劇的な変化と変容を受け入れよう! 喜びも悲しみも、心を一か所にとどめないこと

2011年09月07日 18:00


★ 台風12号がもたらしたもの ★



台風12号は大きな爪痕を残し、去って行きました。
最初は日本列島を縦断すると予想されていましたが、急に進路が変わり、四国と中国地方に向かいました。
日本でもっとも浄化しなければならない地域がほかにあるのに、なぜ西に向かっているのだろうという疑問があったのですが、できるだけお手柔らかに浄化をしてくださるよう、雨の神さまと風の神さまにお願いしていたのです。(確かにわたしが住む地域はさほどの影響はありませんでした)
風よりも、雨の浄化が必要だと感じており、雨はしかたがないと思っていたのですが、予想以上にものすごい雨量でした。
結果的に四国や中国地方、近畿地方に大雨をもたらし、特に奈良県や和歌山県の土砂崩れによる被害が大きく、今回は紀伊半島の浄化であったことを知りました。

那智勝浦町の熊野那智大社が、大きな被害を受けましたね。
熊野那智大社によりますと、境内にある6つある社殿のうち、「第五殿」と「八社殿」の間にある裏山が崩れて土砂が流入し、高い部分では約1・5メートルまで土砂が積み上がり、流入はすべての社殿に及んだということです。

また、大社の別宮の飛瀧(ひろう)神社でも、ご神体の那智の滝(落差133メートル)の上部に張られているしめ縄(長さ26メートル、重さ4キロ)が切れてなくなり、滝の手前にある大岩(おかみしろ)も流失しました。
平安時代、文覚(もんがく)上人が修行したといわれる「文覚の滝」も、岩が流され、少なくとも5本の大木が倒れたと伝えられました。

奈良県では、吉野町の金峯山寺(きんぷせんじ)蔵王堂(国宝)で、入母屋造(いりもやづくり)の檜皮葺屋根の頂上東側付近が破損したようです。

熊野那智大社は、わたしがもっとも好きな場所でしたし、吉野の金峯山寺も懐かしい場所でした。
那智の滝の清浄なる姿は、いつまで経っても見あきることがなく、爽快かつ清涼な水しぶきに心が洗われ、滝と一体となった歓喜を覚えながら、長い時間そこに立っていたことを思い出します。
そのすばらしい光景が脳裡に焼きついているだけに、ニュースで見た無残な有様に、自然界の容赦ない破壊力と物質界の空しさ儚さを、しみじみと感じました。


★ 劇的な変化と変容を受け入れよう! ★



すべて形あるものは滅びます。
崩壊していく世界遺産の建物などは、「破壊されていく古い形」を表しています。
大きな変容の前には、古いものは必ず崩壊するのです。

これは、人間にも当てはまることです。
繰り返し申し上げていることですが、古い状況、古い思考パターン、人格の構造や古い条件付けのパターンなどが、今の状況になじまなくなったとき、つぎの新しいものがやってくるために壊される必要があるということです。
外側だけではなく、内側の保証がなくなってしまったとき、あるいは、これまでの世界に対する見方がふさわしくなくなってしまったとき、それは個々に体験されるものです。

外側のものであろうと内側のものであろうと、壊れていくものは、もはや時代遅れで不必要なものなのだということにはっきりと気づくことです。
ここで、外側の所有物を手放すことが必要です。
いつまでもそれにしがみついていないことです。
それを手放すほど、よりリアルで真正なものへと近づくことができるからです。


★ 世界遺産の悲劇 ★



最近は、「世界遺産」などと言って、やたら建物やその地域一帯が重宝されるようになりました。
そこへ数多の人間がわんさと押し寄せ、清らかだった聖地が、かえって汚(けが)れてしまっています。ほんとうに嘆かわしい限りです。

世界遺産」となった地域は、あるいは「世界遺産」に登録しようとやっきになっている地域は、「地域の活性化」などと言って人々をそこへ呼び寄せたがっています。その裏には、必ずお金儲けがからんでいるのです。
世界遺産」は、もはや人間の欲望のための登録になり下がっているような気がします。

熊野古道をはじめ、その近辺は、昔から参詣で有名な場所ではありましたが、それでも信仰心の篤い人たちの聖なる地として守られていたと思うのです。

昔の人たちは、現在の人たちのように「パワースポット」だとか、そこで「パワーに満たされたい」とか、物見遊山の態度で神社仏閣を訪れていたのではありませんでした。
一大決心をして、遠い所からはるばる歩いて行ったのですから、神々に対する感謝の念と真剣さがつよくあったのだと思います。

現在人はとにかく欲に駆られ、軽い気持ちでの「お願い事」ばかりです。
「お金が入りますように」をはじめ、「いい仕事にありつけますように」、「いい伴侶が見つかりますように」、最近では「アセンションできますように」とか、「みなぎるパワーをください」とか、少ないお賽銭を放り投げて祈っているのではないでしょうか。(苦笑)

神さまはわたしたち人間の先祖であるわけですから、ただただ「感謝」をするのみです。
自分の欲望をかなえるためのお参りは、しないことです。
たとえ、それらを祈っても、かなえられることはないでしょう。
高次元の存在になればなるほど、物質や名声などの欲望には無関心だからです。
もし万が一物質的な願いがかなったとしたら、それは物質を与えて益々自分を尊び、賞賛してもらいたがっている、たいそう意識の低い輩の仕業であると思ったほうが賢明です。
不純な動機で訪れたなら、その代償は払わなければなりません。

神の恩寵は、人が心から神に感謝し、神の繁栄を祈った結果として与えられるものです。
恩寵を得るために祈るのではありません。
その清らかな感謝の気持ちが神に届いた結果、愛の光が注がれるのです。
与えるものが受け取るものです。
くれぐれも目的をはき違えないことですね。


神社仏閣が「世界遺産」となると、猫も杓子も足を踏み入れ、波動が粗くなることは否めません。
汚された場所は浄化されて当然でしょう。
世界遺産登録をしたばっかりに、案の定と言った感じです。

世界遺産」であろうがなかろうが、素晴らしいものは素晴らしいのです。
しかし、いくら素晴らしいものであっても、自然の摂理が働いて、しだいに壊れていきます。
それはそれで消えていってよいのではないでしょうか。
建物(不動産)という物質に執着すればするほど、最終的には浄化が必要となり、結局崩壊してしまうのです。

また、聖地というのは、できるだけ人目につかないところにあるほうがよいのです。
聖なる山に足を踏み入れるときは、その山の神に許可を得るものです。
そして、やたらに騒いだり、汚さないようにするべきだし、何よりもその山の波動を粗くしないことです。
これ以上欲望を内包した「世界遺産」の登録はやめてほしいし、自己の欲望のために再三聖地を訪れることはやめてほしいと願う次第です。


地震や台風などで聖地が破壊されるという事象を、人々は「悪いことが起こった」というふうにとらえがちですが、そうとは限らないことをお伝えしておきましょう。
人間にとっては災難である地震も、神々にとっては喜ばしい表現である場合があるからです。
どういうことか、一例をあげてみましょう。


ひまわり


今から16年前(1995年1月17日)に「阪神淡路大震災」が起こりましたね。
淡路島北部、地下16キロの地点を震源とするマグニチュード7.3の地震が発生しました。
淡路島、神戸市、西宮市、芦屋市などで震度7の非常に激しい揺れを観測し、この地震による被害は、兵庫県内を中心に死者6434人、負傷者約4万4千人にのぼりました。
この地震の震源地である(旧)津名郡一宮町のすぐ傍に「淡路の一宮」として知られる「伊弉諾神宮(いざなぎじんぐう)」があります。
ご祭神は、日本神話の国産み・神産みに登場するイザナギ、イザナミです。

震災の後しばらくしてから「伊弉諾神宮」に赴いたことがあります。
雨模様だったのですが、境内で下手な笛を吹いたときには陽光が射してきて、気持ちの良い時間を過ごした覚えがあります。

震災のときには、鳥居が倒壊するなど大きな被害を受けましたが、じつはそこに鎮座していたイザナギ、イザナミ神が、その地震の際にアセンションして、別の星に行かれたという話を、当時ある神道家から聞いたことがあります。
地震や噴火は、いわば神々の喜びの表現であるというのです。
それに伴って亡くなった人々も、一緒に連れていかれたらしく、悲観する必要はないということでした。
悲しみと喜び。人間と神とのあいだの認識の大きな違いがわかりますね。


★ 地球の変革は地球人がするべきこと ★



台風」の話から「世界遺産」の話になり、「神々のアセンション」の話になりましたが、最後にお伝えしておきたいことがあります。

この地球を変革するのは、神ではなく、わたしたち人類です。
神というのは、人間の手助けがなければ、実のところ何もできない存在なのです。
そうでなければ、「日月神示の神」のように、わざわざ人間を通して「ああせよ、こうせよ」と神の意向を伝えたりする必要はありません。すでに、さっさと自分の好きな世界に手直ししているはずですね。
でも、未だに地上は天国にはなっていません。人間に協力してもらって初めて事が成し遂げられるのです。

これからは、「神頼み」はやめて、神がさらなる進化を遂げられるように祈ってあげることですね。
そして、地球がよりよい場所となる変革を、わたしたちの力で成し遂げましょう。
東北大震災にしても、今回の台風にしても、災難に見舞われた人は多いでしょう。
でも、それは、変化と変容のために必要なことであったと知ることです。
悲観的にとらえていては、前進ができません。
思いを制限しないことです。

前回ご紹介した山本常朝がこんなことを言っています。

不慮の災難に遭って気を落としている人に、
「お気の毒」などといえば、ますます気が滅入り、筋道を立てて考えることもできなくなってしまう。
そういうとき、あっさりと、「かえってよかった」などといってハッとさせるのだ。
それがきっかけになって、思わぬ活路が開けてくるものだ。
うつろいやすい人の世にあって、悲しみにせよ喜びにせよ、心を一カ所に固定させてはならないのである。                              (「葉隠」聞書第二)




ねんねする
         よく眠るミッチェル  撮影 光の仕事人


ハート
山本常朝さんの言葉は感慨深く、
前回も、けっこう皆さん彼の思想に賛同されたのではないでしょうか?
眠りたいときには眠れるのは、この世の最高の贅沢ですね。
あの世では眠る必要がないのですから、睡眠を楽しんでおくことです。
ニャン子のように。(笑)

サムライには「覚悟」があるけど「悟り」がないとか、学者さん方は言っておられますが、
常朝さんは「覚悟」もあるし、「悟り」もあるサムライだと、わたしは思っています。

あの世はこの世の延長です。
この世でつらいことばかりなら、あの世でもつらいことばかりです。
だから、つらいことでも悲しいことでも、深刻にとらえずに、
おおいに楽しみながら体験することです。
この世で、死んだ気になったら、なんだってできますね。
すべては楽しい体験学習なのです。



花と蝶


人生を楽しみたい人、この指と~まれ! 






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