのだと思っていました。

ところがあるとき、放映された某テレビ局の統計で、「死後の世界を信じていない日本の仏教界の僧は九十%以上である」という結果を見て、死者に引導(最後通告)を渡す立場の人たちが「あの世」の存在をまったく信じていないという、実に不思議な実態があることを知ったのでした。

現在の僧侶たちは、この矛盾をどう説明されるのでしょうか。
自分が肉体の死を迎えたときに、やっぱり僧侶に読経してもらうのでしょうか。
それとも、死後の世界は信じていないので、読経や供養など必要ないと考えているのでしょうか。

このように書くと、随分僧侶を非難していると思われるかもしれませんが、さまざまな実態を知ればおそらく納得できることではないかと思います。

しかし、これは僧侶だけの問題ではありません。
死後の世界を信じているわけでもなく、霊の存在を信じてもいない無宗教の人たちが、家族のだれかが亡くなったら、なぜ坊さんを呼んで経をあげてもらうのでしょうか?
それがとても不思議です。

また、世間体を気にするあまりに、したくもない法事をしつづけている人はたくさんおられますが、意味がないばかりでなく、無駄な奉仕です。

★亡くなった人を真に思う気持ちがあるのなら、個々に真心をこめて祈ればよいのです。 
とにかく、古くから受け継がれてきた行事だからというだけで、死者の供養や先祖供養を宗教関係者に任せ、それで一安心してしまっているわたしたちの意識を変えることが、緊急に必要なのではないかと思います。



★この書を読まれた皆さんには、これまでの常識を手放し、新たに「死」というものを真剣に見つめなおし、意識改革をしていただきたいと思うのです。
前回のブログに書いた「シルバーバーチの霊言」を読まれた人なら、もうおわかりでしょう。

告別式」は、大切な人とのお別れのときです。
その際、亡くなった人に対して悲しむのではなく、肉体に縛られて不自由だった世界から本来の自由自在の世界に戻っていかれることを、喜んであげることです。
心から「おめでとう」と祝ってあげることです。
そして、故人を偲んで、家族の人たちがささやかなパーティを開き、故人の好きだった品物や、純白のバラなどの波動の高い花々を飾り、清々しい音楽をながして、明るく笑顔で見送ってあげることです。

命日というのは、ほんとうの意味のお誕生日なのですから。
そして、死者にもそのことを伝え、死後の行き先があることをしっかりと教えてあげることが必要です。
また、こちらの世界に残っている人たちが、いつまでも悲しんでいると、故人は後ろ髪を引かれて往くべきところに往けません。執着せずに解放してあげることが大切です。

人はこの世で生きているあいだに、「自分が肉体を去るときに親しい人とどのようにお別れをしたいか」ということを常々考え、家族にも伝えておくことが必要です。
また、死生観というものは、宗教によっても異なるし、その地域によっても異なりますが、それらに左右されるのではなく、個々にしっかりとした死生観を持つことが必要です。



ハート
あなたが何よりも知っておくべきこと。
それは、あなたという生命体はけっして消滅しない「永遠の生命」であるということ。
その自覚です。
それさえ知っていれば、どのように「この世」を去りたいのか、
どのように「この世」の人たちとお別れしたいのか、
おのずとわかってくることでしょう。





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