豊かさを得るために―意識のスペースを広げよう!

2011年08月04日 11:55


★あなたの「意識のスペース」は十分にありますか?★



これまでの記事をお読みくださっている人は、何度も繰り返してお伝えしてきていることなので、耳にタコができている(笑)ことと思いますが、わたしたちの意識というのは、社会(親や教師やおとなたち)から条件付けをされた状態で、いろいろな恐れや観念でがんじがらめになっています。

他者よりも、少しは意識が広いと思っているかもしれない、あなた。
でも、そこに何か要らない物がいっぱい詰まってはいませんか?
必要としていないものばかりが、ぎっしりと詰まっているのなら、たとえ意識が広いと思っていても、それは何の意味もないのです。堪忍袋と同じですね。
(過去記事 カルマの「断捨離」を実行しよう!―「堪忍袋を殻にする」参照)

あなたは、何か新しいものを創ろうとするとき、あるいは、新しいことをするとき、疲れてしまったりしませんか?
まず新しいものを取り入れるということは、これまでよりも意識のスペースを広げなければならないし、(周囲の批判と言ったような)新たな障害を乗り越えていかなければなりません。

自分の意識を狭めてしまって(思いを制限してしまって)、どこにも移動ができない状態となっている人、四方八方厚い壁で覆われた狭い部屋に閉じこもっているような状態の人もいるでしょう。
この壁は、さまざまな観念や恐れによって作られていて、それがあるために自由に動くことができないでいるわけです。

★このスペースというのは、「拡大した意識の状態」を言っています。
理想的な状態というのは、その人の周りに、何も入っていないたくさんのスペース(空間)があることです。
スペースがたくさんあると、新しい経験があなたのところにたくさんやってくることができます。
しかし、不必要なものがごちゃごちゃに詰まっている場合は、新しい経験を自分のところに持ってきて、自分のものとすることは難しいのです。


★では、どうしたら、スペースを広げていくことができるのでしょうか?

賢明なあなたなら、もうおわかりですよね。

あなたのなかにある不必要なゴミを取り除くこと。
精神の断捨離を実行するということです。
 

皆さんは、一時的にスペースを広げることはできるでしょう。
でも、結局自分の観念や恐れを変えないので、またすぐにそのスペースは狭くなり、縮小されてしまうのです。
ゴミを捨て去って、一旦スペースを作り出せたなら、そのスペースにまた何か不必要な物を溜め込まないことが肝要です。
そのスペースは、常に空いた状態にしておくことが必要なのです。


スペースを創り出す能力は、豊かさを創る能力と比例する」ということを覚えておいてください。


★あなたが今どのような状態にあるのか、どこにブロックがあるか、自分で確かめることができる瞑想があるので、今回はそれをお伝えしようと思います。
これは、リサ・ロイヤル氏が1994年に東京でおこなわれたセミナーの際に使用された瞑想のひとつで、わたしはときどき思い出してはこのエクササイズをやっています。(楽しいですよ)
すばらしいエクササイズだと思いますので、ぜひお試しください。

では、瞑想に入りましょう。


★ 意識のスペースを広げるための瞑想 ★



☆リラックスして、何回か深呼吸をし、目を閉じます。
金色にかがやく白い光で、あなたの身体がつつまれているのをイメージしてください。
(さらに深呼吸をつづけます)
身体がどんどんリラックスしていくのを感じてください。

☆あなたをとり囲んでいる白い光が、四角い箱のかたちになっていくのを感じてください。
あなたのまわりに4つの壁と天井と床があるのを感じます。
(この4つの壁と天井と床が、あなたにとって、自然なかたちで形成されていきます)
あなたは、この箱のなかにいて、宇宙空間のなかを漂い始めます。

☆この箱のなかで、まず左側の壁を見てください。
そこに手を当ててください。
あなたのハートから、グリーンの光線(ハートのチャクラの色)が出てきます。
その光線が左の壁に当たります。
光線とともに、左側の壁を手で押すと、その壁が宇宙空間に向かって広がっていきます。

その壁が広がっていくにつれて、あなたは安らぎと広がりを感じていきます。

☆今度は右側にある壁を見てください。
その壁に手を触れて、ハートからグリーンの光線を送ってください。
その壁を思いっきり宇宙空間に押し広げてください。

その壁が広がっていくにつれて、あなたは安らぎと広がりを感じていきます。

☆今度は後ろ側にある壁に向かってください。
その壁に手を当てて、ハートから出るグリーンの光線を同時に放射してください。
宇宙空間に向けて、思いっきり押し広げてください。
そして、宇宙空間を漂ってください。

壁が広がるにつれて、あなたは解放感に満たされ、広がりを感じます。

☆では、今度は目の前にある壁に向かってください。
その壁に手を当てて、ハートから出るグリーンの光線を同時に放射してください。
宇宙空間に向けて、思いっきり押し広げてください。
そして、宇宙空間を漂ってください。

壁が広がっていくにつれて、あなたは心の解放と広がりを感じます。

☆今度は頭の上にある壁に手を当ててください。
あなたの頭の上から紫色の光線を出して、その壁に放射してください。
この光線と両手を使って、それを宇宙空間に思いっきり押し広げてください。
それが遠くまで飛んでいくのを感じてください。

あなたは心の解放と広がりを感じます。

では、最後の壁です。それはあなたの足の下にあります。
1から3まで数を数えながら、足の筋肉を使って、この床を下に押し広げます。
(まだ数えませんよ)
足の裏から白い光線を出して、床に向かって放射します。
宇宙があなたをサポートしてくれると信じておこないます。
では、数えます。1、2、3!  
思いっきり床をけとばします。
(もし、壁が抵抗して動かないようであれば、さらに何度も試みます)

やがて、床も遠くへと飛んでいきます。
あなたは宇宙にサポートされた状態で、この時間と空間のスペースのなかに漂っています。
どこかにあなたを囲んでいた壁や天井があるのですが、今それは遠くに行ってしまい、見ることはできません。
あなたは安心感を得ることができるでしょう。


☆あなたのハートからたくさんのグリーンの光線が出るのを感じてください。
これは、あなたのハートから出て、まるでさなぎを囲むマユのようにあなたの身体をとり囲んでいきます。
このグリーンのさなぎがどんどん大きくなっていきます。
さらにそれが拡大されていくと、もうその境界線を見ることはできなくなります。
このグリーンの光は、電磁気を帯びた可能性のエネルギーです。
これが、今あなたの空間を満たしています。

これは可能性のエネルギーなのです。
これを使って、あなたは何でも創り出すことができます。

あなたが何でも創り出すことができる状態。それが豊かさです。
これが、あなたの存在のもっとも自然な、自由で制限のない状態です。
そして、完全に宇宙と結びついた状態です。


この感覚を楽しんでください。
この感覚を、あなたは自分の物理的な日常生活のなかに導入していくことができます。
そして、一旦この感覚を習得すると物理次元の生活のなかでそれを創り出すことがとても簡単になります。


☆さあ、あなたの意識をゆっくりと自分の部屋に戻しましょう。
この感覚をもったままで、意識を戻してください。
意識を戻していくとき、この物理次元のこの部屋も、グリーンのエネルギーで満たされていると感じてください。
エネルギーを自分から放射しているのを、感じてください。
まるで、そのなかに泳ぐことができる液体のような感じがします。

では、十分に意識を部屋に戻してください。
準備ができたら、目を開けてください。

★    ★    ★    ★    ★    ★    ★    ★    ★    ★ 
 

どうでしたか?
左の壁、右の壁、前後の壁、上下の壁、どの壁も簡単に押し広げることができたでしょうか?
それとも、どこかの壁が動きにくかったでしょうか?

左、右、前、後ろ、上、下、それぞれに意味が隠されています。
どの壁が広がらなかったか、動かなかったかで、あなたのブロックがどこにあるのか、それが何であるかを知ることができます。
潜在意識は今自分に何が起こっているかという情報やあなたのなかにどういうブロックがあるのかということを教えてくれるのです。

さて、あなたが押し広げられなかった壁はどれでしょうか?

瞑想を試みられた人は、よろしければ「アンケート」か「コメント」にて、ご自分の状態をご報告ください。
参考例として、取り上げたいと思いますので、ぜひ感想をお寄せください。
それぞれの方向に隠された意味については、まとめて次回にお答えをしたいと思います。
お楽しみに。


豊かさを得るために―自分の問題点を分析しよう!

2011年08月06日 08:35


皆さん、前回の「意識のスペースを広げるための瞑想」を実行されましたでしょうか?

更新した日に、早くも3名の方から結果報告が届きました。
大変貴重な報告なので、ここに掲載させていただくことに致しました。

まず、この方の報告です。

一回目は、一度では床が動かず2~3回挑戦しました。…帰りの電車を待っている時にブログを読みながらイメージをしてみました。リラックスというよりも、何も考えず(笑)、読みながらやったのですが、帰りの電車の中では「楽しい」気持ちになりました。
自宅に戻り、もう一度やってみました。二回目では、床がチョット重たい感じはありましたが一度で動きました。
終わった後は、心も身体も軽くなった気がします。…はたして、床は何のブロックなのでしょう?と、次に更新されるブログが待ち遠しいです♪


電車の中での瞑想は、時間をフル活用されていて、very goodですね。
手軽にできるのが、この瞑想のよいところです。

★この「床は何のブロックなのでしょう?」ということから、お答えしたいと思います。

床は足元にありますから、「大地」を表します。つまり、「地球」という意味ですね。
そして、「物理的(物質的)な現実」を表します。
この壁を遠く下方にけとばしてしまったら、足が床(地)につかなくなるのですから、とても恐いと感じる人がいるかもしれません。
下へ落ちていくかもしれないと感じた人は、おられなかったでしょうか?
「物理的な現実」がなくなってしまったら、自分をサポートしてくれるものが何もなくなってしまうと思い、恐怖を感じるわけですね。

床があまり動かなかった人は、何かを手放せないでいる、手放すのがむずかしいということ
まだまだ物質次元に執着があるということです。
大津波が来たら、何かにつかまって、助かりたいと思う人ですね。(笑)
宇宙に自分を明け渡すことができないでいる」状態が考えられます。
宇宙を信頼して、宇宙に自分を明け渡すことができないでいる人、大地、地球をけとばすことができないでいる人は、ジャンプ(5次元へのアセンション)はむずかしいでしょう。

★ジャーメイン(宇宙の集合意識)は、
『「豊かさ」ということには「信頼する」ということが深く結びついています。
ですから、豊かさを創り出すためには、何か執着していることがあったら、それを手放すということです。
そして、それを解放していくことがとても重要になってきます

と述べています。

このジャーメインの言葉は、わたしがこれまでに繰り返しお伝えしてきたことと全て重なっていますね。
ですから、あなたはもう十分に理解できていることと思います。


★つぎの方の報告です。

こういう瞑想は初めてです。少し練習が必要かもしれないと感じています。
前の壁、上の壁が動きにくいと感じました。下の壁は、2度トライしました。楽しかったです


まず、「前の壁」について、お話ししましょう。
自分の前にあるものと言えば、「未来」ですね。
前の壁」は「未来」、「将来」を表します。
この壁が動きにくいということは、将来起こることに対しての不安があるということです。
恐れもあるでしょう。
また、未来に行動を起こすということに対してプレッシャーがあり、気持ちの上でこだわりがあるということです。
「前の壁」が動きにくかった人、その点に心当たりはあるでしょうか?


★では、「上の壁・天井の壁」は、何でしょうか?

上にあるものと言えば、天上界ですね。
ですから、「上の壁」は「霊的な領域」を表します。
この「上の壁」を動かすのがむずかしい場合に考えられることは、「自分のスピリチュアル(霊的)な部分を受け容れることができない」ということ。
または、「自分のハイアーセルフ(高次の自己)をブロックしている」のではないかということです。
何度やっても、「天井の壁」が動かないときは、ハイアーセルフに対して抵抗していないかどうかを考えてみてください。


★ここで、「床の壁」、「天井の壁」、「前の壁」が出たので、「後ろの壁」についてお話ししましょう。

さて「後ろの壁」は、もう何かわかりますね。
あなたの後ろにあるもの。それは「過去」ですね。
あるいは「過去世」であるかもしれません。
この壁が動かしにくいということは、「過去を手放すことができていない」ということです。
「過去生」からの宿題(カルマ)をたくさん今生に持ち越してきて、まだ解消できていない人は、この「後ろの壁」が動かしにくいはずです。
長女は「後ろの壁」が動きにくいと言っておりましたが、この説明で非常に納得がいったようです。

これを克服することは重要で、「過去を手放すことができない」人にとっては、大きな課題となります。
「自分の意識のスペース」を広げて、「豊かさのスペース」を創り出すためには、自分の過去を手放す必要があるのです。



★残りの「左の壁」と「右の壁」についてですが、左は陰・女性性・女性エネルギーで、右は陽・男性性・男性エネルギーを表します。

女性エネルギーは「直観、受容、感情、愛、育み」などを表します。
男性エネルギーは「自信、表現、行動力、力強さ」などを表します。
これらについては、過去記事のさまざまな箇所で取り上げ、説明していますので、詳細は記事を再度お読みください。
(過去記事 「男性エネルギー」と「女性エネルギー」をバランスよく使おう! 参照)

「左側」がむずかしかった人は、女性エネルギーに対して、何か抵抗している部分があるということです。
同様に「右側」は男性エネルギーに対して何か抵抗している部分があるということです。
現実の中で、表現したり、行動したりするのが難しいということです。
男性エネルギーは実際に行動をして何かをもたらすということに直接結びついています。
豊かさを創り出すことに何らかの問題を感じている人は、「男性エネルギーの使い方に問題があるのではないか」と考えてみてください。


★瞑想の感想を送ってくださった方で、つぎのような状態だったという方がおられました。

さて、瞑想を試みてみましたところ、私の場合は次のようになりました。
なぜか、四方の壁が、ゴム状といいますか、ゲル状といいますか、
手で押すと凹むのですが、引くと元にもどるのです。
それでも、方向により、抵抗に差があって、前、右、左は、同じ位。
後ろは、それよりも軽い感じで、上下は重く感じました


このゴム状ゲル状の壁は、わたしの感覚では「つかみどころがない」といった感じです。
つまり、問題が何であるのか、固まっていないということです。
問題点が漠然としていて、見出せない状態なのかもしれません。

その点はいかがでしょうか?
これらの壁はどれくらい押し広げることができたのでしょうか?
もう少し、詳しく書いてくださるとよかったですね。


★他はとてもスムーズに飛ばせたのだけれど、「後ろの壁」だけに違和感があったという方もおられました。

ずっと遠い後方にあったはずの壁がいつの間にか近づいてきて、背中のすぐ後ろにあるような感じがするのです。手で押してみても光を放ってみても、一瞬は遠くまで押し広げられるのですが、ゴムでもついているかのようにまた戻ってきてしまいます。しょうがないからそのゴムを断ち切り、力づくで背後の壁を彼方へ投げ飛ばしました。かなりスッキリしましたよ」とありました。

ゴムでもついているかのようにまた戻ってきてしまいます」というのは、わたしもそのような感覚を味わったことがあるので、とてもよくわかります。
それが「後ろの壁」の場合は、「過去」にまだ何か解消されていないものがありますよというメッセージでしょう。カルマがまだ残っているということですね。
ですから、力づくで断ち切っても、過去のカルマが完全に浄化、消去されないと、またそういう感覚は繰り返されるのではないかと思います。


★次女にこの瞑想の実験をしてもらった結果ですが、「壁はすべて飛んだのだけれども、何かまだ壁があるような気がする」というものでした。
「壁はないはずなのに、あるような気がする」というのは、そのまま解釈するとわかります。
本当はないのに、あると思い込んでいるだけなんじゃない?」と言ったら、次女は「そうだ! それだ」と非常に腑に落ちたようでした。
つまり、「自分で勝手に問題があると思い込んでいるだけ」ということです。とても面白いですね。


★最後に、すばらしい体験をした方がおられました。

ひとつひとつの壁ではなく、なぜか全部の壁が一気にバーンッと遠くまで(見えないとこまで)飛んでいってしまいました!!!(汗)
空間に浮かぶ私を残して、なーんにもなくなったのですが、これは、一体・・・?!


その通り、その人の周りには、限りなくスペースがあるということです。
問題なしですね。すばらしい! おめでとうございます。
あなたの意識のスペースは限りなくありますよ」という潜在意識からのメッセージです。お祝いしましょう!

ということで、瞑想の実験結果を教えてくださった方々、ご協力ありがとうございました。

もし、今後この瞑想をして、どこかの壁が動かしにくいことが起こったときは、何度もこの瞑想をして、壁を押し広げることを繰り返してみてください。
あなた自身の新しい発想と創造的な方法で、その壁を押し広げる試みをしてください。

この瞑想法を教えてくれたジャーメインは「やればやるほど、潜在意識に対するメッセージになり、古いパターンを打開したいというメッセージになるということ。これをつづけてやっていくと、実際に壁を押し広げることに成功して、感情のレベルで解放感、安心感を得られる」と語っていました。

今自分の内側でどんなことが起こっているのか、それを自分自身で知るための瞑想。
真剣にやれば、あなたの潜在意識がいろんなことを伝えてくれていることに気づくでしょう。


Love

心は問いをもち上げる
だが問いばかりで
けっして答えない
そして、それは絶対に答えられないのだ
回答はマインドの手にあまる
マインドはそのようにできていない
それはマインドの機能ではないのだ
しかし、マインドは答えようとがんばる
そして、その結果が哲学というごたごたなのだ!

瞑想はけっして問いを問わない
しかし、それは答えてくれる
瞑想が答えなのだ
なぜなら、それは生だから
なぜなら、それは存在だから

           by OSHO



ハート 瞑想を試みましょう。



変化するのはペルソナではなくあなたの意識 

2011年08月08日 18:20


やる気のない地球人の集合意識を変えるために



前回の分析の結果はいかがでしたでしょうか?
「非常に納得できた」とすぐにメールで答えてくださった方は、今のところ2名です。
毎回感じていることですが、「打てば響く人」というのは、ほんとうに快いですね。
実験好きな人は前向きで、いつも冒険心と向上心にあふれています。
人生をポジティブな姿勢で臨む人にとっては、すべてが実験であり、体験学習であって、必ず有益な結果が得られています。

それがどんな結果であろうとも、自分が気に入ろうと気に入るまいと、起こることはすべて起こるべくして起こっていて、しかもそれは自分にとって正しく有益なことなのだと思えること。
失敗は成功の元。
ピンチをチャンスと捉え、発想の転換をすること。
これが、ポジティブな思考(意識)です。


しかし、世の中には、そんなポジティブな人ばかりが存在しているわけではありません。
ひっこみ思案なネガティブな人たちのほうが圧倒的に多いのです。
つまり、これは、未だに「地球人の集合意識」が、そちら(ネガティブ)のほうに傾いているという証拠です。
自己のアセンションに対する意識が薄く、真剣さがまるで足りません。

このブログを読み、「気づきのコース」まで申し込みながら、中途挫折というよりも、端から自己探究への気力が見られない人は、そんな「地球人の集合意識」のもっとも底辺に巣くっている魂といえるでしょう。

やる気のない地球人の集合意識を変えるためには、ひとりひとりがもっと自分自身に対して責任を持ち、真剣になる必要があります。

個々に古い自分が死んで新しい自分が生まれること。
ひとりひとりの意識が新生して、はじめて人類の集合意識も変化するのです。
始めるのはいつも自分からです。
それ以外にいったい誰から始めるというのでしょうか。
そのことに、ひとりでも多くの人が気づいてほしい。
そういう願いがあるからこそ、このブログの更新をつづけているのです。



★あなたは今、真剣に生きていますか?

残された時間というものの感覚は、人によってまちまちでしょう。
時間が以前より短くなったという感覚を持っている人は、意識が前進している証拠です。
あなたの意識が向上すればするほど、一日の時間が早く過ぎていくのが感じられるはずです。
人はみな自分の意識に応じた時間をもっているのです。
意識が広がれば広がるほど、時間は減少し、最終的には時間も空間もないゼロの状態になっていきます。
それが「永遠の今」という感覚なのです。


ハイビスカス1
8月の花 ハイビスカス アムール  撮影 光の仕事人



★ 「意識のジャンプ」とは? ★



これまでにアンケートフォームから送信された「取り上げてほしい内容」として、「アセンションについて」がもっとも多かったので、今回は「アセンションについて」の考察をさらに深めたいと思います。

2011年5月10日「アセンションとは内なる自己の大爆発」という記事を書きました。
そこに「自己探究の準備とは?」と「浄化とアセンション」について述べていたことを思い出してください。
(詳細は「アセンションとは内なる自己の大爆発」全文を参照)

以下は「浄化とアセンション」の箇所の抜粋です。

新しいものがやってくるためには、古い自分は死ななければならないのです。
芽という新しい生命が大地から生まれ出るためには、種は死ななくてはならないのです。
種の姿がすっかり消え去ったとき、突然それは芽に変容し、そして花ひらくのです。

古い自分を死なせる勇気のない人は、いつまで経ってもつぎの段階に進むことはできません。
「大きな変容は、徹底的に壊し、消滅しないと訪れない」ということを知ってください。


爆発とは、こっぱみじんになることです。
心(マインド)が炸裂することです。

過去との完全な決別です。
古いものが死に絶えて、新しいものが生まれるということです。

このふたつのあいだには何のつながりもありません。
もしそこにつながりがあったなら、それは爆発ではないのです。
過去がまだ少しでも残っていたら、それは爆発ではないのです。
爆発は一瞬のうちに全く過去とは別のものへと変身することなのですから。


自分の内側で爆発が起こり、まるでちがう次元になってしまったとき、
ものの見方がすっかり変わってしまったとき、
意識のジャンプが起こったとき、
「アセンションした」ということが言えるでしょう。
それは「成就」したのです。
 

★あなたは、この文の意味をほんとうに理解されているでしょうか?
今日は「意識のジャンプ」という意味を、ちがった角度から説明してみたいと思います。



★ 「意識のジャンプ」とは新しい自分を選ぶこと ★



わたしたちは皆、劇場で演じる役者さながらです。
「地球」という名の舞台で、仮面(ペルソナ)をかぶって定められた役を演じているのです。
ユングは人間の外的側面を「ペルソナ」と呼びましたが、元来は古典の劇(ギリシア劇)において、役者が用いた仮面(マスク)のことを指します。

日本では「能楽」というすばらしい演劇があります。
能では、必ずシテ(主人公)はお面をかぶります。


能面には、若い女性を表す「小面(こおもて)」や中年の女性を表す「深井(ふかい)」をはじめ、老女を表す「(うば)」や地獄に堕ちて苦しむ女性を表す「痩女(やせおんな)」、女神を表す「(ぞう)」、鬼女を表す「般若(はんにゃ)」など、女性の面だけでもたくさんの種類があります。
その他、武将、翁 、鬼、天狗、天神を表す面にも各種あり、全てを併せると、相当の数になります。

★たとえば、今あなたは「鬼女を表すお面」をかぶっているとします。

過去記事の「鉄輪(かなわ)の女」を思い出してください。
「嫉妬と恨みつらみで、がんじがらめになった女性」のお話でしたね。
「鉄輪の女」の場合は、般若になりきらない中途半端な表情をした「生成(なまなり)」と呼ばれる面を使うのです。それがまた何とも不気味で恐ろしいのですが。(笑)

たとえ本意でないにしても、あなたは今回のお芝居ではこのお面をつけることになり、とりあえずシナリオ通りに演じることになったわけです。
あなたは、最初のうちはその気になって、うまく演じていたのですが、そのうちしだいにこの役がひどく嫌になり、「もうたくさんだ!」と思うようになります。
「わたしにはこんな陰険な役は似合わない。これ以上つづけるのは心苦しすぎる。もうまっぴらごめんだ!」と気づいたとき、あなたはどうしますか?

そう、かぶっていたそのお面を外しますね。
外したままだと、つぎに進めないので、あなたがこれから演じたいお面を探します。
「やっぱり、元気溌剌とした無邪気で純真な若い女性がいいわ!」
そう決心したあなたは、早速「若い女を表す小面」を手に取り、かぶります。

そのとき、「ジャンプ!」が起こるのです。

小面をかぶった瞬間、あなたは「若い女」になっています。
あなたはずっと前から「若い女」の役を演じていました。
過去に「中年の女性だった」ことはありませんし、「嫉妬と恨みでがんじがらめになった女性」でもありませんでした。
そんな過去はまったく存在していないのです。
あなたには、純真無垢な少女の記憶しかありません。

★ところで、以前の「生成(なまなり)」のお面をつけたあなたはどこに行ってしまったのでしょうか?
爆発したから、こっぱみじんになって、すっかり消えてしまったのでしょうか? 

じつはあなたが取り外した「生成(なまなり)」のお面は、そのまま存在しているのです。
新しいお面につけ替えた後も、古いお面はまだ存在していて、そのまま一切何も変わってはいないのです。昔のままです。そして、これからもずっと存在しつづけます。


驚きましたか? 
ちょっとゾッとしたかもしれませんね。(笑)
「それって、どうなっているの?」と思われたでしょうか?

つまり、あなたが新しく「若い女」のお面をつけたとしても、古いお面はそこにそのままの状態で残っているということです。
生成(なまなり)」のお面が、若い女を表す「小面(こおもて)」に突然変異したわけではないのです。わかりますか?



★ 変化するのはペルソナではなくあなたの意識 ★



面が変化したのではなく、あなたが変化したのです。
あなたの意識は、かつては古いお面、つまり「生成(なまなり)」というお面を通して世の中を見ていました。
そのペルソナ(人格)を装って生きていたのです。

けれども、面の中身であるあなたの意識が変わり、あなたの波動が変わったとき、ようやく「煮ても焼いても食えない憐れな自分」に気づくのです。

「気づいたとき」というのは、もう「波動が変わっているとき」なのです。
周波数が変わったからこそ、今までかぶっていたお面を外すことができるのです。
周波数が変わらなければ、真の「気づき」は生まれません。


皆さんの「気づき」というのは、どちらかというと、「気づきもどき?」(笑)のようなものが多いのです。
なぜなら、あとでまた同じ問いを繰り返しているからです。
「あれっ? それって、もうとっくに気づいていたことじゃないの?」ということがけっこうあるんですね。
ほんとうに気づいた人というのは、けっして同じ過ちを繰り返すことはありません。
何か事が起こったとき、前と同じ反応を繰り返してしまう人は、ほかにもまだ気づくことがあるのではないかと思ってみることですね。 

★さて、「小面(こおもて)」をつけたとき、あなたの意識は新たに「若い女を表すお面」を通して世界を見ることになったということです。
生成(なまなり)」から「小面(こおもて)」へ、「古いあなた」から「新しいあなた」へとジャンプしたわけですね。

このふたつのあいだには何のつながりもありません。 
もしそこにつながりがあったなら、それは爆発ではないのです。
過去がまだ少しでも残っていたら、それは爆発ではないのです。
爆発は一瞬のうちに全く過去とは別のものへと変身することなのですから
」 
という過去記事の文面は、上記のような状態のことを言っているのです。


あなたが、お面をつけ替えただけなのです。
ですから、「生成(なまなり)」のお面は依然としてそこに存在するし、「小面(こおもて)」も、以前からそこに存在していたということなのです。

両方のお面が、同時に存在しているということですね。
「古い面をかぶったあなた」は「古い世界」で生きています。
「新しい面をかぶったあなた」は、「新しい世界」で生きています。
そこにいるあなたは、意識の異なる別人のあなたなのです。
パラレル・ワールドとは、そういうところです。

じつは、もっともっとたくさんのお面(次元)があって、あなたのお面の選択によって、演じるシナリオや劇場が異なってくるのです。
高次の意識になればなるほど、数多くのお面を通して、世界を見ることができるようになります。
恨みつらみの塊のような女性だったときのあなたも、純真無垢な乙女の心をもって生きているときのあなたも、数々の役者を演じている無数のあなたを同時に把握することができるのです。
それぞれの世界では、「別々に存在しているあなた」を、ひとつにまとめて「同じあなた」として見ることができるのです。


過去も未来もすべて同時に存在している」ということや、「全ての次元に自分自身が同時存在している」ということ、そして「変化するのはペルソナではなくあなたの意識」であるということが、この譬え話で少しはご理解いただけたでしょうか?


ハイビスカス2
ハイビスカス ゴールデンウィンドウ 撮影 光の仕事人


★ あなたの選ぶ世界とは? ★



アセンションというのは、これまで物理次元でつけていたお面を外すということです。
そして、新しい別の次元の光輝く透明なお面をつけるということです。

このまま壊滅状態に進んでいく地球に残ることを選択すれば、
あなたはその世界のお面をつけたままで、壊滅状態を味わうでしょう。

バランスのとれた平和に満ちた地球に進むことを選択すれば、
あなたはその世界のお面をつけて、その世界へと移行するでしょう。

地下の空洞地球へと避難したい人は、
空洞地球行きのお面をつけて、出発するでしょう。



ハート 未来に対してハートをひらき、いつもポジティブなイメージを抱いている人は、
けっしてネガティブな体験をすることはないでしょう。
あなたが希望と喜びに満ちたすがすがしい光のお面を手に取られることが、
あなたのアセンションなのです。



偽りを偽りと見抜き、真実を真実と見定めるために

2011年08月12日 06:11


★ ものごとの表面だけを見て判断しないこと ★



前回の記事「変化するのはペルソナではなくあなたの意識」のなかの「やる気のない地球人の集合意識を変えるために」に対して、下記のコメントを送ってこられた人がいました。

やる気なくないですよ。良い力を持っていらしてなぜそれがわからないかがぎゃくにふしぎです

この「やる気なくないですよ」というのは、いったい「だれ」のことを指しているのでしょうか? 
もしかして、「あなた」自身のことでしょうか?

やる気のない地球人の集合意識」というのは、当然のことながら「やる気がない地球人たち」の意識の集合を指しているのであって、その集合意識のなかには、「やる気がある地球人たち」は含まれていないと考えてください。
わたしが言っているのは、あくまでも「地球と調和し、ともにシフトしようとする気のない地球人」に対してです。

「やる気なくないですよ」とは「やる気がありますよ」ということですよね?

もし「あなた」の言うように、地球人が皆「やる気」を持って、自分自身を深く探究し、日夜自己の浄化に勤(いそ)しんでいるのなら、地球は今現在のような状態には決してなっていないでしょう。そう断言できます。
でも、あなたもご存じのとおり、現状は非常にお粗末で情けないことになっていますね。

★未だに日本の原発は止まらず、その原発を海外(ヨルダン、ベトナム、リトアニア、トルコ)にまで輸出しています。
「菅政府は8月5日、当面は海外への原発輸出を継続するとともに、すでに合意文書に署名しているヨルダン、ベトナムなど4カ国との原子力協力協定に向けた国会承認を求める方針を閣議決定した」ということは、すでにご存じのことでしょう。

福島の原発事故の惨事を知っていながらも、原発を続けたい国は、続けたくない国よりも多いのです。
ガイアがもっとも嫌っている原発に対しての意識が、この時期になってもまだこの程度なのです。
「原発を止める」ことについてだけを取り上げても、地球人の真の「やる気」を感じることなど、わたしにはできません。

自分自身の探究すらできない人間たちが…
自分が一体「だれ」なのか、「どこ」からやってきたのか、そしてこれから「どこ」へ行こうとしているのか、そんなことさえわからない人間たちが、山ほどいるということ。
地球上にいる大部分の人は、自分自身のことがわかっていません。

わたしたちは究極的には自分自身の思考の結果であり、わたしたちが考えた通りのものとなっています。
しかし、そのわたしたちそれぞれが「創造主」であるということに、どれほどの人が気づいているでしょうか?

良いことばかりするのが「創造主」なのではなく、悪いことをするのも「創造主」です。
この宇宙では、日夜、良いことも悪いことも創造され続けているのです。
この世界は、そんな地球人の集合意識が創り上げている世界なのです。 

地球に住む者たちは、長きにわたって自分たちの利益ばかりを考え、地球の豊かな資源を搾取し、大地や海を汚染し、ガイアの心を散々痛めつけてきました。
(詳細は過去記事に幾度となく書いておりますので、忘れている方は再度お読みください)


★まず「自分自身を深く見つめてみてください
このコメントを書いたあなたは、どれだけガイアの気持ちになって考え、ガイアのために日々貢献されているのでしょうか?

やる気なくないですよ。良い力を持っていらしてなぜそれがわからないかがぎゃくにふしぎです

ガイアのことを考えると、わたしはこの人に同じ言葉をお返ししたいと思います。
やる気あるとはとても思えませんよ。なぜそれがわからないのですか?」と。

もちろん、ガイアに感謝し、ガイアと調和し、ガイアに貢献している人も、なかにはいるでしょう。
日々、心と身体の浄化に努め、過去生からのカルマを解消している人もいるでしょう。
しかし、ガイアに対して行なってきた過去生からのカルマは、膨大にあるのです。
その浄化と赦しと解放が完璧にできている人など、無に等しいのではないでしょうか?
完璧にできているのなら、ここに生きている必要はありません。
即座にアセンションできるでしょう。



★ 偽りを偽りと見抜くこと ★



このブログを最初からお読みになっている人は、わたしが執拗に「ご用心ください」と申し上げてきたことを、覚えていらっしゃると思いますが、もう一度思い起こしてみていただきたいと思います。

それは、いかに世の中には「嘘偽りが多いか」ということです。
偽りのチャネラー、偽りの霊能者、偽りの記事を書くブロガ―にご注意ください」ということです。

当然のことながら、真実はその人の意識レベルによって異なります。
相手の「意識レベル」によって「見解の相違」というものは、いつも頻繁に発生しています。
ある事象について、低次元での意識で解釈された場合と、高次元での意識で解釈された場合とでは、月とスッポンくらいの違いがあるということです。
そこには「カン違いがある」ということも含まれます。(以前にお話ししましたね)

天変地異」ということに対しても、「原発事故」ということに対しても、「アセンション」ということに対しても、それをどう捉えて解釈するかは、全てその人の意識レベルによるということです。
同じひとつの言葉に対して「何通りにも読める」し、「解釈できる」わけですね。
同じ人であっても、日によって、気分によって、受け取り方がちがってくるということは、多くの人が認めていることです。
ですから、人によって、さまざまな見解があってもしかたがないということです。

しかし、明らかに事実(真実)ではないことを、さも事実であるかのようにすり替えて、故意に民衆に伝えるというのは、それとは全く別の話です。
大昔から今日まで、この地球上には、そのようにして人々を大いに騙してきた者たちが数多く存在します。
民衆は真実を知らされることなく、常に上手にコントロールされてきたのです。
また、「偽りのメッセージ」を「真実のメッセージ」だと思い込んで、地球人に伝えている多くのチャネラーたちは犠牲者ですが、同時に加害者でもあります。
そのことをしっかりと知っておいていただきたいのです。


映画「ゼイリブ」を観てください。三流映画と言われていますが、そこには真実のメッセージがあります。まだ観ていない人はぜひご覧ください



★ 空洞地球・地底都市とは? ★



先日の記事の「あなたの選ぶ世界とは?」の箇所で、「地下の空洞地球へと避難したい人は…」ということを書いたら、「地下の空洞地球について興味があるので、機会があったら触れてほしい」というコメントをいただきました。

今までわたしが「空洞地球」について一度も記事を書かなかった理由は、そこにさほど興味がなく、フォーカスする気持ちがまるでなかったからです。

地球の真中は空洞となっていて、そこに人が住んでいるという話は随分昔からありました。
特に「シャンバラ」の存在は、わたしも以前から知っていました。
京都の鞍馬山の社殿前に記されたある印の下がシャンバラとつながっているのだと聞き、よくその印の上に足を置いて立っていたことがありました。足にジンジンと感じるものは確かにあったように思います。
「シャンバラ」という領域が存在していることは、まちがいないでしょう。

しかし、多くの傑出したマスターを地上へと送り出していると伝えられている「宇宙聖白色同胞団」なる団体の目的自体に腑に落ちないものを感じていたこともあり、その「シャンバラ」が存在している「アガルタ」という領域にも疑問点が多く、記事にするには至りませんでした。

わたし自身がその領域に赴いた記憶が全くないということも、大きな理由の一つです。
行きたいと思ったこともありません。
また、次女のように身近な存在が体験したことを検証して書くことはできても、見知らぬ人が書いた本を手掛かりにして想像して書くことなどはできないからです。

クラリオンからの伝言」を伝えているマオリッツオ・カヴァーロ氏はつぎのように言っています。

地下には、シャンバーラとアガルタという2つの国があります。
シャンバーラは「神の地」と言われていて、アガルタのほうは、悪魔チックな、地獄のようなところ、ネガティブなマイナスの極です。
この2つをごちゃごちゃにする人がいるので、それは気をつけなきゃいけない。2つは、違うものです。 
(徳間書店「クラリオンからの伝言 超次元スターピープルの叡智」より抜粋)


アガルタ」という領域は、物理次元の世界のようです。「シャンバラ」とは次元がちがいます。(シャンバラは空洞地球の首都と言われているようですが、アガルタとは次元が異なっていて、別世界だと次女は言っています)

どちらにしても、洞窟のなかでの世界です。
出版されている本の多くは、とてもすばらしい天国のような楽園だと書いていますが、果たして真にそうであるのかどうかの保証はありません。
逆に「ダークな世界」だと言っている人も少なからずいますが、それが正しいという保証もありません。
とにかくその領域の全てが、すばらしいわけではない…ということを知っておいてください。

真実は、あなたが体験することだけです。
物質的な現実は、体験に基づいていない限り、真実ではありません。

あなたが食べてみなければ、その料理の味はわかりませんね。
甘いか、辛いか、美味しいか、まずいか、それはあなたが口に入れて味わうという体験をしない限りわからないものです。

唯一の真実は、ただ体験のみです。
そして、その体験は今ここにしかないのです。


仏陀はつぎのように語っています。


わたしたちはみずからが思うところのもの
すべてのものごとは
みずからの思いによってたちあらわれる
わたしたちはみずからの思いによって
世界をかたちづくる



偽りを真実とみなし
真実を偽りと思いあやまるならば
人は真心を見落として
みずからを欲望でみたす

偽りを偽りと見抜き
真実を真実と見定めよ
胸(ハート)のなかをのぞきこみ
みずからの本性にしたがえ

        ダンマパダより




ハート 仏陀は言っています。
「みずからの本性にしたがうべし」と。

人や経典に従うのではなく、自分自身の本性に従うのです。
みずからの内なる本性が経典であり、ブッダであり、神なのです。

みずからの本性とは「意識」です。
偽りを偽りと見抜き、真実を真実と見定めることのできる高次の意識です。

本や教え込まれた知識は、あなた自らが気づき、知ったことではありません。
あなたはその目撃者ではないからです。
だから、いつも「体験しましょう!」、「実験しましょう!」と言っているのです。
真の目撃者となるために。
真にあなたの知となるために。




幸せの条件づけを外そう!

2011年08月15日 10:51


★ お盆の「送り火」の悲劇 ★



はじめに、最近のニュースで感じたことをお伝えしたいと思います。

京都市で16日に行われる伝統行事「五山送り火」の一つ「大文字」の護摩木として、東日本大震災の津波で流された岩手県陸前高田市の景勝地「高田松原」の松を使うことを大文字保存会が計画したところ、放射能汚染を不安視する声が京都市などに寄せられたため、急遽(きゅうきょ)中止となったというニュースがありました。

送り火」というのは、盆に迎えた精霊(亡くなった人の霊)を送り出す宗教行事です。
京都で生まれ育って、幼少の頃から毎年欠かさず「大文字」をはじめとする「五山の送り火」を見届けてきたわたしにとって、今現在京都から遠く離れた土地にいて、懐かしく思い出される行事のひとつでもあります。
それだけに、今回のこのニュースにはがっかりさせられました。

7月下旬、当時集まっていた約300本(陸前高田市の鈴木繁治さんが中心となって集めた護摩木)を京都市と保存会がすべて検査したところ、放射性物質は検出されませんでした。
それにもかかわらず、「子供に後遺症が出たらどうなるのか」「琵琶湖の水が飲めなくなる」といった声が京都市などに寄せられたため、保存会は8月に入って中止を決めたというのです。

新聞によりますと、この企画が報道されると、「放射性物質は大丈夫か」「灰が飛んで琵琶湖の水が汚染される」などと不安がる声が、保存会や京都市に電話やメールで数十件寄せられたということです。
それで、市と保存会はすべての薪を検査し、放射性物質が検出されないことを確かめたのです。
これで大丈夫」という意見が出る一方、牛肉などの放射能汚染が問題になる中で、「放射能への不安を完全に取り除くことは、世論をみると難しい」という慎重論が消えず、保存会では苦渋の決断をしたといいます。

この「世論をみて難しいと判断した」ということについてですが、放射性物質が検出されてもいないのに、なぜ、そういう判断をするのか、あるいはそういう判断しかできないのか、わたしには理解ができないところです。

被曝医療に詳しい鈴木元・国際医療福祉大教授(放射線疫学)は「放射能を怖がるレベルが極端になりすぎている。護摩木から放射性物質が検出されていないのに、中止を求めたりしたことは過剰反応に間違いない」と話していたということです。

案の定、その後その中止について、抗議の電話やメールが京都府と京都市に殺到しました。
風評被害に加担するのは日本人として恥ずかしい」「五山の送り火なんて見たくない」などという抗議が全国から相次ぎ、その数は千件を超えたといいます。
当然でしょうね。
 
中止された松はというと、8日の夜、陸前高田市で「迎え火」として燃やされました。
鎮魂と復興への思いを込められた護摩木が、被災地から遠い京都ではなく、当の被災地で「迎え火」として燃やされたことについては、それはそれでよかったのではないかとわたしは思います。

その後、京都市は考えを改め、被災松の割木を500本調達することにしました。
もちろん、理由は被災松を使う計画の中止に対して批判が殺到したためでしょう。
五山の各保存会でつくる京都五山送り火連合会に受け入れを打診したところ、大文字保存会が一転して受け入れを決め、五山全ての送り火で燃やされることになったらしいのです。

ところが、12日になって、新たに陸前高田より届いた松から放射性セシウムが検出されるという事態が起こります。
薪の表皮を削って検査したところ、セシウムを検出したため、取り寄せた500本全てについて、送り火での使用を取りやめることにしたというのです。
結局京都市は「五山送り火」での使用を断念することになってしまったわけですね。

この問題をめぐっては、大文字保存会の理事長が「多くの方に心配と迷惑をかけ、われわれの都合で被災者を振り回したことを心よりおわびしたい」と謝罪し、決定が遅れた理由については「いろんな意見を集約できなかった」と釈明していたということです。

この一連の問題は、京都市民の放射性物質を懸念する声を受け、大文字保存会(京都市)が薪の受け入れを取りやめたことにありました。
京都市民と言っても、一部の人なのでしょうが、心の狭さ、過剰反応の異常さを感じますね。
せっかく被災地で亡くなった霊たちをなぐさめ、お送りしようという試みについて、ケチがついてしまいました。

頭をかしげたくなるのは、なぜ京都市は最初から、陸前高田市の鈴木繁治さんが中心となって集めた護摩木について、当地で検査をしてほしいと依頼しなかったのかということです。
そして、陸前高田市のほうでも、京都市に出荷する前に、なぜその護摩木を検査しなかったのかということです。
まるで牛のときと同じですね。
出荷する前にしっかりと放射線物質の有無の検査をしておけば、問題発生はくい止められたはずなのですが、そのもっとも重要な点をいつも押さえられていないのです。
繰り返し、同じ過ちをすること。これは、どう考えても、おつむが悪いとしか思えません。だから、このような情けない結果になったのです。

京都は昔から霊的に護られている土地であり、地震なども今のところ起こっていません。
誰かが起きないように霊的な力で止めてきたのでしょうが、災難も小出しに出さないと、危ないなと思います。
問題をいつも封じ込めていると、噴出したときに恐ろしい大災難となるからです。

実母が亡くなって以来、この数年間、京都に足が向かないままでおり、すでに過去の地となっていますが、それでも故郷の良きイメージが壊れていくのはとても残念です。


白カノコユリ
         白カノコユリ  撮影 光の仕事人



★ 自分の幸せを決めることができるのは、自分のみ ★
      ―幸せの条件づけを外そう!― 



最近よく思うことは、自分の幸せに条件をつけている人がいかに多いかということです。
わたし自身も、昔はたくさんの条件をつけていました。

わたしが日々生きていくなかで幸せを感じられないのは「騒音のせいだ」「この地域のせいだ」「理解力のない頭の悪い数多の人間たちのせいだ」、等々、全て環境と人のせいにしていたのです。
都会では、深夜から夜明けまで暴走族が発するバイクの音で眠れなかったし、田舎では朝早くからの地域の頻繁な放送で目が覚め、睡眠を妨害されたし、どこへ行ってもわたしが求める静寂さがなく、結局離れ小島か、山奥くに独りで住むしかないと思うに至りました。未だにその望みは適っていませんが。(笑)

「周りに家がなくて、人工的な騒音が一切なくて、自然のなかで、自然に咲く可憐な花々を愛(め)で、美しい星空を眺めながら静かに暮らせたら、きっと毎日が幸せだろうな」なんて思うことはよくあります。
でも、独りで山奥に住んでいたら、良いことばかりがあるとは限りません。困ることだって生じてくるはずです。何かあった時、独りでできないこともあり、やっぱり人に助けてもらわなければならないことはあるだろうと思います。

せっかく自然のなかで暮らせても、イヤな虫や動物に悩まされるかもしれないし、欲しい物があってもすぐに買いに行くことができず、とても不便で難儀をするかもしれません。
それで、不幸せを感じることだってあるわけです。
どこへ行っても一長一短があるということですね。

ここで、わたしは考えたのです。
幸せか不幸せかどうかを決定するのは、ほんとうに外側の何かのせいなのだろうか?
わたしたちは自分自身の「幸せ」に対して、「○○だったら、幸せ」「○○さえなかったら幸せ」「○○が○○してくれたら、幸せ」というふうにいろんな条件をつけているだけなのではないだろうか?
だから、外側の人たちとの関係では、自分を幸せにしてくれなくなっているのではないだろうか? 
わたしを幸せにしてくれるのは、いったい誰なのだろうか?と。

そう考えたとき、もちろん、わたしを幸せにしてくれるのはほかの誰でもない、わたし自身だということに気づきます。
外の世界(他者)がわたしを幸せにしてくれるわけではないということです。
すべてのものは、わたしの幸せのために存在しているわけではないのだ、ということを肝に銘じること。
わたしがわたし自身を幸せにすることで、それが外の世界に反映されていくのだ、ということを知ることです。


「わたしの幸せ」を決めるのは、「わたし」です。
「わたしの幸せ」を決めること、選択できるのは、「わたし」だけなのです。
わたし自身を無条件に幸せにするには、いつも何があろうと、起ころうと、外側がどうであれ、幸せでいることなのです。

すべて外側のせいにしたいけれど、しないことなのです。
責任は外側のせいにしている自分にあるのです。
すべては自分の心の持ち方によるということですね。
ですから、「○○だったら、わたしは幸せにちがいない」ということは考えず、たとえ「○○ではなくても、わたしは幸せだ」と思うことですね。

何事もポジティブに捉え、ハッピーでいること。
たとえ逆境にいても、ハッピーでいること。
今この瞬間瞬間をハッピーにすること。
これしか、ないんです!

だから、今現在定められた枠内で、もっとも自らの心が求めること、ワクワクすることを選んでいくことです。
選んだひとつがだめなら、もうひとつのほうを選ぶことです。それがだめなら、また別の何かを選ぶのです。
そうすれば、ほんとうに幸せな自分が常に存在していることに気づくでしょう。



ハート
いつも「幸福」のお面(お多福?)をつけていることです。
そして、自分が毛嫌いしている人や物の何もかもを愛することです。

自分自身の魂に喜びと平安をもたらすシンプルなことばがあります。
それは、Ⅰlove me.
そして、森羅万象すべてに向けたⅠlove you!です。



自然な人生の流れに従っていけば地球のエネルギーを自然に援助できる

2011年08月19日 06:30


今回は、地球の身体のチャクラに当たる部分について考察し、今わたしが知っている限りのことをお伝えしたいと思います。


★ 地球のチャクラがあるところ ★



わたしたちの身体にチャクラがあるように、地球にもチャクラがあり、エネルギーセンターがあります。
地球のチャクラのセンターがある場所は、地球の進化のプロセスに応じて、また、常に地球のエネルギーのバランスを保つためにつぎつぎと変化しているようです。
地球のどの場所が、どのチャクラに当たるかということについては、あまり語っている人はいないようで、ブログなどに書いている人も、なぜその場所だと言えるのか、その根拠は何なのか、説明もなく、信憑性がありません。
よって、「真実かどうかは神のみぞ知る」ということで、わたしが「なるほど」と思えた存在の見解を参考のために載せておきたいと思います。
(あくまでも参考であり、検証は自分の直観でご判断くださいね)


今からおよそ20年前のことですが、リサ・ロイヤル氏がチャネリングしたジャーメインはつぎのように語っていました。

★第1チャクラは人間の身体で言うと尾てい骨のところに当たり、それは「シナイ山」と結びついていて、この場所から地球のもっとも根源的なエネルギーが出ているのだと。

根源的なエネルギー」というのは、「生存本能と関わるエネルギー」のことです。
この第1チャクラの場所は、人類が誕生した頃からシナイ山にあったとされ、かなりの長きにわたって存続してきたようです。

ジャーメインは、地球のようにまだ統合が起こっていない惑星においては、このベースチャクラがある場所というのは、たくさんの恐怖が存在するところであり、そこにはたくさんの葛藤や争いがあるのだと語っていたのです。

シナイ山というのはシナイ半島にあり、ホレブ山とも呼ばれていて、モーゼが神から十戒を授かったとされる場所で有名な山ですが、聖書に記されているシナイ山がどこなのかという真の明確な位置はわかっていません。
その付近は、人類が誕生して以来、ずっと葛藤状態が続いているところです。シナイ半島のまわりにはイスラエル、エジプト、サウジアラビアなどがあり、確かに紛争が頻繁に生じている地域であることがわかります。

中近東で起こっている紛争が決着したら、地球における争いは最終的な決着を迎えたと言えるとジャーメインは言っています。
未だに紛争が治まらないということは、第1チャクラはまだここに存在しているということなのでしょう。


★第2チャクラはおへその下(生殖器)にあるチャクラです。
それはブラジル、アマゾンの近くにある
とだけジャーメインは言っており、チャネラーの地理の能力がなかったために、はっきりとした地名を聞くことはできませんでした。
また、今現在そのままその近辺にあるのかどうかも定かではありません。
なぜなら、そこは違うとハイアーセルフが言っているからです。
では、どこなのかということですが、今のところ明確な答えは得られていないため、保留にさせていただきたいと思います。

第2チャクラは、「女性エネルギーと男性エネルギーの統合」と「原始的な感情」とに関係があります。(性的なエネルギーを統合するという意味もある)
ブラジルという地は、わたしたち人類が内奥深くに持っている影の部分を浄化し、処理することをエネルギー的に援助しているのだということでした。


★第3チャクラは太陽神係叢のチャクラです。
アフリカ大陸のキリマンジャロ山
に当たるようです。
太陽神係叢は、何かをするときの意図、動機と結びついていて、力強さ、勇気にも関係しています。
異星人によって遺伝子工学的に創造された人種が最初に定着した地域のひとつがアフリカ大陸のキリマンジャロ山辺りだったといわれます。
初期の人類は、異星人たちに監視され、所有されている存在でした。
その最初の支配から自分たちを解放しようと努力した人たちが、この地域に住んでいたのだそうです。
ですから、その地域というのは意図、動機、力強さ、勇気を表しており、生きることに対する動機が発揮されている場所だということでした。


★第4チャクラはハートのチャクラです。

当時ジャーメインは、ハワイのマウイ島にあるハレヤカラ山と結びついていると言っていました。ハワイ諸島全体がハートチャクラのエネルギーを出しており、そのなかでハレヤカラ山が中心なのだということです。
今現在はキラウエア山(活火山)に移動したと、ハイアーセルフは言っていますが、どうなのでしょうね?

ともかくハワイ諸島全体から無条件の愛が人間の集合意識に対して発せられており、その場所を訪れると、ハートチャクラが非常に大きく広がっていくということです。
ハワイ近辺にはイルカがたくさん住んでいますが、ハートのエネルギーを得るためにその近くにいるのだそうです。
彼らはハートのエネルギーを感じることができる自己意識をもった哺乳類(魂はシリウスから来ています)で、わたしたち人間よりも最初に自覚できる優れた存在なのです。
イルカは人類にハートを得る援助をしてくれているんですね。


★第5チャクラは喉のチャクラです。
北カリフォルニアにあるシャスタ山
といわれます。
喉のチャクラの特徴は、コミュニケーション、表現です。
シャスタ山がもっているエネルギーは、高い意識でのコミュニケーションをおこなう上でのエネルギー的な通路だといえます。
霊的なことに関する基本的な考え方は、シャスタ山を通じてアメリカにもたらされたとジャーメインは語っていますが、そう言われれば確かにそうだなと思います。
シャスタ山は、古来よりこの地方に住むアメリカ先住民(インディアン)の聖なる山とされてきました。現在の山の名前はその部族のひとつシャスタ族に由来しています。
シャスタ山の役割は、世界に対して、そうしたコミュニケーションのエネルギーを流すための通路だということです。


★第6チャクラは第3の目(眉間)のチャクラです。
それは、ヒマラヤ山脈のなか
にあるといいます。
大昔から多少のずれはあっても、ほぼこの地域にあったようです。
第3の目の特徴は、内面のビジョン、直観ですね。
ヒマラヤ山脈の一帯というのは、何千年もの間、秘境的な叡智の中心でした。
非常に平和的な哲学や考え方の多くがこの地域からもたらされたのです。
そこは地球の未来のヴィジョンが込められているところだということです。


★第7チャクラはクラウンチャクラです。
それは日本の富士山
で、これには特別な理由があるのだと、ジャーメインは言っています。
日本がもっているエネルギーは、「東洋と西洋のかけ橋」だということです。
これまで西洋は知性ばかりに意識を集中して、霊的なことを無視してきました。
東洋は霊的なことに関心をもっていたけれども、知性的なことにはさほどフォーカスしてきませんでした。
西洋の思考と東洋の思考は、けっしてお互いに融合し合うことはなく、両者のあいだには統合できるような合意というものがなかったのです。

このふたつのエネルギーを合体することができるのは、霊的なものに基盤をおいた東洋の文化であり、またその心構えや心の準備ができている文化をもった日本だと、ジャーメインは言うのです。
この日本という国が、世界における両極のエネルギーが象徴的なかたちで統合される(霊的なものと物質が最終的に統合される)場所であるというわけです。

これらの話を20年ほど前にジャーメインは語っていたのですが、20年経った今、ほんとうに日本という国が両極のエネルギーを統合する中心的な国となっているのか、準備ができた国といえるのかというと、それは正直言って?です。
確かに日本は西洋の技術と東洋の霊的な伝統を併せ持っています。
しかし、真のスピリチュアリズムが今の日本人にあるかというと、それも?です。
ただ、そうなってほしいという願いはもち続けたいですが。


ひまわり
         8月の花 撮影 光の仕事人



★ パワースポットに行く理由 ★



人間のチャクラのバランスが欠けてしまうことがあるように、地球上のチャクラのバランスも欠けてしまうときがあります。
そういうときに人々はそのエネルギースポット(パワースポット)に向けて旅をし、そのエネルギーを是正(補充)して、均衡状態にしようとするのだと、ジャーメインは言っています。


二次的なチャクラポイントに旅行することもあります。
二次的なチャクラは、中心的なチャクラのバランスをとる援助をするのです。
パワースポットに行くことで、自分自身を活性化するだけではなく、地球のチャクラのエネルギーバランスをとる援助をすることもできるんですね。
エネルギーセンターに人が集まって気づきのプロセスを経験すると、そのなかに閉じ込められていたエネルギーを解放することができるのです。

この7つのエネルギーを表している場所が、地球に存在するといわれます。
そうした中心的な場所のひとつが、セドナというところなのです。
そこには、7種類のチャクラのエネルギーの特質をもった場所が全部そろっているのだそうです。
地球のチャクラのある場所に全部行きたいけど、とても行けそうにないと思う人は、セドナに行かれるとすべて用が足りるというわけですね。



       白バラ
           8月のバラ 撮影 光の仕事人




★自然な人生の流れに従っていけば
   地球のエネルギーを自然に援助できる★
 


★さて、今回なぜこのような地球のチャクラやパワースポットのお話をしようと思ったかということですが、
わたしたちは自然な人生の流れに従っていれば、必要なときに必要な場所に導かれていくのだということを言いたかったからなのです。
(自然な人生の流れに従うということには、とても深い意味があります)

そして、わたしたちは地球の上に存在しているのではなく、地球のエネルギーのなかに存在しているのだということ

だから、わたしたちが自然な人生の流れに従っていけば、地球のエネルギーを自然に援助していくことができるのだということ

20年前にジャーメインが伝えていた内容を、今この時期に、まだこのことを知らない読者さんたちにお伝えし、知っていただきたかったからです。


ジャーメインはつぎのように語っていました。

もし「地球に奉仕したいな」と思っていても、いろんなところに旅行できなくて、「自分は奉仕できないな」と思っても、心配する必要はありません。
自分にとってふさわしいときに自然の流れに従っていけば、地球にとって必要なところにあなたは導かれていくからです。
ですから、あなたはこうした場所に必ず行かなくてはいけないということはないんです。
やがて、最終的には、自分の意識のなかで、こうしたさまざまなエネルギーと結びつくことができるからです。



ハートパワースポットに足を運ばなくても、
究極的には自分の意識のなかで地球と交流ができるようになるということです。

意識はどこへだって飛んでいくことができるのです。
それは、すばらしい能力です。
あなたもこの能力を思い出し、発揮することができます。
そして、地球のどこかにアンバランスなエネルギーを感じたなら、
そこに意識を向けてあげることができるのです。



これからの男性の生き方を考える―武士道における〈仁〉

2011年08月25日 09:45


★ 読者のご希望に応えて ★



アンケートで、今後【 取り上げてほしい内容 】として、「これから 男性の生きる道」と書かれた30代の男性がおられたのを記憶していて、ずっと気になっていました。
このブログは女性の訪問者が圧倒的に多いので、どちらかというと、女性向きになっていると思います。
光の仕事人も、今生では女性として生まれていますし、(時々男性だと思い込む人もいらっしゃるようで、あとで女性と知って驚いたりされていますが。笑)これからは女性の時代だと思っているので、どうしても女性性の方を尊重、重視して書く傾向があるように思います。

それで「これから 男性の生きる道」について、何を書こうかと考えたのですが、日本の男性の象徴と思われる「武士道の精神」をベースとして、何回かに分けて書きたいなと思います。
なぜなら、「武士道」には男性の理想像がたっぷりと内包されているからです。
古きを温(たず)ねて新しきを知る」ということで、わたしは現在の男性には「武士道」の精神を思い起こすことが必要で、その探究をおススメしたいと思っております。


★ 武士道における〈仁〉



運命に任すという平静なる感覚、不可避に対する静かなる服従、危険災禍に直面してのストイックな沈着、生を卑しみ死を親しむ心…。

真に勇敢なる人は常に沈着である。彼は決して驚愕に襲われず、何ものも彼の精神をみださない。激しき戦闘の最中にも彼は冷静であり、大事変の真中にありても彼は心の平静さを保つ。


このような武士道に対して、「これらを寄与したのは仏教である」と、新渡戸稲造氏はその著「武士道」のなかで述べておられます。
もともと日本の武士の思想は神道理念から発祥したもので、儒教思想も取り入れられて徳川時代初期に確立したものだとされていますが、新渡戸氏が言われるように、武士の死生観はおおいに仏教、あるいは「禅」とかかわっているように思います。
おそらく剣の達人、剣の究極を極めた人は、多かれ少なかれ禅的な境地を体験しているはずだからです。

新渡戸氏は「最も剛毅(ごうき)なる者は、最も柔和なる者であり、愛ある者は勇敢なものである」というのは普遍的真理であると述べ、武士の情(なさけ)として、(じん)、惻隠(そくいん)の心が大切だと語っておられます。

〈仁〉とは、愛情を他に及ぼす(思いやり)という意味ですが、儒教では〈仁〉は一切の徳の中心となる美徳となっています。
惻隠(そくいん)は、あわれみという意味です。

「愛、寛容、愛情、同情、憐憫(れんびん)」は、古来最高の徳として、すなわち、人の霊魂がもつあらゆる性質のなかの最高のものとして認められていたということです。
弱者、劣者、敗者に対する〈仁〉は、特に武士にふさわしい徳として称賛されたのです。



新渡戸氏は「武士道」の第五章に「須磨の浦の激戦」での熊谷次郎直実(くまがやのじろうなおざね)と平家の美しい少年敦盛(あつもり)との物語を載せておられます。

この話は「平家物語」に記されており、また謡曲「敦盛」で演じられる内容です。あまりにも有名な場面なので、ご存じの方も多くいらっしゃることと思います。
いつ読んでも直実(なおざね)の優しさと憐憫の情に感動する悲しいと同時に心が暖かくなる物語です。
まだこの「須磨の浦の激戦」の場面をご存じない人のために、新渡戸氏の文面をできるだけわかりやすく訳して載せておきたいと思います。


★ 熊谷直実と敦盛の物語 ★



須磨の浦の激戦(西暦1184年)は我が歴史上最も決定的な合戦のひとつであったが、そのとき熊谷直実は一人の敵を追いかけ、相手をそのたくましい腕に組み伏せていた。
このような場合、組み敷かれた者が高い身分の人であるか、もしくは組み敷いた者に比べて力量が劣らない剛の者でなければ、血を流さないということが戦の作法であったから、直実は自分の組み敷ける人の名を知ろうとした。

しかし相手は名乗りを拒むので、兜(かぶと)を押しあげて見た。
すると、髭(ひげ)もまだない若者の美麗なる顔が現われた。
直実は驚き、手をゆるめて彼を助け出し、父親のごとき声をもってこの少年に「行け」と言った。
「あな美(うるわ)しの若殿や、御母のもとへ落ちさせたまえ。熊谷の刃は和殿の血に染むべきものならず、敵に見咎められぬ間にとくとく逃げのびたまえ」と。
だが、この若き武士は去るのを拒んだ。
そして、双方の名誉のためにその場にて「おのれの首を打たれよ」と、直実に乞うた。

直実の白髪の頭に振りかざしたる白刃(はくじん)は、これまであまたの人の玉の緒(生命の弦)を絶った刃(やいば)であった。
しかし直実の猛き心は砕けた。脳裏に彼の息子の姿が浮かんだからだ。
その息子は同じ日、初陣を果たすために出陣のホラ貝の音とともに駈け出していったのだ。

直実の力強い腕が震えた。
そして、もう一度逃げるように頼んだが、若武者はきかなかった。
やがて味方の軍兵の近づく足音を聞いて、彼は叫んだ。
「今はよも逃し参らせじ、名もなき人の手に亡われたまわんより、同じうは直実が手にかけ奉りて後のご孝養をもつかまつらん。一念弥陀仏、即滅無量罪」
一瞬、白刃が空中に閃き、振り下ろされたときには、その刃は若武者の血で紅く染まっていた。

戦が終わり、直実は凱旋したが、彼はもはや名誉を思わず、弓矢の生涯を捨て、頭をそり、僧衣をまとって、弥陀の浄土を念じ、西方に背を向けないと誓い、その余生を神聖なる行脚に託したのである。



新渡戸氏は、「この物語には作り話めいたところがあって批評家から非難を受けるかもしれないが、優しさ、憐憫、慈愛がサムライのもっとも惨慄(さんりつ)なる武功を美化する特質であることを、この物語が示すことには変わりがない」と述べているのです。

このように、〈〉すなわち〈愛・慈悲の心〉は、世界中で王者の道に必要不可欠な要素であり、サムライや戦士にとっても同様、最高の徳だとされています。
このことからも、男性であろうと女性であろうと、愛と慈悲の心を持つことは、まちがいなく必要で、それが高貴な意識であることがわかりますね。

今もなお無意味な戦いを繰り広げ、多くの弱い女性や子供まで殺害している世界中の兵士たちに聞かせたい話です。

この「武士の情け」については、ヨーロッパ文学のもっとも気高い詩のなかに見出されます。
新渡戸氏は、このよく知られた一節を日本の紳士に見せたら、躊躇なく、このマンチュアの詩人(古代ローマの詩人ウェルギリウスのこと)はわが国の文学を盗んだと非難するだろうと語っています。
下記の詩がそれです。


敗れたる者を安んじ、
たかぶる者を挫き、
平和の道を立つること
―これぞ汝が業(わざ)
   (新渡戸稲造著 矢内原忠雄訳)


敗れたる者を慈しみ、
おごれる者を挫き、
平和の道を立つること
―これぞ汝が業(わざ)
   (新渡戸稲造著 奈良本辰也訳)




うす紫の朝顔
   うす紫の朝顔 撮影 光の仕事人



★つぎのOSHOのことばを併せてお読みになり、愛の根の部分にフォーカスしてみてください。


私たちは愛の根に注目したことがない
そして花についてだけを語ってきた
私たちは人々に言う―
非暴力的でありなさい
慈悲深くありなさい
敵を愛するほど、隣人さえ愛せるほど愛にあふれていなさい―

愛の花については語るが
その根に関心を持っている人はひとりもいない

問題は……
なぜ、私たちは愛にあふれた存在ではないのかということだ
それは
この人、あの人、友人、敵に対して
愛にあふれているかどうかではない
問題は、あなたが愛にあふれているかどうかだ

あなたは自分の肉体を愛しているだろうか?
自分の肉体を気づかい、愛をもって触れたことがあるだろうか?
自分を愛しているだろうか?

あなたはまちがっている―
自分を正さなければならない―
自分が罪人だとすれば、聖人にならなければならない
―どうやって自分を愛せる?
自分自身をも受け容れることができないというのに―
自分自身を受け容れること―それが根だ!

プラスチックの造花は、いつまでも変化しない
プラスチックの愛は変化しない
生ある花は変化しないではいられない
刻一刻と変化してゆく
今日はそこにあり―
風に吹かれ、陽を浴び、雨のなかで舞っている
だが明日はもう見えない
それは
現われたときと同じ神秘さをもって消えてしまった

真の愛は生きた花のようなものだ

                By OSHO  




ユリ
 どこからか来て、自然に根付いて
         庭に咲いたユリの花   撮影 光の仕事人



                  

ハート
〈仁〉、すなわち〈慈愛〉は母のようであり、
女性的な柔和さをもった徳です。

〈義〉や〈勇〉を重んじた武士の精神に、
この〈仁〉が最高の美徳として存在するということを、
男性の方々に覚えておいていただきたいと切に思います。




これからの男性の生き方を考える―武士道における〈礼〉と〈誠〉

2011年08月28日 00:00


最初に、これまでブログの左側に設置していた「アンケートにご協力ください」が、昨日FC2ブログから何の予告もなしに、突然消えていました。
「どういうことか?!」
全くわかりませんが、とにかく元にもどしました。
こういう不本意なことが、この世の中には多く起こるのだということを知りました。
「アンケート」が消えて、「なぜ?」という疑問を持たれた方も少なからずいらっしゃったようなので、とりあえずお伝えしておきます。
「気づきのコース」以来、アンケートがなかなか送信できないという方々が今も尚おられますが、確認ボタンをクリックして「Loading(読み込み中) 」になったら、マウス操作ですぐに上方へと戻せば、記入した内容が確認できるはずです。それでOKなら、送信してください。


★ 武士道における〈礼〉と〈誠〉 ★



前回は「武士道における〈仁〉」について書きました。
今回は〈〉と〈〉について大切だと感じたことを、ほんの少しですが、触れておきたいと思います。

武士道には〈礼義〉が欠かせないものとされていました。

それについて新渡戸氏は、「礼の最高の形態は、ほとんど愛に接近する」、
礼儀は仁愛と謙遜の動機より発し、他人の感じに対するやさしき感情によって動くものであるから、常に同情の優美な表現である」と述べておられます。

つまり、〈〉とは、「他者の気持ちに対する思いやりを表現すること」であり、「最高の姿として愛に近づく」ものであるということです。 


つぎに〈〉についてですが、ここでは「武士の一言」について触れられています。

「偽りの証しを立つることなかれとの積極的なる戒めが存在せざるため、虚言は罪として審かれず、単に弱さとして排斥せられた。それは弱さとして、甚だ不名誉となされた」
とあります。
ウソをついたり、ごまかしたりはではなく、むしろ臆病だとされたというところが面白いですね。
武士は一度約束したことを違(たが)えれば、死をもって罪を償うということがなされていました。
八百万の神にかけて誓うということもおこなわれたようですが、真のサムライは〈〉に対して非常に高い敬意を払っており、誓いをすること自体が自分の名誉を傷つけると考えていたため、やたらに誓うということはしなかったようです。 


       白い朝顔
              純白の朝顔  撮影 光の仕事人



★ 〈礼〉か〈誠〉か ★



あるアメリカの著述家が「もし、普通の日本人に対し虚言を言うのと礼を失するのといずれを取るかと質問すれば、躊躇なく『虚言』と答えるであろう」と述べたとして、新渡戸氏はつぎのように記しています。

日本人に、あるいはいくらか教養あるアメリカ人にでも、彼が君を好まないかどうか、もしくは彼は胃病であるかどうかを質問してみよ。長く躊躇することなくして、「私は君を甚だ好む」とか、「私は大丈夫です、有難う」とか、虚言の答えをするであろう。
これに反し単に礼儀のために真実を犠牲にすることは、「虚礼」であり、「甘言(かんげん)人を欺くもの」であるとなされた。



つまり、日本人は、「ウソをつくこと」と「無作法であること」と、どちらを選ぶかと訊(き)かれたら、躊躇なく「ウソをつくこと」と答えるだろうと、そのアメリカの著述家は言っているわけですね。(あくまでもその著述家の見解であり、それが真実であるかどうかは別です)


これに対して新渡戸氏は、日本人やいくらか教養あるアメリカ人なら、たとえ相手のことが嫌いであっても、面と向かって「私はあなたのことが嫌いです」とは言わず、「好きですよ」と言うであろうし、「病気なんじゃないか?」と訊かれて、たとえ病気であっても「大丈夫、ありがとう」と答えるであろうということを言っているのです。

しかし、礼儀を欠かないために、つまり相手への礼儀を重んじるがために、真実を言わないのは、結局うわべだけの礼儀であって、「人の気に入るような言葉でだましている」と、みなされてしまったというわけですね。

日本人がそんなふうに「虚言」しか言えないというのは、「弱いから」、「臆病だから」ということになります。
特に武士の場合は、「虚言」は「不名誉なこと」ではあるけれども、「罪ではない」ということですから、やはり「礼節」のほうを断然重んじられたということでしょう。歯に衣を着せるのが、美徳だと考えられていたんですね。

新渡戸氏はこの「嘘」という言葉に対して、重みを置きすぎていると、このアメリカの著述家に対して批判的な見方を述べていましたが…。
さて、あなたはどのように思われたでしょうか?


★あなたは相手に失礼のないように、相手を不快にしないために、真実を語らず、礼儀のほうを重んじる人でしょうか?
それとも、相手に真実を語らないことのほうがむしろ失礼だと考えて、ほんとうのことを語る人でしょうか?
〉か〈〉か…。
こうして考えてみると、どちらを選ぶかは、けっこう難しいように思われるかもしれませんね。


★ここで、宇宙人的発想をお教えしておきましょう。(笑)

まずどちらを選ぼうと、相手(他人)の判断は気にしないことです。
どう受け取るかは相手しだいで、相手側の問題です。
だから、相手の反応を恐れないこと。結果を気にしないこと。
そして、とにかく、いつも自分自身でいること。
自分が後々心地よく、ポティティブだと思えるほうを選べばよいのです。

たとえば、「病気なんじゃないか?」と訊かれて、「私は確かに病気だけれど、今は大丈夫ですよ。ありがとう」と言うこともできますね。
また、相手が「自分のこと、好きですか? 嫌いですか?」と訊いてきたら、
感じたままを言えばよいということです。
嫌いなら、「嫌いだ」とはっきり言えばよいのです。
訊かれたから、正直に答えたのです。
ですから、それで相手が不快感を抱いたとしても、「だからどうなの?」ということですね。(笑)

次元が上昇するにつれて、感じていること、考えていることは、お互いに通じ合うようになります。
ウソはお見通しの世界となるのです。
ですから、本音を言うことです。
ただし、いつも愛のある状態で、自分の真実に対して責任をもって、本音を言うことですね。

★参考過去記事 カテゴリ「意識の変容」があなたを幸福へと導く 
「自分自身でいること」のお話   
本音で話すことの大切さ     
真の愛は、自分の真の姿を見せること



どちらか一方を選びたくない人は、〈礼〉と〈誠〉を併せ持った表現を、自分なりに考えてみられたらよいでしょう。
その時々の状況というものが問題なのではありません。
要は自分自身のあり方が問題なだけです。それだけのことなのです。




ききょう
      桔梗   撮影 光の仕事人 



★下記は、OSHOのことばです。


人々が真実について語り
それでも偽りの世界にとどまる理由は明らかだ
彼らのハートには確かに真実への願望がある
人は自分の姿を目の前にして
自分が真実でないことを恥じている
だから真実について語る
だが、それはただの「おはなし」―だ
真実に基づいて生きることはあまりにも危険だ
そのような危険を冒すことはできない

自由についても同じことが言える
話のうえでは、誰もが自由を望んでいる
だが実際に自由な人はひとりもいない
そして誰ひとり真に自由になることを望んでいる人もいない
自由は責任をもたらすからだ
自由はそれだけではやって来ない

また、依存することはたやすい
責任はあなたにではなく
あなたが依存している人にあるからだ

そこで、人々は分裂症的な生き方を作りだした。
真実について語り、自由について語る
そして偽りのなかで生き、隷属状態に甘んじる―
あらゆる種類の隷属に―
ひとつひとつの隷属が何らかの責任を回避させるからだ

真に自由を求める者は
途方もない責任を受け容れなければならない
自らの責任をほかの誰にも押しつけることもできない
何をするにしても、どうなろうとも自分の責任だ

                          by OSHO  



ハート
〈礼〉も〈誠〉も、人として大切な要素。
どちらを選ぶかは、自分しだい。

自分の望まないことをはっきりと知り、望むことを選び、実行していく。
これが、21世紀の「男性の生きる道」であり、
そして、また「女性の生きる道」なのではないでしょうか?




これからの男性の生き方を考える―サムライ・戦士の光と影

2011年08月29日 09:37


★ サムライが身だしなみに気をつけていた理由 ★



サムライがどれほど身だしなみに気をつけていたか、皆さんはあまり気に留められたことはないだろうと思いますが、ほんとうに驚いてしまいます。

山本常朝の「葉隠」には、男のたしなみとして、
写し紅粉を懐中したるがよし。酔い覚めか寝起きなどは顔の色悪しき事あり。斯様(かよう)の時、紅粉を出し、引きたるがよきなり」とあります。
切腹の際にも、死んだ後の顔が見苦しくないように、事前に紅をさしたようです。
顔色が悪くて、人に不快感を与えないために紅をさすというのは、現在の男性は考えもしないことではないでしょうか。
(いつもすっぴんのお姉さん方も、見習わなくてはいけませんね~)

また、武士は登城する前には必ず朝風呂に入り、その身をいつも清潔に保っていました。
毎朝髪を結い、ときには月代(さかやき)も剃り、季節に応じた礼服を着用し、刀や脇差とともに腰に扇(おうぎ)を差し、立ち居ふるまいに気をつけていたのです。(すばらしいですね!)

大道寺友山という人は、「武道初心集」で、
武士という者は、正月元旦の朝、雑煮の餅を祝う箸を手にしてから、その年の大晦日の夜に至るまで、毎日毎夜、常に死を心に覚悟することを心がけの第一とするものである」と述べています。

いつ死ぬかわからないからこそ、いつ死んでも恥ずかしくないように身を美しく保つことが重要とされたのでしょう。身だしなみに気をつけていた大きな理由のひとつが、そこにあると思います。

そして、常に死を意識していれば、いつもこれが最後だという気持ちで人に接することができるし、それだけに人を大切にもできます。(まさに一期一会の精神ですね)
死の自覚ゆえに貪欲もうすくなり、人品がよくなるというわけです。(一石二鳥!)
心身ともに健康な人が、毎日今日が最後だと思い、よい死に方を考えて生きるというようなことは、現代社会ではなかなか無いことでしょう。(そうありたいものですね)

武士の死生観が、彼らの心身や生活を厳しく律していたことは、残された過去のさまざまな文献から知ることができます。
サムライは、自分自身の精神と肉体を常にコントロールし、心理的にも肉体的にも苦痛に耐える訓練をし、その能力を身につけていったのです。
自己にも他者にも恥じない自分づくりに日夜励んだのです。
まるで僧侶並みにストイックな生活ですね。

文献では、すばらしい精神のもとに日々の生活を送っていたように記されていますが、実際の彼らの生きざまはどうだったのでしょうか? 
(サムライにもピンからキリまであるでしょうからね)
タイムマシンがあれば、見学してみたい気がします。(笑)


★ 恥と名誉 ★



サムライにとって、いわゆる「名」や「面目」、「外聞」というものは、大変重要な位置を占めていたようです。

新渡戸氏はつぎのように述べています。

廉恥心(れんちしん)は少年の教育において養成せらるべき最初の徳の一つであった。「笑われるぞ」「体面を汚すぞ」「恥ずかしくないか」等は、非を犯せる少年に対して正しき行動を促すための最期の訴えであった。
少年の名誉心に訴うることは、あたかも彼が母胎の中から名誉をもって養われていたかのごとく、彼の心情(ハート)の最も敏感なる点に触れたのである。


羞恥の感覚は人類の道徳的自覚の最も早き徴候であると、私は思う」と新渡戸氏は言っています。
そして、「恥はすべての徳、善き風儀ならびに善き道徳の土壌である」と言ったカーライルや、
羞悪(しゅうお)の心は義の端(はじめ)なり」と教えた孟子などの言葉を記しておられます。



花菖蒲2
    武士を思い起こさせる花菖蒲     
                  撮影 光の仕事人





★ 名誉に敏感すぎるサムライたち ★



サムライは、自分に与えられた〈侮辱〉に対しては、とても敏感に反応したようです。
サムライが〈名誉〉を重んじたために、〈名誉〉の名において遂行された争闘や殺害も多くあったということです。

極めてささいな〈侮辱〉によっても、短気な慢心者は腹を立て、たちまち刀に訴えて多くの無用なる争闘を引き起こし、多くの生命を絶ったということを、新渡戸氏は述べられています。
(現代でも、すぐにカーッと頭に血が上って、暴力に及ぶ輩は五万といますね。彼らは、そういう短気なサムライの生まれ変わりなのかもしれませんが)

恥辱に対する恐怖感が、サムライにとってどれほど大きかったかが、うかがえますね。
結局自信がないんですね。真に自信がある人は、何を言われたってびくともしませんから。
(わたしから見ると、侮辱されてすぐに怒って刀を抜くようなサムライは、ほとんど病気、あるいは乱心、とどのつまりは悪霊にとり憑かれているとしか思えません。笑)

よって、ささいな刺激によって立腹することは、〈短気〉として、嘲笑されたということです。(さもありなん!)

ならぬ堪忍するが堪忍」や「己を責めて人を責むるな」といった教訓の言葉があるのも、名誉を重んじるための行きすぎの行動を〈寛大〉と〈忍耐〉、〈我慢〉の教えによって相殺(そうさい)しようとしたわけです。

しかし、寛容、寛大、忍耐などの境地の崇高な高みにまで到達した人は、ごく稀であったと、新渡戸氏は述べています。
名誉は「境遇より生ずる」のではなく、「各人がよく自己の分(役割)を尽くすことにある」と真に気づいていたのは、ただ少数の知徳に秀でたる人々だけだったということなのです。
いつの世も、真に気づいている人というのは、稀少だということですね。


また、名誉を重んずる念は、「自己の生命をも絶つ」十分な理由となったようです。

名誉の失われし時は死こそ救いなれ、
死は恥辱よりの確実なる避け所


このガ―ス(イギリスの詩人)の言葉のように、サムライは名誉の問題や複雑な問題を解決するカギとして、〈死=切腹〉を受け容れたのです。



★ サムライ・戦士の光と影 ★



武士道」は、その文字の通り、〈武士の道〉であり、〈男の行く道〉です。
サムライ、すなわち〈戦士エネルギー〉は、〈男性エネルギー〉そのものです。
その特徴は〈攻撃性〉にあります。
力、技、正確さ、明晰な思考力、死の覚悟などがなければ、戦いに飛び込んでいくことはできません。
いったい何のために飛び込んでいくのでしょうか?

それは、大いなる〈正義〉のため、自己超越的な〈忠誠心〉ゆえにであり、個人的なエゴのためではありません。
これは、会社のために心身を日夜惜しみなく投入している現在の男性たちにも当てはまることではないでしょうか?
肩衣に袴というサムライのスタイルが、背広とネクタイに変わっただけですね。
さすがに刀はもっていませんが、代わりに携帯電話とパソコンをもっています。(笑)
彼らは仕事のために命をかける職業戦士といえるでしょう。


しかし、今現在の男性たちは、必ずしもこのような職業戦士であるとは限らないでしょう。
会社のためというよりは自分のため。かなり個人的なエゴで固まっている人たちも多く存在するように感じます。実際のところ、どうなのでしょう?
 

★「武士道」というのは、サムライのいわゆる光の部分を説いています。
しかし、かがやいて見えるサムライにも影の部分はあるわけで、特に女性側から見れば、こんな男たちを愛した女は悲惨であるといわざるを得ません。
ともかく彼らの愛の対象は〈戦い〉であり、〈仕事〉であって、けっして女性ではないのですから。(笑)



じつは、影の戦士の影響下にある男性は破壊的で、残酷なのです。
そのエネルギーが外に向けられた場合、仕事場では部下を冷遇したり、家庭では女性や子どもに対して暴力をふるったりして、虐待するのです。
そのエネルギーの方向が内に向かうと、臆病な自分自身を虐待することになります。

先ほど述べましたが、サムライは本来ささいな刺激によって腹を立てるのは恥とされ、忍耐づよくあること、堪忍することを強いられていました。
己を責めても人を責めるな」と教えられてきたわけです。
しかし、怒りたいときにも怒れず、泣きたいときにも泣けずでは、素直な感情の表出はできません。
それが爆発すると、ひどく残虐な行為に及ぶのです。
抑圧が最悪の状態を引き起こす」ということは、もう皆さんはおわかりですよね?


悪をくじき、正義のために剣をとる」などと言って、いくらサムライを美化したところで、究極の仕事は「人殺し」です。
自国を守るために、他国の人の命を奪うことは当然あります。
光の戦士であろうと影の戦士であろうと、剣を持って戦えば、結果的には同じです。

人を大根やニンジンのように、バサバサと斬りまくっているサムライというのは、決してカッコよくはありません。
ラストサムライ」という映画がありましたが、合戦の様子などはあまりにも悲惨で、眉をひそめたくなりましたね。
サムライのカッコよさは、あの場面にはありませんでした。

真のサムライは、やたらに人を斬り殺すということはしません。
相手が斬りかかってきたとき、やむなく相手の刀を奪う「無刀取り」という技がありますが、その精神に到達できたサムライこそ、真のサムライと呼べるのではないかとわたしは思っています。
(柳生流『兵法家伝書』〈活人剣〉に「無刀の巻」があります)

JIN-仁-』(村上もとかによる漫画をテレビ化)の主人公である南方仁(みなかた じん)は、戦(いくさ)で傷ついた戦士たちを敵味方なく介抱していました。
さすがに愛深く、「仁」という名前をもっている人だけのことはあるなと思い、感動しました。
敵と言っても、ただ敵側にいるだけのふつうの人たちであって、その人たちに対して恨みがあるわけではないのです。

問題があるのは、いつも戦を企てる大将や側近たちです。
悪者はいつも頂点に立っているだけで、自らの手を汚しません。
多くの人の命を無駄にしないためにも、闘いは大将同士ふたりきりでやってほしいものですね。
そうすれば、すぐにけりがつきます。(笑)

いつも死と向き合っていたサムライたち。
生のプロセスに明確な倫理観や宗教観をもっていなければ、なかなか生きづらかったのではないでしょうか。 (次回につづく)


ハート
戦士のエネルギーは、かつて葛藤の星であったオリオンから来ています。
サムライ・戦士は、オリオン帝国に対して元々「他者への奉仕」を実践していた人たちで、
その後帝国に反旗をひるがえした人たちの魂が転生したものだと思われます。
(これは、直観で得た内容です)

殿様に仕え、忠義を尽くすサムライの姿は、まさに「他者への奉仕」そのものです。
「自己奉仕者」は、まちがいなくサムライにはなれません。
自己にしか奉仕できない者たちは、一時栄華を極めるかもしれませんが、
やがて滅亡していく運命にあるのです。 

太陽系でも銀河系でも、何処も同じ。
これが、宇宙の法則です。




これからの男性の生き方を考える―少年(王子)がおとな(王)になるとは?

2011年08月31日 10:40


皆さんは子どもの頃、ディズニーの「眠りの森の美女」を読んだり、映画を観られたりしたことがあるでしょうか?
そこに登場する王子さまは戦士であり、いわゆるヒーローですね。
勇敢にドラゴンと戦い、勝利を治めたあと、百年間眠りつづけていたお姫さまを目覚めさせ、結婚します。

しかし、そのあと彼らが幸せに暮らせたかどうかは、謎です。
「王子と王女が結ばれてめでたしめでたし」というのは一時的なもので、「その後も一生幸せに暮らしました」なんて、ほぼありえないとわたしは思っております。
なぜなら、戦士である王子は、戦ってお姫さまを手に入れ、結婚することまではできるのですが、そのあとの家庭生活を営むことは、非常に苦手(笑)で、困難であろうと推測できるからです。


★ 王子が王女を幸せにできない理由 ★



なぜ? と、不思議に思ったあなた、なぜ王子は家庭生活が苦手なのだと思いますか?

それは、敵を征服したあとの平和なときをどう過ごしてよいのか、王子は学んできていないからです。
王子は敵と戦うために日夜身体を鍛え、ハードな訓練に耐えてきたのです。
そして、何よりも王子が愛するのは「戦うこと」なのです。(戦うのはひとつのゲームみたいなものなんですね)
特に少年ヒーローともなれば、スタンドプレイが大好きで、常に他人を感心させ、他者をコントロールしようと苦心します。

どうやって名誉を得ようかと、頭の中はそのことでいっぱいなんです。
まだ未成熟な坊やなのです。(そんな政治家や実業家さんたちが、世の中にはわんさか(笑)いますね~)
ですから、女性を一心に愛することなどできっこありません。(笑)

もし、万が一愛しでもしたら、最後です。彼は戦場に行けなくなってしまいます。おそらく他の戦士たちも皆同じでしょう。
こんなことを言うと、お叱りを受けるかもしれませんが、多かれ少なかれ、戦士たちは女性をメイドか娼婦くらいにしか見ていなかったのではないでしょうか。(これは戦士に限ったお話です)

昔のおとぎ話や、ヒーローとお姫さまの物語が、結婚式、あるいは結婚する直前で終わっているのは、無理もない話です。
そのあとを描いても、全然面白くも何ともないからです。(笑)
先ほど述べたとおり、実際に彼らの関係性はそこで終わりになるであろうと推察できます。

それまで王女を獲得するために命をかけて勇ましくドラゴン敵・悪者の象徴)と戦い、それに打ち勝って彼女を手に入れたにもかかわらず、彼は彼女をどう取り扱ってよいかわからず、戸惑っているうちに破局を迎えるのがおちなのです。
王女も、そんな王子にまるで魅力を感じることなく、「なーんだ。こんなにつまらない男だったの?」と失望するのは目に見えています。

男性が何か崇高なる目的に向かって、命をかけて真剣に邁進している姿に、女性は惚れ惚れとし、カッコよさを感じるわけで、毎日何もせずにぶらぶらして、一日中寝ころんでテレビを見ている亭主には、何の魅力も感じません。(笑)
ですから、物語の最後は「王子と王女は、とうとう離婚してしまいました。おしまい」というふうになるわけです。(ゲーム終了!)
非常にネガティブな後味が悪い結末ですね。

では、どうしたら、王子はポジティブな豊かな生産性のある方向へと向かうことができるのでしょうか? 
今回は、それを考えてみたいと思います。


     夏の花1
           可憐なトルコ桔梗  撮影 光の仕事人



★ 少年(王子)がおとな(王)になるとは? ★



王女を真に愛せないこのヒーロー(王子)は、破局を迎えたことで初めて自分自身に限界を感じることでしょう。
それまでは、自分に限界があることなど知らなかったのです。
不死身だと思っているんですね、ヒーローというのは。

一旦死んで、〈少年〉から〈おとな〉へと変容しなければ、彼は王女を真に愛することも、またわが子を愛することもできないのです。
真に成熟した男性は生産的であり、生殖的であり、養育するエネルギーに満ちあふれています。 
でも、王子にはそのエネルギーがありません。
要するに、愛する能力がないということなのです。



★「王子=少年ヒーローが一度死んで、おとなの王になる」とは、どういうことでしょうか?
そして、「死ぬ」とは、どういうことでしょうか?
(ヒーローの最期というのは、必ず「死んで天に召される」というシナリオがあるのです)

☆それは、低次の意識から高次の意識へと変容することです。

真に成熟した「おとな」とは、わたしなりの解釈でいきますと、〈精神的に統合された人〉、すなわち〈男女両性具有〉になり得た人です。
そして、〈本物の愛とは何かを知った人〉と言えるでしょう。

あらゆる面で統合され、自分に対しても他人に対しても愛(慈悲)の心を持ち、義務と責任を果たしていくことができる人。
混沌とした感情や制御できない行動をも安定させ、冷静沈着をもたらすことができる人。
豊かさと歓喜をもたらしてくれる人。


それが「王子=少年ヒーロー」が変容すべき「」の姿なのだと思うわけです。
未熟でダークな暴君ではなく、真の成熟したおとなの「王」です。
それは、肉体を鍛えるだけでは達成できません。
精神的、霊的な学びがおおいに必要なのです。



★ 日本のサムライが培った精神性 ★



日本には「武士の道」という倫理観があり、特に戦乱のさ中にいたサムライたち(戦国時代の武士)は、自らの心に恥じない、また他者の前に恥じない尊敬に値する人として生きなければいけないという自覚を深めてきました。「自敬の精神」があったわけですね。
そして、その「自敬の精神」をもって、儒教を受け容れたのだといえるでしょう。

儒教は人間の一員としての武士のあるべき様を説いており、それはサムライにとって、自分という者を「人間としてのあるべき人間たらしめる道」であったのです。
〉は、人間の本質のみならず、宇宙の本質へとつながります。
〉はそこ(宇宙)から定められてくるものだということです。
〉を重視するサムライたちが「至誠天にあり」と思うに至ったのは、深遠なる真理として、それを捉えていたからだと思います。
〉、〈〉、〈〉、〈〉など、一文字のみを思ってみても、ひとつひとつが深遠で、人によっても感じとるものは千差万別であろうと思います。

江戸時代に多くの学者たちがそれぞれの自説を語っていますが、「いかに人には考え方の相違があるか」ということがわかりますね。
(『南総里見八犬伝』には「仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌」がありましたね~。また、読みたくなってきましたよ。笑)


★ 今いったい何が大切なのか ★



戦う」という最大の目的がなくなった現在の男性は、〈精神性〉と〈霊性〉をしっかりと取り戻す必要性があるのではないかとつよく感じます。
(残念ながら、現在の男性には、崇高な精神性と霊性を感じることができないのです)
男性たちは、早くそれに気づかなければ、次元上昇は果たせないと思います。

★今いったい何が大切なのか―

これは男性だけでなく、女性にも伝えたいことですが。
アセンションがらみの外側に関する知識や、天変地異のネガティブなニュースにばかりに気をとられていないで、日常生活で人としてやる必要のあること、自分自身が今生でやろうとしていること(クリアする必要がある課題)に取り組み、それをしっかりとやってくださいよということです。

マインドばかりでスピリチュアルを理解しようなんて思ってもムダなことです。
実際に頭ばかりで考えている人は、わかったようなふりをしていても、ほんとうはわかっていないのです。
その人の言動をみれば、会得できているかどうかはすぐにわかってしまいます。
スピリチュアルは、ハートでしか理解できないことだからです。

今「武士道」シリーズを載せておりますが、少人数ながらワクワク感と共にとても賛同してくださっている方々がいらっしゃるのと、わたし自身がとても楽しんで書いているため、なかなか終わりそうにありません。(笑)

「大和魂」といわれた日本人らしさが消えた現在、この精神はほんとうに大切です。
随分昔に天河神社を訪れ、宮司さんとお話をしたとき、「今、真の武士の姿を描きたくて、時代小説を書いています」と言ったら、「武士道こそが、今真に必要な精神です!」とおおいに賛同してくださったのを思い出します。
もし、皆さんが、本体や分霊を含めて過去生で日本に生まれていたのなら、特に戦乱の世に生きていたのなら、「日本人独特の死生観」というものを持っておられたことと思います。
当時の人々は死を前にして、死を見つめることで、今いかに生きていくかを考えたのです。
次回はサムライの「覚悟」と、仏教でいう「悟り」について、フォーカスしてみたいと思います。お楽しみに。


ハート
自己中心に陥った王子や王女が多い世の中、
ひとりひとりが真の王となり、
真の王女となっていただきたいと願います。





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