来るものは拒まず、去る者は追わず

2012年09月20日 15:00


★ 来るものは拒まず、去る者は追わず ★



わたしがまだ20代だった頃の話です。
京都の桂春院というお寺で、茶道を習っていたことがありました。
千利休の孫の千宗旦の弟子であった藤村庸軒が独自で開立した庸軒流で、武家茶としても多くの門人に親しまれた男性的で簡素な流派でした。
わたしが学んだ当時の桂春院の宗匠は「既白庵庸軒流家元十一世」であった禅の僧侶でした。お寺があまりにも貧しかったため、茶道を指導されてお寺を賄っておられたのです。

わたしは高校生の頃より座禅をするために、大本山である妙心寺の「暁禅道会」などに参加しており、他の禅僧の話などもよく聴くことがあったのですが、桂春院の宗匠を見ていますと、同じ禅僧でも随分趣が異なるものだなと思っていました。
見た感じは、人のよさそうな凡庸な雰囲気が漂っているのですが、見えないものへの感覚は他の地位ある僧侶たちよりも鋭いように感じられました。彼は禅の修行にはない滝行などをして、霊的な感覚を養った人であったからです。

わたしはたいてい仕事が終わった夜の時間帯か、日曜日の午前中にお稽古に行くことが多かったので、いつもお稽古に来るお弟子さんたちがたくさんいたのですが、あるとき、不思議なことに誰も来ていない時があったのです。

宗匠とふたりだけだったので、いろんな話をお聴きすることができ、貴重な時間を過ごすことができました。
そのとき、わたしは宗匠につぎのような質問をしました。

「宗匠にとって、禅の神髄とは何ですか?」

来るものは拒まず、去る者は追わず


それが宗匠の答えでした。

自分のところを去りたい人を引き止めるようなことはしないし、自分のところを信じてやって来る人は、すべて受け入れるということですね。

何事にも執着をしない。ここには自由な風のような心境があります。
わたしはその答えにおおいに納得がいったものです。
その後、わたしが京都を去ってから数年して、宗匠がお亡くなりになったことを風のうわさで聞きました。京都に行った際に訪ねてみましたが、門は閉ざされていて、入ることができませんでした。まだお若い年齢であったと思いますが、風のようにこの世を去って行かれた人でした。

その宗匠の精神を、わたしは今も持ち続けているのですが、ときどき「これって、もしかしたら執着かな?」と思えるようなことを自覚しながら、意識的にやっていることがあります。
特に「気づきのコース」の受講生さんたちに対しては、つい老婆心でおせっかいなことをしてしまうことがあったので、ごめんなさいです。

もう9月も半ばとなりましたので、最終の締めくくりとして、この場を借りて反省したことや皆さんにお伝えしておきたいことなどを書きたいと思います。


 葉っぱ


★ 読者の皆さんへ ★



正直言いまして、このブログを読んでおられる皆さんが悟ろうが悟るまいが、アセンションされようがされまいが、それは皆さん方の問題であり、責任であるので、わたしがそれをどんなに願ってもしかたがないことであるし、ましてや強いることなどはできません。気づきと学びを心から望んでいる人に対して、ささやかなお手伝いをさせていただくだけです。

「気づきのコース」の「数秘リーディング」では、レポートを書いてもらうことの大切さを繰り返しお伝えしてきました。ものすごい量の文章を毎日のように書いてこられる人たちもいらっしゃるので、読むだけでもけっこう大変で、コメントするにも多くの時間を必要とすることがありました。いやなら、ほどほどにしておけばよいのですが、たいてい一生懸命になっている自分を見いだします。
ですから、本気で取り組みたい人にとっては、「気づきのコース」というのは、自分で言うのも何ですが(笑)、とても懇切丁寧な企画だと思っているのです。

レポートのやりとりでどんどん気づきを深められた人たちからは、とても有り難いと思っていただけたので、長らくレポートを書いてこない人に対しても、つい「レポートはどうされましたか? 期限が近づいていますよ」と促すメールを送ることがありました。
そこで何かにハッと気づかれて、お礼のメールが来ることもありますが、逆にこちらの愛と善意が相手には受け入れられず、ネガティブな波動となって戻ってくることもありました。

そういう人に対して、今書けない状態であろうことは百も承知なのですが、それでも「思いの制限」を取り払うことや、現状を突破するきっかけを提供できるかもしれないと考え、あえてお便りを差し上げるようにしておりました。それが、書けない相手に苦痛を与えていたかもしれず、一方的な愛の押し売りになっていたかもしれないということを今回は反省しました。
その人が自己探究をしようがしまいがその人の問題なので、相手に任せておけばよいということです。それが千載一遇のチャンスであったとしてもです。

拒否反応を示す人というのは、「貴重な学びの機会を失ってしまっている」ということに気づかず、「マインドに雲がかかっている状態」であることがわかります。
皆さんも経験がおありだと思いますが、ものごとを肯定的に受け取れない人には、何を言ってあげても無駄なのです。かえって、憎まれたりしますし、それで関係が壊れたり、切れてしまったりすることがあります。
いくら相手のことを思っていても、相手のほうは大きなお世話で、迷惑なのですから、それ以上追うことはせず、その人の選択を尊重することが一番です。「去る者は追わず」ですね。

9月になって、一層過ぎゆく時間の速さを感じます。
泣いても笑っても、あとわずかです!
自分なりのけじめをつけましょう。
(今レポート継続中の方は、最後に「これで、とりあえずレポートは終わります」と明確に書いておいてくださいね)




      ツリガネニンジン



★ 愛が与えられるすべての方法で、
     愛を認めることを学ぶこと ★



すべての否定的感情は、あなたが自分のハイアーセルフのヴィジョンと結びついていない領域を教えている」とオリンは言っていますが、その通りだと思います。
そして、否定的な感情というのは、自分自身を愛せていない時に生じるものだと思います。
人が自分に何かを与えたり、与えようとするのを、許容できないんですね。

ハートをひらいてください。
そして、誰かががあなたに何かを与えるのを、許すことです。
人は自分がもっともよいと考えた方法で、あなたに愛を与えます。
それは、あなたにとっては大きなお世話であったり、不快であったり、あなたが望んでいることとはまるで異なっているかもしれません。
ものごとは、あなたの思い通りにいくとは限らないのです。

まず物事はこうあるべきだというあらゆる思い込みを手放すことです。
何であれ、人生のなかで起こってくること、それに対してOKと言うことです。

もしほんとうにあなたのハートがひらいているのであれば、相手があなたに与えたいと思う方法で与えてきたとき、感謝して受け取ることができるし、相手の愛を素直に受け容れることができるはずです。
来るものは拒まず」ということです。


下記は、2012年8月25日に久々に更新した「光の花束<不滅の詩>」に書きました文面です。


真の愛は、その人が欲しがっているものを与えるとは限りません。
真の愛は、その人にとって最善のものを与えます。
その時々で、もっとも必要なものが与えられるのです。

ですから、受けとったものが気に入ったとしても、気に入らなかったとしても、
心から歓迎してください。

きっと後になってから、なぜそれが与えられたのかがわかるでしょう。

今日も、あなたに大いなる気づきが生まれますことを祈ります。





ハート

何かを変えるもっとも効果的な方法は、新しい考えを素早く取り入れ、
古い考えを解放することです。

新しいものがやってくるためには、まず古いものを手放さなければいけません。
あなたのネガティブなクセや、マインドのなかの古い条件付けのパターンを壊し、
外すことです。
自分とはまったく異なった別の視点があること、
まったく新しい見方で自分の状況を見ることもできるのだと、思い起こしてみることです。

そして、潜在意識に直接働きかけ、つぎのように言い聞かせることです。

わたしは、古くて役に立たなくなった考えを解放します。
わたしは、新しい考えを取り入れ、新しい道を見いだします。


自分の執着や概念、安全性を手放すほど、真正なものへと近づいていくことができます。

恐れるものは何もありません。

来るものは拒まず、去るものは追わず

これからも、さらに自由で柔軟な精神を養っていきたいと思います。







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