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サソリの子はサソリ

2018年03月18日 10:47


◆「サソリとカエルの寓話」について考える


今回はチャネラーRIKAさんの手記を記載します。
皆さんも、下記の物語を読んで、自分に置き換えて深く掘り下げてみてください。



RIKAの手記から

最近はMasako先生をはじめとする光の存在などに対する攻撃がひどく、チャネリングのほとんどが攻撃の首謀者たちを滅すること、攻撃の芽を摘み取ること、そして光のほうに改心させることなどに費やされています。このような状況下である日チャネリングをさせていただいた際、改心したと思った矢先にすぐにまた攻撃をする攻撃の首謀者を目の当たりにして、以前聞いたことのある寓話を思い出したのでMasako先生にそのお話をさせて頂いたことが何度かありました。その寓話について考えたことをまとめましたので、お読みいただけますでしょうか。

寓話の内容は以下の通りです。

引用:『川の向こう岸に渡りたいサソリがいました。でもサソリは泳ぐことができないので途方に暮れています。そこへたまたま居合わせたカエルに、自分を背中に乗せて運んでほしいと頼みました。
カエルは言います。
「でもそんなことしたら君は僕の背中を刺すだろう?」
サソリはこう答えます。
「そんなことするものか。だって君が途中で死んだら僕まで溺れてしまうじゃないか」
カエルはその言葉に納得しサソリのその言葉を信じて親切にも背中に乗せて向こう岸まで渡りはじめました。
しかし、途中でサソリはカエルの背中を毒針で刺してしまいました。
「君は刺さないと言ったじゃないか」
「ごめんよ、それがサソリの性(さが)なんだ」
そしてカエルとサソリは共に川の流れの中に静かに沈んでいった。』

作者は不明ですが、ベトナムの寓話と言われているようです。
前提として、この寓話ではサソリもカエルも擬人化されたものとして進めさせて頂きます。

サソリのイラスト
<サソリについて>
サソリがカエルに対して『「ごめんよ、それがサソリの性(さが)なんだ」』と言いますが、わたしはこの行動と心理について理解ができにくく、毒針でカエルを刺すという行動をしたのはサソリ自身の選択であったのではないかと思っています。性という言葉で片付けてしまうところに開き直りの気持ちを感じてなんだか嫌な気持ちになっていました。
毒針を使うことがサソリの性であるとしても、例えばカエルに感謝し、毒針を使わないという選択はサソリにはなかったのだろうかとずっと思っていました。
しかし、性なのであればサソリが毒針で誰かを刺すのは当たり前のことなのかもしれず、不可抗力なのかもしれないと思うようになってきました。それでも「刺してしまうかもしれない」と正直に言うことはできなかったのだろうかと思うのです。

Masako : このサソリは最初からカエルをだまそうとしています。正直に言ったら、カエルは絶対に乗せてくれませんからね。あなたがカエルだったら、「刺すかもしれないよ」と言われて、果たして気前よく背に乗せてあげることができるでしょうか?
そして、サソリは嘘をついておきながら、開き直っていますね。刺すか刺さないかは本人の選択であり、刺さないことを選ぶこともできたはずですが。
この物語のサソリはそれで溺れ死んだのですから、自業自得です。
とにかく自分が毒を持ったサソリとして生きる選択をしたのですから、すべて自己責任です。サソリもカエルも、自業自得を体験することが必要だったのでしょうね。


<カエルについて>
かつてはお人好しの正直者であるカエルがバカをみるようで、とても嫌な気持ちになっていました。わたしがこのカエルであったなら、背中を刺したサソリを恨んで悪想念を放ち、サソリに騙された自分を悔やみながら死んで、『執着・悪想念地獄』または地獄界の他の領域に堕ちてしまうだろうなと思いました。

Masako :「正直者」というのは「嘘偽りがない者」という意味ですから、このカエルは「正直者」というよりは、「無知で世間知らずの者」と言った方がピッタリ来ますね。

数えきれないほどの過去生回帰をしていただき、わたしの過去生の傾向として騙され易いということがありました。騙され、付け入られる隙があったのは、自己欺瞞があるから相手の嘘を見抜けない、相手に悪く思われたくないという「いい子ちゃん」な部分があることや、相手も自分と同じように考えるだろうという思い込みがある(どちらも死ぬという非論理的な選択をしないだろうと思い込んでいる)、断って逆恨みされたくないから背中に乗せたのかもしれず、カエルにも問題はあったように思いました。

Masako : 騙されやすいというのは、基本的に無知であるからです。賢明で、かつ正常な判断ができれば、相手に対し、直感的にどこかに怪しさがあり、信用してはいけないと感じるはずなのです。相手に悪く思われたくないとか、逆恨みされたくないために行うのは自己防衛のためであり、それは自分のためにやっているのですから、「騙されやすい」ということとは少し異なるのではないでしょうか。

毒針で刺す習性のあるサソリを背中に乗せた自分の責任である、または自分もかつて過去生でサソリでありカエルを刺していたかもしれず、今、反対の体験をしているのかもしれないと思うことができたなら、サソリに殺されても悪想念を放つことなく光のほうに行けるかなと思います。

Masako: そうですね。すべてが学びで、自己が責任をもつことが当たり前だとわかったら、相手を恨むことなどはありませんね。

<もしも…>
チャネリングの合間などでMasako先生とこのお話をさせていただいて面白かったのが、カエルとサソリ、それぞれが正常波動、異常波動、魂の年代等によって行動が分かれるのではないかとお話させていただいたことでした。いくらでも考えられそうで、その後もしばらく頭の体操をしておりました。
そのうち一つだけ、Masako先生がおっしゃっていた例を挙げます。
・カエルが老年期であった場合、サソリの全てを承知の上で「刺すならお刺し、全てあなた次第ですよ」と言って背中に乗せる。(もはや悟りの境地ですね。)

このサソリとカエルが呉越同舟仲の悪い者同士や敵味方が、同じ場所や境遇にいること。本来は、仲の悪い者同士でも同じ災難や利害が一致すれば、協力したり助け合ったりするたとえ)できたら良いなと思うのですが、それを可能にするにはお互いに何が必要なのでしょうか。

Masako :ともに進化成長しようという意志ですね。

この寓話を、カエルもサソリも無事川を渡って呉越同舟できましたという状態にするためには何が必要だったかを考えました。
カエルは自分の背中は弱く、サソリが毒針を立てたら自分は死んでしまう、サソリを乗せるなら自分も死ぬ覚悟を持って臨む必要があると知る必要があったのではないかと思います。断る勇気も必要だったかもしれません。

Masako: 本当は嫌なのに断れないのは、「嫌われたくない」「後々悪く思われたくない」からです。「断ること」に罪悪感を持っていると、そこに弱みがあるので、その弱みに付け込まれるのです。不必要な罪悪感を持たないことが大切です。 

サソリは自分自身のコントロールができず、毒針でカエルを刺す可能性が高いことを正直に話す必要があったのだと思います。
互いに正直であり、また互いが己を知り、互いを理解していたならばサソリとカエルが協力し、知恵を出し合って、例えば甲羅の硬いカメ(サソリが刺しても痛くも痒くもない)に依頼してサソリを乗せてもらうことや、鳥に依頼してくちばしにくわえて川を渡してもらうこともできたかもしれないと思いました。

サソリはもしかしたら自分自身をコントロールできないという悩みを抱えているのかもしれません。過去生や遺伝等でサソリのような性質を持っていたとしても、理性や良心を使ってその性を乗り越えることはできるのではないかと思うのですが、どのように思われますか。

Masako : 理性や良心を使ってその「性(さが)」を乗り越えることができるのは、魂の年代が老年期以上の魂でしょうね。

それでは、老年期(以上)ではないサソリはどうやってその性を乗り越えれば良いのでしょうか。

Masako : 毒針で刺すこと。それが「サソリの性」なんだから、そういう性質を持っていることや自分の毒の強さをきちんと自覚しておき、しっかりとサソリとしての体験学習をすればいいのですよ。なぜって、「その体験をしたかったのだから」「自分で選択したのだから」です。とことんサソリの生を全うすればよいだけです。その体験をして気づき、極まれば、卒業できます。そうしたら、今度は毒のないやさしい生命体に生まれ変わればよいのです。何百回何千回と猛毒のあるサソリばかりやっている人は、まだ極まっていないから卒業できないのです。気づけなければ、永遠に次の段階にはいけません。それが道理です。

話が少し変わりますが、このサソリとカエルの寓話をインターネットで探していたところ、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』に出てくるサソリとを対比させていた方がいました。物語の中で、ジョバンニが川の向こうの赤い火を見つけ、あれは何だろうと聞いたところ、それは蝎(サソリ)が焼けて死んだ光であることを知りました。サソリはかつて小さな虫などを殺して食べて生きていたものの、あるときイタチに見つかって食べられそうになったので逃げたところ前にあった井戸の中に落ちてしまったそうです。その場面の一部を引用いたします。(漢字を一部ひらがなに変えました。)

『銀河鉄道の夜』から引用:
『(略)
「もうどうしてもあがられないでさそりは溺れはじめたのよ。
そのときさそりはこういってお祈りしたというの、

ああ、わたしはいままでいくつのものの命をとったかわからない、そしてその私がこんどいたちにとられようとしたときはあんなに一生けん命にげた。
それでもとうとうこんなになってしまった。
ああなんにもあてにならない。
どうしてわたしはわたしのからだを だまっていたちにくれてやらなかったろう。
そしたらいたちも一日生きのびたろうに。

どうか神さま。私の心をごらん下さい。
こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなのさいわいのために私のからだをおつかい下さい。

っていったというの。
そしたらいつか蝎はじぶんのからだがまっ赤なうつくしい火になって
燃えてよるのやみを照らしているのを見たって。
いまでも燃えてるってお父さんおっしゃったわ。
ほんとうにあの火それだわ。』



燃えるサソリ


寓話のサソリと宮沢賢治の描くサソリが非常に対照的だと思うのです。後者のサソリは死を経験してサソリの性(さが)を超越したのだと思いました。

これはわたし自身の話ですが、かつて状態がひどく悪かったとき、自分ではどうしようもなくて死んだほうが良いのかもしれないと本気で思ったことがありました。それでもせっかくやる気を持ってこの世界に生まれて来たのに、何もできぬまま自分で自分の命を絶つことが難しく、天に対して、もしもうこの肉体が使い物にならないのであれば、悪霊等に使われたくはないので今すぐ殺してくださいとお願いしました。反対に、もしまだどうにか使い道があるのであれば、宇宙のためにこの肉体を器として使ってくださいとお願いしたのです。それはMasako先生にわたし自身がひどく自己中心的でエゴが強いことや、己を空しくする必要があることを何度もご指摘いただいていたものの、己を空しくするということがどういうことなのか、どうすれば良いか分からず、もう全て天に委ねようと思って願ったことでした。数日間、毎日同じように祈り続けました。
そうするうちに、思いがけない出来事が次々と起きるようになりました。それまでは悪霊のささやきばかり聞こえていたのに、祈り始めてから数日後、ハイアーセルフがわたしを叱る声が聞こえるようになりました。そこから状態が少しずつ良くなっていき、ある日、Masako先生との電話相談の最中に、突然守護神と個体がやってきました。(そのときの個体さんはわたしとは縁のない存在で、今は自分の過去生が個体として入っています。)その守護神と個体の導きだと思うのですが、ほどなくしてチャネリングができるようになりました。
この祈りによってわたしのエゴが全て消滅したわけではなく、その後も問題は次々と起きていますが、器としての肉体を天に委ねると決めたときに何かが大きく変わったとは思っています。
『銀河鉄道の夜』のサソリは死んでしまいましたが、エゴをなくす覚悟を決め、その決意を基に行動をしていけば死せずとも生まれ変わることは可能なのではないかと思います。そのためには、自分の全ての責任を自分で負う覚悟や決意が必要なのだと思います。

Masako: その通りですね。本当に改心するには、一度死なないとだめなんですよ。どうしようもない極悪非道の自分を殺してしまわないとね。
「自分を殺す」というのは、「自我/ロウアー/シャドーを消滅させる」「自己を空しくする」「自己を聖なる存在に明け渡す」ということです。これができない意気地なしは、救いようがありません。


<まとめ>
この寓話をことあるごとに思い出していたのは、自分にはカエルとサソリどちらの要素も持っているからではないかと思いました。当初は自分自身はカエルだと思っていましたが、サソリの要素もあったことが過去生回帰等でも明らかになって来ています。それもシャドーが濃くなってくるとサソリの要素が強くなってくることが分かりました。自分にはサソリの要素はないと思っていたので、嫌悪して見ない振りをしていただけかもしれません。それでもサソリの要素が自分にあることを認め、それを学びに変えて乗り越えて行こうと決めたころからシャドーは薄くなって来たように思います。わたしにはサソリとカエル、どちらの学びも必要だったと思います。

また、当初はMasako先生とこの寓話に関して対話をさせていただく予定でしたが、対話の基となる文章を何度か書いてみて、わたしは自分の疑問を先生に投げかけ、Masako先生のお返事を伺うことでより「正しい答え」や「正解」が知りたいのだと気づきました。そしてそのMasako先生のお返事を自分のものにしようと思っていたのだと思います。ここにはわたしの中にいつも存在する「いい子ちゃん」がいました。「正しい答え」や「正解」を外側に求め続けた結果、迎合しやすくて悪の手先となった過去生が多々おりました。この寓話について考えることでわたしに必要なのは他者による「正しい答え」や「正解」ではなく、「わたしの考え」だったのだとようやく気がつきました。いつかの電話相談の際、「確固たる自信がないから迎合するのよ」と先生におっしゃっていただきました。「確固たる自信」を身につけます。

そして自分にはカエルとサソリ、どちらの要素もあってそれで良いのだと思えました。どちらもあるからどちらのことも理解することができますし、どちらの要素も嫌う必要はなく、理不尽なことをされたらサソリの毒針で刺すということもできるし、川を渡りたい人の役に立つためにカエルになることもできます。わたしにはどちらもあって、そのときに必要な方を選択をすれば良いのだと思いました。

お読みくださりありがとうございました。
RIKA


バラの花


★Masakoからの伝言


地球上には1000種類ものサソリが生息しているようですが、この全部が毒を持っているわけではなく、人間にとって危険な毒を持っているサソリはそのうちの25種類ほどなのだそうです。ほとんどのサソリには特に強い毒もなく、「危険な生物ではない」とされているのです。しかしながら、毒を持っているサソリに関してはブトトキシンやセロトニンの神経毒にやられ、年間で千人ほどが死に至っているという報告もあるので、安心はできません。
特に毒が強く危険なサソリとして有名なのは「オブトサソリ」で、人間がこの毒にやられると一発でノックアウトらしいです。「ストライプバークスコーピオン」も強力な毒を持っていて、イスラムでは生物兵器として使われていたこともあるそうです。

つまり、同じ「サソリ」に属していても、さほど危険ではないサソリもたくさんいるし、非常に毒性の強い危険なサソリもいるということです。
これを人間に置き換えますと、同じ「人間」に属していても、温厚で危険性のない人物もいれば、非常に質(たち)の悪い極悪非道の危険極まりない人物もいるということです。個体差と言いますか、質の幅が大きいということですね。
では、なぜそのような個体差ができてくるのでしょうか。

猛毒を持ったサソリが猛毒を持った父母から生まれるように、元々ダーク度が濃い親神から生まれてきた場合、その「親神の質」をもらっているわけです。その上、それに輪をかけたように極悪非道なことを繰り返し、何の気づきもないままに転生を繰り返すと、本当にどうしようもない性根の腐った魂となってしまうということです。

ダークサイド(ひずみ)にいる魂というのは、個々の人生に光が注入されなかったため、何の気づきも得られないままで、もう転生ができなくなった者たちです。それで、何とか分霊などを誕生させて挽回しようとするのですが、そんな質の悪い子どもを産んで育てるという契約をしてくれる母親がいないのです。それで、「産んでくれさえすればそれでいいから」といった短絡的な内容で契約してしまいがちとなります。
親になる者も、「産むだけなら、まあ仕方がない」ということなのでしょうね。
それで誕生しても「母親の愛を知らない孤児」ばかりとなり、学校にも行けなくて、悪に身を落として若くして死んでしまうというケースがほとんどなのです。
たとえ膨大な数の転生をしたとしても、意味のない/気づきのない人生を繰り返すだけです。実際に過去生回帰をしていて、そのようなパターンを繰り返していた魂を多く見かけます。

この魂たちに何が足りないかというと、「自己の魂の進化と成長」への意欲です。ただ単に生まれてきたいだけ、生きながらえたいだけなのです。だからすぐに簡単で楽な生き方、たとえば他者の金品を奪う「窃盗」のような悪の道のほうに流されていくのです。光や愛を体験していないのですから、光や愛の重要性が理解できないし、そんなものは要らないと思い込んでいるのです。究極は「愛の欠如」から起こっていることなのですが、本人にはそのことがわかりません。
そういう魂たちに光の放射をすると、「こんな暖かくて、心地よいものがあったんだ。初めて知りました」と言って、小躍りして喜ぶのです。それで、「消滅」を免れて「地獄界」を飛び超えて「光の領域」に上昇できた者たちも少なくありません。

ともかく、その魂に光が注入されないと、気づきが生まれないし、進化成長できないということを、しっかりと脳裏に刻んでおいてください。
サソリの子はサソリです。
そんな自分が嫌で仕方がないなら、一度自分の尾っぽにある毒針で頭を刺して死んでみることです。

2018年3月18日 
Masako





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