ひまわりさん&光のお母さんとの対話  ~第7弾 映画「いまを生きる」から考えたこと、気づいたこと~

2017年04月05日 15:20

ひまわりさん&光のお母さんとの対話 
~第7弾 映画「いまを生きる」から考えたこと、気づいたこと~


ひまわり:光のお母様、こんにちは。
私が好きな映画『いまを生きる』をご覧になったと伺いましたので、私も久しぶりに観てみました。何度も観た映画ですが、今も昔も涙する場面は変わりません。キーティング先生はまるで光のお母様のようで、既成概念を次々と覆してくれる存在です。教科書の一部を下らないから破り捨ててしまえというシーンは何度観ても気分爽快になります。
映画の中の話とはいえ、自由であるよう、自分の頭で考えて行動するように指導する教師と思春期に出会えるなんて、とても幸運なことだとうらやましく思います。



いまを生きる


<映画のタイトル>
ひまわり:邦題は『いまを生きる』ですが、原題は“Dead Poets Society”(死せる詩人の会)で、『いまを生きる』はおそらくキーティング先生の授業に出て来たラテン語のCarpe diemを訳したものだと思いますが、Carpe diemはどちらかというと『いまをつかめ』という方が近いのだと思います。『いまを生きる』というタイトルのほうが映画としては売りやすかったのかもしれません。
しかし、今回映画を観直したら、映画全編を通してキーティング先生に『自分を生きろ』と言われたように思いました。

葉っぱのライン

<胸に響く言葉や心に残る場面>
ひまわり:『死せる詩人の会』の冒頭部はソローの『森の生活』にある文章の朗読から始まりますが、『私は生きることの真髄を心ゆくまで味わいたい』という言葉のポジティブな力に感銘を受けました。
様々な詩やハッとするような台詞がたくさん出てくる映画だと思いますが光のお母様の胸に響いた言葉がありましたら教えて頂けませんでしょうか。

光のお母さん:そうですね。やはり『バラは摘める時に摘め』というキーティング先生が最初の授業で語った言葉でしょうね。
『時間は飛ぶように去る。今日君に微笑んだ同じ花が明日は朽ち果てる』
だから、「青春を謳歌せよ、今を楽しめ、今を生きなさい!」と彼は生徒に伝えたのですね。『Carpe diem』はそこから来ていますね。すてきなメッセージだと思います。

もうひとつ心に残っている言葉があります。少し長いのですが、キーティング先生が「秘密を教えよう」と『詩』について語る場面がありますね。
彼はこう言いました。『詩を読み、書くのはカッコいいからではない。人間だからこそ、僕らは詩を読んだり、書いたりするわけだ。そして、人間というやつは情熱にあふれているものだ。医学や法律や経営、工学を学ぶことも確かに大切だ。必要なことだ。しかし、詩や美しさ、ロマンス、愛(恋)こそはわれわれの生きる理由ではないのか』と。

わたしの青春時代というのは、まさにこれでした。詩を書き、詩集を作り、そしてつぎつぎと相手が現れては恋をし、とにかく勉強よりも恋愛に明け暮れていましたね。おとなになってもずっとその連続でしたよ。(笑)
ですから、この『詩や美しさ、ロマンス、愛(恋)こそはわれわれの生きる理由ではないのか』というところは同感です。そこには悲しみや喜びがつきまといますが、若い頃に思いっきり愛や恋の何たるかを知ることは、とても大切です。


ひまわり:私の学生の頃は、主に片思い専門でした…実らない恋が多かったですが、勇気を出してぶつかって玉砕していました(苦笑)失恋でティッシュの箱を空にするほど泣いたりもしましたが、しっかりと悲しみに浸ったので失恋のなんたるかを味わえたと思います。
映画の中でもクリスに恋をしたノックスが詩人になっていくのが微笑ましかったです。

光のお母さん:『詩』について、キーティング先生は続けますね。
『ホイットマンは言った。人生は幾度となく繰り返される問いかけの連続だ。信仰心薄き者の終わりなき列や愚か者に満ちた町々の、そんなものの中に人生があるのだろうか。答えよ、君がここに存在し、命と個性がここに存在することで、力強い人生が成り立ち、君は詩が書けるのだ』
とても含蓄のある内容であると思いますが、ひまわりさんはどう感じますか?
また、ひまわりさんの好きな、印象に残っている場面はどこですか?


ひまわり:ホイットマンに、生きることは詩を書くことだと、自分の人生を生きて、自分の詩を書きなさいと言われているように思いました。
心に残る場面は多々ありますが、キーティング先生がいつも自信なさそうにしているトッドをひっぱりだして、彼の中の詩人を引き出すところや生徒を教壇の机の上に立たせ、視点を変えて物を観るよう促すところがとても好きです。キーティング先生は英語の先生ですが、教科としての英語の枠から大きくはみ出した真の教育者だと思います。光のお母様はどの場面がお好きですか?

光のお母さん:最後ですね。キーティング先生が学校を去っていくとき、生徒たちが机の上に立って見送る場面です。トッドをはじめとして、キーティング先生を敬愛していた生徒たちは、校長の制止も聞かずに※机の上に立って先生を見送りますね。そこには、彼らが自分たちの身勝手によってキーティング先生を悪者にしてしまったことや、自分たちの勇気のなさに対するお詫びの気持ちが含まれていたと思うし、そのとき彼らにとって唯一できる校長に対する抵抗の証しでもあったのだと思います。

※映画の中で、キーティング先生は授業中に突然机の上に立って宣言する。「私はこの机の上に立ち、思い出す。常に物事は別の視点で見なければならないことを! ほら、ここからは世界が全く違って見える」と教える場面がある。

ひまわり:私も最後の場面は何度観ても号泣してしまいます。あの引っ込み思案のトッドが殻を破って自己表現をしたことにも感動しました。


自殺


自殺について>

ひまわり:今回映画を観直して、自分の視点が変わったことに気づきました。これまでは、学生たちの視点でばかり映画を観ており、大人になっても『大人は判ってくれない』と思っていましたが、今回はニールの自殺が及ぼした影響の大きさ、遺された人にとって自殺はエゴに満ちた暴力であると思うようになりました。

光のお母さん:なぜそう思うようになったのですか? 

ひまわり:学校生活においては明るく楽しく中心的な存在であるニールは、父親には逆らえない『良い子ちゃん』を演じており、鬱屈した思いを溜め込んでいるシャドーの濃さを感じました。確かにニールの父親はかなり高圧的で押し付けがましくて、その父親に自分の意見を伝えることは大変なことであったろうとは思いますが、自殺するくらいなら自分の思いのたけをぶつけても良かったのではないかと思いました。

光のお母さん:自分の思いのたけをぶつけられないからこそ、自殺したのではないのですか? あなたはニールの思いや行動にまったく共感できないようですね。
では、ひまわりさんは、言っても無駄な相手に自分の思いのたけをぶつけたいと思いますか? あるいは、実際にぶつけますか?

ひまわり:言っても無駄だと思うと、なかなか言えなくなってしまいます…。

光のお母さん:「何か言うことはないのか?」と※父親が息子に何度も尋ねていましたが、彼は最後まで父親に口答えはしない道を選びましたね。
あそこで思う存分自己主張をしたかったのでしょうが、彼はしかけてやめました。無駄だと思ったからではないでしょうか。
しかし、そのあとで自殺することは、父親に口答えするよりも、もっと大きな打撃を与えました。彼にとってはそれが最大の抵抗だったのです。

※ニールの父親は、自分の思い通りに息子を扱う厳格で典型的な頑固親父。ニールを医学の道に行かせようとしていて、ニールが芝居で主役を演じたことが発覚した際、強引に家に連れて帰り、陸軍士官学校に転校させようとする。ニールの役者になりたいという願望や主張や意思を否定する。

ひまわり:ニールはキーティング先生のことを尊敬していたのだと思うのですが、キーティング先生の教えがどのようにニールの自殺に関連したのかが私には分かりませんでした。光のお母様はどのように思われましたか?

光のお母さん:キーティング先生が若い時につくったクラブ『死せる詩人の会』の書の冒頭に、『私は静かに生きるため森に入った 人生の真髄を吸収するため 命ならざるものは拒んだ 死ぬときに悔いのないように生きるため…』と書かれていましたね。
『命ならざるものは拒んだ』とありますが、この『命ならざるもの』というのは、何を意味していると思いますか?

ひまわり: 『命ならざるもの』は、エゴでしょうか。真髄ではないもの、本質から離れたもの、魂が欲していないものかと思います。

光のお母さん:そうですね、では、ニールの「魂が欲していないもの」とは何ですか? 父親の望み通りに陸軍士官学校に転校し、医者になることですね。それは自分の夢とは全く異なり、その通りにすることは、死に値することだったわけです。独断で父親に退学させられたニールは、もうキーティング先生のいる学校には行けなくなってしまったし、明日からは絶望的な毎日が待っているのです。

命ならざるものは拒んだ 死ぬときに悔いのないように生きるため…
バラは摘める時に摘め』『今を生きろ!』とキーティング先生は教えました。ニールは自分の内なる声に忠実に従いたかったのです。

自殺という行為は、ニールにとって、それが彼にできる唯一の自己表現であったのです。今自分の心に悔いのないようにするには、死ぬしか選択肢がなかったということです。若さゆえの行為ですが、彼の気持ちはよくわかりますよ。実に詩的であると思いました。
ひまわりさんは「キーティング先生の教えがどのようにニールの自殺に関連したのかが私には分かりませんでした。」と言われましたが、まだお解りになりませんか?

ひまわり:ご説明いただき、ようやく腑に落ちました。ありがとうございます。
ニールの机の引き出しからその本を取り出し、まさにその冒頭部分を読んで泣いているキーティング先生の無念さを感じ、やるせない気持ちになります。ニールの気持ちも理解できるのですが、それでも生きていてほしかったです。

光のお母さん:それはどういう意味で、でしょうか? 
ニールはもはや自分の心が満たされず、100パーセント喜びの中にいられないことを知ったのです。それでも生きてほしいというのは、酷だと思いませんか?
未来に絶望し、怖れに満ちている状態、そこに自分への愛が持てない状態では、生きることは不可能なのではないでしょうか? 

先程ひまわりさんは「今回はニールの自殺が及ぼした影響の大きさ、遺された人にとって自殺はエゴに満ちた暴力であると思うようになりました」と言われましたね。そして、ニールには「それでも生きてほしかった」と。
ニールの側からすれば、ひまわりさんの思いは父親同然であり、それこそ「エゴに満ちた暴力」なのではないでしょうか?
なぜキーティング先生が泣いていたのか、その真の意味がわかりますか?

ひまわり: ずっとキーティング先生は、ニールの死の無念さを感じて泣いていたのかと思っていましたが、ニールが魂の求めていることに気づき、『命ならざるものは拒んだ』ことで自殺をしたということに気づいて泣いたのでしょうか。『死せる詩人の会』の冒頭の言葉の真意をニールが理解していたことで、死を超えて通じ合ったからこそ泣いたのでしょうか。

光のお母さん:『命ならざるものは拒んだ 死ぬときに悔いのないように生きるため…』を読んで涙を流していたキーティング先生の気持ちは、容易に言葉では言い表せないと思いますが、キーティング先生が泣いた真意を、ひまわりさんに少しはわかっていただけたようで、よかったかなと思います。

ひまわり:短絡的に自殺は良くないことだと思う気持ちが強くあり、だから生きてほしいとつい余計なお節介で思ってしまいました…

光のお母さん:それでも生きていてほしいというのは、あなたの気持ちがかなり優先しているように感じます。
ひまわりさんは過去生でもいろいろなネガティブな体験をしてこられたと思いますが、ニールの気持ちを真に理解できたなら「それもあり」と思えるのでは?と思いますよ。
彼が選んだ道は彼が責任を取るのです。「自殺はよくない」という思いの制限があると拒否反応を示してしまいがちですが、「自殺して死んでも意識は残る」「意識は続いて行くのだ」ということを知るうえでは、必要なのかもしれません。
人にはいろんな魂の年代があり、考え方や生き方は異なります。自殺したニールは今回の人生ゲームから降りただけです。ひまわりさんは、「それも良し」とすることはできませんか?

ひまわり:私の過去生には自殺を良しとしないキリスト教徒が多数おりましたので、自殺についてひっかかりが強いのだろうと思います。ニールの自殺を受けて、その気持ちが出て来てしまい、自分の考えを押し付けてしまいそうになったのではないかと思います。
しかし今は、自殺をするというのも学びの一つだと思えます。自殺を良しとしないキリスト教徒が多かった一方で、つい先日、自殺をした複数の過去生を解放することができました。自殺では彼らの問題は解決しませんでしたし、むしろ他者に恨まれる結果となったケースもありました。私の過去生の自殺の理由とニールの自殺の理由は異なりますが、自殺を通じて学びがあったと思っております。
改めてニールの視点に立ってみると、私もニールと同じ選択をしたかもしれないと思いました。反対に、行動する勇気が持てずに安易な方向に流れ、親の言いなりになって主体性のない人生を送ることになり、自分のことを棚に上げて親を恨んでしまったかもしれません。キーティング先生が提案したように、卒業してから演技の道に進むという選択もありました。どのような選択をするにしても、それは本人の選択であって本人の責任ですね。どのような選択であっても「それもあり」で「それも良し」とできます。
自分のことを棚に上げて、他者のことをどうにかしたいと思うお節介と押し付けがましさを反省しました…。

光のお母さん:そうですか。あなたの悪癖がまた顔を出しましたが、気づいていただけてよかったです。

ひまわり:映画を観直したことをきっかけとして、自殺に関して色々と考えていたら自殺をした過去生が出て来たのもとても興味深く、やはりひっかかりを感じることには何らかの過去生の影響がある可能性が高いと思います。

光のお母さん:その通りです。ひまわりさんは「自殺」したニールに対して、とても否定的でしたが、なぜかしらひっかかって、ものすごく拒否反応を示してしまったり、執拗にこだわったりするところなどは、過去生のあなたの生きざまに何か問題があったのでは? ということを示してくれているのです。今のあなたが過去生とは逆のことを思ったり、したりするのは、反対のことをして補おうとしているわけですね。そこに気づくことが必要です。


葉っぱのライン

<教育について>
ひまわり:映画の舞台となったウェルトン・アカデミーは全寮制の学校です。私は大学を卒業し、社会人になってもしばらくは親元におりましたが、映画のように中学校から親元から離れて全寮制の学校に入った友人に「親から離れることが大変辛かった、ずっと親元にいた君にその気持ちがわかる?」と言われたことがありました。個人差はあるのでしょうが、自立心のかなり強い子どもでないと全寮制の学校に子どもをいれるのは、子どもの愛着問題を深めてしまうのではないかという気がしておりますが光のお母様はどう思われますか?

光のお母さん:子どもによると思います。親元から離れたくないという子どもを無理やり引き離すのはあまり良い結果を生まないでしょう。しかし、親から離れたがっている子どもや早く自立したがっている子どもには良い結果を生む可能性が高いでしょう。要はその子のニーズです。親は子のニーズを受け容れ、出来る限り子が望むことを叶えてあげることがベストです。もちろんその子の性質や全体像をきちん把握し理解した上でのことですが。

赤ちゃんのときから幼少時のときに、いかに母親に受容され愛されたかが重要なので、その時期にきちんと愛着ができていれば、大きくなってからは自然に離れていくものです。中高生であれば、親から自立したいと思うのは、正常だと考えますし、いつまでも親にしがみつこうとすること自体が異常なのですよ。

近頃の母親は子育てを放棄したり、すぐに保育園に入れたり、別の人(自分の親)に世話を頼んだり、母親として子どもの教育を怠る無責任な女性が多いですね。そんな女性はその人自身に愛着問題があるのです。「愛し方がわからない人たち」のことを以前の記事に書きましたが、たいてい先祖代々の問題であったりすることが多いです。

嘗て『愛を乞う人』という映画がありましたが、愛着障害の最たるものですね。こういう人は安易に母親になってはいけません。子どもがあまりにも悲惨で可哀想だからです。自分が母親となって、子どもに無条件の愛を与えることができるかどうかを、まずは自問自答することです。

ひまわり:無条件の愛を与え、子どものニーズにあわせた教育をするというのはなかなか大変なことだと思いました。
私が今生では独身で子を持たずにいるのは、自分が親になる準備が足りていないと気づいているからかもしれません。現世の私に愛着問題があるのは、現世の両親の私に対する教育に問題があったからだと思っていました。この条件を選んで来たのは自分なのに、外側のせいにしてしまいたいと思っていたのだと思います。しかし、過去生回帰をしていただいたら、過去生でかなりひどい母親だったことがでてきましたし、そもそも最初に愛着問題を引き起こした問題のある過去生はまだ出て来てはおりません。いずれにしても、過去から連綿と続いている「私」に問題があることが痛いほど良くわかりましたので、現世でも過去生でも愛着問題をクリアして、負の連鎖を止めたいと思っております。

葉っぱのライン

<良い子の弊害>
光のお母さん:ニールの場合は、親の言うことを聞き、口答えをしない、いわゆる「良い子」でしたね。彼はなぜそのような「良い子」になっていたのでしょうか?
「良い子」がもたらす弊害について、ひまわりさんはどう思いますか?

ひまわり:ニールの父親はかなり高圧的な存在だったので、おそらく怖くて反抗しにくかったということ、親に愛されるために親の期待に応える必要があるとニールが思っていたことなどが「良い子」になっていった原因かと思います。
「こうあるべき」という理想と本当の自分である現実が乖離していくとシャドーが溜まっていくのだと思います。親は「良い子」である子どもが本来の姿であると思い、子は親のせい(と子どもは思っているのではないでしょうか)で「良い子」を演じるようになっていき、本当の子どもはどこにもいなくなってしまうのではないかと思います。「良い子」は親にも、本人にも真の幸せをもたらさないのだと思いますが、私の思い違いがあればご指摘いただけるとありがたいです。

光のお母さん:親に対して、子どもが「いい子ちゃん」を演じるのは、親に認められ、愛され、しっかりと保護してもらうためですね。親の言うことを聞き、親に気に入られることが、子が生きるための唯一の方法だからです。
光のコースの受講者さんで、「子どもの頃、親を神のように思っていた」と言った人がいましたが、親は自分の命を育んでくれる存在ですが、また自分の命を支配する畏れる存在でもあるわけです。ですから、その親に逆らうことは「死ぬこと」を意味するわけですね。「良い子」だったニールが最後に選んだ道は、神の如き父親に逆らうことでした。ここに「主導権争い」が生まれているわけですが、子の主体性を奪い続ける父親に対して、ニールは自らの命を絶つことで抵抗し、自らの願望や主張を守ったと言えるでしょう。
ニールが死んでからも、それを自分のせいではなく、キーティング先生のせいにしているような愚かな父親であったことが、実に残念ですが。


ひまわり:光のお母様、このたびも対話をさせて頂きありがとうございました。
映画を観て登場人物に感情移入すると、自分の現世・過去生の問題が浮き彫りになってくることを痛感しました。また何かおすすめの映画がありましたら是非教えてください。

光のお母さん:『グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち』も愛着問題を扱った映画ですね。先生役として、やはりロビン・ウィリアムズ氏が登場します。『今を生きる』の先生も素敵でしたが、『グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち』に出てくる心理学者もなかなかユニークで、わたしは好きです。
天才的な頭脳を持ちながら幼い頃に負ったトラウマから逃れられない一人の青年ウィルと、最愛の妻に先立たれ失意に喘ぐ心理学者との心の交流を描いたヒューマンドラマです。ぜひまた対話をしたいです。今回も、ありがとうございました。

ひまわり:お礼を申し上げるのは私です、本当にありがとうございました。
何度も繰り返し見た映画だったのに、全く汲み取れていませんでした…今回先生と対話をさせて頂いたことで、ようやく真意に触れられたと思います。本当にありがとうございました。なかなか深いところに行けなかった私を導いてくださりありがとうございました。この映画を何度も繰り返して観たのは、私がキーティング先生のような師を、光のお母様を欲していたからではないかと思っています。今、幸せです。


sakura


光のお母さんからの伝言


今回取り上げた映画『いまを生きる』はとても考えさせられる映画だったと思います。今まで有名な映画であることを知りつつも、なぜか鑑賞までは及びませんでした。ちょうど4月のセミナー前で、『グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち』と同時期に観たのですが、両者とも思いのほか気に入ってしまいました。
「愛着問題」を扱うセミナーの前だっただけに、いろんな意味でタイミングが良かったと思います。

4月のセミナーで、皆さんのレポートやお話を聞いて知ったことですが、多かれ少なかれ母親がヒステリックでひどく怒られるのを避けるために「いい子ちゃん」を装っていたということ、否定的な言葉を言われ続けてきたことなどが共通しています。
両親、特に母親が「自己愛性人格障害」であったりすると、自分のことしか考えない、頭にないので、子どもに共感ができないのです。自のほうが認められたい、愛されたいばかりなのですから、子どもを認めたり、愛したりすることができないわけです。だいたいにおいて、人格障害のある人には「共感能力」が欠如している場合が多いです。
対話の中で触れました『愛を乞う人』などはその際たるものですね。
愛着問題を抱えている人はあまりにも多いので、すでに観た人も、まだ観ていない人も、この機会に『愛を乞う人』や『いまを生きる』や『グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち』を鑑賞してみてください。きっと、他人ごとではないことに気づかれることでしょう。

わたしはどれも一度ずつしか観ていないので、また記憶が薄れた頃に再度鑑賞してみたいと思っています。セミナーに参加された人は、ご感想などをお寄せくださるとうれしいです。


最後に
あなたは今を生きていますか?

悲しみや苦痛を感じるとき、「こうである必要はない」と思ってください。
不安を覚えるときも、怖れを抱くときも、臆病であるときも、
それらはエゴの気まぐれからきているということに気づいてください。

あなたがネガティブ思考で一杯のとき、
どん底から這い上がれないとき、
そこにいるのが正当だとは思わないでください。

そんなに泥沼に浸かっていたいですか?
そこが好きなら、永遠にそこにいることもできます。
でも、そんな自分に愛想が尽きているのなら、
そうである必要はない」のです。

思いの制限をひらきなさい。
さあ、泥沼から足を洗って、光のシャワーを浴びましょう。

2017年4月5日
光のお母さんより


ひまわりさんと光のお母さんとの対話 ~第8弾 光/愛を受け取れる人、受け取れない人~

2017年04月16日 17:30


桜が葉桜に変わりつつ、日に日に気温が高くなっていますが、皆さま、お元気でしょうか? 

4月のセミナー後のお花見は、まだつぼみで花を見ることが適わず、とても残念でした。今年は全国的に開花時期が遅かったようで、大根島の桜も一週間ほど遅れました。お花見の10日後の13日にひとりで再度大根島に行ってみたのですが、そのときは満開で、芝生にはすでに散った花びらでピンク色に染まっていました。それでもまだまだ美しくて、有志の皆さんに見せてあげたかったと切に思った次第です。桜に「ありがとう」を言いながら、大塚山公園で写真を撮ってきましたので、どうぞ見てください。


大塚山の桜1
   2017年4月13日大根島大塚山公園にて



ひまわりさんと光のお母さんとの対話
~第8弾 光/愛を受け取れる人、受け取れない人~


<飴玉を受け取ることについて>

ひまわり:「困ったちゃんの心理」のシリーズで、ROM先生、光のお母様からいただく愛と光を飴玉と表現されていた箇所がありました。その表現がとても的確だと思いましたし、なんだかとても好きな表現なので光のお母様とのメールのやり取りなどでよく使わせて頂いています。
さて、つい先日でしたがネガティブな存在を引き寄せてしまった際に、ROM先生、光のお母様から今まで頂いた飴玉を私が受け取れていないとお知らせいただき、あまりのショックに呆然としました。飴玉をたくさん頂いていたことは理解しているのですが、それらを受け取れていなかったことは頭では全く理解できずにおり、ただただ涙が出るばかりでしたので、頭よりも身体の細胞のほうがそうだ、そのとおりだと言っていたように思いました。
初めての対話で「光のお母様からはすでに山のように飴玉をいただいていたことに気づいたら、もっと欲しいとは思わなくなりました。」とお伝えしていたにもかかわらず、ここしばらくの間、すっかり調子を崩してしまって何度も光のお母様のお手を煩わせてしまいました。今まで本当にたくさんの飴玉を頂いていたので、「それが身に付いていたらこんなに調子を崩すことにはならないでしょう」と指摘されて、おっしゃるとおり飴玉を受け取ることが出来ていなかったのだと思いました。ただ、受け取らないと拒絶したつもりはなく、ましてや捨てたりなどしていないのに、受け取れないということがどういうことなのかが頭では分かりにくいので、どういうことなのか教えて頂けませんでしょうか?



大塚公園の桜2
   2017年4月13日大根島大塚山公園にて


<飴玉を受け取るという意味>

光のお母さん:飴玉は本来舐めるものですね。舐めてその美味しさを感じなければ、いくら持っていても意味がないものです。飴玉をしっかりと味わい、自分の胃の中、腸の中に吸収されたなら、それに満足感を覚え、身につくのです。
わたしが皆さんに差し上げている飴玉は、その人に応じて内容が違うので、味もさまざまに異なっていると思いますが、愛がいっぱいつまった光でできた飴玉です。その効果は細胞レベルにまで及びます。それを食べたら、一個で満腹感を覚えるはずなのです。ところが、一個では足らずに、何個も何個もほしがる人がいます。過去生を含め、幼少時からずっと愛に飢えていた人は、ほしくてしかたがないし、もともと欲張りの人は何十個も何百個も限りなくほしがります。ほしがるからその都度あげるのですが、その飴は一体どこにいったと思いますか? ひまわりさんの場合は、どうでしたか?

ひまわり:飴玉はもったいなくて、その場ではすぐに頂かずにとっておいていたような気がします…。また、ときどき自分には飴玉を頂く資格がないような気がしてしまって受け取れなかったのかもしれません。

光のお母さん:「受け取る」と言うよりも「受け容れる」と言ったほうが、わかりやすいかもしれませんね。わたしが言う「受け取る/受け容れる」というのは、飴玉をもらったらすぐに口の中に入れて、しっかりと味わいながら幸福感で満たされ、それを腹にまで落とすことです。その滋養あふれる光/愛が細胞レベルまで浸透して、細胞が喜んではじめて「受け取れた」と言えるわけです。そうなったら、本当に満足できるので、またすぐに飴玉を欲するようなことはありません。細胞がちゃんと記憶しているからです。
あげても、あげても欲しがるような人は、うまく消化吸収できていないか、もらったけれども籠に入れて積んであるだけで実際に口に入れてとことん味わっていないということになります。

さきほどひまわりさんは「ときどき自分には飴玉を頂く資格がないような気がしてしまって受け取れなかったのかもしれない」と言われました。「資格がない」というのは、「自分には価値がない」という観念から来ていますね。「自分には価値がない」と思うと、当然のことながら自分を愛せなくなります。「自分は愛するに値する人間ではない」と思うと、人からは何も受け取ろうとしなくなるのです。
毎回プラーナを補充しても、すぐにエネルギー/プラーナ不足になる人は、真に受け取っていない、受け取れていないからなのではありませんか?
もしあなたがそうだとしたら、わたしがあげた飴玉はもらったふりをしていただけで、真に受け取って、食べてはいなかったということになります。
どうですか? 真の意味で飴玉を一個一個喜んで受け取り、とくと味わってこられたでしょうか?

ひまわり:ものすごくショックなのですが、おっしゃる通りだと思います。受け取る資格がないと思うのは私の課題と直結していると思いますし、飴玉を味わえていなかったのだと思います。最近は毎日のように見えない身体が壊れてしまい、先日光のお母様が「細胞が見えない身体を保護しようという協力体制になっていない」とおっしゃられたことが本当にショックでした。もったいないから飴玉を取っておこうと思ったのは、大いなる間違いでした。飴玉が必要な細胞のためにも、頂いたらすぐに包みを開けて口に入れる必要があるのですね。

光のお母さん:そうですよ。飴玉は、口に入れて味わうことに意味があるのです。とっておいても何の足しにもなりません。
なかには、飴玉をもらっても、その飴玉の価値が全くわからなくて、感謝の気持ちがなく、「なんだ、これだけ?」としか思わないような人もいます。その愛を無下にしてしまっているわけですね。そういう人は、「受け取る能力がない」ということです。そういう人にいくら飴玉をあげても、ほとんど意味がありません。滋養になっていないのですから。だから、同じ過ちを何度も何度もくり返すのです。飴玉を今までたくさんもらっているはずなのに、その人がその後どうなったか、その結果を見れば一目瞭然ですね。

ひまわり:もう本当に耳が痛いです…。今まで頂いた飴玉をかき集めて今すぐ食べて、細胞に喜んでもらい、愛を感じてもらわなくてはと思いますし、受け取る能力を身につけなくてはと思いますが、受け取る能力はどうすれば身につくのでしょうか?



紫モクレン
     紫モクレン  撮影 光のお母さん


<「愛/光を受け取れる能力」は、「自分を愛する能力=他者を愛する能力」>

光のお母さん:そもそも「受け取れる」「受け容れられる」という行為は、自分を愛していないとできないものなのです。自分を真に愛していれば、素直に受け取り、受け容れることができます。ですから、あなたが自分自身をほんとうの意味で愛していれば、飴玉を喜んで受け取り、受け容れられるはずなのです。「愛/光を受け取れる能力」は、「自分を愛する能力=他者を愛する能力」と言ってもよいでしょう。そのことがわかりますか?

ひまわり:今まで飴玉を受け取っていたつもりだったのにできていなかった理由が良くわかりました。自分を愛することを止めてしまっていたと反省しています。辛くて自分の問題を直視できずにいたので、問題と向き合えずに自分を責め続けて時間とエネルギーを無駄にしてしまいました。申し訳ありませんでした。
これからはもっと素直になって、必要なときは光のお母様に「飴玉をください!」と手をあげます。そして頂いたら間髪を入れずに飴玉を口の中に入れて味わいます。

光のお母さん:わたしが差し上げた飴玉を、心から喜んで受け取ることができるのはたいてい個体です。但し、個体の霊格にもよるので、すべてが受け取れる能力があるとは言い難いですが、本体の場合は、まちがいなく愛と感謝の気持ちで受け取り、受け容れて、そして愛と感謝を返してくれます。高次元の存在ほど、受け取る能力は高いということです。
残念ながら、肉体意識でそれができるのは、現在わたしの知る限りではいらっしゃいません。つまり、高次の存在ほど、自分自身を愛し、他者を同じだけ愛することができるということです。
「愛/光を受け取れる能力」は、「自分を愛する能力=他者を愛する能力」であるということを、覚えておいていただきたいと思います。
 
       
白い花
        撮影 光のお母さん


<光の積木崩しについて>

光のお母さん:くり返し「光の積木崩し」をしている人が多々おられますが、そういう人は飴玉を味わうことなくドブに捨てているのです。その人のために費やした労力と時間が無駄になったことを知ると、「その人の選択の自由だから仕方がない」と思いながらも、やはりがっかりしますね。

ひまわり:受け取っていたつもりが受け取れていなかった私は五十歩百歩だと思うのですが、ドブに捨てるということが私には理解しにくいです。ドブに捨てるということは自己探究の大変さや苦しさから、光に向かうことを諦めてしまったということでしょうか?

光のお母さん:して差し上げたこと(飴玉)の価値や意味、その効果がわからなくて、厚意を無下/だいなしにしてしまうということです。わたしのほうからすると、したことが全く無駄となってしまっていて、やった甲斐がないということです。

たとえば、過去にお金に困っている人がけっこうおられたので、電話相談料を無料にしたり、経済的な余裕ができるまで何か月も待ったり、その人がお金の心配をせずに光に向かえるよういろいろと便宜を図ったりしたことがありました。しかし、結果を見ると意味がなかったことがわかるのです。悪霊の力に負けてしまったのか、三次元的思考に堕ちてしまったのか、何の報告もなしに光のコースを止めてしまった人が何人もいらっしゃいます。もらった飴玉をしっかりと味わっていれば、決してそういう結果にはならないのです。
そういう人は、飴玉をいくらもらっても「受け取っていない」「受け取れない」のです。欲しいくせに受け取れない。だからいつまで経っても、光/愛の何たるかがわからないのです。
「天邪鬼」を演じている人や恩を仇で返すような人は、光や愛に満たされることはありませんから、決して幸福にはなれません。自業自得なのですよ。

ひまわり:私も「天邪鬼」の傾向があり、ブログの「困ったちゃんの心理①」を読ませて頂いた後、光のお母様に「あれは私のことだと思いました」とメールさせて頂いたのを覚えています。しかし、何度もブログを読ませて頂き、課題等を進めて行くうちに、「天邪鬼」でいると相手を傷つけるだけではなく、自分の首を絞めるだけだと思いましたので、もう卒業しようと決めて素直であるよう心がけています。むしろ「天邪鬼」よりも「良い子」を演じる方が卒業しにくいように思っております。どちらも本来の自分ではなく仮面をつけて演じているという点でコインの表裏で同じことのようにも思えるのですが、光のお母様はどう思われますか?「天邪鬼」は明らかに損をするけれど、表面的には得になりそうな「良い子」や「善人」を演じることをやめられない人が多いような気がしますし、自分もその傾向が強いのでこのあたりを掘り下げたいです。

光のお母さん:わたしからすると、「天邪鬼」も「良い子」も自己欺瞞なので、本人が苦しいだけで、何の得にもならないと思います。
「良い子」や「善人」を演じても、わかる人にはすぐにわかるものですよ。世の中には、「偽善者」にすっかり騙されてしまっている人たちも多々おられるようですが、人を見る目を養うこと、その人の本質を見抜く力が必要ですね。特にカウンセラーのような仕事を目指しているような人は、透徹した目がないと、できません。自分自身のことをよく知らず、自分自身を欺いているような人、つまり自己欺瞞に陥っているような人は、相手が偽善者かどうかを見極める目を持つことはできないのです。
非難中傷して人を裁いてばかりいるような人がけっこういますが、そういう人というのは、相手の外面、それもほんのわずかな部分だけしか見えていないということです。

ひまわり:私は長い間、自己欺瞞に陥っていたことに気づいていませんでした…。ただただ苦しかったのは確かです。自己欺瞞に陥っている人は他者を見極める目がないというのが理解しにくいのですが、教えて頂けますでしょうか?

光のお母さん:「欺瞞」とは、「だます、あざむく」という意味ですから「自己欺瞞」とは、「自分をだましている状態」です。自分の良心/本心に反しているのをどこかで気づいていながらもそれを正当化している状態、あるいは、自分に問題があることに全く気づいていない状態のことを指しています。
自分自身のことを正しく見て、判断することができない人間が、どうして他人のことを正しく見て、判断することができるのでしょうか? また、自分の良否や真偽、正常か異常かを見極められないような人間が、他人の良否や真偽、正常か異常かを見極めることができるのでしょうか? 
どうですか? これでご理解いただけましたでしょうか?

ひまわり:ご説明いただきありがとうございました。理解できました。もっと内側に向かう必要性を強く感じました。



桜
    大塚山公園の桜  撮影 光のお母さん


<おせっかいについて>

光のお母さん:イエスが言っていますね。「なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう」
(マタイによる福音書7章3節~5節:日本聖書協会 聖書より)

イエスは、「裁いている人の目の中には梁が存在していますよ」と言っているのです。裁いている人自身は、相手のことをよくわかっていると思い込んでいるのですが、目に「梁」があるために、ほんとうのことが隠れてしまって見えなくなっているわけです。こういう人に限って、他人の目にある小さなちりが気にかかって仕方がないんですよね。そして、相手の目にあるちりの存在を指摘して批判や非難中傷をしたり、「そのちりは邪魔だから、私が代わりに取り除いてあげよう」と、自分では善意だと思って、その人のためにおせっかいなことをやろうとしてしまうわけです。そういう人、周囲にいませんでしたか?

ひまわり:はい、たくさんいました。そして自分もその傾向がとても強くあります。善意のつもりでやっていることなのでおせっかいではなくて思いやりのつもりなのです。こちらの善意のつもりで行ったことが、結果として相手にとって良い結果をもたらさなかったとき、自分がしたことはおせっかいだったのではと思ったのですが、それを認めたくない自分がいました。「私の善意に応えない相手が悪いのだ、私は悪くない」と思いましたが、どのような反応をするかは相手の自由ですし、相手が期待通りの行動をしないからといって怒るのは私の主張を押しつけているだけだと気がついたら、今度は相手に申し訳なくなって執拗に自分を責めました。
誰も幸福にならないことに時間とエネルギーを費やしてしまい、つくづくバカバカしいことをしていたと思います。
そして冷静に考えると、相手に対するおせっかいはほんとうは自分自身の問題を相手に投影していただけなのではないかと思っています。
この数ヶ月、おせっかいな自分のせいでかなり愛から遠ざかってしまいました。おせっかいはもう卒業したいと思います。もっと自分の内側に向かって行く必要を感じます。

光のお母さん:そうですね。自分のことを棚に上げて「おせっかい」という「愛の押し売り」をしないことですね。

「なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう」
このイエスの言葉を、ぜひ覚えておいてほしいのですが、ひまわりさんは、この「梁」とは何のことだと思いますか?
「梁」が象徴しているものは、何でしょうか?



モクレン
     紫モクレン  撮影 光のお母さん


<目の中の梁とは何か?>

ひまわり:「梁」は家の屋台骨でもありますので、自分の根幹となるもの、思い込みも含めた信念を象徴しているのではないかと思います。また、「梁」は「チリ」と比較するととてつもなく大きなものだと思うので、その大きな「梁」、信念、思い込みによって目が塞がれている、視界が遮られて狭くなっているということなのかなと思ったのですが、如何でしょうか?

光のお母さん:そうですね、イエスがどんな内容を想定して「梁」と言われたのか、その真相は定かではありませんが、わたしの見解では、『目に梁が入った人』というのは、『間違った思い・勘違い・ズレた受け取り方をしている人』『異常波動を引きつける原因をたくさん持っていて、物事を自己中心的に受け取る人』つまり、『勘違いをしているくせに、自分は間違っていないと思い、自分の間違いを認めたくない人』すなわち『歪みがひどい人』ということになりましょうか。
そういう人は自分の都合のよいものだけを見たり聞いたりしますが、都合の悪いことは見ようとも聞こうともしません。「悪霊に影響されている人は、聞く耳を持たない」と以前から伝えておりますが、「あなた、勘違いしていませんか? その受け取り方は間違っていますよ」と言うと、「間違っているのはおまえのほうだ、正当化しているのはおまえのほうだ」と逆上して悪態をついてくるような人です。『自己愛性人格障害』のある人に多い症状です。すべて『歪んだ自己愛』から生じていることですね。

ひまわり:そのような人と話をしていても堂々巡りとなってしまい、話が通じなくて嫌になって離れたくなってしまいます。ある人物がすごく嫌になってしまい、理由を告げずに離れていったらその人物に執拗に追いかけてこられたという過去生が出てきましたので、「それはおかしい」と伝える必要があると思っていますが、逆恨みされるような気がしてなかなか難しいです。異常波動になって悪霊等のネガティブな存在をたくさん憑けてしまっている人に、おかしいと指摘する際のアドバイスを頂けませんでしょうか?

光のお母さん:逆恨みされるのが嫌なら、言わないことです。相手を大切にしたいのか、自分を大切にしたいのか、どちらも大切にしたいのか、あなたが何を選択したいかです。
相手に悪く思われて、嫌な思いをしたくないのは、自分を大切にしたいだけですから、そこに相手への愛はありません。怖れ自体が愛の欠如です。何かを怖れているとき、そこに愛はないと覚えておいてください。
もし愛をもって、相手に「あなたの状態、言動おかしいよ」と伝えたいなら、相手がどのような反応をしようが、その結果を気にしないことです。毅然として伝えることです。それができないなら、あなた自身にまだ準備ができていないということになります。
あなたに説得する能力があれば、憑いている悪霊だって改心させることができますし、彼らを浄化してあげることも可能となるでしょう。「逆恨み」を懸念しているようなら、最初から近づかないこと。関わりを持たないことです。以前に悪霊の対処法をブログに書いていたと思いますが、思い出していただきたいと思います。

ひまわり:ああ、耳が痛いです…。伝える努力はしているつもりなのですが、相手の反応や結果を気にしすぎるのだと思いました。結果が伴わないと自分の言い方が悪かったのではないかと落ち込んで自分の行動を後悔してしまい、ネガティブ霊の影響を受けてしまうなど、明らかに準備不足でした。説得する能力を身につけて伝える際も、その後も毅然とした対応ができるようになりたいです。私の「梁」は弱い上に歪んでいるようです…。

光のお母さん:実は、このイエスの言葉を思い出したとき、「梁」について調べてみたのですよ。その文字の語源は、「向こうへ渡る」という意味が変化したものだそうです。飛び越えられるくらいの川幅ではないとき、川に丸太や何か渡れそうな「横に掛かる」物を置いたりしますが、そのように「向こうへ渡る」行為によって生まれた「横方向に掛かる部材」が「梁」なのだそうです。建築的に言えば、「梁」は屋根を支えるため両側の支柱に架け渡す横木のことです。建物は、「柱」と「梁」の両方あってこそ成り立つものですから、この横木となる「梁」が弱すぎたり、歪んだりしていると、柱が倒れてしまいますね。そういう重要な役目を担っているものです。

ひまわり:土台、梁、柱、あらゆる部位を歪みなく強固にしていきたいです。そのためにも、まずは自分へ愛を向けます。
愛を受け取ること、受け取れないことについて色々な視点からご説明くださりありがとうございました。このたびの対話で自分自身が如何に自分を愛せていなかったかが良くわかりました。自分を愛せるようになるためにアファメーションをたくさん唱えようかと思ったのですが、光のお母様が「意識が変われば細胞は変化する」とおっしゃったのが心にとても響きました。今まで学んで来て知っていたはずのことが頭でばかり考えていたらするりと抜けてしまったようで、自分を愛することは難しいと思っていましたが、シンプルに無条件にただ自分を愛することに意識を向けて細胞が変化するよう促します。そして、他者の愛を受け容れられる器になっていきたいです。ROM先生、光のお母様からの飴玉以外にも、受け容れることの出来なかった愛が多々あったのではないかと思いました。愛はそこにあったのに、自分が受け容れることができなかった、受け容れることができずに自分は愛されていないと思っていた。これも負の連鎖だと思いますので、今、断ち切ろうと思っています。
このたびも対話をさせていただきありがとうございました。

光のお母さん:どういたしまして。気づきが得られ、内容が深まったのであれば幸いです。




花の贈り物
      贈り物 撮影 光のお母さん


◆光のお母さんからのメッセージ



ひまわりさんと光のお母さんとの対話も第8回目を迎えました。記事に掲載するのは、とりあえず今回で終了したいと思うのですが、対話はまだまだいろんなテーマで続けていきたいので、たくさんできましたら、今度は別のかたちで皆さんにご覧いただけるようにしたいと思っています。

ROMからのメッセージは3記事だけを残し、あとの14記事は削除させていただきました。ROMがもう必要ないと言った(皆さんに本体が入らなくなり、個体すら入っているケースがごく少なくなった)からですが、大切な話も網羅されていましたので、重要な箇所のみピックアップして、またまとめて記載したいと思っています。
これからも、過去記事で必要性を感じなくなった内容はどんどん削除していき、整理していきたいと考えておりますので、どうかご了承ください。




桜2
   大塚山公園の桜  撮影 光のお母さん


◆お知らせ

5月は電話相談のみ行います。

5月に電話相談(波動調査付き60分まで1回9,000円)を受けたい
5月に光のコース:1か月4回の電話相談(波動調査付き60分まで×4回30,000円)を受けたい

今後新規で希望される人がおられるかどうかを知りたいので、fc2メールにてお知らせください。
6月に光のコース:1か月4回の波動調査(詳細調査カルテ付き)を受けたい 
6月に光のコース:課題の個人レッスンを受けたい  
6月に光のコース:1か月4回の電話相談(波動調査付き60分まで×4回)を受けたい

20日~25日までfc2メールよりご応募ください。


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