自ら光を放ちましょう

2014年08月28日 00:00


★ 吠えない盲導犬



先日、読者さんから下記のようなメールが届きました。

今日、このような記事がネットに載っておりました。
何者かが盲導犬を刺す
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140825-00000013-wordleaf-soci

この記事を読んで泣いてしまいました。
いまだ、このような仕打ちが出来る人間が居るのかと思うと
情けなくていたたまれなくなります。
光を送ってみましたが・・・。
このワンちゃんの心と体の傷が一刻も早く癒えることを祈ります。



早速その記事を読んでみました。
被害に遭ったのは、埼玉県の全盲の男性(61)と『オスカー』という名の盲導犬でした。
盲導犬として訓練を受けてきたオスカーは攻撃性を持たず、何ヶ所か刺されていても声を上げることもなかったので、全盲の男性はオスカーの怪我に全く気がつかなかったという内容でした。

さて、この事件について、あなたはどのように感じ取られたでしょうか?
犬が吠えないことをいいことに、刺したやつはけしからん! と思ったでしょうか?

わたしは、このように盲導犬として訓練している訓練士に対して、けしからんと思いました。こんなことでは、全盲の人が危険に出会ったとき、何もなす術がありません。
危害を加えようとしてくる人間がいたら、もっと警戒し、それをご主人に知らせるために、時にはうなり声をあげたり、吠えることも必要です。
そんな判断は正常な犬であればできるはずなのです。犬は怪我をしてもさほどの痛みを感じないと言われますが、黙って耐えていればよい場合ではありません。

もしそれで犬が死ぬようなことがあったら、困るのは目の見えないご主人なのです。
人を見て、やたら吠えないように訓練するのは、確かに必要で大切なことでしょう。しかし、それと同時に、吠えるべき時には吠えるように訓練することも必要なのではないでしょうか?
訓練士はもっと犬にケースバイケースを教える必要があるということです。人間はみな良い人であるとは限らないからです。

ちょっと気になったので、この記事に掲載されていたワンちゃんの写真を調べてみました。
思ったとおり、この犬は異常波動となっていました。正常であれば、犬は刺した相手に対し、何らかのアクションを起こしたでしょう。
すなわち、刺した相手も異常なら、刺された犬も異常だったということです。
とても残念なお話でしたね。



ライン ノスタルジック


★ 覚醒を保ちつつ怒ること



このニュースを知らせてくださった読者さんは、盲導犬を刺した犯人に怒りを覚え、非常にネガティブな気持ちになっておられたと思います。
わたしは「いつもどんなときでも、冷静になって読むことが望まれますね」とお伝えしました。
次に来た彼女のメールにはこうありました。

盲導犬の記事を読んで、犯人に対する怒り、また怒りを感じる自分に失望感を感じていました。感情的であり、ネガティブだったと思います。
ワンちゃんへの光の放射は、純粋なワンちゃんへの愛ではなく、犯人への怒りと自分への失望感を解消する目的が密かにあったのかもしれません。


彼女は怒りを感じる自分に失望感を感じていたと書いておられました。しかし、わたしはけっして「怒ってはいけない」などとは申しません。このブログを読んでこられた人であるなら、わたしが「怒り」に対してけっして否定的ではなく、肯定的であったことがおわかりになるはずです。
仏教をはじめ、他の宗教では怒りを否定しますが、イエス自身は怒りまくりましたね。それについての記事も書いておりますので、また読んでみてください。

怒るなら、徹底して、心の底から怒りなさい! 」と、わたしは皆さんに申し上げておきます。
但し、「覚醒」を保ちながら怒ってください。
なぜなら、「覚醒」の状態で怒るならば、その怒りは変容し、慈悲となるからです。



OSHOは言っています。

タントラは、「怒りは敵ではない」と言う。
怒りは慈悲の種子だ。
その同じ怒り、その同じエネルギーが、慈悲となる。

怒りと闘えば、そこに慈悲の可能性はない。
もし闘いに勝ち、抑圧に成功したとしても、あなたは死んだ人間になるだけだ。
抑圧したら怒りはなくなるだろう。
だが、そこには慈悲もない。
なぜなら、怒りだけが慈悲に変容できるからだ。



死んだ肉体には、怒りはありませんね。
自分に怒りがあることを感謝しなさいということです。

この深い意味を味わってみてください。


キャンドル1


★ 自ら光を放ちましょう



私は独り立つ者にはまだまだにしても、せめて歩く灯台にはなっていたいです

上記は、先日別の読者さんからいただいたある記事の拍手コメントの最後に書かれていた文章です。
わたしは下記のようにお返事を書きました。

歩く灯台ですか? 灯台のもとは暗いのですよ。台ではなく、自ら光を放つろうそくになりましょう。ろうそくは自らをこがしつつ周りを明るく照らすのです

灯台もと暗し」という言葉がありますね。

「灯台(とうだい)」というのは、台にのせた皿に油を入れ、それに灯心をいれて火をつけて使う昔の照明器具のことです。
灯台は周囲を明るく照らすのですが、そのすぐ下は影になって暗いことから、自分のことや身近なことは、かえってわからないものだ、という意味に使われています。

もうひとつの「灯台」は、港や岬に立って海を照らす航路標識としての意味がありますが、いずれにしても灯台は遠くのほうは照らしても、自分の足下は照らさないのです。

自分の近くよりも遠くのほうの物事を見たがる人は、どちらかというと男性的です。実際に男性に多いです。
女性は家族のために小さな空間だけを、くまなく照らそうとします。自分の身近なことだけを見る傾向があるのは女性的なのです。


キャンドル2


★ 足下を照らすこと(照顧脚下)



禅寺に行きますと、玄関に「脚下照顧」と書いた看板が掲げてあるところがありますね。
これは「脱いだ履物をきちんと揃えましたか?」「上がる前によく自分の足下を見なさいよ」という注意書きです。
しかし、単に履物の脱ぎ方だけを注意しているわけではないことはわかりますね?

足下を見ること」は「自分の心身を見つめること」とイコールです。

あなたの足下はいかがですか?
しっかりと立っていますか?
足がしっかりと大地に立っていないと、身体が安定しないだけでなく、精神まで不安定になってしまいます。

では、足下がぐらつかないようにするにはどうしたらよいでしょうか?
まずは自分自身をしっかりと見つめることから始めましょうということです。

というわけで、「遠くを照らす灯の台」ではなくて、「灯自体」になっていただきたいと思い、「自ら光を放つろうそくになりましょう」と書いたしだいです。
大切なことだと思いましたので、補足をさせていただきましたが、ご理解いただけましたでしょうか?


キャンドル3


ここまで書き進めて、「自灯明」という言葉が脳裏に思い浮かびました。

自らを灯明とし、自らを依処(よりどころ)として、他人を依処とせず、
法を灯明とし、法を依処として、他を依処とすることなかれ


これは、ゴータマ・ブッダが入滅する際に弟子に伝えられた遺言です。
ブッダが亡くなった後、誰かの言葉や教えに左右されるのではなく、これまで自らが修行(体験)してきたことを信じ、自らの心に従い、ブッダが説いた法をよりどころとして、この先も修行していきなさいよということです。

ろうそくが1本でもあれば、闇を明るく照らすことができます。
自らの身体を焦がし、その命を融かしながら、光を放ちつづけることは大変なことです。
ろうそくの炎は、この世の一切の現象と同じです。常に停止することなく変化し、一時的で、瞬間だけの存在です。やがてろうそくは燃え尽き、光は消え失せてしまうでしょう。

しかしながら、まちがいなく闇を照らし、誰かの役に立っていた瞬間があったのですから、ろうそくは使命を果たすことができて幸せであると思います。
そして、この燃えていた炎がすーっと消えた状態が、仏教で言うところの最高の境地、「涅槃(ニッバーナ)」なのです。


ふたつのハート

あなたは、
引き出しに入ったまま、いつまでも使用されずに忘れられてしまったような、
ろうそくになりたいでしょうか?

それとも、短い時間でも大いに光り輝き、誰かの役に立ち、
本来の使命を全うできるろうそくになりたいでしょうか?

死んでいる月ではなく、
自ら熱と光を放射する太陽になりましょう。 

2014年8月28日

愛と感謝  カヴィーシャ・光の仕事人





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