弥勒の世はいつ来るのか?

2011年12月05日 00:00


★ 読者の皆さまへ ★



このところ、なかなかブログを更新できないまま、2011年の12月を迎えました。
長らくこのブログをお読みくださっている皆さまは、光の仕事人は何かと忙しいのだろうとお察しくださっているかと思います。

近況報告のメールやご質問のコメントなども多々読ませていただいておりますが、お返事のしようがない場合(内容)は返信しておりませんので、どうか悪しからずご了承ください。
一日があまりにも速く過ぎ去るので、その日やりたいことが完璧にできずじまいとなっているのは、きっとわたしだけではないと思います。

これから地球はどうなっていくのだろうという思いは常にありますが、どうなっていこうと、現実での日々の暮らしは続けられる限り、続けていかなければなりません。

もうすぐ世界が終わるという終末論は、今現在どうなっているのでしょうか?
本当の幸せはその先の世界にあるのだよ」と説く各々の宗教の裏には、「現実の世界から逃避させてしまう」ある種のもくろみが隠されているようにも思えます。

人々がその思想を信じ、つぎの世界に希望を抱くあまり、今の社会の状況や生活苦をつい辛抱・我慢してしまう、という傾向が生じているのではないでしょうか?
あるいは、生活がままならず、やけくそになって、早く世界が滅んでしまえばいいのにと思っている人もいるかもしれません。
それって、民をコントロールする側にとっては、非常に都合がよいことだと思いませんか?
そんなもくろみに乗ってしまうのは、どうかな? とわたしは思うのですが。

とにかく、明日のことを思いわずらわず、欲を出さず、今日一日を無事に生きられたことを感謝するのみですね。


★ 日本人のルーツ ★



今日まで残されてきた地球の歴史というものは、あくまでも統治した権力者たちの歴史でした。当時の一般の民の生活の記録はないので、まるでわかりませんね。
統治者から見れば、そこに暮らしている民などは、まるで地を這う「蟻」のような存在だったのではないかと思います。そういう扱いをしていたとしか感じられないんですよね。

「記紀」も、天皇家の歴史そのものであり、天皇が神と崇められるために創意工夫された物語にすぎません。
天皇が神の子孫であることはたいそう強調されていますが、同じ国に暮らしていた天皇家以外の多くの民人たちは一体どこから生まれたというのでしょうか?
そのあたりのことを学者さん方が不思議に思わないところが、とても不思議です。

日本神話には、神が神を産んだことは書かれていますが、一般人がどこで、誰から産み出されたのかは、まるで書かれていないのです。
民人だって、元を糺せば神(異星人)の子孫なのですが、そういう都合の悪いことは一切書かれていないんですね。
また、古代天皇の出自を調べれば、みなまちがいなく渡来人であって、中国や朝鮮半島からやって来た人種であったことは定かです。

国譲り」という物語なども、考えてみればみるほどおかしな内容です。
元々日本列島は誰の土地でもなかったはずです。国津神と呼ばれたスサノオ系の種族にしても、元々日本列島に存在していたわけではありません。やはり、大陸から来た人たちです。
日本列島に早くから住んでいた「縄文人」と呼ばれてきた人たちは、あとからつぎつぎと大陸から渡って来た集団(弥生人)に、列島の東北へと追いやられ、当時豊かに栄えていた土地を奪い取られてしまったということなのです。

初代天皇が九州から大和(やまと)へと軍を進め、勝利して大和を平定した「神武の東征」などは有名な出来事となっていますが、単に自分たちの権力増大という野望のために多くの人命を奪い、その人たちの土地を奪い取っただけのことです。功績を讃えて記録しておくほどの内容ではないし、むしろ恥ずべき行為だと思いますね。
そこで平和に暮らしていた民人たちの無念さを思うと、記紀を読めば読むほど腹立たしくなってきます。

よく考えてみてください。神の子孫と名乗る者たちが、そういう自己本位の残酷な行為を行ってきたのです。そんな神の子孫を褒めたたえる気には、とてもなれませんね。

★現在、「ミトコンドリア遺伝子の分析」によって、日本人のルーツが解明されています。
日本人の血の中には、現代の中国人と現代の韓国人の血が混じっていることが明らかになったのです。
縄文人」は縄文時代に日本列島が大陸と地続きの時に移動してきた人たちで、「弥生人」は、中国本土と朝鮮半島から移住してきた人たちのことです。

現代の日本人は、「縄文人」と韓国か中国からの移入民である「弥生人」との混血の結果できあがった種だということです。
日本人はアジア系民族の雑種であり、最初から日本民族というものは存在しなかったわけですね。



★ 「記紀」にも危機が到来 ★



このところ、ブログで幾度か「記紀」に触れておりますが、それは理由があってのことでした。
来年の2012年は「古事記編纂1300年紀」ということで、「記紀」がクローズアップされることが予想できます。よって、1300年も受け継がれてきた日本史(天皇史)を、今こそしっかりと見直し、ウソ(創作)の部分はウソ(創作)なのだと知り、認めていかなければいけない時期に来たということを知っていただきたいと思ったからです。

但し、ウソと言っても、時としてそのウソのなかには、ある意味の真実が内包されているという場合もあり、自分の思いを想像上の人物に託して記されていると捉えることが必要なこともあります。
要するに記紀を読み解くには、洞察力の鋭さが問われるということです。

2012年を迎えるにあたり、日本に生まれたわたしたちは、今までさほど気に留めていなかったわが国の歴史に関心を持ち、自分のルーツを振り返ってみることが必要だということ。その時期が到来したのではないかと感じているわけなのです。

今もなお血統が受け継がれている天皇家は、もうそろそろ自分たちの秘密を明かしてもよいのではないでしょうか。
天皇はこの世の人民の幸を祈るのが真の役目だと思うのですが、自分たちの秘密の儀式にかける莫大な金額を考えますと、「それって必要なの?」と首をかしげてしまいます。
宮内庁の人件費や事務費などを賄う宮内庁費(ちなみに2007年度予算では109億4203万円)とは別に、天皇家の生活や活動の費用として皇室費というものがあるようですが、それらがわたしたちの税金から賄われていることを忘れてはなりません。国民あっての天皇家なのです。
真の歴史を探るための古墳の発掘調査など、宮内庁は未だに頑強に拒んでいるようですが、もう情報公開してもよい時期なのでは?…と思いますね。


★ 終末思想と弥勒菩薩 ★



いつの世も、どこの国でも「終末思想」というものはあったように思います。
それは巷で予言されている2012年終末論に限ったことではないでしょう。
過去のどの時代にも多くの人々の生活は貧しく、苦しく、悩みは尽きず、天変地異や疫病の流行なども生じ、人間が死に絶えるという終末論があったのです。

さて、巷でよく耳にするのが「ミロクの世」とか、「弥勒の世の到来」という言葉ですが、皆さまはそれについてどのように考えておられるのでしょうか? 
ぜひ見解をおうかがいしたいと思います。

ミロクの世」を頻繁に語る人たちが「弥勒の信仰者」であるかどうかは知りませんが、どう考えても、近いうちに弥勒が人々を救うために下生するとは思えません。
大本教では、艮の金神さんがこの世を立て替えると言っていますが、それは一体いつのことなのでしょうか?

なにしろ弥勒菩薩は、釈迦如来が入滅した56億7000万年後にこの世に生まれ変わり、龍華樹(りゅうげじゅ)という木の下で悟りを開くのだそうですから。とてつもない時間がかかるんですね。
今こそ出てきてほしいのに、と思うのですが…。



       弥勒菩薩
         弥勒菩薩半跏思惟像 



★ 弥勒とは? ★



では、弥勒菩薩(みろくぼさつ)さんを、ごく簡単に紹介しておきましょう。

★「弥勒」はサンスクリット語では「マイトレーヤ」と言いますね。
慈しみから生まれた者」という意味があり、「慈氏菩薩(じしぼさつ)」とも称されています。
皆さまもご存じのように、菩薩というのは、まだ悟っていない修行中の状態を表しています。よって、弥勒は今度生まれ変わる時には仏になる、と約束されている存在だということなのです。
お釈迦さまの後継者となる「未来仏」なんですね。
ということは、それまでのあいだ、仏となる存在は現れないということになりますね。

彼はインドに生まれた実在の人物だったようです。
慈悲深く、理解力に優れていたマイトレーヤの死に臨んで、釈迦は仏教の真髄を彼に伝え、「これから兜率天(とそつてん)に行って修行をし、それを終えたら下界に戻ってきて私の救済からもれた人々を救って欲しい」と話したといわれています。
(兜率天とは、欲界における六欲天の第4の天部のことであるようです)

★「マイトレーヤ」とは、じつは「ミトラ=ミスラ」の別名、またはその名から転用された神名であることがわかっています。つまり、「マイトレーヤ」は、「ミトラ=ミスラ」の名前と語源を同じくするということなのです。

mitra/miθra」は、本来「契約」という意味らしいのですが、転じて契約によって結ばれた親密な関係にある「盟友」をも意味するようになったということです。
(よって、マイトレーヤは「友好的な、友情に厚い、慈悲深い(者)」の意味となったのです)
要するに、弥勒菩薩は仏教におけるメシアの存在だったのです。


ハート
もうすぐ訪れる冬至の頃、
12月25日というのはミトラの誕生日であって、
イエス・キリストの誕生日ではありませんね。

最近は多くの人がこの真実を知っているので、説明は不要かと思いますが、
ユダヤ教やキリスト教、仏教、ゾロアスター教などは、
もっとも古くから存在したミトラ教が基盤となっています。
弥勒信仰も同様です。

では、ミトラ神とは何者なのでしょうか? 
キリスト教や仏教とミトラ教についての詳しい内容は、
次回にまたお話しすることにしましょう。



慰めか、葛藤か、あなたはどちらを選びますか?

2011年12月10日 01:00


★ 広き門から狭き門へ ★



2010年の6月に立ち上げた「思いの制限をひらく」は、心残りであった迷える子羊さんたちのために、その後延長させていただいておりましたが、そろそろ大きな門は閉じさせていただく予定をしております。
これからも訪問されるであろう熱心な探究者さんのためにこれまでの主な記事は残し、つなぎとなる小さな門のみ開けておきたいと考えております。


★読者さんのご質問やコメントなどに対する記事内容は、わたしの本意ではない場合が多かったのですが、このブログ自体が「気づきを提供する場」であったので、度々ご希望に応じさせていただきました。
相手が不快になるようなことを記事にして「ネガティブな因縁を作るのはよくない」というような考え方もありますが、そんなことをいちいち気にしていたら、気づきのチャンスをつくることはできません。わたしのハイアーセルフはそれを承認しております。(これまで、OKサインが出なかった内容は、一切記事として出してはおりません)

悪い因縁を生じるかどうかは、やってみないとわからないのです。
まったく同じことを指摘しても、そこで「悟る人」と「反発する人」は必ず生まれてくるものです。
また、たとえ当の本人に気づきが訪れなくても、他の人がそれを読んで悟るということもあります。

善いことも悪いことも、快も不快も、すべてが気づき(学び)の材料なのです。


★ すべて自業自得 ★



悪い想念でも善い想念でも、相手にそれと共鳴するものがなければ、必ず自分に戻ってくるということを、過去記事でお話ししたことがあります。

たとえば、相手に悪い想念を送ったとき、その想念と共鳴するものが相手のオーラ(アストラル体やメンタル体)のなかにあれば、相手に影響を及ぼすことができますが、共鳴するものが全くなければ、影響を及ぼすことはできないということです。

要するに、有害な意図をもって相手に悪想念を投射した場合、その相手が送り手と同じような資質を持った粗悪なオーラの持ち主であれば攻撃を受けるけれども、そうでない上質のオーラの持ち主であれば、攻撃を受けることはないということです。

清浄なオーラにぶつかった場合、その敵意をもった攻撃的なエネルギーは、応じられずにそのままブーメランのように逆戻りしてしまいます。それどころか、ぶつけたエネルギーと同等のパワーを伴ってはね返り、その悪想念を発した当事者に打撃を与えるというわけです。
また、守護霊や守護神の守りが固い相手には、害を与えることはできないということもお伝えしましたね。

ですから、その法則さえ知っていれば、別に恐れることはないということです。
すべて自業自得なのです。
その結果は瞬時に自分に戻ってきますから、だれに言われなくても、自分でわかるのです。
もしネガティブなものに打たれたならば、自分自身を変えなければいけないことに気づかされているということです。それが、学びです。


 
クリスマスツリー



★ 魂の成長は、葛藤を通して達せられる ★



かつて聖者と呼ばれた人たちでも、全ての人に崇められて信仰されていたわけではありませんでした。同じ教団の中にあっても聖者に反発し、大いに批判する輩は必ず存在しました。
ゴータマ・ブッダ然り、イエス・キリスト然り、OSHO然りです。皆、猛烈に敵対してくる人たちと彼らなりの方法で戦ってきたのです。結果として、仏教はインドでは受け入れられず、イエスは十字架にかけられ、OSHOはもられた毒が元で亡くなりました。いつの世も、どこの国でも同様です。異なった考え方の人のほうが断然多いのですから。

会社や学校や家庭、夫婦や親子ですら、意見の相違や対立で日夜葛藤しているわけでしょう? 
本当に自分の胸の内を理解してくれる人というのはそう多くはいません。もしくは皆無であるはずです。
わたしたち凡人であってもそうなのですから、聖者はさらに孤独であったことと思います。

★イエスはまちがったことをしている人たちに対して激しい怒りをぶちまけ、罵りさえしました。ここでこんなことをしたら、悪い因縁がつくられるからやめておこうなんて、思うはずもありませんね。むしろ、彼は平和をつくりだすためではなく、葛藤をもたらすために地上にやってきたのですから。

イエスは言っています。

人々は、私が世界に平和をもたらすために
やってきたと思っているかもしれない。
彼らは、私が地上に分裂を、火を、剣を、
闘いをもたらすために来たことは知らない
と。

イエスのような人、ゴータマ・ブッダのような人、OSHOのような人が現われると、人々は必ず分裂を起こします。

彼を受け容れる者と受け容れない者。
彼を肯定する者と否定する者。
彼を愛する者と憎む者。

これは過去記事でも取り上げましたが、上記の言葉でイエスはいったい何を伝えようとしていたのかを思い出してみてください。

心の中の光と闇、愛と憎しみ、善と悪。他者との相克…。
そういう苦しい闘いを通してこそ、内面での統合が起こるのだということ。
魂の成長は、葛藤を通して達せられるのだということ。


彼はそのことを伝えたかったのだと思います。

これは、過去記事「自分自身を征服すること―天国に入るための必要条件」に書いておりますので、詳細を思い出したい人は、再度お読みになってください。

(過去記事 自分自身を征服すること―天国に入るための必要条件 参照)



★ 正直であること 真正であること ★ 



人はだれも、わざわざ自分から嫌われようとはしないものです。
できれば、大勢の人に好かれたい。そうですよね?
相手とのあいだに悪い因縁関係をつくらないように気をつけているかどうかまではわかりませんが、常に「天使のようないい子ちゃん」でいたい、「善いことしか言わない人」でいたい、「人を批判するのはよくないことだ」、「怒るのはよくないことだ」と思い込み、そういう人間にはなるまいと努力している人たちも多くいらっしゃるであろうと思うのです。

このような善悪を説いてきたのは主に宗教です。(聖なる個人と宗教は別ものです)
地球人はその策略にまんまとひっかかりました。宗教が説く善悪の考え方を長年のあいだに条件づけられてきたからです。宗教の教えがすべて正しいことだと思い込まされてきたんですね。この危険性は、繰り返し記事で伝えてきました。残されてきたものが、ほんとうにその聖者が説いた教えかどうかなどわからないのです。
日本の正史と同様で、それらは皆改ざんされ、真正(ほんもの)ではなくなっています。

肝心なのは、自分の心に偽りがなく正直であるかどうか、真正であるかどうか、相手に誠実さをもって本音を伝えているかどうかということなのです。


ウソはあの世に行ったらバレますよと、過去記事でお伝えしていますね。
善いことのみを語る人は偽善者です。全体が何で構成されているのかをわかっている人であれば、片方だけが優れていると思わせるような主張は決してしないはずです。

神と悪魔は一個のコインの裏表」です。
両方の極を見ない限り、この世界の真実の姿を見極めることはできないのです。



ブルーベルの咲く森
         ブルーベルの咲く森



★ わたしがブログを続けてきた理由 ★



★わたしが今日までこのブログを続けてきたのは、記事中にある言葉や文面に「気づき」という光を見いだして、感動してくださった方々がたくさんいらっしゃるからなのです。
その素直な喜びのメッセージが届くと、「よかったね」とわたしもうれしくなるからです。
ほんとうに魂が喜びで打ち震え、涙が出てくるんですよね。
ですから、そういう人たちへの返事はできなくても、その時々に「ありがとう」と口に出して感謝しているのです。

共に喜び合える「気づき」という恩寵は、とても神聖なところからやってきているのです。
拍手は気づきが生じたときにこそ、してください」というわたしの願いは、そこにあるのです。


(過去記事 わたしがブログを書く理由 3 ★気づきの拍手は「自分のなかの神」に対して★ 参照)


★ 慰めか? 葛藤か? ★



OSHO曰く。

偽りのマスターはあなたの慰めとなり、今あるあなたに平和をもたらす。
彼はあなたを変えようとなどしない。
彼は一種の鎮静剤としてある。
偽りのマスターは睡眠薬のようなものだ。
彼のもとに行けば慰めが得られる。

真のマスターは、より大きな混乱を、より大きな葛藤をつくりだす。
彼はあなたを慰めなどしない。
なぜなら、彼はあなたの敵ではないからだ。
慰めはすべて毒だ。

真のマスターはあなたの成長を助ける。
成長することは困難なことだ。
あなたは多くの試練を経ていかなければならない。
幾度となくあなたはこの師から逃げ出したくなる。
だが、できない。
彼はあなたにつきまとって悩ます。
  
         

★慰めを多く必要とする人には、このブログはきつすぎるかもしれません。
もしかしたら、あなたを不快にし、立腹させ、葛藤させ、ネガティブな疑惑のとりこにさせることがあるかもしれないからです。もちろん、それはそのように受け止めたその人自身の問題ではあるのですが。

しかし、長年の間に思い込んでしまった条件付けを外し、自分のもっともイヤなところに直面しなければ、この修羅場を通過しなければ、扉の向こう側には行けないのです。
これまで確立してきた真正ではない虚偽の自分を、たとえ現在どんなにすばらしい自己像を抱いている人であっても、それをこっぱみじんにしてしまえる勇気のない人は、いつまで経っても自己の誤った虚像に満足(陶酔?)しているだけで、魂の成長はありえません。

慰めか? 葛藤か? 
あなたはどちらを選びますか?


自分にいつでも火を投じられる人、意識の上昇へとつながる自己変容を望む訪問者は、どうぞ閲覧してください。

それらをお望みでない方、自己を一切変えるつもりのない方は、コメントなどをされる前に、どうか速やかに立ち去ってください。
管理者にだって、読者を選ぶ権利はあるのです。



まつぼっくり



★ 光の仕事人は「気づきの材料を提供」する者 ★



光の仕事人はあくまでも「気づきの材料を提供」する者であり、それ以外の何者でもありません。
それが今回地球に生まれてきたひとつの使命でもあるので、実施させていただいているのです。
わたしがどのような人間であるかなどの詮索は不必要なのではないでしょうか?
大切なのは、ブログに記された情報が、あなたにとって気づきをもたらすものであるかどうかだけです。
それが、自分の意識を高めるために役立ったか、思いの制限をひらくのに役立ったかどうか…。
そこがもっとも重要な点なのではないかと思います。ですから、そこにだけ焦点を合わせてください。

もし何か気づきが得られたなら、
あなたの心にきれいな音色で鳴り響くものがあったなら、
喜んでそれを受け容れてください。
そして、自分の中にいます神に感謝して、
その聖なるおみやげをもって帰ってください。

もし心に響くことなく、ネガティブなものが残ったなら、
すぐに手放してください。

但し、それがいつか(数日後、数週間後、数か月後、数年後)、
よみがえってきて、あなたの心を響かせたのなら、
そのときは受け容れ、感謝して、しっかりと抱きしめてください。
それは、あなたにとって、どうしても必要な気づきだったからです。



わたしたちが二元の世界に生まれたのは、両方の性質をよく知るためです。
だから、ポジティブなものだけに偏るのではなく、ネガティブなものも知る必要があるのです。

プレアデスの例を思い出してください。
プレアデスの人たちに起こったあのできごとは、ネガティブを嫌い、避けているだけでは統合はできませんよという教訓なのです。
ふたつのあいだの葛藤は、統合するためになくてはならない材料なのだということを、決して忘れないでください。
このブログの内容を総合してみてください。すべてが繋がっていることに気づかれることでしょう。


「信」を生きることが「不二」への道

2011年12月14日 19:20


★ 哲学者とは? ★



神秘家OSHOが、「信心銘」のなかで、こんなことを語っていたのを思い出しました。

ある女性が哲学者カントに求婚したことがあったそうです。
カントは「わかりました。それについて考えてみましょう」と女性に言い、愛に反対する人、賛成する人、結婚に反対する人、賛成する人の論拠を集めました。
結婚についての賛否両論のデータを300も集めたと言うからすごいですね。
そして、どうすべきか。どう決めるべきか。考えて考え抜いたあげく、混乱状態に陥ります。

そして、カントはついに結婚についての賛成意見をひとつだけ余計に発見したのでした。
その意見とは、「もし、どちらも可能で、ふたつの選択が同等に見えるようなら、そのときはより多くの経験を与えてくれるほうを選ぶべきだ」というものでした。

結婚すべきかすべきでないか、同じだけの議論があるのなら、カントは独身で、そちらのほうは知っているわけだから、「結婚したほうがいい」と考えたのです。
「よし、一歩を踏み出し、経験によって結婚を知ろう!」

そこでカントはその女性の元を訪ね、扉を叩きます。
扉を開けた父親に、カントは言いました。
「私は決めました。お嬢さまはいらっしゃいますか?」
父親は言いました。
「遅すぎましたな。娘は三人の子供の母親になっていますよ」

OSHOは言います。

女は常に男より賢い。本能的に賢い。
女性に偉大な哲学者が現われないのはそのためだ。
女性はより本能的、より直感的であり、より自然に近く、議論よりは生きることに関心がある。
男にとって、女が常に大きな問題ではなく、ちっぽけなこと、ドレスとか、装飾品といった極めて些細なことに関心を持っているように見えるのはそのためだ。

だが、いいかね、女性が小さいことにこだわるのは、〈生〉が小さなことで成り立っているからだ。
偉大な問題は観念(マインド)の中にしかない。〈生〉の中にはない。神は存在すると決めようが、存在しないと決めようが、そんなことでは何も変わらない。一日に二回は食べなければならないし、寒ければ厚着をしなければならないし、暑過ぎれば日陰に入らなければならない。

神は存在すると決めようが、存在しないと決めようが、何も変わりはない。
〈生〉は、小さなことでできている。そして、もし〈生〉が小さなことでできているとしたら、小さなことは、小さくはない。なぜなら、〈生〉はそれから成っており、それに生命が宿っているのだから。




hikari



★ 「信」を生きることが「不二」への道 ★



僧璨(そうさん)は言います。

疑いと、議論に時を浪費してはならない。
そんなことは、この真実とは何の関係もない。
一即一切の世界を歩み、
識別することなく融解し去れ。

この覚醒に生きることが、
不完了を思い煩わずに生きることだ。
この「信」を生きることが「不二」への道
「不二」こそ「信」と同じものだからだ。 



OSHOは「僧璨は、議論というものはすべて見当違いだと言う。有神論者も無神論者も、賛成も反対も、両者ともだ。それは馬鹿げたことをしているのだ。なぜなら、実在はそこにあり、それはどんな証明も必要としていないからだ。それはすでにそこにある。それはいつもそこにあったし、いつまでもそこにあるだろう。真理とは、現に在るもののことだ」と言っています。


議論に時を費やしてはいけない。
哲学者は愚か者だ。
それも普通の馬鹿よりずっと危険だ。
というのは、普通の馬鹿はただ馬鹿なだけだが、
哲学者は、自分を賢いと思っているからだ。
そしてこの人たちは議論を続ける。

ヘーゲルやカントを見なさい。
全生涯を議論し続け、しかも決してどこにも至ることはない。(OSHO)



僧璨は言いました。
一即一切の世界を歩み、識別することなく融解し去れ。
この覚醒に生きることが、不完了を思い煩わずに生きることだ。
この「信」を生きることが「不二」への道
「不二」こそ「信」と同じものだからだ。

と。 


僧璨のことばを受けてOSHOは言います。

それなら、どうして完成について思い煩う必要があろう。
それもまた利己的な目標だ。
これは本当に理解されるべきことだ。
なぜなら、宗教的な人々でさえ完全であろうとするからだ。
だが、完全であろうというあなたとは誰か。
全体しか完全ではあり得ない。
あなたは決して完全ではあり得ない。
どうして完全であり得よう。

覚者でさえ、病気にならなければならない。
覚者も死ななければならない。
人は完全ではあり得ない。
完全という目標そのものが自己陶酔(エゴ・トリップ)だ。
全体はすでに完全だ。それについて心配する必要はない。
その全体の中にあって、あなたもまた完全なのだ。

完全主義者はすべて気が狂う。
それが完全主義者の最期、終点だ。
というのも、ひとつの個体としては、人は不完全なままだからだ。
完全ではあり得ない。
どうやって完全であり得よう。
あなたのエネルギーは、全体からやってきて、全体に帰るもの、
あなたなどいないのだから。

波はあくまでも波だ、海にはなり得ない。
だから、あまり頑張れば、狂うより仕方がない。

宗教の世界に最も利己的な人々を見かけるのはそのためだ。
それは、彼らがあらゆることについて完全であろうとし、
完全性を主張するからだ。
彼らはくつろげない。いつでも緊張している。
そして、いつも何かがうまく行かず、それを正さなければならないから、
こういう人たちはいつも不安でいることになる。




★ 理解の人は悩まない ★



完全主義者は決して信頼しない。たとえ、一輪のバラを贈られても、たちまち不完全なところを見つける」とOSHOは言います。
完全主義者はいつも過ちを探しているので、いつも疑い、だれ一人として信頼できなくなっているのです。
なぜって? 彼は当の本人である自分自身が信頼できないのですから。


理解の人は悩まない。
不完全を苦にしない。
彼は完全という観点からはまったく考えない。
理解の人は、その瞬間を可能なかぎり全面的に生きるだけだ。
すると、全面的に生きれば生きるほど、それだけ生きる能力が高くなる。

一日が来る。
彼はそれをただ生きる。
どんな理想も押しつけず、
どんな観念も抱かず、
自分の〈生〉にどんな規則も、統制も設けず、ただ生きる。
彼はただ生き、楽しみ、悦ぶだけだ。

この「信」を生きることが「不二」への道
そして、これこそが信だ―。
「不二」こそ「信心」と同じものだからだ。

そして、胸の内深く、信頼する心があれば、
「不二」はあなたの眼の前にある。
内側深くに疑いがあれば、
そこに生まれるのは理論や、思考や、言葉や、哲学や、教義だろう。
そして、眼前のことには、まったく盲目になるだろう。
あなたは近くを見ることができず、
遠くを考えることしかできないだろう。

内なる信頼と外なる実在。
内なる信頼と外なる真理。
信頼と真理が出会う。
他の出会いはない。
『不二』こそ『信心』と同じものだからだ。 

                  「信心銘」より




あかり



★わたしたちは、愛すれば自分が堕落するかのように思い、愛さなければ、愛したいという深い衝動を感じることがあります。それは飢えや渇きと同様に、ごく自然なものです。
もし、あなたが、飢えも渇きも愛もなく、悲しみさえ感じないプラスチック人間に、ロボットになりたいのなら、完全主義者を目指し、常に完璧でいるよう努力されればよいでしょう。

しかし、理解の人でありたいと思われるなら、自分の限界を受け容れ、可能であることの、その可能性を受け容れ、それを楽しんでください。
理解の人は、自分がしていることを何でも楽しむ」とOSHOは言っています。

それが不完全なままだということ、それが決して完璧なものにはならないこと、完全にはなり得ないのだということを知りつつ、それが自然の本性なのだということをよく知っていながら楽しむのです。
楽しめば楽しむほど、それだけ多くの完全性が自らの生に訪れるのです。
そこには心配や恐れはなく、ただ優美さが満ちあふれていることでしょう。



★ ピンチをチャンスと捉えるとき ★



かつて、わたしは思いもよらない冤罪(ぬれぎぬ)で、強度の不安と恐れに陥りかけたことがありました。
誤解であることを知らせる資料作成に追われていたとき、わたしの夫は相手に腹立たしさを覚えながらも、こう言ってくれたのです。
楽しんですることだよ」と。

わたしの人生にとって、それは最大のピンチの時期でした。
この最大のピンチのときをどう切り抜けるか、このピンチを、自分を高みに昇華させるチャンスと受け容れ、相手にとっても自分にとっても最高の方法で対応しようと心に決めたとき、おおいなる勇気が湧きあがってくるのを感じたのです。

そして、決して深刻にならないこと。そのハードルを高くしたのは自分なのだということ。恐れることなど何もないのだと気づいたとき、それは喜びへと変容したのです。

頑なに誤解している人に対し、どうやってその誤解に気づいてもらうかという作業は、延々とつづきました。
眼に視えない世界を信じない人は、当然のことながら霊的な内容などはまるで受け容れず、聴く耳を持ちません。
こういう頑なに閉ざされた心を開くことこそが、わたしの人生のワークなのですから、それに圧倒されていてはなりませんでした。愛と光を送りつつ、その心を開く作業を何年も続けました。

その間、わたしはとてつもなく多くの視えない世界(存在)からの援助と守護を得ました。
オラクル(神託)カードを通して、驚くほどさまざまなマスターや天使たちが助言をくれたのです。
そうして初めて、心底から自分自身と自分の内に宿る神聖な自己への『信』を確立することができたのです。


ハート
これは、体験から得られる宇宙からの贈りものです。
完璧を目指さず、深刻にならないで、ただ楽しむこと。信を生きること。

この覚醒に生きること」が、
不完了を思い煩わずに生きること」なのです。 




何が気づきの邪魔をしているのか

2011年12月17日 02:35


★ 読者さんからのメッセージ ★



最近の記事内容に対し、気づきのコメントがたくさん寄せられています。
皆さんの心の琴線に触れ、そこから新しい気づきが生まれているようで、うれしく思っています。
今回はハンドルネーム虎徹さんのお便りを記載させていただきます。



☆ 虎徹さんより ☆

いつもブログを読ませて頂いています。読むたびに新しい気づきや迷っている事について助けになる記事に出会う事を不思議に思うと同時に、いつも感謝しています。
最近は自分の中で葛藤がある事は間違っている気がしていました。イエスやブッダ…「良い人」は、葛藤もなく優しい気持ちで起きてくる事を受入れるのだろうと思い込んでいました。
今回ブログを読んで自分の成長の為には葛藤は必要であり葛藤は悪い事ではないのだと気付かせて頂きました。反逆のスピリットにあるOSHOの言葉を読みながら社会の中で自分に真正で戦い生きる事を願う一方で、戦うという事は容易ではなく余計なカルマを背負うのではないかとも恐れてさえいました。
今日ブログを読んで、先の自分より今この瞬間の自分の生を真正に生きたいと強く思いました。まだ起きてもいない事を考えてるより、物事が起きてから考えれば良いのですよね!OSHOの言葉にある『真正な人間は結果を気にしない。この瞬間の行為だけを考える。「これが私の心を動かすものだ。私はそれをやるつもりだ。」そうしたら何が起ころうと歓迎される』の言葉と共に光の仕事人さまの言葉も大切にしていこうと思います。

慰めか葛藤か…私は葛藤を選びます。戦う事を選びます。特に今は仕事の中で葛藤を感じています。マイナスのカルマは作りたくない気持ちもありますが、ブログを読んで今の自分が後悔しない『真正』な自分であろうと思います。
勇気を頂けました!葛藤という言葉が好きになりました!今までは悶々と悩める葛藤が好きではありませんでした。でもブログを読んで葛藤という言葉はステキな言葉だと思いました!
また、反逆のスピリットの中でOSHOが話す老子のように、森や山に逃げる事なく社会の中で戦い続ける『真正』である自分でいたいと思うばかりです。


☆ 光の仕事人より ☆

☆真正(ほんもの)であること、リアルであること。それらは、思考、感情、行動のすべてが同調している存在の状態から機能することを意味します。
このスペースからは、いかなる理由であれ、自分の内なる真実に対して妥協することはありえません。
あなたはありのままでいて、何であれ、ただ起こってくることを許すだけです。
あなたの身体、マインド、そしてハートが調和し、内なる開花が起こってくるでしょう。
内なる誠実さをもって、その開花を楽しみにしていてください。



金色の光の中の花
    金色の光の中の花  撮影 光の仕事人



★ 準備とは何か? ★



最近、ある若き男性がこんな質問をしてこられました。
「準備」とは、自分を見つめなおす行為そのものなのでしょうか?

準備とは何か?」については、過去記事にも書いておりますが、今日は異なった視点からお答えしたいと思います。

素空慈(ソ・コンジャ)氏が書かれた『悟りの瞬間』という書につぎのような話が載せてあったので、参考のひとつとして、お伝えしておきたいと思います。


昔、法達(ほうたつ)という禅僧がおりました。
法達は六祖慧能の跡を継いで悟りを開いた人です。
彼は七歳で出家し、幼いときすでに法華経をすらすらと暗記しておりました。
彼は法華経三千部を読破し、つっかえる所がありませんでした。
彼の知識は周囲の誰も及ぶ者がありませんでした。

しかし彼は、何かに心満たされないものがありました。
悟りが何であるか、自ら体得することができないでいたからです。
それで彼は、あちこちの立派な禅師たちを訪ねて回りました。

ついに彼は六祖のところにやってきました。
ところが六祖の前に進み出て礼をするのですが、彼の頭が地面に着かなかったのです。

六祖がいさめて言います。
地面に着かない礼をするのなら、礼をしないのと何の違いがあろうか。
お前の心の中にきっと何かが詰まっているに違いない。それはいかなるものか?


法達は答えました。「法華経を読むこと三千部に及びます

慧能は法達のようすを見ました。
法達は聡明ではありましたが、うぬぼれに満ちていました。
それでこう言いました。

お前が地面に着かない礼をするのは、お前の中に何か知っていることが強く根を張っていて、それを放そうとしないからだ。それをわしの前に出してみよ

法達はそれを出して見せました。
私はこんなにたくさんのことを知っています。先生は私が博識なのをよくご存じでしょう

すると六祖が偈をひとつ詠みました。
礼は元来、うぬぼれを捨てんとすること。何ゆえ頭が地面に着かないのか。
『自分』という考えに囚われれば罪が生じ、功名心を自ら捨て去ればその功徳は量り知れない


(「悟りの瞬間」―禅の奥義書「伝灯録」を解くより 抜粋編集)




   青い光の中の花
    青い光の中の花  撮影 光の仕事人



★ 頭を置きなさい ★



素空慈氏は、自分のお弟子さんに対してこう言っておられます。

悟りの道において、皆さんは自らこうべを垂れなければいけません。
深く深く下げなければなりません。
氷から見ると、日差しは恐ろしいかもしれません。氷はさっと自分の身を日差しから遠ざけようとします。
しかし皆さんはその恐れを克服して、前に進み出なければなりません。日差しの前に進み出て、このように誓うのです。「今からあなたの前に自分を投げ出します。こうして頭を下げて、あなたの光によって解(融)けようと思います」


また、素空慈氏はつぎのように語っておられます。

頭が人々を支配しています。
あなたを支配しているのは自分の観念、思考体系、自尊心、自己原則など……すべて頭に属するものです。
それは皆エゴに属するものであり、カルマに属するものです。
そのような頭こそ、あなたは下げなければなりません。

誰でも自尊心を逆なですると怒ります。
自尊心が強ければ強いほど、いかりも一層増大するものです。
これが最初の壁です。
自尊心とはつまるところ、想念のかたまりであり、その想念のかたまりが引っぱっている引力のようなものなのです。

その自尊心という頭を下げる術を知らなければなりません。
それを自ら下げたとき、おのずから現われる感覚……それが神聖さなのです。

氷が自らの冷たさを主張し続けるなら、暖かさを感じることはできません。
氷が自ら融けようとするとき、日差しの下に自らを任せるとき、氷は思う存分暖かさを感じることができます。
だから、我々は礼をするのです。師匠に進み出て、頭を下げるのです。




★ 何が気づきの邪魔をしているのか ★



六祖はさらに言いました。
お前たちは、ただ苦労して途方もなく執着することを勉強だと思っているが、
狐がしっぽばかり大事にして命を落とすのとどこが違うのか


法達が訊きました。
ならば理のみを明らかにし、経を読む必要はないとおっしゃるのですか

六祖は答えました。
経に何の落ち度があってお前の考えの障碍(しょうがい)になるというのか。
ただ迷いと悟りは人にあり、損益はお前によるのみである


六祖は、偈をもうひとつ詠みました。
心が迷えば法華が我を読み、悟りが開かれればわが法華を読む。
長時間読んでも心を明らかにできなければ、理とは永遠に仇同士となる


(「悟りの瞬間」―禅の奥義書「伝灯録」を解くより 抜粋編集させていただきました)



じつは、法達はまだ法華経を読むことができなかったのです。法華経に読まれていたんですね。
心が迷えば法華が我を読み」状態だったのです。

本を読むとき、その本に埋没してしまうと、本がその人を読む。
その人はその本に感動するが、その本に到達することはできない。
法華経を通じて慰めを得ることはできるが、法華経が言うところのその状態に入ることはできない。
たくさん本を読んだところで、数多の経典を読破したからといって、自分の心の状態に進展がなければ、悟りから遠ざかってしまう。
知識をためこんでそれに縛られれば、自分と知識とは仇同士になる。
経には何の落ち度もない。
経を読んで何かを知ったということ、自分の知識を自慢する心、それが邪魔をするだけである。
そのことを、六祖はたしなめたわけですね。

それで法達は、文章として読んで理解し「わかった」と考えている慢心をすべて捨て、慧能の門下に入門したのです。
ようやく頭が地に着いたのですね。
そして、ついに悟りを開きました。
法達はすべてを捨てたのです。それゆえにすべてを得たのです。


ハート
      光のハート  撮影 光の仕事人 


「準備」とは、自分を見つめなおす行為そのものなのでしょうか?

そう質問された学生さん、再度過去記事「アセンションとは内なる自己の大爆発―自己探究の準備とは?」と「存在を信じ、自らゆだねる勇気を持つこと」をお読みになってください。
きっと、伝えていることが同じであることがおわかりになるでしょう。

何か、響くものがあったら、それを実践してください。
そして、法達禅師のように悟りを得てくださいね。


★参考記事  
アセンションとは内なる自己の大爆発    
存在を信じ、自らゆだねる勇気を持つこと



「探求」と「探究」―あなたがしているのはどちら?

2011年12月18日 07:35


☆ 読者さんからのメッセージ ☆



~「思いの制限をひらく」ブログに感謝を込めて~
                  「気づきの教室」の元受講生より

               
 こんにちは。光の仕事人さまにはいつも大変お世話になりありがとうございます。
 私が「気づきの教室」を受講させていただいてから早いもので9ヶ月が過ぎ、今年も残すところわずかとなりました。光の仕事人さまと「思いの制限をひらく」ブログに出会わせていただいた2011年という年は、今までの人生を集大成させる大きな学びの年になったように感じています。ここまで導いてくださり、本当にありがとうございました。
 私にとりまして学びの原点であったこのブログも、今月で一つの区切りをされることを知り、あらためてここで学ばせてもらったことは何だろうと考えているところです。
 私が最初にこのブログの扉を潜ったのは、この世の真実を知りたかったからです。そして、「真の自分」が何であるのかを探求したいと思ったからでした。
 記事をずっと読ませていただき、考える機会を与えていただいたおかげで、真実を探求する大切さを知ったことはもちろん、学ばせてもらったことは他にもたくさんあるように思います。なかでも、私にとって最大の学びとなったのは「素直」であることの大切さを知ったことではなかったかと感じています。
 このブログに出会う前の私は、知識だけを頭に詰め込んで生きてきたものだから、やけに理屈っぽく批判的に物事を見てしまうタイプの人間でした。ですから、何か自分の価値観と反するものに出会うたびそれを受け入れることができず、井の中の蛙的思考の堂々巡りをすることが多かったように思います。
 「気づきの教室」を受講して、まずそんな自分の頑なさに気が付くことがきました。そして、いったん頭に詰め込んできた知識も価値観もすべて投げ捨て、素直な気持ちで人にも物事にも対するようになると、今までは気づけないでいた新たな発見がたくさん見出せるようになりました。まず「素直」に受け取る姿勢になることが、学びの基本であると今になってようやく気がつくようになりました。最近つくづく思うのですが、色々と理屈を並べて批判し、拒絶することは簡単です。だけど、真理と思うところを素直に受け入れて実践していくことでしか、真実の世界は見えてこないのかもしれないですね。
 「自己探求」の道は思うように簡単なものではなく、今でも進路が茨に閉ざされて立ち往生してしまうこともしばしばあります。でも最近は、そんな時こそ新たな自己成長のチャンスを迎えているのだと思えるようになりました。もう一度このブログを訪れ、違う視点でもって記事を読み返せば、また新たに必要だった気づきが見えてくるように感じるのです。統合に向けての成長は、この繰り返しからしか生まれてこないのだと感じるようになりました。
 本当にこれまで貴重なブログ記事を書いてくださり、たくさんの学びの機会を与えてくださってありがとうございました。これからも「思いの制限をひらく」ブログが、真に「自己探求」を望む方々の学びの場となることをお祈りし、筆を置きたいと思います。
 つたない文章を最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。


☆このお便りのなかで、彼女はこう言っておられます。

「自己探求」の道は思うように簡単なものではなく、今でも進路が茨に閉ざされて立ち往生してしまうこともしばしばあります。

自己探求の道は思うように簡単なものではなく…
では、「自己探求の道」はなぜ、簡単なものではなく、難しいのでしょうか?


「探求」と「探究」そのちがいは? ★



皆さんは、わたしがいつも「自己探究」と書いているにも関わらず、たいてい「自己探求」と書いてこられますね。その違いについては過去記事でも申し上げておりますが、さほど気に留めておられないように感じます。

探求」とは あるものを得ようとして探し求めること。探し出して手に入れようとすること。
探究」とは 物事の意義・本質などをさぐって見極めようとすること、すなわち真実を探って明らかにすること。
一般的には、このように解釈されています。同じ「探す」という字がついていますが、「探求はただ求める」だけで、「探究は究める」というところがカギです。


OSHOは言っています。

探求とは、遥かかなたを見ること。
かけ離れた所を見ること、彷徨いつづけることにほかならない。
探求とは延期にほかならない。
探求とは明日か明後日起こるだろうということであり、
まさに今の今、それが起こっているということではない。



★「真理を探求する」とか「自己探求の旅」などと言うと、それはものすごく先の先、遠距離にあるような感じがするのですが、あなたはどうでしょうか?
行き先は、見当のつかない遥かかなたです。それには何生も、何千年もかかりそうで、いつ到達できるかどうかもわかりません。

自己を求めてあてもなく彷徨いつづけるなら、それはただの迷走です。
わたしはそんなに時間のかかる作業をススメているのではありません。
わたしの言う「探究」は、「今、ここで、この瞬間に起こり得るワーク」のことを指しています。今まで「こうだ」と思っていたことが、じつは全く違っていたと知った(気づいた)瞬間、くるりと180度回転し得る不思議と驚きに満ちたワークなのです。

未だ自分のまなざしを遠くに向け、未来ばかりを見つめて、何かを探し求めているから、眼の前に茨が立ちふさがるのです。
あなたは今どこにいるのですか?
過去ですか? 未来ですか? 今ここですか?
あなたのすぐ近くにあなたが存在しているのに気づいているでしょうか?
近くにあるものを、遥か遠くに探していたら、あなたは大切なものをとり逃がしてしまいます。


★自己を忘れることは すべてのものに悟らされること



道元禅師は「正法眼蔵」でつぎのように言っています。


仏道を学ぶということは 自己を学ぶということである
自己を学ぶということは 自己を忘れることである
自己を忘れるということは すべてのものに悟らされることである

すべてのものに悟らされるということは
自己と他己との障壁を取り除くことである
悟りのあとかたさえ残さず
あとかたのない悟りを日常の生活の中で
いつまでも行ない現わしていく

人がはじめて法を求めるとき 遥かにそこから離れてしまっている
しかし法が正しく伝授されたならば すぐさま悟った人となる



★借り物の経典(知識)は、人生の危機(現実)にでくわしたときにはまるで役に立ちません。
同じ過ちを繰り返すのは真に気づいていない証拠」です。(過去記事でもお伝えしていますね)気づいていないからこそ、「これでもか、これでもか」と手を変え品を変え、問題を提示してくれているのです。

いくらお経をすらすらと暗唱できても、言葉上だけで理解できていても、法達(ほうたつ)さんのように、どこかしら心が満たされないのなら、何の意味もありません。


★ それは「方法」ではない ★



「いったいどのようにしたら、○○できるのでしょうか?」
「どうやったら気づけるのでしょうか?」
そんなご質問は多く、たいてい気づくための「方法」を訊いてこられます。

「真理」や「気づき」や「悟り」は、経を読んだり、座禅をしたり、何らかの「方法」で会得できるものでしょうか? 
そんな「方法なんかありませんよ」と、はっきり言っておきます。

ゴータマ・ブッダは6年間あらゆる修行をしましたが、修行という方法を実践したから悟れたわけではないのです。
彼は多くの哲学者や宗教家の教えを受け、苦行にも専念しましたが、悟りを得られませんでした。彼はそんな難行苦行は意味がないことに気づいたのです。それで今までの修行法を捨て、沐浴して身を清め、村娘スジャータから乳粥(ちちがゆ)をもらって食し、ピッパラの樹の下で静かに禅定に入って、ようやく悟りを得たのです。

何十年座禅をしようが、瞑想をしようが、悟れない人は悟れないし、外の掃除をしていて、飛んだ石が何かにぶつかった音を聞いただけで悟った人もいます。それは「方法」ではないのです。

「探求」は遥か彼方にあり、「探究」は今ここに存在しています。
あなたの過去や未来の探求は要りません。
今、ここにいるあなたを知ってください。究めてください。
今の自分を知らずして、未来に理想的な自分を求めるのはムダというものです。
それより、今の自分の意識がどこにあるのかをしっかりと見極めてください。

これから(大いなる真理を内包した)海に飛び込もうとするとき、あなたは自分の身にいっぱい服を着せ、できる限りの金銭や宝石をリュックにつめて飛びこむでしょうか?
そんなことをしたら、どんどん海底に沈んでいき、けっして浮かび上がることはできませんね。それはまちがいなく自殺行為です。

あなたが波に乗って泳ごうとするなら、何かを身につけるのではなく、要らないものをどんどん脱いで落としていくことでしょう。
悟りを得た多くの禅僧が語っていることは、みな同じです。
要らないものを捨てなさい」「空っぽになりなさい」これだけです。
水がいっぱい入ったコップは沈みますが、空っぽのコップは浮きあがります。

上昇するなら、まずは頑固でカチカチの氷(個体)から柔軟性のある水(液体)へと変わらなければなりません。そして水から自由自在に動き回れる軽い蒸気(気体)へと変容していくのです。


白隠禅師は適切に伝えてくれています。

衆生本来仏なり
水と氷のごとくにて
水をはなれて氷なく
衆生のほかに仏なし

衆生近きを知らずして
遠く求むるはかなさよ
たとえば水の中にいて
渇を叫ぶがごとくなり



自分が何者であるのかをわかっている人は、何もする必要はありません。
自分の内側に神性、あるいは仏性が、もともと存在していたことを発見したならば、修行する必要なんてありませんね。
そこに未だ気づかない凡夫は、外側にばかり目を向け、探しつづけます。
もともと水の中にいて、たっぷりと満たされているのに、「喉が渇いたよ~」と叫んでいるようなものだと、白隠さんは言っているのです。

大いなる宇宙意識が用意してくれた水の中で、
おおはしゃぎで遊ぶのも良し、
海の上を波のりするのも良し、
深い海の底を探検するのも良しです。
観照しましょう。
人生のドラマを見守りましょう。
ドラマの中にいて溺れず、観照者となって楽しみましょう。



ポインセチア3



ハート
ソマリアの難民は、食べるものもなく、家もなく、
今日も平和な場所を求めて彷徨い歩いているというのに、
わたしたちは寒い冬でも暖かい部屋のなかで、おなかいっぱい食べ物を食べ、
テレビやパソコンを見て暮らしています。

そんな恵まれた生活をしながら、
あれがほしい、これが足らない、
こんな暮らしはもう嫌だと愚痴を言い、不平不満を抱き、
尽きない悩みに翻弄されています。

もうそろそろ気づきましょうよ。
大いなる存在にいつも抱かれているということを。
わたしたちに恐れるものなどは何もないということを。



猫にちなんで―禅問答

2011年12月21日 03:30


★ 読者さんからのご質問 ★



~ 猫にもカルマがあるのですか? ~ 

以前に飼っていた猫の霊が、今飼っている猫に取り憑いている気がしてなりません。亡くなった猫の2回目の命日にやってきました。行動が同じです。寝るところ、お気に入りの鉢もおなじ、亡くなった猫の妹はまだ一緒に住んでいますが、その猫に飛びつくのも同じ。ただ、大嫌い同士です。 何から何まで同じ様な気がします。 私はその猫が亡くなってからいつも一緒にいてねと祈っていました。 今ではその祈りが大変な間違えだったのではないかと思ってならないのです。 猫にもカルマがあるのですか。

~ お答え ~


猫にもカルマはあると思いますよ。人間も動物も同じです。良いカルマであろうが悪いカルマであろうが、カルマがなければ、この世界に生まれ出ることはできないと、わたしは思っています。
その猫が亡くなってからいつも一緒にいてねと祈っていました」と書かれていますが、あなたの祈りはちゃんと聞かれていますよ。
あなたの亡くなった猫は、今もあなたのそば近くにいます。そして、新しく来た猫をコントロールして、あなたに気づかせようとしています。
つまり、同じ行動をあなたに見せているのは「ほら、ここにいるよ。気づいてね」と、あなたに知らせているのです。
あなたは、これからもずっとこの亡くなった猫ちゃんに自分の側にいてもらいたいですか?
そうでないなら、「わかったよ、ありがとう。また生まれ変わったら、わたしのところに来てね」と言って、その猫ちゃんが行くべきところに送りだしてあげてください。いつまでもそこにいるのは、ほかの猫のためにもよくないでしょう。
これで、お答えになりましたか?


★ 猫も人間も同じ ★



猫に限らず動物は、みんな意識を持っています。性質も違います。

うちにいるピャーラは思い癖が悪く、いつも悶々としているストレスの多い性質です。
ユニコがいつもわたしの膝に乗って、頭をなででもらい、気持ちよさそうにしているのを、ピャーラは嫉妬に満ちた眼差しを向け、物陰から半分体を隠した状態で、じっと見ています。(そこはわたしが座っているのが一番よく見える場所なのです)まるで「家政婦は見た」状態です。(笑)
それは台所でのことが多いので、いつのまにかピャーラには「家政婦」というあだ名がついてしまいました。

ミッチェルがたまにピャーラと同じところにいると、「坊ちゃんは見た」と冗談を言います。ただ、坊ちゃんの場合は自分が乗りたければ、ユニコが膝に乗っていようがおかまいなしに乗ってくるというずうずうしさがあります。ミッチェルはユニコの次に甘えん坊さんです。しかし、ピャーラにはそれができません。
猫の毛は愛情をもってなででやるほど、毛が柔らかくなり、つやが出ます。ユニコの毛はつやつやで輝いており、ミッチェルの毛は柔らかく光っています。でも、ピャーラの毛は元々柔らかいにもかかわらず、がさついているのです。

ピャーラがわたしの膝に乗ってくるのは、周囲に誰もいないときだけです。(子猫の頃からずっとそうでした)
そうしたいのに、みんなの前では素直にできないのです。ただし、わたしの前ではそうなのですが、猫同士となると、かなりわがままなのです。
ピャーラが寝そべっているところへミッチェルやリーラがやって来ると、必ずフーッと音を出し、不快感を露わにします。自己主張は誰よりも強いのです。
ユニコの場合は小さい子たちが来ても、そこを譲ってあげるだけの余裕がありますし、ピャーラのように怒ってその場を去ったりはしません。一緒に並んで眠っていることが多いのです。

猫はもっとも自分が気に入った場所で寝たがりますが、ピャーラは特にそれが強いようです。誰かが自分のお気にいりの場所で寝ていたりすると、すぐにのかせようとし、自分がその場所を奪ってしまうのです。ユニコがいつも寝ている場所でさえ、強引にのかせようとするので、ユニコがそれに対して断固として抗議をすることがあります。
ニャア、ニャア盛んにユニコが鳴いていると思ったら、いつも場所取り争いです。ユニコは仰向けになったピャーラのおなかを押さえつけ、ものすごい眼つきで、ピャーラの喉に向かって飛びつきます。それで、とうとうピャーラは起き上がり、そこから逃げ出すのです。そのピャーラをユニコはなぜか追いかけます。

戻って来た二匹はお互いに「もういいのでは?」と思うほど丁寧になめあって、さっきのケンカは何だったの?と首をかしげるくらいです。彼女たちのあいだでは、すでにケンカは終わっているんですね。
毎晩のように、それが儀式さながらにおこなわれており、しかもその場所はわたしの布団の上なのですから、ほどほどにしてほしいと思っていますが。

こんなふうに、猫も人間と同じようにいろんな性質をもっているのです。


      気持ちいいな 
       気持ちよさそうなユニコ  撮影 光の仕事人 




★ ある猫のあの世への旅立ち ★



このお話は、次女が中学生の頃に体験したことで、瞬時に猫の情報を読みとった貴重な内容です。
次女はあるメス猫が車にはねられた瞬間を目撃したことがあったのです。

その瞬間、次女はその猫になっていました。
はねられて、しばらくは意識があったのですが、「もうだめだ」と思ったとき、目の前が真っ暗になったと言います。
気がついたら、猫は自分の身体から抜け出たあとで、歩いても、フワフワと足が地に着いていない感じだったようです。
猫は地に横たわった自分の姿を見て一瞬「えっ?」と驚き、今の自分に起こっている状況に納得がいかないようでした。それで、そのあたりをしばらく行ったり来たりしていたと言います。
そのとき、猫は人間(次女)たちが「猫がひかれた!」と言って騒いでいるのを見ていたのです。

彼女には子どもがいたので、心配になり、子猫のところへ行きました。
次女が言うには、彼女は旦那のところにも行ったのだそうです。しかし、そのオス猫は、死後の世界がまるでわからない猫だったようで、メス猫はその旦那が言ったことにムカついて、キレたらしいです。
(何を言ったんでしょうね?このオス猫は。猫も人間も、わからないヤツっているんですよね)
キレたメス猫は再度子どものところに行き、「さようなら」を言ったのだそうです。子どもはそれを理解したようですが。

その後のことは、もうわからないと次女は言います。しかし、次女は自信を持って言っています。「猫も人間も同じなんだ」と。
肉体を脱いだ後は、猫であろうと犬であろうと、人間であろうとまったく変わりないということなのです。
このメス猫は、最初は状況がつかめなかったけれども、自分の死をちゃんと受け容れて、それを子どもに伝え、あの世へと旅立っていったのです。
賢いお母さんだったんですね。



★ 猫に仏性があるや否や ★



無門関 《南泉斬猫》のお話より


ある日、南泉(なんぜん)禅師の門下の雲水(修行者)たちが、二派に分かれ、一匹の猫について「仏性が有るか無いか」と言いながら論争していた。
そこに、南泉が左手に猫をつまみ上げ、右手に刀を持って、その場に現われた。


南泉斬猫
      「無門関」 南泉斬猫 より


さあ、誰でもよい、おれの前ではっきり言ってみよ。適当なことが立派に言えたら、この猫を放してやるが、言えなければこの猫を真っ二つに斬ってしまうぞ。さあ言え、さあ言え」と彼らに迫った。

師匠のいないところでは大きな声で法論を戦わしていた雲水たちも、このように問い詰められると答えが出ない。
誰も答えないから、とうとう南泉は猫の首をちょん切ってしまった。

趙州(じょうしゅう)が夕方帰ってきて、そのことを聞いた。
ひとりの学僧が趙州に尋ねた。
「趙州さまなら、そのようなときにはどうなさいますか」
趙州は門の外に出ると、履物を脱いでそれを頭の上に載せて出て行ってしまった。

ひとりの学僧が南泉のところに行って、趙州がこんな行動をしたと告げた。
すると南泉は、「さっきあの場に趙州がいたなら、猫の命は助かったのだが」と言った。




猫に仏性があるのか? ないのか?

皆さんなら、もうおわかりですよね?

ゴータマ・ブッダはこう言っています。
一切の衆生は悉く仏性を有す、如来は常住にして変易(へんやく)あることなし」と。

一切の衆生には、ことごとく仏性がありますよ、仏の本質というものは常住で、変わることがありませんよということですね。
衆生というのは「もろもろの生物(生類)」のことですから、「すべての存在が仏性である」とブッダは言っているのです。
衆生本来仏なり」です。(ただし、「本来は」ということで、「衆生=仏」なのではありません。そこには水と氷ほどの違いがあるということです)

一切の衆生は悉く仏性を有す。
だったら、猫に仏性があるかどうかなどと議論していること自体が、とても馬鹿馬鹿しいことですね。
こういうことを、昔から僧侶たちがやっていたのです。今も、こういうチョーお暇な御仁が数多いらっしゃいますが。


★南泉禅師は、なぜ猫の首をちょん切ってしまったのでしょうか?

南泉はこの雲水たちが自分の知っている世界にこだわり、その世界を主張し合っていたことに対して、彼らの頭を切り落とすという意味で猫の首をちょん切ったのです。

★「猫」とは何のことでしょうか?

思想、概念、認識、信仰などのもろもろの分別妄想のことです。思い込みの世界のことですね。
こういう分別妄想の出てくるもとは、頭(マインド)です。
またまた「」です。「マインド」が邪魔をしているんですね。

南泉は「なぜおまえたちは、そんなくだらない論議に溺れているのか? おまえたちの頭を斬り落とすことこそが先決だ」と言っているのです。
南泉は猫ではなく、ぼんくら雲水どもの頭を斬り落としたかったんですね。

趙州さんはと言えば、履物を頭に載せて出て行ってしまいました。
足に履く物を、頭に載せるなんて、気でも狂ったのでしょうか?
それって、何を表しているのでしょうか?

趙州さんは南泉禅師と同じ気持ちだったのです。

おまえらは、なぜ、「頭」で仏性のあるなしを論じているのか。おまえらが論争している「頭」というヤツは足の裏よりも劣る。いや、靴にも劣るぞ。おまえらが論じている世界は「頭」の上に靴を履いているようなものだ。

そんなことを表現しながら、趙州さんはそのくだらない「観念」と「知識」と「主張」の世界からさっさと出て行ってしまったというわけです。


★奇跡を見たら信じると言う者は奇跡を見ても信じない★



このブログの読者さんのなかには、見えない世界を自分の目で見て確かめないと信じられないという人もおられるかと思いますが、常に頭でものを考えている人にとっては、たとえ見えない世界を見たとしても、それが果たして本物なのだろうかと、またまた疑惑が生まれ、ぐるぐると回りつづけ、いつまで経っても出口が見つかりません。


29歳で光明を得たという韓国の素空慈氏はつぎのように語っています。

奇跡を見たら信じると言う者は、奇跡を見ても信じません。
見ないで信じる者は、奇跡を見て理解するでしょう。
そういう人は自ら奇跡を起こすことだってできるはずです。
奇跡は信じることによって生まれるものだからです。


見ないで信じる者は幸いなり」と、わたしも思います。
このブログの最初の時期(2010.6.22)に、こんな内容を書いていましたね。

★「見えることは信じられること」なのではなく、「信じられることは見えること」だということです。
また、今まで知らなかった新しい情報を得ることで、実際に認識できるようになるということです。
現実というのは、その人が信じているものが現われてきたものだからです。
「あなたがあなたの現実を創っている」といわれているのは、そういうことなのです。


過去記事 「信じる」と見えてくる不思議なお話 参照

つまり、あなたが信じれば、それは「ある」し、あなたが信じなければ、それは「ない」というごく単純なことなのです。


一休禅師はこう言っています。

ありと言えばありとや人の思うらん
答えてもなき山彦の声

なしと言えばなしとや人の思うらん
答えもぞする山彦の声



知ることなしに、どうして「霊的な世界は存在している」と言えるでしょうか?
知ることなしに、どうして「霊的な世界は存在していない」と言えるでしょうか?

霊的世界のすべてを感知できないわたしたちは、「わたしにはわかりません」「わたしは知りません」としか言いようがないのです。
それが真正で、真実で、正直な答えではないでしょうか。
わたしたちは「自分は知らない」という、そこから始めていくことしかできないのです。


ハート
頭(マインド)に翻弄されているのは男性ばかりが目立ちます。
南泉禅師の弟子ばかりではなく、悟りを得られなかった者たちはみな頭人間だったんですね。

ほんとうに今も昔も変わらないですね。
論理ばかりが先に立つ。
光の仕事人の剣で、頭をバシッと斬ってあげたいです。

誰かさんの頭をちょん切る代わりに、うちの猫の頭でもちょん切っておきましょうか? 
論理、観念、知識、主張……。
さあ、どの猫にしましょうか?




分離から統合へ

2011年12月24日 04:00


☆ 太陽は再びよみがえる ☆



今日はクリスマス・イヴですね。
さっきから、ボーンボーンと、降り積もった雪が地に落ちる音がしきりにしています。
どうやら今年は、ホワイト・クリスマスになりそうです。


   ツリー


12月22日は冬至でしたね。一年で昼の長さがもっとも短い日、つまり夜の長さがもっとも長くなる日です。
昔の人は、冬至の日は「死に一番近い日」とか「生命の終わる時期」とか考えて、その厄(やく)を払うために身体を温めたり、無病息災を祈ったりしました。
栄養を補給するために太陽の恵みを受けたカボチャを食べたり、香りに邪を祓う霊力があると信じられている柚子を湯船に浮かべて、お風呂に入る慣わしなどは現在も続いていますね。

ローマ帝国時代におけるミトラス教では、大々的に冬至を祝う習慣があったようです。これは、短くなり続けていた昼の時間が冬至を境に長くなっていくことから、太陽神ミトラ(ミトラス)冬至再び生まれるという信仰によるものでした。
この習慣を、後にキリスト教が吸収して、イエス・キリストの誕生を冬至に祝うようになったのです。

*昔は「月齢28日間で1ヶ月」という「陰暦」を採用していたので、昔の冬至の日は12月25日頃となっていました。現在は「太陽暦」を採用しているので、「約30日間で1ヶ月」となり、現代の冬至の日は12月22日頃となっています。

☆このように、ミトラの誕生日は冬至の日の12月25日で、これはイエス・キリストの誕生日に置き換えられましたが、「ミトラ=ミトラス」教と「キリスト」教との類似点は数多あります。いくつか抜き出しますと、つぎのようになります。

☆キリスト教の「復活祭」は、「ミトラの勝利を春分の日に祝う」ということがもとになっているといわれています。

☆ミトラ教では、水に身体を浸す洗礼という儀式がありますが、これはキリスト教の儀式そのままのようです。

☆「復活の日」と「最後の審判」は、ミトラ教におけるこの世界の終末に先立つ「死者の復活とその最後の審判」のことであるそうです。

イエスはメシアだとされていますが、ミトラも救世主だとされていました。イエスは自らを「世の光」と言い、「義の太陽」と称されましたが、ミトラは「光明神」で、「太陽神」と伝えられています。(十字もミトラ信仰起源です)

ほかにもたくさんの類似点がありますので、興味ある人はご自分でお調べくださればと思います。
ミトラの正体は、ここでは明かさないでおきましょう。明かしたところで、何も変わらないからです。
(ちなみにエジプトのホルスの誕生日は12月25日で、神に反逆した者とされるニムロドの誕生日も12月25日です。また「太陽神」はみな12月25日となっています)



    花回廊1



☆ 神は神を、仏は仏を救えない ☆



キリスト教では「イエスは人類を救うために自分の命を投げ捨てた」と言っています。わたしたちの罪を贖(あがな)うために十字架につけられたのだと。
ほんとうにそうなのでしょうか?

OSHOが、ある本のなかでこんなことを語っていました。

OSHOが、ご自分のごく親しいキリスト教の伝道師の説教を聴きに行かれた時のお話です。
その伝道師があまりに「イエスはただひとりの救世主です」と繰り返したため、彼は立ち上がってつぎのように言ったそうです。

余計な口をはさむようですが―それに私はキリスト教徒ではないし、会衆にも属していませんから、教会のなかではいかなる邪魔もすべきではないのですが―あなたがあまりにも何度も意味のないことを言われるものですから、私も一言申し上げたくなったのです。あなたは『イエスが十字架上で自らの命を投げ捨てたので人類は救われた』とおっしゃっています。でも、その救われた人類はどこにいるのでしょう。彼は自分自身を救うことすらできなかったのですよ

わたしはOSHOの言いたかったことがよくわかります。
イエスがこの世界にやってきた真の目的については、そのときOSHOは何も語られてはいませんでした。
しかし、よい機会だと思いますので、ここで少しわたしの見解をお話ししておきたいと思います。

イエスがこの世界に誕生した大きな理由のひとつ。
それは、自分のDNAを子孫に受け継がせるためです。意識レベルが低くなった人類に対して、イエスのような優秀なDNAを受け継ぐ人間が必要とされたからです。それが、天空から来た異星人が意図した目的でした。

聖杯」が、「マグダラのマリアの子宮」を表していることは、「ダヴィンチ・コード」の作品などが示唆しています。
イエスが独身であり続けたことなどは考えられません。彼はこの世で、できるだけ多くの子孫をつくることが目的だったのですから。だからこそ、彼が残した子孫を守り抜く秘密の団体が存在していたのです。
ナグ・ハマディ文書を読めば、イエスとマグダラのマリアの関係がわかります。

イエス(イェシュア・ベン・ヨセフ)が人類に伝えたかったこと。
それは、「わたしたちはみな神である」ということです。
「自分一人が神の子である」などとは思ってもいなかったのです。
それは、あとでイエスを利用した人間たちの作り話です。

考えてみてください。
かつて「救世主」と呼ばれた存在が、世界人類を救ったことがあったでしょうか?
あるいは、神は、神々は人間を救ってきたでしょうか?
「仏」となったゴータマ・シッダールタは、人類を救ったでしょうか?
また、ほんとうに未来仏とされている弥勒菩薩は「救世主」としてやってくるのでしょうか?

ヘブライ人が信じていた「エホバ」あるいは「ヤーウェ」は、彼らを守護したでしょうか?

自称「選民」と言っていたヘブライ人たちが散り散りバラバラになってしまったことは歴史上有名ですね。
古代イスラエル王国はソロモン王の死後、(紀元前930年頃)北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂しました。
北のイスラエル王国は紀元前721年にアッシリアによって滅ぼされ(失われた十支族と呼ばれています)、さらに南のユダ王国は紀元前586年に新バビロニアの侵攻により滅亡し、多くの人民が奴隷としてバビロンに囚われました。
イスラエルの人たちが崇め奉っていた「エホバ」という神は、その信奉者たちでさえ救ってはおらず、救うどころか滅亡させているのです。

OSHOは伝道師に言っています。

あなたは『イエスが十字架上で自らの命を投げ捨てたので人類は救われた』とおっしゃっています。
でも、その救われた人類はどこにいるのでしょう。
彼は自分自身を救うことすらできなかったのですよ。



★イエスやブッダ、唯一神をはじめ、多くの神々は、これまでに人類を救ったでしょうか?

だれも、救っていません。
わたしたちは、だれかに救ってもらうことなどはできないのです。
救えるのは、自分自身のみです。

わたしたちは本来皆神なのです。
皆仏なのです。
神が神を、仏が仏を救うでしょうか?

できるのは、目覚めた人が、未だ目覚めていない人、
つまり自分が元々は神だったと気づいていない人に対して、
目覚める手伝いをしてあげることくらいのことなのです。


プリンセチア



☆ 分離から統合へ ☆



分離から統合へ」は、わたしの20年近い研究のテーマでもありました。

精神の男女両性具有」となることが、人類の理想であるということを、イエスのことばなどからお伝えしたことがありましたが、それらは「分離から統合へ―原初のアダムに出会う旅」というテーマで書き記したわたし自身の論文から抜粋したものです。

このブログでは、異星人が創成した人類最初のアダムなどではなく、もっと以前に存在した「真の原初のアダムに出会う旅」にまで、皆さんをお連れすることができませんでした。

また、いつか別のサイトで、もしお会いできた暁には、そういう内容をお伝えすることができるかもしれません。(予定は変わり得るものですから、確定ではありません)

過去記事「慰めか、葛藤か、あなたはどちらを選びますか?」で、「魂の成長は、葛藤を通して達せられる」という内容を書きました。
それで、「葛藤」することについての罪悪感というものは、かなりなくなったのではないかと思います。
但し、「葛藤することはよいことなんだ」と、単純に思い込まないでほしいのです。
わたしは「葛藤状態」になっていることを、けっしてススメているわけではないからです。
それは、オリオンの気が遠くなりそうな長い年月の激しい闘いとオリオン人たちの葛藤のドラマを思い出せばわかることですね。
(★過去記事 わたしたちの生の目的は両極を学び、体験し、統合すること 参照)


宇宙の万物は、陰陽から成り立っています。
陰陽は、万物を形成するふたつの相反する性質のものを表すことばです。
宇宙の「」は陽性の「時間」を表し、「」は陰性の「空間」を表します。
「宇宙」という文字にも、陰陽は内包されているんですね。


男性なるもの」と「女性なるもの」を探究し、理解することは、宇宙創造の意図を知るということです。
真に陰陽を理解することができれば、両極の調和と統合は困難ではなくなります。

まずこの二元の世界に生まれたわたしたちは、陰と陽の性質をしっかりと見極めることから始まります。
そうすると、その陰陽のなかで、しだいに葛藤が生まれてきます。
ネガティブとポジティブ、精神と肉体(物質)、光と闇など、わたしたちは、これまで長きにわたって二極性の原理に翻弄されて悩みつづけてきました。
でも、あるとき、ふと気づくはずです。
これは同じ線上にあるものであって、けっして分裂してはいないのだということを。
陰陽の太極図がそれを的確に表していますね。


     innyouzu
        陰陽太極図


陰極まれば陽となり、陽極まれば陰となるのです。
究極までいったとき、それはくるりと反転します。
「なーんだ。どっちを究めても、同じことだったんだ」と気づけば、もう葛藤は終了です。

陰と陽の二極があってこそ、新しいものが生まれるんですね。
新しいものをたくさん生みだしたいがために、ひとつだった宇宙は、陰陽という相反するふたつのものを創ったのです。
どちらも絶対に必要不可欠なものなんですね。
それに気づけば、おのずから葛藤は消え失せていることでしょう。

よく「葛藤はいけないから解放しなさい」とか「葛藤を手放しなさい」という人がいますが、それは未だ「分離」の次元にいる人にとっては困難なことではないかと思うのです。
どちらの立場も理解していないうちから解放しろと言われても、どうしていいかわかりませんよね。
結局自分の嫌いなほうを捨て去り、好きな方を選ぶという結果になるだけです。それでは、いつまで経っても分離を繰り返してしているだけで、統合は起こりません。
以前にマインドの機能は分割することだとお伝えしましたね。

二元性のなかで、マインドはいつもどちらかを選ぼうとするのです。
好きか嫌いか。損か得か。
善か悪か。光か闇か。
ポジティブかネガティブか。愛か憎しみか。
正義のための戦争は、正しいか否か…。

マインドにとっては、「ふたつが同時に正しいこと」などはありえません。
「これが正しい」か、「その反対が正しいか」、「あれかこれか」のどちらかです。
マインドはひとつのものをふたつに分離し、対極の現実に分けるだけです。


思い出されましたか?
(詳細は、過去記事 マインドで考えることVSハートで感じること 参照)


陰と陽を理解し、その相反するふたつが元々ひとつのものから生まれたことに気づき、それを再び統合しようという試みは、最初から混沌として陰陽が未分化な低次の意識とは違いますね。月とスッポンほどの違いがあります。

「葛藤」が必要なときもあるのです。それも、ひとつの学びだからです。
但し、「ずっとその状態では分裂したままですよ」ということを、今回はしっかりとお伝えしておきたいと思います。
もしアセンションするのなら、「統合というさらなる段階に進む必要がありますよ」ということなのです。



ポインセチア2


ハート
心=マインドには、突破(ブレイクスルー)と崩壊(ブレイクダウン)の両方が起こります。

崩壊はわたしたちをマインド以下の状態にまで落としますが、
突破は思いの制限をひらき、大いなる気づきのもとで、
心(マインド)を見守ることによって起こります。
深い深い静寂のなかで…。

そのとき、わたしたちは心を超えるのです。
突破するのです。

OSHOは言っています。
心を超えることは、真正な正気を達成することだ」と。

葛藤突破すること。
統合という悟りに辿り着いたとき、
あなたはつぎなるステップへと上昇したのです。



風のように去りぬ

2011年12月30日 01:25


☆ 風のような人に ☆




かぜふく
きえし かがやきを
ふきそよがして ひかりゆく
のはらいちめん かがやかに
てりかがやかし
わすれゆく




風のように去りぬ



これは北原白秋の詩です。
彼の詩は若い頃に読んだことがありますが、記憶にはあまり残っていないのです。
ただ、これだけは20代の頃からずっと覚えていて、今も好きな詩です。


風が吹いてきた。
その風が、消えてしまっていたかがやきを
吹きそよがして、もう一度光らせた。
そうしたら、野原一面が光かがやいてきた。
野原一面を照りかがやかせて
風は行ってしまった
光かがやかせたことなどはすっかり忘れて
どこかへ吹きすぎていってしまった。


そんな内容ですね。

白秋がどんなことをイメージしてこの詩を創られたかわかりませんが、この「野原」というのは、わたしたちひとりひとりの「こころの野原」であるととらえることができます。
この「きえしかがやき(消えてしまった輝き)」というのは、何のことでしょうか?

あのときはよかった、昔は幸せだった、希望に満ちていた。
でも、今はそうじゃない。
そんなふうな、とても悲観的になった人生を感じさせられますね。

ある日、大きな津波が来て、家や家族を波ごとさらって行ってしまった。
自殺を考えるほど気が沈み、生きた心地がしない毎日。
明日の糧を得るためには働かなければならない。でも、仕事がない。
お金を稼がなきゃ、どうにもならないじゃないか。
お金が無ければ、どうにもならないじゃないか。
世の中はやっぱりお金じゃないか。

だれも愛してくれない。
人間なんて信じられるものか。
こんな世の中で生きていたってしょうがないじゃないか。
いったい何がおもしろいのか。
なぜ、自分はこんなに苦しみながら生きてゆかねばならないのか。
いっそのこと、日本なんて沈没してしまったほうがいい。
世界が壊滅してしまったほうがいい。
人類なんて滅亡してしまえばいいんだ。
こんなくだらない世の中を創ったやつはだれだ。
こんな世界でいつまでも生きていたくなんかない。
バカやろう!


枯れすすきの原.



そんなふうに希望や歓びをすっかりなくし、世間への恨みつらみで自暴自棄となり、萎れ、枯れてしまった人のところに風がスーッと吹いてくるのです。

いろんなネガティブなことを考えて、頭の中で堂々巡りをしてはいても、深いハートの奥では、やっぱり愛がなければ寂しいよ、愛がなければ生きてはいけないよ、やっぱり人と調和したいよ、人を大切にしたいよ、人を愛したいよ、生きたいよ…と思っているのです。

そんなあたたかい気持ちが自分の中にまだ残っていることを、吹いてきた風がじんわりと思い出させてくれるわけですね。
今にも消えそうな心の火種にポッと火をつけて、明るく光かがやくように燃え上がらせてくれるのです。



輝く野原



★ 風とは何か? ★



ディズニー映画で、「ラマになった王様」という長編アニメーション作品があるのをご存じでしょうか?
ラマになった王様2 クロンクのノリノリ大作戦」とともに、わたしはそれらの作品が大好きで、見るたびに子どものように笑い、感動の涙を流しています。

そこに登場する富と権力と美貌を持ったクスコという若い王様は、傲慢で、わがままで、気まぐれで、気に入らないとすぐに家来をクビにする無慈悲な性格でした。それで、自分がクビにしたイズマという相談役の老婆から恨まれ、毒殺されそうになるのですが、イズマの手下だったクロンクが毒の瓶をまちがえたため、ラマになってしまいます。

しかし、優しくて気のいい農民パチャといっしょに旅をすることで、しだいにクスコは目覚めていくのです。

もし風が、クスコのような「自己奉仕型人間」のところに吹いてくれば、「やっぱり自己中心的ではいけないな」とか、「やっぱり人には思いやりをもち、やさしくしないといけないな」とか、考えるようになるのです。

もし風が「自殺願望者」のところに吹いてくれば、「やっぱりもう一度生まれ変わったつもりで生きてみよう」とか、「やっぱり希望は失ってはいけないんだ」とか、「人生は思いようによっては、悪くないかも…」とか、考え直すようになるのです。

「ラマになった王様」に登場するパチャやクロンクは、多分に風のような性質をもっているキャラクターだとわたしは感じています。
(子どももおとなも楽しめる作品です。ぜひご覧ください)


日本の詩人は「愛情」のことを「」で表現するのだそうですが、風は「如来如去」そのものだと思うのです。

真如から来て、真如へと去っていくもの
それが、「如来」です。
如来」とつく仏さまは、みな風のような存在だと言えるでしょう。

あなたもそんな「如来」になっていただきたいし、わたしもそうありたいと願っています。




風と光




★ 「思いの制限をひらく」に
          ご参加くださった皆さまへ ★



さて、このブログも、今回でとりあえず終了させていただくことに致しました。
来年のことは来年にならなければわからないので、今は何とも言えませんが、
もしどうしても皆さんにお知らせしたい情報が生じれば、そのときは更新するつもりです。
(別ブログのご案内をすることがあるかもしれません)
ですから、もしかしたら、知らないうちに新しい記事が載っている可能性があるかもしれませんので、たまに訪問してみてくだされば幸いに思います。

また、「気づきのコース」の「数秘リーディング」につきましては、真剣に自己を知りたい人(気づきの準備ができた人)のために継続していきたいと思っております。
(新しい訪問者さんは、カン違いされることがとても多いので、全記事を読んでいただくことを前提としております)

この「気づきのコース」における「数秘リーディング」は、ただ単に数秘の結果をお知らせするだけではなく、結果後も、質疑応答などのメール交換を通して、さまざまなことに気づいていってもらうためのものです。
最初にかかる数秘リーディングの料金(5000円)は、光の仕事人が希望者に対して、リーディングをした結果をまとめる労力と時間に対していただいているもので、その後の質疑に対するお答えやレポートに対するコメントなどはすべて無料奉仕で行なっておりますので、その旨ご理解くださいますようお願いいたします。
(詳細は、カテゴリ 光の仕事人の「気づきのコース」をご覧ください)

来年も、アンケートは引き続き掲示しておきますので、ご利用ください。



光



☆ 気づきの拍手に祝福を! ☆



現在(2011.12.30.00:30)において、述べ人数167418人の訪問者のなかで、「気づきの拍手」をされた数が8211となっております。
この中には、何十回も拍手をしてこられた方々がいらっしゃると思われますが、その多くの気づきに対して、光の仕事人も、その方々の内なる神とともに歓喜し、祝福の拍手をさせていただきたいと思います。

また、さまざまなコメントや拍手コメント、アンケートを送ってくださった方々にも、お互いの学びの機会を与えていただき、心から感謝いたします。ありがとうございました。
また、皆さまから発せられたネガティブな思いもポジティブな思いも、全て統合し、「赦しの祈り」で清め、消し去りたいと思います。

どうか皆さまも、過去記事に書きました「赦しの祈り」を唱え、今年あった出来事をきれいにリセットしてください。


ハート

  明日のことを思わない
  この瞬間に生きている
  純真無垢な
  花のように
  今ここを生きよう

  野を吹きわたる
  風のように さわやかに
  人の心に きよらかな火をつけて
  光かがやかせ

  すべてを忘れて
  吹きすぎよう

  如来のように


       はす
           意識(周波数)の最も高い白蓮  
                        撮影 光の仕事人





      2012年があなたにとって飛躍の年となりますよう
      お祈りいたしております。

      合掌
  
      愛と感謝  光の仕事人 







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