数秘で見るマザー・テレサの生涯 

2011年03月01日 13:50


あなたは*「マザー・テレサ」と呼ばれて、世界中に名を知らしめたひとりの修道女のことをご存じのことと思います。
1997年9月5日に亡くなりましたが、昨年にはマザー・テレサの生誕100年際も行われたようです。

(*マザー・テレサは1910年8月26日、アルバニアに生まれ、1997年9月5日に没するまで、カトリック修道女として、「神の愛の宣教者会(1950年設立)」を通じ、貧しい人、病める人、命の灯が消えかけている人に献身することに生涯を捧げた。1979年にはノーベル平和賞を、1980年にはインド最高の国民栄誉賞にあたるバーラット・ラトナを受賞。また没後の2003年10月19日、ローマ法王庁による列福と「福者カルカッタのテレサ」という称号が与えられている)



★ 手紙からわかったマザー・テレサの心の闇 ★



さて、マザー・テレサの生前の*書簡、すなわち、彼女が懺悔(ざんげ)聴聞司祭たちに送った手紙の内容が2007年に本として出版され、彼女の「心の闇」が明らかになりました。
そのために、彼女を批判する人たちが続出しましたね。(もちろん、彼女が生きているときにも、批判者は多くいたであろうと思われますが)書簡が発表された後は、彼女を信奉していたシスターやクリスチャンたち、また一般の人たちのショックはあまりにも大きく、世界中に大きな反響を巻き起こしたのです。

*書簡について……「神の愛の宣教者会」の司祭であったブライアン・コロディエチェク神父によって、テレサの書簡が一冊の本として出版された。
テレサがカトリックの神父たちとの間で交わした40通以上もの手紙には、生前は世間に一切知られることのなかった彼女の内面が赤裸々に綴られていた。
*2007年・DOUBLEDAY RELIGION発行 “Come Be My Light”  日本語版は「マザー・テレサ書簡集 平和をもたらすために」 片柳弘史訳 ドン・ボスコ社 絶版



★では、なぜ世界中に大きな衝撃と反響が起こったのでしょうか?

それは、手紙に綴られた彼女の心の内面と、常日頃人々に見せていた外側の彼女の言動とが、あまりにもかけ離れていたからです。
人々が、彼女を理想的なキリスト教信仰者・揺るぎない不動の信仰者と思い込んでいたからにほかなりません。
マザー・テレサが世の中(外側の世界)で見せていた姿は、そう思い込ませるのに十分だったのでしょう。
次のようなマザー・テレサの手紙があります。

「私の心の中に恐ろしい闇があるために、まるですべてが死んでしまったかのようです。私がこの仕事を始めるようになって間もないときから、このような状態がずっと続いています。」
(1953年 テレサ43歳のとき ペリエール大司教への告白)

「私の魂の中には、あまりにも多くの矛盾があります。神への深い思慕の情――神との触れ合いを渇望するその思いが、繰り返し私に苦しみを与えるのです。私は神から求められてはいません。神から拒絶され、虚しく、信仰もなく、愛もなく、熱意もありません。私の魂には何ひとつ魅力あるものがありません。天国は何の意味もありません。それは私には空虚な場所のようにしか感じられません。」
(1957年 テレサ47歳のとき ペリエール大司教への告白)

「主よ、あなたが見捨てなければならない私は、いったい誰なのでしょうか? あなたの愛する子供は今、最も嫌われ者になっています。あなたから求められず、愛されず、私はあなたから捨てられてしまいました。私はあなたを呼び求め、すがりつきますが、あなたは応えてくれません。闇はあまりにも暗く、私は孤独です。求められず、見捨てられて、私は独りぼっちです。愛を求める心の寂しさに耐えられません。
(1959年 テレサ49歳のとき ピカシー神父への告白)



★テレサは、「私がこの仕事(インド貧民街での奉仕の仕事)を始めるようになって間もないときから、このような状態がずっと続いています」と書いていますが、この「恐ろしい闇」は彼女がノーベル平和賞を貰った時も、そののちも、彼女が息を引き取る前までつづき、結局テレサはその闇を克服できないままで亡くなってしまったのです。
神の存在に対する確信が得られず、「イエスが自分から去ってしまった、もはやイエスに愛されていない」と感じ、孤独に悩みつづけたテレサ。どうしてこのような結果となったかを、わたしなりに考えてみました。


★ 軌道数9を生きたマザー・テレサ ★



1910年8月26日生まれのテレサは、数秘では《軌道数9》の人です。

9というエネルギーは主に「慈悲」や「人類愛」を表しますが、このエネルギーは基本的にはすべてのエネルギーを含んでいるので、現実的には非常に難しい数字だとされています。
9の学びは「信頼すること」と「手放す」ことにあります。

テレサ自身も、これらを学ぶために9というエネルギーのもとに生まれてきたはずです。
でも、結果的には「神を信頼すること」と「神を手放す」ことができず、その狭間で悶々と悩みつづけて生涯を終えたという感じで、結局そのエネルギーを完璧に学び、体験し、卒業するところまではいかなかったと思われます。

また、テレサの感情のなかには、学校の先生がいて、「このようにわたしは感じるべきだ」とか、「あなたはこうやるべきよ」とか、「正しい、正しくない」を常に感じている人であったことが数秘から読み取れます。(感情面が6)
また、彼女のチャレンジは、27歳~死ぬまで「6」という数字が続いていました。
これは「自分自身の真実に責任を取っていく」という非常に大変な課題が与えられていたということです。
テレサはその課題に押しつぶされそうになっていたのではないでしょうか?

ほほえみは仮面」だと告白していたテレサは、自分の外側での言動(人前では堂々と神の愛を語るテレサ)と内側での真実(神に見放され、愛を失っているテレサ)とのあまりのギャップに罪悪感を抱いていたであろうと思うのです。

テレサは、そういう自分自身を真に愛することができたでしょうか?
神にまで見放されたと思っている自分を、とても愛せませんよね。
そのように自分自身を愛せない人が、貧しい人たちをほんとうに愛することができると思いますか?

彼女はひたすらイエスのために、イエスを愛するがゆえに、貧しい人たちに奉仕をしてきました。それは厳密に言えば、イエスを愛するがためであって、貧しい人たち個々のためではなかったということです。

テレサは、つぎのように言っています。

もし貧しい人々が飢え死にするとしたら、それは神がその人たちを愛していないからではなく、あなたが、そして私が、与えなかったからです。
神の愛の手の道具となって、パンを、服を、その人たちに差し出さなかったからです。
キリストが、飢えた人、寂しい人、家のない子、住まいを探し求める人などのいたましい姿に身をやつして、もう一度来られたのに、私たちがキリストだと気づかなかったからなのです。

貧しい人々の中で最も貧しい人々をキリストご自身の姿として助けてゆきます。

私のもとへ来たシスターたちの仕事は、人の理解を超えています。
その仕事ができるのは、手を触れる相手が、神の子だからです。
つまり、貧しさにあえぐ人は、姿を変えたイエスなのです。

貧しい人々の中で最も貧しい人々は、人間の苦しみを負ったキリストにほかなりません。

私は、自分がふれるすべての人の中にキリストを見ます。
なぜなら、キリストが「私は空腹と渇きを感じ、私は裸で病気に苦しめられた。私は家がなく、あなたは私を受け入れた」と言っているからです。
ただそれだけのことです。
自分が一切れのパンを与える度毎に、実はキリストにパンを与えているのです。
私たちが飢えた人や裸の人を見つけなければなければならないのは、そのためです。
貧しい人々と完全に結びついているのはそのためです。



★このテレサの言葉を読んで、あなたはどうお感じになったでしょうか?

彼女は「貧しい人をキリストとみなすこと」で、奉仕ができたということですね。
そう思い込まなければ、彼女はとても奉仕などできなかったということになります。
(何度も修道院に戻りたい思っていたことからもうかがえます)


この世の最大の不幸は、貧しさでも病気でもありません。
自分が誰からも必要とされないと感じることです。
そして、今日の世界における最悪の病は、そういう人に対する愛が足りないことです。
この世で一番大きな苦しみは一人ぼっちで、だれからも必要とされず、愛されていない人々の苦しみです。



★「この世で一番大きな苦しみは一人ぼっちで、だれからも必要とされず、愛されていない人々の苦しみです」というテレサのこの言葉は、おそらく彼女が自分自身の体験から生じた思いを語っているのだと思います。
「ひとりぼっち」と感じていたのは、彼女が独りあることに喜びを感じる自信のある7ではなくて、自信のない孤独な7を表現数としてもっていたからです。

数十年前、わたしはテレビでマザー・テレサのドキュメンタリ―を見たことがありましたが、彼女はいつも共に働いていたシスターたちには厳しすぎるほど厳しく、とても頑固で意地悪な人としか思えず、多くの人が思っておられるような「聖女」や「天使」のような印象は持ちませんでした。
それこそ9のエネルギーのネガティブなニ面性が表れていた気がします。

イエス・キリストに愛されたくて仕方がなかったテレサが、そのイエスから愛されていないことを生涯感じつづけていたために、彼女の人生は非常に暗く悲惨なものになってしまったのです。
若い頃は希望と光に満ち満ちていたのに。イエスの姿を見たばかりに…。

次回は彼女がインドへ行く途中で見たイエスの幻影と幻聴について、フォーカスしてみたいと思います。





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