数秘で見るマザー・テレサの生涯 

2011年03月01日 13:50


あなたは*「マザー・テレサ」と呼ばれて、世界中に名を知らしめたひとりの修道女のことをご存じのことと思います。
1997年9月5日に亡くなりましたが、昨年にはマザー・テレサの生誕100年際も行われたようです。

(*マザー・テレサは1910年8月26日、アルバニアに生まれ、1997年9月5日に没するまで、カトリック修道女として、「神の愛の宣教者会(1950年設立)」を通じ、貧しい人、病める人、命の灯が消えかけている人に献身することに生涯を捧げた。1979年にはノーベル平和賞を、1980年にはインド最高の国民栄誉賞にあたるバーラット・ラトナを受賞。また没後の2003年10月19日、ローマ法王庁による列福と「福者カルカッタのテレサ」という称号が与えられている)



★ 手紙からわかったマザー・テレサの心の闇 ★



さて、マザー・テレサの生前の*書簡、すなわち、彼女が懺悔(ざんげ)聴聞司祭たちに送った手紙の内容が2007年に本として出版され、彼女の「心の闇」が明らかになりました。
そのために、彼女を批判する人たちが続出しましたね。(もちろん、彼女が生きているときにも、批判者は多くいたであろうと思われますが)書簡が発表された後は、彼女を信奉していたシスターやクリスチャンたち、また一般の人たちのショックはあまりにも大きく、世界中に大きな反響を巻き起こしたのです。

*書簡について……「神の愛の宣教者会」の司祭であったブライアン・コロディエチェク神父によって、テレサの書簡が一冊の本として出版された。
テレサがカトリックの神父たちとの間で交わした40通以上もの手紙には、生前は世間に一切知られることのなかった彼女の内面が赤裸々に綴られていた。
*2007年・DOUBLEDAY RELIGION発行 “Come Be My Light”  日本語版は「マザー・テレサ書簡集 平和をもたらすために」 片柳弘史訳 ドン・ボスコ社 絶版



★では、なぜ世界中に大きな衝撃と反響が起こったのでしょうか?

それは、手紙に綴られた彼女の心の内面と、常日頃人々に見せていた外側の彼女の言動とが、あまりにもかけ離れていたからです。
人々が、彼女を理想的なキリスト教信仰者・揺るぎない不動の信仰者と思い込んでいたからにほかなりません。
マザー・テレサが世の中(外側の世界)で見せていた姿は、そう思い込ませるのに十分だったのでしょう。
次のようなマザー・テレサの手紙があります。

「私の心の中に恐ろしい闇があるために、まるですべてが死んでしまったかのようです。私がこの仕事を始めるようになって間もないときから、このような状態がずっと続いています。」
(1953年 テレサ43歳のとき ペリエール大司教への告白)

「私の魂の中には、あまりにも多くの矛盾があります。神への深い思慕の情――神との触れ合いを渇望するその思いが、繰り返し私に苦しみを与えるのです。私は神から求められてはいません。神から拒絶され、虚しく、信仰もなく、愛もなく、熱意もありません。私の魂には何ひとつ魅力あるものがありません。天国は何の意味もありません。それは私には空虚な場所のようにしか感じられません。」
(1957年 テレサ47歳のとき ペリエール大司教への告白)

「主よ、あなたが見捨てなければならない私は、いったい誰なのでしょうか? あなたの愛する子供は今、最も嫌われ者になっています。あなたから求められず、愛されず、私はあなたから捨てられてしまいました。私はあなたを呼び求め、すがりつきますが、あなたは応えてくれません。闇はあまりにも暗く、私は孤独です。求められず、見捨てられて、私は独りぼっちです。愛を求める心の寂しさに耐えられません。
(1959年 テレサ49歳のとき ピカシー神父への告白)



★テレサは、「私がこの仕事(インド貧民街での奉仕の仕事)を始めるようになって間もないときから、このような状態がずっと続いています」と書いていますが、この「恐ろしい闇」は彼女がノーベル平和賞を貰った時も、そののちも、彼女が息を引き取る前までつづき、結局テレサはその闇を克服できないままで亡くなってしまったのです。
神の存在に対する確信が得られず、「イエスが自分から去ってしまった、もはやイエスに愛されていない」と感じ、孤独に悩みつづけたテレサ。どうしてこのような結果となったかを、わたしなりに考えてみました。


★ 軌道数9を生きたマザー・テレサ ★



1910年8月26日生まれのテレサは、数秘では《軌道数9》の人です。

9というエネルギーは主に「慈悲」や「人類愛」を表しますが、このエネルギーは基本的にはすべてのエネルギーを含んでいるので、現実的には非常に難しい数字だとされています。
9の学びは「信頼すること」と「手放す」ことにあります。

テレサ自身も、これらを学ぶために9というエネルギーのもとに生まれてきたはずです。
でも、結果的には「神を信頼すること」と「神を手放す」ことができず、その狭間で悶々と悩みつづけて生涯を終えたという感じで、結局そのエネルギーを完璧に学び、体験し、卒業するところまではいかなかったと思われます。

また、テレサの感情のなかには、学校の先生がいて、「このようにわたしは感じるべきだ」とか、「あなたはこうやるべきよ」とか、「正しい、正しくない」を常に感じている人であったことが数秘から読み取れます。(感情面が6)
また、彼女のチャレンジは、27歳~死ぬまで「6」という数字が続いていました。
これは「自分自身の真実に責任を取っていく」という非常に大変な課題が与えられていたということです。
テレサはその課題に押しつぶされそうになっていたのではないでしょうか?

ほほえみは仮面」だと告白していたテレサは、自分の外側での言動(人前では堂々と神の愛を語るテレサ)と内側での真実(神に見放され、愛を失っているテレサ)とのあまりのギャップに罪悪感を抱いていたであろうと思うのです。

テレサは、そういう自分自身を真に愛することができたでしょうか?
神にまで見放されたと思っている自分を、とても愛せませんよね。
そのように自分自身を愛せない人が、貧しい人たちをほんとうに愛することができると思いますか?

彼女はひたすらイエスのために、イエスを愛するがゆえに、貧しい人たちに奉仕をしてきました。それは厳密に言えば、イエスを愛するがためであって、貧しい人たち個々のためではなかったということです。

テレサは、つぎのように言っています。

もし貧しい人々が飢え死にするとしたら、それは神がその人たちを愛していないからではなく、あなたが、そして私が、与えなかったからです。
神の愛の手の道具となって、パンを、服を、その人たちに差し出さなかったからです。
キリストが、飢えた人、寂しい人、家のない子、住まいを探し求める人などのいたましい姿に身をやつして、もう一度来られたのに、私たちがキリストだと気づかなかったからなのです。

貧しい人々の中で最も貧しい人々をキリストご自身の姿として助けてゆきます。

私のもとへ来たシスターたちの仕事は、人の理解を超えています。
その仕事ができるのは、手を触れる相手が、神の子だからです。
つまり、貧しさにあえぐ人は、姿を変えたイエスなのです。

貧しい人々の中で最も貧しい人々は、人間の苦しみを負ったキリストにほかなりません。

私は、自分がふれるすべての人の中にキリストを見ます。
なぜなら、キリストが「私は空腹と渇きを感じ、私は裸で病気に苦しめられた。私は家がなく、あなたは私を受け入れた」と言っているからです。
ただそれだけのことです。
自分が一切れのパンを与える度毎に、実はキリストにパンを与えているのです。
私たちが飢えた人や裸の人を見つけなければなければならないのは、そのためです。
貧しい人々と完全に結びついているのはそのためです。



★このテレサの言葉を読んで、あなたはどうお感じになったでしょうか?

彼女は「貧しい人をキリストとみなすこと」で、奉仕ができたということですね。
そう思い込まなければ、彼女はとても奉仕などできなかったということになります。
(何度も修道院に戻りたい思っていたことからもうかがえます)


この世の最大の不幸は、貧しさでも病気でもありません。
自分が誰からも必要とされないと感じることです。
そして、今日の世界における最悪の病は、そういう人に対する愛が足りないことです。
この世で一番大きな苦しみは一人ぼっちで、だれからも必要とされず、愛されていない人々の苦しみです。



★「この世で一番大きな苦しみは一人ぼっちで、だれからも必要とされず、愛されていない人々の苦しみです」というテレサのこの言葉は、おそらく彼女が自分自身の体験から生じた思いを語っているのだと思います。
「ひとりぼっち」と感じていたのは、彼女が独りあることに喜びを感じる自信のある7ではなくて、自信のない孤独な7を表現数としてもっていたからです。

数十年前、わたしはテレビでマザー・テレサのドキュメンタリ―を見たことがありましたが、彼女はいつも共に働いていたシスターたちには厳しすぎるほど厳しく、とても頑固で意地悪な人としか思えず、多くの人が思っておられるような「聖女」や「天使」のような印象は持ちませんでした。
それこそ9のエネルギーのネガティブなニ面性が表れていた気がします。

イエス・キリストに愛されたくて仕方がなかったテレサが、そのイエスから愛されていないことを生涯感じつづけていたために、彼女の人生は非常に暗く悲惨なものになってしまったのです。
若い頃は希望と光に満ち満ちていたのに。イエスの姿を見たばかりに…。

次回は彼女がインドへ行く途中で見たイエスの幻影と幻聴について、フォーカスしてみたいと思います。



マザーテレサの生涯―彼女に起きた神秘体験とは?

2011年03月04日 00:10

マザー・テレサは18歳のときに、マケドニアを離れてイエズス会のロレット女子修道会に入り、そしてインドのカルカッタ(現コルカタ)で修道院生活を始めました。
それから18年経ち、テレサが36歳のときに大転機が訪れます。
それが“イエスを見、イエスの声を聞く”という神秘体験でした。

それはダージリンへ向かう列車の旅の最中に起きました。
そのときテレサは、イエスから「修道院を出て貧民街に行き、もっとも貧しい人に仕えなさい」との召命(しょうめい)を受けたといいます。
それが発端となり、38歳のときに修道院を出て、院外居住者としての生活を始めるようになり、その2年後に「神の愛の宣教者会」を開設したのです。

テレサの人生を大きく決定した神秘体験については、彼女自身も生前少しは語っていたようです。
しかし、テレサの死後に出版された書籍や “Come Be My Light”によって、さらに詳しい内容が明らかになりました。
では、どのような神秘体験をしたのか、数冊の文献に載せられたテレサの証言を参考にして見ていきましょう。


★ テレサの神秘体験とは? ★



インドのカルカッタ(現コルカタ)で修道院生活を送っていたテレサは、結核の兆候が見られたので、空気のきれいなダージリンに行って静養するようにと命じられ、1946年9月10日、ダージリンへと向かいます。
その列車のなかで、テレサが祈っていると、眼前に突如十字架につけられたイエスの姿が現れたのです。そのとき、イエスは “I THIRST” 「私は渇く」と叫ぶのです。
十字架につけられたイエスのそばには、母マリアや使徒ヨハネやマグダラのマリアの姿も見えたといいます。思いがけない光景に遭遇し、テレサはひどく混乱しました。

列車の中での神秘体験をどのように考え受け止めてよいのかわからず、一心に祈っていると、聖母マリアが現れて「イエスの言われることに“はい”と言って従いなさい。今はわからなくてもその言葉に従いなさい」と語りかけます。

それでも決心が固まらないテレサに対して、イエスは再び現れて呼びかけます。
イエスの声は、早く修道院を出て貧民街に移るようにと催促しました。
下記はイエスがテレサに語ったという内容の一部です。

「私はインドの修道女がほしい。マリアやマルタになることのできる、私の愛の犠牲者がほしい。人々に私の愛を輝かせるほどに、私と一体になるような者がほしい。十字架の私の貧しさに包まれた自由な修道女がほしい。十字架の私の従順に包まれた素直な修道女がほしい。十字架の私の愛に包まれた思いやりにあふれた修道女がほしい。
おまえは私のために、このことをなすことを拒むのか」

「おまえは、私のように人々のために死んではいないではないか。だから、彼らに何が起こっても気にならないのだ。
おまえの心は、私の母の心のように、悲しみにおぼれたこともない。私も私の母も、人々のためにすべてを与えたが、おまえはどうだ。おまえは私の呼びかけを、自分の召命を失うこと、世俗的になること、また辛抱強さを失うことのように考えているではないか。
何を恐れているのだ。おまえの召命は人々を愛し、苦しみ、彼らを救うことだ。そしてこの一歩を踏み出すことは、私の願いを満たすことになるということを知るがよい。それがおまえの召命なのだ。

おまえは粗末なインドの着物、私の母が着ていたような質素で貧しい服をまといなさい。
今のおまえの修道服は私の象徴であり、聖なるものである。
しかし、今度のサリーはいっそう私の象徴であり、聖なるものとなるであろう」


(五十嵐薫著『マザー・テレサの真実』PHP文庫参照)

このようなイエスの言葉に対して、「ロレット修道会でこれまで通りあなたのために努めていきたい」とテレサが述べると、イエスは次のように語ります。

「私は、インド人の神の愛の宣教者たちがほしいのだ。最も貧しい人々の中にあって、病気の人や死に行く人々、小さなストリート・チルドレンの中にあって、私の愛の炎となりうる修道女になってくれるような神の愛の宣教者たちがほしい。おまえに貧しい人々を私のもとへ連れてきてほしいのだ。そうしたら自らの命を私の愛の犠牲として捧げる修道女たちは、貧しい人々の魂を私のもとへ連れてきてくれるだろう。
私はおまえが最も無能で、弱く、罪に汚れていることを知っている。しかし、私はそういうおまえだからこそ、私の栄光のために使いたいのだ。
それでもおまえはこれを断ると言うのか」


(五十嵐薫著『マザー・テレサの真実』PHP文庫参照)

テレサは恐くなって、イエスが求める使命を自分から取り除いてくれるようイエスに頼んでほしいと、聖母マリアに懇願します。
しかし祈れば祈るほど、イエスの声はますます鮮明なものになっていき、駄目押しするかのように、テレサに語りかけるのです。まるで脅迫しているかのようにです。

テレサはイエスの言葉を記した手紙をペリエール大司教に送った後、ダージリンからアサンソールに移動します。そして徐々に、イエスの召命に従って生きていくことを決意するようになるのです。
そして、アサンソールで瞑想の日々を過ごし、そこでイエスとのさらなる神秘体験を続けていくことになります。

テレサは「アサンソールでは、まるで主(イエス)が私に自分を丸ごとくださったようでした。しかし甘美で慰めに満ち、主と固く結ばれた6カ月はあっという間に過ぎてしまいました」と述べています。


★ テレサに現れたイエスとは? ★



★さて、ここで重要な点は、テレサが見たり聞いたりしたイエスの姿や声が、本物だったかどうかということです。
あなたはこのイエスの言葉を読んでどう感じられましたか?
本物と思いましたか? それとも偽物と感じましたか?
これは、あなたの直観的知覚力を試すのによい材料になるかもしれません。

テレサは最初の頃はイエスのことを「だれかが」と言っています。
何者かわからないものが自分に対して「インドで貧しい者のために働け」と言っていると、恐怖さえ感じていたのです。これは、正常な感覚だったとわたしは思います。
しかし、度重なるその声をイエスと信じるようになっていったのです。

★では、実際その声はだれのものだったのでしょうか?

わたしはその真実をハイアーセルフに尋ねてみました。
その声は本物の「イエス」でしたか? 
答えはノーでした。
洒落ではありませんが、答えはイエスではなかったのです。
実際には、それはイエス本人のものではなかったということです。
では、だれの仕業かということですが、「かつてインドで生きていた貧しい霊人の集団」とだけ言っておきましょう。(これは、あくまでもわたしの意識レベルでの調査なので、鵜呑みにはしないで、自分で判断してくださいね)

テレサは「イエスとの合体」という体験をしたと言っています。
これは昔から「神との合一体験」や「接神体験」として知られてきたものです。
これは、神と一体になったかのような感覚のなかで、霊的エクスタシーを体験する神秘現象です。
このエクスタシーの世界を一度体験すると、魂にその強烈な刺激が刻印されて、再び最高の歓喜、幸福感を味わいたいと渇望するようになるようです。

わたしもそれらしき体験をした記憶がありますが、一度で十分満足感がありました。
ただ、私の場合は、神やイエス・キリストではなく、ハイアーセルフとの一体、男性性と女性性の合体というものでしたが。

テレサはこの体験をしたために、病みつきになってしまったというのが実情でしょう。
とにかくその至福の体験がそれ以降得られなくなったことで、彼女の「心の闇」が始まり、深くなっていったのですから。
ただし、その相手は本物のイエスではなかったということです。
(テレサから相談を受けていた5人の司祭、神父たちは、テレサが言っている「イエス」が本物か偽物かという判断ができなかったのでしょうか?)

テレサはイエスその人につぎのように言っています。

主よ(イエス様)、あなたは幼少期より私を召命され、あなた自身のものとしてこられました。
私たちは共に同じ道を歩んできましたが、今、私はそれに背いて別の道を行こうとしています。
地獄にいる者は、神を見失ったために永遠の苦しみを味わうようになると言われていますが、そうした彼らでも“神がいる”というわずかな希望があるならば、あらゆる苦しみを耐え忍ぶことができます。
しかし私の魂は神を見失い、神が私を必要としていない、神が存在していないという魂の激痛に苛(さいな)まれています。
主よ、どうか私の不敬をお許しください。
私は「すべてを語るように」と言われました――私をすっぽりと取り囲んでいる闇の中で、私は自分の魂をあなたに向けて高めることができません。
光もインスピレーションも私の魂に入ってきません。
私は人々の魂に向けて、神の慈愛を語っていますのに……。

私は、いったい何のために働いているのでしょうか? 
もし神が存在しないとするなら、魂は存在できません。
もし魂がないのなら、主よ(イエス様)、あなたも真実ではありません。
 

私の心には信仰がありません。愛も信頼もありません。
あまりにもひどい苦痛があるだけです。

あなたと私との間には、恐ろしいほどに高い垣根(分離)があります。
私はもうこれ以上、祈ることはできません。
あなたと私を結びつける祈りは、もはや存在しません。
私はもう祈りません。私の魂はあなたと一つではありません。

私はあなたが、大きな愛と力をもって私を今の仕事に召命された事実を疑ってはいません。
私を呼び寄せられたのがあなたであったことを、私は知っています。
この仕事は、あなた自身がなすべきものであるからです。
しかし私には信仰がありません。
私は信じていません。
イエス様、私の魂を惑わせないでください。
 
(“Come Be My Light”より)


★ 霊能力の危険性 ★



★テレサには霊能力があったと言う人もいますが、霊能力というものは、あっても災いをきたすだけだとわたしは思っています。
記事にも度々書いていますが、実際のところ、霊視や霊聴が可能だったとしても、それが本物であるかどうかの証拠などはどこにもないからです。
霊界の人たちは、光輝いてイエスのように本物らしく装うことなど、朝飯前なのです。
そのようなものを信じることによって、とんでもない方向に行ってしまうことは少なくありません。ですから、霊視や霊聴ができるようになりたいと思っている人に多大の危険性を感じるのです。

わたしがかつて過去生で可能だった透視能力や透聴能力を止め、今生では「見えない存在」に対して、直観と超感覚知覚力のみでとらえるようにしているのはそのためです。
その直観と超感覚が正しいかどうかを確認するために「クリスタルのペンジュラム」というツールを常に使っていますが、これも「ハイア―セルフとのつながり」と「守護神たちの守り」、そして「クリスタルとの深い信頼関係」がないと危険性が伴うために、一般の人にはお勧めすることができません。これについては、またいつか別の記事に記載する予定です。


★霊的な存在の意識レベルを判断する上で大切なことは、高級霊であればあるほど、「~せねばならない」とか、「~するべき」とか、指図や命令するようなことはけっして言わないということです。(守護霊はときどき希望を示すこともありますが、あくまでも希望であり、強制はしません)
まして神に対する服従を強いたり、マインド・コントロールしたりなど、するはずがありません。もともと自由意志を与えたのは神なのですから、相手の選択の自由を認めるのがほんとうです。
そして、意識レベルが高くなるにつれ、集合意識化して、個々人に対する望みなどはなくなり、「だれが何をしようとすべてはOKである。あなたの人生なのだから、お好きなように」というふうになっていきます。


テレサに「おまえは私のために、このことをなすことを拒むのか」とか、「私の栄光のために使いたいのだ。それでもおまえはこれを断ると言うのか」というような脅しのような言葉を繰り返し投げかけてくる者が、意識の高い存在でないことぐらい判断できるはずですね。

★もうひとつ、大切なことをお伝えしておきたいと思います。
それは、そういうものが見えたり聞こえたりしても、マザー・テレサのように執着してはいけないということです。
もし何かが見えたとしても、それは所詮は仮相なのだと知ることです。
決して本質を見ているわけではないということです。
本質は「空」以外の何ものでもありません。
「空」は目に見えません。
ですから、だれの目にも「本質」が見えるはずがないのです。
この世で起こっていることはすべて幻想なのだということです。
そして、意識レベルが異なれば、同じものがちがって見えたり、感じられたりするということです。


ということで、今回は「マザー・テレサの神秘体験」について触れましたが、次回は彼女が生涯つづけた「奉仕活動」というものにフォーカスしてみたいと思います。

マザー・テレサの生涯―彼女の奉仕とは?

2011年03月06日 17:15


★ 奉仕とは何だろう? ★



奉仕」ということばを調べると、「報酬を求めず、また他の見返りを要求するでもなく、無私の労働を行うことをいう」とあります。

その根拠となる土台には、宗教的な信念や、宗教的な意味合いの神奉仕のかたちとして、神ではないもののその代わりとしての、困難な場面におかれている隣人に手を差し伸べ、できる限りの援助を与えるというケースがある」とし、その場合の隣人というのは、「同じ信仰、たとえばキリスト教の信仰をもつ信徒仲間に限られることもあるし、また十字架を背負わされてゴルゴダの丘に向かう途中のイエスの額の汗をぬぐったナザレ人のように、同じ信仰を持たない人をも含めていわれることもある」とあります。

英語では serviceですが、一般的な「勤め、業務」の他に、狭義で「神奉仕」の意味を持っており、隣人や困窮者への援助、奉仕がそのまま神奉仕につながるという意味合いで用いられるということです。(ウィキペディア参照)


★ 「奉仕」と「ボランティア」はどう違うのか? ★



似たようなことを表す言葉として「ボランティア」がありますね。

★「ボランティア」は、自発的な社会貢献(自分の意思でおこなう慈善行為)であり、何ものにも拘束されない自由な活動であって、無償であること。この「自発的に限る」のが、ボランティアの特徴だといわれています。

それに対して、「奉仕」は、ボランティア同様に他人や社会のために尽くすことではありますが、ボランティアのような「自発性」を問わないようです。
つまり、自分の意思でおこなう場合もあるけれども、神や教会などの要請によってやらされる慈善行為をも内包しているということなのです。

前回からお話ししているマザー・テレサというひとりの修道女が長年つづけてきた慈善行為は、あくまでもイエスからの要請を受けてやっていた行為なので、完全に「奉仕」ということになるでしょう。
このマザー・テレサの「奉仕」についてですが、そこにいくつかの問題点を感じるのです。

★第一に、「神の要請」だからと言って、慈善行為を押しつけていた可能性が大いにあったのではないかということです。
たとえば、今にも死にそうな人が道端に倒れている場合、その人の意志を確認もしないうちから、勝手に病院やテレサが作った「死を待つ人の家」に運んで手当をするといったことです。
その人は、このまま静かに死なせてほしいと思っていたかもしれません。現に「大きなお世話だ」と、非難していたインド人は数多くいたと思われます。

なぜなら、インド人には「カルマの思想」、つまり「因果応報の思想」が強く根づいているからです。
道端に倒れている人たちというのは、その人たちそれぞれのカルマによる結果であり、前世からのおこないの報いでもあるのだから、然るべきであるという考え方ですね。
これに対する興味深い話があるので、参考として記しておきたいと思います。


★ カルマの法則の観点から考える ★



これは、現在、国際的な直観医療の第一人者として活動されているキャロライン・メイスという神学博士が書いておられた内容の概要です。
彼女がインドのサティア・サイババのアシュラムを尋ねたとき、長年そこで暮らしているある男性からつぎのような話を聞いたそうです。

手足の不自由な子どもたちがサイババのところに連れてこられたとき、サイババはその子たちを癒さず、その男性が見たところ、その子たちよりも優先されるべきとは思えない人たちを癒しているのを見て、「なぜなのか?」と疑問を抱き、尋ねたのだそうです。
すると、サイババはその男性に「あなたには、子どもたちのカルマが見えますか?」と聞かれたのです。

男性が「見えない」と言うと、サイババはこう言ったそうです。
「私には見えます。あなたには純真に見えているあの手足の不自由な男の子は、かつて、罪なき人びとに残忍な刑を科して楽しんでいる裁判官でした。今、母親となっているあの女性は、その残忍な刑に手を貸していたのです。それでもまだ、あなたはあの子がかわいそうだと思いますか」

男性は言いました。「いいえ。あの子は、自分のしたことの報いを受けて当然です」と。
「あなたの心は、まだ人びとのカルマが見えないので、人びとに深い同情を寄せるのです」
サイババはそう言ったということです。


★ カルマを信じるインド人に対する奉仕 ★



★「カルマの法則」には、「公平性」があり、「バランス」があります。
なぜ、生まれたときに、人はこうも違うのか?」という答えがここにあります。
たとえ、同じ両親から生まれた兄弟姉妹であっても、生まれつきの不平等は生じています。
しかし、それは表面的な不平等であって、内側では過去生でのおこないのバランスをとるために今生で生じていることだと理解すれば、何の不思議もありませんね。


貧困や病気や苦痛を、とても否定的にとらえてしまって、「あー、可哀そうに! 何とかしてあげられないものか。神はどうして、この人たちがこのように苦しむことをお許しなっているのか? この世に神も仏もいないんじゃないか!」と嘆くのは、無知の骨頂だということです。

それは、なるべくしてなっているわけで、神は「それはわたしのせいではない。苦しむのは彼らが望んでそうしているのだから、わたしの知ったことではない」とおっしゃるかもしれません。
仏なら尚更「因果応報、自業自得。そんなの、ほっとけ、ほっとけ」と言われるのではないでしょうか?
神がそれを許しているということは、神がそういう状態を選んでいるということでもあるのです。

もし、あなたが毎回地上に生まれるたびに、王様やお姫様の役ばかり演じていたとしたら、どうでしょうか?
貧しい人たちの気持ちは理解できにくいですよね。
やっぱり自ら貧しい人になって、飢えで死にそうになるという体験をしなければ、本当の苦しみはわからないのです。人を殺した人は、自ら殺されてみなければ、わからないということです。

ですから、王様になることも必要だし、聖人になることも必要だし、貧しい人や悪人になることも必要だということです。ポジティブもネガティブも 光に部分も闇の部分も両方体験してみなければ、全体はわからないのですから。

だから、子どもがだれかに殺されたからと言って、親が大騒ぎをしたり、殺した相手を憎んだり、恨んだりするのではなく、その子は殺される体験をする必要があったのだと、そういう役割を今生では演じたのだと考え直してみることもできますよということです。

★すべては自分自身の選択によって起こっていると考えるのであれば、「貧困も善し、病気も善し、苦しんで死ぬのもまた善し」と肯定的に見ていけばよいということになります。 
何もネガティブにばかり考える必要はないということですね。
そこに学びと体験の重要性が隠されているわけですから。

どんな状況にいようとも、人生のすべては贈り物であり、すべてが完璧なのだということを理解できるかどうかが、カギとなるでしょう。 
あるいは、すべては幻想だと知った上で、自分の幻想を自由にコントロールしていくこともできます。



そうすると、道端で倒れている人たちを「死を待つ家」に無理やり運んで、ただ看取る(薬も使わず、効果的な治療というものはほとんどしていなかったのが実状)という行為をしつづけてきたテレサの「奉仕」というものは、何だったのかということになりますね。

「わたしは貧しい人のなかのイエスを愛し、イエスのなかで貧しい人を愛します」と言っていたテレサ。
「あくまでも、貧しい人のなかのイエスを救うのだ」と言っていたテレサ。
病気や貧困のうちに死に瀕する人たちに対して、「われ渇く」と言ったイエスの渇きを癒すために、その道具として身を捧げたテレサ。

そこには、イエスばかりがあまりにも強調されて存在していて、インドの人たちの存在が感じられないのです。(少なくともわたしには感じられないのです)彼らもイエスと同じ「神の子」であるのに。

実際のところ、本物のイエスは「私だけが神の子なのではない。全ての人が神の子なのだ」と言っています。
また、イエスは自分自身の最終イニシエーション(内なる錬金術)を通過するために十字架上の死を遂げたのであって、これは宗教とは何の関わりもないことでした。(マグダラのマリアも、「マグダラの書」のなかでそのことを語っています)

ですから、「十字架上のイエスの渇きを癒すために貧しい人に全身全霊を捧げる」というのは、ちょっと考え違いなのではないかな? ということです。

★結局のところ、その慈善行為はインド人には受け入れられ難いものだったというのは、否定できません。
それなら、テレサの奉仕はイエスを愛するあまりの自己犠牲的行為にすぎなかったということになるでしょうか?
それが、のちに彼女の心臓のトラブルとなって表れたわけです。

次回はマザー・テレサの「心臓のトラブルが伝えていたこと」について、お話ししたいと思います。


マザー・テレサの生涯―慈悲とは何か?

2011年03月08日 14:50

マザー・テレサが心臓発作を起こしたのは1983年のことでした。
1991年にはペースメーカーをつけたと記録されています。
1997年には転倒して首の骨にひびが入り、同年の夏にはマラリアにかかっています。
心臓の状態は悪化し、彼女はその年の9月に87歳でこの世を去りました。

★心臓のトラブルは、テレサの心の状態をそのまま映し出していたのだと感じます。
リズ・ブルボー著「自分を愛して」に書かれた「心臓のトラブル」に関する内容は、まさにそれを明確に伝えていると思いました。
みなさんの参考にもなるかと考えますので、彼女の文面をつぎに紹介しておきましょう。


★ 心臓のトラブルが伝えていること ★



★感情的なレベル★
自分の中心で生きている人というのは、自分のハートで物事を決める人です。
つまり、調和、喜び、愛の中で生きている人のことなのです。
一方、心臓にトラブルのある人は、それとはまったく反対の生き方をしています。
つまり、限界を超えて無理な努力をし、肉体を酷使しているのです。
そんな時、心臓は次のようなメッセージを送ってきています。
「お願いだから、自分を愛して!」
心臓にトラブルを抱えている人は、自分自身のニーズを無視して、他の人たちから愛されるためにすごく無理をしているのです。
自分自身を愛していないので、何かをすることによって、他の人たちから愛されようとするわけです。

★精神的なレベル★
心臓のトラブルを抱えている人は、早急に、物事の見方を変える必要があります。
愛は他人からしかやって来ない、と考えるのではなく、自分で自分に愛を与えるようにする必要があるのです。
愛は常にあなたの中に存在しています。
愛を外部に探す必要などないのです。
他人に依存している人は、いつまでも、愛を他人からもらうという行為をくり返さなければなりません。
でも、あなたが自分を愛し、自分を大切にするならば、愛は常に自分の中心にあるということがわかるでしょう。
愛を他人からもらう必要などまったくないのです。



上記の内容をふまえて、1962年マザー・テレサが52歳のときの、ピカシー神父への告白を読んでみてください。
彼女が外側で表現している「光の部分」と内側で表現している「闇の部分」を感じてみてほしいと思います。

「神はこのような状態にある私から、いったい何を得ることができるのでしょうか。
私には信仰もなく、愛もないのです。
先日来、私の心がどれほど暗く落ち込んでいたか、語ることさえできません」

「闇はあまりにも暗く、痛みはあまりにも辛いのです。
人々は、私の信仰を見て、神のもとへ引き寄せられると言います。
これは人々を偽っていることにならないでしょうか? 
私は、本当のことを言いたいのです。“私には信仰はありません”と伝えたいのです。
しかし、その言葉を口にすることはできません」



1979年テレサは“ノーベル賞”受賞のスピーチの中で、次のような言葉を述べています。

「私は、いただいたノーベル平和賞の賞金で、家がない多くの人々のためにホームをつくろうと思います。なぜなら“愛”は家庭から始まると信じているからです。
もし貧しい人々のために家をつくることができたなら、もっともっと愛が広がっていくと思います。
そして愛を理解することによって私たちは平和をもたらし、“貧しい人々”――家庭の中の、国家の中の、世界の中の貧しい人々に福音をもたらすことができるでしょう。
(中略)
私たちの心に、イエスを愛する喜びを持ち続けましょう。
出会うすべての人々に喜びを分け与えましょう。喜びを放つものは本物です。
私たちはキリストと共にいないかぎり、幸せにはなれません。
キリストは私たちの心の中にいます。
キリストは私たちが出会う貧しい人々の中にいます。
(中略)
私たちにはイエスがいます。イエスは私たちを愛しています。
もし私たちが、神(イエス)が私たちを愛しているということを忘れさえしなければ、イエスが私たちを愛するように、私たちもお互いに愛し合うことができるのです」



しかし、1979年ノーベル賞受賞の3ヶ月前(テレサ69歳のとき)彼女はピート神父へつぎのような告白をしていたのです。

「イエスは、あなた(ピート神父)を非常に愛しておられます。(中略)しかし私はといえば、沈黙と虚しさがあまりにもひどく、見ようとしても何も見えず、聞こうとしても何も聞こえません。祈りで舌は動きますが、何も話せません……。(中略)どうか私のために祈っていただきたいのです。」


★このカテゴリ「マザー・テレサを語る」についての記事は、今回で4回目となりますが、その真実を知って驚かれた人もいらっしゃるようです。

人は外側では栄光に満ちているように見えても、内側では暗く悶々としている場合もあるのだということ。
何事も外側だけで判断してはいけないということ。
表面だけをとらえていては、全体を知ったことにはならないということ。
だから、見かけだけで人や事象を判断してはいけないのだということを、知っていただきたかったからです。
そして、自分の狭いものの見方に気づき、「思いの制限をひらく」ことの重要性に気づいてほしかったからにほかなりません。


★「奉仕」や「ボランティア活動」をするとき、相手が喜んでくれるのを感じると、自分もうれしくなるから、ただ自分がそれをすることが大好きで、楽しいからこそするのだということであれば、何の問題もありません。それはすばらしい働きです。
でも、だれかさん(神やイエス?)から愛をもらうため、天国(死後、高い階層)に行くため、あるいは自分が愛されるべき人間であるということを証明するために慈善行為をするのだとしたら、それは「~のため」という条件つきの愛(欲)?になってしまいます。

「こんなにあなたのために尽くしているのに、あなたがそうしろと言ったから奉仕をしているのに、イエスよ、あなたはちっとも私のことを愛してくれない」と落ち込むのは、何かちがうんじゃないかということです。
そんな恨みつらみを毎日のように思うくらいなら、インドから脱出して、修道女もやめて、結婚をして家庭を築けばよかったのではないかと思います。「もっとも大切なのは家族です」「“愛”は家庭から始まると信じているからです」と言っていたテレサですから、きっとよい奥さん、母親になったことでしょう。

ほんとうの愛とは、内側からひとりでに湧き上がってくる喜びであり、その分かち合いです。ただそれを分かち合う喜び、それ以外には、どのような理由も動機もいらないはずです。
《軌道数9》は、「慈悲」を表しますが、自分に対しては慈しみを与えない人がけっこういるのです。
テレサは自分という神を慈しむことをすっかり忘れていたのです。


★ 慈悲とは何か? ★



慈悲というのは、「あわれみ、いつくしむこと」と一般的には解釈されています。
慈は積極的に利益と安楽を増すこと」で、「悲は不利益と苦を除去すること」と定義している学者さん方もおられます。

★この「慈悲」という仏教用語はとても解釈が難しいのです。

一般的には「慈しむ」ということをキリスト教的に「愛する」というふうにとらえがちですが、仏教では「愛」は煩悩のひとつとして見ているので、「慈悲」を「愛」の同意語だとしてしまうと、語弊を招いてしまう可能性があります。

慈悲の主体となる者」は、「衆生=生きとし生けるもの」のなかの一人ではあるのですが、その者は「すでに苦を越えた境地にいる者」、「苦悩から自由になった者」、すなわち「ブッダ(悟りを得た人 )」であるということです。

その苦を越えた一人のブッダが、未だ苦の中で呻吟している「生きとし生けるもの」を、あわれみ悲しみ、苦から救いだして、楽を与えようとするのが、「慈悲の思想」だということです。
ですから、基本的に苦を越えていない人が、苦しんでいる人を救い出すことはできないということになります。

「哀れむ」というなかには、「同情する」という意味や「自分は可哀そうな人たちにいいことをしているのだと悦に入る」という上から目線の少々傲慢なニュアンスが含まれている場合もあります。
キリスト教の場合の「あわれむ」は、「共に苦しむ」、「いっしょに受難を受ける」という意味合いが強いように思います。

★慈悲(コンパッション)それ自体は、とてもクールなエネルギーであるとわたしは感じています。
そこにたどり着くまでには、情熱、激しい感情(パッション)という熱いもののなかを通り抜けていかなければなりません。
そういう情熱や感情というもののなかを通り抜けてはじめて、慈悲に至るわけですね。
そう簡単に「慈悲」というものを持てるわけではないということです。


わたしが数秘術で言うところの《軌道数9》の人は、この「慈悲」というものの本質を体験し、学んでいくコースを選ばれたということです。
ぜひ悟りをひらいて、ブッダとなって「大いなる慈悲」を衆生に与えてほしいですね。
その前に、まず自分を慈しむことから始めてください。


人生の中で、自己への愛よりも偉大な愛はない。
それ以上に偉大な愛はないのである。
なぜなら、自己を抱き容れてはじめて、自由というものが存在するからだ。
そして、喜びが生まれてくるのはその自由からなのだ。

そして、喜びが生まれてはじめて、神を見ること、知ること、抱き容れることが可能となる。
最も偉大で深く、意味のある愛とは、体という壁の中に宿りながら、動き、思いめぐらし、創造し、許し、そしてただ在るこの素晴らしい生き物である純粋で無垢な自己への愛だ。
そして、あなたが自分であるものを愛するとき、
(つまり、どんな自分であろうとそれを愛するとき)、
あなたもこの素晴らしい本質を知ることだろう。

(昔、アトランティスに生きて、アセンションしたというレムリア人のマスターのことばより)



霊的に心と身体を守る方法 総集編 その1

2011年03月10日 11:40


過去記事「ネガティブな存在に影響されたときの症状」の箇所で、先日以下のようなコメントをいただきました。



化学物質過敏症の原因を検索していて、こちらのブログに辿り着きました。

私は一時期、化学物質過敏症の方の支援に関わっていました。
彼らは同時に電磁波過敏症でもありまして、こちらのブログで書かれている「波動病」と極めて似た症状であることに驚いています。

また、「憑依」についても非常に納得できました。
なぜなら、ある重度の患者の方を支援している際、憑依したとしか思えないような、突発的な人格の変化を確認したからです。
関係者の話によると、目つきや声質の変化、攻撃性や運動能力のアップによって狂乱状態に陥り、手のつけられない状態になることもあったそうです。

化学物質過敏症(電磁波過敏症)と憑依との関係は不明ですが、他のサイトにも似たような現象が記載されていますので、とても気になるところです。
ぜひ今後も、より詳細な情報(特に憑依について)を記事にしていただけると、関係者の方の参考になるのではないかと思います。



★このようなコメントをいただき、実際に波動病で大変お困りの方がいらっしゃることを知りました。
最近「気づきの教室」を申し込まれた人の中にも霊的な影響で苦しんでいる人がおられますし、わたしの身近でもそういう影響を受けている人たちがいて、自分ではお手あげ状態であるという話を聞いています。そういう人たちに対しての対処法は、これまでにもいろんなカテゴリで取り上げてきておりますが、今回はそれらの内容を再度確認していただくため、参考となる過去記事のタイトルを載せておきます。

★まず「自分は波動病なのか?」、「ネガティブなエネルギーを受けているのだろうか?」 と考えてみてください。

そんな気がすると思う人は、まずブログの「ネガティブな存在に影響されたときの症状」及び『「サイキック・バンパイア」と「サイキック・スポンジ」』を読んでください。

★その症状が当てはまるのであれば、つぎに、「自分はなぜネガティブなエネルギー(霊的存在)に影響されているのか?」を考えてください。
(ブログ「異常波動」となった人の特徴と「異常波動」をひきつける原因 参照)

その原因をしっかりと把握することが肝心です。
その原因はまちがいなくあなた自身にありますから、じっくりと自分の言動を省みる必要があります。
異常波動の原因となっている性格の項目を読んで、自分に当てはまる性格を見つける)

★そして、原因が見つかったなら、その原因をすぐに除去するよう心がけることです。
(ネガティブ指向の解放)
「浄化」や「霊を癒す祈り」などの対処法は助けにはなりますが、過去から現在にかけての自分の考え方、思い方などの原因をまず取り除かない限り、その症状が完全に消え去ることはありません。
一時的によくなっても、すぐにまた引き寄せます。この繰り返しです。
ですから、徹底的な自己変革が必要です。


★ネガティブな存在の影響があると感じる人は、下記の「参考となる過去記事」をよくお読みいただき、忍耐強く実践してください。
(「カテゴリ」か、「全ての記事を表示する」をクリックして探してください)


☆原因とその症状についての記事☆


(カテゴリ 波動エネルギーの世界)
★ネガティブな存在に影響されたときの症状
★「異常波動」となった人の特徴と「異常波動」をひきつける原因
★「異常波動」から「正常波動」へ
★本人の準備ができていないときは、癒すことができない
★「サイキック・バンパイア」と「サイキック・スポンジ」

(カテゴリ 病気の原因を「ホリスティック」に見る)
★病気の原因のひとつに「霊の影響」がある



☆理解を深めるための記事☆


(カテゴリ 能楽「鉄輪」の女主人公のお話)
★「汝自身」を知れ―自分を愛すること
★「汝自身」を知れ―自分を赦すこと

(カテゴリ あなたが癒す「心とからだ」)
★病気を癒すキーワード
★病気の原因はすべて自分にある―自分を癒す方法



☆霊の浄化や霊的な結びつきを断ち切るなどの対処法について☆


(カテゴリ アセンションのお話)
★アセンションする地球―その真相と実態Ⅱ
(2009年の様子&ネガティブ系異星人に影響されているときの症状と対処法)
★アセンションに向けて―浄化と周波数を高める方法
★自分に悪影響を与えるものとの「霊的な結びつきを断ち切る」方法

(カテゴリ 意識を変える試み)
★意識を変える試み―悪影響を及ぼすネガティブな見えない存在に気づきを与える
★意識を変える試み―ネガティブ霊を引き寄せるのはどんなとき?
★意識を変える試み―ウツと憑依霊との関わり 
★意識を変える試み―自分のなかの観念を変える



☆霊的な攻撃を受けないために☆


(カテゴリ 「能楽「鉄輪の女主人公のお話)
★悪想念を受ける人と受けない人

(カテゴリ 「意識の変容」があなたを幸福へと導く)
★「自分自身でいること」のお話


まだあるかもしれませんが、以上が関連した内容であると思います。(最初から再度順に読んでいただくのがベストです)

 
★ あなたの分霊が影響している場合がある ★
 



今現在、死霊に影響されている人はかなり少ないと思われますが、
分霊(自分の魂の兄弟姉妹)がクリーンゾーンにいない(未だに暗い世界・ダストゾーンに存在している)場合は彼らが足を引っ張っていることがあります。
その場合は、分霊を浄化して、クリーンゾーンに行ってもらうことが先決です。
分霊が地球人なら、浄化することはさほど難しくはありません。

浄化が非常に困難であるのは、分霊が現在異星人である場合です。
特にニビル人の多くは悪質で、人の言うことなどまるで聞こうとはしません。
人をコントロールしたいニビル人は、這い入るような感じで人の身体を占領することがあります。
突如その人の状態が変わって手がつけられなくなる場合は、ニビル人だと言ってもよいでしょう。
たいていの場合、憑依かどうかは眼を見ればわかります。眼の光が異様だったり、別人に見えたりします。

コメントをくださった方の記述にあったように、「突発的な人格の変化」や 「目つきや声質の変化」、「攻撃性や運動能力のアップによって狂乱状態に陥り、手のつけられない状態になる」というのは、まさしく異質な存在が入り込んで起こしている現象です。完全に乗っ取られた状態です。

身体を明け渡しているあいだは、本人の意識は別のところに追いやられています。
ですから、何を言ったのか、したのか、本人の記憶にはほとんどないのです。
こういう人たちは異常波動となっていますから、他者に危険を及ぼすようなことがあれば、早急に隔離する必要があります。

自分の身体を乗っ取られるといえば、チャネラーもそうですね。
チャネリング中は本人の意識は本人の身体から出ています。何者かがその身体に入り、その人の口を借りてしゃべるわけです。本人の眼は閉じたままであっても、平気で部屋中を歩き回り、黒板に文字を綴ったりします。

あとで自分の身体に戻ってきたとき、本人は何をしゃべったのか、まったくわからない場合が多くあります。
本人の意識レベルによって、半覚醒状態、覚醒状態といろいろあるようですが。

チャネリング中にしゃべっている人が別人格であることは、はっきりしています。
声音や話し方の調子から、その存在の品性や意識レベルの高さが鮮明に感じられるからです。
わたしは世界的に有名な人たちのチャネリングを何度も聞いていますが、意識の明確なちがいにはいつも驚かされます。
高い意識の存在ならよいのですが、低い意識の存在に乗っ取られるのは、迷惑このうえなしですね。

憑依というよりも、完全に入り込まれている状態では、もう本人ではなく、まったく別人ですが、そうなることを結局のところ本人が許可しているのです。
よって、なるべくしてなっているということになりますね。
そのことを周りの人が理解しておくことが必要でしょう。

★「霊的に心と身体を守る」というのは、特定の場所(霊的磁場)から放たれる妙に重苦しい嫌な雰囲気や、自分自身に向けられた悪意(ネガティブな感情がこもった念)から離れること、また、受けないように防御するということです。

この有害なエネルギーに対しては、怒りや攻撃性で反応しないことが大切です。
なぜなら、自分自身のなかでさらにそのネガティブ性を大きくしてしまうことになるからです。
実際に有害なエネルギーを受けている人の様相は近寄れないほどひどいものです。
それこそ、輪をかけたように怒りが増幅してしまい、さらに悪想念を引き寄せてしまうので、要注意です。


★ オーラを閉じること ★


過去記事で、「サイキック・スポンジの人」は、周囲からの有害なものを含むあらゆる波動エネルギーを吸収するということをお伝えしました。
そういう人たちのオーラはいつも開きっぱなしで、過剰に敏感で脆弱(ぜいじゃく)だからです。
ですから、「サイキック・スポンジの人」はオーラを閉じておく必要があるのです。

チャクラも同様です。
花びらが閉じるように、あるいは貝が閉じるように、第1チャクラから第5チャクラまでを閉じておくことが大切です。
ただし、常に高次元からのメッセージを受けられるようにするために、わたしは第6チャクラ(第3の目)と第7チャクラ(頭頂)だけは開いておくようにしています。


オーラ写真2
 次女のオーラとチャクラ

オーラのなかの人型に色の違う光が7つ見えますが、これがチャクラです。
下から第1チャクラ(赤) 第2チャクラ(オレンジ )第3チャクラ(黄) 第4チャクラ(グリーン) 第5チャクラ(青) 第6チャクラ(インディゴ) 第7チャクラ(うす紫あるいは白)です。
この写真では、第6チャクラがピンク色に見えます。チャクラが円形であるのはバランスのとれた調和したチャクラの活動を表し、大きいのは活動過剰、高エネルギー活動を表します。
「サイキック・スポンジ」の人は、これを閉じる必要があります。
       
これを「オーラの自己防衛」のアファメーションを唱えながら実行します。
(過去記事「サイキック・バンパイア」と「サイキック・スポンジ」にも記載しています)

   
   ★ オーラの自己防衛
   
   
   自信のアファメーション
   (自力本願、自信、内面の強さを高めるために)  
  
   わたしは自分を把握しています
   わたしは神と共にある者です。
   わたしは人生における唯一の権威です
   わたしは自らの存在の光によって
   神に守られています
   わたしの内なる神と意識以外のすべてに対して
   自分のオーラと光の身体を閉じています (閉じるイメージをする)
   今も これから先も ずっと
   神さまに感謝を 心からの感謝を  
   
   (オーラ・ヒーリングより)



(ここではチャクラ自体の説明はしませんので、詳細を知りたい人は専門書がたくさん出ていますから、自分で読んで調べてください。とにかく人に依存しないで、自ら行動することが大切です)

★オーラの閉じ方がわからない人が大勢おられるようですが、イメージでおこなうので、正直言って、言葉では説明のしようがないのです。
「閉じる」という言い方も、適切ではないかもしれません。
オーラを「開く」というのは「外側に発散させる・拡散させる感じ」ですが、「閉じる」というのは「内側にとどめる、中心に凝縮させる感じ」がより正確だと思います。
オーラにしてもチャクラにしても、活性化したあとは、閉じておくことを忘れないようにしてください。


わたしの長女や次女のオーラはたいてい開きっぱなしになっているので、「開いているよ」と言うと、「閉じたはずなのに」と驚きます。
本人はしっかりと閉じているつもりなのですが、実際は閉じられていないことが多いのです。
「イメージ力」の強い人と弱い人がいるので、何回練習しても閉じられない人というのは残念ながらいるようです。根気強く実践するのみですね。


★オーラは外部のいろいろな影響からわたしたちを守っていますが、そのオーラに悪影響を及ぼすものがあります。その多くは電磁波であり、他者から受け取るネガティブエネルギーや、過激な労働でのストレスなどです。
このようなものがオーラに害を与えると、わたしたちの精神的、肉体的な健康が損なわれていくことになるのです。

電磁波汚染や霊的な攻撃からオーラを守る方法や、オーラを強くする方法は、また近いうちにお伝えする予定です。



大震災からのメッセージ

2011年03月14日 19:00


はじめに、東北・関東大震災の被災者の皆さまへのお見舞いとともに、他界された多くの方々のご冥福をお祈り申し上げます。

東北地方、関東地方のブログ読者の皆さま、ご無事でしょうか?
また、昨年12月から今年に入って、毎回たくさんの記事を読んでくださっていた宮城県の方、ご無事であることを心から祈ります。
災害に遭って救出された人たちは、心から深く感謝して、これから強く生き延びていただきたいと願います。


電気、ガス、水道というライフラインが復旧するまでには、ある程度の時間がかかると思われます。
テレビから多くの情報を得ているのは、わたしたちのように災害をまったく受けていない人たちばかりで、当の被災者たちは、状況を把握したくてもできないもどかしさを日夜感じておられることと思います。

しかしながら、情報がつぎつぎと入ってくるなかで、今わたしたちが見ている放送番組だけがすべてではないということです。
同じ番組を見ていても、それをどのように捉えるかは、その人の意識レベルによって異なってきます。
それらの状態を闇と見るか、光と見るかは、その人次第なのです。
わたしたちには、無限の放送番組がそれぞれ用意されているということ。
そのことに気づいていてほしいと思います。


★地球自身の浄化が始まり、それに伴う現象はこれまでにも世界中のあちこちで生じていましたが、わたしたちが住む日本でも大規模な浄化が始まったということです。
「しるし」は至るところに表れていたと思います。

2011年が人類にとってかなり厳しいものとなるのはわかっていましたが、起こるべくして起こったといいますか、残念ながらこうならざるを得なかったというのが正直な感想です。
地震と津波、所によっては火事も生じ、壊滅状態となった町もありました。

★水と火で浄化されたと感じられる箇所もありましたが、日本地図を広げ、震災のあった地域をひとつずつ調べていくと、まだ浄化が足りないことを示す「しるし」が見られました。
また、一部の県を除いては、ほとんど日本国中浄化されなければならないことも示されていました。

おそらくガイアは、これから日本列島をはじめ、多くの大陸(国々)を沈没させていくのではないでしょうか。
メアリー・サマーレイン著の「グレートスピリットからの警告」にも、地球という大いなる惑星が傾斜し、ぐらつき、そして安定を取り戻したときの状態が生々しく書かれています。


★ 限界にさしかかった原子力発電 ★



今、東京電力福島原発につぎつぎと問題が起こっています。
これは、「もう原子力発電には限界が来ているよ」ということを表しているサインだと思われます。
人類が原子力発電に依存するのは、もうやめようよ」ということです。

そんな危険なものを使用しなくても、フリーエネルギーという無害で無限なるものが存在していて、それを有効活用できるということを、その道の専門家たちにはよくおわかりのことと思います。

数年前より、政府は太陽光発電を推進し、利用者には補助金を支払うというキャンペーンをおこなっていました。
電力が供給されなくなったら、一体どうするの?」という不安や疑問もさほど抱かれないままに、オール電化を取り入れた家も多くあったのではないでしょうか?

しかし、雷が落ちて停電になったり、雪で電信柱が倒れて停電になったりと、今年になってからも長期の停電が生じた地域は多くあり、電気が供給されない不便さを身にしみて感じられた人も多くおられたことでしょう。
電化製品を多く持っていればいるほど、停電の際には逆に不便であるということ。
それは子どもでもわかることですね。

便利で清潔感がある「オール電化の家」は電磁波もつよく、特にIHクッキングヒーターは人体に危険性があるということ。そして、「自然災害のときには、まったく役に立たない」ということを知っておかなければなりません。


★ 太陽光発電の問題点 ★



また、一見効率がよさそうに思える「太陽光発電」ですが、いくら太陽光での電力が有り余ったとしても、その電力を非常時(停電)に備えて各家庭に常時蓄えておくことができないという大きな欠点があります。

太陽電池で発電した電気は、パワーコンディショナーで家庭用に変換され、家庭内に流れていきますが、このパワーコンディショナーは電力会社からの電気で動いているのです。
ですから、電力会社からの電気が断たれたときは、当然のことながらパワーコンディショナーは動きません。
停電すればパワーコンディショナーも停止し、電気は使用できないということなのです。

ただし、発電した電気を非常用電源として使えるようになっているとは言われています。
しかし、使えるのは「自立運転用のコンセント」のみで、あまり実用性がないようです。

わたしが「太陽光発電」に期待しながらも断念したのは、とにかく何かと電力会社に頼らなければならないシステムとなっていて、結局のところ電力会社とは切っても切れない関係にあることを知ったからです。
電力会社に一切頼らない真の「自家発電」でなくては、意味がないのです。

とにかく、表面的に「便利・簡単・気持ちいい」ものというのは、その代償をどこかで払わなければならないということになるでしょうか。
国民は、補助金などにつられて、政府の意のままにならないように、自分の頭でしっかりと考えてほしいと切に願います。
わたしたちが「便利で、安全」と思いこんできた原子力発電への幻想が、まさに今消えようとしているのだということを、今回の原発の事故でつよく感じた次第です。


★ 世界からの支援 ★



今回の震災で、世界各国から日本へと多くの救援者が集まってきています。
日本もこれまでにいろんな国の災害時に支援をしてきています。
同じ地球上に生きる人間として、互いに助け合い、分かち合おうとする精神はとても尊いと思います。ありがたいことですね。

命をかけて救出しようとする人たちや、行き場のなくなった人たちに炊き出しをして与える人たち。ほんとうにお疲れ様です。
しかし、支援される側は、このような他からの助けをただただ待っているのはどうかな? と思うのです。
エゴの心は現実にばかり向いていて、大いなる宇宙意識のほうに意識が向いていないようです。ですから、宇宙からの支援を受け入れることができないのです。

震災に遭った人たちは、「棚からぼたもち」のような他からの支援を待っているのではなく、自分たちにも何かできることはないかと考え、自力で立ちあがらなければならないと思うのです。

これはすべて魂の学びなのです。
今の苦しみを苦しみとして受け入れ、そしてそのハードルを乗り越えたとき、その人の魂はさらに磨かれてかがやくのですから。


今回は緊急記事として、震災に関しての感想を述べました。
次回は「支援する人、される人」について、さらにフォーカスしてお話ししたいと思います。


支援する人、される人―その1 災害時に備えての心がまえ

2011年03月16日 18:50


★ 支援はケースバイケースでおこなう ★



このたびのような東日本の広い範囲にわたっての震災の場合は、多数の被災者が生きるために必要な水と食べ物と生活物資の支給が何よりも必要です。
しかし、今なお余震がつづいている状況では、救援活動をしている人たちにも被害が及ぶ可能性が高く、状況は非常に厳しいものとなっています。

3月16日(水)14時55分配信の「時事通信」には、つぎのような内容が載せられていました。

東日本大震災の救援で被災地に入った兵庫県警の第1次広域緊急援助隊約140人のうち約70人が16日、兵庫県に戻った。
1995年の阪神大震災の経験を生かして活動したが、播磨弘隆大隊長(52)は「津波警報が何度も出るたびに避難し、活動を中断した」と救助の難しさを語った。



★緊急援助隊でさえ活動を中断して、結局被災地をあとにしたわけですから、他府県からのボランティアなどはまだ行くべき時期ではないと思われます。
ありがたいはずのボランティアが、現地の人からすると、とても迷惑な存在になってしまう場合があるというのも、事実のようです。
日刊サイゾー」には、「災害現場の困ったちゃん!? ボランティアに求められる自己責任の大原則 」という過去記事が再掲載されていました。
ボランティア志願者への参考のため、その一部を紹介しておきます。


災害ボランティアの大原則は「自己責任」だ。
現地への交通費や宿泊費、食費などの必要経費は、いうまでもなく自分負担。
ところが現実には、「フラっとやってきて、『寝る場所はどこですか』とあたりまえに聞いてくる人が多い」(中部地方の某町役場職員)のも現実だ。
災害対策本部(市町村役場の総務課などに設置される場合が多い)に電話をかけてきて、「安い民宿を紹介してくれ」と宿の斡旋を求める人もいる。
徹夜で業務に追われることもある現地の役場職員が、全国からの宿の斡旋に対応していたらそれだけで業務はパンクしてしまう。
各自で確保するように説明する職員に「手伝いに行ってやるのになんという冷たい対応だ! だから役人はダメなんだ!」と逆ギレして周囲を呆れさせる例も少なくない。

(中略)

支援物資も大きな問題。
実は「救援物資は第二の災害」といわれるほど、現地にとっては厄介な存在なのだ。
全国から怒涛の如く送られてくる物資の整理は自治体職員らが人海戦術で行うしかなく、しかも利用価値がない物も大量に含まれている。
1993年北海道南西沖地震の被災地・奥尻島では、救援物資 5,000トンの保管のために1000平米の仮設倉庫を3,700万円かけて建築。
さらに仕分の結果、衣類を中心とする1200トンが不要と判断され、カビや腐敗など衛生面の問題から焼却処分となり、これに560万円の予算が投入された。

「とりあえず何か送ろう」という安易な支援ほど現地にとって迷惑なことはなく、実際に京都府災害ボランティアセンターのように「救援物資は現地の復旧作業の妨げになる場合があるので送らないように」とサイトではっきりと呼びかけている例もあるほどだ。

(中略)

まずはネットや電話で被災地の情報を収集し、危険度や必要な経費も考慮に入れながら行くかどうかを判断したい。
自己管理が原理原則の大切さを理解したうえで、その時自分ができると思う範囲で参加することが、災害ボランティアのあるべき姿といえるだろう。
(文=浮島さとし/「日刊サイゾー」2009年10月8日掲載)



★現在支援物資が被災地にながれたために、被災地ではない別のところで不足が生じ、生活用品などがなくなって困っている人たちが続出し始めています。
また、東京都内では買い占めの問題も指摘されていて、被災者ではない人たちがムダに多くの物を買いあさるという現象が起こっているようです。
一方に偏ると一方に不足が生じる。この両者のバランスをとるのが大変むずかしいですね。

ただ、頭の片隅に置いていただきたいのは、今は日本全体が非常時だといえるということです。
東日本だけでなく、西日本でも震災が起こる可能性はあります。
ですから、日本国中の人たちが個々に意識的になって、非常時に備えた生活を送ることが大切だと思うわけです。
すなわち、物質面はさておき、精神面に重きをおいて生きるということです。


「死ぬ前の意識レベル」がつぎの行き先を決める★ 



このブログを初めから読んでくださっている人たちは、「死に対する恐怖感」というものは、既にもっておられないのではないかと思います。
「肉体の死」はあっても、「意識は永遠に存在すること」をご存じのはずだからです。
ですから、肉体の維持ばかりに意識を向けるのをやめて、精神を鍛えることに専念していただきたいと思うのです。

たとえば、わたしたちが天変地変をはじめ、病気や怪我で死ぬときがやってきた場合、「どんな心の状態で死を迎えるか」ということがとても大切となります。

最期のときには、さまざまな思いが脳裏を駆け巡ることでしょう。
もし何か心に引っかかることがあって、そのまま死んだなら、その引っかかったことで、つぎのその人の行き先(誕生するところ)が決まるのです。

その人の人生がたとえ素晴らしいものであったとしても、死ぬ前の意識状態がひどくネガティブであれば、クリーンゾーンに行くとは限らないし、何か悪いことをした人生であっても、かならずしもダストゾーンに行くとは限らないということなのです。
死ぬ前に執着や囚われを捨てて清浄なる意識になれば、その清浄なる状態にふさわしい領域に行くのだということを忘れないでおいてください。


その人の「死に方」や「死ぬ前の意識レベル」が、その人のつぎの行き先を自ら決めるのだという詳細は、過去記事に記していますので、再度お読みいただきたいと思います。

★ 参考過去記事 ★

★「死ぬ前の意識レベル」が「あの世」の行き先を決める 
★「成仏」は死ぬ前にしておくもの―この世で悟っておくことが大切



★ 冷静で穏やかで、かつ強い精神をもつ ★



心というものは、環境からの影響を受けると、すぐに変化してしまいます。
常日頃やさしかった人が、突然よくない環境に入ると、その途端にやさしくない人になることだってあるのです。

わたしたちの現在の課題は、いつ環境が変化しても、どんな環境になっても、「冷静で穏やかな心の状態を保つこと」、「環境によって左右されない強い精神状態を保ちつづけること」ではないかと思います。

そして、いつも自分の肉体の死を覚悟して生きること。
それは、日本の古い武士道に見られた精神ですね。


運命に任すという平静なる感覚、
不可避に対する静かなる服従、
危険災禍に直面してのストイック的なる沈着、
生を卑しみ死を親しむ心……。

真に勇敢なる人は常に沈着である。
彼は決して驚愕に襲われず、何ものも彼の精神をみださない。
激しき戦闘の最中にも彼は冷静であり、大事変の真中にありても彼は心の平静さを保つ。



上記は新渡戸稲造著の「武士道」の一文ですが、このように「いつ肉体の死を迎えてもOK」だという冷静で穏やかな精神状態を保ちつづけることが大切です。
かつて日本人が持っていたこの強いサムライの精神を、男女を問わず思い出すことが必要なのではないかと思います。


支援する人、される人―その2 相手の力を弱めてしまわない支援を考える

2011年03月19日 11:20


★ 支援する前に考えること ★



まず支援しようとする人は、つぎのことをよく考えてみることが必要だと思います。
ひとつには、自分が相手に対して共感を得て、何かしてあげたいと思ったとき、「相手を真に助けるための最善の方法とは何だろうか?」と深く考えてみるということです。
それが、まずは食べ物であったり、生活に必要な物資であったり、ときにはお金であったりする場合もあります。
世界的におこなわれている支援、特に災害時の支援は、こういった物質的な支援が主ですね。しかし、これには限界があります。

たとえば、飢餓国に限って毎日どんどん子どもが生まれていますが、この人たちがおとなになるまで、またおとなになってからもずっと支援しつづけることなど、不可能です。
震災などの緊急時には、当面の食物と生活物資が不可欠ですが、長年にわたって難民生活を送っている人びとの場合などは、ただ物資を与えるのでは、何の学びもありません。
彼らには自立することを教える必要があるのです。
最大の援助は、相手が自分の足で立てるようにすることだからです。

たとえばアフリカなど、水がない地域なら、井戸を掘ることを教えたり、食物がないなら、農作物を作ることを教えたり、日本人はけっこうそういう支援をおこなってきていますね。
それらは当地の人びとが支援物資をあてにせず、自分たちで生きていくために必要なポジティブな支援です。

★相手を助ける最善の方法は、支援者側の意識レベルによっても変わり得るものです

ときには、難民たちが自分で自分のとるべき道を選び、自分の足で立ちあがり、しっかりと歩いてもらうことも必要でしょう。
そういうときには、わたしたちは何も介入しない(援助をしない)ということも大切です。
場合によっては、「放っておいてあげることが最高の贈り物となる」ということもあるということですね。
とにかく支援者は、相手に「自分のことは自分でする力をつけてもらうためにはどうしたらよいか?」を常に念頭に置いておくことが大切です。もちろん寝たきりの高齢者や重度の障害者に対しては別ですが。


★支援者のなかには、自分の人生で「だれかを助ける約束」をしてきている場合があります。
特定の相手に対して支援をしているような人は、たいてい生まれる前に相手と契約を交わしてきている場合が多いのです。
それは、両者の過去生の関係性を調べれば、わかることです。
たとえば、ヘレン・ケラーをサリバンが支援したように、また、ゴッホを弟が支援したように…。

ただ、どんな場合であっても、相手を甘やかさず、相手が自立していけるような方法で、最善の支援策を考えるということが大切です。


★ 相手の力を弱めてしまう支援とは? ★

 

『神との対話』という本に、つぎのような興味深い質問が載っていました。

★どんなときに支援の手を差しのべると、相手の力を弱めることになるんでしょうか? 
相手の成長をうながすどころか、じゃまになるのは、どんなときですか?


それに対して、「神と名のる存在」はつぎのように答えています。

あなたの助けが、自立ではなく、「ひとをあてにする気持ち」を助長するときだ。
相手が自立するのではなくあなたに依存しようとするのを、同情のつもりで許したときだ。
それは同情ではなく強迫観念だ。
その種の手助けとは、ほんとうは権力欲なのだ。
そのちがいは非常に微妙で、自分でも権力欲だと気づかないことがある。
相手を助けようとベストをつくしているのだと本気で思う……
だが、ほんとうは自尊心を満たしているだけではないかと、つねに自分を振り返りなさい。
相手に対する責任を引き受ければ引き受けるほど、あなたは相手に対して権力をもつことになる。
もちろん、あなたは良い気分になるだろう。
だが、そんな援助は、弱者をまどわす媚薬だ。

(二―ル・ドナルド・ウォルシュ著 『神との対話』 サンマーク社 参照)



★「ひとをあてにする気持ち」というのは、だれにでもあることです。
特に災害に遭ったとき、「何で私がこんな目に遭わなければならないのよ!」とまでは思わないにしても、
「緊急に救援活動をお願いします」から始まって、
「水が足りない。食物が足りない。物資が足りない。だれか何とかお願いしますよ」とか、
「物資はまだなの? なぜここには来ないの? 政府はいったい何をしているの?」となり、
最初は生きているだけでもありがたいと思っていたのが、しだいに「あれがほしい、これがほしい」と要求がエスカレートしていき、それが叶えられないと、どんどん不安と不満が募っていくわけです。
救援、支援されて当たり前、それに依存する…というようなことは、「カルマの法則」や「引き寄せの法則」を知らない、あるいは信じない人だからこそできることです。

「神との対話」で「神と名のる存在」が言っている通り、「ひとをあてにする気持ち」を助長したり、相手が自立するのではなく支援者に依存しようとするのを、同情のつもりで許すことは、けっして相手のためにはならないということです。
ですから、相手のいいなりになって、何でもしてあげなければならない(~すべき・~せねばならない)という思いは捨てることです。


★大変冷たい言い方になるかもしれませんが、その人たちを幸せにする義務など、だれにもないのです。
真の幸福は、自分の困窮した状態をほかのだれかに頼って解決しようとすることから来るのではなく、自分自身の内なる豊かさを育むことからやってくるからです。
 

このようなピンチに陥ったのは、自分の底力を試すチャンスだととらえれば、不平不満は絶対に生じないはずです。1個のおにぎりと少量の水がもらえたら、ただただ、ありがたいという感謝の気持ちが湧き起こるのみでしょう。

私事で恐縮ですが、わたしは旅先ではあまり食事をとりません。
特に一人旅の場合は、それこそコンビニのおにぎり1個と少量の水だけで一日中歩き回りますし、食べないときもあります。それで、元気が出ないかというと、逆に身軽で元気なのです。
小食に慣れていると、基本的につよいです。
だから、皆さんにも小食をおススメしています。
(過去記事「小食は地球を救う―その1 一日二食のススメ」を読んでくださいネ)

また、若いころ、自らを試すつもりで7日間断食をしたことがありました。
それも、家族の食事を作りながら、自分だけは食べないという厳しいものでした。
さすがに7日目には目から光が飛び散るような状態でしたが、死にませんでした。

人間は水さえ飲んでいたら、そう簡単には死なないものです。
光と水(プラーナ)だけで生きている人たちも存在するのです。
「食べ物を食べないと死んでしまう」と思い込んでいる人たちは、その通り食べないと死にます。
思いを制限していると、その通りになってしまうのです。

わたしたちは自らが思うところのもの」だからです。
心ひとつですべてを創る」からです。
すべてのものごとは自らの思いによってたちあらわれる」からです。 

思いの制限をひらいてください。

あなたが恐れと不安で震えていたら、心がネガティブエネルギーでいっぱいであれば、たとえおにぎりを3個与えられたとしても死んでしまうでしょう。
要するに、意識をどこに持っていくかのちがいです。
思いの方向をポジティブかネガティブか、どちらに持っていくかで、生と死が決まるのです。
まったく真逆の方向になるということです。


★ わたしたちにできること ★



★わたしたちが不運な人たちに何をしてあげられるか? と考えたとき、唯一できることがあります。

それは、自分自身が何者かを思い出させてあげることです。

あなたはだれなのですか?」と。

そして、どこから来たのかを、思い出させてあげることです。

あなたはどこからやってきたのですか?」と。

最後に、何をするためにここにいるのかを尋ねることです。

あなたはいったい何をするために生まれてきたのですか? 
ただ何もせずに人から与えられたものを食し、死んでいくのを待っているだけですか?
」と。

あなたは自分がだれであるのかを緊急に思い出す必要があります。それを思い出してください」と投げかけることです。

あとは、その人たちに任せればよいでしょう。
彼らの選択の自由を認めてあげればよいでしょう。

★わたしたちは、いつも自分の思考を現実化している創造者です。


わたしたちが災難に遭った人たちを、不運な人、可哀そうな人と思えば、彼らは不運な人、可哀そうな人たちになってしまいます。
わたしたちが自己満足のためや、だれかに認めてもらうために援助をするのであれば、援助を必要とし、それに依存するような不幸な人たちをどんどん創造していくことになります。

不幸な人を援助することで、さらに相手を不幸にしているのだとは、だれも思わないでしょう。
でも、そういう「逆の現実を創っている」という事実も、おおいにあるということなのです。
わたしたちはそういうことに気づいている必要があるということです。


どうか「相手の力を弱めてしまわない支援」をお願いしたいと思う次第です。


悪性のパラサイトとなっている人類への警告

2011年03月22日 15:40


★ 地球にも意識がある ★ 



あなたは、「地球にも意識がある」ということを、ご存じだと思います。

わたしの次女は「地球意識」は男性だけど、とても女性っぽいとよく言っておりましたが、実際の地球には「男性性の側面」と「女性性の側面」があります。

男性意識のほうを「テラ」と呼び、女性意識のほうを「ガイア」と呼んでいる人もいます。
地球の思い」を感じることがたまにあるという次女の話を聞き、わたしは地球(彼&彼女)が人類に対して、とてもお人よしの性質をもっていることを知りました。

今回は、今現在自浄作業をつづけている「地球の思い」を、「彼&彼女」に代わって皆さんにお伝えしたいと思います。

★地球が過去6回にわたりアセンションをしようとして失敗し、6回の文明の興亡を繰り返してきたこと。
その足を引っ張っていたのは、まちがいなくその当時に生きていた意識の低い人間たちだったということ。
地球意識は人間に対して寛容で愛深く、アセンションするのなら人類とともにしたいと気長に待ってきたということ。
そして、7回目となる今回は、なかなか意識が高まらない人間たちを残してもよいから、自分はアセンションすると決めたこと。

これらについては、過去記事「アセンションする地球―アセンションは『宇宙の進化の法則』の一つ」に書きました。


地球(彼&彼女)はこれまで非常に長きにわたって人類の意識の覚醒を待ちつづけてきました。
しかし、その期待は裏切られた結果となっています。
地球が予想していたのとは裏腹に、目覚めた人類の数はほんのわずかだからです。
世界中に住む多くの人間は、度重なる自然災害に遭っても、目覚めることはありませんでした。
特に日本人はそうです。
今回東日本と太平洋沖で大地震と津波を発生させ、原子力発電所に大被害をもたらしたのは、地球の怒りの一撃ととらえてよいと思います。


★ 地球は核が大嫌い! ★



原子力発電の問題点は、皆さん、もう十分に承知しておられると思いますが、あえて記しておきたいと思います。

★原子力発電の最大の問題点は、第1に「事故が起これば周辺環境に多大な被害を与え、その影響は地球規模に及ぶ 」ということ。

第2に「毒性が非常に強く、放射性物質である核廃棄物を作り出す 」ということ。

原子力発電が日本で開始されてから45年ほど経ちますが、原発から出たゴミである*「使用済み燃料」は、燃料棒のまま保管されているか、再処理されてガラス固化体にされて保管されている状態で、処分はされていないのです。
(*「使用済み核燃料」は原子炉で使用された後の「燃料棒」で、ウラン・プルトニウムを大量に含む高レベル放射性廃棄物です)
この「使用済み核燃料の最終処分が未だされていない 」ということが、第3にあげられます。(ほかにも数多問題点はありますが…)


第7回(1987年)原子力開発利用長期計画で、「高レベル放射性廃棄物については、安定な形態に固化し、30年間から50年間程度冷却のため貯蔵を行った後、深地層中に処分することを基本的な方針とする」とし、これに沿って2000年「特定放射性廃棄物の最終処分に関する法律」が制定されました。

最終処分は「ガラス固化体約4万本を地下300メートル以深に埋設する」というもので、「地層処分」の2033年から2037年頃の開始に向けて、原子力発電環境整備機構は動き出しているということです。

★「ガラス固化体約4万本を地下300メートル以深に埋設する」という地層処分を、地球が承諾すると思いますか? 
地球は核が大嫌いなのです。
地球の体内に数多の「放射性廃棄物」を埋め込まれるなど、たまったものではありません。


放射性物質の中には、半減期が極めて長いものも存在し、安定元素になかなか到達しない放射性元素の場合、崩壊が終わって安定するまでには、「人類の時間の感覚からすると永遠に等しい時間がかかる」という人もいます。

現時点では、これを無害化することは不可能だということ。
長期間にわたって厳重な管理下に置く必要があるということ。

しかし、実際には放射性廃棄物のいい加減な管理や不法投棄などによって、土壌汚染や人畜への被害などの事故が報告されているようです。


★原子力発電を実施する限り、「高レベル放射性廃棄物を作り出すことが避けられない」ということや、これを「安全に処分するのは現段階の日本の技術では困難を極める」ということを十分に承知していながら、政府は原子力発電を支援しつづけているわけです。


★今回、福島第一原発4号機のプールに保管してある使用済み核燃料から水素が発生し爆発したことは、ニュースなどで知っておられるかと思いますが、なぜ爆発したのか、その本当の理由について、北海道岩内原発研究会代表の斉藤武一氏がつぎのような記事を載せておられたので、参考のため一部載せさせていただきます。

★ 使用済み核燃料が爆発した ★

福島第一原発4号機のプールに保管してある使用済み核燃料から水素が発生し爆発した。
なぜ爆発したのか、これも本当のことが隠されている。
にほんでは、原発が出るゴミである使用済み核燃料が大量に出てきて、その保管に困り果てている。
そのため、プールには、昔に比べてぎっしりと原発のゴミが詰め込まれていた。
つまり、使用済み燃料全体から出る崩壊熱は、以前に比べて多くなる。
電源喪失により、プールの水を循環できなくなり、冷却できなくなり、プールの水がすこしずつ蒸発し、使用済み核燃料が水面から露出し、崩壊熱により水素が発生し爆発した。
つまり、原発のゴミの処理に困り果て、プールに異常に詰め込んだことが被害を大きくしたことになる。このことも何も知らされていない。


(日本の悲劇 -東北巨大地震と福島原発~本当のことを何も知らされない日本人~ より一部抜粋)



★ 地球に寄生する人類のあり方 ★



★パラサイト(parasite)ということばがあります。
寄生生物、寄生虫、寄生植物、居候(いそうろう)、厄介者」という意味です。

地球人類は地球という母体に寄生した生物であり、まさにやっかいな居候です。

パラサイトには大きく分けて2種類あると思います。
ひとつは地球に一方的に依存しながら、地球の母体をどんどんむしばんでいく悪性ガン同様の「悪性パラサイト」です。
もうひとつは地球に依存しながら、母体に進んで貢献する「良性パラサイト」です。
しかし、こういう「良性パラサイト」はごくわずかです。

パラサイトである限り、自立というものはありえません。
人類は地球が提供してくれている空気や水や食べ物がなければ生きていけないからです。
自立ができない以上、人類に自由などは存在しないのです。

また、パラサイトには地球をわがもののように所有したり、汚したりする権利はありません。
ところが、人類は「母なる大地」に養われていることをすっかり忘れ、母体が養っている森林の木を勝手に伐採し、山や森林を破壊し、工場用水や排気ガスなどで、空気や海を汚染しつづけてきました。
これは、母親に安全に守られ、養ってもらっている子どもが、その母親の身体をあらゆる方法で痛めつけ、攻撃している状態と同じなのです。

人類というのは、まさしく「依存している母親にまったく感謝の気持ちを持たない子どもたち」なのです。




★ 地球の決断 ★



★お人よしの地球は、最初の頃は遠くの星からやってきたクリアリング専門の女性エネルギーに浄化をしてもらっていました。
その女性エネルギーはとても気が強くて、容赦なく地上に大雨や嵐や竜巻や洪水や地震や津波を起こしました。
心やさしい地球が「そこまでするの!」と驚くほど強烈でした。

★昨年までは、地球にはふたつの選択肢があったと次女は言います。

ひとつは、「光輝く地球」となることです。
それは、多くの天使や宇宙人たちが協力し、人類の心に光を灯し、どんどん伝染させていくことで、地球を光で包み、意識が上昇した人類とともにアセンションするという方法でした。

もうひとつは天使や宇宙人が一切関わらず、目覚めない人類を置き去りにして、地球がアセンションする方法です。
天変地変が起こり、危機が訪れても、宇宙人は人類を救援しません。
人類にとっては最悪のシナリオです。

そのふたつの選択肢のどちらを選ぶのか、それは「目覚めた人類の光の数」によって、決断されようとしていました。
そして、2011年に入って、地球は決断しました。 


地球がどちらを選んだのか、賢明なあなたならわかりますね。
ほんとうに残念ですが、後者のほうを選ばざるを得なくなった地球は、今浄化作業に突進しています。
女性エネルギーには頼らず、地球は自分自身で浄化作業を始めたのです。

原子力発電所の事故の恐ろしさを知った海外の政府は、自分たちの生命の危険性を感じ、自国の原子力を止めようとするかもしれません。
それは、まちがいなく自分たちのためにです。
いつだって、人類は自分たちのことしか考えていないのです。
地球の体内に放射線を有した大量の廃棄物を埋めこむことなど、全然気にしない連中ですから。
地球がどんなに嫌がり、苦しんでいるかなど、気づきもしないのです。

日本はどうでしょうか?
この場に及んでも、原子力発電を止めようとはしていません。
やめるどころか、復帰させようと必死です。
放射線物質が飲料水や野菜だけでなく、広範囲にわたる海を汚染し始めているにもかかわらずです。
海にはどれだけ多くの生物が存在しているでしょうか。
膨大な生命が損なわれていくことは、火を見るよりも明らかです。
便利さばかりを優先する愚かな行為です。


★以前にご紹介したトム・ブラウン・ジュニア著の「ヴィジョン」のなかで、「母なる大地の声」は、トムにつぎのように言っています。

人間は創造の法則を理解することができないのね。
そして、自分たちはその法則の上に立っていると信じこんでいる。

現代社会は、近代化していない社会は苦しんでいると、勝手に勘違いしている。
現代人は、人々が幸せで満足な人生を送っているかどうかなんて考慮に入れません。
もし、人々が原始的な生活を送っていたら、それは未開で苦しい生活だと決めつけるの。
そして、原始的な生活をしている人たちを変えようとして、近代的な農業や産業や新しい価値観を導入しようとする。
もちろん、それが原始的な生活をしている人々が守っている自然の法則と相反するものだということなど、気にかけることはありません。

そうしてできた新しい社会は、いつか、飢餓や疫病や旱魃(かんばつ)に襲われるでしょう。
自然の理法はバランスを取り戻そうとするので、多くの人々が死んでいくでしょうね。

でも、人間はその原因を自然界のせいにするわ。
問題の本当の原因が自分たち自身にあることなど見つめようとしない。
人間が間違えるはずがなく、バランスの法則をコントロールしているのは人間なのだと思い込んでいるのです。

だから、手遅れになる前に、自分が引き起こした汚染や災害から何も学ぶことがない。
いま、大衆を啓発し、正しい方向を示す預言者や先生が必要なのです。

(トム・ブラウン・ジュニア著『ヴィジョン』より抜粋)



★人類はひとり残らず地球のパラサイトであることに目覚めなければいけません。

一方的に母体に依存してきた子どもが突然目覚めたとき、その子はどうするでしょうか?
無償の愛をもって育んでくれた母体に対して、何ができるでしょうか?

それは、わざわざここで言わなくても、あなたにはよくおわかりのことでしょう。
あなたが思ったことを実行してください。
ひとりひとりが思い起こしたことを実行すればよいのです。
今から、たった今から、わたしたちから始めましょう。

創造者として自覚し、自分自身を表現しよう!

2011年03月24日 18:05


★ このブログを訪問された皆さまへ ★

 

はじめに、このブログの訪問者さんにお伝えしておきたいことがあります。
このブログはトラックバックや無断転載をお断りしております。
訪問者さんのなかには、自分のブログを書いている人たちも多く、ネタ探しにやって来られる方々もいらっしゃるようです。

以前にも少し触れましたが(「わたしがブログを書く理由 その2」参照)、だれかが書いたブログ内容(全文、あるいは一部)を、そのブログ提供者の名前を紹介しないで、そっくりそのまま自分のブログ内容として載せている人がけっこう存在しています。

「この記事どこかで読んだなぁ」と思って調べると、全然違った人のブログ記事だったりするのです。
どっちが最初に書いた当の本人なのかは、更新の日付を確かめるしかないですね。
同一人物が別のブログを作って掲載しているのならともかく、別人が「だれかさん」のブログ内容を毎回記載する必要などあるのでしょうか? 
そこまでしてブログを出す意図が、わたしにはほとんど理解ができません。

今現在のような特別な時期、考えていること、思っていること、感じていることが同じなら、記事も似たような内容で、似たような言葉を使って書かれる場合は確かにあります。
意識レベルや周波数やフォーカスしている部分が同じところにある人なら、可能性は非常に大です。
公的な内容や、さまざまな説明文などは、全く同じものを掲載したとしても問題はないでしょう。
しかし、同じものを採用したとしても、その人なりの文章の書き方やリズムがあって、そこには必ず個性があるはずです。その個性が人を引きつけるのです。



★ 他者の記事を転載するときのマナー ★



★昨日「タグ検索」をしていたとき、最近更新したわたしのブログテーマと似かよったテーマが載っていたので、ひらいてみました。
すると、わたしの記事の一部と書籍の引用箇所が、そっくりそのまま載せてあったのです。
そのブログ名や管理者名については、その人の名誉のために、ここに載せるのは控えたいと思います。
ただし、この管理者が一般人ではなく、「児童放送作家として活躍中」とプロフィールにあったので、この場を借りて、わたしの感じたことをお伝えさせていただくことにしました。


★あなたは児童放送作家としてご活躍中だそうですが、他人のブログ内容を無断転載し、公開されることについて、お考え直しいただければと思います。

あなたご自身の文章はほとんどなかったので、もしかしたら、あなたの場合は「覚書」のような感じで自分のブログを公開されているのかもしれません。
しかし、不特定多数の人が自由に閲覧できるわけですから、使用された文章のブログ提供者名やURLを記載すべきではないでしょうか? 
そうでなければ、自分しか見ることができないようカギをかけておかれることです。
他者の記事を転載するときのマナー」を守るのは、あなたのお名前(管理人名)からすると、当然の作業だと思われるのですが。

同じことを伝えるにも、表現方法は無限にあります。
もし読者に何かを提供したいのであれば、あなたがあなたなりに考え、脳裏にひらめいた内容を提供してください。プロの作家であるのなら、なおさらですね。
以上ですが、よろしくお願いいたします。


ということで、この方に限らず、多くの皆さんに自分にしか書けない表現方法で記事を書いていただきたいと、心から願うしだいです。



★ 盗作は自分の力をさらに弱めている ★



★わたしはなぜか子どものころから、自分の書いたものがそのまま他人に使用されるという体験を多くもっています。

たとえば小学生のとき、こんなことがありました。
習字の時間にわたしの書いた字をほしいと言う子がいたのです。
「お手本にしたいから、1枚ちょうだい」というわけです。
わたしは気前よく自分の書いたものをあげたのですが、その子はわたしが書いた字をそのまま清書として提出したのです。
どうやら、最初からそのつもりだったようです。

その後、集めた子どもたちの清書を先生が丸つけするのを、数人の子どもたちに混じってわたしも見ていたのですが、「あ、わたしのだ!」と思ったら、なぜかそこにはわたしとは違う名前が書かれておりました。
つまり、「お手本にしたい」とわたしの書をもらっていった子の名前が書かれていたわけです。

その子の清書を見た担任は、「上手に書けたね」と言って、珍しくたくさんのマルをつけていました。
わたしは唖然としました。
「それって、わたしが書いた字なのに…」と。

教師はその子にだまされていることに気づきませんでした。
教師なんてその程度なのだと、すこぶる失望しました。
まったく同じ字体の清書が2枚出てくれば、「おかしい!」ということくらい、子どもにだってわかりますよね。
書いた当の本人がどんなにショックだったか、想像がつきますか?

わたしはそのことを担任に黙っていました。
その子本人にも言いませんでした。
言う気すらしなかったのです。

また、あるとき、先輩の家で中学校の卒業文集を読ませてもらったとき、愕然(がくぜん)としたことがありました。
ある女の子の文章の一部が、わたしが小学校の卒業文集に載せたのとまるで写し取ったようにそっくりだったからです。
それは、わたしの気持ち(情緒的なもの)を最大に表現したものだっただけに、ショックが大きかったのです。
小学生が書いた内容を、中学生が盗作するなんて、ほんとうに情けないなと、子ども心に思ったものです。

盗作をする人に対しては、「怒り」よりも「気の毒」だという気がします。

あなたは、だれですか?
あなたは、わたしですか?

わたしが、ふたりも必要ないでしょう。
わたしがわたしであるように、あなたはあなたであるのです。

あなたは、だれかの表現方法をマネることしかできないのですか?
あなたなりの表現ができないのですか?
もっと自信をもって、自己表現をしたらどうですか?

うまく書きたいとか、丸をたくさんもらいたいからとか、
そんな理由はすべてあなたの自信のなさから来ているのです。

盗作は、「自分の力や表現力をさらに弱めるもの」だということに気づいてください。 
それは相手の尊厳だけでなく、自分というものの尊厳を否定することであり、創造者である自分自身に対して恥ずかしい行為です。




どんな記事も鵜呑みにせずに吟味することが重要



「多くの人がそう書いているから、わたしもそう書いておこう」とか、
「この人の言っていることはマチガイないだろうから、自分もそれを書いておけばマチガイはないだろう」とか、何となく他者に合わせて書いている人も少なくないように感じます。
しかし、それが大マチガイなのです。

真実は人の数だけあるのです。
そして、その人の意識レベルによって、まったく異なった世界が展開しているのです。
このことは、「思いの制限をひらく」の最初の記事から繰り返しお伝えしてきていることですが、新しい訪問者がつぎつぎと来られているので、再度申し上げておきたいと思います。

その人が語っていることが正しいかどうかなど、正直言ってだれにもわからないのです。
ウソかホントかわからない都市伝説」みたいなものです。(笑)

当の本人はそれを真実だと信じて書いていますから、マチガイなく自信もあるでしょう。
(スピリチュアル系のブログは、すべて自信がなければ書けない内容ばかりです)

ネガティブ系異星人がその人の身体を借りて書いていると感じられる記事が実際にあり、マインドコントロールされる危険性が多分にあって、恐ろしいといつも思います。
何者かに操られていることなんて、本人にはわからないでしょうが、客観的に調べる方法はあります。
それで調べると、危険信号が強烈に点滅して回りつづけていることがあります。

ですから、表面的にはその人の文章となっていても、ほんとうのところは、異質の者の意図する内容にすり代わっている可能性があるということを、いつも頭の片隅に置いて読むように心がけてほしいと思います。
「あれ? 今日のこの人の文章、何かおかしいゾ!」と。

★特にスピリチュアル系のブログを読む人は、その信憑性をしっかりとご自分の直観で見極めてほしいと切に願います。
とにかく何でもかんでも鵜呑みにしないで、自分の直観力、判断力を大切にし、きちんと吟味してくださいということです。


当然のことながら、政府やマスメディアが言っていることを真に受けてはいけません。
こちらは「都市伝説」よりも、信憑性が低いと思ったほうがよいかもしれません。


★ あなたが最高の権威者 ★
 



★あるブログ読者がつぎのような質問をしてこられたことがありました。

「最近おっしゃられる通り、食べ物、飲み物には細心の注意をしていますが、その中にカフェインもとあります。
日本茶や紅茶、ウーロン茶もそれに含まれるんでしょうか?
個人的にはお茶が大好きでよく飲むものですから(笑)」

わたしは下記のようにお答えしました。

「あまりそこにばかりこだわりすぎないほうがよいと思いますよ。
わたしが引用したその著者たちの書いていることは、万人に当てはまるとは限りません。
あくまでも、参考として書いているだけです。
飲みたければ、コーヒーや紅茶など、飲まれたらよいと思います。

わたしは自分の身体に聞いて『OK』なら、コーヒーだって飲みます。
わたしのハイアーセルフは、わたしがコーヒーを飲むことは禁止していません。
自分が最高の権威者です。現実は自分自身で創っていくものですよ


★「本にこのように書いてあるから、そうしなければならない」というような強迫観念は解放することが大切です。

とにかくこのブログは「思いの制限をひらく」ために書いているのですから、そのことをけっして忘れないでください。

あなたが最高の権威者にならなくて、いったいだれがなるのですか?」 ということです。
自分の直観や判断力に自信がないなら、自信が生まれるよう、最高権威者となるよう、日々自分の意識を高めつづけてください。

大宇宙の源からやってきたわたしたちひとつひとつの魂は、千差万別です。
だれかと同じような魂の傾向(ソウルカラー)があっても、まったく同一ではありません。
皆ユニークなのです。
その個性をさまざまに表現するために地上にやってきています。

わたしたちは「創造者としての自覚」をもっと持つべきです。
「創造者」にできないことがあるでしょうか?

創造したら、当然その責任は自分が負うべきです。
他者に責任転嫁するくらいなら、最初から実行しないことです。

多くの人たちが通った大道を行くのは、たやすいことです。
それは整備されていて安全かもしれません。
でも、そんな道は、未知なる遭遇もなく、冒険もなく、面白くも何ともありませんね。

(二番煎じは美味しくないヨ)


インドの神秘家OSHOは、このように語っています。

知識は確実なものだ。
個人的な〈知〉の探求は、危険をともなう非常に、非常に不確かなものだ。
それを保証することは誰にもできない。
もし、保証できることがなにかあるのかと聞かれたら、
私はなにひとつ保証できないと言うしかない。
私には危険しか保証できない。
それだけは確かだ。

道に迷ってしまい、けっしてゴールには行きつかないかもしれないという、
そのあらゆる可能性をともなった長い冒険しか保証できない。
だが、ひとつのことは確かだ。

探求そのものが、あなたの成長を助けてくれる。
私には、成長しか保証できない。
そこには危険があるだろう、犠牲があるだろう。

あなたは毎日、未知なるもののなかへと、
地図に描かれていないもののなかへと進んでいくことになる。
辿る地図もなく、従うガイドもいない。
その通りだ、数限りない危険があり、あなたは道に迷い、
自分を見失ってしまうこともありうる。
だが、人はそうやって成長するしかないのだ。

不確実だということが、成長するための唯一の道だ。
危険に直面することが、成長するための唯一の道だ。
未知なるものの挑戦を受け入れることが、成長するための唯一の道なのだ。 

( Dang Dang Doko Dang, Ch.7より )



自分が表現したことに責任をもちながら、新しいあなたの道を切り拓いていっていただきたいと思います。


自己探究のススメ

2011年03月27日 08:45


★ 自己探究のススメ ★



人はみな自己探究をするために生まれてきたのです。
さまざまな体験をしながら、自分自身の真の正体に気づいていく旅です。

自分自身のこともわからないでいて、どうして他人のことがわかるでしょうか?
自分自身の問題を直視することを怖れ、それを避けるために、他人につきまとい、他人の問題に首をつっこむ人は大勢います。
(小さな親切・大きなお世話になっていることが多分にあるのです)
そこから学ぶこともあるでしょう。
他人事ではないことを知らされることもあるでしょう。

人間関係は、自分のなかにある側面を映し出します。
それはたいていまだ発育できていない部分、自分で認めていない部分です。
他人のなかにあって称賛したいと感じる質やイヤだと感じる質などは、同様に自分自身のなかにある質でもあるのです。
すべての人間関係は、自分の中にある影の部分であり、それに目をそむけずにしっかりと見つめ、認め、自分自身を丸ごと受け入れることができれば、もう関係性による学びは卒業したということになるでしょう。


(参考過去記事 「単独者となること―天国に入るための必要条件」)


ピンク1


あなたはまだ他者を必要としているのでしょうか? 
今、あなたは他人のお世話をしている場合でしょうか?
自分の眼の中にあるチリやゴミでさえ取り除くことができないのに、どうして他人の眼の中のチリやゴミを取り除くことができるでしょうか?
自分自身の心が癒されていないのに、どうして他者を癒すことができるでしょうか?
それは、盲人が盲人を導こうとしているのと同じことです。



相手の問題(課題)は相手に任せておけばよいのです。
あなたはあなたの探究をしてください。
人類に残されている時間は…
あるいは、あなたに残された時間はそう長くないかもしれませんから。

あなたが今生でやり遂げなければならないことを、これをしなければきっと後悔すると思うことを真剣におこなってください。
それがあなたの外面(物質)的なことなのか、内面(精神)的なことなのか、どちらがあなたにとって重要なことなのか、その選択はあなたしだいです。

大きな震災で、少なからず影響を受けた人たちもいらっしゃることでしょう。
こんなときにこそ、学んだことが役に立つのです。
その学びが、今このようなときに発揮されないで、いつ発揮されるのでしょうか?
何かが起こったら、突然パニックが起こり、頭の中が真っ白になってしまうのは、真に理解ができていないからです。
腹に落ちていないからです。
何があっても動じない自分自身を確立してください。



bara



時間は三つの時制―  
過去、現在、未来からできていると考えられている

それは間違っている

時間は過去と未来だけでできている
現在からできているのは生だ

だから生きたいと思う人は
この瞬間を生きる以外に道はない
存在するのは現在だけだ

過去とは、記憶の寄せ集めにほかならない
そして未来とは、あなたの空想、夢にほかならない
リアリティは〈今、ここ〉だ

(OSHO 「ゴールド・ナゲッツ」より)




ふたつのハート

この瞬間が美しく、静かで、至福に満ちているなら 
次の瞬間は、もっと静かで至福に満ちているに違いない

とOSHOは言います。

未来はこの瞬間から育つのです。
〈今、ここ〉を大切に過ごしましょう。
〈今、ここ〉にあるこの瞬間の豊潤さを飲み干しましょう。




霊的に心と身体を守る方法 総集編 その2

2011年03月29日 22:20


★ 電磁波汚染から身を守る ★



過去、わたしは「電磁波測定器」なるもので、自宅にある電化製品からどれほどの電磁波が出ているかを測定しまくったことがありました。
(霊的な存在を感じたときも、測定器の針がわずかに揺れたのを発見したことがあります)

あなたの家にあるものを見回してください。
エアコン・テレビ・パソコン・無線LAN・携帯電話・電子レンジ・冷蔵庫、
オーブントースター・ホットカーペット・電気コタツ・電気毛布・ふとん乾燥機、
加湿器・除湿機・空気清浄機・ヘアドライヤー・電気式シェーバー、
洗濯機・乾燥機・蛍光灯など…。
まだまだたくさんありますね。
いちいちそれを気にしていたら、すべての電化製品はまちがいなく使用できなくなります。
結局電気がなかった時代の生活をしなければならないということになるわけです。
それが無理なら、電磁波に負けない身体にするしか術はありませんね。

★わたしたちが今すぐにでも実行できることは、携帯電話を使用しないときは電源を切っておくこと。
携帯電話で話すときは必ずイヤホンを使うこと。
できるだけ電化製品と自分自身との距離を置くよう心がけること。
コンピューターを使うときには窓を開けて新鮮な空気を取り入れたり、使用しないときには節電モードではなく、スイッチを切ることなどです。


また、AC アダプターがコンセントにつながっている限り、たとえ電源が入っていなくても電磁波の発生は大きいということを知っておいてください。
AC アダプターの中でもコードレスホンの子機についているものから、つよい電磁波を発生しています。
ですから、AC アダプターがついている電化製品は、使用しないときは必ずコンセントを外しておくことです。
テーブルタップにつないで使うと電磁波の数値は倍近くになります。
電話の子機やCDラジカセなどに付属しているAC アダプターが、寝ている頭の近くにあったりすると、電磁波の影響を直に頭で受けることになりますので要注意です。

冷蔵庫やテレビが置かれている裏側に当たる部屋に住んでいる人は、大量の電磁波を受けていることも知ってください。
とにかく前方よりも後方が問題なのです。
冷蔵庫やテレビの電磁波は低周波なので、壁があっても簡単に通り抜けます。
コンピューターも、画面よりも裏側が高い数値を表していますから、注意が必要です。

マッサージ機や足裏のマッサージマシンなどからも低周波が多く出ています。
マッサージ器でマッサージしたら、被爆することになります。恐いですね。

例をあげたらきりがないので、関心がある人は自分で本を買って勉強してくださいね。
とりあえず、上記のことを頭に入れて、節電を心がければ、随分電磁波から身を守ることができると思います。
(過去記事 こわい「電磁波」のお話 参照)

ただし、電磁波過敏症の人で、送電線や携帯電話会社の鉄塔などがすぐ近くにある場所にお住まいの場合は、早急に引っ越すことを考えたほうがよいかもしれません。


★植物には電磁波を吸収してくれる力があるといわれています。
わたしはデスクの近くにポトスの鉢をたくさん置いています。
部屋中観葉植物だらけです。
ポトスのほかにオリヅルランなどもよいでしょう。
観賞としてもさわやかできれいです。



       ポトス
    植物は電磁波を吸収してくれる(わたしの机にあるポトス)


また、寝床の近くにも観葉植物を置いてください。
植物たちは怖れのエネルギーを変換してくれるので、気持ちよく穏やかに眠ることができると思います。
植物を大切に育てれば、妖精さんたちの助けも借りることができるかもしれませんよ。


★ 霊的な攻撃に対して ★



霊的な攻撃」というのは、「目に見えないエネルギーでの攻撃」、多くは「悪想念エネルギー」で、「生霊」などがそれです。そのために心身がネガティブエネルギーに取り込まれ、生きることが苦しくなってきます。

(詳細例は過去記事 『能楽「鉄輪」の女主人公のお話』をお読みください)

★「霊的な攻撃に遭う人」は、自ら引き寄せているわけですから、自分の想念(思い)を変えるしか解決方法はありません。

悪意を抱けば、悪意、復讐、憎悪などの念を引き寄せるということは、「鉄輪の女」シリーズでさんざんお話ししていますので、読まれた人はよくご理解いただいていることと思います。
念の影響力というものは非常につよく、恐ろしいものであることを知ってください。

★生霊やネガティブな異星人の想念に影響されているのではないかと感じる人は、つぎのことをしっかりと自覚してください。

とにかく弱者であってはいけません。
もっと強い意志をもって立ち向かってください。
攻撃を受けても跳ね返す力を持ってください。
あなたの恐れが彼らを招き容れるのです。

「右の頬を叩かれたら、左の頬を出す」ようなお人よしはやめることです。
だいたい「頬を叩かれる」ような人は、自ら攻撃を招き寄せているのです。自業自得であるともいえます。
「右の頬を叩かれたら、左の頬を出す」必要などありません。
相手が叩こうとしても、結果的に叩くことができないほどのつよさを持ってほしいと思います。

霊的に敏感な人たちは、自分を攻撃してくる者に同情したり、ネガティブなエネルギーや邪悪なエネルギーを跳ね返すことに罪悪感をもったりすることがあるようですが、そんな必要はないのです。

あなたのオーラが強く保護されていれば、自然に跳ね返すことができます。
(過去記事 「悪想念を受ける人と受けない人」 参照)
だからこそ、自分のオーラを常に浄化し、つよく保護しておかなければいけないのです。



★ オーラを強くする方法 ★



★ここで、オーラを強くする方法をお伝えしておきましょう。

まずいつもしっかりとした呼吸をするよう意識してください。
なぜなら、呼吸が浅いとオーラが消耗し、小さくなるからです。
ですから、深い呼吸を心がけてください。
毎日朝起きたときや寝る前などに寝たままで深呼吸をするのもよいと思います。


★ 自分のオーラを純白の光で包む ★



自分のオーラが純白の大きな光に包まれているのをイメージします。
そのイメージを意識的におこなうことによって、強い保護膜、防護膜をつくることができるのです。
わたしは毎日このイメージをすることから生活を始めています。
白く光り輝く光のまゆに包まれているのをイメージした後、「宇宙のいかなるネガティブエネルギーもわたしに悪影響を及ぼすことはできない」と宣言します。

密教的な学びを身につけたウィリアム・W・アトキンソンも、この純白の光の輪について、
少し訓練するだけで、この光の輪をアストラルプレーン(幽界)に作り出すことができ、幽眼(透し能力)でそれを見ることができない人でも、その守りの力ははっきりと感じ取れる
と言っていますから、まちがいないイメージ方法だと思います。
よって、霊的な影響を受けている人や受けやすい人には特におススメします。


★ クリーニング液でオーラを浄化する ★



わたしが言うところの「オーラのクリーニング液」は、主に「オーラソーマ社」が販売している「クイントエッセンス」のことです。
目的別に15種類ほどあります。
都会の有名デパートなどでは売られていますが、ネットで買うのが早いかもしれません。

★クイントエッセンスは、身体のまわりにある*微細身に作用し、思考と感情、行動のバランスをとるはたらきをするといわれています。
(*微細身については、過去記事 「神秘のボディ」参照)
室内の空気を浄化し、動物や植物を癒す効果もあるとされています。
水にクイントエッセンスを数滴落とし、霧吹きができるボトルに入れて空中に散布すると、気持ちがよくなります。

わたしが長年使ってきたクイントエッセンスに「セラピスベイ」があります。
これは浄化専用のエッセンスです。
「透明性、新しい始まりをもたらす」とされる液で、星や太古の文化のエネルギーに波長を合わせ、鉱物王国のカギを握っている神聖なエッセンスとされているため、特にクリスタルを扱うワークなどをするときに適しています。
クイントエッセンスで自分のオーラを浄化する方法は、説明書があるかと思いますので、それに従ってください。
 
     

         エッセンス
     わたしが使っているクイントエッセンス〈セラピスベイ〉



★ ホワイトセージで部屋を浄化する ★



わたしは、クリスタルがあまり元気でないときは、*ホワイトセージの煙で浄化し、水で洗い流したあと、先ほど説明したオーラのクリーニング液(セラピスベイ・クイントエッセンス)で清めています。
ホワイトセージでのクリスタルの浄化は抜群です。もちろん、光の放射はそれ以上に効果がありますが。
観葉植物はホワイトセージの煙が大好きなので、ときどき葉っぱを直接煙で包んであげると喜びます。


  セージ
      ホワイトセージで部屋や植物を浄化する


*ホワイトセージは「癒しの草」とも呼ばれているサルビア属の植物です。
南カリフォルニア サンタバーバラからメキシコ バハ・カリフォルニアにかけて多く自生しています。
古くから「浄化作用のある神聖なハーブ」として、ネイティブアメリカンたちに大切に扱われ、伝統的儀式をおこなう際、場所の浄化や祈りと感謝をささげるために使用されてきたと伝えられています。
匂いは、人によってはあまり好まれないかもしれません。
部屋を浄化するのにも使えるので、一度お試しください。


ただし、ネガティブ(未浄化)霊の浄化には効きません。
よく浄化のために部屋の隅に塩を置いたり、お香などを焚いたりしますが、残念ながらそれらのものは実際には何の効果もありません。
気持ち的に清浄なる雰囲気になるので、浄化前の準備としては必要ですが、それがそのまま霊の浄化にはつながらないことを知っておいてください。霊の浄化には本人(霊)の意志とその霊を光の世界へと送れるだけの光を投射することが必要です。

ホワイトセージは、都会などではパワーストーンのお店やオーラ関係のお店に置かれていると思いますが、入手できない人はネットで買うことをおススメします。

今回はだれにでもすぐにできるような実用的な内容となりましたが、ともかくいろいろと自分で試し、体験してみることが大切です。
わたしたちは自己を知るための体験学習をしに、この地球にやってきたのです。
何もしないで途方にくれているのはもったいないですよ。




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