これからの男性の生き方を考える―サムライの「覚悟」と仏教者の「悟り」

2011年09月02日 19:25


★ サムライの「覚悟」とは? ★



武士道と云うは、死ぬ事と見付けたり

この有名な言葉を残したのは、鍋島藩の武士であった山本常朝です。

過去記事「これからの男性の生き方を考える」シリーズの「サムライ・戦士の光と影」のなかで、
武士という者は、正月元旦の朝、雑煮の餅を祝う箸を手にしてから、その年の大晦日の夜に至るまで、毎日毎夜、常に〈死を心に覚悟すること〉を心がけの第一とするものである
という「武道初心集」に書かれた大道寺友山の文を紹介しましたね。
両者とも、サムライは毎朝毎夕、精神的に「死に死に」すること、「生きながら死と一枚になるよう努める」、つまり「死に切っておくこと」をススメているのです。

覚悟〉という漢字は〈〉と〈〉からできていて、どちらも〈悟り〉を意味しています。
けれども、サムライの〈覚悟〉というのは、仏教で言うところの〈悟り〉とはまるで別のものです。
では、サムライの〈覚悟〉と仏教者の〈悟り〉とのちがいとは、何でしょうか?

それは「悲壮感を伴うかどうか」ということのようです。

さとりが悲壮感を残さないのに対して、武士の覚悟が悲壮感をともなうことである。
悲壮なさとりとは言わないが、悲壮な覚悟とは言われる。死の覚悟はもっとも悲壮なものである


当時(1980年代)東京大学名誉教授(日本倫理思想史専攻)であった相良亨氏が、そのように述べておられたことを思い出します。
悲壮」とは、「悲しい中にも雄々しくりっぱなところがあること」という意味です。
つまり、サムライの覚悟には「崇高な悲壮感がある」ということなのです。


★ サムライに悲壮感があるわけ ★



では、「サムライの覚悟」には、なぜ「悲壮感」があるのでしょうか?

はっきり言ってしまえば、サムライには「死にたくない」という気持ちが残っているからなのです。
真にいつ死んでもよいと思って生きているのであれば、当然肉体や現実への執着はないはずです。
ところが、サムライは、そのような執着から完全に解放されてはいないのです。
つまり、「身命へのこだわり」がなお残されているわけですね。
それゆえに「悲壮感がある」ということなのです。

相良氏はつぎのように述べています。

思うに、のこされたこだわりはただ自分の身命に限られたものではあるまい。
たとえば、妻子とのきずなもこだわりとしてのこされていよう。
その妻子との絶対的な別離が悲哀をもたらすであろう。
しかし、死を覚悟した者は、いずれにしても、もはや、単なる現実への執着の次元にとどまるものではない。そこには執着をこえたものがある。
覚悟には、こだわりをのこしつつも、執着をこえたところがある。
したがって悲哀をともなうといっても、それは悲哀にくずれおれるものではなく、悲哀にたえ、悲哀をふまえて立つ悲壮さがある。
                                 相良亨著「日本人の死生観」より



上記は、わたしにはもうひとつピンとこない文章に思えました。
こだわる」という言葉には、「ちょっとしたことを必要以上に気にする。気持ちがとらわれる」、「 つかえたりひっかかったりする」、「 難癖をつける。けちをつける」という意味がありますが、どう考えても「こだわり」は「執着」の範疇に入るだろうと思うからです。
覚悟には、こだわりをのこしつつも、執着をこえたところにある」というのも、わかりづらいです。(笑)

わたしがこれを読んでまず思ったのは、もし「妻子との別離が悲哀をもたらす」ということであるなら、サムライは初めから妻を持つべきではないということです。
執着を残しそうなものは、最初から持たないほうがよいのです。
真の仏教者は、妻子や家を持ちませんね。りっぱなお寺を持ったり、妻子をもっている僧というのは、真の僧と言えるのかどうか、はなはだ疑問です。

サムライも僧も、本来は孤独であるのがベストです。
そうでないと、僧は心おきなく修行ができないし、サムライは心おきなく戦場へ臨めません。
しかし、サムライの誰もが妻を持たずにいると、サムライの子孫は絶えてしまいます。
つまり、サムライにはつぎのサムライを育てる必要があり、家の存続のためには、いやでも妻子を持たなければならない理由があったのです。

そんなふうに家庭を持たねばならないサムライが、常に死を覚悟して生きること自体、最初から無理があるわけです。
妻子を持つということは、けっしてこの世での生を否定しているわけではないからです。
妻子を持つ夫の命は、もはや夫だけのものではなくなっています。夫が死ねば、たちまち妻子の生活(生命)に大きな影響が及ぼされるからです。
ほんとうは生きたいのに、いざというときは死ななければならないのですから、悲壮感があって当然です。

こだわり、執着があり、この世に十分未練があるにもかかわらず、突然ふりかかってくる死に対しては、うろたえることなく、それと立ち向かわなければならないのですから、サムライは大変です。
その心の用意を〈覚悟〉と言っているわけですね。


★ 悟りに至れないサムライたち ★



武士道と云うは、死ぬ事と見付けたり」と、「死ぬこと」を武士のあるべき姿だと心に強く心に刻み込み、克己し、憤然たる意志を持ちつづけていなければ、サムライはとても平常心ではいられないでしょう。
そんな強い信念がベースにあって、大義のために戦うサムライたちは、神のために正義の御旗をふりかざして戦う信仰者たちの心情と何ら変わるところはないと思います。
死ぬことよりも、つい生きることのほうを選択してしまう。(だれもが、どちらかというと、やはり生きたいのだということ)
そんな人間の弱さに、必死で立ち向かうサムライたちの真の目標は、敵に勝つことではなく、己に勝つことではなかったかと思います。

そういう点で、サムライの生きざまは、それなりに評価できます。
しかし、もう一歩と言うところで悟りには至らず、やはり理想の男性像としては、物足りなさを感じてしまうのです。(笑)
やはり、人間には本物の悟りが必要だからです。


じつは、こんな話があるのです。
相良氏の著著には、「戦国の武士は仏教に関心をもつべきであると教えられていた」それと同時に、「あまり仏教に深入りしてはならないとも教えられていた」ということが記された箇所があります。
『碧巌録』は読むべきであるけれども、七巻までにとどめ、十巻全部読んではならないと教えられていたというのです。(「甲陽軍艦」で、武田信玄がそう言ったらしい)
なぜなら、『碧巌録』を十巻全て読むと、出家したくなり、武士を廃業したくなるからだというのです。

相良氏はつぎのように述べています。

武士の覚悟は、いわば、『碧巌録』十巻を読了してうる仏教者のさとりではなく、さとりにつながるものをもちつつも、なおさとりとはことなり、七巻にしてえられるもの、あくまでも現実の中に生きる者としての心のもち方であった。
武士の精神が仏教で養われつつ、武士の精神自体は仏教とはことなるものであるというこの質の転換は、覚悟の問題をはなれても、たとえば芸道などの場合においても、今後追究さるべき日本思想史上の基本問題の一つであるが、覚悟は、まさに端的にこの関係を示すものである。


つまり、最終段階で、サムライは「悟り」には到達しないのだということになります。
宙ぶらりんのままで、死んでいくということです。
これこそ、真の悲壮感を抱かずにはいられませんね。(笑)


★ 仏教者の「悟り」とは? ★



正覚者は、現世の執着から解き放たれたのですから、わざわざ覚悟などしなくても「」は自然に受け容れられます。
特に人生を「」だと感じていたゴータマ・ブッダは、この世の「」から開放されたくてしかたがなかったのですから、彼にとって「」はまさに「涅槃(ニルヴァーナ)」、祝福すべき理想の境地だったわけです。

ブッダに習う仏教者にとっての「この世の生」や、「世間とのさまざまな関わり」は、欲望ばかりで、少しも善なるものではないわけです。
ですから、サムライのように「覚悟」とか「悲壮感」はないのです。
サムライとは全く次元がちがいます。

近代の禅の高僧と言われた人で、死の間際に弟子たちに囲まれて、「何か最後のお言葉を述べてください」と言われ、「死にとうない!」と叫んだという逸話を読んだことがあります。
こういう人は、サムライの域をも超えていないということになるでしょうか?
この言葉を聞いた弟子たちは、実際のところどう感じたのでしょうか?
この師匠は「悟っていないな」と感じたのか、逆に「まさに悟った人だ」と受け取ったのか…。それは、謎です。(笑)



名も知らぬ花
         名も知らぬ花  撮影 光の仕事人


★つぎにOSHOのことばをプレゼントします。
悟り」すなわち、「光明」とは何かを、全身で感じてください。


光明とは、
自らの存在を認識し
自らの存在の永遠性を認識し
これまでも死は存在せず、
これからも二度と死は存在しない―
つまり死は虚構だということを認識することだ


あなたの存在をまったくあからさまに
完璧なまでの美しさのなかに見ること―
その荘厳さ
その沈黙
その至福
その歓喜
それらはすべて<光明>ということばのなかに含まれている

ひとたび、この豊潤さを体験すれば
マインドは、あなたに対する拘束力を失いはじめる
あなたが何か質的に途方もなく高いもの、満足できるもの―
計り知れない満足を見いだしたから
マインドは自分の役割が終わったと感じる

マインドはあなたに惨めさ、不安、心配しか与えなかった
だから醜く見える
マインドがあなたに貢献したものはいったい何だろう?
その拘束力はゆるんでゆく
マインドは影のなかに身を潜め、次第に姿を消してゆく

あなたは生きつづける
だが今やその生は、瞬間から瞬間へと生きることだ
そして無心というその小さな隙間で
あなたが副産物として得たものが成長してゆく
その成長に終わりはない

光明に始まりはあるが終わりはない
 
              
                  by OSHO




ハート

アセンションすることを願い、
どうしたらアセンションできるのかと、
必死でいろんなブログを漁ってきた人たちは、
最近は、もしかしたら、お金(物質)を欲しがるかわりに、
瞑想する時間を欲しがるようになったかもしれません。

宗教は教えてきました。
「この世のものを欲しがってはならない。それはつかの間のものだから。
あの世のものを願いなさい。それは永遠だから…」と。

しかし、これでは何も変わってはいないのです。
むしろ、貪欲さはさらに増しています。(笑)
これが物質次元の「放棄」と言えるでしょうか?
「次元上昇したい」という強欲が、あの世に移されようとしているだけのことです。
それを「精神の物質主義」といいます。

アセンションするという目的のために自己を浄化するのではありません。
日夜浄化していく中で、結果としてアセンションする自分になっていくだけです。
目的はあくまでも、自己の浄化です。

アセンションを求めていること自体、
その欲望が、
アセンションできない自分をつくっていることに
気づきましょう。



これからの男性の生き方を考える―死ぬ覚悟で誠実に生き抜くこと

2011年09月05日 17:20


★ 「葉隠」とは? ★



このところ、武士道や戦士を引き合いに出して、「男性の生き方」について考えてきましたが、このままだと「武士道談義」が延々とつづきそう(笑)なので、今回でとりあえず「武士道シリーズ」は終わりにしたいと思います。

皆さんは、「武士の聖典」とされている「葉隠(はがくれ)」を読まれたことがあるでしょうか?

男性女性にかかわらず、「男性エネルギー」を過去生で学び、体験してきている人は、興味が湧き、読まれているもしれませんね。
(近頃の男性は女性化しているので、別のほうに関心があるのかもしれませんが)
女性であるにもかかわらず、「武士道」精神に魅力を感じる人は、必ずどこか(過去生)で戦士エネルギーをしっかりと体験してきていると言ってよいでしょう。

ある女性がとてもこの「武士道シリーズ」の記事に刺激を受けておられたので、「あなたの分霊で、戦国時代の武将がいますよ」と伝えたら、確かに「もしタイムマシンで過去に行けるのなら、一番行きたいのは戦国時代だと思っていた」という返事がきました。
彼女はほんとうに戦国時代にしか興味がないようでした。(笑)

前回にも書きましたが、「武士道というは、死ぬ事と見つけたり」の言葉は、とても有名ですね。

葉隠」で、きわめて常識的な処世の知恵を披露している山本常朝(やまもと つねとも)という人は、江戸・元禄時代、佐賀の鍋島藩の二代目藩主、光茂(みつしげ)のお側役でした。
藩主が亡くなり、殉死が禁止されていたため、彼は頭を丸めて引退し、山里に隠棲しました。
後に彼の草庵を訪ねてきた田代陣基(たしろ つらもと)という若者が、山本常朝の後述を筆録した語録・回想録が「葉隠」なのです。


葉隠」に記された内容は、現代にも十分通用するので、参考のために彼の言葉をいくつか選び、現代語版(神子 侃 訳)で載せておきたいと思います。



極楽鳥花
         極楽鳥花  撮影 光の仕事人



★ 山本常朝の思想 ★



五、六十年以前までの武士は、毎朝、行水(ぎょうずい)を使い、髪に香をたきしめ、手足の爪を切って軽石でこすったうえ、こがね草でみがくなど、身だしなみをゆるがせにしなかった。とくに武具一式は錆をつけず、ほこりを払い、みがきたてて用意していた。

とりわけ身だしなみを整えるのは、伊達者(だてしゃ)のようであるが、そうした風流のためではない。今日は討ち死にするか、明日は討ち死にするかと必死の覚悟を決めていたからである。たしなみのない姿で討ち死にすれば、平生から覚悟していなかったことを敵に知られ、軽蔑されてしまうから、老若ともに身だしなみを整えたのである。
 
いかにも面倒で時間が無駄なようだが、これが武士のなすべきことである。面倒でも無駄なことでもない。

つねに討死の覚悟をし、死んだ気になって奉公し、また武術の鍛錬にも励むならば、恥をかくようなことにならないはずである。この点を考えようともせず、欲にかられてわがままに日を送り、事にぶつかって恥をかき、しかもそれを恥とも思わず、自分さえ満足すればよいなどといって、でたらめな行ないに堕してゆくのは、かえすがえすも残念である。平生から必死の覚悟をしていれば、どうして賤(いや)しい行動ができるだろうか。このへんのところを、よくよく工夫しなければならない。

三十年このかた、気風が一変し、若侍たちの対話でも、金銭のうわさ、損得の考え、暮らし向きの話、衣装の品定め、色欲の雑談、こういった話題ばかりである。そういう話題でなければ、みんな話に乗ってこないようになってしまった。困った風潮だ。むかしは若い連中でも、もともと賤しい根性がなかったから、そんなことはおくびにも出さなかったのである。年輩の者も、うっかりこのようなことを口にすると、しまったと後悔したものである。

これは、世の中が華美になり、生計にだけ関心を持つようになったからであろう。本来は、身分不相応な贅沢(ぜいたく)さえしなければ、生計などなんとかなるものである。
また、このごろの若い者に倹約心があるのを「世帯持ちがいい」などといってほめるのは、あきれたことである。しまり屋は、とかく義理を欠く。義理を欠く者は賤しいやつである。
                                    (「葉隠」聞書第一より)



★この後述は、常朝の基盤にある思想がよく表れているものであると思います。
彼は、「この世は夢」と言い、「」について、つぎのように語っています。


貴賎にかかわりなく、老若にもかかわりなく、悟っても死に、迷っても死ぬ。とにかく人間はみな死ぬのである。
このようにだれでも、やがては死ぬということを知らないのではない。だが、ここにひとつの逃げ道があるのだ。つまり、必ず死ぬと知ってはいるが、他人がみな死に果ててから、自分は最後に死ぬかのように考えて、さし迫ったことではないと思っているのである。はかない考えではないか。

また「あくせくしても仕方がない、すべて夢の中の遊びだ」などと思って、油断してはならない。死は、すぐ足もとに迫ってくるのだから、精を出して万事を手早くかたづけておかなければならぬ。
                                    (「葉隠」聞書第二より)



★現在は「戦(いくさ)」というよりも、天変地異がもっとも恐れる事象です。
明日大地震が起こり、大津波が押し寄せてくるかもしれないのです。
今回の台風でも、死ぬことなど予期もしていなかった人がたくさん死んでいますね。
浅はかな考えですが、たいていみんな「自分は死ぬかもしれない」とは思っていないんです。
「自分は絶対に死なない」と思っているのです。(笑)
このことを、「はかない考えではないか」と常朝は嘆いています。
常に死ぬ準備をしておく必要性が、このことからもうかがえます。

★武士道は「男の生き方」を示すものであって、女性に関してはあまり語られることはありませんでした。
語られても、不公平な思想で女性たちはがんじがらめになっていたと思います。
ここで、少し「男尊女卑」について触れておきたいと思います。



★ 男尊女卑の思想 ★



日本の武家の女性は、家父長制のもとで虐げられてきた一番の犠牲者であるとわたしは思っています。
特に江戸時代の女性の地位は驚くほど低かったのです。
儒教的色彩が濃かった武家社会では、「幼いときは親に従い、嫁しては夫に従い、老いては子に従うべし」という有名な「三従の教え」が浸透しており、女性に自由など一切ありませんでした。
いわゆる「男尊女卑」の思想ですね。
たとえ生まれの身分が高くても、女性は人として尊重されていなかったのです。
(興味ある人は「女大学」などを参照してください)

これは、キリスト教圏の国やイスラム教圏の国も、たいてい同じです。
男尊女卑の思想は、キリスト教会から発されています。
(この思想はイエス・キリスト本人とは全く関係ありませんから、カン違いしないようにしてくださいね)

もともとキリスト教は、それを提唱した人間たちが、男性優位に創り上げた思想であるので、女性が虐げられていたことに間違いはありません。
日本の場合、女性が男性ともっとも対等であったのは平安時代であり、それ以降武士の世の中に入ってからは、しだいに不平等となっていきました。

欧米では、紳士が淑女を優先して丁重に扱う「レディーファースト」という文化がありました。それ自体が不平等であると批判する人たちもいるようですが。
レディーファースト」の起源は、騎士階級の人々の道徳規範であった「騎士道」にあったといわれています。
その目的が全女性に対してと言うよりは、主に貴婦人に対してであったので、純粋に女性全体に対する「敬の心」から生まれたものであるかどうかは甚だ疑問です。

日本の場合、農民や商人の家に生まれた女性は、どちらかというと男性と対等に近い感じで生活していたように思われますし、武家の女性に比べれば、よほど幸せだったのではないかと感じます。

それを考えると、今現在の女性はあらゆることで恵まれています。
女性ならではの特権も行使できる時代です。
親や夫や息子に対しても、自分の意見をはっきりと言えるのですから、何も戸惑ったり、遠慮することはありません。
今は、逆に男性の方が戸惑い、遠慮しているのかもしれません。(笑)

★現代の男性は「生きる目的」が失われてしまっているような気がします。
仕事に情熱を傾けるというよりは、ただ家族のために稼がなければならないので、毎日仕方がなく働いているだけといった感じです。
ほんとうはもっとちがうことをしたいのに、それができない毎日で、ストレスだらけなのかもしれません。

今まで男性のコメントがなかったために、そのあたりのことがつかめません。
これからの男性の生き方」についての記事を求めておられた男性の方、読んでおられたら、ぜひ感想を送ってくださいね。
男性はもっと積極的に表現する必要があります。

山本常朝も、「四十歳以前は、知恵や分別など無用であって、むしろ積極的すぎるぐらいのがよい。人により、性格にもよることだが、四十歳をすぎても、積極性はやはり必要だ。これがなければ、気の抜けたようになってしまう」と語っていますよ。


★ここで、世の中の男性にお願いしたいことがあります。

それは、もっと正直な自分を表現しなさい!ということです。
世の中の諸悪にながされていてはいけませんよということです。
そして、いつも死ぬ覚悟で生活し、人には自分の誠実さを示すことです。

昔のように「誠実さ」と「責任」を誇りとする男性が少ないように感じるのは、わたしだけでしょうか?


桔梗
     桔梗  撮影 光の仕事人



★最後に常朝の語った「人生の極意」をお伝えしておきましょう。


人間の一生は、まことに短いものだ。
好きなことをして暮らすのがよかろう。
夢の間の世の中で、好かぬことばかりして、
苦しみながら暮らすのはおろかなことだ。

このことは、下手に聞かすと害になるから、
若い連中にはついぞ語ったことのない極意である。

私は寝ることが好きだ。
いまの境遇にふさわしく、
ますます出歩かないようにして、
寝て暮らそうと思う。
               山本常朝 「葉隠」より




ハート
わたしもまったく常朝さんと同じ心境です。
最後の四行は、おかしいくらいぴったしですね。(爆笑) 




劇的な変化と変容を受け入れよう! 喜びも悲しみも、心を一か所にとどめないこと

2011年09月07日 18:00


★ 台風12号がもたらしたもの ★



台風12号は大きな爪痕を残し、去って行きました。
最初は日本列島を縦断すると予想されていましたが、急に進路が変わり、四国と中国地方に向かいました。
日本でもっとも浄化しなければならない地域がほかにあるのに、なぜ西に向かっているのだろうという疑問があったのですが、できるだけお手柔らかに浄化をしてくださるよう、雨の神さまと風の神さまにお願いしていたのです。(確かにわたしが住む地域はさほどの影響はありませんでした)
風よりも、雨の浄化が必要だと感じており、雨はしかたがないと思っていたのですが、予想以上にものすごい雨量でした。
結果的に四国や中国地方、近畿地方に大雨をもたらし、特に奈良県や和歌山県の土砂崩れによる被害が大きく、今回は紀伊半島の浄化であったことを知りました。

那智勝浦町の熊野那智大社が、大きな被害を受けましたね。
熊野那智大社によりますと、境内にある6つある社殿のうち、「第五殿」と「八社殿」の間にある裏山が崩れて土砂が流入し、高い部分では約1・5メートルまで土砂が積み上がり、流入はすべての社殿に及んだということです。

また、大社の別宮の飛瀧(ひろう)神社でも、ご神体の那智の滝(落差133メートル)の上部に張られているしめ縄(長さ26メートル、重さ4キロ)が切れてなくなり、滝の手前にある大岩(おかみしろ)も流失しました。
平安時代、文覚(もんがく)上人が修行したといわれる「文覚の滝」も、岩が流され、少なくとも5本の大木が倒れたと伝えられました。

奈良県では、吉野町の金峯山寺(きんぷせんじ)蔵王堂(国宝)で、入母屋造(いりもやづくり)の檜皮葺屋根の頂上東側付近が破損したようです。

熊野那智大社は、わたしがもっとも好きな場所でしたし、吉野の金峯山寺も懐かしい場所でした。
那智の滝の清浄なる姿は、いつまで経っても見あきることがなく、爽快かつ清涼な水しぶきに心が洗われ、滝と一体となった歓喜を覚えながら、長い時間そこに立っていたことを思い出します。
そのすばらしい光景が脳裡に焼きついているだけに、ニュースで見た無残な有様に、自然界の容赦ない破壊力と物質界の空しさ儚さを、しみじみと感じました。


★ 劇的な変化と変容を受け入れよう! ★



すべて形あるものは滅びます。
崩壊していく世界遺産の建物などは、「破壊されていく古い形」を表しています。
大きな変容の前には、古いものは必ず崩壊するのです。

これは、人間にも当てはまることです。
繰り返し申し上げていることですが、古い状況、古い思考パターン、人格の構造や古い条件付けのパターンなどが、今の状況になじまなくなったとき、つぎの新しいものがやってくるために壊される必要があるということです。
外側だけではなく、内側の保証がなくなってしまったとき、あるいは、これまでの世界に対する見方がふさわしくなくなってしまったとき、それは個々に体験されるものです。

外側のものであろうと内側のものであろうと、壊れていくものは、もはや時代遅れで不必要なものなのだということにはっきりと気づくことです。
ここで、外側の所有物を手放すことが必要です。
いつまでもそれにしがみついていないことです。
それを手放すほど、よりリアルで真正なものへと近づくことができるからです。


★ 世界遺産の悲劇 ★



最近は、「世界遺産」などと言って、やたら建物やその地域一帯が重宝されるようになりました。
そこへ数多の人間がわんさと押し寄せ、清らかだった聖地が、かえって汚(けが)れてしまっています。ほんとうに嘆かわしい限りです。

世界遺産」となった地域は、あるいは「世界遺産」に登録しようとやっきになっている地域は、「地域の活性化」などと言って人々をそこへ呼び寄せたがっています。その裏には、必ずお金儲けがからんでいるのです。
世界遺産」は、もはや人間の欲望のための登録になり下がっているような気がします。

熊野古道をはじめ、その近辺は、昔から参詣で有名な場所ではありましたが、それでも信仰心の篤い人たちの聖なる地として守られていたと思うのです。

昔の人たちは、現在の人たちのように「パワースポット」だとか、そこで「パワーに満たされたい」とか、物見遊山の態度で神社仏閣を訪れていたのではありませんでした。
一大決心をして、遠い所からはるばる歩いて行ったのですから、神々に対する感謝の念と真剣さがつよくあったのだと思います。

現在人はとにかく欲に駆られ、軽い気持ちでの「お願い事」ばかりです。
「お金が入りますように」をはじめ、「いい仕事にありつけますように」、「いい伴侶が見つかりますように」、最近では「アセンションできますように」とか、「みなぎるパワーをください」とか、少ないお賽銭を放り投げて祈っているのではないでしょうか。(苦笑)

神さまはわたしたち人間の先祖であるわけですから、ただただ「感謝」をするのみです。
自分の欲望をかなえるためのお参りは、しないことです。
たとえ、それらを祈っても、かなえられることはないでしょう。
高次元の存在になればなるほど、物質や名声などの欲望には無関心だからです。
もし万が一物質的な願いがかなったとしたら、それは物質を与えて益々自分を尊び、賞賛してもらいたがっている、たいそう意識の低い輩の仕業であると思ったほうが賢明です。
不純な動機で訪れたなら、その代償は払わなければなりません。

神の恩寵は、人が心から神に感謝し、神の繁栄を祈った結果として与えられるものです。
恩寵を得るために祈るのではありません。
その清らかな感謝の気持ちが神に届いた結果、愛の光が注がれるのです。
与えるものが受け取るものです。
くれぐれも目的をはき違えないことですね。


神社仏閣が「世界遺産」となると、猫も杓子も足を踏み入れ、波動が粗くなることは否めません。
汚された場所は浄化されて当然でしょう。
世界遺産登録をしたばっかりに、案の定と言った感じです。

世界遺産」であろうがなかろうが、素晴らしいものは素晴らしいのです。
しかし、いくら素晴らしいものであっても、自然の摂理が働いて、しだいに壊れていきます。
それはそれで消えていってよいのではないでしょうか。
建物(不動産)という物質に執着すればするほど、最終的には浄化が必要となり、結局崩壊してしまうのです。

また、聖地というのは、できるだけ人目につかないところにあるほうがよいのです。
聖なる山に足を踏み入れるときは、その山の神に許可を得るものです。
そして、やたらに騒いだり、汚さないようにするべきだし、何よりもその山の波動を粗くしないことです。
これ以上欲望を内包した「世界遺産」の登録はやめてほしいし、自己の欲望のために再三聖地を訪れることはやめてほしいと願う次第です。


地震や台風などで聖地が破壊されるという事象を、人々は「悪いことが起こった」というふうにとらえがちですが、そうとは限らないことをお伝えしておきましょう。
人間にとっては災難である地震も、神々にとっては喜ばしい表現である場合があるからです。
どういうことか、一例をあげてみましょう。


ひまわり


今から16年前(1995年1月17日)に「阪神淡路大震災」が起こりましたね。
淡路島北部、地下16キロの地点を震源とするマグニチュード7.3の地震が発生しました。
淡路島、神戸市、西宮市、芦屋市などで震度7の非常に激しい揺れを観測し、この地震による被害は、兵庫県内を中心に死者6434人、負傷者約4万4千人にのぼりました。
この地震の震源地である(旧)津名郡一宮町のすぐ傍に「淡路の一宮」として知られる「伊弉諾神宮(いざなぎじんぐう)」があります。
ご祭神は、日本神話の国産み・神産みに登場するイザナギ、イザナミです。

震災の後しばらくしてから「伊弉諾神宮」に赴いたことがあります。
雨模様だったのですが、境内で下手な笛を吹いたときには陽光が射してきて、気持ちの良い時間を過ごした覚えがあります。

震災のときには、鳥居が倒壊するなど大きな被害を受けましたが、じつはそこに鎮座していたイザナギ、イザナミ神が、その地震の際にアセンションして、別の星に行かれたという話を、当時ある神道家から聞いたことがあります。
地震や噴火は、いわば神々の喜びの表現であるというのです。
それに伴って亡くなった人々も、一緒に連れていかれたらしく、悲観する必要はないということでした。
悲しみと喜び。人間と神とのあいだの認識の大きな違いがわかりますね。


★ 地球の変革は地球人がするべきこと ★



台風」の話から「世界遺産」の話になり、「神々のアセンション」の話になりましたが、最後にお伝えしておきたいことがあります。

この地球を変革するのは、神ではなく、わたしたち人類です。
神というのは、人間の手助けがなければ、実のところ何もできない存在なのです。
そうでなければ、「日月神示の神」のように、わざわざ人間を通して「ああせよ、こうせよ」と神の意向を伝えたりする必要はありません。すでに、さっさと自分の好きな世界に手直ししているはずですね。
でも、未だに地上は天国にはなっていません。人間に協力してもらって初めて事が成し遂げられるのです。

これからは、「神頼み」はやめて、神がさらなる進化を遂げられるように祈ってあげることですね。
そして、地球がよりよい場所となる変革を、わたしたちの力で成し遂げましょう。
東北大震災にしても、今回の台風にしても、災難に見舞われた人は多いでしょう。
でも、それは、変化と変容のために必要なことであったと知ることです。
悲観的にとらえていては、前進ができません。
思いを制限しないことです。

前回ご紹介した山本常朝がこんなことを言っています。

不慮の災難に遭って気を落としている人に、
「お気の毒」などといえば、ますます気が滅入り、筋道を立てて考えることもできなくなってしまう。
そういうとき、あっさりと、「かえってよかった」などといってハッとさせるのだ。
それがきっかけになって、思わぬ活路が開けてくるものだ。
うつろいやすい人の世にあって、悲しみにせよ喜びにせよ、心を一カ所に固定させてはならないのである。                              (「葉隠」聞書第二)




ねんねする
         よく眠るミッチェル  撮影 光の仕事人


ハート
山本常朝さんの言葉は感慨深く、
前回も、けっこう皆さん彼の思想に賛同されたのではないでしょうか?
眠りたいときには眠れるのは、この世の最高の贅沢ですね。
あの世では眠る必要がないのですから、睡眠を楽しんでおくことです。
ニャン子のように。(笑)

サムライには「覚悟」があるけど「悟り」がないとか、学者さん方は言っておられますが、
常朝さんは「覚悟」もあるし、「悟り」もあるサムライだと、わたしは思っています。

あの世はこの世の延長です。
この世でつらいことばかりなら、あの世でもつらいことばかりです。
だから、つらいことでも悲しいことでも、深刻にとらえずに、
おおいに楽しみながら体験することです。
この世で、死んだ気になったら、なんだってできますね。
すべては楽しい体験学習なのです。



花と蝶


人生を楽しみたい人、この指と~まれ! 




深まりゆく秋に向けて―光の仕事人おススメの料理と書籍について

2011年09月11日 15:20


★ 読者さんのご希望に応えて ★



先日、ハワイ在住の女性からアンケートが届きました。
特に【 気づきが得られたカテゴリ】は「小食は地球を救う」で、ご本人も、脱肉食に移行されている最中だそうです。(すばらしいですね!)
そこで、お肉を使わない料理をたくさん覚えたいということで、「ブログ主さんは普段どんなものを食されていますか? おすすめのお料理や頻繁に作られるお料理などがあったら、教えていただけると助かります」とありました。

彼女によりますと、「アメリカ人は肉食が多く、野菜はつまらないものと思われている」のだそうです。
最近は、身体にやさしい日本食を見直しているアメリカ人も増えてきていると思っていたのですが、やはり「肉食の危険性」を真に知っている人がまだまだ少ないということですね。


★ 光の仕事人の食事 ★

わたしは1日に2食で、昼(12時頃)と夜(8時頃)が食事の時間です。
昼は、ニンジンとリンゴの汁をしぼった新鮮な手作りジュースを飲み、パンと野菜サラダかポテトサラダを食し、食後にコーヒーを飲んでいます。

人参ジュースを飲むのは、身体の免疫力を高めるためです。(ニンジンには抗酸化成分が豊富に含まれています)
コーヒーを飲むのは、飲まないと眠くなり、ほとんど眠っているようなことになるからです。(笑)
紅茶のほうがカフェインは多いようですが、たとえ無農薬であっても、紅茶はわたしの身体には合わない(胃の調子が悪くなる)ので飲みません。

最近は白米にもちきびや黒米を入れたご飯がおいしいので、昼もご飯を食べることが多くなりました。
味噌汁と野菜サラダ、あとは根菜類を使った料理が多いです。じつに質素な食事ですね。


★ 味噌汁がおススメ ★


味噌汁は日本では代表的なものですね。
味噌は加工された調味料ですが、特有のタンパク質を豊富に持つ、栄養価の高い優れた食品です。
味噌汁があると、ご飯がとてもおいしく食べられますね。

味噌の効能として、ガンの予防、コレステロールの抑制、脳卒中の予防、老化の予防、消化の促進、整腸作用、疲労回復、脳の新陳代謝の促進、また美肌効果もあるようです。

味噌汁に入れる具として、季節の根菜類、たとえば今頃であれば、ナスやサツマイモ、カボチャ、ジャガイモなどがおいしいです。
具が煮えたら、最後に適量の味噌とネギを入れ、すぐに火を止めます。
味噌はその独特の風味が特徴です。熱を加えると風味が落ちてしまいます。
ですから、できるだけ食べる直前に入れ、煮立てないように気をつけてくださいね。

大根と人参とあげを入れるのもいいですね。
だし汁のなかの大根と人参が煮えたら、あげを入れますが、そのときに酒粕(さけかす)をやわらかくして味噌とブレンドしたものを溶かすと、なかなかいける粕汁となります。(短冊切りにしたこんにゃくを入れるとよい)
細切れにした鶏肉を少量入れると、味がぐっとよくなります。(あくまでも、だしになる程度に)
最後に細ネギを細かく切って散らします。

野菜がない時には、味噌汁に「ふ」や「豆腐」を入れています。
ハワイでは日本の味噌が手に入るのでしょうか?
豆腐やふのような製品は、売られているのでしょうか?


★ ナスの料理 ★

夏から秋にかけて、夜の食事でもっとも多いのは、ナスを使った料理です。
ここでは、だれでもすぐにできるものをご紹介しましょう。

★ナスを適当な大きさに切り、オリーブ油(お好みの油でよい)でしんなりするまでいため、だし醤油とみりんと酒を調合してふりかけ、しばらく煮ます。
最後にかつおぶしをふりかけて出来上がりです。
とても簡単ですね。(笑)


★ てんぷら料理 ★


ふたりの娘たちがどうしてもわたしには適わないと言うのが、野菜の「てんぷら料理」です。
レンコン、ニンジン、ゴボウ、サツマイモ、カボチャ、ナス、ピーマン、青ジソなど、何でもカラっと軽く揚げることが美味しさのコツです。

★てんぷらは、野菜や野草など、その季節の旬のものを食べることができます。
天然エビなどを加えると、彩りよく取り合わせることができ、もっとも楽しい料理のひとつとなります。
ただ、てんぷらは油が大量に必要となり、残るともったいないので、最近は油が少量ですむよう工夫をしています。

★そこで衣なのですが、小麦粉や卵を使わず、片栗粉を使います。
洗った根菜は、ぬれたままで片栗粉をまぶすと、ちょうどいい感じに粉がつきますから、油が跳ねる心配もありません。
お好みの根菜を切って片栗粉をつけ、フライパンにちょっと多めに油をひいて(具の半分くらいが油に浸かる程度でよい)焦げないように弱火でゆっくりと気長に焼くだけです。

特にカボチャは甘くなっておいしいですし、レンコンなどはカリカリになって触感がいいです。
ピーマンもいいですね。天つゆをつくって、そこに浸すとさらにおいしさが増しますよ~。

★天つゆの割合★

ただの目安です。自分の好みに合わせてつくってください。
だし汁(昆布、しいたけ)4に対して、醤油1、みりん1
(どうしてもだし汁をとれないときは、市販の薄口だしじょうゆを使います)

★薬味★
 

大根おろし(1人分50グラム)ショウガおろし


生野菜の場合は、季節によって収穫がないときがあるので、食べるものがなくて困ることがあるのですが、ハワイではいつもどんな野菜があるのでしょうか? 
同じ野菜でも、ハワイと日本では味がちがうと聞きますが、実際のところどうなんでしょうね。
(ちなみにオーストラリアの生野菜は最悪でしたね。トマトをはじめ、果物などもまったく味がなくて、非常にがっかりした記憶があります)

家にいるだけの人は、野菜だけでも十分ですが、肉体労働をしている人は、それだけでは物足りないかもしれません。
そんなときは、鶏のもも肉を縦に薄く切ったものに片栗粉をまぶし、先ほどのようにフライパンに少し多い目の油を入れてこんがりと焼くと、とても美味な一品となります。これは家族全員が認める一品です。
(もも肉は薄く切るほどカリっとなります。天つゆもつくってくださいね)

ごく普通の料理なのですが、何か参考になりましたでしょうか?



★ 光の仕事人おススメの書籍とは? ★



先ほどのハワイの彼女から「ブログ主さんのおススメの本を特集していただけると嬉しいです」とありました。
このようなご要望は、じつは以前にもあったのです。
しかし、各人の意識レベルによって本の内容が異なってくるため、一概に「これがおススメです」とは言い難いところがあり、ご要望に沿えなかったことがありました。 
文学系や心理学系ならまだしも、スピリチュアル系の本は、おススメができにくいのです。

たとえ皆さんに「これがおススメです」と言って、わたしの好きな本を紹介したとしても、Aさんにはすばらしく感動する内容であっても、Bさんには理解しがたい内容であったりすることがありますよということです。
食べ物と同じですね。
Aさんにはおいしいと感じられても、Bさんにはまずいと感じられることがあるということです。


次女がスピリチュアル系の本を読みたいと言い出し、わたしの書棚を見渡して「おススメの本はどれ?」と訊いたときも、その都度どんな本が今彼女に必要であるかを、本人の守護霊やわたしのハイアーセルフに尋ねて与えておりました。
そうでないと、いくらわたしが良い本だと思っても、周波数が合わないために「全くハートに入って来ない」という現象が生じるからです。そして、実際にそれは生じました。
いろんな本に挑戦してみて、次女は「自分に合わない本がある」ということをしっかり体験したと思います。

★ブログなども同様ですね。
同じ記事でも、感動する人としない人が、必ずいるのです。
「だれもが感動して、ためになった」という記事は、無いのではないでしょうか?

このブログを読んで、「タイムリーに答えが得られる」という人は、わたしとある程度波長が似通っている、あるいは、各人の守護霊の導きや働きがあるからだと思います。

わたしは、このブログの内容を必要としている人が、このブログを見つけて訪問されるように、いつも守護の神霊たちにお願いをしているのですが、彼らが光のネットワーク上で探し出して、連れてきてくれていることがわかります。
そうでないと、そうそうタイムリーな話題に出会えるわけがないのです。
ですから、いつも「守護霊さんには感謝してください」と申し上げているのです。
守護霊さんは守護霊さん同士のネットワークで結ばれているのです。(守護神も同様)
ですから、わたしの守護神たちの顔が広いほど活躍していただけるということです。

記事内容が、あまりにもそのときの「自分の問題」や「知りたかったこと」に的中していたりすると、「これ、わたしのこと?」とか、「わたしのことを指摘されているんだ!」とか思い込む人がけっこうおられるのです。笑)
でも、わたしがいちいちその人の波動を読んで、その人のことを思い浮かべて書いているわけではないのです。
今そのことが、多くの人に共通している問題点だと感じられるからこそ、自然にそんな文章になるのです。
それを読んだ人たちが同じ言葉に刺激されるというのは、そこに共感するものがあったり、問題点があったりするからにほかなりません。当たり前のことなんですが。(笑)
個々と全体はイコールであり、つながっているということですね。

ということで、人の意識レベルが千差万別なため、安易におススメができないのです。
ほんとうに適切な本をおススメするのであれば、「今その人に必要とされているものは何なのか?」を十分に知った上で紹介する必要があるということです。

それで、たとえば「私は今このような心の状態で、毎日このような意識で暮らしています。私はこんなことに興味をもっていて、こんなことを知りたいと思っています。私に今必要で、私に合うレベルの本があれば、教えてくれませんか?」というご相談であれば、個人的にお教えできるかもしれません。
また、「ブログ主さんが好きな本は何ですか?」とか、「役に立った本は何ですか?」というご質問になら、お答えすることはできると思いますよ。

ネット検索でアマゾンなどを覘いてみられるのが一番よいでしょう。
そこで、興味深く惹かれる内容があれば、購入して読んでみることです。
悪書でも良書でも、とにかく読んでみることです。
両方読んで初めて、自分にとって悪書か良書か、あるいは自分に合っているか合っていないかがわかるのです。
とにかく本好きならば、さまざまなものをたくさん読むことですね。けっしてケチらないことですよ。


★ 読者のみなさまへ お知らせ ★


 ~不要な本をオークションに出しています~



こちらは、未読品が多いので、全くおススメのしようもない(笑)のですが、とりあえず「お知らせ」だけしておこうと思います。

今まで書棚で眠っていた本のうち、不要なものや未読のままでもう読まないであろうと思われる書籍を、2011年の6月頃から少しずつ長女に依頼してヤフーオークションに出してきました。
メールのやりとりから発送まで、すべて長女にお任せ状態です。

未読品につきましては、当初は「ぜひ読んでみたい」と思って購入したのですが、その後気が進まず、書棚に入れたまま忘れられていたものです。
時間が経ってしまったため、もう現在は読まなくてもよい内容です。

わたしにとって不要なものであっても、もしかしたら必要のある方がいらっしゃるかもしれません。
未読品のなかには、経年のため、表紙にわずかな支障が生じているものもありますが、ほとんどの場合、アマゾンや書店で購入したときのままなので、中身は使用感なく、状態が新品同様のものなど、掘り出しものもあるかと思います。

只今オークションに出ておりますスピリチュアル系の本の数冊(未読品)を、ご参考までに載せておきます。
よろしければ、Yahoo!オークションでご覧になってください。
(落札されていた場合は、ご了承くださいね)
出品者は、ramanoousamaです。(出品管理・責任者は長女となっております)
 

書籍1
オークションに出品した本  撮影 光の仕事人


~オークション情報(一部)~


*美品 ★「真 地球の歴史 波動の法則Ⅱ★足立育郎★ 宇宙 メッセージ
*未読 ★エンジェル・セラピー 天使の癒し★ドリーン・バーチュー
*エンジェル・ストーリー★ダイアナ・クーパー★ 天使 癒し 宇宙
*未読 OSHO★内なる宇宙の発見「和尚・講話録」★呼吸・夢の超越・やすらぎ
*帯付き美品 ☆エンジェル・ナンバー ☆ 数字は天使のメッセージ
*未読 ダスカロス★エソテリック・ティーチング★ キリスト 智恵 秘儀

「未読美品 ★神霊主義 心霊科学からスピリチュアリズムへ★ 浅野 和三郎」
は、ウォッチリストに多数入っていて、大人気だったようなので、記事にも掲載しようと思っていたのですが、即決価格で先ほど落札されました。



~追伸~ 

ここに掲載した書籍は『内なる宇宙の発見「和尚・講話録」』を除き、完売しております。 
大切に保管していた精神世界系のテープ、CDなど、皆さんにも聴いていただきたいと考え、今後順次出品する予定です。 2012年6月更新



本3
  オークションに出品した本  撮影 光の仕事人


ハート
これから深まりゆく秋に向けて、
おいしいものを食べて、好きな本を読んで、
静かな充実した時間を過ごしたいですね。

自分ひとりだけの時間。
これが、わたしの人生でもっとも贅沢な瞬間です。



未来は決定していない―未来は変えられる!

2011年09月19日 19:40


先週の火曜日に、入院していた父が退院し、自宅療養をすることになったため、京都の実家へ手伝いに戻っており、昨夜自宅に戻ってきました。
今回父の様子を見て感じたことがあるのですが、もしかしたら病気などで死を前にして生きている方々の参考になるかもしれないと思ったので、今回は「臨床にある人の心の持ち方」について考察してみたいと思います。


★ 父の決意 ★



★父は高齢者に多く見られる脳腫瘍でした。
突然意識不明となり、本人が気づいたときには病院のなかで、すでに数日が経っていたといいます。
父はこれまでに胃ガンや心臓病といった重い病気を体験してきた人であり、また、どの病気もみごとに克服してきた人でした。
しかし、今回はこの病気が最後の病気となるだろうとハイアーセルフから知らされていました。
よって、わざわざ頭を切り開くというような手術をしたりしないで、そのまま自然に亡くなってもいいのではないかと思っていたのです。
それは父自身が生まれる前に決めてきていることであり、手術をしてたとえ成功したとしても、そんなに長くは生きられないというメッセージがあったからでした。

しかし、わたしには何の相談もなく、すでに手術をすることは決まっていたのです。
父と共に生活を共にしている弟(長男)としては、「もう数週間くらいの生命だ」と医者から言われたら、手術に同意するしかなかったと後で言っておりました。

手術前に家族全員で見舞いに行ったのですが、父は耳がかなり遠くなっており、大きな声で話さないと、聞こえないようでした。
また、言いたいことがほとんどうまく伝えられない障害もありました。

担当医を呼んで病状を尋ね、手術についての話を聞いたのですが、わたしが弟とは全く異なった見解を述べたために、その若い医師は動揺し、混乱してしまったようでした。
とにかく家族の意向を統一してほしいということや実際に手術をすることになる担当主任の話もぜひ聞いてもらいたいと懇願されるので、「では聞きましょう」と言ったのですが、結局その主任の時間がどうしても空かなかったため、聞く機会は得られませんでした。

ともかく大切なのは、父本人がどうしたいかという意思(意志)のみだと思っていましたので、わたしにとっては主任のお話を聞いてもさほど意味はなく、ちょうど時間が取れなくて幸いだったのですが。(笑)
そのとき、若い担当医は手術後に起こりうるありったけの症状について一生懸命述べているのが印象的でした。

何か問題が生じたら、突っ込まれるとでも思ったのでしょう。
一緒に聞いていた長女は、あまりにも自己保身のための言い訳をしている医師を見て、心の中で笑っていたといいます。
正直なお医者さんだと、わたしはかえって好感が持てましたが。(笑)

ともかく手術をするかしないかは、家族が決めるのではなく、本人が決めることなので、本人にしっかりと確認をとりたいとお願いし、その後別室で父と話をしました。
案の定、父は医師や弟から大切なことは何も聞かされていませんでした。
ただ、「手術をしなければいけない」ということで、同意をしていただけです。

わたしは父に、老齢の上、心臓病を患ったことがあるため、心臓に負担がかかり、手術中に亡くなる可能性があることや、手術後にいろんな障害が出る(言語障害・手足のマヒなど)可能性などについて話し、それでも手術を受けたいかどうかを尋ねました。

父の返答は、あくまでも「手術をしたい」ということでした。
たとえ車椅子の生活になったとしても、それでもよいと言うのです。
「生きたい」という気持ちがつよく感じられました。
その父の意向を、わたしは担当医に伝えました。予後の放射線治療や化学療法は絶対にしないようにという希望だけを付加して。

帰り際に父の手を取り、握手をしながら、「がんばってね」と言ったら、涙目で「うん」と頷いておりました。


わたしは父が必ず家に戻ってくるということをハイアーセルフから聞いて知っていましたので、さほど心配することもなく、その日に家族とともに自宅に帰りました。
そして、手術前後の数日間、父の第7チャクラのプラーナの補充に努めたのです。

★脳腫瘍があると、実際に頭頂にある第7チャクラのプラーナの量が不足しているのがよくわかります。
父の場合、最初は0%に近かったのですが、毎日100%になるまで補充をしているうちに安定するようになり、手術の前日には100%を保持できるようになりました。
この目には見えないプラーナの補充の効果は、かなり大きかったのではないかと思っています。


★ 波動が堕ちると、守護霊は離れる ★



★ここで、守護霊と病気についての関わりをお話ししておきましょう。
父の場合もそうでしたが、患者の容態が大変悪いときには、たいていその人には守護霊がいない状態です。
つまり、守護が必要な時に限って守護されていないということなのです。
その人の波動が堕ちているために、ついていられなくなるのでしょう。

わたしの知人がガンの手術を受けようとしていたときも、彼女の守護霊は交代してしまっており、結果的に役立たずの守護霊になっていることを知ったことがありました。
以前の守護霊は本人同様に、なかなかの「がんばりやさん」だったのですが、交代したために彼女自身もがんばる力、生きる力が失せてしまったようで、結局ひどく意識が低下した状態で亡くなってしまいました。

その人の意識状態に見合った守護霊がつく」というのは、まちがいありませんから、皆さんもすばらしい守護霊に見放されないように日夜意識を高めることが大切ですね。
参考過去記事 本人の意識レベルに応じて交代する守護の神霊

父の守護霊が離れていることを知ったわたしは、その守護霊を呼び戻し、再度守護するようお願いをしました。
その後はずっといてくれているようですが。

★手術後20日目に、ハイアーセルフが伝えていた通り、父は退院しました。
しかも、絶好調の状態で家に戻ってきたのです。
放射線治療は、行なうとたいてい痴呆症になるので、行なわないということでした。痴呆症になって寝たきりになって長生きするよりも、短くとも余生を楽しんだほうがよいという判断を、弟も医師もしたのだと思われます。

退院後わたしが実家に滞在中の期間、少々耳は遠いですが、父は以前と同じように話をし、とても元気でした。
少し足に力がないようでしたが、二階の自分の部屋でちゃんと寝ており、階段の上り下りもさほどの苦労もなくでき、大好きな犬の散歩にまで出かけられるようになっていました。
あまりにも状態が良好なので、弟も驚いていました。

医師の話では、再発する恐れがあり、予断を許さないということだったようですが、本人は生きる気満々です。
愛犬が死ぬまでは「絶対に死なない」と言うのです。
ちなみに愛犬は今7歳です。
犬は一般的には15年くらい生きると言われているので、まだまだ死ねないということになりますね。
これからどこまで生きるのか、それは本人しだいです。
たとえ生まれる前にいつ死ぬかを決めてきていたとしても、今の本人意識が未来を変えるのです。
父の「生きる力」に応援し、どこまで生き延びていかれるか、楽しみです。


★本人の意識しだいで、アガスティアの葉も変容する★



アガスティアの葉」というのをご存じでしょうか?

アガスティア」というのは太古に生きていた聖者の名前で、「アガスティアの葉」というのは南インドに伝わる葉っぱのことです。

太古の昔、聖者アガスティアがこの世の人々の未来を予言し、それをパルメーラの葉に書き取ったものだそうで、一人一人の葉は指紋で識別できるようになっており、葉にはその人の一生について細かく書かれていると伝えられています。

アガスティアの予言に対して、不信感を抱く人たちも多いようです。
実際にいろんな内情を知った人たち、たとえば「アガスティアの葉」の検索代行サービスをしていた人が、自分たちがサービスを提供していた葉がニセモノではないかとして、現在はサービスを止めているとか…怪しさ満点の葉っぱです。(笑)

この「アガスティアの葉」ですが、怪しいか怪しくないかは別として、その葉っぱが与える情報に対して、人がどのような反応を示すかということに大きな意義があるのです。
これは、他のさまざまな占いも同様です。

たとえば、あなたがインドに行って、あなたの名前が書かれた「アガスティアの葉」を見つけてもらったとします。
そして、そこに「1年後に死ぬ」ということが書かれていたとします。
その情報に対して、あなたがどんな反応を示すか、それがあなたにとっての霊的な学びとなるのです。

あなたが「1年後に死ぬ」という情報を知って動揺し、もし恐ろしくなったり、無気力になったりして、何も手につかない状態になったとします。
そうしたら、そのメッセージ通り、あなたは1年後に死んでしまうでしょう。


★でも、あなたはその状況を変えることができるのです。
では、どうするのか…。

たとえば、あなたは動揺しながらも自分を深く見つめ、どうすればよいかの答えを見いだそうとします。
そして、自分が不安で心配しているときには、自分は「今の瞬間を生きていないのだ」という自覚に至ります。
そして、「そうだ!今の瞬間瞬間を楽しく生きてみよう!」という決断を下すとします。
そうすると、劇的な変化が起こってくるのです。
あなたは突如生き生きとして、幸せを見い出すようになります。

あなたはインドに再度行き、アガスティアの葉っぱをもう一度読み返します。
そうすると、アガスティアの葉っぱに書かれていた情報は、一体どうなっていると思いますか?
そうです。内容が変わってしまっているのです。


★覚えておいてください。
あなたが自分の意識を変えることで、時間と空間にこのような影響を与えることができるのだということを。

もし、あなたが「精いっぱい今を生きるんだ!」という決断を下さなければ、未来に起こり得る可能性、つまり「1年後に死ぬ」ということがそのまま実現してしまうのです。
でも、あなたが意識を変えるという行動を起こせば、未来を変えることができるのです。

今の自分を今の瞬間に変えることは、だれにでもできます。
あなたの意志さえあれば!!


参考過去記事 変化するのはペルソナではなくあなたの意識


ですから、「アガスティアの葉」に限らず、さまざま占いというものは、その情報をどのように生かして使うかということが大切なのです。
それがネガティブな情報だったからと言って、気落ちして無気力になってしまったら、それはそのままネガティブな情報となってしまいます。
だから、どんな情報であっても、自分の人生をよりよくするために、また、自分をよりパワフルにポジティブな方向に向かわせるために使うことです。
そうすれば、その情報は自分自身の傾向や可能性を教えてくれる素晴らしい「道しるべ」となるのです。

わたしがおこなっていた「数秘リーディング」は、その人の受け取り方、使い方によっては、非常に有益な情報となるということですね。
特に自己探究には最適な情報源となります。

とにかく情報というのは、それに対してどんな反応をとるかによって、その価値が決まってくるということですね。
すべては、あなたしだいです!



ハート
地球の終焉を迎える情報が現在飛びかっています。
いろんな情報があなたを不安にさせ、恐怖感を抱かせているかもしれません。

しかし、未来は決定してはいないのです。
あなたの意識しだいでいくらでも変わります。

自分はけっして最悪の状況を選ばない。
最高の状況のみ選ぶのだと、決断することです。
そうすれば、他の人々がたとえ最悪の状況に置かれたとしても、
あなたの未来は明るく、ポジティブな状況が得られるでしょう。

未来は変えられます。
アガスティアの葉が変わり得るように。




「闘う心」を忘れた日本人―自尊心のために闘う精神を持とう!

2011年09月22日 19:35



最近、報道陣に対して「放射性物質がうつった」などという趣旨の発言をした大臣が辞任されましたね。
皆さんは「船橋に避難してきた福島の被災児童が『放射能がうつる』と言っていじめられた」というニュースがあったのを覚えておられるでしょうか? 
同じような内容が、また今月になってから新聞記事に掲載されていました。
大きな問題として取り上げられているにも関わらず、同じことが繰り返されているのは、根本的なところがまったく変わっていないからですね。
下記は、4月15日の「時事通信社」による記事です。


「放射能うつる」といじめ=福島から避難の小学生に―千葉 

 福島第1原発事故を受け、福島県から千葉県船橋市に避難した小学生の兄弟が「放射線がうつる」といじめられたという訴えが市教育委員会にあったことが15日、分かった。
 市教委は同日までに、避難者の不安な気持ちを考え言動に注意し、思いやりを持って被災者の児童生徒に接するよう指導を求める通達を市立小中学校に出した。
 市教委によると、福島県南相馬市から避難し、3月中旬に船橋市の公園で遊んでいた小学生の兄弟が、地元の子どもに「どこから来たの」と話しかけられた。兄弟が「福島」と答えると地元の子どもは「放射線がうつる」と言い、数人が一斉に逃げ出したという。
 兄弟の親は今月予定していた同市の小学校への転入学を諦め、家族で福島市へ避難した。 


わたしは、これがいわゆる「いじめ」に当たるのかどうか、少々疑問が残るのです。
なぜかと言いますと、この福島から来た兄弟は「いじめられた」と思っているかもしれませんが、「放射線がうつる」と言って逃げた子どもたちは、その兄弟を「いじめた」とは思っていないんじゃないかと思うからです。

結果的に大変「思いやりのない行為」となったことは確かです。
しかし、最初から「いじめよう」と思って言った言葉や行動というよりも、とっさに出た自衛としての言動であったのではないかと感じるのです。
千葉県船橋市の子どもたちも、「放射線」の恐ろしさをマスコミや大人から聞いていて、不安な毎日を過ごしていたわけで、放射線が真に恐かったのではないかと思うのです。

彼らは自己を守ることだけに集中しています。相手を「思いやる言葉」などはきっと親から教えられていなかったのでしょう。
いつ自分たちも被爆するかわからない状況にあるとき、逃げるという行為は自然に生まれた方法であったと考えることもできるということです。
もちろん、「放射線について無知であった」ことは否めませんが。

そのあと、「船橋市民は恥を知れ」とか、「最低な親」とかいう批難コメントがあったようなのですが、そんなふうに船橋市民を批難している人たちも「同じ穴のむじな」であることに気づいてほしいと思います。
自分自身をはじめ、日本のだれもが、いまや放射線の被害者になっているんだ」ということを念頭に置く必要があると思うからです。

今、福島物産、お土産など、進んで買おうという試みが流行っているようですが、逆に福島産のコメや野菜を食べることを避けている人たちも多いのではないでしょうか。
放射線の心配がないものであっても、買うのなら別の産地のものを選びたい。そんな気持ちは、正直言ってだれにでもあるのではないでしょうか。それを風評被害だと言って、福島の人たちは怒っています。

しかし、これまでに検査もろくにせずにいい加減なことをして肉牛を市場に出したりしていたから、「国民の信用を失った」という部分もあるのです。
福島の人たちも、「より安全な商品を消費者の皆さまにお届けしたい」という愛の精神とそれに向けての努力が欠けていたのだと感じますね。
(頭の中は消費者のことよりも、経済の問題があり、自己保身の気持ちがなかったとは言えません)

さて、あなたはどのように感じられるでしょうか?

ここでわたしが感じたことは、「いじめた」とされたほうも、「いじめられた」とされたほうも、同じ被害者なのだということです。
みんな自分の命が大切なのです。それが今わたしたちが特に優先していることなんですね。
原発事故を起こした東電への非難も相当あるようですが、東電の人たちだって被曝して亡くなっているのです。彼らだって、被害者なのです。

福島から移転してきた兄弟の話に戻りますが、正しい知識をきちんと持っていれば、「放射線がうつる」と言って逃げた子どもたちに対して、「うつらないよ!」と断固として反論することもできただろうと思うのです。
ですから、正確な情報や知識は不可欠なのです。
(しかし、国民は正確な情報を政府から聞かされてはいないのが実情です。真相はうやむやにされていますね)

結局その兄弟は家族で福島に戻ってしまったわけですが、逃げずにもっと闘ってほしかったと思います。そして、お互いに理解しあってほしかったですね。福島原発事故による同じ被害者として。
そうすれば、今何をすることが最も必要なのかどこに矛先を向けるべきなのかが、もっと明確なかたちとなって見えてきたのではないかと思います。



★これは蛇足ですが、
今朝「国際環境NGOグリーンピース」 より、オンライン署名「2012年、すべての原発を停止してください」を行っていますというメールが届いておりました。

皆さんの願いとはうらはらに、野田首相は本日9月22日にニューヨークで開催される国連の『原子力安全と核の安全保障に関するハイレベル会合』で『安全でより信頼性の高い原子力エネルギーの確保は引き続き必要だ』と直ちに『脱原発依存』へ移行しない立場を明確にする演説を行うと報道されています
と記されていました。
せっかく菅首相のときに「脱原発」に向かっていたのに、がっかりです。

「署名締め切りまであと1週間。たくさんの方の声としてこのシナリオを政府に届けるため、1人でも多くの方のご参加をお願いいたします」ということですので、参加したい方のためにURLを載せておきたいと思います。

http://www.greenpeace.org/japan/2012/?gv20110922


★ いじめられないためにはどうすればよいのか? ★



自分とは相いれない異質のものを嫌って執拗に攻撃するといった深刻な「いじめ」は、昔からどこの国にもありました。
だいたい神代の昔からいじめはあったのです。
神自体が自分とは異質の神をいじめていたのですから、人間同士にいじめが生じても当たり前のことではないかと思うのです。

この「いじめ」に関しての見解は千差万別です。
「いじめられるほうに問題がある」と言う人、「どうであれ、いじめるほうが断然悪い」と言う人、「いじめられるほうにも問題はあるが、いじめるのは悪い」という人、さまざまです。

「いじめ」に関する書籍もたくさん出版されています。
わたしの場合は、次女が小学生から中学生のときにいじめに遭い、不登校を決め込んだときに購入して読んだ本が多数あります。
「いじめ」に関してのそれぞれの著者の見解を知りたかったからであり、同じように「いじめ」で悩んでいる子どもたちのために役立つようにと、いろんな人の本を買いそろえていたのです。
いろんな人の著書を読むことは、自分の思考を広めるのに役立つのではないかと思います。
(「いじめ関係」の本は、今後オークションにも数冊出品しますので、関心のある方はぜひご覧になってください)


★霊的な観点からすれば、「いじめ」はどっちもどっち、おあいこだと言えるでしょう。
原因があって結果が生まれる。過去生からの因縁も多々あるのです。
ひとりを大勢でいじめるような場合は、あまりにも相手のオーラが強すぎて、ひとりでは太刀打ちできないから集団でいじめるということもあるようです。(次女の場合はそうでした)

イエス・キリストが磔になったのは、同じユダヤ人から妬(ねた)まれたからです。
いじめを受けている人は、「もしかして、わたしあの人に妬まれている?」と思ってみることですね。
嫉妬や羨望は「いじめ」の大きな要因のひとつとなっています。 

★「原因と結果の法則」からすると、何の文句のつけようもないのです。
お互いに生まれてくる前に約束してやっていることもあるのだから、それはそれで「尊い学び」なんじゃないの? と思います。
個人的ないじめの場合は、ほんとうは第三者が立ち入ることなんて、できないのかもしれません。
どんな事象も深い意味があって起こっていることなのですから。

しかし、だからと言って、暴力や暴言に黙って耐えなければならないかということですが、そんな必要はありません。
理不尽ないじめに対しては、断固として抵抗すればよいのです。
いじめられて自殺していった子どもたちは多数います。
自殺をする勇気があるのなら、なぜ死ぬつもりで抵抗しなかったのでしょうか? 
死ぬつもりでケンカをすることもできたはずです。

ケンカをするには、「自分は悪くない」、「私は正しい」という自覚が必要です。
そして、相手にたいして「こんちくしょう!」、「もう我慢ならない!」、「おまえの思い通りになんかなるもんか!」と思わなければできません。
つまり、自分自身に対して罪悪感がなく、誇り(自尊心)がないと、ケンカにはならないのです。


現代の日本人は「平和主義者」が多いですね。
「怒る」、「ケンカをする」、あるいは「闘う」ということに対して、何かしら抵抗を感じているような気がするのです。
非常に消極的なんですね。「怒る」のはよくない。「ケンカ」はよくない。「闘い」はよくない。
それで、自分さえ我慢したらすむことだと思っているようです。
右の頬を殴られたら左の頬を、上着を盗られたら下着を差し出せ」という教えを忠実に守るクリスチャンみたいな人たちです。
だけど、それに耐えられなくなると、死を選ぶわけですね。

しかし、世界中に存在する真に熱心なクリスチャンですら、そのような平和主義の精神を実践するようなことはしていないのです。
自分たちを脅かす異教徒と戦った十字軍や大王などは、クリスチャンたちから称賛されてきました。
そして、当のイエス自体が「闘う」ことをけっして否定してはいないのです。

イエスは言っています。

人々は、私が世界に平和をもたらすためにやってきたと思っているかもしれない。
彼らは、私が地上に分裂を、火を、剣を、戦いをもたらすために来たことは知らない。

(「トマスによる福音書」16より  マタイ10-34~ ルカ12-51~参照)
 

(参考過去記事 自分自身を征服すること―天国に入るための必要条件


★ 自尊心のために闘う精神を持とう! ★



★この世の中には、大きくわけて2つのタイプが存在します。
まずどのようないじめ、迫害があっても抵抗しない、闘わないという「平和至上主義」の人たちです。
そして、もうひとつは「闘うことは尊いこと」だとして、闘いながら自らの生命や主義を守ろうとする人たちです。

このうち、いじめで自殺した人たちは「平和至上主義」の人たちと言えるでしょう。
もちろん、この平和は外側だけの見せかけの平和であるわけです。
迫害者に対して何の抵抗もしないので、相手を増長させるだけですね。

わたしから見ると、こういう「平和主義者」は善人と言うよりも、「偽善者」という感じがします。
たとえ迫害を受けた側に何の非がなかったとしても、その迫害者に抵抗もせず、言いなりになっていること自体が罪です。悪を止めることができないだけでなく、悪の片棒を担がされることにもなりかねません。
相手に好き放題やらせっぱなしでは、その人は一生奴隷となって生きるしかないのです。

正しい者はやはり強くなければならないと思いますね。
どちらを選ぼうと選択の自由はありますが、わたしなら、まちがったことに対しては断固として抵抗するほうを選びます。
妥協などはしたくありません。自分の信念を貫きます。
それで負けたとしても本望ですね。わたし自身の尊厳は守られたままですから。

★日本の「武士道」には「自尊心のために闘う」という精神が宿っていました。
相手に「おくれをとらない」ということ、いつも行動の上において優位に立つということです。
他者に勝つ」ということは、「自分自身に勝つ」ことによってはじめて可能であるということが前提にあります。
自己に克つこと」が「おくれをとらないこと」の必要条件だということです。
つまり、「生命に執着し、臆病なふるまいをすることを最大の恥」だというのが、当時のサムライの根底にあったわけです。
ですから、「金を出せ」とか、「金を盗んで持ってこい」などという強迫に恐れをなして、その通りにすることなどは最大の恥だということです。それなら、死にもの狂いで抵抗せよということですね。



ベンジャミン・ディズレリーというイギリスの政治家がいました。
保守党指導者として1867年第二次選挙法改正を実現し、68年と74年に首相となり、ビクトリア朝の帝国主義的外交を推進したという人です。
この人はユダヤ人であったのですが、自分がいじめにあったときに親に頼んでボクシングを習い、十分自信がついたときにいじめっ子の大将とケンカをして打ちのめしたのだそうです。それでいじめられなくなりました。
この「いじめられてなるものか!」という気概が、保守的な時代のイギリスにおいて、彼を首相まで前進させたのです。


追記: だからと言って、けっして暴力をススメているわけではないことぐらい皆さんおわかりですよね?
むやみにコントロールされたり、殺されたりしないために正当な防衛は必要だということです。
世界の情勢を観てください。現在あまりにも無防備で死んでいく人たちが多いのがわかりますね。
地上で自由に生きる権利を守るためには、自らが立ちあがる必要があると言っているのです。
この辺りをカン違いしないでくださいね。



ハート
「闘う心」を忘れた現代の日本人。
どうか「いじめを許さない」、「いじめられない精神」を培っていただきたいと願います。

「みんな仲良く調和してやりましょう。ノ―サイドで」なんて言う総理大臣となって、
政党でも「闘うこと」を尊ばなくなってしまいましたね。

政党内でもめているのは確かに見苦しいけれども、妥協だけはしないでもらいたいと願います。
お互いに相手とは異なる見解を理解し、反対勢力との調和を目指していくことと、
自分の真実に背いて妥協することとは、まったく別のことですから。



「闘う心」を忘れた日本人―平和ボケからの脱出

2011年09月24日 17:25



前回の記事に対して、つぎのような感想をいただきましたので、ここに掲載させていただきます。
ご自分の子ども時代の「いじめられ体験」を記しておられますが、当時の彼女にはまるでなかったであろう力強さを、今ここに感じました。
「人はほんとうに変わるんだ」ということを実感できたコメントでした。


~ 読者さんからのご感想 ~
 


 いつも深い見識に富む素晴らしい記事を読ませてくださりありがとうございます。
 毎回の記事を読むたび、考えさせられることが山ほどあるのですが、今回はなおいっそう心に響くものがありました。

 今回は『「闘う心」を忘れた日本人―自尊心のために闘う精神を持とう!』のテーマの下、千葉県で起きた福島の被災児童への「いじめ」を巡る問題点を鋭く抉り、根本的なところにある問題が何なのかをきちんと整理して書いてくださったのでとてもわかりやすかったです。
 福島から避難してきた児童に対し、「放射能がうつる」といって逃げ出した子どもたちの行為が「いじめ」に当たるものかどうか、私も疑問に感じていました。確かに思いやりに欠ける行為だったとはいえるでしょうが、放射能に関して無知であるがゆえの、恐怖に駆られた反射的行動だったのではないかと思われたからです。
 もしそうであるならば、私も光の仕事人さまと同じように考えます。いじめられたから逃げるのではなく、子どもも親も社会もきちんと問題に向き合い、話し合いを通してお互いを理解していく方向性を選べば、誰にとっても前向きになれる学びの機会になったのではないかな、と。
 ここで考えますに、今の日本では、この「きちんと問題に向き合う」ことができない人が多くなっているのではないでしょうか。「問題に向き合う」ためには、あいての意見を素直に聞くことはもちろんですが、自分が思うところを率直に語ることも必要です。本音を分かり合えた時点で真の相互理解が生まれるからです。時には話が折り合わず、口論になることだってあるでしょう。でもそれは理解に至る前に超えなければいけない過程に過ぎません。これが議論です。
 しかし、今の日本人の多くはこの議論を好みません。人との摩擦が生じるのを回避したいがために自分の意見を押し殺す人がどれだけいることか。また、そういう「事なかれ主義」が「平和主義」なのだと勘違いしている人がどれだけいることか。そんな世間の風潮が自分の意見すらいえず唯々諾々と「いじめ」を受難している子どもたち、そしてそのまま育ってしまって自己を見失しなった大人を生み出しているのです。
 これは、形だけの平等教育の中で、人に対して怒ったり闘ったりしてはいけないと教え込まれた結果なのかもしれません。
 「いじめる側」と「いじめられる側」。双方の言い分があって起こる「いじめ」の問題については第3者が介入できない魂的理由があるようにも思います。ただ一つだけハッキリといえることは、「いじめられる側」の人々は自分の意見を伝える勇気とスキルに乏しいということ。
 これは、私自身が小学生の頃、二年間に渡って凄まじい「いじめ」にあい、自殺を考えない日はなかった経験があるからこそいえることかもしれません。
 当時の私は心身ともに弱くて何かに立ち向かう勇気もなく、ただただいじめられっぱなしだったと思います。親も教師もそんな私を庇い、慰めてはくれましたが、誰一人として「勇気を持って立ち向かえ」といってくれた人はいなかったのです。「いじめる側」が心を入れ替えてくれれば問題は解決するのだと思い込んでいた私に向かい、誰でもいいから「あなたが変わらないと何も変わらないんだよ」と教えてくれたら、私のあの長く苦しい時間はなかったのではないかと今でもよく思い出します。
 それこそ、「自尊心を守るために闘う精神」が、当時の私にとって何より大切だったのではなかったかと思いますね。そしてまずは弱いと思い込んでいる「自己に克つ」ことが必要だったのではないでしょうか。
 「いじめる側」にとっても、「集団で人をいじめることの恥」を教える人があれば、彼らにとってもいい学びになったと思います。今になって思うと、「いじめる側」にあった彼らは、思えば私にとても大切なことを教えてくれた人たちです。
 今の心境に至れるようになって、彼らに感謝できますし、もっと色んなことを話し合えていたら友人になれたかもしれないな、とも思えてきます。

 まとまりのない文章になってしまいましたが、自尊心のために闘う精神を持つことはこれからの日本人にとって重要なポイントになってくることだと思いました。これからの日本人には、もっと自分の中の正義をきちんと主張していってもらいたいですものね。
 このたびも深く考えさせる記事を書いてくださり、心より感謝申し上げます。本当にありがとうございました。



☆「自尊心のために闘う精神を持つことはこれからの日本人にとって重要なポイントになってくることだと思いました。これからの日本人には、もっと自分の中の正義をきちんと主張していってもらいたいですものね」と書いてくださっていましたね。
現在の日本人の欠点をよく理解されていて、大変うれしく思いました。
記事内容に力強いご賛同をいただき、誠にありがとうございました。


★ 今どきの子どもたち ★



わたしは前回の記事で、福島の兄弟が受けた「いじめ」について取り上げましたが、「いじめ」のもっとも最悪な事件としては、1994年に起きた大河内清輝君の死について語るのが適切ではないかと思います。
随分前の事件ですが、このようないじめは後を絶たないので、再度思い出していただくためにここに記したいと思います。


94/12/02 東京夕刊 社会面

せびられ、せびられ…100万円 いじめ苦の中2が自殺/愛知・西尾
 

 愛知県西尾市、会社員大河内祥晴さん(49)の二男で同市立東部中二年の清輝君(13)が、同級生らからいじめられたうえ、再三、金をせびられていたとの遺書を残して自殺していたことが、二日わかった。清輝君が渡していた金額は百万円を超えるとみられる。西尾署ではいじめた生徒から近く事情を聞くことにしている。同校によると、いじめていたのは同学年の男子十人近くで、同署ではこのうち金を要求したのは同級生四人とみている。

 調べによると、先月二十七日夜、清輝君の姿が見えないため母親(45)が捜したところ、自宅裏庭のカキの木で首をつって死んでいるのを見つけた。
 遺書は一日の葬儀後、自室の机の引き出しの中で見つかった。リポート用紙四枚にびっしり書かれた遺書には、昨秋から金を要求されるようになり、二年になってからは、休み前になると、三―六万円を度々要求され、出せないと殴られたり、けられたりしたと、記されていた。さらに近くの川に顔を突っ込まれるなどのいじめについても現場の図付きで書かれていた。

 遺書は「お金もぜんぜんないのに、たくさん出せといわれます。おばあちゃんからもらった千円も、トコヤ代も全(すべ)てかれらにとられたのです。とてもつらかった。なぜ、もっと早く死ななかったかというと、家族の人が優しく接してくれたからです。御迷惑をかけて、すみません」など、切々とつづられていた。
 家の金を黙ってとるのに気が引けてか、母親あての「借用書」もあった。「平成六年八月」の日付で、金額は「百十四万二百円」。消しゴムで何度も消しては、書き換えた跡があり、金を要求される度に応じていたらしい。また、「このお金は何年かかるか分からないけど必ず返します」と書かれていた。
 同中では、いじめに加わったと思われる生徒から事情を聞き、いじめがあったことを確認しているという。


★下記は清輝君の遺書のほんの一部分です。

小学校6年生ぐらいからすこしだけいじめられ始めて、中1になったらハードになってお金を取られるようになった。中2になったら、もっとはげしくなって、休みの前にはいつも多いときで6万少ないときでも3万~4万、このごろでも4万。そして17日にも4万ようきゅうされました。だから・・・・・。
でも、僕がことわっていればこんなことには、ならなかったんだよね。スミマせん。
もっと生きたかったけど・・・・。 

(関心のある方は清輝君の遺書の全文をお読みください)http://yabusaka.moo.jp/okouchiisyo.htm


真相を知れば知るほどひどい「いじめ」なのですが、清輝君は「僕がことわっていればこんなことには、ならなかったんだよね」と言っています。
では、「金を盗んでこい」という要求に抵抗できなかったのは、なぜなのでしょうか?

かつて日本の精神科医、精神分析家で東京大学名誉教授、聖路加国際病院診療顧問であった(故)土居 健郎(どい たけお)氏が、清輝君に関してつぎのように語っておられる文面がありましたので、つぎに記しておきます。

一つには、「言うことを聞かない」という抵抗、あるいは「盗むという悪事を働かない」と言って戦う選択肢を、清輝君が持っていなかったのではないか、と思われる節があります。
清輝君は善悪の観念は持っていましたが、「悪に抵抗しなくてはいけない」「悪とは戦わなければならない」という強い信念まではなかったのではないでしょうか。多分、誰もそれを教えてくれなかったのでしょう。(中略)
悪いことをしているという意識が、彼には確かにありました。しかし、自分の力でその悪から脱出できず、そういう事態に身を置いたときに、自分の口から「助けてくれ」と誰かに言うことが彼にはできませんでした。抵抗するよりも易しいはずの「助けを求める」ことも、彼はしなかったのです。
そこにはいろいろな問題が絡んでいますが、一つには現代の自立を重んじる教育がもたらす影響が大きいのではないでしょうか。自立を人間の基本と考えていて、自分で解決できないことを人に頼むわけにはいかない、と子どもながらに思っていたのかもしれません。


これに対して、土居氏の対談相手の渡部昇一氏は、
清輝君のことを見ていると戦後の日本の姿がオーバーラップして浮かんできます。平和主義で非武装中立、絶対に抵抗してはいけない。世界からいじめられたら、それでもけっこう、すべて私が悪いんですと言って、謝罪するだけ。それで国民からはいくらでも税金を持ち出すとなると、まったく(清輝君と)同じであるように思います
と語っておられます。

★渡部氏のお話は、的をついていると思いますね。
土居氏も言っておられましたが、清輝君は戦後の日本人の代表的な子どもだと言えます。
戦後の教育と道徳が、彼のような子どもをたくさんつくったのです。
おとなの男性たちもアメリカの3S政策なんかにまんまとひっかかって、情けないくらい骨なし人間にされてしまいましたね。今や精神も肉体も軟弱極まりないです。
要するに日本は「平和ボケ」にするための他国の政策に、自ら乗ったと言えるでしょう。

(*3S政策とは、大衆の関心を政治に向けさせないように取る愚民政策のひとつ。3Sとは、Screen(スクリーン)、Sport(スポーツ)、Sex(セックス)の頭文字を取ったとされる)

尖閣諸島中国漁船衝突事件などを筆頭に、中国にいろんな嫌がらせや苛めを受けても、日本の政治家はそれを阻止することができません。
漁船衝突事件の場合、アメリカのある一言で、中国が日本への嫌がらせを止めたそうですが、やはりアメリカの方が断然「力」があるからですね。
日本は「戦争放棄」をしたと言っても、「寄らば斬るぞ」の強い自衛の構えがなければ、簡単に乗っ取られてしまいます。
スイスは永世中立国ですが、強大な軍事力を保有していますね。それがなければ、どんなにカッコイイことを言っていても、すぐに侵略されてしまいます。

(*永世中立国とは、将来もし他国間で戦争が起こってもその戦争の圏外に立つことを意味するものであり、自国は中立の立場である事を宣言し、他国がその中立を保障・承認している国家のこと)


★ 備えあれば、憂いなし ★



★「備えあれば、憂いなし」ということです。
この地球上で平和を保つためには、ものすごい努力が必要だということなんです。
「ぼくは暴力反対です。平和主義おおいにけっこうです」なんて言っているような男性は、目の前で家族が殺されかかっていても、何もせずに黙って見ているか、あるいは自分だけさっさと逃げるのがオチですね。

清輝君に見られるような一見「平和主義者」であるかのような子どもたちは、結局精神的にも肉体的にも傷つき、地獄のような毎日を送って、ついには死んでいったわけですから、非常に可哀そうです。
まちがった「形ばかりの平和主義」の被害者と言ってもよいでしょう。

だいたい「二元性の世界」で生きているわたしたちに真の「平和」というものはありっこないのです。
二元性の世界」というのは、他の星にもあって、どちらに偏っても失敗するということを、過去記事で繰り返しお話ししていますね。
ポジティブに偏ってもネガティブに偏っても、問題は生じるということ。
バランスが大切なのだということです。

今は人類の意識がネガティブに偏りすぎているので、できるだけポジティブを強調しているわけですが、だからと言って、プレアデスの教訓のように、ポジティブ志向ばかりがよいのではありません。その点をきちんと深く理解してくださいネ。

(参考過去記事 わたしたちの生の目的は両極を学び、体験し、統合すること ―プレアデスの教訓を生かそう)

この地球は、「善も悪も同じコインの裏表であり、ひとつなんだ」ということが理解できていない世界です。
理解ができていたなら、もっと早くにアセンションが完了していますよ。(笑)

わたしたちはこの両極の世界の中で、「支配者(迫害者)側」と「従属者(被害者)側」の役割を演じながら、その体験からいろんなことを学んでいるのです。オリオンのように。



OSHOはつぎのように言っています。

服従は奴隷の世界では最高の価値がある。
どの教育システムも、どの社会、文化も、
服従を価値あることとして主張してきた。

そして、あなたがたに言うが、
全人類を不幸にしてしまったのはこの服従なのだ。
この危機の全体は服従ゆえのものだ。
人々は何に服従し、何に服従しないかを選ぶことができるように、
知性的でいる用意ができているべきだ。




ハート
あなたは両親の言うことを聞き、学校の先生の言うことを聞き、
あるいは信仰する聖職者の言うことを聞くように教えられてきました。

しかし、あなたは一度も「自らのハートに耳を傾けなさい」と
教えられたことがなかったのではないでしょうか?

教育は大切です。
あなたの大切な子どもたちに、まず「自らのハートに耳を傾けること」を
教えてあげてください。
そして、自らの尊厳のために、魂を他に売り渡すことなく、
力強く立ちあがる勇気を、
ぜひ教えてあげてほしいと思います。



真実を隠蔽する人たち―なぜ真実を語らないのか? なぜ真実を語ってはいけないのか?  

2011年09月26日 18:20


★ 福島の子どもたちがかわいそう ★



皆さんは、作家の室井佑月さんが、NHK朝の情報番組『あさイチ』の生放送(5月26日)で、「子供たちに福島の野菜を給食で食べさせるなんてかわいそう」と発言し、世間の論議を引き起こしたという出来事をご存じのことと思います。

記事には、「福島県内の放射能について『政府、東京電力の発表よりも危険な状態のはず』と信じる視聴者は室井さんの発言に賛同し、風評被害に苦しむ県内の農家を案じる人々は、室井発言に真っ向から反発した」ということが書かれています。その室井さんの動画はNHKの著作権侵害の申し立てにより、今や見られなくなってしまいました。
下記は、J-CASTにあった記事です。


~室井佑月、武田邦彦、孫正義の疑問 「福島県産を給食に使うべきでない」~
2011/5/28 14:35

福島県内の小中学校が、地産地消として県産の牛乳などを給食に使い続けていることに対し、著名人から異論が相次いでいる。これに対し、地元自治体では、ごく微量の放射性物質検出のものに留めており、弁当を持参することも認めている、などと理解を求めている。

(*地産地消(ちさん ちしょう)は、費の略語で、地域で生産された様々な生産物や資源(主に農産物や水産物)をその地域で消費すること)

福島の学校ってね、給食で地産地消って福島のものを子どもたちに食べさせるって言っているの

作家の室井佑月さん(41)が、いきなりこう切り出した。NHKで2011年5月26日に生放送された情報番組「あさイチ」での発言だ。室井さんはさらに、周りの様子を伺いながら、「おかしいと思わない?」と強い疑問を投げかけた。

福島県などでは、県産が風評被害を受けているとして、その防止を訴えている。それだけに、この発言は、ネット上でも論議になっている。
室井さんが、どこからの情報を元に発言したのかははっきりしない。とはいえ、ネット上ではこれまで、著名人らから学校給食に福島県産などを使うことへの異論が次々に出ていた。

テレビ出演でも知られる武田邦彦中部大教授は、4月にブログで、福島を中心にした学校が地産地消の食材を使っていることを批判。食品安全などに使われる国の暫定規制値の100分の1の考え方に基づき、福島県産などはそれ以上の食材が多いとして、給食に出すべきではないと主張している。
そして、孫正義ソフトバンク社長は、ツイッターで5月18日、武田教授の発言を元に、「給食か弁当の選択の自由を提供していないとすれば大問題」と断じた。福島県産などに出荷制限要請が出ている食材が多く、放射能に敏感な子どもたちに無害だとは証明できないのではないかというのだ。孫氏は、放射性物質について、体内に入ると内部被曝になるため、数値が低いγ線ばかりでなく、α、β線も測定すべきだともしている。
福島県の小中学校では、どのぐらい地産地消の食材を使っているのか。

放射性物質不検出の食材を優先、弁当も可

いわき市では現在、給食の牛乳に県産の原乳を使っており、2011年6月からは地元の野菜などを使った給食を始めることを明らかにした。
市教委が4月に県産原乳を使うことを父母に説明したとき、一部からかなり強い反対が出た。その後、武田邦彦教授のブログ発言があり、その影響も出たとして、市教委では、対応に苦慮している様子だ。
それでも、県産原乳を使い続ける理由について、保健体育課では、県が週に1回公表しているサンプリング調査の結果で、これまでに放射性物質が「不検出」であったことを挙げる。また、県が製造業者と供給契約をしており、原乳の調達ルートを変えられないことや、出荷停止地域のものは使っていないことも理由にしている。
地元野菜など使用については、放射性物質が不検出のものを調達してほしいと学校給食センターに依頼しているという。ただ、父母には十分説明したうえで、ごく微量検出された野菜なども使いたいとしている。
県産を拒否する父母もいるが、給食の牛乳は飲まずに、家から持参することも認めていると明かした。給食は強制するものではなく、弁当持参についても認めるとしている。
福島県教委の学校生活健康課によると、事故の混乱でまだ調査していないものの、県内のほとんどの給食施設では何らかの形で地場産を使っているのではないかという。牛乳については、ほとんどが県産原乳だとしている。不安を訴える父母がいるのは事実としながらも、「流通している食材は安全だと説明している」と言っている。


★ なぜ真実を語ってはいけないのか? ★



あるブログに「真実を語ってはいけない、美談と笑顔でトモダチ 善人面の悪人が跋扈する」と題した文章が載せられておりました。
(前)経済産業大臣鉢呂氏が辞任に追い込まれたことに対し、ブログ管理人はつぎのように語っています。

 「死のまち」発言の何処が悪いのか、筆者には見当がつかない。住んでいる人が追い出され、野犬化したペットや牛馬すら居なくなった「まち」は正にゴーストタウンさながらだったに違いない。彼は事実を事実のまま言葉にしたに過ぎない。誰がそんな町や村を出現させたかが問題であり、視察の大臣が本当のことを発言して非難されるのは、お門違いと云うことだ。心ない発言と云うのは「もうすぐ帰れますから、頑張ってください」と、あり得ない嘘を笑顔で語る人々の事を指す。

 このような日本のマスメディアの報道姿勢、与野党の政治家を通して言える「美辞麗句」を多用する社会的風潮は、極めて危険なのだ。クリーンだ、透明だ。人に優しい、みんなで分かち合い、みんなで和やか、みんなで助けあい、みんなトモダチ…」。怪しいと思わないところがとても面白い。以前、保育園の花壇に咲くバラの棘を全部抜いて安全だと歓んだ母親らがいたと云う話を聞いたが、それが子供に優しい、と思うところが日本の欺瞞に満ちた隠ぺい体質を現している。
(ブログ「世相を斬る あいば達也」より一部抜粋)


日本の欺瞞に満ちた隠ぺい体質」という彼の言葉に賛同するのはわたしだけでなく、きっと多くいらっしゃるのではないでしょうか?

中国や北朝鮮、中東など、真実を隠ぺいし、国民に真実の情報を与えまいと画策し、真実を述べると逮捕されたり拘束されたりする国々は数多あります。
日本はそれでもまだ自由が認められておりますが、やはり都合の悪い内容は消去するなど、情報操作は行なわれています。
そんな政府の言うことを、真に受けないほうが賢明であるということくらい、皆さんおわかりになっているとは思いますが。

もし「真実を言うとパニックになるから」という理由で言わないのであるとするなら、まちがいなくパニックになるほどの真実が存在するということになります。
それなら、国民は「真実を聞いてもパニックにならない冷静さ」を持たなければいけないということですね。
政府が国民を不安と恐怖のどん底に落としたくない気持ちはわからないでもありませんが、隠せば隠すほど、さらに不安と恐れが強まっていくことには気づいていないようです。


★ 内部被ばくを隠す政府 ★



皆さんは、内部被ばくに詳しいとされる琉球大名誉教授の矢ヶ崎克馬氏が、5月17日福島県郡山市内で講演し、「原発事故の放射能汚染」について、政府が市民の不安を除くために「御用学者を通して安全を強調している」ことに対し、警鐘を鳴らしたという記事を読まれたことがあるでしょうか?
つまり、矢ヶ崎氏が政府の御用学者の安全論を打ち消したということです。

内部被ばくというのは、ご存じのとおり、空気、土壌のほこり、食物、水などから体内に入り込んだ放射性物質が、体内で放射線を出し続けて起きる健康被害のことです。
(広島・長崎の原爆投下やチェルノブイリ原発事故では、数年後以降にガンなどの病気にかかる例が続出している)

詳細は津田敏秀教授の「放射線による内部被ばくについて」をお読みください。
放射線に対する被ばくのうち、内部被ばくについての解りやすい説明が載せてあります。

放射線による内部被ばくについて
http://smc-japan.org/?p=1310

内部被曝とはなんですか? - YouTube

http://www.youtube.com/watch?v=HtItndZ5NBA 



琉球大名誉教授の矢ヶ崎氏は、自らの調査や国の発表データをもとに「県内の広範囲で、チェルノブイリ原発事故の際に日本へやって来た量をはるかに上回る放射性物質が降り注いでいる」と説明し、「県民の健康を守るために、国や県は被ばくの軽減対策を早く取るべき」と述べたと伝えられています。

当時、政府は放射線汚染について「直ちに健康影響はない」として、県内の児童生徒の被ばく許容量を事故前に定めていた一般人レベルから20倍の年間20ミリシーベルト(msv)に引き上げていますが、「直ちに健康影響はない」というだけで、「晩発障害の危険はある」ということはまちがいないでしょう。

矢ヶ崎氏は、「県民自ら可能な限り被ばくから身を守る」ことや、「国や県、事故を起こした東京電力に対して、放射線軽減の徹底を求めて健康被害の補償制度をつくらせる運動を始めること」を促されたようです。
その講演会で、市民からの質問に対して、矢ヶ崎氏が答えた内容を記しておきます。


★ 矢ヶ崎教授のQ&A ★

 

Q 市民が取れる放射線防護は?

A マスクはすべきだが、放射性物質のほこりはスギ花粉の10分の1以下の大きさしかない。野菜は根から放射性物質が吸い上げられてない限り、流水やため水でよく洗い、ゆでると効果的。ただ、こうした対策は完全ではなく「まし」と考えて。

Q 晩発障害は必ず起こる?

A 起こる。特に放射線の感受性が高い子どもや妊婦、若者、感染症患者が心配だ。環境が整っているのであれば避難を勧めたい。一方で、子孫のために土地に残って頑張ろうとしている人も多い。外に出る人を許して、残る人は防護を尽くすことが大切だ。

Q どこまで避難すれば安全?

A できるだけ離れた方がベターだが、計算では放射性物質は原発の上空100メートルから毎秒4メートルの風で1,500キロ以上も飛ぶ。日本中が汚染されたとみた方がいい。

Q ガイガーカウンター(放射線測定器)で内部被ばく計れる?

A 不可能だ。「ホールボディカウンター」で計るが、それでもガンマ線に限られ、実際の10分の1程度しか分からない。

Q 原発50キロ離れた田んぼからプルトニウムが検出されたという民間の調査結果が出たが?

A 3号機の核燃料に含まれており、十分あり得る。恐ろしいことだが、チェルノブイリのように急激な核分裂が起きたとは思えない。量は少ないのでは。

Q 放射性ヨウ素は半減期が8日なのに、なぜ内部被ばくを起こす?

A 毎日体内に入り続けてしまうことが危険。「8日だから安全」とか「ホウレン草を1年分食べても大丈夫」という話は野蛮だ。

Q 学校や保育園の活動の危険性を自治体に訴えても「国が安全と言っている」と聞いてくれない。

A 役人は決められた通りにしか動けない。決めているところにみんなで声を上げていくことが一番だ。

Q 市民の手で汚染土壌の除去作業をしている。子どもをつくる人は参加させない方が良いか?

A 原爆症認定訴訟のように裁判になることも予想される。責任問題になるので、本来その仕事をすべき国、自治体、東京電力に除去させるよう徹底的に求めていくべきだ。

(Asahi.com WEBRONZA 「Bloggers Today 」より引用)



★ある番組の企画で、スタジオに並んだ福島の野菜を前にして元プロ野球選手の長嶋一茂氏が言ったそうです。
俺は食べない。安全かどうかはっきりわからないものをカメラの前で食べて視聴者に安全だというメッセージを送りたくない。これを食べて本当に農家のためになりますか?
そんな発言したという情報が飛び交っていますが、こんなふうに堂々と本音が言える人たちを、わたしは応援します。

★反原発を表明して、文部科学省前に集い、子供たちへの被曝量制限基準値引き上げ撤回を要求するデモを行った俳優の山本太郎さんが降板させられたことも聞きますが、なぜ芸能人が反原発運動をしたらいけないのでしょうね?
憲法で「思想・良心の自由」、「言論の自由」を掲げているはずの日本。
そのあり方に、「?」がたくさんつきませんか?


★前回にもご紹介しましたが、「国際環境NGOグリーンピース」主催の「2012年、すべての原発を停止してください」の署名締め切りが9月30日までです。
よろしければ、下記にアクセスし、動画の下方にある「レポート」をダウンロードして読んでみてください。
http://www.greenpeace.org/japan/2012/?gv20110922

自然エネルギー革命シナリオ -- 2012年、すべての原発停止で日本がよみがえる』は、2012年春までに、日本国内のすべての原子力発電所の稼働停止を想定し、原発にも化石燃料にも頼らない未来へのエネルギー政策を提案するレポートです。
読んでみられる価値はあると思いますよ。



ハート
「5次元世界」は、真実を隠すことができない領域です。
「あなたウソを言ってるわね」とすぐにわかってしまうのです。
テレパシーの世界です。
すべてお見通し、思ったそのままが伝わってしまいます。

ですから、「この世にいるときから本音で語りましょう」ということを
過去記事「自分自身でいること」や「本音で話すことの大切さ」などで、
繰り返してお伝えしているのです。 

自分自身の尊厳を無視して、あなたが上っ面だけ善人であろうとすればするほど、
内側には多くのシャドーが蓄積していくのです。

人に批難されることを恐れないで、自分の真実を語ること。
これができなければ、つぎの段階の世界で生きることは難しいでしょう。

今から練習してください。
むずかしいことなんてありません。
正直な自分の気持ちを表現すること。
本音で語ることを。 

(但し、これは本音(自分の真実)をなかなか言えない人へのメッセージです。
言いたいことをずけずけと言うこと(他者に対する誹謗中傷など)を助長しているのではありません。
当然のことながら、自分の真実に対して常に責任を持つことが前提です)






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