インディゴへのメッセージ 自由と責任

2010年11月11日 03:00



先日インディゴ・チルドレンについて次女と話していたとき、わたしの脳裏に思い浮かんだ人がいました。それは、かつてのシンガーソングライターで、若者たちのカリスマ的存在となった尾崎豊さんでした。

その尾崎さんのライブの映像が、たまたま夜につけたBSのテレビ画面に突然現われたため、「これは何かの縁かな?」と思ったのです。
それで、今回彼について、わたしなりの感想を書いてみることにしました。


★尾崎豊さんはインディゴ・チルドレンだったのか?★


彼は1965年に生まれ、1992年に26歳でこの世を去った人です。
絶対的な権威を受け容れない」という意味で、まさしくインディゴ・チルドレンの先駆者ともいうべき青年であったと感じます。

尾崎さんを思い浮かべるとき、いつも言い知れぬ悲哀が伝わってきて、とても淋しい気持ちになります。

彼は一生懸命に生きようとしていました。
けれども、彼にとっては、何でも自分の思い通りになる人生ではありませんでした。
10代後半に全盛期をむかえ、早くも20代で燃え尽きてしまった彼は、おそらくこれ以上生きることに何の意味も見いだせなかったのでしょう。
この世を去る時期は自分で決めるわけですから、本人はそれでよいと了解していたのでしょう。

死因は「肺水腫」で、致死量の覚せい剤を飲んでいたことが影響したと伝えられています。
肺水腫」が生じたのは、彼が「自分の考え方、生き方を変える必要があった」ことを教えてくれています。

★「肺」というのは「生命力」、「生きる意欲」、「生きる欲求」に関係しているところです。
心臓と同様、生命にかかわるもっとも重要な器官なのです。
そこにトラブルが生じるのは、生きることに困難を覚えて苦しんでいることを表していると考えることができます。
悲しみ、失望、絶望感……。

息がつまって思うように呼吸ができない状態、息苦しい思いは、当時の彼の生活そのものであったはずです。
彼はそういう生き方しかできない自分を、自分で攻撃していたのかもしれません。自虐的行為がそれを物語っています。

「肺」は、粘膜や液体に関係することから、「深い悲しみ」をあらわすとされています。
確かに彼の瞳はいつも深い悲しみをたたえていて、はるか彼方を見つめているように見えました。
自分の人生と世の中に嫌気がさし、足早にこの世を去ってしまったという感じがして、残念です。



★ 自由と責任 ★


尾崎豊さんの歌には、「自由とは何なのか」、「正しいものは何なのか」を追求し、「愛の大切さ」を謳う半面、「世の中」や「学校」がつくった規則に対して、また「先生」という名の権力者に対しての熾烈な非難が表現されています。

高校在学中、喫煙で停学になった彼は、その日同級生と飲酒したあげくに乱闘騒ぎを起こし、警察沙汰となって無期限の停学処分を受けたといいます。
それらの事件は自らが引き起こしたもので、だれのせいでもなかったはずです。
喫煙したのが見つかって、停学処分になったことに腹を立て、自分の仲間と酒を飲み、大学生たちとの喧嘩を引き起こしたのだとしたら、彼はただの「きかん坊」にすぎなかったということです。

歌にある「夜の校舎の窓ガラスを壊してまわった」ところで、教師は痛くもかゆくもないだろうし、ガラス業者が繁盛するだけのことだと、わたしなんかはつい思ってしまいます。
どうせガラスを壊すなら、なぜ堂々と昼間壊さなかったの? って、思うわけです。
(これはただの歌詞なのか、願望なのか、実際におこなった行為なのかはわかりませんが)

★反逆するのなら、それをする自分自身に対して、責任を引き受けなければなりません。
責任を取りたくなければ、自由を得ることもできません。
そして、自由を獲得することなしに、自らの成長はないのです。


毎日学校でいつもの席に座り、「何に従い 従うべきか考えていた」という彼は、
「とにかくもう学校や家には帰りたくない」、「誰にもしばられたくない」
と、盗んだバイクで、暗い夜のとばりのなかへと走り出します。

闇のなかで「自由になれた気がした」と歌っていた彼は、光のなかではどうだったのでしょうか?

ここでは、バイクを盗まれた人の気もちなどは、一切考えていませんよね。そんな余裕は、この歌詞からは一切感じられません。頭の中は、自分のフラストレーションをいかに解消するかということでいっぱいです。

盗んだバイクで走るよりも、一生懸命バイトして、自分が稼いだお金で買ったバイクで走るほうが、ずっと爽快で自由な気がしたにちがいないと思うのですが。


★「卒業」という歌詞のなかに、
「逆らい続け あがき続けた 早く自由になりたかった」、
「うんざりしながら それでも過ごした ひとつだけ 解ってたこと この支配からの卒業」とあります。

つまらない授業に、わかり合えない教師たち。
そんなに嫌でたまらなかった高校に、なぜ停学になるまで、彼は通いつづけていたのでしょうか? 義務教育でもないのに。
これは、じつに不思議な現象ではないでしょうか。

わたしの次女は、小学校5年生くらいからほとんど学校には行っていません。
中学校に行っても保健室にいて、教室に入ることはほぼありませんでした。学校に行くのは、好きな部活をするためで、勉強をするためではなかったという変わり者です。

それをわたしは認め、校長をはじめ、その時々の担任教師たちをいつも説得してきました。
学校で新しい教科書をもらってきても、そのすべてをわたしの部屋に置き去りにして、いつまで経っても取りに来ないほど、学校と教師と勉強が嫌いな次女でした。

義務教育といっても、問題のある学校、問題のある生徒たちのなかで、問題のある教師によって、学ばされる義務などはありません。児童生徒には、健全な環境の下で、楽しく学ぶ権利があるだけです。

次女とは異なり、尾崎豊さんが学校に行くことをやめなかったのは、おそらくそこで勉強以外の何か大事なことを学び、もっとも倦厭(けんえん)する現場で自分をいかに表現するのかという課題があったからなのでしょう。


★ 6と7の数字がもつエネルギーの狭間で ★


あらゆる制限から自由になることを望んでいた尾崎さんに、果たして真の自由は訪れたのでしょうか?

人を愛することの大切さを主張しながら、けっしておとなたちを愛せなかった尾崎さんの相反する心情は、どこから生まれたのでしょうか?

彼の誕生日と名前を数秘術で調べると、その謎をある程度は解明できます。
彼の〈軌道数〉は7で、〈表現数〉は6でした。

★〈軌道数〉は、その人がこれから明らかになっていく人生の地図、その人が人生を通して学んでいくものをあらわします。

7の本質は、自分自身の内側に入っていって、自分自身とともにあり、自分自身の道、自分自身の理解というものを見ていくことのできる能力です。
智恵、瞑想、独りであること、知性、観察、識別力、眼識、尊厳、気高さ、洗練された、頭とハートを併せ持つという質をもっています。

7の人の学びというのは、意識とハートが組み合わさって、ほんとうに起こっていることを経験していくことにあります。

7の人にとっては、「愛というものが何なのか」、人との「関係性というものが何なのか」を、ただ頭でわかっただけではだめなのです。
自分が愛や関係性を通して、その経験から学ばなければ、真にわかったことにはならないからです。


ですから、彼はいろんな体験をして、自分の思い通りにならない人生について、いやというほど思い知らされていったのだと思います。


★〈表現数〉は、その人が世の中でどんなふうに自分を表現しているのかを示す数です。その人が出生時につけられた名前が、その人の人生を動かしていて、その人の仕事やしていることに影響を与えていくと考えます。

尾崎さんの表現数は6でした。
6は、無条件の愛、ハートの真実、責任、調和、世話、配慮、真実、家庭と家族、奉仕、信念などをあらわすエネルギーです。


子どものころ、母親はよく子どもに言います。
「これをしたら、あなたはいい子ね。でも、これをしたら、あなたは悪い子」と。
子どもは「これがやってはいけないこと、悪いことなんだ」ということを学びます。
学校に行ったら行ったで、厳しい校則のなかで、教師から「していいこと、悪いこと」を学びます。
子どもたちはおとなになるまでに「正しい、まちがっている、するべき、するべきでない」ことを、すべて学ばされるわけです。

だから、子どもたちは「何をするべきか」、「何をするべきでないか」ということは知っていますが、「ほんとうに自分が何をしたいのか」ということは知らない、わからないのです。

いつでも「こうすべき」とか「これが正しい」という状況に入っていくと、ことばにならない契約で、相手がどうふるまうかを期待するようになります。

「私はあなたにこのようにしているのだから、あなたも同じようにちゃんとしてね」と望むようになっていくのです。
そして、その期待が満たされないと、「あなたはあなたのするべきことをしていないじゃないの。だったら、私だって、そうしないわ」と、とても恨みを感じてしまうのです。
自分が相手を愛したり、与えたり、シェアするのは、自分がそうしたいからであって、他人から認められたいからするのではありませんね。

ところが、6の人というのは、「何が私にとって正しいか、私にはわかっている」だから、「わたしは~すべきだ」というところで動くので、つい無理をして「いい人であるふり」をしてしまうのです。


尾崎さんが「正しいことは何なのか?」を探求しつづけたのは、軌道数が7で、表現数が6だったことが大きく影響しているように思います。
彼は6と7のエネルギーの狭間で葛藤し、苦悶していたのです。

彼は学校の先生やおとなたちから与えられた「正しさ」に対しては、つよい反発心をもっていました。
おとなたちを否定し、批難したのは、自分のなかにある「正しさ」という「ものさし」で測っていたからこそです。そうでなければ、やみくもに反発することなんてできません。
彼の心の中に、彼が一番嫌っていたはずの「学校の先生」が存在していたことを、彼自身気づいていたでしょうか?

それでは、お互いに攻撃し合うだけですね。
この「自分だけの正しさを主張する者同士が戦争をつくる」のです。
ですから、ほんとうは平和を求めていたはずの彼の心は、苦悶だらけだったにちがいありません。

歌のなかに、「愛」ということばをふんだんに使ってはいても、真の愛がいかなるものであるかを、彼は知らなかったのかもしれません。

少年のころから煙草を吸い、酒を飲み、覚せい剤におぼれていた彼は、完全な「中毒者」でした。
「中毒者」が求めているのは、「躁的状態」の連続です。
「耽溺」という一瞬の快楽に生きるようになるのは、苦痛から逃れるための手段なのではないでしょうか。

苦悶と恍惚に交互にひたっていて、そこから抜け出せない人の結末は、悲惨です。
破壊的な結婚生活や人間関係から一生を棒に振ってしまうのは、このような中毒者に多いのです。

彼はまるでクモの巣にからめとられた蝶々のように、苦しみ、もがいていたのではないでしょうか。
自分の苦しみの脱出口を見つけようとして、狂乱の状態で身をひねったりよじったりして「おれは自由になりたいんだ!」と叫んでいたのです。

彼は冷静になって脱出口を見つけるかわりに、あくまでももがきつづけたために、事態をさらに悪化させてしまい、二度と自由な空へと舞い上がることはできませんでした。

制限されるのをもっとも嫌った彼は、「自分でつくった制限」の網にからめとられたまま、この世を去ってしまったのです。
彼はこの世で「真の自由」を味わうことはできなかったのです。


★尾崎さんの〈魂の衝動数〉は3でした。
喜び、表現、創造性、熱情…。

喜びがあまりにも強くなると躁状態になり、それが反対になるとウツ状態になり、意気消沈してしまいます。
アップダウンが激しくなると、躁ウツ病になってしまいます。

もし創造的なエネルギーを表現していかなかったなら、ファンタジーの世界に入り込んでしまい、大地とのつながりを失ってしまうのです。
憂愁に閉ざされながらも、彼は夢を見ている少年だったのです。

初めてギターを抱いて、ちょっと恥ずかしそうに微笑んでいた彼の顔が印象的でした。



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インドの神秘家OSHOは、つぎのように語っています。


「反逆者」が意味するのは、絶対的な自由、絶対的な愛、絶対的な創造性だ。

彼は過去においてほんのわずかの人々、ほんのわずかの詩人たち、ほんのわずかの哲学者たち、ほんのわずかの神秘家たちによって夢みられてきた、まったく新しい種類の人間だ。

が、それはいつまでも夢にとどまったままだった―
ゆえに人々は、それらの詩人や神秘家たちを夢想家(ユートピアン)と呼ぶようになった。
  
ユートピアということばは、語源からすると「けっして来ないもの」という意味だ。
それを夢見ることはできるが、その夢はまったくむなしい努力に終わる。
それは夢想であり、けっして実現することはない。
それはまったく望みのない希望だ。
それは人々に現在の苦しみやみじめさを忘れさせ、夢を見させ、幻想を与えておくための阿片にすぎない。

反逆者は、夢ではない。
反逆者は、現実だ。彼はユートピアではない。
彼は、人間の潜在的可能性の具体的な実現であり、
果たされた約束、具現化した夢だ。

当然、彼は既存のいかなるカテゴリーにも属していない。
反逆者は自らのカテゴリーを創造しなければならない。
きわめて多くの知性的な、若々しい、生き生きとした人々に
未知なる未来の挑戦を受けて立つ用意ができるとき、
まさにその事実が新たなカテゴリーを創り出す……。



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ハート
反逆者は何よりも自由を愛するけれども、道に迷うようなことはありません。
自分を制限するものなど、ほんとうは何もないことを初めから知っているのです。
尾崎豊さんは反逆児ではなく、夢想家だったのだと思います。

クリスタル・チルドレンと呼ばれる現在の子どもたちは、インディゴの激しさを求めることはありません。
彼らは穏やかで、暴力や不調和を嫌い、自分の身体に悪いものや動物を食べない菜食主義者が多いといいます。
生きとし生けるものを愛する霊性が備わっていると言ってもよいでしょう。
インディゴとクリスタルの気質は異なってはいますが、どちらも感性豊かで心やさしいニュー・チルドレンです。





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