これからの男性の生き方を考える―サムライの「覚悟」と仏教者の「悟り」

2011年09月02日 19:25


★ サムライの「覚悟」とは? ★



武士道と云うは、死ぬ事と見付けたり

この有名な言葉を残したのは、鍋島藩の武士であった山本常朝です。

過去記事「これからの男性の生き方を考える」シリーズの「サムライ・戦士の光と影」のなかで、
武士という者は、正月元旦の朝、雑煮の餅を祝う箸を手にしてから、その年の大晦日の夜に至るまで、毎日毎夜、常に〈死を心に覚悟すること〉を心がけの第一とするものである
という「武道初心集」に書かれた大道寺友山の文を紹介しましたね。
両者とも、サムライは毎朝毎夕、精神的に「死に死に」すること、「生きながら死と一枚になるよう努める」、つまり「死に切っておくこと」をススメているのです。

覚悟〉という漢字は〈〉と〈〉からできていて、どちらも〈悟り〉を意味しています。
けれども、サムライの〈覚悟〉というのは、仏教で言うところの〈悟り〉とはまるで別のものです。
では、サムライの〈覚悟〉と仏教者の〈悟り〉とのちがいとは、何でしょうか?

それは「悲壮感を伴うかどうか」ということのようです。

さとりが悲壮感を残さないのに対して、武士の覚悟が悲壮感をともなうことである。
悲壮なさとりとは言わないが、悲壮な覚悟とは言われる。死の覚悟はもっとも悲壮なものである


当時(1980年代)東京大学名誉教授(日本倫理思想史専攻)であった相良亨氏が、そのように述べておられたことを思い出します。
悲壮」とは、「悲しい中にも雄々しくりっぱなところがあること」という意味です。
つまり、サムライの覚悟には「崇高な悲壮感がある」ということなのです。


★ サムライに悲壮感があるわけ ★



では、「サムライの覚悟」には、なぜ「悲壮感」があるのでしょうか?

はっきり言ってしまえば、サムライには「死にたくない」という気持ちが残っているからなのです。
真にいつ死んでもよいと思って生きているのであれば、当然肉体や現実への執着はないはずです。
ところが、サムライは、そのような執着から完全に解放されてはいないのです。
つまり、「身命へのこだわり」がなお残されているわけですね。
それゆえに「悲壮感がある」ということなのです。

相良氏はつぎのように述べています。

思うに、のこされたこだわりはただ自分の身命に限られたものではあるまい。
たとえば、妻子とのきずなもこだわりとしてのこされていよう。
その妻子との絶対的な別離が悲哀をもたらすであろう。
しかし、死を覚悟した者は、いずれにしても、もはや、単なる現実への執着の次元にとどまるものではない。そこには執着をこえたものがある。
覚悟には、こだわりをのこしつつも、執着をこえたところがある。
したがって悲哀をともなうといっても、それは悲哀にくずれおれるものではなく、悲哀にたえ、悲哀をふまえて立つ悲壮さがある。
                                 相良亨著「日本人の死生観」より



上記は、わたしにはもうひとつピンとこない文章に思えました。
こだわる」という言葉には、「ちょっとしたことを必要以上に気にする。気持ちがとらわれる」、「 つかえたりひっかかったりする」、「 難癖をつける。けちをつける」という意味がありますが、どう考えても「こだわり」は「執着」の範疇に入るだろうと思うからです。
覚悟には、こだわりをのこしつつも、執着をこえたところにある」というのも、わかりづらいです。(笑)

わたしがこれを読んでまず思ったのは、もし「妻子との別離が悲哀をもたらす」ということであるなら、サムライは初めから妻を持つべきではないということです。
執着を残しそうなものは、最初から持たないほうがよいのです。
真の仏教者は、妻子や家を持ちませんね。りっぱなお寺を持ったり、妻子をもっている僧というのは、真の僧と言えるのかどうか、はなはだ疑問です。

サムライも僧も、本来は孤独であるのがベストです。
そうでないと、僧は心おきなく修行ができないし、サムライは心おきなく戦場へ臨めません。
しかし、サムライの誰もが妻を持たずにいると、サムライの子孫は絶えてしまいます。
つまり、サムライにはつぎのサムライを育てる必要があり、家の存続のためには、いやでも妻子を持たなければならない理由があったのです。

そんなふうに家庭を持たねばならないサムライが、常に死を覚悟して生きること自体、最初から無理があるわけです。
妻子を持つということは、けっしてこの世での生を否定しているわけではないからです。
妻子を持つ夫の命は、もはや夫だけのものではなくなっています。夫が死ねば、たちまち妻子の生活(生命)に大きな影響が及ぼされるからです。
ほんとうは生きたいのに、いざというときは死ななければならないのですから、悲壮感があって当然です。

こだわり、執着があり、この世に十分未練があるにもかかわらず、突然ふりかかってくる死に対しては、うろたえることなく、それと立ち向かわなければならないのですから、サムライは大変です。
その心の用意を〈覚悟〉と言っているわけですね。


★ 悟りに至れないサムライたち ★



武士道と云うは、死ぬ事と見付けたり」と、「死ぬこと」を武士のあるべき姿だと心に強く心に刻み込み、克己し、憤然たる意志を持ちつづけていなければ、サムライはとても平常心ではいられないでしょう。
そんな強い信念がベースにあって、大義のために戦うサムライたちは、神のために正義の御旗をふりかざして戦う信仰者たちの心情と何ら変わるところはないと思います。
死ぬことよりも、つい生きることのほうを選択してしまう。(だれもが、どちらかというと、やはり生きたいのだということ)
そんな人間の弱さに、必死で立ち向かうサムライたちの真の目標は、敵に勝つことではなく、己に勝つことではなかったかと思います。

そういう点で、サムライの生きざまは、それなりに評価できます。
しかし、もう一歩と言うところで悟りには至らず、やはり理想の男性像としては、物足りなさを感じてしまうのです。(笑)
やはり、人間には本物の悟りが必要だからです。


じつは、こんな話があるのです。
相良氏の著著には、「戦国の武士は仏教に関心をもつべきであると教えられていた」それと同時に、「あまり仏教に深入りしてはならないとも教えられていた」ということが記された箇所があります。
『碧巌録』は読むべきであるけれども、七巻までにとどめ、十巻全部読んではならないと教えられていたというのです。(「甲陽軍艦」で、武田信玄がそう言ったらしい)
なぜなら、『碧巌録』を十巻全て読むと、出家したくなり、武士を廃業したくなるからだというのです。

相良氏はつぎのように述べています。

武士の覚悟は、いわば、『碧巌録』十巻を読了してうる仏教者のさとりではなく、さとりにつながるものをもちつつも、なおさとりとはことなり、七巻にしてえられるもの、あくまでも現実の中に生きる者としての心のもち方であった。
武士の精神が仏教で養われつつ、武士の精神自体は仏教とはことなるものであるというこの質の転換は、覚悟の問題をはなれても、たとえば芸道などの場合においても、今後追究さるべき日本思想史上の基本問題の一つであるが、覚悟は、まさに端的にこの関係を示すものである。


つまり、最終段階で、サムライは「悟り」には到達しないのだということになります。
宙ぶらりんのままで、死んでいくということです。
これこそ、真の悲壮感を抱かずにはいられませんね。(笑)


★ 仏教者の「悟り」とは? ★



正覚者は、現世の執着から解き放たれたのですから、わざわざ覚悟などしなくても「」は自然に受け容れられます。
特に人生を「」だと感じていたゴータマ・ブッダは、この世の「」から開放されたくてしかたがなかったのですから、彼にとって「」はまさに「涅槃(ニルヴァーナ)」、祝福すべき理想の境地だったわけです。

ブッダに習う仏教者にとっての「この世の生」や、「世間とのさまざまな関わり」は、欲望ばかりで、少しも善なるものではないわけです。
ですから、サムライのように「覚悟」とか「悲壮感」はないのです。
サムライとは全く次元がちがいます。

近代の禅の高僧と言われた人で、死の間際に弟子たちに囲まれて、「何か最後のお言葉を述べてください」と言われ、「死にとうない!」と叫んだという逸話を読んだことがあります。
こういう人は、サムライの域をも超えていないということになるでしょうか?
この言葉を聞いた弟子たちは、実際のところどう感じたのでしょうか?
この師匠は「悟っていないな」と感じたのか、逆に「まさに悟った人だ」と受け取ったのか…。それは、謎です。(笑)



名も知らぬ花
         名も知らぬ花  撮影 光の仕事人


★つぎにOSHOのことばをプレゼントします。
悟り」すなわち、「光明」とは何かを、全身で感じてください。


光明とは、
自らの存在を認識し
自らの存在の永遠性を認識し
これまでも死は存在せず、
これからも二度と死は存在しない―
つまり死は虚構だということを認識することだ


あなたの存在をまったくあからさまに
完璧なまでの美しさのなかに見ること―
その荘厳さ
その沈黙
その至福
その歓喜
それらはすべて<光明>ということばのなかに含まれている

ひとたび、この豊潤さを体験すれば
マインドは、あなたに対する拘束力を失いはじめる
あなたが何か質的に途方もなく高いもの、満足できるもの―
計り知れない満足を見いだしたから
マインドは自分の役割が終わったと感じる

マインドはあなたに惨めさ、不安、心配しか与えなかった
だから醜く見える
マインドがあなたに貢献したものはいったい何だろう?
その拘束力はゆるんでゆく
マインドは影のなかに身を潜め、次第に姿を消してゆく

あなたは生きつづける
だが今やその生は、瞬間から瞬間へと生きることだ
そして無心というその小さな隙間で
あなたが副産物として得たものが成長してゆく
その成長に終わりはない

光明に始まりはあるが終わりはない
 
              
                  by OSHO




ハート

アセンションすることを願い、
どうしたらアセンションできるのかと、
必死でいろんなブログを漁ってきた人たちは、
最近は、もしかしたら、お金(物質)を欲しがるかわりに、
瞑想する時間を欲しがるようになったかもしれません。

宗教は教えてきました。
「この世のものを欲しがってはならない。それはつかの間のものだから。
あの世のものを願いなさい。それは永遠だから…」と。

しかし、これでは何も変わってはいないのです。
むしろ、貪欲さはさらに増しています。(笑)
これが物質次元の「放棄」と言えるでしょうか?
「次元上昇したい」という強欲が、あの世に移されようとしているだけのことです。
それを「精神の物質主義」といいます。

アセンションするという目的のために自己を浄化するのではありません。
日夜浄化していく中で、結果としてアセンションする自分になっていくだけです。
目的はあくまでも、自己の浄化です。

アセンションを求めていること自体、
その欲望が、
アセンションできない自分をつくっていることに
気づきましょう。





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