意識の変化は自分に責任をもつことから始まる

2012年08月19日 09:07


★ 自分の思いに責任をとれない人たち ★ 



わたしがこの地球に生きている人々に対して、もっとも伝えたいことのひとつとして、「自分自身の思いや言動に責任をもつ」ということを挙げたいと思います。
なぜなら、自分が選択したことやその結果生じたことに対する思いに責任が持たない人が多すぎるからです。
自ら選択しておきながら、その結果が悪いと、自分以外のだれかのせいにしないと気が済まないような人たちが、そこら中にいるのを、あなたも気づいておられることでしょう。

自分が選んだ行為に最後まで責任を持つということは、どんな結果となろうが、それは自分が決断したことであり、それに伴う喜びも悲しみも、苦痛も、すべて引き受けるということです。
自分がとった行為、言動はすべて自分自身によってなされたものである」としっかりと受け止めることです。

また、自分が勝手に思い違いをしておきながら、あるいは、非常にネガティブな受け取り方をしておきながら、「傷つけられた!」とか「こんな気持ちになったのは、あんたのせいだ!」とか、そんな感情を生じさせたと思われる相手に対して怒りをぶつけてみたり、「この気持ちどうしてくれるんだ!」と膨大な慰謝料を突きつけてみたり、本当に首をかしげるような異様なことをしている人たちが大勢います。

つまり、自分の思考や感情に対して、まったく責任を持つことができない人たちです。
そういう人というのは、たいてい異常波動となっているので、いくら「それはあなたの思い違いですよ」ということを気づかせてあげようと思っても、まず人の話を聞こうとしませんし、言えば言うほど気を悪くして、相手を否定するので、手のつけようがありません。

こういう異常波動の人たちは、自分が正しいと思い込んで、相手のほうを悪者にしてしまうので、悪者にされた者はたまったものではありません。
どこかの過去記事にも書きましたが、地獄にいる悪霊たちは、自分たちに説教をするために降りてきた天使を「悪魔」だと思い込むというのと同じなのです。

わたしは何年もかけて異常波動に影響されている人たちに対し、正常さを取り戻してほしい一心で努力してきた経緯がありましたが、結局物質欲に目がくらんだ人にとっては、金銭でしか解決できないし、カン違いは素直にカン違いだったと認められることはないし、自分の考え方がおかしかったのだと反省されることはありませんでした。
そんなふうに自分の思考や感情に責任が持てないまま亡くなってしまった人たち、あるいは気づかないまま死んでいくであろうと思われる人たちが、いかに多いかということです。

何度もお伝えしていることですが、この二極性で成り立っている世界では、同じ言葉を聞いても、それをポジティブにとる人もいれば、ネガティブにとる人もいます。どちらを選択しようと、もちろんその人の自由です。

しかし、自由であるためには必ず責任が伴います。
選択したあとに何が生じても、それはその人が最後まで責任をとらなければならないのです。
良い結果であろうと悪い結果であろうと、自分以外のせいにすることはありえないことです。
ところが、ありえないことを、平気でやるのです。


(関連記事を『鉄輪の女』の箇所にも書いておりますので、カテゴリ『能楽「鉄輪」の女主人公のお話』をお読みくださいね。★参考記事 「汝の敵」はだれ?

「こんな結果になったのは、あいつのせいだ」とか、「あの人があんなことをしなければ、言わなければ、わたしは傷つくことはなかったし、こんなつらい思いをしなくて済んだのだ」と相手を責めるわけです。

しかし……。
いったいだれがそう感じたのですか?
いったいだれが傷ついたのですか?
傷ついた心というのはどこにあるのですか?
あったら、ここに取りだして見せてください。

別の感じ方もあっただろうに、つらく感じるほうを選んだのはだれですか? あなたですね。
肯定的にとれば、喜びに満ちた心境になれたのに、否定的にとって悲しみを味わったのはだれですか? あなたですね。
そういう状況をいつも引き寄せているのはだれですか? あなたですね。
そんなに人の言動につよく影響される(左右される)ような弱い人間はいったいだれなのですか? あなたですね。




8月の花
       朝に咲く花  撮影 光の仕事人 



★ 自分の思いに責任をとるとは? ★



千差万別ある受け取り方のなかで、そのときひとつの受け取り方を選んで、そういう感情をもったのは自分自身であるということ。相手のせいではなく、自分自身のなかから生まれてきた思考や感情を全面的に受け止めることが、「自分の思いに責任をとる」ということです。
そして、そのときの気持ちにただ素直に正直になることです。

そこで「こんなふうにネガティブに受け取る自分が悪いのだ」と思う必要はありません。
腹が立ったのなら、腹が立っている自分を味わうことです。つらい思いを味わうことです。
相手のせいなどにせずに、ただ自分の思考や感情を味わえばよいのです。
今こんなふうに反応している自分がいる」ということに「気づいていること」、「常に意識的にいること」が大切なのです。

ところが、そういう真実の思いを包み隠して、「わたしは全然平気ですよ」と、ちっとも気にしていないそぶりを見せる人たちも存在します。(過去記事『宇宙はいつもあなたの望みを叶えている』にも同じようなことを書きましたね)
しかし、そんな偽善を装う必要などはありません。
それは「自分の真実に責任をとっていない」こととつながっていますね。
自己欺瞞です。

「相手を傷つけたくない」という思いやりを持つ人は多々います。
「こう言ったら、きっと相手は傷つくだろうから、言わないでおいてあげよう」と。
しかし、自分自身の思いに対して責任をとれないような人が、どうやって他人の思いの責任まで負うことができるでしょうか?

自分の気持ちや感情に責任をとれない人が、相手の気持ちや感情にまで責任をとろうとはしないことです。
できないことはしようとしないことですね。

自分であろうが、相手であろうが、すべては本人がそうしたいからそうやっているだけのことなのですから、相手のことは相手に任せておくことです。
要するに相手にどう思われようが気にしないことです。それは相手の問題だからです。

もし自分がそうしたくないのに、強要されるようなことがあるなら、はっきりと「NO!」を言えばよいのです。
自分の真実を自分ではっきりと公的に表すことは、とても必要なことなのです。
逆に「いい人であることのフリをすること」すなわち「偽善」は必要ありません。
もう人目を気にすることからは卒業しましょう。

子ども時代からの条件付けで、怒りや嫉妬や恨みなどの感情を「決していいものではない」というふうに抑圧してきた人たちは、いつも「そういう感情は抱いてなんかいませんよ」というフリをしていなくてはならないのです。
「自分は正しくて、とてもいい人でいなくてはならない」という制限を自分で設けているのです。

それらを抑圧している限り、自動的に「~すべき」というところで動いていってしまいます。そして、自動的に他人への期待をもつのです。そして、あるところまでいくと、その期待は決して埋められることはなく、結果として腹を立てて終わってしまうのです。

自分が感じていることのすべての責任をもつということ、その勇気をもつこと、自分のハートの真実の責任を取っていくこと
それをするためには、まず何が必要となるでしょうか?

もうこのブログを長くつづけて読んで来られた皆さんにはおわかりですよね?
特に『数秘リーディング』の受講生で、6や9のエネルギーを中心にお持ちだった人たちは、すぐに思い出されたことでしょう。

そうです。「自分自身を愛する」ということ、「自分自身に慈悲を持つ」ということですね。
自分を愛せない人は自分に責任をもつことなんてしませんね。
自分を愛するが故に、自分に対して責任をもつことができるのです。

そして、ほんとうに自分自身を大切にして、自分を認めることができてはじめて、他者を認め、愛することができるのです。
利己愛は他者を認めず、他者を愛していないところから起こりますから、利己的な愛は、本当は「自分を愛していない」ということになります。
『真の自己愛』と『利己愛』とを混同しないことです。それらは相反する性質のものです。



★ 家庭菜園をつくることはとても神聖なこと ★


話は変わりますが、
自分自身の責任を自覚する」ためのもっとも簡単な方法は、「自分が食べる食物を自分でつくること」です。

わたしたちが自分自身の食べ物を栽培することによって、「自分自身に対して責任をとる」ということを達成することができるのです。

ジャーメインは「自分自身の責任を果たすことによって、とても大きな意識の変革が起こる」と言っていましたが、今その必要性を、再度声を大にしてお伝えしたいと思います。



収穫
     わが家の収穫  撮影  光の仕事人  


日本では多くの食べ物を海外からの輸入に頼っていますが、もし天候不順などで食糧、たとえばコーヒーやバナナ、小麦粉などが入って来なくなれば、どうなるでしょうか? たちまち国民は困りますね。
そのことで国民が混乱して、不満や苦痛を感じるとしたら、それはわたしたち日本人が他国に依存しすぎて、自分たちの責任を果たしていないということになります。
たとえば、小麦粉がなかったらパンやうどんを作ることができなくなります。
小麦粉は自国でも作れるわけですから、農家が自立してしっかりと小麦を作る努力をしていれば、ある日突然輸入できなくなっても、そんなにうろたえることはないわけです。

コーヒーやバナナを育てるのは南国でないと難しいかもしれませんが、そういうものは『身土不二(しんどふじ)の考え方(人間の身体は住んでいる風土や環境と密接に関係していて、その土地の自然に適応した旬の作物を育て、食べることで健康に生きられるという考え方。ブッダが言ったとされる仏教言葉)からすると、必要がない食品だと言えるでしょう。
ですから、自分の土地に自然に生えてくるようなものを食べていれば、充分に生きていけるということです。

最近は一部の中学校や高校などの共同体が、自分たちのために米や野菜を生産したりしていますね。
小さな集団が個々にそれを実行することは可能であり、実際に収穫され、目的が達成されているのです。すばらしい試みだと思います。
そんなふうに何でも個人レベルに置き換えて行なえば、どんなことでも不可能ではなくなります。

以前に家庭菜園のことを記事にしましたが、少しずつわたしたちが意識して自分たちの食べ物を育てていけば、不安や恐れはなくなっていくことでしょう。
家庭菜園をつくる」ということが、「自分自身の責任を自覚する」のに役立つのであれば、それは一石二鳥ではないでしょうか。


ハート
個々に自給自足をすることが、世の中を変革することにつながっていくのです。

意識の変化は自分に責任をもつことから始まる」ということ。
それを忘れずに実行していただきたいと思います。






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