マザー・テレサの生涯―慈悲とは何か?

2011年03月08日 14:50

マザー・テレサが心臓発作を起こしたのは1983年のことでした。
1991年にはペースメーカーをつけたと記録されています。
1997年には転倒して首の骨にひびが入り、同年の夏にはマラリアにかかっています。
心臓の状態は悪化し、彼女はその年の9月に87歳でこの世を去りました。

★心臓のトラブルは、テレサの心の状態をそのまま映し出していたのだと感じます。
リズ・ブルボー著「自分を愛して」に書かれた「心臓のトラブル」に関する内容は、まさにそれを明確に伝えていると思いました。
みなさんの参考にもなるかと考えますので、彼女の文面をつぎに紹介しておきましょう。


★ 心臓のトラブルが伝えていること ★



★感情的なレベル★
自分の中心で生きている人というのは、自分のハートで物事を決める人です。
つまり、調和、喜び、愛の中で生きている人のことなのです。
一方、心臓にトラブルのある人は、それとはまったく反対の生き方をしています。
つまり、限界を超えて無理な努力をし、肉体を酷使しているのです。
そんな時、心臓は次のようなメッセージを送ってきています。
「お願いだから、自分を愛して!」
心臓にトラブルを抱えている人は、自分自身のニーズを無視して、他の人たちから愛されるためにすごく無理をしているのです。
自分自身を愛していないので、何かをすることによって、他の人たちから愛されようとするわけです。

★精神的なレベル★
心臓のトラブルを抱えている人は、早急に、物事の見方を変える必要があります。
愛は他人からしかやって来ない、と考えるのではなく、自分で自分に愛を与えるようにする必要があるのです。
愛は常にあなたの中に存在しています。
愛を外部に探す必要などないのです。
他人に依存している人は、いつまでも、愛を他人からもらうという行為をくり返さなければなりません。
でも、あなたが自分を愛し、自分を大切にするならば、愛は常に自分の中心にあるということがわかるでしょう。
愛を他人からもらう必要などまったくないのです。



上記の内容をふまえて、1962年マザー・テレサが52歳のときの、ピカシー神父への告白を読んでみてください。
彼女が外側で表現している「光の部分」と内側で表現している「闇の部分」を感じてみてほしいと思います。

「神はこのような状態にある私から、いったい何を得ることができるのでしょうか。
私には信仰もなく、愛もないのです。
先日来、私の心がどれほど暗く落ち込んでいたか、語ることさえできません」

「闇はあまりにも暗く、痛みはあまりにも辛いのです。
人々は、私の信仰を見て、神のもとへ引き寄せられると言います。
これは人々を偽っていることにならないでしょうか? 
私は、本当のことを言いたいのです。“私には信仰はありません”と伝えたいのです。
しかし、その言葉を口にすることはできません」



1979年テレサは“ノーベル賞”受賞のスピーチの中で、次のような言葉を述べています。

「私は、いただいたノーベル平和賞の賞金で、家がない多くの人々のためにホームをつくろうと思います。なぜなら“愛”は家庭から始まると信じているからです。
もし貧しい人々のために家をつくることができたなら、もっともっと愛が広がっていくと思います。
そして愛を理解することによって私たちは平和をもたらし、“貧しい人々”――家庭の中の、国家の中の、世界の中の貧しい人々に福音をもたらすことができるでしょう。
(中略)
私たちの心に、イエスを愛する喜びを持ち続けましょう。
出会うすべての人々に喜びを分け与えましょう。喜びを放つものは本物です。
私たちはキリストと共にいないかぎり、幸せにはなれません。
キリストは私たちの心の中にいます。
キリストは私たちが出会う貧しい人々の中にいます。
(中略)
私たちにはイエスがいます。イエスは私たちを愛しています。
もし私たちが、神(イエス)が私たちを愛しているということを忘れさえしなければ、イエスが私たちを愛するように、私たちもお互いに愛し合うことができるのです」



しかし、1979年ノーベル賞受賞の3ヶ月前(テレサ69歳のとき)彼女はピート神父へつぎのような告白をしていたのです。

「イエスは、あなた(ピート神父)を非常に愛しておられます。(中略)しかし私はといえば、沈黙と虚しさがあまりにもひどく、見ようとしても何も見えず、聞こうとしても何も聞こえません。祈りで舌は動きますが、何も話せません……。(中略)どうか私のために祈っていただきたいのです。」


★このカテゴリ「マザー・テレサを語る」についての記事は、今回で4回目となりますが、その真実を知って驚かれた人もいらっしゃるようです。

人は外側では栄光に満ちているように見えても、内側では暗く悶々としている場合もあるのだということ。
何事も外側だけで判断してはいけないということ。
表面だけをとらえていては、全体を知ったことにはならないということ。
だから、見かけだけで人や事象を判断してはいけないのだということを、知っていただきたかったからです。
そして、自分の狭いものの見方に気づき、「思いの制限をひらく」ことの重要性に気づいてほしかったからにほかなりません。


★「奉仕」や「ボランティア活動」をするとき、相手が喜んでくれるのを感じると、自分もうれしくなるから、ただ自分がそれをすることが大好きで、楽しいからこそするのだということであれば、何の問題もありません。それはすばらしい働きです。
でも、だれかさん(神やイエス?)から愛をもらうため、天国(死後、高い階層)に行くため、あるいは自分が愛されるべき人間であるということを証明するために慈善行為をするのだとしたら、それは「~のため」という条件つきの愛(欲)?になってしまいます。

「こんなにあなたのために尽くしているのに、あなたがそうしろと言ったから奉仕をしているのに、イエスよ、あなたはちっとも私のことを愛してくれない」と落ち込むのは、何かちがうんじゃないかということです。
そんな恨みつらみを毎日のように思うくらいなら、インドから脱出して、修道女もやめて、結婚をして家庭を築けばよかったのではないかと思います。「もっとも大切なのは家族です」「“愛”は家庭から始まると信じているからです」と言っていたテレサですから、きっとよい奥さん、母親になったことでしょう。

ほんとうの愛とは、内側からひとりでに湧き上がってくる喜びであり、その分かち合いです。ただそれを分かち合う喜び、それ以外には、どのような理由も動機もいらないはずです。
《軌道数9》は、「慈悲」を表しますが、自分に対しては慈しみを与えない人がけっこういるのです。
テレサは自分という神を慈しむことをすっかり忘れていたのです。


★ 慈悲とは何か? ★



慈悲というのは、「あわれみ、いつくしむこと」と一般的には解釈されています。
慈は積極的に利益と安楽を増すこと」で、「悲は不利益と苦を除去すること」と定義している学者さん方もおられます。

★この「慈悲」という仏教用語はとても解釈が難しいのです。

一般的には「慈しむ」ということをキリスト教的に「愛する」というふうにとらえがちですが、仏教では「愛」は煩悩のひとつとして見ているので、「慈悲」を「愛」の同意語だとしてしまうと、語弊を招いてしまう可能性があります。

慈悲の主体となる者」は、「衆生=生きとし生けるもの」のなかの一人ではあるのですが、その者は「すでに苦を越えた境地にいる者」、「苦悩から自由になった者」、すなわち「ブッダ(悟りを得た人 )」であるということです。

その苦を越えた一人のブッダが、未だ苦の中で呻吟している「生きとし生けるもの」を、あわれみ悲しみ、苦から救いだして、楽を与えようとするのが、「慈悲の思想」だということです。
ですから、基本的に苦を越えていない人が、苦しんでいる人を救い出すことはできないということになります。

「哀れむ」というなかには、「同情する」という意味や「自分は可哀そうな人たちにいいことをしているのだと悦に入る」という上から目線の少々傲慢なニュアンスが含まれている場合もあります。
キリスト教の場合の「あわれむ」は、「共に苦しむ」、「いっしょに受難を受ける」という意味合いが強いように思います。

★慈悲(コンパッション)それ自体は、とてもクールなエネルギーであるとわたしは感じています。
そこにたどり着くまでには、情熱、激しい感情(パッション)という熱いもののなかを通り抜けていかなければなりません。
そういう情熱や感情というもののなかを通り抜けてはじめて、慈悲に至るわけですね。
そう簡単に「慈悲」というものを持てるわけではないということです。


わたしが数秘術で言うところの《軌道数9》の人は、この「慈悲」というものの本質を体験し、学んでいくコースを選ばれたということです。
ぜひ悟りをひらいて、ブッダとなって「大いなる慈悲」を衆生に与えてほしいですね。
その前に、まず自分を慈しむことから始めてください。


人生の中で、自己への愛よりも偉大な愛はない。
それ以上に偉大な愛はないのである。
なぜなら、自己を抱き容れてはじめて、自由というものが存在するからだ。
そして、喜びが生まれてくるのはその自由からなのだ。

そして、喜びが生まれてはじめて、神を見ること、知ること、抱き容れることが可能となる。
最も偉大で深く、意味のある愛とは、体という壁の中に宿りながら、動き、思いめぐらし、創造し、許し、そしてただ在るこの素晴らしい生き物である純粋で無垢な自己への愛だ。
そして、あなたが自分であるものを愛するとき、
(つまり、どんな自分であろうとそれを愛するとき)、
あなたもこの素晴らしい本質を知ることだろう。

(昔、アトランティスに生きて、アセンションしたというレムリア人のマスターのことばより)





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