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教育とは―その1 よく遊び、よく学ぶ

2011年01月17日 01:00



さて、つぎはどんな記事を書こうかと考えていたとき、急にわたしの脳裏に、多くの子どもたちと接していた若かりし頃の思い出が甦ってきました。
それがあまりにもなつかしくて、ブログに書いてみようかという気になりました。
いつもとは趣向は異なりますが、よかったらお読みください。

過去ブログ「インディゴは、母の愛を求めている」の「教えることと学ぶこと」の箇所にも少し書きましたが、わたしの人生の中で、世間では「教育者」と呼ばれる仕事に就いていた時期がありました。
結婚と長女の誕生が、その道を継続することを断念させましたが、8年という歳月、その大好きだった仕事にいそしむことができました。


★ 変わり者の教師 ★



おそらく当時、(1970年~80年代)教師のあいだでは、わたしは相当変わっていたというか、特殊であったのではないかと思います。

当時の公立学校では、当然のことのように相対評価が実施されていましたが、それにとらわれず、絶対評価をしていたことも、そのひとつです。
子どもたちの成績を5段階の相対評価でつけるなら、40人のクラスで、1と5をつけるのは、1~2割程度です。つまり、4~8人ほどなんですね。
たとえ優秀な子どもがたくさん育っても、いつでも5をあげられる子どもは決まってくるのです。

だいたい教師というものは、その時期に児童が学ばなければならない内容を、全員に理解させるために授業をするのであって、テストで5段階に振り分けて、その成績を通知表に記入するために教壇に立っているわけではないはずです。

子どもたちはとても正直で、素直に反応してくれます。
一生懸命になって教えれば、テストをしてもそれに相応した点数を獲得してくれるものです。
先生の教え方と子どもたちの成績とは、比例するのです。

わたしは常々、クラスの子どもたちが授業内容を完璧に理解して、ひとり残らず満点をとることを目標にして、親がびっくりするほど懇切丁寧に教えていました。
ですから、テストをするごとに満点をとった子どもたちに対して、絶対評価として5をつけるのは当然のことだったのです。

だからといって、わたしの採点はけっして甘くはありませんでした。
特に低学年における文字(漢字)に関しては、どの教師よりも厳しかったと思います。

小学生のあいだでは、特に漢字などの文字を正しく丁寧に書くように訓練しておく必要があります。
いいかげんなまま覚えてしまうと、そのいいかげんさはそのまま引き継がれ、おとなになってからでは決して直せないからです。
正しく書けるようになるまで、自ら放課後に残って、練習にいそしんだ子どもたちは、今きっと漢字で苦労することはないでしょう。

もうひとつ、わたしは他の教師があまりしないことをしていました。
暑くてみんなが気だるそうな日などは、授業を早く終わらせて、運動場で遊んだのです。
また、お化け話をしたり、面白い本の読み聞かせをしたりしました。
学校ではおそらく教えないであろうことを伝えたりもしていました。

たとえば、日頃子どもたちが買って食べているお菓子の袋や、家にあるお惣菜の袋などをたくさん持ってきてもらい、そこに記されている保存料や着色料などの表記の説明をしたりしたのです。

化学物質が食品にどれだけ入れられているのか、それらがどれほど人間の身体に有害であるのか、表示をよく見て安全な品を買おうということなどを、子どもたちに伝えました。
社会科で、まちがった歴史などを教えるより、ずっと重要だと考えていたのです。

国語で詩を創る際は、教室ではなく、戸外に出ました。
学校によっては、近くに野原があったり、堤防があったりしたので、そこを散策しながら詩を創作したのです。
みんな素敵な詩人になっていました。
どの学年でも、たくさんの詩集ができ、今でも手元に残っています。

つくし つくし


二学期の終業式には、ひとりひとりに向けてメッセージを書いた手作りのクリスマスカードを渡すのが楽しみでした。
成績表に所見を書くよりも、そっちのほうに熱が入って、徹夜で書いたことがなつかしく思い出されます。


★ よく遊び、よく学ぶ ★



子どもたちとは、実によく遊びました。
休憩時間、放課後と、職員会議などがない限りは、職員室に戻ることはめったにありませんでした、

自分のクラスの子どもたちだけでなく、他のクラスや他の学年の子どもたちも仲間に入ってきたので、いつのまにか全校児童と顔見知りになっていました。

低学年や中学年の子どもたちは、一度家にカバンを置いてから、また学校に来て遊ぶのが楽しみだったようで、たまに職員室にいても「先生、遊ぼう!」と呼びにくるので、いつもその声に駆り出されていたのです。

自慢ではないのですが、わたしが受け持ったクラスは、必ずと言ってよいほど、スポーツ大会で優勝していました。日頃遊びながら鍛えていたので、それに向けてわざわざ練習をしなくてもよかったし、チームワークも抜群だったので、勝つことができたのです。

幅跳び、跳び箱、すもう、ドッジボール、サッカー、なわとびなど、随分やりました。
小学1年生でありながら、ほとんどの男子が8段積んだ跳び箱を跳んでいたのですから、驚いてしまいますね。
それくらいになるまで遊んだということです。

子どもたちは、学校だけでなく、わが家にもつぎつぎと遊びにやってきました。
夏休みには、グループで泊まりにも来ました。
クラス全員に近い子どもたちが実家に押し寄せ、家に入りきれなくて、近くの山に散策に出かけたこともありました。
他府県から母親と一緒に会いに来てくれた子どもたちもいました。
なんでそんなにわたしの家に来たかったのか、今でも、もうひとつよくわからないのです。

保護者には毎回学級通信を出していました。
自分が書きたいことを、ただ書いていただけですが、それがけっこう好評だったのです。

※な~んだ、これって、光の仕事人さんの自慢話じゃないの~。 と思われたでしょうか?
それでもかまいませんよ。自慢ができるって、ある意味幸せなことですから。



★ われを何とも言わば言え ★



なぜそんなに親や子どもたちにサービスをするのか?
サービスしすぎじゃないか
と思っている教師は、少なくはなかったように思います。

そういう人たちは、決して自ら学級通信を書こうとしなかったし、子どもたちと休み時間に遊ぶこともしませんでした。
そして、時々わたしを職員室に戻らせるための、驚くような作戦を考えたりするのでした。

たとえば、放送で「○○先生、今すぐ職員室にお戻りください」とわたしを呼ぶのです。
何かと思って急いで戻ると、「たまには、主任にコーヒーでも淹れてあげてよ」と言うのです。

? ? ?マークがいっぱいでしたね~。

休憩時間に子どもに遊びのサービスをするのではなく、主任にコーヒーのサービスをしなさいというわけです。
教師というのは、この程度の意識レベルでもやっていけるのです。

当時、わたしは同僚のつながり云々よりも、まず何よりも子どもたちを主体に置き、大切にしていました。
ですから、そういうイジメっぽいことをされても、けっこう平気だったのです。
というよりも、学校でやりたいことが多すぎて、また校外でも組合の委員などの仕事があって、つまらない教師同士のことで悩んでいる暇などなかったのです。

一番心が安らいだのは、どの学校へ行っても、管理職たちが陰ながらわたしを応援してくれたことかもしれません。
「一生懸命やっていて、変わり者って言われることはいいことだよ」と。


われを何とも言わば言え
わがなすことは
われのみぞ知る


これは昨年「龍馬伝」の最後のあたりで、福山雅治さんが演じた龍馬が言っていたことばです。(福山さんのセリフは、ちょっと異なっていたかもしれません…)


世の人は
われを何とも言わば言え
わがなすことは
われのみぞ知る


自分のことを、何とでも言いたいヤツは言えばいいさ。
自分がすることは…その意義は…自分だけが知っているのだから…。
20代の頃のわたしは、そんな龍馬のことばを知りませんでしたが、当時、彼と同じことを思いながら勤務していたように思います。


★ 子どもたちの瞳のきらめき ★



わたしが子どもたちと遊ぶ理由はいろいろありました。

授業中では見られない子どもたちの側面を知ることができるからでもあり、いつもイジメられている子どもを入れて、一緒に仲良く遊ぶためでもありました。
そして、何よりも思い切り遊んだあとの「子どもたちのかがやく瞳」を見たかったからかもしれません。

何しろ、休憩時間に楽しく遊んだあとは、子どもたちのつぎの授業での取り組み(姿勢)が全然ちがうのです。
目が生き生きと躍動しているのです。
子どもたちの瞳のきらめきがちがうのです。 

ある日、つぎの授業を始めようと教壇に立ったとき、わたしはひとりの男の子の瞳と出会いました。
わたしを見つめるその瞳は澄みきって、きらきらと星のようなかがやきを放っていました。
そのとき、他の子どもたちも、全員が一斉に、わたしを見つめていることに気づいたのです。
その瞬間、熱いものが胸にどっとこみあげてきたのです。

子どもたちは、こんなに真剣なまなざしを向けて、わたしの声を聞こうとしている!
そのことに、言い知れない感動を覚えたのです。
それは、教育者としてというよりは、人間としての最高の喜びでした。



わたしが子どもたちと遊ぶ理由…。
それは、わたしが子どもたちと一緒にいることに喜びを感じていたからにほかなりません。
今から思うと、わたしはほんとうに大好きなことを仕事にしていたのだと思います。
そして、子どもたちからは、たくさんの愛をもらいました。


彼らはわたしの誕生日を覚えていて、クラス全員が手作りの品やお小遣いで買ったかわいらしい品をプレゼントしてくれました。
その愛のこもった品々は、大きな段ボール箱にあふれるほどだったのです。

日頃、手がつけられないほどのやんちゃ坊主たちが自宅に来て、照れくさそうにプレゼントを置いていったこともありました。
当時、わたしは教師という職にあって、若い多くの魂たちと親密な交流をおこなっていたのです。


★どんなことがあっても、めげずに教師をやっていられたのは、そんな子どもたちに支えられていたからです。




          木と光
                     木の間から射す陽光


まだわたしが大学生の頃、教生で通っていた学校で研究授業を行なった際、5年生のクラスを提供してくださったある先生が、わたしに言われたことばがあります。
それは、今でも忘れられず、なつかしく響いてくるのです。

そのことばは、わたしに大きな勇気と喜びを与えてくれました。
そして、その後教師になってからも、ずっとそのことばの状態を維持することになったのです。

彼はこう言ってくれたのです。

子どもたちが味方だね




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教育とは ― その2 真の教育はあなたの中にある潜在能力を現実にすること

2011年01月17日 20:00


★ 教育とは何かを考え直すのは今 ★



わたしの教師時代を思い出したので、前記事で思いのままに綴りましたが、なぜ今「教育」を思い起こさなければならなかったのかを考えてみました。

「教育改革」が、今緊急に必要だからです。
国の政策のなかでもっとも顧みられていないのが、「教育」です。
いつの時代も未来をつくる子どもたちの一番重要な「教育内容」が置き去りにされてきたのです。

今の学校は、「物質世界」や「物質世界で生きるための方法」を教えているだけです。
しかし、もうこのような時代は終焉を迎えつつあります。
これまでの学校が、教師が、子どもたちに教え込んできたことは、もはや何の役にも立たないのだということを知るときが、刻々と近づいてきているからです。
そのときに気づいても遅いのです。今気づく必要があるのです。
教育とは何か?」を根本から考え直すべきときは、まさに今なのです。

このブログの読者さんの年齢層には幅があり、高校生から50~60代の主婦まで老若男女千差万別です。
スピリチュアルなことに関心を持たれている方が、子育てをすでに終えた40~50代に多く、小中学生のお子さんを持たれている若い人は、意外に少ないと言えるかもしれません。

また、一番「子どもの教育」について関心を持ってほしい20代~40代の親たちが、まったく「教育」に関心を持っていないのでは? と感じるのですが、いかがでしょうか?
子どもの教育は、本来その子の両親がおこなうものであって、学校に全面的に依存するものではありません。
現在、親になっている人たちが親になっていない。つまり、彼ら自体が精神的には子どもなので、教育などできない状態なのかもしれませんが、そのつけは彼らの子どもにいくのです。
まあ、その子どもたちも、そういう親を選んで生まれたのですから、何か学びがあるのでしょうけれど。

とにかく、「教育」に関して、緊急に皆さんにお伝えする必要性があるようです。

(今現在、わたしの周りにはおとなしかいません。ですから、今の子どもたちが現場でどのような教育を受けているのか、その実態を知りません。もし昔と比べて激変したところがあったら、ぜひ詳細に教えてください)



★ 日本の学校の問題点 ★



近年、「相対評価」は「絶対評価」へと移行したかもしれません。
でも、基本的なことは、昔からさほど変わっていないのではないかと思うのです。
たとえば、記憶や暗記力にたよる学習が主で、質問に対する答えはたいていひとつしかないというやり方は、どうでしょうか?

テストでは、先生の言ったことをオウム返しに答え、教科書に書かれた内容をそっくりそのまま正確に答えると、成績優秀になるという実に摩訶不思議なやり方です。

多数の答えが出せるようなテスト問題や、自分自身の考えを入れないと合格しないようなテスト問題は、この日本の小中学校に存在しているでしょうか?

しかし、アメリカではいくつかの答えが出せるようなテスト問題が多いと聞いたことがあります。(もう20年ほど前のことです)
なぜなら、ひとつの問題に対して、たくさんの答えを認める社会だからです。
アメリカにはさまざまな人種が住んでいますから、当然いろんな考え方があるし、それを尊重しようという考えがあるわけですね。
だから、思いもよらない変わった答えが出ることを教師は待っているし、それが出たときには大いに誉めるのです。

イギリスでは、同じ教室であっても、子どもたちの進度に合わせた教科書を選んで学習させていると、何かの本で読んだことがあります。(それも20年ほど前のこと)
イギリスでは、同じ年齢の子どもたちであっても、異なった教科書を使って学習しており、教科書を丸覚えさせるのではなく、子どもたちの持っている能力を引き出すことに重点を置いていたのです。すばらしいですね。


★教育とは、子どもたちの中にあるものを引き出すこと、彼らの潜在能力を現実にすることにほかなりません。

日本の教育者は、はじめから答えを与え過ぎているように思います。
言い換えれば、子どもたちが一人ひとりでじっくりと考える機会を与えてはいないのです。

もし、子どもたちの考えを尊重するという建前で、最初に彼らの考えを聞いてみるとしても、結局は、最後には、教師は正解と思われる答えを発表するにちがいないのです。

たとえば、こんな具合です……。

先生: この詩を書いた人は、どんな気持ちでこれを書いたのだろうか? 
    みんなどう思う? 

子どもたちがいろいろと自分の感じたことを発表します。

先生: うん、うん。君たちの考えはわかったよ。
    でも、先生はこう思うんだ……。

そして、教師の説明がつづきます。
それが唯一の正解なのだといわんばかりに。

そして、テストの際、自分の感じたままを書いた子は×で、先生の考えを書いた子は○なのです。 
詩人がどんな気持ちで書いたかなんて、ほんとうのところはその詩人にしかわからないことです。
どう受け取ろうが、読み手しだいで変わってきますから、答えなんて無数にあって当然です。正しい解答も、まちがった解答もないはずです。

もし詩人自身が採点をするとしたら、いったいどうするでしょうね。
「そう簡単に他人の気持ちなんて、わかるもんじゃないよ~」
なーんて言って、全員に×をつけるかもしれませんし、
「でも、いろんな感じ方や意見があるんだねー。驚いたよ~」
と言って、全員に○をつけるかもしれません。


★わたしの次女は、幼い頃からよく質問をしました。
漢字の読み方、ことばの意味……。
次女はわたしのことを、聞いたらすぐに答えが得られる「生き字引」と思っていたようですが、あるとき国語辞典と漢字辞典を与え、すぐに人に尋ねないで、自分で調べるように促しました。

自分で調べたことは、忘れにくいし、ある程度納得もできるし、検証もできます。
ですから、辞書は座右のひとつとして貴重です。
しかし、辞書を引っ張ってみても、まだそのことばの意味がよくわからないときがあります。

たとえば、その意味を表すことば自体が釈然としないから、そのことばをさらに調べると、そこには元のことばが書かれているといった具合です。辞書の中でぐるぐると回っているだけですね。
辞書というのは、このような「ふざけた仕組み」になっているのです。
となると、自分で考え、理解するしか方法がありません。


★ 何にでも疑うことは必要 ★



何でも鵜呑みにせずに疑うことは大切だ」と過去記事にも繰り返し書きました。
疑いは、生きていくために必要なことです。
なぜなら、疑わない限り、発見することはないからです。
自分で何かを発見したなら、そこには大きな歓びがもたらされるでしょう。


「見えない世界」を感知することに関しても同様です。
たとえば、あなたには「見えない世界」を認知することができず、理解できないとします。
それで、少しはわかりたいと考え、「見えない世界」を語るさまざまな人の本を読むとします。それで、あなたは「そうなんだ」と思います。
あなたは、その本に書かれていること自体は何とか頭では理解できるかもしれません。でも、それがほんとうなのかどうかはわかりません。
だれの言っていることがほんとうで、まちがっているのかなんて、想像もつかないはずです。確証がないからです。

たとえ、アカシックレコードを読んだからって、未来のことなど、ほんとうのところはわかりません。
人類の意識も、瞬間瞬間に変化していくのです。それに応じて、現象も変化するからです。

結局その都度自分で感知しなければ、わかりようがないのです。
あなたが彼らと同じ体験をすれば、ようやくその人が言っていたことが腑に落ちるのです。

だから、今わからないからと言って、むやみやたらにすぐに答えを求めないことです。
自ら行動を起こそうともしない間から、安易に質問したり、批判したりする者は、愚か者だということです。

ブログの読者さんは、たいてい「知りたがり屋さん」です。
だから、訪問されているわけです。そして、質問もされます。
とにかくわたしのブログ内容を全部読んでください。それでも、わからないようなら、ご質問をどうぞ」と言っております。
記事のどこかにその人が求めている答えがあるかもしれないからです。
読まれていても、まだ気づいていないことがあるかもしれません。
ですから、繰り返し読み返してみてくださいとお願いしています。

また、質問をされても、すぐに答えが得られるとは思わないでほしいのです。
答えないのは管理人の自由ですし、相手にもう少し自分自身で考えてもらいたいと思うときには、あえて答えないようにしています。相手によっても、答え方は変わるのです。
「自分だけ無視されている」なんて、つまらない考えだけは起こさないでくださいね。
答えが返ってきたら「ラッキー!」くらいに思っておいてください。


★「真の教育とは?」
そう訊かれたら、わたしはつぎの和尚のことばを伝えたいと思います。


真の教育は
あなたの中に隠れているものを
―神があなたの宝として入れておいたものを―
取り出し 発見し 明らかにし
あなたを輝かせるためのものだ

Educationは
Educareという言葉からきている
それは、あなたたちを
闇の中から光へ導く、という意味だ
途方もなく深い意味だ
あなたを、闇から光へと導く

ウパニシャッドは
「神よ、我らを、虚偽から真実へと導きたまえ」という
「神よ、我らを、死から不死へと導きたまえ」
「神よ、我らを、闇から光へ導きたまえ」

これこそ、まさに「教育」の意味だ
         
          OSHO「ニューチャイルド」より





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