あなたはどのタイプの愚か者?

2013年09月19日 19:30


今日は満月で、仲秋の名月ですね。
すっかり秋らしくなり、朝夕はとても涼しくなりました。 
虫の音も聞こえてきます。




     お月見とうさぎ


◆ 数秘リーディングレポートより ◆



今回も、前回に引き続き、9月の「数秘リーディング」の受講者さんのレポートをご紹介します。

前回ご紹介したY.Oさんと同じく、S.Kさんもまだ自己探究をされている途中ではあるのですが、まだ「扉を開けることができない人たち」を力づけるよいお手本となるのではないかと思い、掲載させていただくことにしました。

S.Kさんの1回目のレポートには「扉を開けることを怖がり、すぐ保身にはしる臆病な自分がいて、扉を開けることはとても苦痛に感じる」ということや「失敗を恐れてしまう心が自分自身を扉から遠ざけていた」こと、「どこかで体裁を繕う自分もいたし、成功できるかどうか分らないのに挑戦することは無駄なことではないかと思う自分もいた」ということが書かれていました。

それに対して、まだやってもいないうちから、その結果について心配されているS.Kさんに「やってみないと結果は出ないし、また、やってみないと成功することもできないのですよ。『失敗は成功の基』という言葉の意味を知ってくださいと申し上げ、「失敗をなぜ恐れるのでしょうか? 失敗することはいけないことですか? 悪いことですか? それを掘り下げてみてください」とコメントしました。 

今回は、その後に書かれた第2回目のレポートの内容です。




* 扉を開けられなかった本当の理由 *  
  

                  S.K  31歳  女性 埼玉県
 
 


1週間が過ぎ、もう一度数秘リーディングの結果を振り返りました。1のエネルギーの質について考え、掘り下げた後の気づきをご報告致します。

<自立の本当の意味を教えてくれたアーリオーンの言葉>

愚かなる者たちよ、
扉の前でたたずむか。
扉の材質について、形状について語り、
それで扉を知ったつもりになるか。

扉を知って、それで終わりか?
扉は、何のためにあるのか。
こちら側と向こう側に出入りするためのものだろう。

扉の向こう側には、どんな世界があるか。
わからないから、扉を開けるのは怖いと言う。

わからないなら、なぜ、怖いのか?
真実は、分からないから怖いのではなくて、
自分が「わからないもの」に対応したくないだけのことだ。
対応しても、立派にこなせるかどうかわからないから、怖いのだ。

立派に対応できなかったら厭だ、
そんな自分を想像しただけで傷つく。
ならば、わからないものには立ち向かわないほうが良い、と考える。
愚かなことだ。

わからないものに勇気をもって対応しようとする者に、
惜しみない賛辞を与えながら、
心の奥底には嫉妬の炎が燃える。
そして、頭の片隅で一生懸命に自分が対応しない理由を、
だれに話しても納得してもらえるような、
美しい正当な理由を考える。
愚かなことだ。

長年、これを繰り返すと、
自己暗示によって、
わからないものに傷つきながら対応することを
嘲るようになる。
さらには、そうした行為をしようとする者を説得しようと試みる。
最後には、相手の可能性を潰してまで阻止しようとする。
愚かな…。

自立しなさい。
自立とは、わからないことの連続だ。
一瞬一瞬の行為を自らの決断で選び取り、
その結果起きるであろう全てのことに責任を持ちなさい。
だからといって、排他的になる必要はない。
だれの意見であれ、自らの意志で選んでいるんだという自覚がなければ、
自らの能力を試す結果である責任も自分の手には入らない。
自立とは、そういうことだ。 

                    
                「アーリオ―ンメッセージ」より~       
                *カヴィーシャ様のブログより抜粋



   月の窓辺


このアーリオーンのメッセージを読み、自立のできない、この愚かな者はまさしく私自身であると気づかされました。
石橋を叩いて渡るタイプの私は、失敗を恐れて扉を開けられないことが多いけれども、人が自立しようと行っていることを嘲るようなことはしていないと思っておりました。
しかしそれは自分がそんな人間ではないと信じたかっただけで、本当の私は恥ずかしい程の高慢な人間であることに気づかされました。
カヴィーシャ様が教えて下さった『失敗は成功の基』。その通りだと思います。その言葉も知っているはずなのに自分の中で素直に受け入れられずにいました。

なぜ失敗を恐れるのか?
今まで私は成功するであろう扉を選び、失敗しそうな扉は避けていました。扉が目の前にあっても成功できると思えるまでは開けることはなかったし、失敗すると分っていながら扉を開けることはまずありませんでした。
自分の中で成功体験が多いほど優れているという思いの制限があったのです。
失敗が少なく成功体験が多いことで優越感に浸り、自己陶酔していたのだと思います。
今まで得られてきた成功体験など、とても狭い範囲のものだということには目を向けず、それを自分の自信にしていたのです。

本当は失敗を恐れているのでは無く、失敗することにより愚かな人間だと思われることを恐れていたのです。私自身が自分の愚かさに気付かず、勇気ある人が失敗する姿をみて無様だなと嘲っていたからです。本当に愚か者ですね。
失敗を他人に評価されることが恐く、自分の高慢さや自尊心を傷つけたくないという思いから、失敗を避けていたのだと気づきました。

失敗は悪いことなのか?
勿論答えは、いいえです。失敗しなければ成功に近づくことは出来ませんし、失敗することで自分自身を見つめ直す機会を貰っているのだと思います。失敗がなければ成長しようと努力をしなくなってしまいますし、失敗も自己の成長に必要な学びなのですよね。失敗と成功もまた一直線上にあり、表裏の関係なのですね。


月の窓辺イエロー


~アファメーションについて~

カヴィーシャ様から頂いた、アファメーションで“感じることの真実に責任を持つ”という意味がよく理解できずにいたのですが、意識的であるということは自分の感情に振り回されず、感情の上に立ち自分自身を見つめる観察者になることができるということなのですね。また感情を統合するための必要なプロセスなのだと理解できました。
しかし、意識的である状態をつくることは、とても難しく、中々その状態を維持できずに、すぐに自分の感情の中に入ってしまったり、意識的になることに時間差が生じたりします。
無意識に習慣化された思考や感情に流されないように、意識的である状態をもっと持続させ観察者となれるよう努力していきたいと思います。


~創造エネルギーについて~

1の創造エネルギーに関してですが、少し理解できるような出来事がありました。
私は以前に自ら連絡を絶ち、距離を置いた友人がいたのですが、その理由は鉄輪の女と一緒のものでした。
自分との真実を分かち合いたいと思いながら、それが出来ず、自分の至らなさもあるけれどもと思いながらも、自己を顧みることよりも友人の方が悪いと相手のせいにしたのです。

大人になり、偶然(必然に)カヴィーシャ様の数秘リーディング結果を頂いた後、その友人と会うことになりました。会って色々話をし、友人から私が連絡を絶った理由が気になっていたと言われ、私も過去の自分の想いを解放できる機会だと思いました。きちんと本音で話そうと思ったのですが、相手の反応を気にしてしまい、結局その場では核心に触れられず、少しの本音と、半分ほどの自分を明け渡し取り繕うかたちで別れました。

その後、そのことを考えるたびに、もやもや感があり、このまま付き合うことに意味があるのだろうかと考えました。自分がどうしたいのか自分の気持ちに向き合った結果、やはり自分の真実を分かち合う関係になりたいのだと確信しました。
その為には、以前の様な自分のネガティブな部分を隠す付き合いではなく、過去の出来事に対する自分のネガティブな面を話さなければ前に進めなかったので、友人に私の本音を伝えました。友人は私のネガティブな面を理解し、受容してくれました。そしてお互いに真実を分かち合う関係でありたいと思っていることを確認し、再スタートすることができました。

この出来事がきっかけで私が感じたのですが、真実を分かち合う関係、これはきっと私が創造したもので、本当は初めから用意されていた。だけど、その扉を開けることが出来なかった。開けるためには、恐れや不安など自分の感情をコントロールし、自立しなければこの扉を開けられなかったのではないかと思うのです。
勿論、扉を開けないことも、選択の自由として許されているから、過去の私は感情に支配され、その扉を開けられずにいたけれども、本当はその扉はいつでも私次第で開けることが出来たのだと気づきました。
この出来事は私にとって本当に貴重な体験です。扉を開けることの楽しさ、恐れや不安などのネガティブなものを乗り越えた後に、感じるこの幸福感は、次の扉を開けるときの勇気になったと感じています。一つずつ、このように扉を開けて、色々な自分を発見していくことを楽しみ、それによって魂が成長していけたら一番いいなと思っています。

★カヴィーシャ: 今回はほんとうによい体験をなさいましたね。



~最近の気づき~

最近理解できたことは、魂は同じところからきているので、私たちは皆同じであり、それぞれが自己の成長を目指して進んでおり、私たちの違いは学んでいくエネルギーの質や、学びに必要な表現・気質のエネルギーによるものだということです。

他人の良いところも悪いところも、全部自分であり、他人から傷つけられたと感じるときは、しっかり自分自身を愛せていませんよと教えてくれているのだと気づきました。
始めは自分を傷つける相手を嫌な人だと思っていましたが、その人はただ気づきを与えてくれただけの人で、他の人でも良く、たまたまその人がその気づきを与えられる条件にいたから、そういう言動をとってくれたのだと解釈することができました。


★カヴィーシャ: そのように解釈できたことは、大きな前進だと思います。

 
そう考えると、誰がどうだとか、個として周りが動いているのではなく、自分の魂の成長のために、周り全体が一つとなって自分の成長を促す為に動いてくれているように感じます。

★カヴィーシャ: とても視野の広い見方をなさっていると思います。


今回のリーディングの結果で、1のエネルギーに沢山カルマを残しているという意味が良く解りました。まだ結果を頂いて1カ月も満たないのに、これだけの思いの制限があることがわかり、枠を設けていることに気づきました。
まだまだ気づいていない思いの制限がいったいどれほどあるのだろうと途方に暮れてしまいそうですが、いつか真の自由に辿り着けるように、一つ一つ思いの制限を取り払っていきたいと思います。
その為にも、しっかりと自分自身を愛し、成長できるように沢山の扉を開けることを楽しんでいきたいと思います。

このような機会とたくさんの気づきを与えて下さったことに、本当に感謝しております。
また新たな気づきがありましたらご報告致しますので、どうぞこれからも宜しくお願い致します。

★カヴィーシャ: 第1回目のレポートに比べ、随分前進されたことを心からお喜びします。

あなたは自分が愚か者だと気づかれた点で、もうすでに愚か者ではありません。
愚か者というのは、自分のことをまったく知らないで、自分が愚かであることでさえ気づいていない人のことを指します。
ですから、そのことをはっきりと知り、はっきりと述べられたあなたは、「愚か者」のなかにはもういないということです。そうですね?

あなたはとてもすばらしい資質をもっていらっしゃいます。
ですから、着実に今回得た「気づき」を体験化していくことができるでしょう。
ひとつひとつ扉を開けることの感動と喜びを知ってくださって、うれしいです。 
どうかその調子で未知なる扉をどんどん開けていってください。ワクワクしてきますね。

では、つぎの扉をひらくことができたら、またご報告ください。
ともに喜びを分かち合いたいと思います。




南泉斬猫
      「無門関」 南泉斬猫 より


★ あなたはどのタイプの愚か者? ★



S.Kさんのレポートに出てきた「愚か者」にちなんで、今日はその「愚か者」について、別の視点からお話をしてみたいと思います。

上記の写真は過去記事『猫にちなんで―禅問答』のなかの「猫に仏性があるや否や」のテーマで取り扱ったときに使用した写真です。見覚えのある方もいらっしゃるかと思いますが。
このときにくだらない問答に明け暮れている僧たちのことを書きましたが、彼らはまちがいなく頭でっかちの愚か者たちでした。
あまりに論争がばかばかしくて、南泉禅師はとうとう猫の首をちょん切ってしまったというお話ですが、愚かな者たちは今自分たちがする必要があることもしないで、時間を無駄に過ごしていたわけです。

OSHOの著書のなかに、つぎのような質問が載っていました。

「愛する和尚、学のある愚か者と学のない愚か者のうち、どちらが良い弟子になれるでしょうか?」

皆さん、この質問をどのように思われましたか? あなたはどちらでしょうか?

まず「何種類の愚か者がいるか説明しよう」と、OSHOはつぎのように語りました。

第一は、知らないうえに自分が知らないことも知らない者、単なる愚か者。
第二は、知らないのだが、知っていると思っている者、複雑な愚か者、学のある愚か者。
そして第三は、自分が知らないことを知っている者、祝福された愚か者。


じつに面白いですね。
第一の愚か者、第二の愚か者、第三の愚か者、あなたはどの愚か者でしょうか?
つぎの言葉を、じっくりとハートで受け容れてみてください。


誰もが、単なる愚か者として生まれて来る。それが「愚者」の意味だ。
子供は皆単なる愚か者、知らないことを知らない。まだ知の可能性に気づいていない。
それがキリスト教のアダムとイブの話だ。

神は彼らに言った。「知恵の木の実を食べてはならない」
知恵の木の実を食べるという事件が起こる前、二人は単なる愚か者だった。
何も知らなかった。当然、知らなければ不幸になるのは難しい。
だから、とてつもなく幸せだった。
不幸になるには少し訓練が要る。不幸を生み出すには少し熟練が、ちょっとした技術が必要だ。
知識がなければ、地獄は造れない。知識なしにどうやって地獄を造る?



OSHOの話は面白いですね。
子どもは皆、「単なる愚か者」から「複雑な愚か者」へと向かいます。そしてさまざまなことを学び、いろんな程度の違う愚か者になっていきます。多くの知識を身につけ、頭だけの存在となり、感性や気づきをすっかり失った愚か者になっていくわけです。そこから地獄が生まれてくるわけですね。

イエスは「幼子のような人々だけが神の王国に迎え入れられるだろう」と言いました。
幼子のような」というのは、けっして「幼子」ではないということ。子どもではないけれども、「子どものような人」ということですね。

つぎにOSHOはこのように語ります。

子供は聖者だが、罪の誘惑をまだ体験していないから神聖であるに過ぎない。
その神聖さは極めて単純だ。大して価値はない。手に入れたわけでも、努力したわけでもないし、まだ誘惑されてもいないからだ。
誘惑は遅かれ早かれやってくる。世の中には千と一つの誘惑があり、子供はいろんな方向に引っ張られるだろう。そうした方向へ行くべきでないと言っているのではない。もし自分を押さえ、そうした方向へ行かないように抑圧すれば、子供はいつまでも最初の愚か者に留まる。
イエスの王国の一員にはなれない。マホメッドの天国には入れない。それはできない。無知でいるだけだ。
その無知は抑圧に過ぎぬものであって、知識からの解放ではない。

まず知識に達し、罪を犯さねばならない。罪、知識、神への不服従、そして世の中という荒野に下り、道に迷い、己の自我の生を生きてはじめて、すべての知識を落とせるようになる。

誰もが落とせるわけではない。子供は皆、最初の愚か者から二番目の愚か者に移っていくが、二番目から三番目にいくのは、ごく小数の祝福された者に過ぎない。だから、祝福された愚か者と呼ばれるのだ。

祝福された愚か者は、理解に達する最も大きな可能性を持つ。
なぜなら、知識は不毛であり、あらゆる知識は智への障害であると知るに至ったからだ。
知識は智への障害だから、知識を落とし、ひたすら理解する人となる。まさに、物事がはっきり見えるようになるということだ。
その目には理論も思考もない。そのマインドは、もはやマインドではなく知性そのもの、純然たる知性、もうガラクタや借り物の知識は散乱していない。
その人は、ひたすら気づいている人、気づきの炎だ。

テルトリアヌスは知識を二つの範疇に分け、その一つを、無知なる知と呼んだ。
それは第二の愚か者、無知でしかない知だ。
学識者は、知っているにも関わらず知らない。
自分自身の体験として知ったのではないからだ。
学識者は聞いた、記憶した。
彼はオウム、良くてコンピューターだ。

                 By OSHO




愚か者を表すインドの言葉はbuddhu(ブドゥー)と言い、それは仏陀(ブッダ)に由来しているのだそうです。
仏陀が王国を捨て、多くの人が彼に従いはじめたとき、人々は「ブドゥーになってはいけない、愚か者になってはいけない、この男についていってはいけない」と言い、仏陀についていく者を人々は「ブドゥー」と呼ぶようになったそうです。

OSHO曰く、第三の愚か者はとても速いのだそうです。
天使が恐れをなして歩けないところも平気で歩き、とても速いため、その跳躍を彼は「量子的跳躍」と呼ぶのです。第三の愚か者は、勇気とエネルギーそのものから飛び出してくるからです。

限りない勇気を持たなければ、第三の、祝福された愚か者にはなれない」とOSHOは言っているんですね。
皆さん、勇敢でありましょう。
ぜひ祝福された愚か者の状態に跳躍していただきたいと思います。



        水の星



★宇宙に共振共鳴して生きる時代がやってきた★



過去記事でも何度かお伝えしてきておりますが、今現在二極化が進み、その差がどんどん開いてきておりますね。

「高い振動数の人」&「低い振動数の人」』の記事で「振動数」のお話をしましたが、それはじつにタイムリーな内容なのです。

速くて軽い振動数の現実」と「遅くて重い振動数の現実」が大きくふたつに分かれていっていること。
地球上の世界の出来事や日本の出来事だけではなく、読者さんとの関わりで、わたしはそれをとても身近に感じています。

意識レベルが人によってそれぞれ異なるように、振動数が人それぞれ皆異なっていることは、すでに過去記事を読まれてご承知のことと思います。
この意識レベルと振動数は比例しています。意識レベルが上がれば、当然のことながら振動数は上がるし、意識レベルが下がれば、振動数はまちがいなく下がります。

そして、振動数が異なると、見ている現実までが異なってくるのです。
わたしが見ている現実と、Aさんが見ている現実と、Bさんの見ている現実はそれぞれ違っているということです。それぞれの意識が、自分が見る現実を選択し、決定しているわけです。

同じ人であっても、日によって振動数はまったくちがいます。憑依されているときとされていないときは雲泥の差です。

あなたは、自分がとてもハッピーなときは、すべて目に映る光景が明るくきらめいて見えるけれども、落ち込んでいて苦しいときにはすべて目に写る光景がうす暗く、不快で嫌な世界に見えてくることを経験されたことがあるでしょう。
心の持ち方で、目に見えるものがいかに変わってくるかということ、振動数が変わると、いかに見える現実が違ってくるかということ。
そのことをしっかりと実体験し、知っておいてくだされば、いつでも自分を正しく診断することができるのではないかと思います。

わたしたちはみな同じ現実を見て体験しているわけではありません。
登山口から見ている人の現実」と「山中から見ている人の現実」と「山頂から見ている人の現実」が存在しているということ。
これは、「第一の愚か者」と「第二の愚か者」、「第三の愚か者」にも同様のことが言えると思います。
たとえ同じ空間に一緒にいても、見えているものが異なるため、話がすれ違ったり、通じなくなることも多々生まれてくるということですね。 



最近、読者さんとのメール交換で、あるファイルを添付して送信したにもかかわらず、ファイルが消えて相手に届いていなかったり、あるいは届いていてもその人の目には見えなかったり、あるいはメールの着信があったことさえ気づかない人も増えてきています。
いくら待っていても返事が来ない人は、もうその時点でご縁が遠のいたということです。つまり周波数が違いすぎて、出会えない状態になっているということなのです。

最近は大切なメールを送ってもすぐに返事が来ないケースが多いのです。
ご面倒でも、ファイルを開くことができた人は、できるだけ早く返信をしていただきますようお願いしたいと思います。

周波数的には「打てば響く」関係がもっとも良好であると言えますね。
このブログを読む方々の意識レベルも、随分変化していっていることがよくわかります。
先の者が後になり、後の者が先になり」とイエスは語っていますが、このブログから遠ざかっていく人と、新たに発見されて親密になっていく人と、今後さらに波動がはっきりと分かれていくでしょう。
そして、後から来た人たちが先を進むことになるのです。

地球に共振共鳴しているかどうか、
宇宙に共振共鳴しているかどうか、
ハイア―セルフの振動に共振共鳴しているかどうか、
正常波動に共振共鳴しているかどうか、
それは今現在のあなたの振動数でわかるのです。
内臓の病気もそれぞれの臓器の振動数でわかります。
あなたの振動数は健康のバロメーターでもあるのです。

 





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