「探求」と「探究」―あなたがしているのはどちら?

2011年12月18日 07:35


☆ 読者さんからのメッセージ ☆



~「思いの制限をひらく」ブログに感謝を込めて~
                  「気づきの教室」の元受講生より

               
 こんにちは。光の仕事人さまにはいつも大変お世話になりありがとうございます。
 私が「気づきの教室」を受講させていただいてから早いもので9ヶ月が過ぎ、今年も残すところわずかとなりました。光の仕事人さまと「思いの制限をひらく」ブログに出会わせていただいた2011年という年は、今までの人生を集大成させる大きな学びの年になったように感じています。ここまで導いてくださり、本当にありがとうございました。
 私にとりまして学びの原点であったこのブログも、今月で一つの区切りをされることを知り、あらためてここで学ばせてもらったことは何だろうと考えているところです。
 私が最初にこのブログの扉を潜ったのは、この世の真実を知りたかったからです。そして、「真の自分」が何であるのかを探求したいと思ったからでした。
 記事をずっと読ませていただき、考える機会を与えていただいたおかげで、真実を探求する大切さを知ったことはもちろん、学ばせてもらったことは他にもたくさんあるように思います。なかでも、私にとって最大の学びとなったのは「素直」であることの大切さを知ったことではなかったかと感じています。
 このブログに出会う前の私は、知識だけを頭に詰め込んで生きてきたものだから、やけに理屈っぽく批判的に物事を見てしまうタイプの人間でした。ですから、何か自分の価値観と反するものに出会うたびそれを受け入れることができず、井の中の蛙的思考の堂々巡りをすることが多かったように思います。
 「気づきの教室」を受講して、まずそんな自分の頑なさに気が付くことがきました。そして、いったん頭に詰め込んできた知識も価値観もすべて投げ捨て、素直な気持ちで人にも物事にも対するようになると、今までは気づけないでいた新たな発見がたくさん見出せるようになりました。まず「素直」に受け取る姿勢になることが、学びの基本であると今になってようやく気がつくようになりました。最近つくづく思うのですが、色々と理屈を並べて批判し、拒絶することは簡単です。だけど、真理と思うところを素直に受け入れて実践していくことでしか、真実の世界は見えてこないのかもしれないですね。
 「自己探求」の道は思うように簡単なものではなく、今でも進路が茨に閉ざされて立ち往生してしまうこともしばしばあります。でも最近は、そんな時こそ新たな自己成長のチャンスを迎えているのだと思えるようになりました。もう一度このブログを訪れ、違う視点でもって記事を読み返せば、また新たに必要だった気づきが見えてくるように感じるのです。統合に向けての成長は、この繰り返しからしか生まれてこないのだと感じるようになりました。
 本当にこれまで貴重なブログ記事を書いてくださり、たくさんの学びの機会を与えてくださってありがとうございました。これからも「思いの制限をひらく」ブログが、真に「自己探求」を望む方々の学びの場となることをお祈りし、筆を置きたいと思います。
 つたない文章を最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。


☆このお便りのなかで、彼女はこう言っておられます。

「自己探求」の道は思うように簡単なものではなく、今でも進路が茨に閉ざされて立ち往生してしまうこともしばしばあります。

自己探求の道は思うように簡単なものではなく…
では、「自己探求の道」はなぜ、簡単なものではなく、難しいのでしょうか?


「探求」と「探究」そのちがいは? ★



皆さんは、わたしがいつも「自己探究」と書いているにも関わらず、たいてい「自己探求」と書いてこられますね。その違いについては過去記事でも申し上げておりますが、さほど気に留めておられないように感じます。

探求」とは あるものを得ようとして探し求めること。探し出して手に入れようとすること。
探究」とは 物事の意義・本質などをさぐって見極めようとすること、すなわち真実を探って明らかにすること。
一般的には、このように解釈されています。同じ「探す」という字がついていますが、「探求はただ求める」だけで、「探究は究める」というところがカギです。


OSHOは言っています。

探求とは、遥かかなたを見ること。
かけ離れた所を見ること、彷徨いつづけることにほかならない。
探求とは延期にほかならない。
探求とは明日か明後日起こるだろうということであり、
まさに今の今、それが起こっているということではない。



★「真理を探求する」とか「自己探求の旅」などと言うと、それはものすごく先の先、遠距離にあるような感じがするのですが、あなたはどうでしょうか?
行き先は、見当のつかない遥かかなたです。それには何生も、何千年もかかりそうで、いつ到達できるかどうかもわかりません。

自己を求めてあてもなく彷徨いつづけるなら、それはただの迷走です。
わたしはそんなに時間のかかる作業をススメているのではありません。
わたしの言う「探究」は、「今、ここで、この瞬間に起こり得るワーク」のことを指しています。今まで「こうだ」と思っていたことが、じつは全く違っていたと知った(気づいた)瞬間、くるりと180度回転し得る不思議と驚きに満ちたワークなのです。

未だ自分のまなざしを遠くに向け、未来ばかりを見つめて、何かを探し求めているから、眼の前に茨が立ちふさがるのです。
あなたは今どこにいるのですか?
過去ですか? 未来ですか? 今ここですか?
あなたのすぐ近くにあなたが存在しているのに気づいているでしょうか?
近くにあるものを、遥か遠くに探していたら、あなたは大切なものをとり逃がしてしまいます。


★自己を忘れることは すべてのものに悟らされること



道元禅師は「正法眼蔵」でつぎのように言っています。


仏道を学ぶということは 自己を学ぶということである
自己を学ぶということは 自己を忘れることである
自己を忘れるということは すべてのものに悟らされることである

すべてのものに悟らされるということは
自己と他己との障壁を取り除くことである
悟りのあとかたさえ残さず
あとかたのない悟りを日常の生活の中で
いつまでも行ない現わしていく

人がはじめて法を求めるとき 遥かにそこから離れてしまっている
しかし法が正しく伝授されたならば すぐさま悟った人となる



★借り物の経典(知識)は、人生の危機(現実)にでくわしたときにはまるで役に立ちません。
同じ過ちを繰り返すのは真に気づいていない証拠」です。(過去記事でもお伝えしていますね)気づいていないからこそ、「これでもか、これでもか」と手を変え品を変え、問題を提示してくれているのです。

いくらお経をすらすらと暗唱できても、言葉上だけで理解できていても、法達(ほうたつ)さんのように、どこかしら心が満たされないのなら、何の意味もありません。


★ それは「方法」ではない ★



「いったいどのようにしたら、○○できるのでしょうか?」
「どうやったら気づけるのでしょうか?」
そんなご質問は多く、たいてい気づくための「方法」を訊いてこられます。

「真理」や「気づき」や「悟り」は、経を読んだり、座禅をしたり、何らかの「方法」で会得できるものでしょうか? 
そんな「方法なんかありませんよ」と、はっきり言っておきます。

ゴータマ・ブッダは6年間あらゆる修行をしましたが、修行という方法を実践したから悟れたわけではないのです。
彼は多くの哲学者や宗教家の教えを受け、苦行にも専念しましたが、悟りを得られませんでした。彼はそんな難行苦行は意味がないことに気づいたのです。それで今までの修行法を捨て、沐浴して身を清め、村娘スジャータから乳粥(ちちがゆ)をもらって食し、ピッパラの樹の下で静かに禅定に入って、ようやく悟りを得たのです。

何十年座禅をしようが、瞑想をしようが、悟れない人は悟れないし、外の掃除をしていて、飛んだ石が何かにぶつかった音を聞いただけで悟った人もいます。それは「方法」ではないのです。

「探求」は遥か彼方にあり、「探究」は今ここに存在しています。
あなたの過去や未来の探求は要りません。
今、ここにいるあなたを知ってください。究めてください。
今の自分を知らずして、未来に理想的な自分を求めるのはムダというものです。
それより、今の自分の意識がどこにあるのかをしっかりと見極めてください。

これから(大いなる真理を内包した)海に飛び込もうとするとき、あなたは自分の身にいっぱい服を着せ、できる限りの金銭や宝石をリュックにつめて飛びこむでしょうか?
そんなことをしたら、どんどん海底に沈んでいき、けっして浮かび上がることはできませんね。それはまちがいなく自殺行為です。

あなたが波に乗って泳ごうとするなら、何かを身につけるのではなく、要らないものをどんどん脱いで落としていくことでしょう。
悟りを得た多くの禅僧が語っていることは、みな同じです。
要らないものを捨てなさい」「空っぽになりなさい」これだけです。
水がいっぱい入ったコップは沈みますが、空っぽのコップは浮きあがります。

上昇するなら、まずは頑固でカチカチの氷(個体)から柔軟性のある水(液体)へと変わらなければなりません。そして水から自由自在に動き回れる軽い蒸気(気体)へと変容していくのです。


白隠禅師は適切に伝えてくれています。

衆生本来仏なり
水と氷のごとくにて
水をはなれて氷なく
衆生のほかに仏なし

衆生近きを知らずして
遠く求むるはかなさよ
たとえば水の中にいて
渇を叫ぶがごとくなり



自分が何者であるのかをわかっている人は、何もする必要はありません。
自分の内側に神性、あるいは仏性が、もともと存在していたことを発見したならば、修行する必要なんてありませんね。
そこに未だ気づかない凡夫は、外側にばかり目を向け、探しつづけます。
もともと水の中にいて、たっぷりと満たされているのに、「喉が渇いたよ~」と叫んでいるようなものだと、白隠さんは言っているのです。

大いなる宇宙意識が用意してくれた水の中で、
おおはしゃぎで遊ぶのも良し、
海の上を波のりするのも良し、
深い海の底を探検するのも良しです。
観照しましょう。
人生のドラマを見守りましょう。
ドラマの中にいて溺れず、観照者となって楽しみましょう。



ポインセチア3



ハート
ソマリアの難民は、食べるものもなく、家もなく、
今日も平和な場所を求めて彷徨い歩いているというのに、
わたしたちは寒い冬でも暖かい部屋のなかで、おなかいっぱい食べ物を食べ、
テレビやパソコンを見て暮らしています。

そんな恵まれた生活をしながら、
あれがほしい、これが足らない、
こんな暮らしはもう嫌だと愚痴を言い、不平不満を抱き、
尽きない悩みに翻弄されています。

もうそろそろ気づきましょうよ。
大いなる存在にいつも抱かれているということを。
わたしたちに恐れるものなどは何もないということを。





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