慰めか、葛藤か、あなたはどちらを選びますか?

2011年12月10日 01:00


★ 広き門から狭き門へ ★



2010年の6月に立ち上げた「思いの制限をひらく」は、心残りであった迷える子羊さんたちのために、その後延長させていただいておりましたが、そろそろ大きな門は閉じさせていただく予定をしております。
これからも訪問されるであろう熱心な探究者さんのためにこれまでの主な記事は残し、つなぎとなる小さな門のみ開けておきたいと考えております。


★読者さんのご質問やコメントなどに対する記事内容は、わたしの本意ではない場合が多かったのですが、このブログ自体が「気づきを提供する場」であったので、度々ご希望に応じさせていただきました。
相手が不快になるようなことを記事にして「ネガティブな因縁を作るのはよくない」というような考え方もありますが、そんなことをいちいち気にしていたら、気づきのチャンスをつくることはできません。わたしのハイアーセルフはそれを承認しております。(これまで、OKサインが出なかった内容は、一切記事として出してはおりません)

悪い因縁を生じるかどうかは、やってみないとわからないのです。
まったく同じことを指摘しても、そこで「悟る人」と「反発する人」は必ず生まれてくるものです。
また、たとえ当の本人に気づきが訪れなくても、他の人がそれを読んで悟るということもあります。

善いことも悪いことも、快も不快も、すべてが気づき(学び)の材料なのです。


★ すべて自業自得 ★



悪い想念でも善い想念でも、相手にそれと共鳴するものがなければ、必ず自分に戻ってくるということを、過去記事でお話ししたことがあります。

たとえば、相手に悪い想念を送ったとき、その想念と共鳴するものが相手のオーラ(アストラル体やメンタル体)のなかにあれば、相手に影響を及ぼすことができますが、共鳴するものが全くなければ、影響を及ぼすことはできないということです。

要するに、有害な意図をもって相手に悪想念を投射した場合、その相手が送り手と同じような資質を持った粗悪なオーラの持ち主であれば攻撃を受けるけれども、そうでない上質のオーラの持ち主であれば、攻撃を受けることはないということです。

清浄なオーラにぶつかった場合、その敵意をもった攻撃的なエネルギーは、応じられずにそのままブーメランのように逆戻りしてしまいます。それどころか、ぶつけたエネルギーと同等のパワーを伴ってはね返り、その悪想念を発した当事者に打撃を与えるというわけです。
また、守護霊や守護神の守りが固い相手には、害を与えることはできないということもお伝えしましたね。

ですから、その法則さえ知っていれば、別に恐れることはないということです。
すべて自業自得なのです。
その結果は瞬時に自分に戻ってきますから、だれに言われなくても、自分でわかるのです。
もしネガティブなものに打たれたならば、自分自身を変えなければいけないことに気づかされているということです。それが、学びです。


 
クリスマスツリー



★ 魂の成長は、葛藤を通して達せられる ★



かつて聖者と呼ばれた人たちでも、全ての人に崇められて信仰されていたわけではありませんでした。同じ教団の中にあっても聖者に反発し、大いに批判する輩は必ず存在しました。
ゴータマ・ブッダ然り、イエス・キリスト然り、OSHO然りです。皆、猛烈に敵対してくる人たちと彼らなりの方法で戦ってきたのです。結果として、仏教はインドでは受け入れられず、イエスは十字架にかけられ、OSHOはもられた毒が元で亡くなりました。いつの世も、どこの国でも同様です。異なった考え方の人のほうが断然多いのですから。

会社や学校や家庭、夫婦や親子ですら、意見の相違や対立で日夜葛藤しているわけでしょう? 
本当に自分の胸の内を理解してくれる人というのはそう多くはいません。もしくは皆無であるはずです。
わたしたち凡人であってもそうなのですから、聖者はさらに孤独であったことと思います。

★イエスはまちがったことをしている人たちに対して激しい怒りをぶちまけ、罵りさえしました。ここでこんなことをしたら、悪い因縁がつくられるからやめておこうなんて、思うはずもありませんね。むしろ、彼は平和をつくりだすためではなく、葛藤をもたらすために地上にやってきたのですから。

イエスは言っています。

人々は、私が世界に平和をもたらすために
やってきたと思っているかもしれない。
彼らは、私が地上に分裂を、火を、剣を、
闘いをもたらすために来たことは知らない
と。

イエスのような人、ゴータマ・ブッダのような人、OSHOのような人が現われると、人々は必ず分裂を起こします。

彼を受け容れる者と受け容れない者。
彼を肯定する者と否定する者。
彼を愛する者と憎む者。

これは過去記事でも取り上げましたが、上記の言葉でイエスはいったい何を伝えようとしていたのかを思い出してみてください。

心の中の光と闇、愛と憎しみ、善と悪。他者との相克…。
そういう苦しい闘いを通してこそ、内面での統合が起こるのだということ。
魂の成長は、葛藤を通して達せられるのだということ。


彼はそのことを伝えたかったのだと思います。

これは、過去記事「自分自身を征服すること―天国に入るための必要条件」に書いておりますので、詳細を思い出したい人は、再度お読みになってください。

(過去記事 自分自身を征服すること―天国に入るための必要条件 参照)



★ 正直であること 真正であること ★ 



人はだれも、わざわざ自分から嫌われようとはしないものです。
できれば、大勢の人に好かれたい。そうですよね?
相手とのあいだに悪い因縁関係をつくらないように気をつけているかどうかまではわかりませんが、常に「天使のようないい子ちゃん」でいたい、「善いことしか言わない人」でいたい、「人を批判するのはよくないことだ」、「怒るのはよくないことだ」と思い込み、そういう人間にはなるまいと努力している人たちも多くいらっしゃるであろうと思うのです。

このような善悪を説いてきたのは主に宗教です。(聖なる個人と宗教は別ものです)
地球人はその策略にまんまとひっかかりました。宗教が説く善悪の考え方を長年のあいだに条件づけられてきたからです。宗教の教えがすべて正しいことだと思い込まされてきたんですね。この危険性は、繰り返し記事で伝えてきました。残されてきたものが、ほんとうにその聖者が説いた教えかどうかなどわからないのです。
日本の正史と同様で、それらは皆改ざんされ、真正(ほんもの)ではなくなっています。

肝心なのは、自分の心に偽りがなく正直であるかどうか、真正であるかどうか、相手に誠実さをもって本音を伝えているかどうかということなのです。


ウソはあの世に行ったらバレますよと、過去記事でお伝えしていますね。
善いことのみを語る人は偽善者です。全体が何で構成されているのかをわかっている人であれば、片方だけが優れていると思わせるような主張は決してしないはずです。

神と悪魔は一個のコインの裏表」です。
両方の極を見ない限り、この世界の真実の姿を見極めることはできないのです。



ブルーベルの咲く森
         ブルーベルの咲く森



★ わたしがブログを続けてきた理由 ★



★わたしが今日までこのブログを続けてきたのは、記事中にある言葉や文面に「気づき」という光を見いだして、感動してくださった方々がたくさんいらっしゃるからなのです。
その素直な喜びのメッセージが届くと、「よかったね」とわたしもうれしくなるからです。
ほんとうに魂が喜びで打ち震え、涙が出てくるんですよね。
ですから、そういう人たちへの返事はできなくても、その時々に「ありがとう」と口に出して感謝しているのです。

共に喜び合える「気づき」という恩寵は、とても神聖なところからやってきているのです。
拍手は気づきが生じたときにこそ、してください」というわたしの願いは、そこにあるのです。


(過去記事 わたしがブログを書く理由 3 ★気づきの拍手は「自分のなかの神」に対して★ 参照)


★ 慰めか? 葛藤か? ★



OSHO曰く。

偽りのマスターはあなたの慰めとなり、今あるあなたに平和をもたらす。
彼はあなたを変えようとなどしない。
彼は一種の鎮静剤としてある。
偽りのマスターは睡眠薬のようなものだ。
彼のもとに行けば慰めが得られる。

真のマスターは、より大きな混乱を、より大きな葛藤をつくりだす。
彼はあなたを慰めなどしない。
なぜなら、彼はあなたの敵ではないからだ。
慰めはすべて毒だ。

真のマスターはあなたの成長を助ける。
成長することは困難なことだ。
あなたは多くの試練を経ていかなければならない。
幾度となくあなたはこの師から逃げ出したくなる。
だが、できない。
彼はあなたにつきまとって悩ます。
  
         

★慰めを多く必要とする人には、このブログはきつすぎるかもしれません。
もしかしたら、あなたを不快にし、立腹させ、葛藤させ、ネガティブな疑惑のとりこにさせることがあるかもしれないからです。もちろん、それはそのように受け止めたその人自身の問題ではあるのですが。

しかし、長年の間に思い込んでしまった条件付けを外し、自分のもっともイヤなところに直面しなければ、この修羅場を通過しなければ、扉の向こう側には行けないのです。
これまで確立してきた真正ではない虚偽の自分を、たとえ現在どんなにすばらしい自己像を抱いている人であっても、それをこっぱみじんにしてしまえる勇気のない人は、いつまで経っても自己の誤った虚像に満足(陶酔?)しているだけで、魂の成長はありえません。

慰めか? 葛藤か? 
あなたはどちらを選びますか?


自分にいつでも火を投じられる人、意識の上昇へとつながる自己変容を望む訪問者は、どうぞ閲覧してください。

それらをお望みでない方、自己を一切変えるつもりのない方は、コメントなどをされる前に、どうか速やかに立ち去ってください。
管理者にだって、読者を選ぶ権利はあるのです。



まつぼっくり



★ 光の仕事人は「気づきの材料を提供」する者 ★



光の仕事人はあくまでも「気づきの材料を提供」する者であり、それ以外の何者でもありません。
それが今回地球に生まれてきたひとつの使命でもあるので、実施させていただいているのです。
わたしがどのような人間であるかなどの詮索は不必要なのではないでしょうか?
大切なのは、ブログに記された情報が、あなたにとって気づきをもたらすものであるかどうかだけです。
それが、自分の意識を高めるために役立ったか、思いの制限をひらくのに役立ったかどうか…。
そこがもっとも重要な点なのではないかと思います。ですから、そこにだけ焦点を合わせてください。

もし何か気づきが得られたなら、
あなたの心にきれいな音色で鳴り響くものがあったなら、
喜んでそれを受け容れてください。
そして、自分の中にいます神に感謝して、
その聖なるおみやげをもって帰ってください。

もし心に響くことなく、ネガティブなものが残ったなら、
すぐに手放してください。

但し、それがいつか(数日後、数週間後、数か月後、数年後)、
よみがえってきて、あなたの心を響かせたのなら、
そのときは受け容れ、感謝して、しっかりと抱きしめてください。
それは、あなたにとって、どうしても必要な気づきだったからです。



わたしたちが二元の世界に生まれたのは、両方の性質をよく知るためです。
だから、ポジティブなものだけに偏るのではなく、ネガティブなものも知る必要があるのです。

プレアデスの例を思い出してください。
プレアデスの人たちに起こったあのできごとは、ネガティブを嫌い、避けているだけでは統合はできませんよという教訓なのです。
ふたつのあいだの葛藤は、統合するためになくてはならない材料なのだということを、決して忘れないでください。
このブログの内容を総合してみてください。すべてが繋がっていることに気づかれることでしょう。




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