「原因と結果の法則」―これあるによりてこれあり

2013年07月05日 00:00


★ 蓮の花セミナーを終えて ★



過去生回帰の個人セッション』と『蓮の花セミナー』が無事終わりました。

今回は『自分自身を最高の友とするために』ということで、『蓮の花』にちなんだわたしのもっとも好きなブッダの言葉をお伝えし、今までのセミナーにはない満足感を得たのですが、瞑想にあてた時間が多くて語り足りないこともあり、もう少し時間がほしかったな~と思いました。
ご参加くださった皆さんは、いかがでしたでしょうか?



あじさい


1日2日と、朝は陽光が射しておりましたが、夕方は両日ともどうやら雨が降ったようです。
地面が濡れていたためそのことを知りましたが、会場を出るときはすっかり上がっており、2日目の砂浜での散策もでき、雲間から時折金色の光を放つ夕陽を見ることもできました。
素足になって、砂浜を歩く心地よさを感じておられたり、浜に落ちている小さな貝を拾ったりされている皆さんの姿が無邪気な子どもさながらで、大変印象に残りました。

弓ヶ浜の散策をせずにそのまま島根県に帰られた方によりますと、帰りの道中は激しい雨だったそうです。
海岸散策の時間までにすっかり雨が上がっていたのは、至極ラッキーであったと言えるでしょう。


sea


さて、今回は『過去生回帰の個人セッション』を行なう数週間前に、その人がもっている「人生の課題」のうちのひとつのテーマを提示させていただきました。

それは「犠牲」であったり、「罪悪感」であったり、「無価値感」であったりしましたが、それについて書いていただいたそれぞれのレポートを読みますと、皆さん、それなりに思い当たることがあったようです。

たとえば、『犠牲』の課題が与えられた人は、つぎのように書き始められていました。

いただいた課題ファイルを開き、『犠牲』という文字が目に入ってきた瞬間、何とも言えない感情が湧き上がってきました。しばらくの間、茫然とパソコンの画面を眺めていました。涙があふれてきました。そして「やっぱりまだ終わっていなかったんだ……」という思いが込み上げてきたのです。

また、『罪悪感』の課題が与えられた人は、つぎのように書いておられました。

『罪悪感』という感情は、時々私の感情の中でじわじわと広がり、心身を蝕んでいくものです。生きる気力を失う、生きることを放棄しようとする方向へ突き進ませる強いエネルギーとして存在しています。この言葉に向き合うとき、血の気が引き、身体の奥深くからえぐられるような深い悲しみがあふれ出し、涙が止まらなくなります。今、こうして文章を綴っている時も、涙が出てきます。私はこの感覚を、様々な場面で、繰り返し体験し、決して忘れることがないよう魂に刻むようにしてきたと思います。今生においても、冷静に物事を判断している自分がいる一方で、外側から何か責めを受けているような感じがして、緊張することがあります。


このように、そのテーマを見た瞬間に「すでに知っている」という感覚をもっておられたわけで、いかにそのテーマがその人の人生に影響を与え、密着してきたかがわかります。

課題のレポート」に対するわたしのコメントや質問に対して、何回かレポートを提出していただき、課題の探究が深まった時点で、『個人セッション』をするという初の試みは、当日の「過去生回帰」を行なう上で大変効果があったと思います。

なぜなら、ご本人もそれを常々自覚されていて、「その悪影響の原因を真に知って、断ち切りたい」と、さらなる決意を抱かれたであろうと思うからです。

セッション中に、ちょうどその課題の原因となっている過去生の人物が実際に登場し、その人物の思いを感じ、その人生に起こった出来事の映像を垣間見たとき、「ああ、この出来事が原因だったのだな~」と真に納得できたことでしょう。

これまで、ときどき脳裏によみがえってきていた断片的な映像。そのとき湧きあがった不思議な感情や感覚。それが呼び起こされていた理由が明白となり、すべてがつながり、そうだったのだと確認できたがゆえに、長い間自分に悪影響を与えていた人物を切り離し、解放することができたのです。

どなたも、ご自分に影響を与えていた人物がふたりずつ登場しましたね。
そのうち、分霊の過去生と本人の過去生がひとつずつ出てきた人もいました。
やはり、本人の過去生がもっともつよい影響を与えているということがお解りいただけたのではないかと思います。
また、悪影響を与えているわけではなく、常に本人を励ましてくれているような良い影響を与えている存在が出てきたケースもありました。それで、その存在は貴重でまだ解放したくなくて、もう少し側にいてもらいたいという人もおられましたね。

なかなか問題の人物が映像に現われてくれないケースもありました。
まだまだ自分の罪を裁いていたくて、暗い場所に留まっていたくて、癒される準備ができていなくて、頑なに出たがらない人もいたのです。けれども、彼(過去生の自分)がそうしている間、今生に生まれて自分自身の人生を歩もうとしている者にまちがいなく悪影響を与えているわけですから、早く登場して気づいてもらわないと困るわけです。
それで、「いつまでもそんな思いのままで、そこにいても意味がないので、出てきなさい」と説得して、ようやく出てきてもらうことができたのです。

なんだかんだと言いわけをして渋っていても、「愛と祝福に包まれた白い光の世界へ行きませんか?」と誘いかけると、結局はみんな「行きたい」と希望するのです。
あれだけ意固地になって出てくるのを嫌がっていた人でも、やはり暗くて狭い所から出て自由になりたいんですね。だから、一旦出てくると、すんなりと明るい世界へ旅立っていくのです。面白いですね。

セミナー時に「人間の内部にある最も深い衝動とは何でしょうか?」という質問をしましたが、この記事を読んでおられるあなたはどうでしょうか?
だれしも切望しているもの。深い魂の衝動とは……?

それは「完全に自由になること」です。「究極的な解放」です。
究極的には、それをみんな望んでおり、「完全に自由になりたい」という深い衝動をもっているということです。

今回『過去生回帰のセッション』を行なった4名の方々は、それぞれ映像として現われた分霊や本体(自分自身)の過去生を完璧に解放することができました。
それまで心臓のあたりが痛いと言っておられた方は、解放されたあと、その痛みが消えたと自覚されていましたね。
それは、解放されたという記念すべき印です。めでたしめでたしです。

但し、それですべてが終ったわけではありません。
一件落着しただけで、その人の過去世は数限りなくあるわけですから、同じようなカルマを背負って何生にも渡って受け継いできて、そのカルマを解消できなかった人たちがまだまだ存在する可能性はあるということです。
その人の「課題」がひとつだけとは限りません。「過去生回帰」は何度も行なう必要があると言われますが、それはそういう意味なのです。
ですから、今後どのようにご自分が変容していくかを、静かに喜びをもって見守っていていただきたいと思います。



青アジサイ


★ これあるによりてこれあり ★



これあるによりてこれあり
これ生ずるによりてこれ生ず。
これなきときにこれなし。
これ滅するによりてこれ滅す。
 


これは、ゴータマ・ブッダが説いた『縁起』の公式とも呼べる言葉で、いわゆる『原因と結果の法則』を述べていると言ってよいでしょう。

縁起』の公式について、こんな卑近な例があります。

ときどき祇園精舎のブッダのところへやってきて、ブッダの教えを聞くことを楽しみにしていたコーサラ国の王、パセーナディは、随分肥満した身体だったようで、いつもフーフーと肩で息をしていて苦しそうであったといいます。
それを見たブッダは、こう説かれたそうです。


人はみずからよく懸念して量を知って食をとるべし。
さすれば、苦しみも少なく、老いること遅く、寿を保つならん。


何があるからそんな苦しい思いをしなければならないのか?」と、まず原因を考えてみなさいということですね。
その原因はというと、「大食するから」です。
なぜ大食するかといえば、それは「その人の無智、考え方が足りないから」だということになります。
したがって、その苦しみを除くためには、「自ら懸念して、量を知って食を摂るのがよいですよ」ということになります。 


この「縁起の公式」にあてはめると、たいてい解決ができますね。
人間はたいてい何かに執着して問題を生じさせて場合が多いので、では「何があるがゆえに執着があるのか?」と追及していくのです。
そうすると、「無知・無智があるから」だということがわかってきます。

仏教では、それを「無明」と言っています。そのことは、過去記事にも書いておりますね。
つまり、「」→「執着」→「無明」という系列がそこにあることがわかります。
その原因たる「無明」をなくせば、「」はなくなるということですね。

では、「無明」という「無智」を克服するにはどうすればよいのでしょうか?

これをそれぞれのケースに合わせて、それぞれ自ら考えてみなさいよということです。
それには、自己というものを深く探究し、そのありようを把握することが必要となってきます。だからこそ、一貫して皆さんに「自己の探究」をおススメしているのです。



ブッダが見つけた法則は、彼が見つけようが見つけまいが、すでにあったものです。
一切の存在は、すべて条件があって生起したものであるということ。
つまり、何ものかに「縁(よ)りて起こる」ということです。「縁起」という訳語はそこから来ているものと思われます。
一切の存在のありようは関係のなかに成り立っているということで、それは『原因と結果』との関係のなかに存在するということです。



これあるによりてこれあり
これ生ずるによりてこれ生ず。
これなきときにこれなし。
これ滅するによりてこれ滅す。



播かぬ種は生えません。
因となる種を宿しているからこそ、あなたは生まれ、死んで、またいずこかに生まれるという輪廻転生を、あきもせず繰り返しているのです。
「苦」から解放されるため、「因縁」を探り、消去してしまいましょう。





テッセン紫


★ お便りからのご質問 ★



【ハンドル名】 シンティラ  55歳  静岡県


はじめまして。
ずっと釘付けになって読んでいます。ありがとうございますとしか言いようがありません。私が知りたかったこと、学びたかったことにやっと出会えたように思います。
そんな中、ここ数カ月の間に身体の不調が続いておりたいへん辛く困っております。
霊的な影響しか考えられません。
読ませていただいた中で、自分波動病なのか?どのようなネガティブナエネルギーを受けて辛い状態であるのか?原因を知ることと、霊的に体を守る方法も学びたいのです。
1週間前も、突然の心臓の動悸と頻脈で救急搬送されました。診断は不整脈の気がある。ということで1週間ほど入院いたしました。
お薬を飲んで落ち着いてはおりますが、軽くなっているだけで根本的な改善や症状は残ります。
どうか何とか回復するようにご指導くださいますようお願い申しあげます。



カヴィーシャ: あなたはわたしのブログにまだ訪問されたばかりでしょうか? 
もし、毎日多々読んでおられるのであれば、『霊的に身を守る方法』など、必要事項は過去記事の至る所に書いてありますので、再度お読みいただきたいと思います。
心臓のトラブルにつきましてはマザーテレサのところでも書きましたが、限界を超えて無理な努力をし、肉体を酷使している人に多いのです。よって、早急に「物事の見方を変える必要」があります。

肉体的な心臓疾患ではなく、波動病かどうかは、きちんとあなたのお写真などを見てお調べしなければ、正しくお伝えすることはできません。
憑依体質であるにせよ、波動病症候群にせよ、そのような状態になっている原因のほとんどは「自分の意識」です。
あなたの意識を変えることが先決ですよということです。

これも『原因と結果の法則』に照らし合わせれば、自ずと明らかになってくるのではないでしょうか?

記事をすべて読まれて理解なさったのなら、ある程度のことはご自分でできるのではないかと思います。
『課題』に取り組まれて、自己探究をなさるのもひとつの方法かもしれません。
書かれていたことすべてを試みても不調が改善されないのなら、再度お便りをください。




自己を整えてこそ自分の得難い主となる 

2013年07月11日 00:15


今回は、先日行ないましたセミナーに参加されたM.Yさんのレポートの一部を掲載します。彼女の気づきが、皆さんの参考になれば幸いです。



区切りのライン

    ~「7月 蓮の花セミナー」のレポートから ~


                         49歳 女性 兵庫県 

今回のセミナーでは、まず、カヴィーシャ様が小学生や中学生の頃に出会った「ブッタのことば」などの書籍などをご紹介いただきながら、その頃に出会ったその美しい言葉に感銘を受けられたお話などをお聞きでき、とてもわくわくして聞き入っていました。

セミナー後に、早速三冊の書籍を購入しました。一語一語、一文一文の意味が深く、すぐには深く理解し難い内容が多そうですが、少しずつ読んでいこうと思っています。
小学生の頃から、この様な本を好んで読んでおられたカヴィーシャ様に頭が下がる思いです。

後のブログで語り足りなかったと書いておられましたが、また、カヴィーシャ様の経験談などをお聞きできるのを楽しみにしております。


そして、「自分自身を最高の友とするために」では、人間の内側にある最も深い衝動が「自由」であることを知り、自分自身が真に「自由」でなかったことに気づきました。
まだまだ他人の目を気にしたり、人から頼られることをさほど何とも思わない自分がいて、そんな自分は逆に他人に依存しているのだと思いました。
自分の存在意義を他人の中に求める傾向があり、自分の存在意義を自分の中に求めることができれば、自分自身で満ち足りた人になることができるのですね。
これからは、「自由であること」を意識して、真に「独りで在る人」でいたいと思います。
そして常にそう意識していることができれば、これから自分が何をどう選択していけば、自分が真に自由で自分自身で満たされていくのかを考える時の道標となると思います。

これを、小さなことから始めて習慣化し、大きな選択をするときにもすぐに当てはめることが出来るようにしていこうと思います。

自分の「自由」に焦点をあてて考え始めると、何だかとても開放感があって、これからは縛られた自分の考えや枠、思いの制限から開放され、自分の求める人生を送ってもいいのだという安心感が生まれました。

思いの制限を開いているつもりでもできていませんでした。子どもたちの為にこうしようという考えを少し横に置き、自分はどうしたいのかを最優先に考えるようにしようと思いました。
そう考えた時に、まず自分はこうしよう、そして、そうすることにより子どもたちのことはこうしようと、順番を変えるだけで、その他の行動も変わってきますし、自分を優先して考えることが出来るようになると、他の人のことも、より大切に、より愛を持って行動できるのではないかと思います。


また、自分自身が独り在る人で、自由に行動できるようになると、他人に対して不満を感じたり、怒りを感じたりすることが少なくなり、人それぞれの真実として受け入れる寛容さが生まれてくると思います。
自由に行動することによって、自分が自分に寛容になることが出来るから、人にも寛容になれるのだと実感しました。


自分自身を光で満たして光を送る瞑想では、自分が今まで光を送ることが出来ているかどうかが確認できていませんでした。でも、カヴィーシャ様に調べて頂き、自分がどうすれば光を送ることが出来ているかを確認することができたので、これからは、その感覚で送っていきたいと思いました。


★カヴィーシャ: 今回のセミナーでも、オーラとチャクラを閉じるエクササイズをやりましたが、その際になぜあなたのオーラが閉じなかったのか、光の放射ができにくかったのか、理由がおわかりになったと思います。
「ここが痛い」と言って手で押さえられた身体の場所を調べると、オーラが破れていることがわかりました。
背中の下の辺りが疲れると直ぐに痛くなり、その日も少し痛いということでした。

オーラが破れている(あるいは穴があいている)とオーラを閉じることができないのです。コントロールがきかなくなると言ってもよいでしょう。そこから光が漏れてしまうので、まず光を呼んでも光に完全に満たされることができないのです。
それで、あなたの場合、その破れを修復した途端に、すぐにオーラは閉じられましたし、そのあとのエクササイズで光の放射をして対象物にも届きました。

ご自分の身体にはかなり敏感な方ですが、ご自分のオーラが破れているということに気づくということがまだできていませんし、光の放射もできにくい状況なので、「できている」という思い込みをしないよう気をつけていただきたいと思いました。
なぜ、オーラが破れるのかも、考えてみてくださいね。


★これは大切なことであり、皆さんにも参考となることであると考えましたので、コメントを付加しました。(7月14日更新)



ハイヤーセルフに出会い、ハイヤーセルフから贈り物を受け取る瞑想では、引き出しを開ける前から虹色に輝く貝に入った大きなパールが見えました。
引き出しを開けても同じで、パールは白く輝き、よく見ると部分的に色んな色に輝いて美しかったです。
私は、彫金を学びながら、体力的なこと、金銭的なことなど不安が出てきていたので、それらの経験を通してパールのように美しく輝く未来が待っているということだと受け取りました。
そして、色々な色に輝くことが出来る可能性も感じました。
カヴィーシャ様から「パールは自分の中に異物を受け入れる苦しみに耐えて作られる」と仰って頂き、正に、今の自分のことだと、これからも自分を信じて頑張ろうと思いました。 
(中略)

最後に
『都大路に棄てられし
塵芥の堆の中より
げに香り高く、
こころ楽しき白蓮は生ぜん』

清浄なる蓮のような人に

カヴィーシャ様から頂いた上記カードの言葉と美しい白蓮のように、どんな状況の中でもこの蓮のようでありたいと思います。

ありがとうございました。

愛と感謝をこめて



★カヴィーシャ: 瞑想中にハイアーセルフから贈られた「虹色の真珠」は、あなたのなかにある宝物です。その宝物は、苦しみに耐えれば耐えるほど、うつくしい虹色の光を纏い、その輝きを増していくのです。
パールに秘められた「流れと変化を促す神秘の力」を感じてください。
虹色の真珠」は、あなたの自己の核心にフォーカスし、真のあなたを理解するための助けとなるでしょう。どうぞその素敵な贈り物を大切にしてください。

真に「独りで在る人」でいたいと書いておられたあなたを心から応援します。
「独りであること」の意味を深く受け止め、実践してください。




トルコキキョウ4


★ 自己を整えてこそ自分の得難い主となる ★




    己こそ 己れの寄る辺

    己をおきて 誰に寄るべぞ

    よく整えし 己にこそ
    まこと得難き 寄る辺をぞ得ん

    (法句経 160番)



上記は、7月の『蓮の花セミナー』でお伝えした重要なゴータマ・ブッダの言葉のうちのひとつです。
この言葉は、ブッダが亡くなられる前に、嘆き悲しんでいたアーナンダ(阿難)に対して語られたものだと伝えられています。

では、わたしなりの解釈で、お伝えしましょう。
このアーナンダはいつもブッダの身の周りの世話をして、ずっとブッダと一緒にいた人ですが、ブッダが亡くなられる前となっても少しも悟ってはいませんでした。

ブッダは尋ねました。「アーナンダよ、おまえはなぜ泣くのか?」と。
すると彼はこう答えたのです。「あなたは私が悟りに至らない前に死んでしまわれる。あなたを見失った後、一体どうすればよいのかわかりません。師よ、私はどうすればよいのでしょうか?」

ブッダは答えました。
「嘆いてはいけない。おまえがおまえ自身の寄りどころではないのか? おまえはおまえの灯火である。おまえ自身のほかにおまえはどこに寄りどころをさがすというのか?」と。
 

先に書いた言葉は文語体なので、わかりにくいかもしれませんが、現代訳にしますと、つぎのようになります。

この世では自己こそが自分の主(あるじ)であり、救護者である。
他人がどうして(自分の)主や救護者であろうか?
(この自己のほかに救護者になりうるものがあろうか?)
よく制せられた自己にこそ、ほんとうに得難い主、救護者を見いだすことができる。


自分にとって、「自分を救えるのは自分だけだ」とブッダは言っているのです。
これは、意識レベルが高くなければ、かえって誤解を招く可能性があるかもしれません。
たとえば、「自分が自分の主なのだから、自分の思うがままの言動をしたらよいのだ」と、人の迷惑も省みず勝手気ままなふるまいをしてしまうというようなことです。
これは意識レベルがかなり低い人の発想ですね。

自分を救うことのできる自分になること

それは非常に難しい課題ですね。


トルコききょう3


★ わたしの人生の根底にあるもの ★



先日の9日は、わたしの60回目の誕生日でした。
「光陰矢のごとしだな~」と、幼い頃から今日までを思い起こしながら、独りでとても心地良い思いに満たされておりました。
わたしがこの地球に誕生する前、数多い人生の選択肢のなかで、下から2番目を選んだということを次女から聞いていましたが、そのようにあえて酷い人生を選んだ割には、自分の思う通りの人生を歩んできたのではないかな? と不思議にも感じたのです。

自分が自分であること。
この「自分という意識」が数えきれないほどの輪廻転生を繰り返していることに気づいたのは、11歳のときでした。これはMさんも書いておられましたが、「蓮の花セミナー」でお話をしましたね。
このしくみを知ってしまった以上、「どうしたらこの世界で気持ちよく生きて行くことができるだろうか?」と、幼いながらも考えたのです。

そして、この「決して逃れられない自分という存在」を、まずは大好きになろうと思い立ったのです。わたしがわたしと未来永劫つきあっていかなければならないのなら、自分で自分を大好きになれるよう自己改革をしようと考えたわけです。他人に好かれるためではなく、ほんとうの自分を生きるためにです。
自分自身が嫌いでは、生きていく気力なんて湧いてくるはずがありませんから。
そんなふうに、自分のことが大好きで、深く自分を信頼し、真に愛せる自分づくりを、その頃から始めたわけです。これは正解でしたね。

そして、14~15歳の頃、「白蓮のごとく生きること」をブッダから教わり、「己こそ己の寄る辺である」というすばらしく力強い言葉をいただいたのでした。

わたしは自己を整えるために座禅会に参加してみたり、自分があやかりたいと思える存在を見つけるために、世界中の聖人・偉人と呼ばれてきた人たちの伝記をたくさん読みました。
当時のわたしの師やお友だちは、ゴータマ・ブッダやイエス・キリストであったのです。それも、あとで人間が考えてつくった仏教やキリスト教という教えではなく、初期のブッダやイエスの本物に近い言葉のみを選択し、自分独りで学んだのです。

その当時からわたしの根底にあったのは、このブッダの「己こそ己の寄る辺」という「自灯明」の精神であり、イエスが語った「独り立つ者」の心境だったのです。



★ 独りで歩むこと ★



ひとり座し、ひとり臥し、ひとり歩み、なおざりになることなく、自分ひとりを楽しめ。常にひとりで林の中に住め」とブッダは語っています。

彼の言葉が集められた「スッタニパータ」や「ダンマパダ」には「サイの角のようにただ独り歩め」とか、「愚かな者を道連れ(伴侶)とするな。ただ独りで行くほうがよい。孤独で歩め。悪しきことをするな。求めるところは少なくあれ。林の中にいる象のように」とか、「○○のように」と動物に譬えた句がたくさん出てきます。

わたしはいつもその言葉を脳裏に刻み、「サイの角」のように学びの林を独り歩んできたのです。

ブッダは「旅に出て、もし自分よりもすぐれた者か、または自分にひとしい者に出会わなかったら、むしろきっぱりと独りで行け。愚かな者を道連れにしてはならない」と語っています。
彼は、常に「独りで歩むこと」を奨めた人でした。



愚かなる者と道を共にするは
長途(みち)に憂いあり

愚かなるものと
居(すまい)を共にするは
怨敵(かたき)と共にすむがごとく
まこと苦しみなり

されど賢き人と共に住むは
親族(親しきもの)と相逢うがごとく
まこと楽しみなり

(法句経207番)



愚人と共に住むのは、つねに苦しくつらいことである」とブッダは言っているのです。
あまりにドンピシャなので、思わずうなずいて笑ってしまう句ですが、真に納得がいく言葉です。
ブッダはどちらかというと「分離」のほうを選択していて、「これって、人との調和から外れているんじゃないの?」と思う人もおられるかもしれませんが、ブッダの「独りあること」のススメには、測り知れない深遠さがあります。


★「統合」する前には、必ず「分離」を経験しなければならないこと。
分離したふたつの極」を、その「両極」を知りつくしてこそ、究極の「真の統合」ができるということを知っておいていただきたいと思います。
 

自己を確立するためには、多数の愚者と一緒にいては、達成することができないのです。
たいてい朱に交われば赤くなってしまうんですね。人間はそんなに強くは出来ていないのです。
家族と一緒にいれば、情にほだされて、自分自身を貫くことはできにくいのです。心や行動の自由が縛られてしまうのです。制限から自由になれないんですね。
だからこそ、ゴータマは妻子を置いて城を脱出したのです。

泥中の白蓮華のように、泥の中にいても泥水をはじき、けっして世間に汚染されないようになるためには、揺るぎない自己の構築が必要です。それには自分の身を整え、鍛えることが必須なのです。
だからこそ、「独りになりなさい」、「自分を拠り所にしなさい」、「自己を確立しなさい」と、ブッダは繰り返し繰り返し語っているのです。




この世では自己こそ自分の主である。
他人がどうして(自分の)主であろうか?
賢者は、自分の身をよく整えて、明らかな智慧を獲得する。

この世では自己こそ自分の主である。
他人がどうして(自分の)主であろうか?
賢者は、自分の身をよく整えて、悩みのうちにあって悩まない。

この世では自己こそ自分の主である。
他人がどうして(自分の)主であろうか?
賢者は、自分の身をよく整えて、いかなる束縛をも断ち切る。

この世では自己こそ自分の主である。
他人がどうして(自分の)主であろうか?
賢者は、自分の身をよく整えて、すべての苦しみから脱れる。




トルコキキョウ5


今回は、わたしのベースとなっているブッダの言葉をお伝えしました。
あなたも、自分自身を自分の主にするべく、わが心身をしっかりと整えてください。
ブッダが言う「整える」というのは、「自分を制御する」、「自己統制する」ということです。
御者が良い馬を調練するように自分を制御しなさいということです。

世の中には、自分で自分をコントロールできない人がたくさんいますが、それでは他のネガティブな存在の餌食にされてしまいます。他者にコントロールされて、自分自身を生きることができないんですね。
そんなふうに、他者に乗っ取られてしまい、他者の人生を自分の人生だとカン違いして歩むことのないよう、くれぐれも気をつけていただきたいと思います。

★「独りあること」に関しては、「光の花束〈不滅の詩〉」の『愛が可能になるのは独りあるときのみ』をお読みください。


探究者の皆さん、  
この心境を深め、どうか自己形成の道を力づよく歩んでいってください。



気づきを分かち合いましょう!

2013年07月16日 00:00


★ 過去生回帰の体験レポートより ★



今回は、7月1日の「過去生回帰」の個人セッションを受けられたKさんの「最終レポート」を掲載します。

わたしのハイアーセルフが出した彼女への「課題」は『犠牲』であったのですが、その『犠牲』は男尊女卑の思考がまだ現在も根強く残っている九州にKさんが誕生されたときから始まっていました。

男性であることは、もうただそれだけで皆から愛され、大切にされるのだということ。そして女性はその下の存在であるということを何の疑いもなく受け入れてきたのだということを、彼女は最初のレポートに書いておられました。
そのとき記されていた文章を、一部記載させていただきます。


区切りのライン


日常生活では明るく、いつも大丈夫よ!と振る舞っていても、とても深いところで人から愛される価値はないと、寂しくむなしいものがベースにあるのです。

この無価値観は、幼い頃から私の中にありました。
あまりにも普通にあるものなので、数年前までみんなそういうものだと思っていたのです。
でも、たくさんの人たちと時間を過ごす中、そうではないことを感じ、この無価値観に私なりにワークをしてきたつもりでいましたが、まだまだだったのですね。
なぜなら、こんなに動揺している私がいるのですから!
(私の中のどこかで「見破られてしまった!」という感じです)

そんな小さな女の子だった私は、せっせと女としての役割をこなし、そのまま大人になりました。
男性を立て、言いたいことは胸の内にしまい、自分の真の生き生きとした感情は見ないようにしていたのです。
とても小さな自分の欲求や、なぜ私がこんなことを?と感じても「 私さえ我慢すれば 」と無意識にその感情を押さえつけてきたのです。

そのように真の自分を無くし、外側に合わせることで自分を保っている私の回りには、あからさまに私を利用する人たちが出てきました。
仕事をさせるだけさせ賃金の支払いをしぶる人や、自分の思うように私を振り回す人。
すぐにでも距離を置けばよいものを、「 私がまだまだ未熟だから尊重される価値がないのね 」と、どのような状況も受け入れてきたのです。

私が私を下に扱い、自分から、
「 私を使ってください。それが私の価値となるのです。」
と強くエネルギーを発しているのですから、このような状況になってしまうのは当たり前ですよね。つらく惨めなものでした。



区切りのライン


「私なんて」と自己卑下のようなものが常に心のどこかにある。

そう書いておられた彼女は、上記の記載のあと、決心されました。

今回の生だけではない、過去からの思い癖、心の傷を真に癒す旅が始まりました。気づいていきたいと思います」と。

その決断から、彼女は大きく前進され、飛躍されました。
当日のセッションはとてもスムーズに展開しました。彼女がそれまでにも同じ「過去生の自己」の映像を断片的に見ておられたからです。そのセッションでこれまで気づきつつあったことのすべてが統合され、彼女をおおいに納得させるようなひらめきが起こったように感じられました。

そのKさんから先日届いた「最終レポート」です。


区切りのライン


~過去生回帰の個人セッションを終えて~(2013年7月13日) 

                        39歳 女性 神奈川県


カヴィーシャさま

先日の個人セッションでは本当にお世話になり、ありがとうございました。
今になって、私はあの日をずっと待っていたのだと思います。
セッションを終えて、私はとても力強く前向きになりました。


セッション前にいただいた『犠牲』という課題。
今までの私に最も暗い影を落としていた前世での記憶。
それを手放すために選んで下さったのですね。


(★4名の募集をしておりましたが、4人目がなかなか決まりませんでした。ハイアーセルフが「必ず必要な人が申し込んでくる」と言っていたのを信じて待っていたのですが、その待ち人がKさんだったのです)


セッション前に課題を下さったことで、今までの私の思考パターン、良くない人間関係を掘り下げ、客観的に気づくことができるよう導いて下さいました。
あの素晴らしいセッションを迎えられたのは、そのお陰であると感謝の気持ちでいっぱいです。


セッション当日、最初に出てきたヨーロッパ人の男性。
今までも私の魂がやろうと決めていたことを忘れそうになると、フワッと言葉を与えてくれた方だと分かりました。
カヴィーシャさまの誘導が始まってすぐに、右目と唇の右側が勝手にピクピクと動きだし、早く私に伝えなくてはと待ち構えていたようでした。(あのピクピクとした身体感覚は初めてだったのでビックリしました!)
その男性に対しては、ずっと真の自分に目を背けてしまって申し訳ない気持ちです。
少し時間がかかってしまったけれど、今回のセッションではっきりと認識し「やるぞー!!」という元気が身体中を駆け巡っています。

そして今回私にとっての本命である遊女の女性であった私自身の前世。
セッションでカヴィーシャさまが光に帰る誘導をして下さったお陰で、手放すことができました。
その女性とはずっと一緒にいたんですね。
私はその女性そのままの、まさに犠牲的精神、感情、思い癖を引きずって生きていました。
本当に光に帰ってくれたからこそ分かるのですが、あのセッション以来、意味なく虚しい感じや悲しくなることが本当にないのです。
今までの私の陰鬱な気持ちはどこへ行ってしまったのでしょう、という感じです。
それまでの私は、一人で二人分の気持ちを持って生きていたのだと気づきました。
今までも瞑想や色々な書物を読み、自己改革を試みてきましたが、ほんの2時間ほどのセッション「過去生を手放す」ことでこんなにも変わるものなのですね。
今までの習慣や思い癖は何十年も私が使ってきたものなので、これからも気を引き締めていくつもりですが、過去生とはどれだけ今に影響を及ぼすのか、計り知れないなと強く思いました。

また個人セッションもとても素晴らしいものだったのですが、カヴィーシャさまに直接お目にかかる機会をいただき、そのオーラ、エネルギーの清らかさに言葉ではない大切なものを教えていただきました。
凛とした佇まい、強さは真の優しさということ。
セッションをしていただいた会議室も結界が張ってあるような、完全に守られている空間になっていて、とても安心していられました。
ピンと張りつめた空気とあたたかくそこに居て下さったカヴィーシャさまの美しさが今も目に焼き付いています。本当にお会いすることができて、良かったです!

今回『犠牲』という課題を通して、自分をまったく信頼せず、回りの期待に応えてばかりの上辺だけの生き方に気づかせていただけただけでなく、私の闇の部分にも光をあててはっきりとその輪郭をみせていただきました。
これをきっかけに、まずは自分を愛することに集中してみようと思います。
自分を信じ、たとえ独りになっても笑顔で立っていられるようになります。

セッションで光に帰ってくれた私の前世である女性のように、今生きている私が未来の私に悪影響を与えることのないよう、カヴィーシャさまのブログを始め、季節の移ろいや大自然の中から、書物やささいな出来事の中からも気づきを得れるよう、前進していきたいと思います。

本当にありがとうございます! 
    


ゆり


~カヴィーシャからKさんへ~


あなたが日本で未だに「男尊女卑」で女性が「犠牲」となっているような地域を生誕の場所として選び、そういう意識を持っている家族を選び、また男性が明らかに優位を占める職業をあえて選ばれたのは、『犠牲』という課題を再度体験するためであったということが、今回の『課題』と『過去生回帰』のワークではっきりしましたね。

つまり、過去生で家族のために身売りして遊女となり、『犠牲』というものをいやというほど味わっていた女性(ご本人の本体部分)は、もう一度今生であなたに同じ体験をさせたがっていたということ。
過去生回帰の最中に、あなたに対して「同じ目に遭わせる」と言って笑っていたあの遊女さんは、定められた枠から一生脱出することができませんでした。だからこそ、同じような境遇のなかに置かれた今生のあなたに、それを真に克服してほしいと心の底では願っていたのです。

あなたがセッションの最後に選んだ三枚のカードのうち、一番目は「強さ・精神力」でした。ほんとうの「強さと精神力」をもってくださいねということです。

7月のセッション前に、わたしは次のようなコメントをあなたのレポートに記しました。 

あなたは今現在、ご自分を真に愛し、信頼しておられますか?
そして、ご自分の価値を見いだしておられますか?
今回はここをしっかりと掘り下げて考えてみてください。

「犠牲」は自分に価値を見いだせていないことから生じることですから、
あなたがおおいに自分を愛し認めることができるようになれば、
それは解決できると思います。


それに対して、あなたはこう応えておられました。

ここ数日、とても静かな時間が流れています。
今生での私自身のあり方が客観的に観えました。
『あなたは今現在、ご自分を真に愛し、信頼しておられますか?』
カヴィーシャさまのこの問いこそが、私の決意になります。

今まで私は私を愛していなかった。自分を信じていなかった。
これからは、たとえ独りになっても自分を裏切らず(私は独りになることが怖かったのだと気づきました。本当は独りも大好きなのに!)、自分を信じ、回りに合わせるだけの生き方はやめます。
(人にも環境にもネガティブエネルギーにも!)

真の自分で人生を生きていきます。



★この気持ちをどうか忘れないでください。
Kさんのこれからのご活躍を心からお祈りいたしております。



トルコききょう


★ 分かち合うこと ★



皆さんは、ゴータマ・ブッダが正覚(悟った)したとき、その深遠な気づきを、すぐに誰かに伝えようとしたと思いますか?

ある経には、こんな言葉が残っているのです。

苦労してやっと悟りを得たものをなぜまた人に説かねばならないのか。むさぼりと怒りに焼かれる人々にこの法を悟ることは容易ではない

自分が今悟り得たこの思想は、はなはだ微妙なものである。賢者にしてはじめて理解できるような内容のものである。この世の中の人々は欲望にふけり、欲望を喜びとし、そればかりに夢中になっているのであるから、とてもこの思想を理解できるとは思えないし、それを説いても理解できないだろう。もし彼らがこれを理解しなかったなら、わたしは疲労と困憊をもって酬いられるばかりである」と。

自己の課題を解決したばかりのゴータマが、なぜそれを人々に向かって説かねばならないのかと考えたことは確かなようです。
悟ったばかりのとき、彼は民衆に説法をすることについてはとても否定的で、消極的でした。
それどころか、どうもひとりだけでは不安であるから、もしも真に優れた尊敬のできる思想家がいるなら、その人のところへ行って弟子になり、仕えたい。そんな人はいないだろうか? とまで考えていたというのです。
それが真実かどうかは別として、そういう葛藤があったということを伝えられた経典があるのですから、不思議な気がしますね。
悟った人でさえ孤独の不安と葛藤があったというのですから。

そのとき、梵天(インドの最高神のひとつで、梵天界に住んでいるという存在)が現われます。このままではこの世界は滅びてしまうと考えた梵天は、ブッダに言いました。

世尊よ、法を説きたまえ。ブッダが法を説かれれば、必ずそれを理解するものがあるでしょう。もし聞くことを得なかったならば、彼らもまた堕ちてゆかねばなりません

それで、ブッダはもう一度世の中の人々のようすを観察して考え直してみたのです。
そうしたら、ブッダの心のなかにつぎのような情景が浮かんできました。
これは美しい蓮の花の池を譬えにしています。

そこにはさまざまな蓮が、さまざまな咲き方をしていた。
ある蓮の花は、泥の水のなかに咲いていた。
ある蓮の花は、水面に浮かんで咲いていた。
またある蓮は、はるかに水面をぬきんでて、その美しい花びらをひらいていた。
それと同様に、人間の世界もいろいろであって、そこには、世間の塵に汚されないでいる人々も、けっしていないわけではなかった。


そこでブッダは説法をする気持ちになって伝道の決意をし、梵天に答えてこう言いました。

見よ、甘露の門はひらかれたり。耳あるものは聞け。古き信を去れ」と。

そこからブッダの「伝道」がはじまったのです。



スイレン



わたしが皆さんの『気づきのレポート』をこのブログで公開させていただいているのは、
自分が得た学びや気づきを「みんなで分かち合いましょう」という精神からです。

もちろん読者さんの意識レベルも千差万別ですし、気づきの度合いも皆異なります。
しかし、どんな内容からも、何らかの気づきは必ず得られると思うのです。
これまでに公開したレポートを読んだ人たちから「参考になりました!」というコメントをたくさんいただいていますし、提供してくださった人も自分の体験談が役に立ったということで、喜びもさらに広がるのではないかと思うからです。


書く人も、読む人も、
ハートがひらかれた状態を味わってください。

ハートがひらかれている人の文章は、
つい微笑んでしまうような楽しさと軽快さがあります。
読んでいて幸せな気持ちになります。

「気づき」を分かち合うことです。

ブッダほどの深遠な気づきではなくても、
惜しみなくそれを提供することです。

学びながら、伝えていく。
それが菩薩の道なのです。



ハートきらきら


ハートをひらいている人 ひらいていない人

2013年07月21日 09:17


★ ハートをひらいている人 ひらいていない人 ★



これまで『数秘リーディング』や『課題の個人レッスン』などを受けられている方々からのレポートが数多く届いておりますが、それに対するコメントを書かせていただきながら感じてきたことを、今回お伝えしたいと思います。

単刀直入に申しあげますが、レポートに対するわたしのコメントがほとんどない場合は、「あなたのハートが閉じていますよ」ということだと思ってください。それをはっきりと申し上げることもありますが、果たしてご本人はほんとうに気づかれているのかしら? と思います。

ハートが閉じた人の文章」というのは、何もながれてこないので、コメントが湧いてくることもありません。
「それで、どうなのですか?」「さらに掘り下げて書いてみてください」と書くと「そんなに詳細に報告する必要性があるのか?」と疑問を投げかけてくる人が稀にいらっしゃいます。
わたしにとっては読者さんたちのさまざまな心の状態を事細かに伝えてもらっても、正直申し上げて、何の益にもなりません。時間がかかって、読むのが大変なだけなのです。
レポートを真剣に読み、コメントを書かせていただいても、しばらく経てば忘れてしまいます。個々人の中心となる課題は覚えているのですが、枝葉のことなどはすっかり忘れ去っています。覚えている必要性がないからですね。

ですから、何も「個人的な情報を詮索したいわけではない」のだということを、しっかりとご理解いただきたいと思います。その人の課題をもっと深めていただきたいために質問をしたりして誘導しているのだということです。要は「あなたの掘り下げ方があまりにも浅いですよ」ということを言っているのです。

また、「気づきの全容を報告する必要性を感じない」と言う人は、自分の全貌を明らかにしたくない、つまり隠しておきたいわけですから、「ハートがひらいている」とはとても言い難い状態です。そういうことを考えること自体マインドが先行しています。

ハートがひらいていると、すべてが流れるように湧きだしてくるのです。

「これを書くのはどうかな?」とか、「こんなことを書くとネガティブと思われるからやめよう」とか、そういう思考は一切出てこないはずです。なんだかんだと理屈が出てくるのは頭で考えている証拠です。(理屈で書いている箇所はすぐにわかります)
ご自分のレポートを、一カ月後くらいにじっくりと読み返してみてくださいね。

また、何を言いたいのかさっぱりわからない文章があります。頭でこねくりまわしているので、その人の真意がまったく伝わってこないのです。表面的に取り繕った内容を書いても意味がないことを知ってください。
小学生でもわかるように書いてください。難しく書かないことが一番です。


ハートがひらいている人は、ながれる水のような柔軟さと豊かさがあります。
どんどん自分の思いや感情が放出して、隠すものが何もないほどあふれてきます。
魂が表現したくてしかたがなくなってくるんですね。
「自然にながれるままに書いていたら、こんなに長いレポートになってしまいました」という人がいらっしゃいますが、それが「ハートがひらいている証拠」なのです。

ですから、読む側のハートにも、その文章が途絶えることなくスイスイとながれこんでくるわけです。とても気持ち良く入ってきます。
そうすると、わたし自身もうれしくなり、ひとりでに笑みが浮かんでいます。
そこで、「気づけてよかったですね」「すばらしいです!」と、喜びを分かち合うことができるのです。




ラベンダー畑


★ レポートを書くことの意義・メール交換の意義 ★



数秘リーディング』を受ける際の心構えの箇所にも書いておりますが、最初のお約束として、レポートを書く気持ちがあるかないかということを問うていますね。
ただ単にリーディング結果を知りたいだけなら、他者のところで鑑定してもらってくださいとお願いしております。
そのわけはわかりますね? 他力依存者ではなく、わたしは「自力で真剣に自己探究をする人を募集している」からです。

レポートを書くことの意義」については、今まで耳にタコができるくらい何度も申し上げているので、その重要性をしっかりと把握された上でお申し込みになっているものと信じたいのですが、それでもやはり「レポート」をなかなか書くことができない人がおられます。提出期限を守れない人も、やはりおられますね。「書けないのは、なぜなのか?」をしっかりと自問自答していただきたいです。

最近は、「どうしても書けないのでレポートが送れません」と正直に現状を知らせてくださる方も多くなってきています。
しかし、一切連絡なしの人も、未だにいらっしゃいます。自ら完璧に閉ざしているわけですから、救いようがありません。「人としてのマナーでさえ守れない」わけで、未だ「人になっていない」状態だと言ってもよいでしょう。まずは「地球人になる学び」をしていただきたいと思います。

メールができないときは、たいていネガティブエネルギーに影響されているとき(本人はほとんど気づいていません)なので、メールで知らせることを思いつかない、あるいは、たとえ気づいていても実際にはできないようです。
わたしからメールを差し上げることで、光が実際に届いていることに気づいている人は非常に稀です。
メールや電話で相手のネガティブエネルギーが離れる場合があります。ときには、こちらにそれが来て、浄化することもあります。電話中だけ相手に憑依していたネガティブエネルギーがいなくなることもあります。ただし、本人の意識が変わらないと、再度やってきて、憑依します。
憑依を繰り返し体験している人は、自分の意識の持ち方や悪い思い癖があることに気づき、真剣にそれらを解放する必要があるでしょう。

闇に足を引っ張られているときは、メールどころか、ブログも読めなくなりますから、まちがいなく光から離れていくことになります。残念ですが、自らハートをひらいてコミュニケーションをしようとしない人を、わたしはそれ以上追うことは致しません。
去る者は追わず』です。

ご縁が切れた人は、自らつながりを求めない人ですから、糸が切れた凧と同じです。
たとえ闇に足を引っ張られて奈落の底に堕ちておられることがわかっても、相手が心を閉ざしている以上、癒すことも助けることもできません。
固く心の扉を閉ざしている人に光を届けることはできない」ということを知ってください。
受け容れられなかった光は戻ってくるだけですから、ムダな作業となります。

それは、ネガティブな霊たちのケースと同様です。
自ら浄化をしてほしいと願って神妙に訪れた霊体たちは、心がひらいているので、あっという間に浄化されます。
来る者は拒まず』です。


ブルーインプ


★ あなたの人生の課題をクリアしましょう ★
 



毎回伝えておりますように、深い気づきが得られるかどうかは、すべてその人しだいです。
わたしはただ鏡のように映し出された事柄に対して反応していくだけです。
ときには、相手が不快な思いをされることを承知で、あえて厳しい真実を申し上げ、どのように受け止められるか、その反応を見させていただくことがあります。
いわゆるショック療法ですね。いつまで経ってもご自分の問題点に気づいていただけない場合は、そういう実験をさせていただくことがあります。人によっては、あとになってから、そのことを明かすこともありますが、明かす前に心を閉ざし、早々と離れてしまわれる人もおられます。

その実験をしてみたら、案の定感情的になり、腹を立てられ、自ら「レポートをもう書きません」と言って、『課題』のレッスンを放棄し、中途挫折した人が実際におられました。
その人の考え方や行動がまちがっており、受け止め方もネガティブだったため、結局悪霊に憑依されてしまったのです。
突如心境が豹変する人は、たいてい最もタチの悪い霊が足を引っ張っています。手のひらを返したように変貌するので、非常にわかりやすいです。
レポートには数秘リーディングや課題のレッスンを申し込んでほんとうによかったということが書かれていたと記憶していますが、真にそう思っておられたのなら、最終的に悪霊を引き寄せるようなことはなかったはずです。

その人の課題は「役割を演じるのではなく、真実をもって本音の人生を生きること」だったのですが、「自分の真実に責任を持つ」ということに気づかれないまま、自ら断念してしまわれました。
どんなに自分の問題や課題が重く深いか、なぜこういう結末を迎えたか、ということに気づいていただけることを心から願うしだいです。

今『数秘リーディング』や『課題』に取り組んでいる皆さん、今まで熱心にレポートを書いてきたけれども、自分の気づきは何だったのか? と改めて問うてみてください。

自分ではさもわかったようなことを書いているけれども、それは「気づいた」という「勝手な思い込み」にしかすぎないのではないだろうか? と省みてほしいのです。
同じまちがいを再三繰り返しているならば、それは真に気づけていないし、クリアできていないということですから、ご自分でも判断できると思います。

自分の盲点を突かれたときに、それに対して素直に受け止め、真剣に取り組もうとする意志や意欲、気力のない人は、じつは最初からハートをひらいていなかったし、何も気づいていなかったという証なのです。
これまで学んできたことを思い起こし、高い意識レベルで判断し、選択をくだせば、よりバランスのとれた調和的な行動をとることもできるはずです。

自分の盲点を指摘されるたびに意欲を失くしていたら、つぎのステップにはけっして進むことができません。
また今生で「カルマ」という名の宿題を残し、来生で自分のグループのだれかが後を引き継ぐということになります。
皆さん、そういう繰り返しを何百年、何千年とやってきておられるのです。
もうそろそろ卒業しましょうよ。
来生の自分の足を引っ張るようなみじめな存在にだけはならないでいただきたいです。

自分のプライドや感情に翻弄されて、せっかくの成長のチャンスを棒に振るのは大きな損失です。
あの世に行っても、つよく刻まれて残るのは「感情」の部分なのです。
感情」が、つぎの行き先を決めると言ってもよいでしょう。
だから、いつも幸せで愛に満ちたここちよい感情を保っていることが大切なのです。




ドクダミ


★ 病気の人たちへ ★



病気の人を癒すのは、ケースバイケースです。
どんなことでも、すべてその人にとって必要なことが起こっているのですから、やたら病気を癒したり、治してしまったりしないほうがよいからです。
なぜこんなことが自分に起こっているのかと真剣に考えたり、苦しんだりすることもなく、簡単に他者に頼んで治してもらったとしても、その人はまた別のことで必ず苦しむことになるからです。根本治療にならないのです。カルマが解消されるということもありません。
病気になったら、カルマを処置するチャンスが来たと感謝することです。

病気は不調和の結果です。自ら気づかなければ、病気は完治しません。
肉体の不調を起こしているのは、そもそも本人に気づかせるためのメッセージなのですから。
いくら手を尽くしても、いろんな治療をしても治らないのは、その人の考え方の根本がまちがったままか、まだ真に気づいていないからなのです。
過去生の自分が大いに悪影響を与え、足を引っ張っている場合もけっこう多いです。
原因が霊障の場合もあります。


最近重大な病気を抱えている方が、続けて『過去生回帰の個人セッション』をお申し込みになりました。
写真を送っていただいてわかったのですが、おひとりはまちがいなく霊による障害でした。
それで憑依していた霊体を浄化したのですが、早くも「症状が嘘のようになくなった」という報告をいただきました。
しかし、その人の中には「過去生で問題があった自分」がしぶとく入り込んでしまっており、それが強い影響を与えていることがわかりました。いくらチャクラにプラーナを補充しても、そのときだけは良くなるのですが、すぐにプラーナが不足して、なかなか完治しないのです。
いくら「過去生の自分」と言っても、これだけ悪影響を与えているのですから、まったく「悪霊の憑依」と同じです。

もうひとりの方も、やはり過去生に問題があった方の影響が強く現われていました。
これまでに病院で何回も検査を繰り返したけれども、まったく異常がないという結果が出るのだそうです。それなのに、頭が爆発するのではないかと思うほどひどく痛み続けているということでした。

今回写真からの調査で、頭の病気で亡くなっている過去生があることがわかりました。
病気に対する不安と恐れを抱かないご自分になられることが今回の課題ですので、『過去生回帰の個人セッション』の日が来るまで、自己統制をしながら頑張っていただきたいと願うしだいです。
どうか苦痛にめげないでくださいね。


多くの人はその原因に気づかないまま亡くなってしまい、カルマを残してしまいますが、真に気づけた人は病気も癒され、とても元気になられます。

心身ともに見違えるように元気になる。
それが「真に気づいたことの証」です。




紫つゆ草


★ 苦痛から逃げないこと ★



苦痛や苦悩が生まれたとき、それと直面することから逃げないことです。
自分にとって心地悪いものをすぐに投げ捨てようとしてはいけません。
それはとても貴重なエネルギーなのですから。

ネガティブな感情は、あなた自身に重大なメッセージを与えているのです。
自分が今学ばなければいけないレッスンが何なのかをしっかりと示してくれているのです。
それを認めず逃げようとすればするほど、さらにネガティブなエネルギーは力をもつようになります。
だから、それを歓迎し、受け容れ、吸収し、感謝することです。

自分自身にこう言い聞かせてください。
「今度は絶対に避けない! 逃げない! 拒絶しない! 投げ捨てない! これらをすべてしっかりと受け容れる。今度こそ消化するのだ!」と。

拒絶反応することなしに苦痛を受け容れた瞬間、あなたのエネルギーの質は変化します。
それができたとき、あなたの新しい旅が始まるのです。
真に受け容れた人だけが、それに気づくことができるでしょう。
苦しみが歓喜に、苦痛が真の喜びになることを。




ふたつのハート

「ハートをひらいた状態」というのは、
正直に自分を全面的にさらけ出せるということ。
相手を全面的に受け容れられるということ。
そして、自分自身を惜しむことなく与えられるということです。

いつも言っていますね。
宇宙にハートをひらく、
相手にハートをひらくというのは、
そういうことなのです。





「独り立つ人」が選んだものとは何か? 

2013年07月29日 12:20


★ 読者さんのお便りから ★



今回は、長年このブログを愛読してくださっていた読者さんから7月初旬に届いたお便りをご紹介いたします。

鳥2


        光の仕事人/カヴィーシャ様

                        K.Ⅰ  女性 42 歳 東京


 
こんにちは、K.Ⅰ です。自己紹介と「思いの制限をひらく」との出会いについてお伝えしたくお便りします。こういう読者がいた、というふうに知っていただけたら嬉しく思います。

私にとってはカヴィーシャ様のお名前よりも、光の仕事人様のお名前がよりなじみ深く感じています。初めてブログをみつけたのは2010年の終わりころだったと思います。
その時の私の状況をお話しさせていただきます。唯一の身内、母が癌にかかり、仕事を辞めて1年間看護し見送ったあと、2000年ごろでしたが、なにか腑抜けになったような気がして、ふっと自分の魂をとりもどしたい気持ちで一人旅にでかけていました。旅のひとつがアリゾナ州でしたが、旅の途中に起きた出来事や出会った人々ととても深いつながりを感じ、後に東京の生活を片づけて2004年にアリゾナ州のフラッグスタッフという町の大学へ留学することにしました。この町はセドナにドライブで40分くらいの距離にあります。町の北には美しい大きな山がそびえていて、この山の存在に見守られながら学生生活を送っていました。この留学ではスピリットでつながっていると感じられるような家族との出会いがありました。そういった人たちの助力もあって、はじめは2,3年の語学留学のつもりが、計8年半、大学院修士を終えるまで生活していました。

★カヴィーシャ: そうでしたか。 とても素敵な経験をなさったのですね。

私の日本での家族は、思えば非常に機能不全な環境でした。(母は女手ひとつでよくやってくれたと思っていますけれど)ずっと昔からえもいわれぬような、どうもなじめない、不安定な感覚を持っていました。アメリカでの8年半の生活は、まるで私にとっては「生きなおし・成長しなおし」のチャンスをもらったような感覚でいました。血のつながりはなくても真のつながりを感じる人たちがいること、そしてなによりこの世はそんなに恐ろしいところではない、ということを少しずつ経験していました。

ところで2010年には大学院卒業にむけて学業が生活の大半をしめるような状況にありました。卒業後の進路など「現実的な」ことがらに対処していく必要に迫られ、私の中のまだ触れていなかった思いが浮上して、また落ち着かない不安定な感覚を感じていたのです。
自分でいうのもなんですが、たくさん成長した部分もありましたが、宇宙から「この学びは?」「こっちは?」と問われているようなふうでした。これは大学院だけの問題じゃなく、アリゾナのこの土地に呼ばれてきた、この地での学びの卒業がかかっているという気がしていました。

その時の一番の思いは「なんでこんなに生きづらい感覚があるのだろう」ということでした。そのころに交流のあった人たちから、キーワードのように耳にしたのがインディゴソウル、とかインディゴという言葉で、インターネットでいろいろと調べました。調べればいろいろたくさんでてきましたが、私は私の感覚をたよりに信頼できるものを探しました。日本のものを探していて出会ったのが光の仕事人さまの記事でした。

これらの記事を読んで、まるで自分のことが書いてあるような不思議な感覚を覚えました。そして心の底からホッとしたことを忘れません。私は考えてみると幼稚園に入る頃から、ずっと人に違和感を感じていて、それを「自分が人より劣っているから」そして「それを人に知られてはいけない」という思いの制限をずっと持っていたようでした。児童養護施設で働いていたとき、他の職員からは問題視されているような子どものことがいたたまれなくて、そういうこどもによく目をかけていましたが、たぶん自分のことのように感じていたのだと思います。インディゴの記事をみて、自分はそういう魂の出身であって、自分が悪いというわけではない、と感じて心の底から安心したのでした。うれしくてうれしくて、そのころその感覚を共有していたアメリカ人の友人たちにも教えたところ、涙を浮かべて聞きいった人もいれば、自分のこととはとらえていない様子な人もいました。私にとってこの出来事はとても大きな転機でした。ある夜、これからは日常的な事物に振りまわされるような生活は一切送らない、人の目を一切気にしない、自分のハートの真実にのみ従って生きていく、と強く宣言しました。宇宙にたいして。この宣言をしてしまったばっかりに、その後「あのとき宣言したじゃない?」的な試しのようなことがしばしばおこります(笑)

論文など忙しい日々ではありましたが、時間をみてブログの記事を読みつくしました。一度読んで、すっとのみこめるタイプではないので、何度も何度も。また時間をおいて読みなおしたときに、こういう意味だったのか、と再度気づくことが多いです。インディゴの次に興味をもったのは小食は地球を救うの記事、でした。ひとつひとつ細かくは申し上げませんが、光の仕事人様のブログに関して感じたのは、とにかく、そのときの自分の気づきや、宇宙から受け取っているメッセージらしきものにシンクロしている記事がみつかる、ということです。気づきのヒントになることが多いです。
大学では森林科学専攻でしたが、学業を通じて、とにかく動植物に対するいとしい気持ちが強い自分、を発見しました。環境破壊に心が痛みますが、自分個人がそれに加担しないために何ができるだろう?と考えていました。住んでいたコミュニティーは、そういう意識が高い人たちがたくさんいるところで、そのせいもあってか、私にとっては自分の衣食住の見直しは自然なかたちで受け入れました。ハイヤーセルフにつながり生きることも。

2011年の5月に大学を卒業して、山々にその報告のための登山をしましたが、そのときに山からも「おめでとう、卒業」というメッセージを受け取った気がしました。そのままアメリカに残りたくて就職活動をしましたがかなわず、それもまた意味のあることだろうと思いつつ、去年の夏に東京に戻ってきました。自然により近い環境でとりもどした自分らしさを東京の生活で維持することが、とても難しくて初めは「帰りたい」状態になっていました。しかしよく感じてみるならば、アメリカの片田舎にいても東京の粗い波動の中にいても、自分の中心(ハイヤーセルフ)によくつながっているならば、かわりはないのではと思いました。今は満員電車の中でも目をつむってアリゾナの山や森、セドナの岩山の意識につながりを感じることができます。公園の木々や鳥のさえずりが美しい。そういう感じる練習に帰ってきたのかもしれません。せっかく日本にいるので、日本を味わえたらいいなと思えます。

★カヴィーシャ: そうですね。しかし、環境というものは人体に大変影響を与えるものです。わたしは東京を旅して、ここには絶対に住めないと思いました。人間の多さに疲れました。波動が悪いなかで生きていると、正常・清浄を維持するのは大変です。
あなたのハイアーセルフに尋ねてごらんなさい。「東京が好きですか? それとも、セドナやアリゾナの山や森のほうが好きですか?」と。


帰ってきて感じたことですが、日本という国は、神々に(もしくは宇宙のエネルギー、光に)相当しっかりと守られている場所だと思いました。とてもギリギリのところで災難をまぬがれている感じです(このままではいけないですが)そういう再発見はありつつも、やはりそこで接する人々は神性を忘れている、もしくは表現しきれていない人が多すぎで、そういう人の間にいて自分を保つのが難しい。光の仕事人様のブログを訪ねて記事を読み返すことで、自分が宣言した自分の生き方をくりかえし思いだすことができているのです。本当に、本当にありがとう。

★カヴィーシャ: どういたしまして。しかし、神性を忘れた人々が多々生きている日本は、ほんとうに神々に守られているのでしょうか? 守られるような意識を皆が持つことを求められているのではないでしょうか?

思いの制限をひらいて、真の自己で在りたいです。自分の中の制限は気が遠くなるほど何層もあるようです。自分でいうのもなんですが、私は相当数の自分の思い込みに気づき手放す作業をしてきました。はじめは心理学的な手法で。ヒーラーと呼ばれる人の力もかりましたが、今はもっぱら、直接ガイドスピリットやエンジェル、宇宙に直接お願いしています。しかしまだまだあります。きっと人生かけてずっと取りくむ修行なのですね。
この前、成田山新勝寺にお参りにでかけて御護摩の炎をじっとみていたときに、僧として炎を見ていたような感覚を思い出しました。この人生では寺社、修道院など隔離された世界にはおかれていません。そういう自由が与えられていて、その中であなたらしく学んでいったらいいのだと、言われたような気がして泣きたくなりました。慈悲の怒り、のような炎のエネルギーをいただいてきました。

ところで光の仕事人様のブログにも似たようなエネルギーを感じとります。私が住んでいたところの近くにはセドナという町がありましてハイキングによくでかけていました。土地のエネルギーが神聖で背筋が伸びる感じがとても好きでした。しかし町自体にはニューエイジといいますかスピリチュアルビジネスが広がっていて、人間の欲のエネルギーが強くあります。なかには良質なライトワークがあるのでしょうが、そういうビジネスの中の、ありのままの自分でOK、エンジェルからのメッセージ(それもとことん甘い)、というようなものについては、どうしても本物ではない、という違和感がありました。

★カヴィーシャ: 上記の内容に同感です。
ありのまま」という言葉をどう解釈するかですね。たとえば「ありのままの自分でOK」を「今のままの自分でOK」とするなら、魂の成長と進化などはありませんね。
また、とことん甘いエンジェルからのメッセージも、「それで前進できるのかな?」と思うことがあります。
糖分の多いジュースや甘い物ばかり摂っていたら、いつかは病気になるように、耳触りのよい甘い言葉ばかりを求めているなら、人生にチャレンジする意欲も湧かないままで終わってしまいます。
良薬口に苦し 忠言耳に逆らう」ということわざがありますが、よく効く薬が苦いように、身のためになる忠告は素直に受け入れにくいのでしょうね。人の多くは、苦い薬は飲みたがりません。

塩が抜けた身体には塩が必要だし、チャクラにプラーナが不足していれば補うことが必要です。ハートのチャクラのプラーナ量が常に枯渇している人は、自分や他者に対する愛がないのだと気づき、自分に愛を注ぐことが大切となります。
もし「今のままの自分でOK」であるのなら、病気になったり、災難が降りかかったりすることはないはずです。
Eさんの直感はすばらしいと思いますよ。


富を引き寄せる、というのも胡散臭い。アリゾナのあの土地にいて、ネイティブアメリカンの人たちの、生活と見えない世界とのつながりを重視している生き方といいますか、彼らの世界観の方に真実を感じていました。私自身は何かが視えたり聞えたり、という力はありません。たぶんそういう力があると傲慢になりうる要素があるので敢えてそういう力は伸びないようにシールドでもはって生まれてきたような気がします。私にとっての手がかりはguts feeling、おなかの底で感じる体感のみです。これは小さい時からありました。12歳で母から押しつけられた宗教を「なにかがちがう」という理由で拒否しました。家庭の雰囲気がそれ以降何十年と険悪になろうとも、断固拒否しました。こういう感覚があるので、世のスピリチュアルをうのみにはしていません。
それにしても読者歴のたぶん長い部類に入る私にとっては、思いの制限をひらくと光の花束には、深い信頼を感じています。

私の現況ですが、2012、2013年のこの時期は、これから先の生き方を決める重要な時期にさしかかっているようです。そしてそれが私のアセンションの理解でもあります。以前の自己宣言について、本当の本当にそのつもりなのか、生命をかけての決意を問われているような感覚があります。そして私には宇宙に対する(光、神、といってものですが)全面的な信頼感という課題が残っています。これがとても難しいです!ひとつ最近のエピソードを話させてもらっていいですか? 自分の身に起きていることはすべて自分の鏡のようなものですが、特に仕事・お金が思うように手に入らない、という問題に直面していました。周辺から読みとったメッセージは「宇宙に豊かさはふんだんにあり、それを思いのままにつかめるのに、自分でシャットアウトしている」ということでした。これに関してはいくつかの思いこみに気づき、手放す、という作業をしたのです。特に今生の父母との関係で受け継いだ思い込みが大きいことに気づきました。これはこれでとても大きな手放しだったようで素晴らしい開放感を感じました。宇宙には豊かさがあふれている、という感覚がすんなりと感じられるようになったのです。

ある日、近くの大きな公園に行き、そこにある木々草木、そこにいる人たちすべてに宇宙の神性が宿っている、というイメージを浮かべつつ散歩していました。ふと思いついて4つ葉のクローバーを探してみました。周辺をよく見ましたがみつかりませんで、ガッカリしましたが、その時に気づいたのです。ガッカリの陰に「私には4つ葉のクローバーを受けとるような価値がない」という感覚があることを、です。思いもかけずみつけたその思いのワークをしました。
後日、また公園に散歩に行ったときには全くクローバーのことは忘れていたのですが、歩いていてふと足元にピンと一本の4つ葉が飛び出ていることに気づきました。あれ?探さなくてもちゃんと見逃さないで受け取っている、とうれしくなりました。宇宙からのおくりものを見過ごすことなく受けとっている。

さらに後日、豊かな気持ちで公園に行き、何気なくこのあたりだ、と感じたところを見ましたら3本立て続けに4つ葉をみつけたのです。そのとき心から嬉しかったかというと、そうではなくて、「こんなにみつけるなんてそんなに珍しいことではないのかもしれない」「放射能の影響かも」などと考えている自分に気づきました。しばらくして座って心落ち着けてみて、とことん疑っている自分に嫌気がさしました。試しに時間をかけてよく探してまわりましたが、1本もみつかりません。このときには宇宙に対して謝りました。ごめんね、宇宙、おくりものを疑ってしまって。こういう疑いがすぐ上ってくるようでは、宇宙に信頼をおいている、自分に信頼を置いているなどとはいえないですね。信頼をおいているつもりになっていただけでした。その後、信頼に関する学びがいくつか浮上してきました。
それらを終えたとき、すがすがしい気持ちで公園に行ったのです。こどものような気持ちで宇宙にオーダーしました。今度はいままでみつけた小さいのじゃなくて、大きな葉っぱで白い線のくっきりした4つ葉をみてみたいな、と。見つかる期待も、見つからない予想もなにもなくです。それと同時にぱっと、足元にみつけたのはイメージどおりの大きな4つ葉でした。その瞬間、心の底から、その美しさと宇宙の返事の早さに笑いがとまらなくて、そして感謝しました。みつけたクローバーは押し花にして大切にとっておいてます。宇宙からのおくりものです。

★カヴィーシャ: 素敵な贈り物に感謝ですね!

このことがあってから、すべての生き物、無生物にも宇宙のエネルギーが流れていること、すべての人に光の存在が内包されているイメージをすることがだいぶ楽にできるようになりました。その後、また公園に行きまして、クローバーの群れをみていましたら、クローバーが私に話かけてきたような気がしました。4つ葉さがしているの?と。4つ葉じゃなくても3つ葉のクローバーたちもかわいらしいことに気づきました。大体、4つ葉に幸運をむすびつけているのも人間が作った思い込みですね。

★カヴィーシャ: そうですね。「正常波動と異常波動」の記事にも書いていましたように、四つ葉がほんとうは異常な状態なのだと知ると、少しがっかりしますね。


四葉のクローバー
公園で見つけた四葉のクローバー 撮影 光の仕事人


風変りでも普通でも、すべてにひとしく神は光や水、栄養を与えてくれているのですね。そういう恵みを感謝し存分に受けとり、いきいきと生きていきたいものです。

自己紹介にしてはとても長くなってしまいました。長文失礼いたしました。地上に光をもたらす存在になるように修行中の身です。つい先日東京での仮の仕事はみつかりまして(生活のための)間接的にではありますが環境保護にもつながる仕事なので、しばらくはよし、としています。新しい職場で出会った人たちはある意味「仲間」だと思うので、どういった学びがあるのか手探り中です。

ハイヤーセルフにつながっている(できるだけいつでも)練習中です。光の仕事人様のサポートをお願いすることがあるかもしれません。職場の人間関係について、といった生活の部分的なことに関するサポートではなくて、私のいま、さしかかっている人生の転機、意識のシフト、に関するようなことになると思います。宇宙への、自分の魂への完全な信頼感を感じることを妨げている原因をみつけ、とりのぞきたいので。

光の仕事人様がブログでシェアしていただいている教えにいつも感謝しています。
尊敬の気持ちをこめて。


★カヴィーシャ: あなたのオリジナルの表現を届けてくださったことに感謝します。
あなたの文章を読んでいて、アメリカで読んでくださっている人が数名いらっしゃったということを思い出しました。あなたがそのうちのおひとりだったのですね。長いあいだブログを読んでくださって、ありがとうございます。

宇宙への、自分の魂への完全な信頼感を感じることを妨げている原因をみつけ、とりのぞきたい」と書いておられたKさん、それが今生のあなたにとってもっとも大切な課題なのでしょう。
それを探してください。ぜひ見つけてください。
そのもっとも近道は、あなたご自身がイエスの言うところの「単独者」となることです。ブッダの言うところの「独り在る者」になることです。
そうすれば、宇宙があなたを見つけ、手を差し伸べてくれることでしょう。




ピメリア


   
 
★ 「独り立つ人」が選んだものとは何か? ★



7月のセミナーでは、参加者さんに対し、「単独者」すなわち「独り立つ人」は、「何を選んだのでしょうか?」という質問を宿題にしました。
全員の答えがそろうのを待って記事に書く予定でいたのですが、なかなか答えが届かず、タイミングがずれたため、とうとう7月も末になってしまいました。

待っている間に、参加者さんだけに答えを尋ねるのではなく、読者さんにも尋ねてみようかという気持ちが湧きおこりました。
皆さんは過去記事の「単独者となること―天国に入るための必要条件」をすでにお読みになったことと思います。
再度思い起こしてみてください。そこにつぎの言葉を記していましたね。


イエス、言う。
「選ばれて独り立つ者は幸いである。
その人は〈王国〉を見出すだろう。
なぜなら、人はそこから出てきて、ふたたびそこに戻ることになるからだ」



まず「選ばれて」とは、誰に選ばれた人かと言いますと、それは一般的にいう「」ですね。
「神」ということばが人間臭いなら、「宇宙を創った根源」と言ってもよいでしょう。「大いなる宇宙の意識&意志エネルギー」のことです。

そして、「独り立つ人」とはどんな人かというと、他者に必要とされる必要が落ちてしまった人であり、独りであって完全に満ち足りていて、真に自由である人のことだと言えるでしょう。
(「光の花束〈不滅の詩〉」7月9日更新の記事参照)

わたしたちはたいてい誰かに必要とされるために生きている、あるいは、生きようとしていると言ってもよいのではないかと思います。

もし誰かがあなたを必要としていたら、その人のために生きなければならないと思うでしょう。子どものため、夫のため、妻のため、親のため、職場の人たちのため…。
しかし、もし逆に誰もあなたを必要としなかったら、「あなたがいようがいまいがどうでもいいよ」と言われたら、どんな感じを受けるでしょうか? 
きっと、自分の存在意義が失われたようで、損なわれたようで、自分の生を無意味に感じ、悲しくなるのではないでしょうか?

あなたはいかがですか? 
あなたは「自分が他者に必要とされる強い願望」を持っている人でしょうか?

しかし、「存在意義」というものは、本来自分のなかにあるものであって、他者にそれを見つけてもらうようなものではないのです。 

もしあなたが「あなたが必要だ」と言われるために他者を愛し、他者の面倒を看ているのだとしたら、あるいは、自分が愛されたいがために他者の面倒を看ているのだとしたら、あなたは天の王国を見いだすことは難しいでしょう。

特に「奉仕をすることに喜びを感じている人たち」は、一度自らの行為が、真にやりたいからしているだけなのかどうか、問うてみていただきたいと思います。



青いハートのライン


さて、ここで質問です。
イエスが言う「独り立つ人」は、いったい何を選んだのでしょうか?

この質問の捉え方は人それぞれです。読者さんのコメントを読み、誤解を生まないよう、付加しておきたいと思います。これは、「単独者」となった人は、何を選択したがゆえに「独り立つ人=単独者」となり得たのでしょうか? という意味です。 7月31日更新

 
セミナーの参加者さん4名は、そろって「自由を選んだ」とレポートに書いておられました。

セミナーでは、上記の質問の前に、「人間の内部にある最も深い衝動とは何でしょうか?」という質問をしました。
正解が「完全に自由になること」、「解放されること」であると知った皆さんは、てっきりそのことだと思われたのでしょうか?

また「覚えておいてほしいこと」として、「独りであること=自由」、「絶対的な自由は、独りにおいてのみ存在しうる」ということを伝えていたので、「独り立つ人」は「自由」を選んだのにまちがいはないと思われたのかもしれません。
もちろん「自由を選んだ」と言っても大きなまちがいではありませんが、しかし、それでは答えが簡単すぎると思いませんか?

まだ別の言葉がありますよということです。
それを皆さんにも考えていただきたいと思います。
皆さんからのお答えを募集します。「お便り」か「拍手コメント」に、その答えとなぜそう思ったのか、理由を書いてみてください。

独りあること…。
単独者となることこそが、天国に入るための必要条件」です。

さて、あなたは真に「独りで在る人」でしょうか?





大木.


★ 真の成功とは? ★



『5月の気づきのセミナー』で、「成功の本質」とは何でしょうか?
真の成功」とはどんなことですか? と問いかけました。

自分の才能を伸ばし、認めること。
自分を愛すること。
他者を愛し、貢献すること。
 

お金さえ貯まればよいとか、店が繁盛すればよいとか、
そういうことではありませんでしたね。
光の源泉」となりたい人は、自分にとっての成功の中に
必ず「人の役に立ちたい」という気持ちがありました。

けっして「押しつけがましい愛」なのではなく、
純粋に人の役に立つ仕事をしたいと思っておられたと思います。


光の源泉となりたいと願っている皆さん、
何かで成功したいと願っている皆さん、
よく考えてみてください。


今現在自分の旅のプロセスを楽しむことさえできていないのに、
他者からどう思われるかばかりを怖れ、不安で自信がなく、
自分を真に愛することも、信じることさえできていないのに、
自分の全身全霊を惜しみなく他者に与えることもできないでいながら、

そして、真の目的地がどこにあるのかもわからないのに…
それを目指そうとしてはいませんか?


もう一度考えてみてください。
あなたにとっての「成功」とはどんなことでしょうか?

けっして目的志向にならないこと。
自分の人生の旅路そのものを楽しむこと。


その旅路で見つけたさまざまなもの
野に咲く花の健気さや、人知れず咲く花の可憐さに感動し、
自然の摂理に従って生きているものたちの生死に涙する
だれもまだ体験したことのない地に分け入り、新たな発見に胸を踊らせる
そんな旅路を楽しんでいただきたいと思います。 






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