解脱願望のブッダたち その1

2010年12月10日 15:00


前回は、この惑星での生活をつづけながら、自分の魂を発達進化させること。それがわたしたちの目的であるということをお話ししました。

ところが、人類のなかには、独自に何かをやっていくことに素晴らしさを見出せず、「この世の苦」から逃れたいという激しい切望から解脱を試みようとする人たちもいます。
紀元前に生まれたインドのゴータマ・シッダールタをはじめ、多くの魂たちが、この世からの解脱を切望して、修行に励んできました。
こういう人たちは、世間から離れ、ひとり深い山の奥で瞑想をしているだけです。
もちろん、それもOKです。

でも、そんなに「この世」が嫌ならば、生まれてこなくてもいいのにと、つい思ってしまいます。
この世界に生まれ出たのは、自分自身の願望だったはずなのになぁ…と。
なぜって、わたしたち自身が、「意識」と「意志」をもった大いなる宇宙エネルギーなのですから。

逆に、ひとりでは寂しいから、「他の断片たちとつながりたい」、「合一したい」と願う人たちもいます。
それは、実際に「命の根源」まで戻らなくても、この地上の人間関係を通じて達成することができます。
分離した個々の断片同士、すなわち人間同士の関係を通して、その合一は可能となるからです。

現に断片のひとつひとつが出会うと、「一体となりたい」、「合一の状態になりたい」という意識が自然に芽生えてくるようです。
それがこの世界に生まれてきたわたしたちの基本的な魂の欲求であるからです。


★ ブッダは無神論者? ★


ブッダはほんとうに霊魂の存在を否定したのか


ゴータマ・ブッダは、この地上に生まれたことや、生きていること自体が「」であるとし、インドの伝統的なバラモン思想が信じていた「アートマン」、つまり人間の内奥に存在する「死んだあとも永遠に残る本質」だとされる「霊魂の存在」を否定したといわれています。



ゴータマ・ブッダは、弟子のひとりのソーナにこんな質問をしています。

ブッダ  ソーナよ、なんじはいかに思うか? 
     色(物質)は常(変化なきもの)であろうか?
     無常(変化するもの)であろうか。

ソーナ  大徳よ、それは無常(変化するもの)であります。

ブッダ  もし、無常ならば、苦であろうか、楽であろうか。
     (変わるものは快くないものだろうか、それとも快いものだろうか?

ソーナ  大徳よ、それは苦であります。

ブッダ  もし、(肉体が)無常にして、苦であって、変わるものであるならば、
     それを観察して、これは我所(わがもの)である、
     これは我(われ)である、
     これは我体(わが本質)であると言えるだろうか。

ソーナ  大徳よ、それは否(NO)です。
    
    
     (「相応部経典、22、49、輪屢那」より)


★ブッダは、常に変化し、苦である「自分」というものを、これが「自分」で、これが「自分の本質」で、これが「永遠に不滅の魂」だというのは、おかしいと主張したのです。


へーっ、ソーナんだ! って、思われたでしょうか?
ソ-ナんです。

★「一切が無常である世界」においては、「自分」などというものは「ない」と言ったのです。
(ここの解釈が重要ですよ!) 

ブッダが「この世に一定不変のものは存在しない」と説いているため、以前からあったバラモン教の「魂の輪廻転生説」や「永遠の魂」、「神の存在」などを、徹底して否定した人だと思いこんでいる人はたくさんいます。
ブッダは無神論者」というふうに、学者さんたちは思いこんでしまったのです。

でも、実際はそうではなかったと、わたしは思います。
彼はもともとバラモン教を信じていたがゆえに、「輪廻転生の輪から脱出したい」と思い、修行に励んだのですから。

それに、彼は悪魔や善神、神の子たちと話をしています。
原始仏教の聖典のひとつ『サンユッタ・ニカーヤ』には、「詩句をともなった集」があり、その第一集には『神々とブッダとの対話』、『悪魔とブッダの対話』などが載せられていますから、興味のある人は読んでみてください。(岩波文庫から『ブッダ 神々との対話』『ブッダ 悪魔との対話』が出ていますよ)

仏教においては、ありとあらゆるものは、「因縁」、つまり「無数の因果関係によって形成される」と説き、宇宙創造主としての神(GOD)は認めていません。
しかし、人間よりも優れた存在として、天にも地にも至るところに多くの神々(gods)が存在することは、認めていたのです。
(神の言語はdevaで、本来「輝く」という意味の語源に由来するようです。
神を意味するギリシア語のtheos、ラテン語のdeusと語源的にも同一起源だといわれています)


★ 無常なきものを通して永遠なるものを見る ★



ここで、「バッカリ」という年老いた修行僧の話をしましょう。

バッカリは、自分が死ぬ前に一度ブッダに会いたいと願っていました。
ブッダが彼の臨終の床に見舞ったとき、彼は涙を流してこう言ったのです。

「尊いお方様、私はあなたにお目にかかりたいと長い間希望しておりました。
しかし、私はもうあなたにお目にかかりに行くだけの体力がありません。
ここに来てくださって、ほんとうに有り難い」

ブッダはつぎのように返しました。
「バッカリよ、もうそのようなことは言いなさるな。
やがては朽ちていく私のこの肉身を見たところで、何になるでしょう。
物事の理法(ダルマ)を見る人は、私を見ているのです。
また、私を見る人は、物事の理法を見ているのです」

★「無常なきものを通して、永遠なるものを見る」ということを、ブッダは言っているのです。
ここには、「肉体のブッダ」に依存するのではなく、永遠なる「法(宇宙の理)」を見極めることが最も重要であることが語られているのです。
法(宇宙の理)」によって自己を確立するとき、人は初めて真に依るべきものを見出すことができるのであると。


法句経の名で知られる「ダンマパダ=真理のことば」には、
つぎのようなブッダの句があります。

   
   自己のよりどころは自己のみである。
   自己のほかにいかなるよりどころがあろうか
   自己のよく調御せられたるとき
   人は得がたいよりどころを得るのである
   
  (「ダンマパダ」 第12章 160より)



★「自分」などというものは「ない」と言いながら、ここでは、その「自分」のよりどころは「自分」しかないと言っていますね。

我思う。ゆえに我あり」とは、デカルトのことばですが、
「我」の目があるからこそ、目の前の風景を美しいと感じ、
「我」の口があるからこそ、目の前の食べ物をおいしいと感じ、
「我」の耳があるからこそ、風にゆれる木の葉の音にここちよさを感じるのですから、
「我」がなければ、すべてが「ない」に等しいということになってしまいますね。



★ 輪廻転生している存在はだれ? ★



以前に「色即是空・空即是色」の話をしました。
自分という存在」は、不可視の何にでもなりうる「」から生まれ来たものです。
「宇宙エネルギー」のひとつの表現体としての「自分」となって、この世界に現れたということですね。

しかし、自分の肉体は「無常」で、いつかは朽ちていき、消滅します。
このような「無常なるもの」は「主体」ではありません。

でも、「意識」は、肉体を離れても存在します。
この「意識」を「霊魂」と同義とするなら、これらを「主体」と言ってもよいのではないでしょうか。 「主体」は連綿として生きつづけます。
もしこの「主体」さえ「ない」と言うのであれば、いったい「だれ」が、いったい「何」が、輪廻転生しているというのでしょうか? 


霊魂の存在に対して「無記」としたため、ブッダはそれを否定したことになっていますが、彼は「有る」とも「無い」とも言っていないのです。
むしろ、有ることを表現している句が、けっこうあります。
ただ、言うと「ややこしい」ことになるから、言わなかっただけです。


★ ブッダはどこへ行った? ★



ブッダが真に解脱して、浄土に入ったかどうかはわかりません。
なにしろ西方浄土というところは、多々ある宇宙の外側にある世界だという人もいるからです。

前回ご紹介した山下弘道氏によると、「浄土とは宇宙を入れることのできる空間―容れ物としての空間で、その空間は24次元」なのだそうです。
わたしには、ブッダがそんなところにまで行ったとは思えないのですが…。

ゴ―タマ・ブッダは、くやしかったのではないでしょうか?
たとえ「輪廻転生」という枠組みから外れられたとしても、〈大宇宙の意識&意志エネルギー〉が生んだ「マトリックス」からは、逃れることができないからです。
いくら「悟った人」であっても、それは「宇宙の法則」に気づいただけのことであって、結局のところは宇宙創造者の被造物にしかすぎないからです。

孫悟空がきんとん雲に乗って、得意げに飛び回っていても、所詮はお釈迦さまの立てた一本の指のまわりをまわっていたというようなものです。

大宇宙の意識&意志エネルギー〉の前では、お釈迦さまも孫悟空と、さほど変わらないということです。
そんなことを言ったら、「罰当たりめ!」なんて、お釈迦さまに叱られるでしょうか? 



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