「闘う心」を忘れた日本人―自尊心のために闘う精神を持とう!

2011年09月22日 19:35



最近、報道陣に対して「放射性物質がうつった」などという趣旨の発言をした大臣が辞任されましたね。
皆さんは「船橋に避難してきた福島の被災児童が『放射能がうつる』と言っていじめられた」というニュースがあったのを覚えておられるでしょうか? 
同じような内容が、また今月になってから新聞記事に掲載されていました。
大きな問題として取り上げられているにも関わらず、同じことが繰り返されているのは、根本的なところがまったく変わっていないからですね。
下記は、4月15日の「時事通信社」による記事です。


「放射能うつる」といじめ=福島から避難の小学生に―千葉 

 福島第1原発事故を受け、福島県から千葉県船橋市に避難した小学生の兄弟が「放射線がうつる」といじめられたという訴えが市教育委員会にあったことが15日、分かった。
 市教委は同日までに、避難者の不安な気持ちを考え言動に注意し、思いやりを持って被災者の児童生徒に接するよう指導を求める通達を市立小中学校に出した。
 市教委によると、福島県南相馬市から避難し、3月中旬に船橋市の公園で遊んでいた小学生の兄弟が、地元の子どもに「どこから来たの」と話しかけられた。兄弟が「福島」と答えると地元の子どもは「放射線がうつる」と言い、数人が一斉に逃げ出したという。
 兄弟の親は今月予定していた同市の小学校への転入学を諦め、家族で福島市へ避難した。 


わたしは、これがいわゆる「いじめ」に当たるのかどうか、少々疑問が残るのです。
なぜかと言いますと、この福島から来た兄弟は「いじめられた」と思っているかもしれませんが、「放射線がうつる」と言って逃げた子どもたちは、その兄弟を「いじめた」とは思っていないんじゃないかと思うからです。

結果的に大変「思いやりのない行為」となったことは確かです。
しかし、最初から「いじめよう」と思って言った言葉や行動というよりも、とっさに出た自衛としての言動であったのではないかと感じるのです。
千葉県船橋市の子どもたちも、「放射線」の恐ろしさをマスコミや大人から聞いていて、不安な毎日を過ごしていたわけで、放射線が真に恐かったのではないかと思うのです。

彼らは自己を守ることだけに集中しています。相手を「思いやる言葉」などはきっと親から教えられていなかったのでしょう。
いつ自分たちも被爆するかわからない状況にあるとき、逃げるという行為は自然に生まれた方法であったと考えることもできるということです。
もちろん、「放射線について無知であった」ことは否めませんが。

そのあと、「船橋市民は恥を知れ」とか、「最低な親」とかいう批難コメントがあったようなのですが、そんなふうに船橋市民を批難している人たちも「同じ穴のむじな」であることに気づいてほしいと思います。
自分自身をはじめ、日本のだれもが、いまや放射線の被害者になっているんだ」ということを念頭に置く必要があると思うからです。

今、福島物産、お土産など、進んで買おうという試みが流行っているようですが、逆に福島産のコメや野菜を食べることを避けている人たちも多いのではないでしょうか。
放射線の心配がないものであっても、買うのなら別の産地のものを選びたい。そんな気持ちは、正直言ってだれにでもあるのではないでしょうか。それを風評被害だと言って、福島の人たちは怒っています。

しかし、これまでに検査もろくにせずにいい加減なことをして肉牛を市場に出したりしていたから、「国民の信用を失った」という部分もあるのです。
福島の人たちも、「より安全な商品を消費者の皆さまにお届けしたい」という愛の精神とそれに向けての努力が欠けていたのだと感じますね。
(頭の中は消費者のことよりも、経済の問題があり、自己保身の気持ちがなかったとは言えません)

さて、あなたはどのように感じられるでしょうか?

ここでわたしが感じたことは、「いじめた」とされたほうも、「いじめられた」とされたほうも、同じ被害者なのだということです。
みんな自分の命が大切なのです。それが今わたしたちが特に優先していることなんですね。
原発事故を起こした東電への非難も相当あるようですが、東電の人たちだって被曝して亡くなっているのです。彼らだって、被害者なのです。

福島から移転してきた兄弟の話に戻りますが、正しい知識をきちんと持っていれば、「放射線がうつる」と言って逃げた子どもたちに対して、「うつらないよ!」と断固として反論することもできただろうと思うのです。
ですから、正確な情報や知識は不可欠なのです。
(しかし、国民は正確な情報を政府から聞かされてはいないのが実情です。真相はうやむやにされていますね)

結局その兄弟は家族で福島に戻ってしまったわけですが、逃げずにもっと闘ってほしかったと思います。そして、お互いに理解しあってほしかったですね。福島原発事故による同じ被害者として。
そうすれば、今何をすることが最も必要なのかどこに矛先を向けるべきなのかが、もっと明確なかたちとなって見えてきたのではないかと思います。



★これは蛇足ですが、
今朝「国際環境NGOグリーンピース」 より、オンライン署名「2012年、すべての原発を停止してください」を行っていますというメールが届いておりました。

皆さんの願いとはうらはらに、野田首相は本日9月22日にニューヨークで開催される国連の『原子力安全と核の安全保障に関するハイレベル会合』で『安全でより信頼性の高い原子力エネルギーの確保は引き続き必要だ』と直ちに『脱原発依存』へ移行しない立場を明確にする演説を行うと報道されています
と記されていました。
せっかく菅首相のときに「脱原発」に向かっていたのに、がっかりです。

「署名締め切りまであと1週間。たくさんの方の声としてこのシナリオを政府に届けるため、1人でも多くの方のご参加をお願いいたします」ということですので、参加したい方のためにURLを載せておきたいと思います。

http://www.greenpeace.org/japan/2012/?gv20110922


★ いじめられないためにはどうすればよいのか? ★



自分とは相いれない異質のものを嫌って執拗に攻撃するといった深刻な「いじめ」は、昔からどこの国にもありました。
だいたい神代の昔からいじめはあったのです。
神自体が自分とは異質の神をいじめていたのですから、人間同士にいじめが生じても当たり前のことではないかと思うのです。

この「いじめ」に関しての見解は千差万別です。
「いじめられるほうに問題がある」と言う人、「どうであれ、いじめるほうが断然悪い」と言う人、「いじめられるほうにも問題はあるが、いじめるのは悪い」という人、さまざまです。

「いじめ」に関する書籍もたくさん出版されています。
わたしの場合は、次女が小学生から中学生のときにいじめに遭い、不登校を決め込んだときに購入して読んだ本が多数あります。
「いじめ」に関してのそれぞれの著者の見解を知りたかったからであり、同じように「いじめ」で悩んでいる子どもたちのために役立つようにと、いろんな人の本を買いそろえていたのです。
いろんな人の著書を読むことは、自分の思考を広めるのに役立つのではないかと思います。
(「いじめ関係」の本は、今後オークションにも数冊出品しますので、関心のある方はぜひご覧になってください)


★霊的な観点からすれば、「いじめ」はどっちもどっち、おあいこだと言えるでしょう。
原因があって結果が生まれる。過去生からの因縁も多々あるのです。
ひとりを大勢でいじめるような場合は、あまりにも相手のオーラが強すぎて、ひとりでは太刀打ちできないから集団でいじめるということもあるようです。(次女の場合はそうでした)

イエス・キリストが磔になったのは、同じユダヤ人から妬(ねた)まれたからです。
いじめを受けている人は、「もしかして、わたしあの人に妬まれている?」と思ってみることですね。
嫉妬や羨望は「いじめ」の大きな要因のひとつとなっています。 

★「原因と結果の法則」からすると、何の文句のつけようもないのです。
お互いに生まれてくる前に約束してやっていることもあるのだから、それはそれで「尊い学び」なんじゃないの? と思います。
個人的ないじめの場合は、ほんとうは第三者が立ち入ることなんて、できないのかもしれません。
どんな事象も深い意味があって起こっていることなのですから。

しかし、だからと言って、暴力や暴言に黙って耐えなければならないかということですが、そんな必要はありません。
理不尽ないじめに対しては、断固として抵抗すればよいのです。
いじめられて自殺していった子どもたちは多数います。
自殺をする勇気があるのなら、なぜ死ぬつもりで抵抗しなかったのでしょうか? 
死ぬつもりでケンカをすることもできたはずです。

ケンカをするには、「自分は悪くない」、「私は正しい」という自覚が必要です。
そして、相手にたいして「こんちくしょう!」、「もう我慢ならない!」、「おまえの思い通りになんかなるもんか!」と思わなければできません。
つまり、自分自身に対して罪悪感がなく、誇り(自尊心)がないと、ケンカにはならないのです。


現代の日本人は「平和主義者」が多いですね。
「怒る」、「ケンカをする」、あるいは「闘う」ということに対して、何かしら抵抗を感じているような気がするのです。
非常に消極的なんですね。「怒る」のはよくない。「ケンカ」はよくない。「闘い」はよくない。
それで、自分さえ我慢したらすむことだと思っているようです。
右の頬を殴られたら左の頬を、上着を盗られたら下着を差し出せ」という教えを忠実に守るクリスチャンみたいな人たちです。
だけど、それに耐えられなくなると、死を選ぶわけですね。

しかし、世界中に存在する真に熱心なクリスチャンですら、そのような平和主義の精神を実践するようなことはしていないのです。
自分たちを脅かす異教徒と戦った十字軍や大王などは、クリスチャンたちから称賛されてきました。
そして、当のイエス自体が「闘う」ことをけっして否定してはいないのです。

イエスは言っています。

人々は、私が世界に平和をもたらすためにやってきたと思っているかもしれない。
彼らは、私が地上に分裂を、火を、剣を、戦いをもたらすために来たことは知らない。

(「トマスによる福音書」16より  マタイ10-34~ ルカ12-51~参照)
 

(参考過去記事 自分自身を征服すること―天国に入るための必要条件


★ 自尊心のために闘う精神を持とう! ★



★この世の中には、大きくわけて2つのタイプが存在します。
まずどのようないじめ、迫害があっても抵抗しない、闘わないという「平和至上主義」の人たちです。
そして、もうひとつは「闘うことは尊いこと」だとして、闘いながら自らの生命や主義を守ろうとする人たちです。

このうち、いじめで自殺した人たちは「平和至上主義」の人たちと言えるでしょう。
もちろん、この平和は外側だけの見せかけの平和であるわけです。
迫害者に対して何の抵抗もしないので、相手を増長させるだけですね。

わたしから見ると、こういう「平和主義者」は善人と言うよりも、「偽善者」という感じがします。
たとえ迫害を受けた側に何の非がなかったとしても、その迫害者に抵抗もせず、言いなりになっていること自体が罪です。悪を止めることができないだけでなく、悪の片棒を担がされることにもなりかねません。
相手に好き放題やらせっぱなしでは、その人は一生奴隷となって生きるしかないのです。

正しい者はやはり強くなければならないと思いますね。
どちらを選ぼうと選択の自由はありますが、わたしなら、まちがったことに対しては断固として抵抗するほうを選びます。
妥協などはしたくありません。自分の信念を貫きます。
それで負けたとしても本望ですね。わたし自身の尊厳は守られたままですから。

★日本の「武士道」には「自尊心のために闘う」という精神が宿っていました。
相手に「おくれをとらない」ということ、いつも行動の上において優位に立つということです。
他者に勝つ」ということは、「自分自身に勝つ」ことによってはじめて可能であるということが前提にあります。
自己に克つこと」が「おくれをとらないこと」の必要条件だということです。
つまり、「生命に執着し、臆病なふるまいをすることを最大の恥」だというのが、当時のサムライの根底にあったわけです。
ですから、「金を出せ」とか、「金を盗んで持ってこい」などという強迫に恐れをなして、その通りにすることなどは最大の恥だということです。それなら、死にもの狂いで抵抗せよということですね。



ベンジャミン・ディズレリーというイギリスの政治家がいました。
保守党指導者として1867年第二次選挙法改正を実現し、68年と74年に首相となり、ビクトリア朝の帝国主義的外交を推進したという人です。
この人はユダヤ人であったのですが、自分がいじめにあったときに親に頼んでボクシングを習い、十分自信がついたときにいじめっ子の大将とケンカをして打ちのめしたのだそうです。それでいじめられなくなりました。
この「いじめられてなるものか!」という気概が、保守的な時代のイギリスにおいて、彼を首相まで前進させたのです。


追記: だからと言って、けっして暴力をススメているわけではないことぐらい皆さんおわかりですよね?
むやみにコントロールされたり、殺されたりしないために正当な防衛は必要だということです。
世界の情勢を観てください。現在あまりにも無防備で死んでいく人たちが多いのがわかりますね。
地上で自由に生きる権利を守るためには、自らが立ちあがる必要があると言っているのです。
この辺りをカン違いしないでくださいね。



ハート
「闘う心」を忘れた現代の日本人。
どうか「いじめを許さない」、「いじめられない精神」を培っていただきたいと願います。

「みんな仲良く調和してやりましょう。ノ―サイドで」なんて言う総理大臣となって、
政党でも「闘うこと」を尊ばなくなってしまいましたね。

政党内でもめているのは確かに見苦しいけれども、妥協だけはしないでもらいたいと願います。
お互いに相手とは異なる見解を理解し、反対勢力との調和を目指していくことと、
自分の真実に背いて妥協することとは、まったく別のことですから。





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