真実は事実よりさらに高い

2011年11月27日 17:00


★ 日本史の信憑性 ★



日本の歴史を顧みて、最近つくづく感じることは、書き残された日本史をどこまで信じられるかということです。
日本の正史と言われる古事記や日本書紀。それは事実を内包した物語であり、編纂者が自分の都合のよいように改ざんしたフィクションではなかったかということです。
そこに表現された内容がすべてその通りであるとは限らないし、伝えたくないことは一切記されず、真実は隠蔽されていて、読む者を昏迷の淵に追いやります。

そこで唯一気づかされたことは、それらの作者たちがそこに記した内容を正史として後世にぜひとも残したかったという強烈な意志表示と、いかに自分の正当性を知らせ、美化したかったかという欲の深さです。
表があれば、必ず裏があります。表が光り輝いて見えるほど、裏は闇に満ちているということをいつも忘れないことです。光と闇は絶妙なバランスで存在しているんですね。
「記紀」に残されたものは、ただ首謀者の「もくろみ」のみです。

正史は「天皇」によって編纂されました。当時の「天皇」によって、黒いカラスも白いカラスにすり替わってしまうのです。神話を創り、「天皇=神」としたのも、その権威をゆるぎないものにする大きな「もくろみ」であったのだと思います。

改ざんに改ざんを重ねたものが、真剣に読むに値するものであるかどうか、だれにもわかりそうなものですが、未だに「記紀」を基本にして論争している学者たちが減少しないという不思議な事実があります。
また、記紀以外の古史古伝竹内文献、宮下文書、秀真伝、上記、九鬼文書、東日流外三郡誌、物部文書、先代旧事本紀大成経)などは偽書として取り扱われています。
もちろんこのような古史古伝がすべて事実を書き表しているとは思いませんが、それらを偽書と言うのであれば、「記紀」だって偽書の部類に入るんじゃないかと思うわけです。

実際に起きた出来事を、事実と言います。
事実はただ一つしかないという人がいますが、ほんとうにそうでしょうか?

千人いれば、千通りの真実があるように、この世の中に「絶対的な事実」というものも存在しないということです。
事実といっても、結局は主観で判断しているのです。だから、事実も主観によって変わり得るものだということです。目の前で実際に起こっていることをそのまま記録したとしても、見る角度によって、まったく隣の人とは違う記録となるということなのです。



★ 勝てば官軍 ★



勝てば官軍 負ければ賊軍」ということばがあります。
「戦いに勝ったほうが正義となり、負けたほうが不義となる。道理はどうあれ強い者が正義者となる」という譬えですね。

皆さんは日本史で「大化の改新」について学ばれたことがあったでしょう。
その前夜に起こった「乙巳の変」で、暗殺された蘇我入鹿(そがのいるか)は悪人で、入鹿を滅ぼした中大兄皇子と中臣鎌足は善人であり、ヒーローということになっています。
暗殺の理由は、入鹿が聖徳太子の息子であった山背大兄王ら上宮王家の人々を自殺に追い込んだためだということになっています。しかし、「藤氏家伝」では、皇極天皇即位に関して山背大兄王が謀反を起こす恐れがあるため他の皇族と謀って暗殺したという『日本書紀』とは矛盾する記載があるとされています。つまり、犯行は入鹿の独断ではなかったということなのです。

中大兄皇子側にとって、自分たちの行為を正当化するには、入鹿を極悪非道の人間に仕立て上げなければならなかったということです。
蘇我氏をすばらしい人物だったと讃える研究者たちもいますし、しだいにその裏側が暴かれてきていて、最近の歴史はおもしろいなと感じている次第です。


★ 膨大な資料が焚書されて消えた ★



都合の悪い文書は燃やして始末するというやり方は、古代から頻繁に行われてきました。
それについて、ちょっと現在風のたとえ話をしてみましょう。

「原子力発電」について、賛成の立場から書いた本と反対の立場から書いた本があるとします。その視点と見解が違うことはわかりますね。
それで、あるとき政権を取った側が「原子力発電」の崇拝者だったとしましょう。政府は自分たちの都合のよい文献だけを残し、その他の都合の悪い文献のすべてを焼却し、生きていると都合の悪い著者も抹殺し、二度とその本が出版されないようにしたとします。
都合の悪い事実は消せばよいので、2011年に実際に起こった「原子力発電所の事故」さえも、なかったものとします。
1000年後に日本の歴史書を読んだ人は、その事実を全く知らないままとなりますね。そして、原子力発電は1000年前からずっと安全で、すばらしい発電方法だったのだという偽りの結果だけが残っていくのです。

これが、古来日本の政治で頻繁に行われてきたことなのです。
この世に存在しない人物をいかにも当時生きていて、活躍したかのように書くことなどは朝飯前です。
また、自分にとって邪魔な人物はつぎつぎと抹殺し、その祟りを恐れるがゆえに、殺した相手を丁重に神社に祀るという行為をしてきたのです。

罪無くして殺された桓武天皇の弟、早良(さわら)親王は死後「崇道(すどう)天皇」という名をつけられました。
」の字は、「尊い」という意味ですが、「」の字が「祟り」と言う字に似ているのも関係があるかもしれません。
崇徳(すとく)上皇聖徳(しょうとく)太子も同様です。祟りがあったからこそ、その人を讃えるようなすばらしい諡号(しごう)を贈られたのです。
崇徳や聖徳太子以外にも、死後「徳」という文字がつけられた人たちがたくさんいますね。
孝徳、称徳、文徳、安徳、順徳などの「徳」の字がつく天皇は、不幸な死に方をした天皇だとされているのは、なるほどと頷けます。
天皇に贈られた諡号を調べるだけでも、その当時の状況(真相)がわかるということもあるのです。


真実はその人の意識レベルによってそれぞれ異なる」ということ。
よって、日本の歴史に関しても、学者や研究者の数だけ見解が生まれ、言っていることがみんなまちまちで異なっていることについては、どうしようもありません。
もし学説には一切頼らず、自分で検証し、判断しようとするなら、それこそ脳内沸騰状態になるような(笑)大変な作業となることでしょう。

真実」と「事実」と「もくろみ」。
このじつにややこしい関係について考えていたとき、古い「和尚タイムズ」のなかにつぎのような文面を見つけました。
それは、とても興味深い内容でした。
真実は事実よりも高い」というOSHOの見解を、皆さんに抜粋してお伝えしたいと思います。



光


★ 真実は事実よりさらに高い ★



真実がかならずしも事実であるということはない。
事実はより低い現象であり、真実はより高い現象だ。
ときには真実が事実であるかもしれないし、ときにはそうでないかもしれない。
事実がその決定要因にはならない。
生には、事実が内に含むことのできない、より高い経験が存在する。

西洋のマインドはあまりにも事実に中毒してしまっている。
事実であることはすべてほんとうのことのように思われ、
事実でないことはすべて当然のごとく真実ではないことのように思われている。
これは西洋人の強迫観念だ。

真実はときに事実的であり、ときにそうではない―。
真実はかならずしも事実ではないと私が言うのはそのためだ。
このために、西洋の科学的精神は人間に魂があることを容認することができない―。

なぜなら、それは事実とは関係がないからだ。
肉体は事実にもとづいているが、魂は真実ではあっても事実ではない。
それに、事実を知る方法によって真実を知ることはできない。
その接近の仕方は全面的に異なったものでなければならない。

たとえば、あなたがバラを見るとする。
その美しさは真実であるが事実ではない。
あなたはそれを証明することができない。
バラの美しさを証明する方法はない。
その色については証明できる。
その重さも、その科学成分も明らかにできるが、
その美の感覚を証明することはできない。

だが、美よりもさらに高いものが存在する。
テニソンがつぎのように言ったと伝えられている。
一輪の花、根その他すべてを理解することができれば、
全存在を理解することができる

なぜなら、その花は事実以上の何かを含んでいるからだ…。
秘められた真実、本来備わっている真実性を。

しかし、そのような真実性に
科学的な実験で使われる粗雑な測定器具をもって近づくことはできない。
真理には別の方法よって近づかなければならない。
瞑想によって、愛によって…。

もくろみは真実でもなければ嘘でもない。
もくろみはたんに創造的な方策だ。
信頼するなら、それは役に立つ。
信頼しないなら、それは役に立たない。
それはあなた次第だ。

もくろみは事実よりも高い。
それは真実よりは低いが、事実よりは高い。
それはあなたを事実から真実へと導く。
それはその二つのあいだの橋だ。
それは事実でもなければ、真実でもない…
それは手がかりだ。



一輪のバラ
      一輪のバラ  撮影 光の仕事人



こんな話がある。

ババリヤ地方のある農夫が、自分の豚をもっと高値で売ろうと隣国のスイスに行くことにした。
税関をごまかすために、豚に黒のスーツを着せて、サングラスをかけさせ、
帽子をかぶせて自分のメルセデスの後部座席に座らせた。

国境で車のなかをのぞいた税関の役人は、行ってもよいと合図した。
彼はもうひとりの方を振り向くと、どっと笑い出した。
「どうしたんだね」と同僚の役人はたずねた。
「なかにへんてこなやつが座っていたのさ」
彼はおかしくて涙をこぼしながら言った。
「そいつがね、ちょうど豚そっくりだったんだよ」

これがもくろみだ。それはうまくいった!
肝心なのは、それがうまくいったということだ。
それが嘘であるか、真実であるかは問題ではない。
それが事実ではないというのは本当だ……
それは真実ではない、というのもまたそのとおりだ。
それはちょうど中間にある。

OSHO  The People of the Path より




ハート
英国の詩人、バイロンは言いました。
事実は小説よりも奇なり」と。
世の中に生じている出来事というのは、
虚構である小説よりもかえって不思議であるという意味です。
何だかそんな気がしてきませんか?
全て幻想の世界のなかでの出来事は、やはり幻想ってことなんです。

「記紀」の追及もほどほどにしておきたいと、つくづく思ったしだいです。(笑)





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