ハートで感じるとは? ―右脳のお話

2012年04月02日 11:40


★ ハートで感じるとは? ★



ハートで感じてください…。

この言葉が、このブログのさまざまな記事のなかで、くりかえし繰り返し書かれてきたことに気づいている人は多いかと思います。
頭を取る」ことのお話も、昨年末には随分したと思います。
それで、実際にハートで感じられた人が、どれくらいいらっしゃったでしょうか?
頭で考えないで、頭で受け取らないで、ハートで感じ、ハートで受け容れられたと思う人は、手を挙げてください。

と言っても、それは自己申告なので、実際にどれくらいの人がハートで感じられたのか数字では表せませんが。
最近、「自分はハートで感じることができない」という男性からお便りをいただきました。
それで、彼のようにハートで感じられない人が、まだまだ大勢おられると感じましたので、今回は「ハートで感じること」について書きたいと思います。


ハートの線


まず皆さんにお尋ねしたいのですが、ハートというのはどこにありますか?

たいていハートというのは、心臓を指しますね。
心臓にちなんだ言葉が思い浮かびますか?
心臓がドキドキする、心臓にぐさりと突き刺さる、胸が高鳴る、胸が張り裂けそうになる…など、心臓や胸の部分で何かを感じられた体験はあるはずだと思います。

同じ言葉を聞いても、頭にくる人と、心臓にくる人、あるいはお腹にくる人がいますね。
わたしはというと、たいてい心臓のほうに来ます。
見えない存在が来たときも、すぐに心臓がキャッチします。
その鼓動の感じ、たとえば重苦しいか、軽快か、嫌な感じか、いい感じかで、ネガティブエネルギーか、ポジティブエネルギーかを知ることができます。
第4チャクラであるアナハタチャクラは愛を感じ、愛に関係するチャクラですから、そこの働きが強いか弱いかで、感じかたも異なってくるのではないかと思います。


ハートうさぎ



★ 頭からハートへ ★



ハートは、真実へ至る無門の門だ。
頭(ヘッド)からハートへと向きを変えなさい。

誰もが頭にひっかかっていて、首が回らない。
それだけが問題、たったひとつの問題だ。

だから解決策もひとつ、それは頭からハートへ降りることだ。
そうすれば、問題はすべて消える。
問題はすべて頭によって生み出されるからだ。
頭からハートへ転じれば、たちまちすべてが非常にはっきりと透明になるので、
どうして今までこんないろいろな問題をでっち上げてきたのか、驚くだろう。

神秘はそのままだが、問題は消える。
神秘はあふれているが、問題は蒸発する。
そして、神秘は美しい。
それは解決すべきものではなく、生きられるべきものだ。
                     ~OSHO~



ハート
OSHOは、頭人間さんたちに、「首なしになる瞑想」を勧めています。
頭を持っていない自分自身を視覚化し、あたかも首がないかのように動き、感じる実修です。
頭が消えたと感じるとき、即座に中枢はハートに落ちてゆくだろうと、OSHOは言います。
そして、ハートのセンターが機能すれば、自分の全人格、全構造、全様式を変化させることができると。
ぜひお試しください。

「首なし」の実修をしたあと、できるかぎり愛にあふれているような自分になることですね。
愛は頭を通じては機能できません。カントの話を思い出してください。彼は恋愛すら頭で考える人でした。だから、求婚された相手とは結婚できなかったんですね。
恋愛中には、たいていは頭を失い、ハートで感じるはずです。
胸が苦しくなる想い、胸が張り裂けそうな想い、胸が高鳴ったり、胸が躍ったり、ワクワクする感じ…。
それは頭ではありません。ハートで感じることですね。
そんな体験がない人は、ほんとうに愛してはいないということです。
愛にあふれるほど、ハートのセンターはますます機能し、はたらきます。

ハートで感じられない人は、自分に愛が満ちあふれているかどうかを尋ねてみてください。
そして、「わたしは、ほんとうにわたし自身を愛しているか?」と。

マインドは分割し、ハートは統合します。
ハートを通して見れば、宇宙全体がひとつになります。
過去記事にも詳細を書いておりますので、ぜひお読みください。


★ 参考過去記事 ★ 
2011年04月09日マインドで考えることVSハートで感じること 


ハート1



★ 右脳のお話 ★



最近、わたしは「ハートで感じるというのは、右脳で感じる」ということと同じことだと思うようになりました。
ここでは、ハートで感じるということを、「心臓」ではなく、「頭脳」という視点でお話ししてみたいと思います。

人にはふたつの脳があります。左脳と右脳です。
脳の左半球は論理、推理、数学の半球で、非創造的です。
脳の右半球は愛、美、感受性の半球で、創造的です。

子どもの頃は右半球が機能していますが、学校へ行き始めると、無理やり左半球へ移行させられます。
学校教育は右脳を破壊し、左脳の訓練をする場所なのです。
そのためにすばらしい右脳の機能が忘れられていくのです。
不登校の子どもたちは、その危機感を感じる直感力のある子どもたちなのではないでしょうか?


~ 「奇跡の脳」のご紹介 ~



あなたは、脳卒中に倒れたアメリカの女性の脳科学者(神経解剖学者)、ジル・ボルト・テイラーさんをご存じでしょうか?

ハーバード大学で脳神経学の専門家として活躍していた彼女は、37歳で脳卒中に襲われます。
左脳の血管が破裂し、彼女は4時間のあいだに 自分の脳が情報処理能力を失っていくのを経験しました。
彼女は歩くことも話すことも、 読み書きも、自分の生活について思い出すこともできなくなってしまったのです。

命は取りとめられましたが、言語中枢や運動感覚は大きく損なわれました。しかし、8年に及ぶリハビリの結果、見事に復活し、その後、体験の記録を書き、アメリカの権威ある※テド・カンファレンスで発表するまでに至るのです。
(※TEDが主催している講演会の名称をTED Conference(テド・カンファレンス)と言い、学術・エンターテイメント・デザインなど様々な分野の人物がプレゼンテーションを行なう場で、大統領など著名な人物が多く参加している)

脳内で大出血を起こしたその朝、左脳の機能が徐々に失われていく4時間のプロセスをリアルに描いたこの書のタイトルは、日本語では「奇跡の脳 脳科学者の脳が壊れたとき」です。
この作品の単行本は数年前に出版されていましたが、2012年の4月1日に新潮文庫として新たに発行されました。
わたしはこの文庫本の出版を待って購入し、今読み終わったばかりです。

どんな内容であるか、予想はついていましたが、脳卒中になった人には福音となるでしょう。
そして、病気でない人も、右脳と左脳の機能の違い、右脳の人生と左脳の人生との違いがどんなものなのかをしっかりと学べるのではないかと思います。何しろ、脳の専門家が、自分自身に起きた症状の真実を語っているのですから、信憑性はバッチリです。
彼女は本の中で、左の言語中枢が沈黙してしまったときに起こったすばらしい体験を語ってくれています。
彼女の左脳が判断力を失っているあいだに、彼女は真の喜びと安らぎと静けさを得、宇宙とひとつになっていたのです。
右脳にとっては“現在”がすべてです。
“この場所 この瞬間”がすべてです
」と語るテイラーさん。
彼女はTEDの講演会でつぎのように語っています。

右脳の意識を通して見ると、私という存在は、自分を取り巻くすべてのエネルギーとつながった存在なのです。
右脳の意識を通して見た私たちという存在は、ひとつの家族として互いにつながっている エネルギー的存在です。
今この場所、この瞬間、私たちはこの地球上で 共に世界をより良くしようとしている兄弟姉妹です。
この瞬間に私たちは完璧であり、完全あり、美しいのです。


★下記をクリックすると講演会が見られます。
 
ジル・ボルト・テイラーのパワフルな洞察の発作


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テイラーさんの口からは、悟りを得た神秘家がいつも言っているような言葉が時折出てきますが、覚醒者たちというのは、左脳から右脳へと移行し、本来の右脳の機能を取り戻した人たちだということが、このテイラーさんの講演や著作から知ることができるでしょう。

★ここに、少しだけ、テイラーさんのメッセージを伝えておきましょう。
関心のある方は、ぜひお読みになってください。


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脳卒中によってひらめいたこと。
それは、右脳の意識の中核には、心の奥深くにある、静かで豊かな感覚と直接結びつく性質が存在しているんだ、という思い。右脳は世界に対して、平和、愛、歓び、そして同情をけなげに表現し続けているのです。
                     「奇跡の脳」―「脳卒中になって、ひらめいたこと」より

右脳マインドには、現在の瞬間以外の時間は存在しません。そしてそれぞれの瞬間が、情感で彩られています。
生や死も、今この瞬間で起きています。歓びの体験も、そしてわたしたちを包む大いなる存在との結びつきを知り、実感することも。右脳マインドにとっての「今」の瞬間は、一瞬にして永遠なのです。
正しい方法も規則も規制も持たない右脳マインドは、なにものにも束縛されず、あるがままに考える自由をもっています。そして新たな一瞬の数々が与えてくれる可能性を、どこまでも自由に求めていくのです。
右脳マインドはあらかじめ、自発的に、気ままに、そして想像的につくられていて、だからこそわたしたちの芸術的な活力が、抑制や思慮分別なんてものに縛りつけられることなく、自由に迸(ほとばし)るのを可能にしてくれるのです。
                             「奇跡の脳」―「脳についての解説」より


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ハート 小
最近また「おススメの本を紹介してください」というご要望がありましたが、今回は「奇跡の脳」のご紹介を致しました。
あとは、過去記事「深まりゆく秋に向けて―第2弾 わたしの好きな著者」でご紹介した本や、わたしがこのブログのなかで紹介している本を参考にしていただければ幸いです。

読まれた方はまた感想などをお寄せくださると、うれしいです。
ぜひ光のキャッチボールを!


前回の記事でご賛同くださった拍手数は、今のところ(4月2日現在で)「57拍手」となっています。
57人の方が、光と繋がりたい、光の源泉となりたい、地球を太古の昔のような、もとの美しい惑星に戻したいと願い、実践しようとする人であり、そして、打てば響く心意気のある人だということですね。ありがとう!


光の子どもたちよ、
今の地球の現状がわかりますか?
ひどく意識の低い人間たちの棲み家となってしまった地球。

世界の人類がしていることを知っていますか?
平気で殺し合う人間たち。

世界で何が起こっているのか知っていますか?
今多くの人間たちがしていることを知ってください。

この先、どうなると思いますか?
アセンションどころではないのですよ。

あなたが真に光の子どもなら、
自分がすべきことはもう十分に知っているでしょう。
それに向かって、羽ばたきましょう。
愛の翼をひらき、飛翔しましょう。




自己を光として認識せよ

2012年04月15日 01:18


★ 心を閉ざし、耳をふさぐ人たち ★



皆さんは、過去記事「光のキャッチボールをしませんか?」を読まれましたか?
そこで、つぎのように書いていたのを、覚えておられるかと思います。

もし、あなたがこのブログを読まれて、何か気づかれたことがあるのなら、これまで知らなかったことをひとつでも知ったのであれば、その自分が気づいたことや知ったことを、また気づいていない人、まだ知らない人に伝えていってください。
この世界には、見えない世界や見えない存在について、無知な人たちが数多います。また、これまでのものの考え方が限界に来ていて、もうその考え方ではアセンションする地球に伴っていくことができないということに、まったく気づいていない人が多すぎるのです。ほんとうに驚き、あきれるほど、実態を知りません。
ですから、その実態を少しでも知った人たちは、ぜひ光のネットワークにご参加いただき、世界中にその「新しいものの考え方」を広げていくのを助けてください。


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これを読まれて、自分もそういう人々に真実を伝えたいと思った方がいらっしゃったことと思います。
しかし、気持ちは十分にあるのだけれども、なかなかそれが実現しなくて、難関だと実感されている人もいらっしゃるでしょう。
たとえば、霊の世界のことなどを伝えるとなると、「何言ってるの? あなた、精神病院にでも行ったらどう?」と言われたり、相手にしてもらえないということもあるのではないかと思うのです。

「バカじゃないの?」と一笑に付してしまう人たち、かたくなに心を閉ざし、聞く耳を持とうとはしない人たち、世の中には真実を知るのが怖くて、真実に直面することから逃げている人たちが大勢います。


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もう随分前のことですが、ある法律家から「あなたはとてもいい人だけど、頭がおかしいんじゃないの? 精神病院に行ったら?」と言われたことがありました。
そして、「おかしなことを書いた本なんて出さないほうがいい」と言ったのです。「思想、信条の自由」、「言論、出版の自由」があるにもかかわらずです。
人権を擁護する側の法律家がそういうことを平気で言われるので、とても驚いたことがありました。これは、まちがいなく言葉の暴力ですね。
人の話を聞こうともせず、人をバカにしたり、おかしいと決めつけたり、人権を無視するような人たちというのは、世の中に数多存在するのです。それで何か罪を犯せば、すぐに法律に照らし合わせて人を罰します。罰するということ自体も、一種の暴力だと思うのですが。

人間が勝手に作った法律で人間を拘束し、裁いて罪人にしているような人たちは、左脳ばかりが発達して、右脳の機能が働かないのです。ハートで感じることができないのです。目に見えない世界が目に見える世界の基盤となっていることなど、考えてみることもできないのです。

病気を繰り返しているその人に、「あなたの意識があなたの現実をつくっているのですよ、だれのせいでもない、自分のせいなのです。他人のことばかりに目を向けて、人を裁いたりするのはやめて、もっと自分自身を見つめてみられてはどうですか?」と言ってあげたいのですが、それを聴く耳は持っておられないでしょう。

貧しい人、恵まれない人のために尽くすような弁護士やボランティアは『復讐者』の象徴であり、犯罪者を告発したり、社会に害を与える企業を訴えることは、社会のために正義感に燃える、地球規模での『復讐者』の見本である」と、キャロライン・メイス(アメリカの直観医療の第一人者・神学博士)は言っています。
実際に弁護士でなくても、人のために主義を守る行動をしたかどうかで、その人が復讐者の元型をもっているか判断できると言い、また、自分自身や家族への不当な行為に復讐したいという人も、その元型をもっていると彼女は言っています。
どんな職業を選ぶかで、その人の元型がわかってしまうとしたら、とても興味深いと思いませんか?


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皆さんは、法律や規則などがたくさんある国ほど、国民の意識が低いのだということは、おわかりになりますよね?
そこに生きている人たちの意識が高ければ、規則なんてまったく必要ないからです。犯罪が多くて、治安が悪く、監獄に入れられている人が多い国ほど、その国の政治が悪く、政治家の意識も低いということがわかります。
天国に規則などあるでしょうか? 

人はカルマによって再生(再誕生)し、さまざまな悪いことが起こるのも、すべて自分のした行ないの結果なのだと気づいていたら、人を裁くことなどしなくなるでしょう。
過去生で人を殺した人は、現生で殺されることを体験するかもしれません。今度は殺される人の身になってみなさいという学びなのですから、それを傍の者がとやかく言う筋合いはないのです。成るべくして成っているということです。人間が作った法律ではなくて、宇宙の法則によってすべてが現われ、廻(めぐ)っているのですよということです。
だから、それを知った人は、その真実を伝えていく必要があると思うのです。


★ 無知な人間が起こしているさまざまな問題 ★




~平気で臓器移植をする医者たち~



とにかく、権威をもっているとされる政治家、法律家、学者、医者などの多くは、左脳マインドでガチガチにコリ固まっているので、スピリチュアルな内容はなかなか浸透していきません。もちろん正常な方々もいらっしゃいますが、霊的世界を理解し、感知できる人は少数だと思います。
たとえば、ペンジュラムで診断し、患部に手を当てるだけで病気を治しているような医者がいたら、きっと西洋医学の医者からは変人扱いされるでしょう。

過日、読者さんから「臓器移植の問題」を取り上げてほしいというご希望があったので、ここで少し触れさせていただきたいと思います。

人間の身体の構造については、過去記事「神秘のボディ」にも書いておりますが、医師の多くがそのようなしくみを知りません。
ですから、脳死したとわかれば、その人の内臓をさっさと切り取って、平気で他の人に移植したりできるのです。脳が死んでいると言っても、心臓はまだ鼓動を打ち、生きているわけですから、その人が真に死亡したわけではないのですが…。

わたしたちのボディは、見えないボディである「生気鞘」と「肉体」が、銀色のコードによって、へその部分でつながっています。
「生気鞘」がまだ肉体とつながっているのに、臓器を切り取ったりすれば、当然のことながらその人はパニックを起こします。
よって、シルバーコードが完全に切れているかどうかを見極めることが大切です。シルバーコードが完全に切れて、本体が肉体から離れてしまえば、肉体はただの物質となりますから、その後に臓器を取ろうが、肉体を焼こうが、大丈夫なのです。ただし、自分の肉体の死をはっきりと知り、肉体の執着から完全に開放された人に限ると思いますが。
そういうことがわかっていないのに、「脳死」を「死亡」とみなしているという恐ろしい事実に、医師たちは気づいていないのです。


シルバーバーチは、つぎのように言っています。

私は臓器の移植には賛成できません。また輸血も賛成できません。
私の考えでは――私はあくまで私の個人的見解を述べるだけですが――
肉体的生命の維持ということが唯一の目的であってはならないと思います。
心に宿す考えが正しければ行為も正しく、したがって肉体も正常となります。
問題の解決は臓器の移植ではありません。
本当の解決は各自が神の意図(摂理)にのっとった生き方をすることです。
                  『シルバーバーチの霊訓(9)』(潮文社)より



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臓器をもらって、生きながらえた人は、臓器提供者に感謝するかもしれません。でも、その臓器がどんな人のものなのかがわからない(知らされない)ということも問題です。
特に心臓などをもらった場合、提供者の意識や記憶が心臓に残っているため、移植後、提供者の想いに大きく影響されることがしばしばあることが、既に多くの事例からわかっているからです。

臓器にも意識があることは、このブログでもお伝えしているので、皆さんはもうよくご存じのことと思います。
他の意識を持った臓器が自分の体内に入ってきたら、拒絶反応を示しても不思議はありませんね。そのあたりのことを考えれば、やたら臓器を移植することはできないのではないでしょうか? 
そこまでして(他者の意識に影響されてまで)生きる必要があるのかどうかということです。
「臓器を移植する」という発想は、「人間の生は一度きり。死んだら終わり。だから、生きられるのなら、他者の臓器をもらって置き換えてもよい」という考えが、根底にあると考えます。
「生きたい」という気持ちはわかりますが、ほとんどの場合、本人のエゴと言うよりは、家族のエゴのような気がします。肉体を去っても、つぎの生があることを知っていたら、こんな世界にいつまでも留まっていたいと思うでしょうか?


~霊魂を信じない僧たち~



わたしがまだ中・高校生の頃だったと思いますが、日本の坊さん(禅僧)の90%以上があの世の存在を信じていないという結果を出したテレビ番組を見たことがあり、驚いたことがありました。
(過去記事「死者に対する意識改革―葬儀のあり方を考える」参照)
では、最近の坊さんはどうなのでしょう? 

先日「曹洞宗総合研究センター設立記念オープンフォーラム」というサイトを見つけました。「現代に問われる葬祭の意義」とタイトルがつけられていたのですが、〈パネリストの発表〉の箇所につぎのように書かれていました。

霊魂を信じているかという質問に対し、40パーセント近くの僧侶が分からないと回答しており、分からないまま死者への葬儀を行っている僧侶の多いことが分かった。また、葬儀に自信を持っているかという質問に対し、42パーセントの僧侶が自信を持てないと回答しており、自信を持てずに葬儀を行っている僧侶の多いことも分かった。
霊魂を信じられない、死後の世界が分からない、このことが葬儀に自信を持てなくしているのではないだろうか。霊魂の問題を如何にクリアーするかが問題である。死後の世界を信じないで、どうして死者に向かって授戒することができようか。私は、檀信徒の方に対し、信仰上の信念として、道元禅師のお言葉を信じて『霊魂はある』『来世はある』と説いている。


発表された僧侶は、「霊魂を信じているかという質問に対し、40パーセント近くの僧侶が分からないと回答しており、分からないまま死者への葬儀を行っている僧侶の多いことが分かった」と言っておられます。
その答えは「信じている」か「信じていない」かのどちらかであるはずです。それなのに、「分からない」というのは、どういうことなのでしょうか?

自分が「霊魂を信じているかどうかわからない」と言う坊さんが経を読み、葬儀で高額のお布施を受け取り、その後も、故人に対して営まれる法要を繰り返しおこない、それに対するお布施をもらい、お盆にも施餓鬼供養をして、またお布施を受け取っているのです。それが日本の坊さんの仕事、職業です。何かヘンだと思いませんか?

霊魂や死後の世界を知らない、あるいは信じてもいない人が、法要を行なう意味がわからないし、それは詐欺行為に近く、罪にならないのだろうか? とさえ思います。
当然のことながら、このような人がいくら経を読んだところで、霊魂は浄化されず、救われることなどありません。日本は、こういう職業がまかり通っている国なのです。

霊魂があるかないかわからない人は、供養のまねごとをするのはやめて、釈迦の説かれた法則などを信者さんに教えてあげればよいと思うのですが、霊の世界がわからないのなら、釈迦が真に伝えたかったこともわからないかもしれません。
自信が持てずに葬儀を行なっているような人は、僧侶という職につくこと自体がまちがっているのでは? と思います。あの世に旅立てない霊が、僧の後ろに数多くっついていることなど、きっと感じたこともないのでしょう。

坊さんも坊さんですが、そういうことを気にもかけず、坊さんならだれでもいいという感じで葬儀や法要をお願いする一般人のほうも問題であるとわたしは思います。
形ばかりの法要などしたくないけれど、義理で仕方なく行なっている人たちや、法要の前後で身体の具合が悪くなる人がとても多いのです。法要が近づいてくるとウツ状態になる人を、何人も知っています。
法要をしたくなければ、やらなければよいのです。行きたくなければ行かなければよいのです。
今までやってきたから、世間体がどうのと、迷いつづけているあなた、意識改革はまずあなたからです。


ちょうちょ



~読者さんのご質問から~



「…こんな話を周りにしてもキチガイと思われる世の中と感じていますが、このことを一人でも多くの人にうまく伝える方法はないものかと考えています
こうした人たちに気づいてもらうために、光を放射する瞑想のほか、どのような日常的な言動や行動でのアプローチがあるかを記事にしていただければ幸いです

このようなお便りをくださった方がいらっしゃって、とてもうれしかったのですが、それについてはわたし自身も同様に悩んでいるわけなのです。(笑)

もっとも正常な人は、精神病院に入っている人だ」と言った学者さんがおられるそうですが、そうかもしれないと思いませんか? (もちろん、それを言ったのは日本人ではなく、海外の人です)
もし「自分は気が違っている」と気づいて、自ら病院に入っているのなら、その人はかなり正常な人でしょう。

悟りを得た人たち(正覚者)は、みんな気が違っています。狂人です。一般人と比べれば、明らかに気(波動・周波数)が異なっているからです。非常に正常波動値が高い(周波数が高い)のです。
だから、一般人には考えつきもしないことをしゃべりますね。

もしあなたが、ある日突然目覚めて宇宙の理を知り、誰も知らない見えない世界のことをしゃべり始めたら、気が狂ったと思われるのではないでしょうか?
でも、それって、何も不思議ではありませんね。当然のことです。
ですから、人に「精神病院に行ったら?」と言われても、腹を立てないで、むしろ喜べばよいのです。
だって、相手と自分とはまちがいなく「気が違う」のですから。
「キチガイ、おおいにけっこう」、「キチガイさん、万歳!」です。

異常な人ほど、自分は正常だと思い込み、自分以外の人がおかしいと思うものです。
要は「キチガイ」と思われてもよいという覚悟があるかどうかです。
人の反応を怖れていては、光のネットワークは広がっていきません。

光と至福に満たされて、いつもニコニコしている「キチガイさん」がどんどん増えていったなら、キチガイでない人たちは、「もしかしたら、自分のほうがおかしいのだろうか?」と考えるようになっていくでしょう。
だから、皆さん、ぜひ自信を持って「キチガイさん」になってください。(笑)

今も昔も、偉大な「キチガイさん」があまりにも少なかったために、日の目を見なかったのです。もう目覚める人がどんどん出てきてもよい時期だと思いますよ。
(関連記事 光の花束〈不滅の詩〉―冬から春へと移り変わる星たちを眺めて 参照)

「キチガイ」という言葉は、放送界では差別用語となっており、一般的にもあまり使うことは好ましくないので、これからは「気高い人」と呼ぶことにしましょう。

気づいてもらうために、光を放射する瞑想のほか、どのような日常的な言動や行動でのアプローチがあるか?」という読者さんのご質問ですが、方法というものはないような気がするのです。
「どうしたら、人にうまく伝えられるか?」ということをあれこれと模索しても、何も思いつかないからです。

それを考えることよりも、「まずあなたが『気高い人』になることですよ」と言うしかありません。
自分自身が気づき、悟って、光に満ち満ちることです。
光に満ちた人は自信に満ちて、堂々としているはずです。
そうすれば、自分のオリジナルが生まれるでしょう。
それはあなた次第だということです。

つぎのOSHOの言葉を参考にしてください。


反逆にはつねに伝染性がある。
それは野火だ。
だが、まずあなたがその炎を手にしなければならない。
そうなればどこに行こうと、
あなたは人々に炎を燃え移らせることになる。
――そうなれば人々は、新しい光、新しいヴィジョン、新しい考え、
人間とその未来についての新しい概念に炎と燃え立つ。

              ~OSHO 「反逆のスピリット」より~




ハート
このOSHOが言っている野火の「炎」のことを、わたしは「光」と言い、
「反逆者」のことを「キチガイさん=気高い人」と言っているだけです。
同じことです。

くれぐれも、ネガティブで、気の低い人にはならないように。
カチカチの氷ではなく、さらさらとながれる水に、
そして、さらに空中に上昇していく気体へと変容してください。

読者の皆さんが、光かがやく「気高い人」になってくださることを、
光の仕事人は心から願っています。



★「光を放射する瞑想」は、
光の花束〈不滅の詩〉」の光を呼んで自分自身を光で満たしましょう
自分自身を光で満たし、光を放射しましょうを参照してください。




見える世界と見えない世界のギャップを垣間見る

2012年04月28日 00:35


★ 父の葬儀から見えてきたこと ★



今週は、わたしの父の告別式のため、実家のある京都のほうへ行っておりました。
もし何か読者の皆さまの参考になることがあればと思い、
そこで、感じたこと、知ったことを、お話ししたいと思います。


華



このブログを以前から読まれている方々は、父が脳腫瘍で入院し、手術をして絶好調で帰宅したという記事を覚えていらっしゃるかと思います。
(2011年9月の記事「未来は決定していない―未来は変えられる!」参照)

記事に書いていましたように、父がこの病気によって亡くなることを前もって知っておりましたので、手術をしても少し延命するだけで、さほど意味がないと考えておりました。しかし、父にはまだまだこの世界に生きていたいという願いが非常に強くあったので、あくまでも手術をしたいという父の希望を尊重し、手術をすることに同意したのです。

腫瘍はすべて摘出され、術後の経過は大変よかったのですが、予想通り1ヶ月後に再発して、また入院することになりました。
本人は頭を切り開いているので、腫瘍は完治したものと思いこんでおり、以前のような生活がまたできると思っていたようですが、それが適うことはありませんでした。
腫瘍でも癌でも、あらゆる病気が再発するということは、それを生じさせる状態が身体全体にあるということで、幾度取り除いても、また生じてくるのです。
根幹の部分が変わらなければ、枝葉の部分は変わりようがないということです。

父が誤解したままだったのは、医師をはじめ、主に父を世話していた長男が、本人にきちんと本当のことを言わなかったからだと思います。
わたしは父がこの世で生き長らえることばかりを考えるよりも、自分の死への準備(主に自己の人生の浄化)をするように幾度となく促してきたのですが、本人がそれを意識して実行することはなかったように思います。(できていないことは明白です)


納得がいかない限りあの世へ旅立つことはできない



通夜の際に棺に入れられた父の顔を見たのですが、まだ生々しく、意識がまだ肉体から出ていないことがわかりました。祭壇に自分の写真が飾られて、僧侶の読経が行なわれても、本人はまだ死んだことに気づいていませんでした。
昏睡状態で亡くなった場合、本人の意識が「今ここ」にないわけですから、本人はまだ眠っているのだとカン違いするのです。シルバーコードは切れているのですが、本人の意識が納得していないので、肉体から幽体部分が離れないわけです。

それで、わたしは「お父さん、あなたはもう死んだのですよ」と繰り返し伝え、このまま肉体から離れないと、明日火葬されるときにパニック状態になるから、早く出るようにと何度も説得しました。それで、ようやく肉体から離れてくれたのです。
(親族の皆さんが別室で食事をし、談話している間に、わたしはひとりでそういうことをしていたのです)

父は自分の死に対して、全然納得がいっていませんでした。どうして、こんなことになったのか、さっぱりわからなかったのです。そして、そのことに怒りさえ感じていました。
父が納得していないこと、怒りがあることは、波動センサー(ペンジュラム)でも確認したのですが、父が亡くなる数日前に長女が「おじいちゃんが怒っている夢を見た」と言っていたことと、次女は次女で「おじいちゃんには怒りがある。自分が死んだことに納得していない」と言っていたので、まちがいないと確信しました。

父の最初の怒りはまだ漠然としたものでしたが、しだいにそれがフォーカスされて、明確になっていきました。

肉体を脱いだ意識は、周りの人たちがどんな思いでそれをしゃべっているのか、本心が丸見えなので、何もかもわかってしまいます。(但し、個人差があり、わからない人もいます)
ですから、そういう体験は、父のためにはとても学びになるのではないかと思いました。
なぜなら、生前の父は世間体や体裁を重んじ、表面的な言動だけで人を判断し、相手の真意などはあまり考えない人であったからです。要するに、表面的な善に非常に騙されやすい人だったということです。そういう人が相手の本当の気持ちを知ったりすると、まちがいなく愕然とするのです。

故人を偲ぶ僧侶の話のいい加減さも、父は初めて知ったのではないかと思います。
坊さんの読経に何の功徳もないことや、坊さんの話がいかに上っ面な内容であるかをわかってもらうよい機会だったと、わたしは思っています。

火葬場でお別れをした際、わたしの長女と次女は、おぼろに父の姿が見えたとわたしに語りました。
父は皆の後ろで、自分の肉体が焼かれる様子を見ていたのです。
焼いた骨を骨壷に入れるとき、係の人は骨に対して何度も合掌をするよう指示をされていましたが、意識が抜けたあとの肉体や骨はただの物質ですから、拝む意味などないのです。そんな基本的なことも、多くの人は知らないのです。


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4年前にわたしの実母が亡くなった際、母の意識はすぐにわたしの元へ飛んできました。
「今息を引き取ったと病院から連絡があったから、これから行く」という父の連絡を受けたとき、母はすでにわたしのところにやってきていたのです。
それで波動を高め、上昇する祈りをして、光の世界へと母を送ることができました。

母は生前認知症で、この世の物質的なものに執着のつよい人でした。毎回わたしのところに母の意識が飛んでくるたび、物質的な執着を断ち、あの世へと旅立つ意識を持つよう話をしてきたのですが、その準備ができるまでには随分長い年月がかかりました。
しかし、母が肉体の死を迎えた日、母はわたしの祈りとともに上昇し、死者の癒しの場とされる「アルクトゥルス」へと旅立っていきました。
ですから、通夜の場や葬儀場などに、母はいなかったのです。
そのことは、超感覚知覚力がある長女や次女も同様に感じていて、「おばあちゃんはもうどこにもいないね。まったく気配がない」と語っていたことからも明白です。

巷の葬儀のプログラムとして、たいてい火葬場から戻ったあと、初七日という法事をして、そのあと食事をすることになっているようです。まだ七日経ってもいないのに、また皆に集まってもらうのが面倒くさいので、ついでに法事をしてしまおうという「生きている者本意の行事」です。
母は通夜以前にすでに別次元に旅立っているわけですから、わたしたち家族はその法事には参加せずに帰りました。
「世間体」とか、「~せねばならない」「~すべき」という「思いの制限」にがんじがらめになっている人たちからすれば、甚だ非道に思えたことでしょう。
しかし、それは本当のことを知らないことによる勝手な思い込みなのですから、全然気にはなりませんでした。
意外にも、父はその辺のことを理解してくれていたようで、とても有り難かったですが。


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しかし、今回の父の死には問題が残りました。
母の場合とは違い、肉体にしがみついて離れない状態で、死んだことに全く納得していないわけですから、通夜のときも、告別式のときも、繰り返し繰り返し、説得しなければならず、最後の最後までわたしたち家族が居残ることになりました。
それでも本人は納得ができないようなので、しばらくは父が生前住んでいた家に留まって、普段のような生活をすることになるだろうと感じました。
まあ、納得がいくまでこの世に留まるのもよいのではないかと思い、父に対しては、母のときのような対応はまだしておりません。
本人が心から浄化をしてほしいと言って来れば喜んで浄化しますが、本人がそれを望まず、頼まない限りは、するつもりはありません。すべて本人の自由選択ですから。

僧侶は「大往生を遂げられた」などと相変わらず自分勝手な希望的観測を並べ立てておりましたが、本当はそれどころではなかったということです。

幽体となって自宅に戻った父の怒りは、さらに強くなっていったようです。
父の家にしばらく滞在して家の中を整理することにしていた長男の家族に対して、父は「早く帰ってほしい」と思っているようでした。自分の部屋を勝手に触られたくはないし、父は今まで通り愛犬と静かに暮したいのです。

父の怒りのひとつに「遺影写真」がありました。
実は、父が「自分の葬式にはこれを飾ってほしい」と皆に言っていた写真があったのです。愛犬と一緒に撮ったもので、父はその写真を大きく引き伸ばして額に入れ、いつも見えるところに掛けていたのです。
ところが、葬儀場で見た遺影写真は全く別の写真でした。(写真の父はにこやかに笑ってはいましたが)
「なぜ?」という思いはわたしだけでなく、長女も同様でした。

故人の生前の意思や意向が尊重されないということは、その人の人権が無視されたのと同じことです。
父の怒る気持ちは非常にわかる気がしました。
そこで、「そんなに嫌なら、みんなの前に自ら姿を現して、自分の気持ちを伝えたらどうか?」と提案してみたのです。父のメッセージをわたしから彼らに伝えたとしても、死者の霊を信じない人たちはただ感情を害するばかりで、聞く耳を持たないことは端からわかっていたからです。

ハート 小
過去記事で「ゴースト ニューヨークの幻」という映画の内容を書いたことがありましたね。
そこで説明したように、まだ肉体を脱いだばかりの霊は、どうしたら相手に自分の想いを知らせることができるのかがわからないのです。たとえ叫んでみても、相手には何も聞こえないのです。
だから、意識してさまざまな練習をする必要があるわけですね。

その提案に父は乗ったようですが、翌日になって、やはり不可能であると言ってきました。
相手に感知能力がない限り、全く伝わらないことがわかったようなのです。
結局のところ、わかる人(感知できる人)だけしかわからないということなのです。

しかし、実際に位牌を動かしてみたり、倒してみたりすることは訓練すればできるはずで、そういう現象を起こして自分の存在や気持ちを知らせていくしかないように思うのです。
ほんとうに伝えたいのであれば、なんだってできるはずなのです。
肉体を脱いだ後も、やはり学びです。学ぶための実験は、まだまだ続いていくのです。

★今回、父の葬儀に参加して、「目に見える世界」と「見えない世界」で起こっていることのギャップの大きさを再確認することができました。
見えない世界を感知できない人の誤解や思い込みは甚だしく、あまりにも実態がわかっていないのだということを改めて認識したしだいです。


ブルコーニュ -



★ 父への想い ★



父と書いてはおりますが、実は血のつながりが全くない養父です。
実父でないことを母に確かめたときは、もう20歳になっていましたが、幼い頃からそのことは感じとっていて、真の父親でないことは知っていたのです。
父との関係がはっきりしたからこそ、育ててもらったことに対する感謝の気持ちが生まれたのだと思っています。

今から数年前に三重県の伊勢神宮に参拝した折、京都に立ち寄り、珍しく実家に泊めてもらったことがあったのです。母が亡くなって以来、初めてのことでした。
実家に着いた夕刻には、もう部屋には布団が敷いてあり、部屋も布団も温めてありました。とても寒い日でしたので、何と気が利く人だろうと驚き、その心遣いをとても有り難く思ったものです。
父は母が長い間認知症だったこともあり、食事を作るのは得意になっていました。母の死後も独り暮らしで、ずっと自炊をしていたのです。父が作ってくれた夕飯はけっこうおいしかったのを覚えています。

翌日京都では珍しく一日中雪が降り、お土産に買ってきた赤福餅を食べ、お茶を飲みながら、どこにも行かずに一日中父と話をしました。そのときに、初めて詳細に「霊の話」をしたのです。
父は以外にもその話を真剣に受け止めてくれました。そういうことを素直に信じる人だったので、とてもうれしく思ったものです。
たったニ日間だけでしたが、父と親交を深めた貴重な時間でした。幼い頃からの父への確執はすべて消え失せ、その思い出だけが今も懐かしさを帯びて心に残っているのです。

血のつながりはなくても、霊的なつながりがあったからこそ、親子の関係になったのです。
顔も知らない実父は、わたしが誕生する際に肉体を提供してくれた人というだけで、霊的なつながりはありません。ですから、会いたいと思ったこともないのです。

子ども時代にほんとうの父的な役割を果たしてくれた存在は、母方の祖父でした。
祖父は、若い頃に華道の教授をしていた人で、茶道にも長け、趣味の謡曲をよく謡って聞かせてくれました。
わたしが華道や茶道や謡曲に興味をもち、自らその稽古に勤しむきっかけを与えてくれたのは祖父であり、禅の思想に関心をもつことに大きな貢献をしてくれたのも祖父でした。

幼いわたしをよく動物園に連れて行ってくれたのも祖父でした。
「野生の王国」というテレビ番組を、いつも祖父とふたりで見ていたのを思い出します。
わたしと祖父は趣味や趣向がとても似通っていたのです。
祖父のもっていた宝物を、わたしがすべて受け継いだような気がします。
ですから、真の父親は祖父だと、今も思っているのです。
その祖父は、遠の昔にこの世を去り、わたしを可愛がってくれた祖母も母もこの世を去りました。
そして、「わしは死なん」とよく言っていた養父も、とうとう肉体から離れざるを得なくなりました。


     アネモネ

        
だれにも必ず訪れるもの。それが肉体の死です。
早い遅いはあっても、まちがいなくそれは訪れるのです。
ですから、その準備をしっかりとしておくことが大切です。
一期一会と思い、悔いがないように、毎日を生きるのです。
老人であっても、子どもであっても。

伝えておきたいことは、必ず書き遺しておくこと。
そして、書き遺された故人の意思は尊重することです。



    ~父へ~


赤子の頃から我が娘として接していただいたこと、
心から感謝します。
誠にありがとうございました。

あなたからいただいた霧島つつじが
今たくさんのつぼみをつけ、
真っ赤な可憐な花を咲かせ始めています。


霧島つつじ
父からもらった霧島つつじ 2012年4月27日撮影 光の仕事人


もし、まだわたしの家を覚えていて
移動することが可能ならば
今すぐ飛んで見に来てください。

不自由だった肉体を脱いで
自由の身になったのですから、
意志さえあれば可能です。

可能性は無限にひろがっています。
それに気づいてください。

そして、あなたのなかの執着や怒りが消え、
この世界に別れを告げたくなったら、
またわたしにメッセージをください。

あなたが光の世界へと旅立たれる際に
今度こそ、真の意味での
お見送りをしたいと思います。

わたしがあなたに望むこと。
それは、世俗を忘れること、肉体を忘れること、
自分が神の分身であることを悟ること、
そして、あなたが霊であるということに気づくことです。

今回の死は、だれのせいでもない
自分が播いた種の結果なのです。

怒りを鎮め、神の大いなるはからいを信じて、
すべてを神に委ねてください。

現世などでは及びもつかない深い平和で
あなたが満たされますよう祈ります。

合掌





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