「信」を生きることが「不二」への道

2011年12月14日 19:20


★ 哲学者とは? ★



神秘家OSHOが、「信心銘」のなかで、こんなことを語っていたのを思い出しました。

ある女性が哲学者カントに求婚したことがあったそうです。
カントは「わかりました。それについて考えてみましょう」と女性に言い、愛に反対する人、賛成する人、結婚に反対する人、賛成する人の論拠を集めました。
結婚についての賛否両論のデータを300も集めたと言うからすごいですね。
そして、どうすべきか。どう決めるべきか。考えて考え抜いたあげく、混乱状態に陥ります。

そして、カントはついに結婚についての賛成意見をひとつだけ余計に発見したのでした。
その意見とは、「もし、どちらも可能で、ふたつの選択が同等に見えるようなら、そのときはより多くの経験を与えてくれるほうを選ぶべきだ」というものでした。

結婚すべきかすべきでないか、同じだけの議論があるのなら、カントは独身で、そちらのほうは知っているわけだから、「結婚したほうがいい」と考えたのです。
「よし、一歩を踏み出し、経験によって結婚を知ろう!」

そこでカントはその女性の元を訪ね、扉を叩きます。
扉を開けた父親に、カントは言いました。
「私は決めました。お嬢さまはいらっしゃいますか?」
父親は言いました。
「遅すぎましたな。娘は三人の子供の母親になっていますよ」

OSHOは言います。

女は常に男より賢い。本能的に賢い。
女性に偉大な哲学者が現われないのはそのためだ。
女性はより本能的、より直感的であり、より自然に近く、議論よりは生きることに関心がある。
男にとって、女が常に大きな問題ではなく、ちっぽけなこと、ドレスとか、装飾品といった極めて些細なことに関心を持っているように見えるのはそのためだ。

だが、いいかね、女性が小さいことにこだわるのは、〈生〉が小さなことで成り立っているからだ。
偉大な問題は観念(マインド)の中にしかない。〈生〉の中にはない。神は存在すると決めようが、存在しないと決めようが、そんなことでは何も変わらない。一日に二回は食べなければならないし、寒ければ厚着をしなければならないし、暑過ぎれば日陰に入らなければならない。

神は存在すると決めようが、存在しないと決めようが、何も変わりはない。
〈生〉は、小さなことでできている。そして、もし〈生〉が小さなことでできているとしたら、小さなことは、小さくはない。なぜなら、〈生〉はそれから成っており、それに生命が宿っているのだから。




hikari



★ 「信」を生きることが「不二」への道 ★



僧璨(そうさん)は言います。

疑いと、議論に時を浪費してはならない。
そんなことは、この真実とは何の関係もない。
一即一切の世界を歩み、
識別することなく融解し去れ。

この覚醒に生きることが、
不完了を思い煩わずに生きることだ。
この「信」を生きることが「不二」への道
「不二」こそ「信」と同じものだからだ。 



OSHOは「僧璨は、議論というものはすべて見当違いだと言う。有神論者も無神論者も、賛成も反対も、両者ともだ。それは馬鹿げたことをしているのだ。なぜなら、実在はそこにあり、それはどんな証明も必要としていないからだ。それはすでにそこにある。それはいつもそこにあったし、いつまでもそこにあるだろう。真理とは、現に在るもののことだ」と言っています。


議論に時を費やしてはいけない。
哲学者は愚か者だ。
それも普通の馬鹿よりずっと危険だ。
というのは、普通の馬鹿はただ馬鹿なだけだが、
哲学者は、自分を賢いと思っているからだ。
そしてこの人たちは議論を続ける。

ヘーゲルやカントを見なさい。
全生涯を議論し続け、しかも決してどこにも至ることはない。(OSHO)



僧璨は言いました。
一即一切の世界を歩み、識別することなく融解し去れ。
この覚醒に生きることが、不完了を思い煩わずに生きることだ。
この「信」を生きることが「不二」への道
「不二」こそ「信」と同じものだからだ。

と。 


僧璨のことばを受けてOSHOは言います。

それなら、どうして完成について思い煩う必要があろう。
それもまた利己的な目標だ。
これは本当に理解されるべきことだ。
なぜなら、宗教的な人々でさえ完全であろうとするからだ。
だが、完全であろうというあなたとは誰か。
全体しか完全ではあり得ない。
あなたは決して完全ではあり得ない。
どうして完全であり得よう。

覚者でさえ、病気にならなければならない。
覚者も死ななければならない。
人は完全ではあり得ない。
完全という目標そのものが自己陶酔(エゴ・トリップ)だ。
全体はすでに完全だ。それについて心配する必要はない。
その全体の中にあって、あなたもまた完全なのだ。

完全主義者はすべて気が狂う。
それが完全主義者の最期、終点だ。
というのも、ひとつの個体としては、人は不完全なままだからだ。
完全ではあり得ない。
どうやって完全であり得よう。
あなたのエネルギーは、全体からやってきて、全体に帰るもの、
あなたなどいないのだから。

波はあくまでも波だ、海にはなり得ない。
だから、あまり頑張れば、狂うより仕方がない。

宗教の世界に最も利己的な人々を見かけるのはそのためだ。
それは、彼らがあらゆることについて完全であろうとし、
完全性を主張するからだ。
彼らはくつろげない。いつでも緊張している。
そして、いつも何かがうまく行かず、それを正さなければならないから、
こういう人たちはいつも不安でいることになる。




★ 理解の人は悩まない ★



完全主義者は決して信頼しない。たとえ、一輪のバラを贈られても、たちまち不完全なところを見つける」とOSHOは言います。
完全主義者はいつも過ちを探しているので、いつも疑い、だれ一人として信頼できなくなっているのです。
なぜって? 彼は当の本人である自分自身が信頼できないのですから。


理解の人は悩まない。
不完全を苦にしない。
彼は完全という観点からはまったく考えない。
理解の人は、その瞬間を可能なかぎり全面的に生きるだけだ。
すると、全面的に生きれば生きるほど、それだけ生きる能力が高くなる。

一日が来る。
彼はそれをただ生きる。
どんな理想も押しつけず、
どんな観念も抱かず、
自分の〈生〉にどんな規則も、統制も設けず、ただ生きる。
彼はただ生き、楽しみ、悦ぶだけだ。

この「信」を生きることが「不二」への道
そして、これこそが信だ―。
「不二」こそ「信心」と同じものだからだ。

そして、胸の内深く、信頼する心があれば、
「不二」はあなたの眼の前にある。
内側深くに疑いがあれば、
そこに生まれるのは理論や、思考や、言葉や、哲学や、教義だろう。
そして、眼前のことには、まったく盲目になるだろう。
あなたは近くを見ることができず、
遠くを考えることしかできないだろう。

内なる信頼と外なる実在。
内なる信頼と外なる真理。
信頼と真理が出会う。
他の出会いはない。
『不二』こそ『信心』と同じものだからだ。 

                  「信心銘」より




あかり



★わたしたちは、愛すれば自分が堕落するかのように思い、愛さなければ、愛したいという深い衝動を感じることがあります。それは飢えや渇きと同様に、ごく自然なものです。
もし、あなたが、飢えも渇きも愛もなく、悲しみさえ感じないプラスチック人間に、ロボットになりたいのなら、完全主義者を目指し、常に完璧でいるよう努力されればよいでしょう。

しかし、理解の人でありたいと思われるなら、自分の限界を受け容れ、可能であることの、その可能性を受け容れ、それを楽しんでください。
理解の人は、自分がしていることを何でも楽しむ」とOSHOは言っています。

それが不完全なままだということ、それが決して完璧なものにはならないこと、完全にはなり得ないのだということを知りつつ、それが自然の本性なのだということをよく知っていながら楽しむのです。
楽しめば楽しむほど、それだけ多くの完全性が自らの生に訪れるのです。
そこには心配や恐れはなく、ただ優美さが満ちあふれていることでしょう。



★ ピンチをチャンスと捉えるとき ★



かつて、わたしは思いもよらない冤罪(ぬれぎぬ)で、強度の不安と恐れに陥りかけたことがありました。
誤解であることを知らせる資料作成に追われていたとき、わたしの夫は相手に腹立たしさを覚えながらも、こう言ってくれたのです。
楽しんですることだよ」と。

わたしの人生にとって、それは最大のピンチの時期でした。
この最大のピンチのときをどう切り抜けるか、このピンチを、自分を高みに昇華させるチャンスと受け容れ、相手にとっても自分にとっても最高の方法で対応しようと心に決めたとき、おおいなる勇気が湧きあがってくるのを感じたのです。

そして、決して深刻にならないこと。そのハードルを高くしたのは自分なのだということ。恐れることなど何もないのだと気づいたとき、それは喜びへと変容したのです。

頑なに誤解している人に対し、どうやってその誤解に気づいてもらうかという作業は、延々とつづきました。
眼に視えない世界を信じない人は、当然のことながら霊的な内容などはまるで受け容れず、聴く耳を持ちません。
こういう頑なに閉ざされた心を開くことこそが、わたしの人生のワークなのですから、それに圧倒されていてはなりませんでした。愛と光を送りつつ、その心を開く作業を何年も続けました。

その間、わたしはとてつもなく多くの視えない世界(存在)からの援助と守護を得ました。
オラクル(神託)カードを通して、驚くほどさまざまなマスターや天使たちが助言をくれたのです。
そうして初めて、心底から自分自身と自分の内に宿る神聖な自己への『信』を確立することができたのです。


ハート
これは、体験から得られる宇宙からの贈りものです。
完璧を目指さず、深刻にならないで、ただ楽しむこと。信を生きること。

この覚醒に生きること」が、
不完了を思い煩わずに生きること」なのです。 






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