見える世界と見えない世界のギャップを垣間見る

2012年04月28日 00:35


★ 父の葬儀から見えてきたこと ★



今週は、わたしの父の告別式のため、実家のある京都のほうへ行っておりました。
もし何か読者の皆さまの参考になることがあればと思い、
そこで、感じたこと、知ったことを、お話ししたいと思います。


華



このブログを以前から読まれている方々は、父が脳腫瘍で入院し、手術をして絶好調で帰宅したという記事を覚えていらっしゃるかと思います。
(2011年9月の記事「未来は決定していない―未来は変えられる!」参照)

記事に書いていましたように、父がこの病気によって亡くなることを前もって知っておりましたので、手術をしても少し延命するだけで、さほど意味がないと考えておりました。しかし、父にはまだまだこの世界に生きていたいという願いが非常に強くあったので、あくまでも手術をしたいという父の希望を尊重し、手術をすることに同意したのです。

腫瘍はすべて摘出され、術後の経過は大変よかったのですが、予想通り1ヶ月後に再発して、また入院することになりました。
本人は頭を切り開いているので、腫瘍は完治したものと思いこんでおり、以前のような生活がまたできると思っていたようですが、それが適うことはありませんでした。
腫瘍でも癌でも、あらゆる病気が再発するということは、それを生じさせる状態が身体全体にあるということで、幾度取り除いても、また生じてくるのです。
根幹の部分が変わらなければ、枝葉の部分は変わりようがないということです。

父が誤解したままだったのは、医師をはじめ、主に父を世話していた長男が、本人にきちんと本当のことを言わなかったからだと思います。
わたしは父がこの世で生き長らえることばかりを考えるよりも、自分の死への準備(主に自己の人生の浄化)をするように幾度となく促してきたのですが、本人がそれを意識して実行することはなかったように思います。(できていないことは明白です)


納得がいかない限りあの世へ旅立つことはできない



通夜の際に棺に入れられた父の顔を見たのですが、まだ生々しく、意識がまだ肉体から出ていないことがわかりました。祭壇に自分の写真が飾られて、僧侶の読経が行なわれても、本人はまだ死んだことに気づいていませんでした。
昏睡状態で亡くなった場合、本人の意識が「今ここ」にないわけですから、本人はまだ眠っているのだとカン違いするのです。シルバーコードは切れているのですが、本人の意識が納得していないので、肉体から幽体部分が離れないわけです。

それで、わたしは「お父さん、あなたはもう死んだのですよ」と繰り返し伝え、このまま肉体から離れないと、明日火葬されるときにパニック状態になるから、早く出るようにと何度も説得しました。それで、ようやく肉体から離れてくれたのです。
(親族の皆さんが別室で食事をし、談話している間に、わたしはひとりでそういうことをしていたのです)

父は自分の死に対して、全然納得がいっていませんでした。どうして、こんなことになったのか、さっぱりわからなかったのです。そして、そのことに怒りさえ感じていました。
父が納得していないこと、怒りがあることは、波動センサー(ペンジュラム)でも確認したのですが、父が亡くなる数日前に長女が「おじいちゃんが怒っている夢を見た」と言っていたことと、次女は次女で「おじいちゃんには怒りがある。自分が死んだことに納得していない」と言っていたので、まちがいないと確信しました。

父の最初の怒りはまだ漠然としたものでしたが、しだいにそれがフォーカスされて、明確になっていきました。

肉体を脱いだ意識は、周りの人たちがどんな思いでそれをしゃべっているのか、本心が丸見えなので、何もかもわかってしまいます。(但し、個人差があり、わからない人もいます)
ですから、そういう体験は、父のためにはとても学びになるのではないかと思いました。
なぜなら、生前の父は世間体や体裁を重んじ、表面的な言動だけで人を判断し、相手の真意などはあまり考えない人であったからです。要するに、表面的な善に非常に騙されやすい人だったということです。そういう人が相手の本当の気持ちを知ったりすると、まちがいなく愕然とするのです。

故人を偲ぶ僧侶の話のいい加減さも、父は初めて知ったのではないかと思います。
坊さんの読経に何の功徳もないことや、坊さんの話がいかに上っ面な内容であるかをわかってもらうよい機会だったと、わたしは思っています。

火葬場でお別れをした際、わたしの長女と次女は、おぼろに父の姿が見えたとわたしに語りました。
父は皆の後ろで、自分の肉体が焼かれる様子を見ていたのです。
焼いた骨を骨壷に入れるとき、係の人は骨に対して何度も合掌をするよう指示をされていましたが、意識が抜けたあとの肉体や骨はただの物質ですから、拝む意味などないのです。そんな基本的なことも、多くの人は知らないのです。


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4年前にわたしの実母が亡くなった際、母の意識はすぐにわたしの元へ飛んできました。
「今息を引き取ったと病院から連絡があったから、これから行く」という父の連絡を受けたとき、母はすでにわたしのところにやってきていたのです。
それで波動を高め、上昇する祈りをして、光の世界へと母を送ることができました。

母は生前認知症で、この世の物質的なものに執着のつよい人でした。毎回わたしのところに母の意識が飛んでくるたび、物質的な執着を断ち、あの世へと旅立つ意識を持つよう話をしてきたのですが、その準備ができるまでには随分長い年月がかかりました。
しかし、母が肉体の死を迎えた日、母はわたしの祈りとともに上昇し、死者の癒しの場とされる「アルクトゥルス」へと旅立っていきました。
ですから、通夜の場や葬儀場などに、母はいなかったのです。
そのことは、超感覚知覚力がある長女や次女も同様に感じていて、「おばあちゃんはもうどこにもいないね。まったく気配がない」と語っていたことからも明白です。

巷の葬儀のプログラムとして、たいてい火葬場から戻ったあと、初七日という法事をして、そのあと食事をすることになっているようです。まだ七日経ってもいないのに、また皆に集まってもらうのが面倒くさいので、ついでに法事をしてしまおうという「生きている者本意の行事」です。
母は通夜以前にすでに別次元に旅立っているわけですから、わたしたち家族はその法事には参加せずに帰りました。
「世間体」とか、「~せねばならない」「~すべき」という「思いの制限」にがんじがらめになっている人たちからすれば、甚だ非道に思えたことでしょう。
しかし、それは本当のことを知らないことによる勝手な思い込みなのですから、全然気にはなりませんでした。
意外にも、父はその辺のことを理解してくれていたようで、とても有り難かったですが。


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しかし、今回の父の死には問題が残りました。
母の場合とは違い、肉体にしがみついて離れない状態で、死んだことに全く納得していないわけですから、通夜のときも、告別式のときも、繰り返し繰り返し、説得しなければならず、最後の最後までわたしたち家族が居残ることになりました。
それでも本人は納得ができないようなので、しばらくは父が生前住んでいた家に留まって、普段のような生活をすることになるだろうと感じました。
まあ、納得がいくまでこの世に留まるのもよいのではないかと思い、父に対しては、母のときのような対応はまだしておりません。
本人が心から浄化をしてほしいと言って来れば喜んで浄化しますが、本人がそれを望まず、頼まない限りは、するつもりはありません。すべて本人の自由選択ですから。

僧侶は「大往生を遂げられた」などと相変わらず自分勝手な希望的観測を並べ立てておりましたが、本当はそれどころではなかったということです。

幽体となって自宅に戻った父の怒りは、さらに強くなっていったようです。
父の家にしばらく滞在して家の中を整理することにしていた長男の家族に対して、父は「早く帰ってほしい」と思っているようでした。自分の部屋を勝手に触られたくはないし、父は今まで通り愛犬と静かに暮したいのです。

父の怒りのひとつに「遺影写真」がありました。
実は、父が「自分の葬式にはこれを飾ってほしい」と皆に言っていた写真があったのです。愛犬と一緒に撮ったもので、父はその写真を大きく引き伸ばして額に入れ、いつも見えるところに掛けていたのです。
ところが、葬儀場で見た遺影写真は全く別の写真でした。(写真の父はにこやかに笑ってはいましたが)
「なぜ?」という思いはわたしだけでなく、長女も同様でした。

故人の生前の意思や意向が尊重されないということは、その人の人権が無視されたのと同じことです。
父の怒る気持ちは非常にわかる気がしました。
そこで、「そんなに嫌なら、みんなの前に自ら姿を現して、自分の気持ちを伝えたらどうか?」と提案してみたのです。父のメッセージをわたしから彼らに伝えたとしても、死者の霊を信じない人たちはただ感情を害するばかりで、聞く耳を持たないことは端からわかっていたからです。

ハート 小
過去記事で「ゴースト ニューヨークの幻」という映画の内容を書いたことがありましたね。
そこで説明したように、まだ肉体を脱いだばかりの霊は、どうしたら相手に自分の想いを知らせることができるのかがわからないのです。たとえ叫んでみても、相手には何も聞こえないのです。
だから、意識してさまざまな練習をする必要があるわけですね。

その提案に父は乗ったようですが、翌日になって、やはり不可能であると言ってきました。
相手に感知能力がない限り、全く伝わらないことがわかったようなのです。
結局のところ、わかる人(感知できる人)だけしかわからないということなのです。

しかし、実際に位牌を動かしてみたり、倒してみたりすることは訓練すればできるはずで、そういう現象を起こして自分の存在や気持ちを知らせていくしかないように思うのです。
ほんとうに伝えたいのであれば、なんだってできるはずなのです。
肉体を脱いだ後も、やはり学びです。学ぶための実験は、まだまだ続いていくのです。

★今回、父の葬儀に参加して、「目に見える世界」と「見えない世界」で起こっていることのギャップの大きさを再確認することができました。
見えない世界を感知できない人の誤解や思い込みは甚だしく、あまりにも実態がわかっていないのだということを改めて認識したしだいです。


ブルコーニュ -



★ 父への想い ★



父と書いてはおりますが、実は血のつながりが全くない養父です。
実父でないことを母に確かめたときは、もう20歳になっていましたが、幼い頃からそのことは感じとっていて、真の父親でないことは知っていたのです。
父との関係がはっきりしたからこそ、育ててもらったことに対する感謝の気持ちが生まれたのだと思っています。

今から数年前に三重県の伊勢神宮に参拝した折、京都に立ち寄り、珍しく実家に泊めてもらったことがあったのです。母が亡くなって以来、初めてのことでした。
実家に着いた夕刻には、もう部屋には布団が敷いてあり、部屋も布団も温めてありました。とても寒い日でしたので、何と気が利く人だろうと驚き、その心遣いをとても有り難く思ったものです。
父は母が長い間認知症だったこともあり、食事を作るのは得意になっていました。母の死後も独り暮らしで、ずっと自炊をしていたのです。父が作ってくれた夕飯はけっこうおいしかったのを覚えています。

翌日京都では珍しく一日中雪が降り、お土産に買ってきた赤福餅を食べ、お茶を飲みながら、どこにも行かずに一日中父と話をしました。そのときに、初めて詳細に「霊の話」をしたのです。
父は以外にもその話を真剣に受け止めてくれました。そういうことを素直に信じる人だったので、とてもうれしく思ったものです。
たったニ日間だけでしたが、父と親交を深めた貴重な時間でした。幼い頃からの父への確執はすべて消え失せ、その思い出だけが今も懐かしさを帯びて心に残っているのです。

血のつながりはなくても、霊的なつながりがあったからこそ、親子の関係になったのです。
顔も知らない実父は、わたしが誕生する際に肉体を提供してくれた人というだけで、霊的なつながりはありません。ですから、会いたいと思ったこともないのです。

子ども時代にほんとうの父的な役割を果たしてくれた存在は、母方の祖父でした。
祖父は、若い頃に華道の教授をしていた人で、茶道にも長け、趣味の謡曲をよく謡って聞かせてくれました。
わたしが華道や茶道や謡曲に興味をもち、自らその稽古に勤しむきっかけを与えてくれたのは祖父であり、禅の思想に関心をもつことに大きな貢献をしてくれたのも祖父でした。

幼いわたしをよく動物園に連れて行ってくれたのも祖父でした。
「野生の王国」というテレビ番組を、いつも祖父とふたりで見ていたのを思い出します。
わたしと祖父は趣味や趣向がとても似通っていたのです。
祖父のもっていた宝物を、わたしがすべて受け継いだような気がします。
ですから、真の父親は祖父だと、今も思っているのです。
その祖父は、遠の昔にこの世を去り、わたしを可愛がってくれた祖母も母もこの世を去りました。
そして、「わしは死なん」とよく言っていた養父も、とうとう肉体から離れざるを得なくなりました。


     アネモネ

        
だれにも必ず訪れるもの。それが肉体の死です。
早い遅いはあっても、まちがいなくそれは訪れるのです。
ですから、その準備をしっかりとしておくことが大切です。
一期一会と思い、悔いがないように、毎日を生きるのです。
老人であっても、子どもであっても。

伝えておきたいことは、必ず書き遺しておくこと。
そして、書き遺された故人の意思は尊重することです。



    ~父へ~


赤子の頃から我が娘として接していただいたこと、
心から感謝します。
誠にありがとうございました。

あなたからいただいた霧島つつじが
今たくさんのつぼみをつけ、
真っ赤な可憐な花を咲かせ始めています。


霧島つつじ
父からもらった霧島つつじ 2012年4月27日撮影 光の仕事人


もし、まだわたしの家を覚えていて
移動することが可能ならば
今すぐ飛んで見に来てください。

不自由だった肉体を脱いで
自由の身になったのですから、
意志さえあれば可能です。

可能性は無限にひろがっています。
それに気づいてください。

そして、あなたのなかの執着や怒りが消え、
この世界に別れを告げたくなったら、
またわたしにメッセージをください。

あなたが光の世界へと旅立たれる際に
今度こそ、真の意味での
お見送りをしたいと思います。

わたしがあなたに望むこと。
それは、世俗を忘れること、肉体を忘れること、
自分が神の分身であることを悟ること、
そして、あなたが霊であるということに気づくことです。

今回の死は、だれのせいでもない
自分が播いた種の結果なのです。

怒りを鎮め、神の大いなるはからいを信じて、
すべてを神に委ねてください。

現世などでは及びもつかない深い平和で
あなたが満たされますよう祈ります。

合掌





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