十一月の散策 ―奈良の旅②

2011年11月17日 10:50


★ 三輪~山の辺の道~桧原神社まで ★



山の辺の道」を歩く人は大変多いのですが、石上神宮方面からやってくる人たちのほうが圧倒的に多く、わたしのように三輪方面から向かう人は、その日はわずかでした。
すれ違いざまに「こんにちは!」と声をかけながら、それでも予定よりも早く桧原神社に到着し、ホッとしました。

桧原神社は、大和国中が一望できる絶好の場所に位置し、二上山の姿を眺められるとても波動のよいところでした。光の仕事人はそこが大変気に入ってしまいました。

かつてこの付近は「大和の笠縫邑(かさぬいのむら)」と呼ばれており、境内には「皇大神宮倭笠縫邑(やまとのかさぬいのむら)」と書いた大きな石碑が立っていました。
天照大神をお祀りする「元伊勢」とも呼ばれるこの神社は、本殿や拝殿はありません。三ツ鳥居が山を背にして建っているだけです。この三ツ鳥居奥の神籬(ひもろぎ)と般石座がご神体なのです。



桧原神社三つ鳥居
       桧原神社三つ鳥居  撮影 光の仕事人



古代の歴史やご祭神のルーツを研究している人たちにとっては、よく知られていることですが、ここで少し、桧原神社の謂れをお話ししておきたいと思います。


★宮中にいたアマテラスが大和の笠縫邑に来た理由★



日本書紀』の「崇神記」によりますと、第十代崇神天皇は、皇女の豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に託して、それまで宮中で祀り、共殿同床していた天照大神を宮中から出し、「大和の笠縫邑」に遷(うつ)して、その場所に堅固な石の神籬(ひもろぎ)を造って祀ったとされています。

神籬は神道用語で「上古、神祭の時、清浄の地を選んで周囲に常磐木を植えて神座としたもの。現在の形は榊に麻と紙垂を取りつけ、神の降神時の依代として使用する」とあります。
つまり「神霊の天下る木」のことですね。

神籬は木だけではありません。古代日本の神道は、社殿の中に神をお祀りせずに、巨石や巨木、あるいは美しいピラミッド形の山などの自然の造形物に神が宿るとして、それらを礼拝の対象としてきたのです。
社殿や神棚のない場所で祀りをおこなうとき、神を臨時にお迎えするわけですが、そのとき神の依り代(神を迎える際に宿る場所)となるものが神籬(ひもろぎ)なのです。

第十一代垂仁天皇の御代になって、天照大神を今度は豊鍬入姫命から倭姫命(やまとひめのみこと)に託すことになったといいます。
倭姫命(やまとひめのみこと)は天照大神を鎮座させる場所をあちこち探しましたが、最終的に大神の希望を聞き入れて、伊勢国の度会宮に遷したということです。


この「天照大神の遷宮に関する伝承」について、疑問を持っている人もいらっしゃるのではないでしょうか?
いったいなぜアマテラスは宮中を出され、転々と遷らなければならなかったのでしょうか? 遷ること25回です。

天照大神というのは皇祖神です。(建前上ではそういうことになっていますね)
その皇祖神を天皇が皇居から追い出すとはどういうことなのか? 
誰でも不思議に思いますよね。
つまり、それは天皇家の皇祖神が実は「アマテラス」ではないことを明確に物語っている証拠となる内容です。
実際に天皇守護の神として最も重んじられてきた八柱の神々のなかにも「アマテラス」という名は存在しないのです。



★ アマテラスを追い出した崇神天皇 ★



崇神天皇について調べると、興味深いことがわかります。
崇神天皇5年(紀元前93年)に日本国中に疫病が大流行し、多くの人民が死に絶えたとあるのです。
事態を重く見た天皇は、朝夕に天神地祇に祈りを捧げたのですが、それにもかかわらず、その勢いは一向に止まりませんでした。
その翌年、疫病を鎮めるべく、従来宮中に祀られていた「天照大神」と「倭大国魂神」を皇居の外に移したというのです。

「天照大神(あまてらすおおかみ)」は天津神です。
「倭大国魂(やまとおおくにたまのかみ)」は大国主命のことで、国津神です。


日本書紀』にはつぎのように記されています。

これより先に、天照大神・倭大国魂、二の神を天皇の大殿の内に並祭る。
然うして其の神の勢いを畏りて、共に住みたまふに安からず。
故、天照大神を以ては、豊鍬入姫命に託けまつりて、倭の笠縫邑に祭る。



豊鍬入姫命
 豊鍬入姫命宮  撮影 光の仕事人

豊鍬入姫命由緒書


宮中で祭祀している天照大神と倭大國魂神の不仲によるものと、天皇は考えたのでしょうか? 
それまで二神を宮中に祀っていたけれども、二神の霊威が強力で畏れ多いので、天皇はこれらの神と共に住むのは精神的に落ち着かなくなり、不安になったというのです。
「畏れ多いから」と言うと聞こえは良いのですが、実際のところはその神たちを排除したい気持ちがあったように感じます。

これは、どう考えても「神やらい」ですね。
「神やらい」の対象とされたのは、天照大神だけではありませんでした。
天皇は倭大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ、大己貴神の荒魂)も同時に宮中から追い出したのです。

崇神天皇は、天照大神を皇女の豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に託して祀らせます。
倭大国魂を託した渟名城入姫命(ぬなきのいりひめのみこと)は髪が抜け落ち身も痩せてその任に耐えなかったので、市磯長尾市宿禰(いちしのながおちのすくね)に託して祀らせることにしました。

天皇が占うと、三代前の孝霊天皇皇女の神明倭迹迹日百襲姫命(かみやまとととびももそひめのみこと)が神懸りして「我を敬い祭れば必ず治まる。我は大物主神」と名乗ります。
天皇はその言葉のままに丁重に祀りますが、効果がありませんでした。さらに沐浴斎戒して祈り、その夜の夢に大物主が現われて告げるには、「国が治まらないのは、吾が意思である。もし吾が子の太田田根子(おおたたねこ)を以って、吾を祭れば、国は平和となり、海外の国も帰伏する」と告げるのです。
結局祟りをなしているのが大物主であることがわかり、太田田根子命(おおたたねこのみこと)に託して祀らせたところ、ようやく疫病は収まったということです。

疫病流行は、大物主神のしわざであったということですね。
祟って、お祀りしてもらったら、途端にご機嫌になって、疫病は終息したということですが、大物主って、その程度の神さまなんでしょうかね?
大物主のことをとても誉めている人たちもいるようですが、祟り神の意識が高いとは、わたしにはとても思えません。

それ以来、倭大國魂神倭国(やまとのくに)の大和(おおやまと)神社に、大物主神大神(おおみわ)神社にて祭祀されることになります。

倭国の笠縫邑に祀られた天照大神は、それ以後約六十年の歳月のなかで二十五回も遷宮を繰り返し 、最終的に伊勢国の五十鈴川のほとりに鎮座することになったのです。
この天照大神は、記紀に記されているような女神などではありません。
ほんとうはどんな存在なのか、それはまたいつか機会があればお話ししたいと思います。


桧原神社
 


アマテラスが最初にやって来た笠縫邑の桧原神社。
境内に立ち寄る人は少なく、森閑とした空気のなかに清らかな波動を感じました。
わたしの打った柏手が非常に大きく美しく鳴り響いたのが、その証拠です。

いつまでもそこにいたい気持ちでしたが、まだ三輪山の昇り口がある狭井神社と大神神社に立ち寄る予定があったため、また「山の辺の道」を三輪の方向へと戻りました。
(次回につづく)






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