十一月の散策 ―奈良の旅①

2011年11月14日 10:20


★ 山の辺の道へ ★ 



まわりの景色が、あざやかな晩秋の色へと変化する季節となりました。
先週は、石上(いそのかみ)神宮と三輪山の裾にある桧原(ひばら)神社に赴きたいと思い立ち、京都から奈良への旅を実行しました。
今回はそのとき感じた旅のお話をしたいと思います。

石上神宮は奈良県天理市にあります。
京都駅から出発する近鉄急行で、天理まで約1時間ほどです。
この「天理」駅から石上神社に行くバスは12時頃に1台しかなく、あとはタクシーか、歩くしか術がありません。(徒歩で30~40分かかる)
わたしが天理に着いたのは10時25分だったので、まずはタクシーで行くことにしました。
運転手さんの話では「天理教の信徒たちが集まってくる26日頃しかバスが出ない」ということでした。
ご親切に徒歩での戻り方を教えてくださったのですが、けっこうわかりにくくて、結局はわたしの足が自然と向かう道を通って、駅に戻ることになりました。


★ 親しみを感じた石上神宮 ★



石上神宮(いそのかみじんぐう)は『日本書紀』に記される伊勢神宮などと並ぶ日本最古の由緒ある神社の一つで、飛鳥時代の豪族、物部氏の総氏神として知られています。
古代大和朝廷から武器庫である神庫(ほくら)の管理を任され、神宮の神庫には歴代天皇や諸氏族から奉献された楯・鉾・太刀・玉・装身具など、多くの神宝が収められているそうです。

ご祭神は以下の通りです。

祭神  布都御霊(フツノミタマ)大神
布留御魂(フルノミタマ)大神
布都斯魂(フツシミタマ)大神

配祀神 五十瓊敷(イニシキ)命 
宇摩志麻治(ウマシマジ)命
白河(シラカワ)天皇
市川臣(イチカワオミ)命



石上神宮の鳥居
       石上神宮の鳥居  撮影 光の仕事人


最初に鳥居の前で頭を下げたとき、何かしら嬉しい波動に包まれて、つい涙ぐんでしまいました。
わたし自身は、物部氏や石上神宮のご祭神とは関わりはないように思うのですが、「日本建国のルーツ」を探っている者としては絶対に避けられない神社でもあったので、感動が大きかったのだと思います。

参道を歩いて行くうちに鶏が盛んに鳴いて出迎えてくれました。
境内にはたくさん鶏がいて、心がとても和みました。

うこっけい
        うこっけい  撮影 光の仕事人 


人が多かったので、拝殿の左側から出た場所にある杉の木のところにたたずんでおりました。
杉の木に手で触れると、やはり鳥居の前で頭を下げたときに感じたような何かしら嬉しい波動が伝わってきました。
「わたしはここに来たことがある」というデジャヴがまた起こっていました。


ご神木
     ご神木  撮影 光の仕事人 


楼門
     楼門   撮影 光の仕事人  

                        
楼門前の石段を上がると、左側の奥に石上神宮の摂社の一つ「出雲建雄神社」が建っていました。
ご祭神は「天叢雲剣の霊威」であり、「出雲建雄神」と称して祀られているようです。神宮のご祭神と同様、この摂社のご祭神も剣の霊威です。

摂社1 
摂社2
 出雲建雄神社 撮影 光の仕事人   


「本殿」は「拝殿」の奥に建てられているようでしたが、その姿は拝殿から見ることはできませんでした。
「本殿」は1913年に建てられたものといわれており、それ以前は「本殿」というものがありませんでした。
「拝殿」の奥側に祭神である「平国之剣」を埋め、土を盛り「高庭之地」と呼び、立入禁止にして祀っていたようです。

石上神宮の拝殿 石上神宮拝殿
      石上神宮拝殿  撮影 光の仕事人


わたしは二度拝殿の前に立ち、波動を確かめましたが、手にしたペンジュラムは右まわりに回っていて、大変良い波動であることを告げていました。
出雲建雄神」の場所も同様で、ご神木の杉が立っていた場所もよかったです。
どこも、掃き清められており、すがすがしさを感じました。

騒がしい団体客がいなければ、最高だったかもしれません。
団体のマナーの悪さが目立ち、真剣に神社にお参りする人以外は遠慮してもらいたいと思うほどでした。参拝するのに、大きな声でしゃべりながら歩く必要はありませんね。

木の上にとまっている鶏たちに別れを告げて石上神宮をあとにし、徒歩で天理駅へと向かいました。


木の上の鶏
         木の上の鶏  撮影 光の仕事人


道すがら見える天理教の信徒たちの宿泊場には圧倒されました。こんなに広大な敷地が必要なほどの信者が集まってくるのだということが、歩いて初めて実感できました。

辺りは車が通るだけで、歩いている人も少なく、静かで、秋色に染まった街路樹がひたすら歩くわたしの目を楽しませてくれました。

天理駅まで36分かかり、くたびれましたが、それなりの収穫はあったと思います。
計画通り、天理駅12時23分発のJRに乗り、三輪まで行きました。
天理から三輪までは15分ほどです。
三輪駅から大神神社までは徒歩5分ほどでした。わたしは先に桧原金神社に行く予定でしたので、そのまま山の辺の道へと入りました。

山の辺の道は石だらけのとても細い山道でした。
底の厚い運動シューズを履いてくるべきだったと歩き始めてから気がついたのですが、足裏の皮がむけるのではないかと思うほど、ハードでした。
次回は、桧原神社と大神神社についてお話ししたいと思います。



★ 「気づきのコース」についてのお問い合わせ ★



最近新しい読者さんで、また「気づきのコースを希望したい」というお問い合わせが来るようになりました。
気づきのコース」はすでに終了しておりますので、原則として各種リーディングは行いません
但し、自己探究への熱意が十分に感じられ、わたしのハイアーセルフがOKサインを出した人については「数秘リーディング」のみ受けつけてもよいと考えております。

★お申し込みの前に、必ずカテゴリ「光の仕事人の『気づきのコース』」をよくお読みください。

★アンケートのメールフォームに住所・現在の氏名・生まれたときの本名(ふりがなをつけたもの)・生年月日・希望の動機をご記入の上、送信してください。


★11月21日の記事 カテゴリ『光の仕事人からのメッセージ』の「自らの鏡を清めなさい」をお読みください。変更事項を記載しております。(11月21日更新)


つい最近、「個人情報なしで、どの程度のリーディングが可能なのか知りたい」という男性からメールをもらいました。
「守護霊とのコンタクトは可能であるかどうかや、自分の人生に起こった出来事を具体的に挙げることができるのかどうかをまず知りたい」と言うのです。

その人は光の仕事人を試したくて仕方がなかったようですが、リーディングをおこなう相手を信じ、「自らをゆだねる勇気」が持てない、「全面的な明け渡し」ができていない、つまり「自己探究の準備」ができていないわけですから、お断りするしかありませんでした。

過去記事にも書いておりますが、「明け渡す」ということは、もはや「自分自身はいない」ということです。「エゴが落とされている」ということです。
エゴが落ちていれば、自己防衛の必要などはなくなります。

その人は「純粋な探求心からの願いであり、決して悪意はない」と書いておられましたが、「何の探求心なのかな?」と思います。
もっとも重要なことは、その人自身の「自己探究」であって、相手の超能力の探求などではないはずです。
OKサインが出ないのは当然のことだったと言えるでしょう。

神社で神さまにお祈りするときは、自分の住所と名前をまず申し上げるのが礼儀であり、常識です。
自分がどこの何某かを名乗りもせずにお願い事をしても、神さまは決して聞く耳を持ちません。
どんな神さまだって、本人の情報を語らない者のことはわからないでしょう。何しろ地球には70億もの人間がいるのですから。(笑)
波動だけで「私がどんな人間なのか当ててみてください」なんて言っている人を相手にはしないと思います。

そのあと、その人の守護霊と感じられる存在がお詫びに来られましたが、やっぱりねと思いました。その人の方向性がちがっていて、残念に思ったしだいです。

すでに終わっている自分の人生に起こった出来事を当ててもらって、それがいったい何になるのでしょうか?
超能力への好奇心がきっかけで、スピリチュアルへの道に入ろうとするのは邪道です。
 
大切なことは、まだ気がついていないところの自分、まだ知らない自分自身を知ることなのではないでしょうか?
究極的には、「自分の存在が何なのか」を知ることなのです。わたしは、それを知るきっかけづくりを提供しているだけなのです。
その人の観点とわたしの観点のちがいが、おわかりになるでしょうか?



★ 霊道は必要であれば開かれる ★



これまでこのブログを訪問された読者のなかには、霊能力や超能力に惹かれる人たちも多くおられたと思います。また、自ら「霊能がある」と言う人たちも少なからずおられました。
しかし、そうであるならば、「なぜ自分のことがわからないのか?」と思います。

以前にも言ったかと思いますが、霊能者は自分の霊眼で視えたものしか信じず、幅広く深く自己について探究しようとはしないので、自分のことをほとんど知りません。(精神世界を深く学び、探究しないので、結局は知らない)
自分の意識レベルに応じたものしか視えない(自分より次元が高いものは視えない)にもかかわらず、それのみを正しいと信じ込んでしまう危険性がおおいにあるということを知らなければなりません。
そして、人それぞれ観点がちがっている(同じものでも角度がちがうとちがって見える)ので、霊能者が言うことは皆まちまちです。

霊能力は異常波動、超能力は正常波動から生じるものだということを念頭に置き、そういうものにあまり興味を持たないようにすることが大切です。
そういう能力は、今生でその人に必要であれば自然に備わりますし、必要でないなら、閉じたままになっています。たいていは霊道を開くこと自体危険性が伴い、通常は発揮できないようにしてあるのです。


わたしは過去に、浄化を求めてやってくる者たちを霊視したいと思い、守護の神霊に「視えるようになりたい」と真剣にお願いしたことがありました。「百聞は一見にしかず」と考えたわけです。
すると、目を閉じた途端にいろんなもの(浄化を求めてやって来た者たちのプロセス)が見え始めたのです。

それは合戦で馬に乗り、刀を振りかざした武士であったり、木にぶらさがって死んだ人であったり、敵に追いかけられて山道を逃げている親子だったりしましたが、あまりにネガティブで悲惨な姿に「わかりました。もう視たくないです。元に戻してください!」とお願いし、即刻視えない状態に戻してもらったという体験をしています。
そんな人たちの姿がはっきりと視えたところで、気持ちが悪くなるだけで、わたしにとっては有益なことではないということを、まざまざと知ったからです。

それからは、霊視や霊聴などは必要でなく、これまで通り自分の直観と感覚だけで判断するようになりました。それで十分です。

ということですので、霊能や超能力に興味がある人は、どうぞ霊能者や超能力者のところで相談してくださいと申し上げておきます。

また、霊能者は霊媒体質であるので、非常に霊に影響されやすいのです。
つまり、コントロールされやすいということです。高次の存在になればなるほど、人をコントロールするようなことはしません。コントロールされているようなら、それは邪神や邪霊の類と知ることが大切です。
自分のオーラやチャクラをやたら開いておかないで、しっかりと閉じておくことが肝要であることを再度お伝えしておきたいと思います。
(過去記事 「サイキック・バンパイア」と「サイキック・スポンジ」参照)

わたしは自らの浄化自己探究に真剣にいそしみたい人にしか関心がありません。
今の時期、もう既にそれを済ませていなければならない時期となっていることは、もう皆さんご承知のことと思います。
どうか日々そのことを意識し、いつ肉体を去ってもOKであるよう、悔いのない人生を送っていただきたいと願うしだいです。




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