これからの男性の生き方を考える―武士道における〈礼〉と〈誠〉

2011年08月28日 00:00


最初に、これまでブログの左側に設置していた「アンケートにご協力ください」が、昨日FC2ブログから何の予告もなしに、突然消えていました。
「どういうことか?!」
全くわかりませんが、とにかく元にもどしました。
こういう不本意なことが、この世の中には多く起こるのだということを知りました。
「アンケート」が消えて、「なぜ?」という疑問を持たれた方も少なからずいらっしゃったようなので、とりあえずお伝えしておきます。
「気づきのコース」以来、アンケートがなかなか送信できないという方々が今も尚おられますが、確認ボタンをクリックして「Loading(読み込み中) 」になったら、マウス操作ですぐに上方へと戻せば、記入した内容が確認できるはずです。それでOKなら、送信してください。


★ 武士道における〈礼〉と〈誠〉 ★



前回は「武士道における〈仁〉」について書きました。
今回は〈〉と〈〉について大切だと感じたことを、ほんの少しですが、触れておきたいと思います。

武士道には〈礼義〉が欠かせないものとされていました。

それについて新渡戸氏は、「礼の最高の形態は、ほとんど愛に接近する」、
礼儀は仁愛と謙遜の動機より発し、他人の感じに対するやさしき感情によって動くものであるから、常に同情の優美な表現である」と述べておられます。

つまり、〈〉とは、「他者の気持ちに対する思いやりを表現すること」であり、「最高の姿として愛に近づく」ものであるということです。 


つぎに〈〉についてですが、ここでは「武士の一言」について触れられています。

「偽りの証しを立つることなかれとの積極的なる戒めが存在せざるため、虚言は罪として審かれず、単に弱さとして排斥せられた。それは弱さとして、甚だ不名誉となされた」
とあります。
ウソをついたり、ごまかしたりはではなく、むしろ臆病だとされたというところが面白いですね。
武士は一度約束したことを違(たが)えれば、死をもって罪を償うということがなされていました。
八百万の神にかけて誓うということもおこなわれたようですが、真のサムライは〈〉に対して非常に高い敬意を払っており、誓いをすること自体が自分の名誉を傷つけると考えていたため、やたらに誓うということはしなかったようです。 


       白い朝顔
              純白の朝顔  撮影 光の仕事人



★ 〈礼〉か〈誠〉か ★



あるアメリカの著述家が「もし、普通の日本人に対し虚言を言うのと礼を失するのといずれを取るかと質問すれば、躊躇なく『虚言』と答えるであろう」と述べたとして、新渡戸氏はつぎのように記しています。

日本人に、あるいはいくらか教養あるアメリカ人にでも、彼が君を好まないかどうか、もしくは彼は胃病であるかどうかを質問してみよ。長く躊躇することなくして、「私は君を甚だ好む」とか、「私は大丈夫です、有難う」とか、虚言の答えをするであろう。
これに反し単に礼儀のために真実を犠牲にすることは、「虚礼」であり、「甘言(かんげん)人を欺くもの」であるとなされた。



つまり、日本人は、「ウソをつくこと」と「無作法であること」と、どちらを選ぶかと訊(き)かれたら、躊躇なく「ウソをつくこと」と答えるだろうと、そのアメリカの著述家は言っているわけですね。(あくまでもその著述家の見解であり、それが真実であるかどうかは別です)


これに対して新渡戸氏は、日本人やいくらか教養あるアメリカ人なら、たとえ相手のことが嫌いであっても、面と向かって「私はあなたのことが嫌いです」とは言わず、「好きですよ」と言うであろうし、「病気なんじゃないか?」と訊かれて、たとえ病気であっても「大丈夫、ありがとう」と答えるであろうということを言っているのです。

しかし、礼儀を欠かないために、つまり相手への礼儀を重んじるがために、真実を言わないのは、結局うわべだけの礼儀であって、「人の気に入るような言葉でだましている」と、みなされてしまったというわけですね。

日本人がそんなふうに「虚言」しか言えないというのは、「弱いから」、「臆病だから」ということになります。
特に武士の場合は、「虚言」は「不名誉なこと」ではあるけれども、「罪ではない」ということですから、やはり「礼節」のほうを断然重んじられたということでしょう。歯に衣を着せるのが、美徳だと考えられていたんですね。

新渡戸氏はこの「嘘」という言葉に対して、重みを置きすぎていると、このアメリカの著述家に対して批判的な見方を述べていましたが…。
さて、あなたはどのように思われたでしょうか?


★あなたは相手に失礼のないように、相手を不快にしないために、真実を語らず、礼儀のほうを重んじる人でしょうか?
それとも、相手に真実を語らないことのほうがむしろ失礼だと考えて、ほんとうのことを語る人でしょうか?
〉か〈〉か…。
こうして考えてみると、どちらを選ぶかは、けっこう難しいように思われるかもしれませんね。


★ここで、宇宙人的発想をお教えしておきましょう。(笑)

まずどちらを選ぼうと、相手(他人)の判断は気にしないことです。
どう受け取るかは相手しだいで、相手側の問題です。
だから、相手の反応を恐れないこと。結果を気にしないこと。
そして、とにかく、いつも自分自身でいること。
自分が後々心地よく、ポティティブだと思えるほうを選べばよいのです。

たとえば、「病気なんじゃないか?」と訊かれて、「私は確かに病気だけれど、今は大丈夫ですよ。ありがとう」と言うこともできますね。
また、相手が「自分のこと、好きですか? 嫌いですか?」と訊いてきたら、
感じたままを言えばよいということです。
嫌いなら、「嫌いだ」とはっきり言えばよいのです。
訊かれたから、正直に答えたのです。
ですから、それで相手が不快感を抱いたとしても、「だからどうなの?」ということですね。(笑)

次元が上昇するにつれて、感じていること、考えていることは、お互いに通じ合うようになります。
ウソはお見通しの世界となるのです。
ですから、本音を言うことです。
ただし、いつも愛のある状態で、自分の真実に対して責任をもって、本音を言うことですね。

★参考過去記事 カテゴリ「意識の変容」があなたを幸福へと導く 
「自分自身でいること」のお話   
本音で話すことの大切さ     
真の愛は、自分の真の姿を見せること



どちらか一方を選びたくない人は、〈礼〉と〈誠〉を併せ持った表現を、自分なりに考えてみられたらよいでしょう。
その時々の状況というものが問題なのではありません。
要は自分自身のあり方が問題なだけです。それだけのことなのです。




ききょう
      桔梗   撮影 光の仕事人 



★下記は、OSHOのことばです。


人々が真実について語り
それでも偽りの世界にとどまる理由は明らかだ
彼らのハートには確かに真実への願望がある
人は自分の姿を目の前にして
自分が真実でないことを恥じている
だから真実について語る
だが、それはただの「おはなし」―だ
真実に基づいて生きることはあまりにも危険だ
そのような危険を冒すことはできない

自由についても同じことが言える
話のうえでは、誰もが自由を望んでいる
だが実際に自由な人はひとりもいない
そして誰ひとり真に自由になることを望んでいる人もいない
自由は責任をもたらすからだ
自由はそれだけではやって来ない

また、依存することはたやすい
責任はあなたにではなく
あなたが依存している人にあるからだ

そこで、人々は分裂症的な生き方を作りだした。
真実について語り、自由について語る
そして偽りのなかで生き、隷属状態に甘んじる―
あらゆる種類の隷属に―
ひとつひとつの隷属が何らかの責任を回避させるからだ

真に自由を求める者は
途方もない責任を受け容れなければならない
自らの責任をほかの誰にも押しつけることもできない
何をするにしても、どうなろうとも自分の責任だ

                          by OSHO  



ハート
〈礼〉も〈誠〉も、人として大切な要素。
どちらを選ぶかは、自分しだい。

自分の望まないことをはっきりと知り、望むことを選び、実行していく。
これが、21世紀の「男性の生きる道」であり、
そして、また「女性の生きる道」なのではないでしょうか?






最新記事