マザー・テレサの生涯―彼女の奉仕とは?

2011年03月06日 17:15


★ 奉仕とは何だろう? ★



奉仕」ということばを調べると、「報酬を求めず、また他の見返りを要求するでもなく、無私の労働を行うことをいう」とあります。

その根拠となる土台には、宗教的な信念や、宗教的な意味合いの神奉仕のかたちとして、神ではないもののその代わりとしての、困難な場面におかれている隣人に手を差し伸べ、できる限りの援助を与えるというケースがある」とし、その場合の隣人というのは、「同じ信仰、たとえばキリスト教の信仰をもつ信徒仲間に限られることもあるし、また十字架を背負わされてゴルゴダの丘に向かう途中のイエスの額の汗をぬぐったナザレ人のように、同じ信仰を持たない人をも含めていわれることもある」とあります。

英語では serviceですが、一般的な「勤め、業務」の他に、狭義で「神奉仕」の意味を持っており、隣人や困窮者への援助、奉仕がそのまま神奉仕につながるという意味合いで用いられるということです。(ウィキペディア参照)


★ 「奉仕」と「ボランティア」はどう違うのか? ★



似たようなことを表す言葉として「ボランティア」がありますね。

★「ボランティア」は、自発的な社会貢献(自分の意思でおこなう慈善行為)であり、何ものにも拘束されない自由な活動であって、無償であること。この「自発的に限る」のが、ボランティアの特徴だといわれています。

それに対して、「奉仕」は、ボランティア同様に他人や社会のために尽くすことではありますが、ボランティアのような「自発性」を問わないようです。
つまり、自分の意思でおこなう場合もあるけれども、神や教会などの要請によってやらされる慈善行為をも内包しているということなのです。

前回からお話ししているマザー・テレサというひとりの修道女が長年つづけてきた慈善行為は、あくまでもイエスからの要請を受けてやっていた行為なので、完全に「奉仕」ということになるでしょう。
このマザー・テレサの「奉仕」についてですが、そこにいくつかの問題点を感じるのです。

★第一に、「神の要請」だからと言って、慈善行為を押しつけていた可能性が大いにあったのではないかということです。
たとえば、今にも死にそうな人が道端に倒れている場合、その人の意志を確認もしないうちから、勝手に病院やテレサが作った「死を待つ人の家」に運んで手当をするといったことです。
その人は、このまま静かに死なせてほしいと思っていたかもしれません。現に「大きなお世話だ」と、非難していたインド人は数多くいたと思われます。

なぜなら、インド人には「カルマの思想」、つまり「因果応報の思想」が強く根づいているからです。
道端に倒れている人たちというのは、その人たちそれぞれのカルマによる結果であり、前世からのおこないの報いでもあるのだから、然るべきであるという考え方ですね。
これに対する興味深い話があるので、参考として記しておきたいと思います。


★ カルマの法則の観点から考える ★



これは、現在、国際的な直観医療の第一人者として活動されているキャロライン・メイスという神学博士が書いておられた内容の概要です。
彼女がインドのサティア・サイババのアシュラムを尋ねたとき、長年そこで暮らしているある男性からつぎのような話を聞いたそうです。

手足の不自由な子どもたちがサイババのところに連れてこられたとき、サイババはその子たちを癒さず、その男性が見たところ、その子たちよりも優先されるべきとは思えない人たちを癒しているのを見て、「なぜなのか?」と疑問を抱き、尋ねたのだそうです。
すると、サイババはその男性に「あなたには、子どもたちのカルマが見えますか?」と聞かれたのです。

男性が「見えない」と言うと、サイババはこう言ったそうです。
「私には見えます。あなたには純真に見えているあの手足の不自由な男の子は、かつて、罪なき人びとに残忍な刑を科して楽しんでいる裁判官でした。今、母親となっているあの女性は、その残忍な刑に手を貸していたのです。それでもまだ、あなたはあの子がかわいそうだと思いますか」

男性は言いました。「いいえ。あの子は、自分のしたことの報いを受けて当然です」と。
「あなたの心は、まだ人びとのカルマが見えないので、人びとに深い同情を寄せるのです」
サイババはそう言ったということです。


★ カルマを信じるインド人に対する奉仕 ★



★「カルマの法則」には、「公平性」があり、「バランス」があります。
なぜ、生まれたときに、人はこうも違うのか?」という答えがここにあります。
たとえ、同じ両親から生まれた兄弟姉妹であっても、生まれつきの不平等は生じています。
しかし、それは表面的な不平等であって、内側では過去生でのおこないのバランスをとるために今生で生じていることだと理解すれば、何の不思議もありませんね。


貧困や病気や苦痛を、とても否定的にとらえてしまって、「あー、可哀そうに! 何とかしてあげられないものか。神はどうして、この人たちがこのように苦しむことをお許しなっているのか? この世に神も仏もいないんじゃないか!」と嘆くのは、無知の骨頂だということです。

それは、なるべくしてなっているわけで、神は「それはわたしのせいではない。苦しむのは彼らが望んでそうしているのだから、わたしの知ったことではない」とおっしゃるかもしれません。
仏なら尚更「因果応報、自業自得。そんなの、ほっとけ、ほっとけ」と言われるのではないでしょうか?
神がそれを許しているということは、神がそういう状態を選んでいるということでもあるのです。

もし、あなたが毎回地上に生まれるたびに、王様やお姫様の役ばかり演じていたとしたら、どうでしょうか?
貧しい人たちの気持ちは理解できにくいですよね。
やっぱり自ら貧しい人になって、飢えで死にそうになるという体験をしなければ、本当の苦しみはわからないのです。人を殺した人は、自ら殺されてみなければ、わからないということです。

ですから、王様になることも必要だし、聖人になることも必要だし、貧しい人や悪人になることも必要だということです。ポジティブもネガティブも 光に部分も闇の部分も両方体験してみなければ、全体はわからないのですから。

だから、子どもがだれかに殺されたからと言って、親が大騒ぎをしたり、殺した相手を憎んだり、恨んだりするのではなく、その子は殺される体験をする必要があったのだと、そういう役割を今生では演じたのだと考え直してみることもできますよということです。

★すべては自分自身の選択によって起こっていると考えるのであれば、「貧困も善し、病気も善し、苦しんで死ぬのもまた善し」と肯定的に見ていけばよいということになります。 
何もネガティブにばかり考える必要はないということですね。
そこに学びと体験の重要性が隠されているわけですから。

どんな状況にいようとも、人生のすべては贈り物であり、すべてが完璧なのだということを理解できるかどうかが、カギとなるでしょう。 
あるいは、すべては幻想だと知った上で、自分の幻想を自由にコントロールしていくこともできます。



そうすると、道端で倒れている人たちを「死を待つ家」に無理やり運んで、ただ看取る(薬も使わず、効果的な治療というものはほとんどしていなかったのが実状)という行為をしつづけてきたテレサの「奉仕」というものは、何だったのかということになりますね。

「わたしは貧しい人のなかのイエスを愛し、イエスのなかで貧しい人を愛します」と言っていたテレサ。
「あくまでも、貧しい人のなかのイエスを救うのだ」と言っていたテレサ。
病気や貧困のうちに死に瀕する人たちに対して、「われ渇く」と言ったイエスの渇きを癒すために、その道具として身を捧げたテレサ。

そこには、イエスばかりがあまりにも強調されて存在していて、インドの人たちの存在が感じられないのです。(少なくともわたしには感じられないのです)彼らもイエスと同じ「神の子」であるのに。

実際のところ、本物のイエスは「私だけが神の子なのではない。全ての人が神の子なのだ」と言っています。
また、イエスは自分自身の最終イニシエーション(内なる錬金術)を通過するために十字架上の死を遂げたのであって、これは宗教とは何の関わりもないことでした。(マグダラのマリアも、「マグダラの書」のなかでそのことを語っています)

ですから、「十字架上のイエスの渇きを癒すために貧しい人に全身全霊を捧げる」というのは、ちょっと考え違いなのではないかな? ということです。

★結局のところ、その慈善行為はインド人には受け入れられ難いものだったというのは、否定できません。
それなら、テレサの奉仕はイエスを愛するあまりの自己犠牲的行為にすぎなかったということになるでしょうか?
それが、のちに彼女の心臓のトラブルとなって表れたわけです。

次回はマザー・テレサの「心臓のトラブルが伝えていたこと」について、お話ししたいと思います。




最新記事