まず「鏡のなかの自分」から! ―わたしたち一人ひとりが世界を変える―

2011年01月04日 16:30


2011年が始まりました。
今年は人類にとって、かなりきつい年になりそうです。
正直言って、新年早々のブログに何を書いてよいかわからなくて、3日間パソコンに向かうことができませんでした。

大みそかから元日にかけての記録的な豪雪で、いつも使用している国道の一部は通行止め、JRは不通、近隣の町では停電したままという非常事態がつづき、閉ざされた極寒の環境のなかでお正月を迎えた人たちのことを思うと、とても気の毒で、「おめでとう」ということばが未だに湧いてこないのです。
特に今回雪による被害が多かった山陰地方(鳥取・島根)の人たちは、改めて自然に対して脅威を感じたのではないかと思います。

朝起きたら水道の水が出る。スイッチを入れれば、エアコンが作動する。ただちにインターネットが使える…ということは、ほんとうにありがたいことですね。
こんなことは皆さん、あたりまえだと思っておられるかもしれませんが、そのあたりまえのことが突然不可能となることがあるのです。

なんでこんなことになるのよ~。
電力会社さん、早く復旧してよ~。
太陽さん、早く雪を融かしてよ~。
地球さん、天変地変は起こさないでよ~。
と叫んだところで、どうにもなりません。

異常事態が生じたとき、どう自分がそれに対応するかということが、これから重要となってくるのではないかと思います。
どんな状態に巻き込まれても、怒りやうらみなどのネガティブ指向に陥ることがなく、自分の気持ちが静かで、落ち着いていることが必要です。


★ 恐れるものは何もない ★



これまでわたしのブログを読んできてくださった方々にはおわかりかと思いますが、とにかく、この先どうなってしまうのかという不安や死の恐怖を抱かないことですね。
死の恐れを克服した人は、何があっても大丈夫であるはずです。

地球とともにアセンションする人は、肉体をもったままでつぎの次元に生きるわけですから、全然恐くないし、むしろ心が弾み、楽しいはずですね。
アセンションしない人は別の領域で再生するだけのことですから、何も問題はありません。
みんな、自分の選んだ道を行くのみです。


ただし、この世であることを成し遂げようと、明確な目的をもって生まれてきている人は、それが未だにできていないと、ちょっと不安かもしれませんね。


★ 地球を愛するインディゴたちの生きる道 ★



わたしの次女のようなインディゴ・チルドレンは、志願して地上に生まれてきていることを自ら知っているので、特別不安感が大きいのです。

インディゴの多くは、とても責任感が強いのではないでしょうか?
そして、完璧主義が多いのです。
自分の思っているようにならなかったり、できなかったりすると、そういう自分を許せなくなるんですね。
他人よりも、むしろ自分自身を許すことができない人の方が多いのではないでしょうか。
インディゴは、自分は何をなすべきで、何が自分にとって正しいかを常に考えているわけです。

★インディゴに限らず、数秘学でいう「軌道6」の人というのは、「愛を無条件に与える」というすばらしいエネルギーをもっています。
でも、自分がいい人になるために…自分がすべきことをするために…責任をとるために…がんばりすぎて、疲れ果ててしまうのです。

いつも何かに罪悪感をもっていて、自己犠牲のなかに入り込んだりして、まるで受難者のようになることもあるようです。
尾崎豊さんもそうでした。
マイケル・ジャクソンさんもそうでした。

彼らはとても魂がピュアであり、無条件の愛を与える人たちでした。 
特にマイケルさんは、無垢な子どもさながらに地球を愛し、虐げられた人々を愛し、救済しようとした人です。
彼は環境破壊を嘆き、自分たちで何とかしようと、うったえ続けていましたね。
アース・ソング」には、「泣いている地球、嘆き悲しむ大地」と一体となっているマイケルさんがいます。

残念なことに、マイケルさんも志半ばにして亡くなってしまいました。
やっぱりがんばりすぎたんですね。 



★「軌道」や「魂の衝動」に「」をもっている人は、あまりにも自分ががんばっているのに、自分が思っているほどに世間に評価されなかったり、期待通りにならなかったりすると、反動を起こすことがあるのです。
「やーめた!」「もうそんなの、かまうもんか!」と。

でも、そう思ったところで、彼らの深いところでは、ほんとうに与えたいし、分かち合いたいと思っているのです。地球のため、人類のために貢献したいと思っているのです。


★インディゴだと思っているあなた、あなたはどうでしょうか?
地球のため、人類のために貢献したいと、心から思っていますか?
そうでなければ、真のインディゴではないし、使命を忘れたままで死んでいくただの人間です。

★インディゴのあなたも、インディゴでないあなたも、今年何かひとつ目的を成し遂げましょうよ。

まずこの世に生まれてきた目的を思い出すこと。 
今自分がほんとうにやりたいこととは何なのかを、見つけましょう。


お金のためとか、生活のためとかではなくて、そんな心配はとりあえず横に置いて、一番やりたいことをやってみましょうよ。
そうでなければ、きっと後悔することになるでしょう。



★ まず「鏡のなかの自分」から! ★

 

★マイケル・ジャクソンの「Man In The Mirror」をぜひ聞いてください。
CDをもっていない人は「You Tube」の和訳つきを探して見て、聞いてみてください。
この詩は彼自ら作ったものではないようですが、彼の魂からメッセージが、ここに重ねられているように思えます。
  
 
  僕は鏡の中の自分から始めるよ。
   (鏡の中の男から、Yeah!)
  鏡の彼に変われと言うんだ。
   (変るべきだ!)
  これより明確なメッセージは他にない。
   (世の中をより良い場所にしたいなら)
   (まず自分を見て、自分を変えることさ)
   (まだ間に合ううちに、正さなきゃ)
   (だって、もし気持ちが閉ざされたら)
  心を、心を閉じちゃいけない。
   (その時は心が閉じてしまう!)   
  
       訳:大西恒樹



心を閉ざしてはいけない
この男から、鏡の中の男から変わるんだ
と、彼は歌います。
そして、
自分を見つめる勇気を出した人間が …
わたしたち一人ひとりが …
世界を変えるその人なのだ
」と、わたしたちにうったえているのです。


★2010年はマイケルのことばで締めくくりましたが、2011年もマイケルのことばで始めたいと思います。
つぎのマイケルのことばを魂に深く刻み、ともに2011年を生き抜きましょう。

 
    みんなこう言う。
    「だれかがやってくれる」って。
    「だれがって?」

    僕らからはじめよう。
    でないと、なし得ない。



わたしたちから始めよう! ―大好きなことを仕事にしよう―

2011年01月09日 01:00


あなたは今何かの仕事に携わっていらっしゃいますか?
そうであるなら、自分の仕事に生きがいを感じておられるでしょうか?

あなたは、自分の仕事が好きでしょうか?
仕事を楽しんでおられるでしょうか?

もし、答えが「NO 」であるなら、なぜ好きでもなく、楽しくもないその仕事をしているのでしょうか?

給料がよいからですか?
家から職場が近いからですか?
人間関係が他に比べてよいからですか?
その仕事しか、なかったからですか?

いや、どれもちがうというあなた、では、いったいなぜその仕事を選んだのでしょうか?

そこでなら、自分の能力が少しは発揮できて、人からも認められ、社会的にも一様受け容れられるから…と考えたからでしょうか?

わたしの長女は、学校を卒業して以来、さまざまな仕事を転々としてきました。
数多の資格をもっているためか、どこでも重宝がられ、軽い気持ちで面接を受けても、たいてい合格し、募集をしていないにもかかわらず社員として入社できたり、不思議と優遇されたりするのです。

ところが、どんなに優遇されても、本人は一向に嬉しくもなく、3日も行けば社内の雰囲気がいやになり、仕事が退屈で、もう早々と辞めようかと考え始めるのです。

「こんなところで、こんな人たちと、こんな安月給で、とてもやってられないわ」というわけです。
そうすると、翌日から会社に行くのがイヤでイヤで、たまらなくなるのです。
心がネガティブになっていますから、体調もしだいに悪くなります。
登社拒否ですね。その繰り返しです。

なぜ、そんなことになるのでしょうか?

それは、仕事を始める動機が、まったく純粋でないからです。
ただ、お金がほしいから仕事を探しているからにほかなりません。
目的が仕事ではなく、お金のほうにあるからですね。

本人もそれは重々承知していることなのです。
長女には、ほんとうはしたいことがあるのです。
それは、本人にとってはとても楽しい創造性のある仕事です。
しかし、自分にしかできないその楽しい仕事を、無一文から始める勇気や気力が持てないのです。
だから、とりあえず、手っ取り早く、給料をもらえる所を探すわけです。

給料をある程度もらうためには、当然その仕事に拘束されます。
そうすると、自分のしたいことをして楽しむ時間が失われていきます。
それは、本人にとっては一番いやなことで、最もしたくないことなのです。
でも、なぜかそれをしているのです。
危険に満ちた生を生きる」という選択ができないんですね。


★ 大好きな仕事をして生きたゴッホ ★



画家であったフィンセント・ファン・ゴッホは、1853年オランダに生まれ、1890年に亡くなりました。
自分の家もなく、食べるものもなく、着るものもない貧しい境遇のなかで、精神的な病に苦しみながらも、絵を書きつづけた人です。

ゴッホは自画像をたくさん描いていますね。
あれだけ自画像を描いた人はいないのではないでしょうか?
おそらくモデルを雇うお金がなかったからだと思われますが、
絵の練習には、自分を描くのが一番手っ取り早かったのでしょう。


     ゴッホの自画像
     ゴッホの自画像(1888年 ゴッホ美術館蔵)


絵に関しては、彼が生きているときには、たった一枚しか売れず、彼の才能はほとんどだれにも認められなかったといわれています。
唯一彼の弟だけが、ゴッホのきらめく才能を知っていたのです。

そんな弟に金銭的に世話になりつづけながらも、自分が描きたいものを描くことができたゴッホは、とても幸せであったにちがいありません。

しかし、ゴッホは37歳で自殺してしまいます。
彼は弟夫婦に迷惑をかけていることを随分苦にしていたようですから、それが原因なのかもしれませんし、彼の精神的な病(狂気)が原因なのかもしれません。

とにかく、ゴッホは大好きな絵を描いて生きたのです。
今では、ゴッホの名前や絵を知らない人はいないほどで、絵は何百万ドルの価値がついています。
彼が生きていたら、さぞかし驚愕することでしょう。

でも、当のゴッホは、人々に認められようと認められまいと、「絵を描く」という仕事に価値を見出し、それを愛しつづけたのです。

大好きな仕事をして生きたゴッホ
彼の満足感は、人に認められることなんかではなく、自分の好きな風景や人物をキャンバスの上に自分らしく表現することにあり、それを楽しむことにあったのです。



ゴッホ




夜空に輝く星々の独特な表現は、
ゴッホ自身の言葉によると
夜空に咲く「天国の花」なのだそうです。

カフェテラスの黄色と夜空の青色、
杉の木の緑色の鮮やかな色彩描写は、
最も注目すべき箇所。
石畳の複雑な色彩表現も、すばらしいですね。



夜のカフェテラス(アルルのフォラン広場)
(1888年クレラー=ミュラー国立美術館)



★ 自分のハートの鐘を鳴らす何かを選ぶこと ★



インドの神秘家OSHOは言います。

人に感心されたり、認められたりしなければならないということが、あらゆる人間の問題であることを思い出さなければならない」と。 
  
私たちは社会のなかで、つねに人に認められないかぎり、自分は無価値なのだということを教えられてきている。為す仕事が重要なのではなく、認められるということが重要なのだ」と。


これがものごとを逆さまにしている。
為される仕事が重要であるべきだ。
それ自体が喜びであるべきだ。

人は認められるためにではなく、
創造的であることの喜びゆえに、
その仕事を愛しているがゆえに、
仕事をすべきだ。



彼はまた、こうも言っています。


便利さや居心地のよさを、
名誉や社会に受け容れられること、
尊敬を選んではいけない。
自分のハートの鐘を鳴らす何かを選ぶのだ。
どのような結果になろうとも、
自分のしたい何かを選ぶのだ。



★もしあなたが居心地のよさを、快適さを選んだら、そのときには、あなたはけっして自分らしく、強烈に生きることはできなくなります。
簡単」、「便利」、「ここちよい」という、社会が支持するそれらを選んだなら、あなたは心理的なドレイになるということを意味するからです。
好むと好まざるとにかかわらず、あなたからあなたの自由や個性は失われていくことになるということです。


★自由を失いたくないのなら、個性を失いたくないのなら、ゴッホのように生きることです。
たとえ、自分の家がなくても、食べるものがなくても、大好きなことをして生きることです。
自分のハートの鐘を鳴らす何かを選ぶのです。

結果を気にしていては何も始まりません。
この瞬間瞬間に、したいことだけを全面的に実行するのです。
そうすれば、あなたはけっして後悔することはないでしょう。

なぜなら、毎瞬毎瞬が、あなたの最高、最善の行為となっているからです。
わくわくするような生のきらめきが、そこにあるからです。

危険に満ちた生」の裏には、「至福に満ちた生」が存在するのです。



さて、あなたは今どちらを選びますか?

やはり、便利さや居心地のよさ、名誉や社会に受け容れられることを選びますか?

それとも、どのような結果になろうとも、自分のしたい何かを選びますか?
危険に満ちているけれども、自分のハートの鐘を鳴らす何かのほうを…。


わたしたちから始めよう! ―意識の変容はまずあなたから―

2011年01月10日 17:00


前回の「わたしたちから始めよう!―大好きなことを仕事にしよう―」の箇所で、下記のコメントをいただきました。
だれもが一度は考えたことのあるとても大切な質問だと思いましたので、今回はその回答をみなさんにもお伝えさせていただきたいと思います。


★ あるインディゴさんからのご質問 ★ 



「他者のためになるには、どうやったらいいんでしょう?」

「ゴッホのように絵を描いたりして、たとえそれが人々の心になにかしらの影響をあたえたとしても、世間の人は上っ面しか見ずにその奥にある本質は見分けられないのではないでしょうか?」

「僕が周りの人にアセンションや目に見えない存在の話をしても、『君は変わってるね』だけで終わります。
僕は別に人を導きたいわけでもないし、ただ単純に言いたいから言っているだけですが、こんな調子じゃいつまでたっても人の意識なんか変わるとは思えません」

「僕はよくこのことで悩んでしまいます。『どうすれば人の意識は変わるのだろうか?』と。
いまだにその答えは見つかりません。何かいい知恵はないでしょうか?」


★ 変えられるのは自分だけ ★



前々回、マイケル・ジャクソンの「Man In The Mirror」について、お話をしましたね。
(忘れた人は、再度読んでみてくださいネ)


僕は鏡の中の自分から始めるよ。
鏡の彼に変われと言うんだ。
これより明確なメッセージは他にない。
世の中をより良い場所にしたいなら
まず自分を見て、自分を変えることさ。



★つまり、意識を変えられるのは、唯一自分だけなのです。
自分しか変えられません。


他人を変えたい気持ちは、とてもよくわかります。
他人に対して、とりあえず自分のしたい話をすることはできます。
説明することはできます。
でも、他人を変えることなんて、基本的にできないのです。
いくらこんこんと話をしつづけても、その人が真に理解できて、納得できない限り、その人自身が変わることはないのです。
その人に任せておくしか手がないのです。
(変わるときには、自然に変わるのです)


他人を自分のようにしたい。これは非常に危険だ。
これは暴力をふるうことだ。
他人を自分と同じようにしようとするのは醜い。
自分の観点をほかの者に説明するだけで充分だ。
それを、他人事に首をつっこんでは、自分の信じることを他人も信じるように強いるのは、
われわれがいうところのいわゆる精神的暴力に等しい


この和尚のことばを、今一度振り返って考えてみてください。

★「和尚のことば」は、過去記事 正義を唱える戦争に「愛」はない に記載。


★人には自由意志と自由選択があるのです。
宇宙は、それらを人類に与えたのです。
だから、いつも見守っている守護霊や守護神でさえ、たとえその人にどのようなひどい問題点があったとしても、その人の意識を強制的に変えることはしないのです。また、できないのです。


すべては本人の人生であり、その本人の人生を尊重しているからです。
だから、本人が守護の神霊たちにアドバイスを望めば、与えてくれるでしょう。
心から祈れば、それに対する回答は必ず与えられるのです。

だから、まず自分が変わるのです。

でも、「自分はもう『目に見えない存在』のこともわかっているし、一般人より意識が高いと思えるし、これ以上どう変わったらいいの?」と思うかもしれません。

よく考えてみれば、自分を変えるところは、まだまだいっぱいあるはずです。
意識の上昇に限界はないのです。
宇宙の神さまになれるくらい意識を高めてみることです。
そうすれば、自分を高めることが、他者を高めることにつながっていることがわかってきます。
究極的には、自分=他者であるからです。

なぜって、最初はみんな同じ宇宙の源からやってきたのです。
どの魂も、同じところからやってきているのです。
でも、どんどん下降していって、思い思いの世界に留まったために、意識レベルも千差万別となってしまったのです。
最初は知っていたはずのいろんな記憶をすっかり忘れてしまい、ほんとうにびっくりするくらい意識が低くなってしまった魂もいるのです。

★いくら「目に見えない世界」のことを語っても、信じない人や、関心を持たない人たちというのは、記憶喪失となったとても気の毒な魂です。

これは、わたし事ですが、ある法律家に霊的世界の話をしたとき、「精神病院に行ったどう?」「それに、本を出すのはやめたほうがいい」などと言われたことがありました。
「出版の自由」があるにもかかわらず、人権を尊重すべき法律家が、こういうひどいことを口走るのです。
その人は過去から何度もひどい病気に罹っており、現在自分では歩けない状態になっています。
なぜ、そんなことになっているのだと思いますか?
このブログを読んでこられたあなたなら、もうわかりますね。


★ 縁なき衆生は度し難し ★



縁なき衆生は度し難し」ということわざがあります。
「人の話や忠告に関心を持たず、聞き入れようとしない人たちは、救いようがない」という意味です。

このことわざは、もともと仏教から生まれたものです。
仏の教えに全然関心がなく、その話を聞き入れようとしない人たちは、いくら慈悲深い仏であっても、救うことができないということを言っているのです。 



★世の中には、ほんとうに聞く耳を持たない連中が数多います。
聞く耳を持たないどころか、批難までしてきます。
彼らは「目に見えない世界がまったく感知できない」ために、何も気づけないのですが、その自分の無能さを棚に上げて、相手をおとしめ、嘲笑するのです。

こういう人たちのことを「無明の凡夫」と言います。
無明」とは、読んで字のごとく、まったく「明るくない」。
つまり、「道理に暗い」ということですね。

凡夫」とは、「誤った考え、煩悩に束縛されて迷っている人」のことです。
こういう人たちは、「仏さまでさえも救うことはできない」というのですから、結局放っておくしか手がないということです。

でも、「宇宙から来た異星人の魂をもつ人たち」は、「わたしたちが初めに生まれた真の世界」を思い出してほしくて、一生懸命語るわけですね。
仏さまよりも随分とおせっかいですが、深い愛があります。



わたし自身もそうです。
このブログで、いやというほど語っていますね。
自分の意識レベルにある真実を、不特定多数の人たちに説明しています。

たいていの人は、霊的なことに少しでも関心があるから、ここを訪れるのです。
このような内容に関心のない人は、まず検索で引っかかりません。
「まちがった」と思ったら、さっさと去っていきますよね。
何かに気づく前に「さようなら」です。

でも、このブログがきっかけで、何かしら気づいた人たちは、また訪問しようかという気になって、毎回読んでくださるようになります。
そして、それぞれの魂のレベルに合わせて卒業していかれるわけですね。  
(留年もOKですが、早く気づいて卒業してくださることを願っています。笑)

★こんなふうに個々に何かに気づき、悟り、意識レベルが高くなっていかれる人が多くなればなるほど、「日本人の集合意識」が、また「地球人類の集合意識」が、上昇していくのです。

そうすると、「目に見えない世界を信じない」という低い意識から「見えなくても存在する世界がある」という一歩進んだ意識へと変わっていくわけですね。


それを、ただただわたしは願っているのです。
このブログを読んでくださっている人のなかには、異星人の魂をもった方々もいらっしゃいます。
インディゴの魂もいらっしゃいます。
そんな人たちに感化されながら、わたしも日々成長しているのです。
だから、お互いに「ありがとう」と感謝し合いたいですね。


質問してくださったインディゴさん、心からありがとうございます!
来るものは拒まず、去る者は追わず」の精神でいきましょう!

最後まで読んでくださった訪問者さんも、心からありがとうございます!



わたしたちから始めよう! ―しるしに気づき、自らのおこないを顧みよう―

2011年01月14日 17:20



「しるしの見えない人間は最悪だ」

「ノ―アイズ、何の話をしているの?」

「しるしだ。目の前に変化のしるしがたくさん出ているだろ。
人間は盲目だよ! 見えないのだよ!」

「大地のしるしのことね」

「そうさ。ほかに何がある?」



「異常気象がどれほど起きても、その関係に気づかないでしょう。
変だねというくらい。
これほどはっきりしているのに、わからないのよ」

「そうさ。目が見えないのだよ」

  メアリー・サマーレイン著「グレートスピリットからの警告」より





★ 6千本のクロマツが死んでしまった ★



最近は、世界中で自然災害や災害による悲惨な出来事が起こっていて、何かしら心が暗くなりがちな毎日です。

先日、たまたま用事があって、鳥取県の弓ケ浜半島の国道431号を車で走ったのですが、日本海沿岸に9キロにわたって生息していたクロマツの多くが、真ん中から折れて裂けており、その無残な姿に唖然としてしまいました。

年末から年始にかけて降った記録的な豪雪が原因でした。
雪の重みで支えられなくなり、幹が折れてしまったのです。

このあたりの松を見ると、あまり長い枝がなく、すーっとまっすぐに伸びているのが多いのです。
雪が積もるとしても、頂上の頭の部分だけです。
裂けた幹は、松の木のちょうど真ん中あたりから下部にかけてです。
いったいどんなにたくさん積もったというのでしょうか。

インターネットのローカルニュースによりますと、折れたのは約6千本で、そのうち、8~9割は回復が見込めず、県は再来週ごろから伐採する方針を固めたということです。
伐採後は植林に取り組むけれども、元の景観に戻るのに最低でも20年はかかるということでした。


     クロマツの被害
        折れたクロマツと調査員


この光景を、こんなに近くでまざまざと見せつけられている理由を考えました。
「もうすぐこんなふうに人間もなるんだよ」
松たちの警告の叫び声が、いつまでもわたしの心に鳴り響いていました。



★ しるしに気づき、自らのおこないを顧みよう ★



★冒頭に記したのは、アメリカ先住民の子孫で、シャーマンの素質が豊かな著者のメアリー・サマ―レインと、霊峰ロッキーの山奥に住むチペワ族のシャーマンであるノ―アイズとの対話です。

このノ―アイズという人は生まれつきの全盲で、臭覚と触覚を頼りに生き、超感覚を使ってインディアンの古代知を身につけた最後の女シャーマンなのだといいます。

サマ―レインはこのノ―アイズと出会い、師として修業したのです。
この書は、地球を癒すために、今のわたしたちに何ができるのかということを気づかせてくれます。


「人は自分の思いのまま、生きるままを見る時が来る。
サマー、それを起こすのは人間だ。
自ら作り出しているのだ」

「そうね。自業自得」

「そうさ! それは太霊がなさろうとしている。
掃除の大きな部分だよ!
それが掃除の始まりだ」



わたしたちは真剣に自らのおこないを顧みることが必要です。
緊急に必要です!
すでに自ら浄化し始めた地球に取り残されないように。


教育とは―その1 よく遊び、よく学ぶ

2011年01月17日 01:00



さて、つぎはどんな記事を書こうかと考えていたとき、急にわたしの脳裏に、多くの子どもたちと接していた若かりし頃の思い出が甦ってきました。
それがあまりにもなつかしくて、ブログに書いてみようかという気になりました。
いつもとは趣向は異なりますが、よかったらお読みください。

過去ブログ「インディゴは、母の愛を求めている」の「教えることと学ぶこと」の箇所にも少し書きましたが、わたしの人生の中で、世間では「教育者」と呼ばれる仕事に就いていた時期がありました。
結婚と長女の誕生が、その道を継続することを断念させましたが、8年という歳月、その大好きだった仕事にいそしむことができました。


★ 変わり者の教師 ★



おそらく当時、(1970年~80年代)教師のあいだでは、わたしは相当変わっていたというか、特殊であったのではないかと思います。

当時の公立学校では、当然のことのように相対評価が実施されていましたが、それにとらわれず、絶対評価をしていたことも、そのひとつです。
子どもたちの成績を5段階の相対評価でつけるなら、40人のクラスで、1と5をつけるのは、1~2割程度です。つまり、4~8人ほどなんですね。
たとえ優秀な子どもがたくさん育っても、いつでも5をあげられる子どもは決まってくるのです。

だいたい教師というものは、その時期に児童が学ばなければならない内容を、全員に理解させるために授業をするのであって、テストで5段階に振り分けて、その成績を通知表に記入するために教壇に立っているわけではないはずです。

子どもたちはとても正直で、素直に反応してくれます。
一生懸命になって教えれば、テストをしてもそれに相応した点数を獲得してくれるものです。
先生の教え方と子どもたちの成績とは、比例するのです。

わたしは常々、クラスの子どもたちが授業内容を完璧に理解して、ひとり残らず満点をとることを目標にして、親がびっくりするほど懇切丁寧に教えていました。
ですから、テストをするごとに満点をとった子どもたちに対して、絶対評価として5をつけるのは当然のことだったのです。

だからといって、わたしの採点はけっして甘くはありませんでした。
特に低学年における文字(漢字)に関しては、どの教師よりも厳しかったと思います。

小学生のあいだでは、特に漢字などの文字を正しく丁寧に書くように訓練しておく必要があります。
いいかげんなまま覚えてしまうと、そのいいかげんさはそのまま引き継がれ、おとなになってからでは決して直せないからです。
正しく書けるようになるまで、自ら放課後に残って、練習にいそしんだ子どもたちは、今きっと漢字で苦労することはないでしょう。

もうひとつ、わたしは他の教師があまりしないことをしていました。
暑くてみんなが気だるそうな日などは、授業を早く終わらせて、運動場で遊んだのです。
また、お化け話をしたり、面白い本の読み聞かせをしたりしました。
学校ではおそらく教えないであろうことを伝えたりもしていました。

たとえば、日頃子どもたちが買って食べているお菓子の袋や、家にあるお惣菜の袋などをたくさん持ってきてもらい、そこに記されている保存料や着色料などの表記の説明をしたりしたのです。

化学物質が食品にどれだけ入れられているのか、それらがどれほど人間の身体に有害であるのか、表示をよく見て安全な品を買おうということなどを、子どもたちに伝えました。
社会科で、まちがった歴史などを教えるより、ずっと重要だと考えていたのです。

国語で詩を創る際は、教室ではなく、戸外に出ました。
学校によっては、近くに野原があったり、堤防があったりしたので、そこを散策しながら詩を創作したのです。
みんな素敵な詩人になっていました。
どの学年でも、たくさんの詩集ができ、今でも手元に残っています。

つくし つくし


二学期の終業式には、ひとりひとりに向けてメッセージを書いた手作りのクリスマスカードを渡すのが楽しみでした。
成績表に所見を書くよりも、そっちのほうに熱が入って、徹夜で書いたことがなつかしく思い出されます。


★ よく遊び、よく学ぶ ★



子どもたちとは、実によく遊びました。
休憩時間、放課後と、職員会議などがない限りは、職員室に戻ることはめったにありませんでした、

自分のクラスの子どもたちだけでなく、他のクラスや他の学年の子どもたちも仲間に入ってきたので、いつのまにか全校児童と顔見知りになっていました。

低学年や中学年の子どもたちは、一度家にカバンを置いてから、また学校に来て遊ぶのが楽しみだったようで、たまに職員室にいても「先生、遊ぼう!」と呼びにくるので、いつもその声に駆り出されていたのです。

自慢ではないのですが、わたしが受け持ったクラスは、必ずと言ってよいほど、スポーツ大会で優勝していました。日頃遊びながら鍛えていたので、それに向けてわざわざ練習をしなくてもよかったし、チームワークも抜群だったので、勝つことができたのです。

幅跳び、跳び箱、すもう、ドッジボール、サッカー、なわとびなど、随分やりました。
小学1年生でありながら、ほとんどの男子が8段積んだ跳び箱を跳んでいたのですから、驚いてしまいますね。
それくらいになるまで遊んだということです。

子どもたちは、学校だけでなく、わが家にもつぎつぎと遊びにやってきました。
夏休みには、グループで泊まりにも来ました。
クラス全員に近い子どもたちが実家に押し寄せ、家に入りきれなくて、近くの山に散策に出かけたこともありました。
他府県から母親と一緒に会いに来てくれた子どもたちもいました。
なんでそんなにわたしの家に来たかったのか、今でも、もうひとつよくわからないのです。

保護者には毎回学級通信を出していました。
自分が書きたいことを、ただ書いていただけですが、それがけっこう好評だったのです。

※な~んだ、これって、光の仕事人さんの自慢話じゃないの~。 と思われたでしょうか?
それでもかまいませんよ。自慢ができるって、ある意味幸せなことですから。



★ われを何とも言わば言え ★



なぜそんなに親や子どもたちにサービスをするのか?
サービスしすぎじゃないか
と思っている教師は、少なくはなかったように思います。

そういう人たちは、決して自ら学級通信を書こうとしなかったし、子どもたちと休み時間に遊ぶこともしませんでした。
そして、時々わたしを職員室に戻らせるための、驚くような作戦を考えたりするのでした。

たとえば、放送で「○○先生、今すぐ職員室にお戻りください」とわたしを呼ぶのです。
何かと思って急いで戻ると、「たまには、主任にコーヒーでも淹れてあげてよ」と言うのです。

? ? ?マークがいっぱいでしたね~。

休憩時間に子どもに遊びのサービスをするのではなく、主任にコーヒーのサービスをしなさいというわけです。
教師というのは、この程度の意識レベルでもやっていけるのです。

当時、わたしは同僚のつながり云々よりも、まず何よりも子どもたちを主体に置き、大切にしていました。
ですから、そういうイジメっぽいことをされても、けっこう平気だったのです。
というよりも、学校でやりたいことが多すぎて、また校外でも組合の委員などの仕事があって、つまらない教師同士のことで悩んでいる暇などなかったのです。

一番心が安らいだのは、どの学校へ行っても、管理職たちが陰ながらわたしを応援してくれたことかもしれません。
「一生懸命やっていて、変わり者って言われることはいいことだよ」と。


われを何とも言わば言え
わがなすことは
われのみぞ知る


これは昨年「龍馬伝」の最後のあたりで、福山雅治さんが演じた龍馬が言っていたことばです。(福山さんのセリフは、ちょっと異なっていたかもしれません…)


世の人は
われを何とも言わば言え
わがなすことは
われのみぞ知る


自分のことを、何とでも言いたいヤツは言えばいいさ。
自分がすることは…その意義は…自分だけが知っているのだから…。
20代の頃のわたしは、そんな龍馬のことばを知りませんでしたが、当時、彼と同じことを思いながら勤務していたように思います。


★ 子どもたちの瞳のきらめき ★



わたしが子どもたちと遊ぶ理由はいろいろありました。

授業中では見られない子どもたちの側面を知ることができるからでもあり、いつもイジメられている子どもを入れて、一緒に仲良く遊ぶためでもありました。
そして、何よりも思い切り遊んだあとの「子どもたちのかがやく瞳」を見たかったからかもしれません。

何しろ、休憩時間に楽しく遊んだあとは、子どもたちのつぎの授業での取り組み(姿勢)が全然ちがうのです。
目が生き生きと躍動しているのです。
子どもたちの瞳のきらめきがちがうのです。 

ある日、つぎの授業を始めようと教壇に立ったとき、わたしはひとりの男の子の瞳と出会いました。
わたしを見つめるその瞳は澄みきって、きらきらと星のようなかがやきを放っていました。
そのとき、他の子どもたちも、全員が一斉に、わたしを見つめていることに気づいたのです。
その瞬間、熱いものが胸にどっとこみあげてきたのです。

子どもたちは、こんなに真剣なまなざしを向けて、わたしの声を聞こうとしている!
そのことに、言い知れない感動を覚えたのです。
それは、教育者としてというよりは、人間としての最高の喜びでした。



わたしが子どもたちと遊ぶ理由…。
それは、わたしが子どもたちと一緒にいることに喜びを感じていたからにほかなりません。
今から思うと、わたしはほんとうに大好きなことを仕事にしていたのだと思います。
そして、子どもたちからは、たくさんの愛をもらいました。


彼らはわたしの誕生日を覚えていて、クラス全員が手作りの品やお小遣いで買ったかわいらしい品をプレゼントしてくれました。
その愛のこもった品々は、大きな段ボール箱にあふれるほどだったのです。

日頃、手がつけられないほどのやんちゃ坊主たちが自宅に来て、照れくさそうにプレゼントを置いていったこともありました。
当時、わたしは教師という職にあって、若い多くの魂たちと親密な交流をおこなっていたのです。


★どんなことがあっても、めげずに教師をやっていられたのは、そんな子どもたちに支えられていたからです。




          木と光
                     木の間から射す陽光


まだわたしが大学生の頃、教生で通っていた学校で研究授業を行なった際、5年生のクラスを提供してくださったある先生が、わたしに言われたことばがあります。
それは、今でも忘れられず、なつかしく響いてくるのです。

そのことばは、わたしに大きな勇気と喜びを与えてくれました。
そして、その後教師になってからも、ずっとそのことばの状態を維持することになったのです。

彼はこう言ってくれたのです。

子どもたちが味方だね




教育とは ― その2 真の教育はあなたの中にある潜在能力を現実にすること

2011年01月17日 20:00


★ 教育とは何かを考え直すのは今 ★



わたしの教師時代を思い出したので、前記事で思いのままに綴りましたが、なぜ今「教育」を思い起こさなければならなかったのかを考えてみました。

「教育改革」が、今緊急に必要だからです。
国の政策のなかでもっとも顧みられていないのが、「教育」です。
いつの時代も未来をつくる子どもたちの一番重要な「教育内容」が置き去りにされてきたのです。

今の学校は、「物質世界」や「物質世界で生きるための方法」を教えているだけです。
しかし、もうこのような時代は終焉を迎えつつあります。
これまでの学校が、教師が、子どもたちに教え込んできたことは、もはや何の役にも立たないのだということを知るときが、刻々と近づいてきているからです。
そのときに気づいても遅いのです。今気づく必要があるのです。
教育とは何か?」を根本から考え直すべきときは、まさに今なのです。

このブログの読者さんの年齢層には幅があり、高校生から50~60代の主婦まで老若男女千差万別です。
スピリチュアルなことに関心を持たれている方が、子育てをすでに終えた40~50代に多く、小中学生のお子さんを持たれている若い人は、意外に少ないと言えるかもしれません。

また、一番「子どもの教育」について関心を持ってほしい20代~40代の親たちが、まったく「教育」に関心を持っていないのでは? と感じるのですが、いかがでしょうか?
子どもの教育は、本来その子の両親がおこなうものであって、学校に全面的に依存するものではありません。
現在、親になっている人たちが親になっていない。つまり、彼ら自体が精神的には子どもなので、教育などできない状態なのかもしれませんが、そのつけは彼らの子どもにいくのです。
まあ、その子どもたちも、そういう親を選んで生まれたのですから、何か学びがあるのでしょうけれど。

とにかく、「教育」に関して、緊急に皆さんにお伝えする必要性があるようです。

(今現在、わたしの周りにはおとなしかいません。ですから、今の子どもたちが現場でどのような教育を受けているのか、その実態を知りません。もし昔と比べて激変したところがあったら、ぜひ詳細に教えてください)



★ 日本の学校の問題点 ★



近年、「相対評価」は「絶対評価」へと移行したかもしれません。
でも、基本的なことは、昔からさほど変わっていないのではないかと思うのです。
たとえば、記憶や暗記力にたよる学習が主で、質問に対する答えはたいていひとつしかないというやり方は、どうでしょうか?

テストでは、先生の言ったことをオウム返しに答え、教科書に書かれた内容をそっくりそのまま正確に答えると、成績優秀になるという実に摩訶不思議なやり方です。

多数の答えが出せるようなテスト問題や、自分自身の考えを入れないと合格しないようなテスト問題は、この日本の小中学校に存在しているでしょうか?

しかし、アメリカではいくつかの答えが出せるようなテスト問題が多いと聞いたことがあります。(もう20年ほど前のことです)
なぜなら、ひとつの問題に対して、たくさんの答えを認める社会だからです。
アメリカにはさまざまな人種が住んでいますから、当然いろんな考え方があるし、それを尊重しようという考えがあるわけですね。
だから、思いもよらない変わった答えが出ることを教師は待っているし、それが出たときには大いに誉めるのです。

イギリスでは、同じ教室であっても、子どもたちの進度に合わせた教科書を選んで学習させていると、何かの本で読んだことがあります。(それも20年ほど前のこと)
イギリスでは、同じ年齢の子どもたちであっても、異なった教科書を使って学習しており、教科書を丸覚えさせるのではなく、子どもたちの持っている能力を引き出すことに重点を置いていたのです。すばらしいですね。


★教育とは、子どもたちの中にあるものを引き出すこと、彼らの潜在能力を現実にすることにほかなりません。

日本の教育者は、はじめから答えを与え過ぎているように思います。
言い換えれば、子どもたちが一人ひとりでじっくりと考える機会を与えてはいないのです。

もし、子どもたちの考えを尊重するという建前で、最初に彼らの考えを聞いてみるとしても、結局は、最後には、教師は正解と思われる答えを発表するにちがいないのです。

たとえば、こんな具合です……。

先生: この詩を書いた人は、どんな気持ちでこれを書いたのだろうか? 
    みんなどう思う? 

子どもたちがいろいろと自分の感じたことを発表します。

先生: うん、うん。君たちの考えはわかったよ。
    でも、先生はこう思うんだ……。

そして、教師の説明がつづきます。
それが唯一の正解なのだといわんばかりに。

そして、テストの際、自分の感じたままを書いた子は×で、先生の考えを書いた子は○なのです。 
詩人がどんな気持ちで書いたかなんて、ほんとうのところはその詩人にしかわからないことです。
どう受け取ろうが、読み手しだいで変わってきますから、答えなんて無数にあって当然です。正しい解答も、まちがった解答もないはずです。

もし詩人自身が採点をするとしたら、いったいどうするでしょうね。
「そう簡単に他人の気持ちなんて、わかるもんじゃないよ~」
なーんて言って、全員に×をつけるかもしれませんし、
「でも、いろんな感じ方や意見があるんだねー。驚いたよ~」
と言って、全員に○をつけるかもしれません。


★わたしの次女は、幼い頃からよく質問をしました。
漢字の読み方、ことばの意味……。
次女はわたしのことを、聞いたらすぐに答えが得られる「生き字引」と思っていたようですが、あるとき国語辞典と漢字辞典を与え、すぐに人に尋ねないで、自分で調べるように促しました。

自分で調べたことは、忘れにくいし、ある程度納得もできるし、検証もできます。
ですから、辞書は座右のひとつとして貴重です。
しかし、辞書を引っ張ってみても、まだそのことばの意味がよくわからないときがあります。

たとえば、その意味を表すことば自体が釈然としないから、そのことばをさらに調べると、そこには元のことばが書かれているといった具合です。辞書の中でぐるぐると回っているだけですね。
辞書というのは、このような「ふざけた仕組み」になっているのです。
となると、自分で考え、理解するしか方法がありません。


★ 何にでも疑うことは必要 ★



何でも鵜呑みにせずに疑うことは大切だ」と過去記事にも繰り返し書きました。
疑いは、生きていくために必要なことです。
なぜなら、疑わない限り、発見することはないからです。
自分で何かを発見したなら、そこには大きな歓びがもたらされるでしょう。


「見えない世界」を感知することに関しても同様です。
たとえば、あなたには「見えない世界」を認知することができず、理解できないとします。
それで、少しはわかりたいと考え、「見えない世界」を語るさまざまな人の本を読むとします。それで、あなたは「そうなんだ」と思います。
あなたは、その本に書かれていること自体は何とか頭では理解できるかもしれません。でも、それがほんとうなのかどうかはわかりません。
だれの言っていることがほんとうで、まちがっているのかなんて、想像もつかないはずです。確証がないからです。

たとえ、アカシックレコードを読んだからって、未来のことなど、ほんとうのところはわかりません。
人類の意識も、瞬間瞬間に変化していくのです。それに応じて、現象も変化するからです。

結局その都度自分で感知しなければ、わかりようがないのです。
あなたが彼らと同じ体験をすれば、ようやくその人が言っていたことが腑に落ちるのです。

だから、今わからないからと言って、むやみやたらにすぐに答えを求めないことです。
自ら行動を起こそうともしない間から、安易に質問したり、批判したりする者は、愚か者だということです。

ブログの読者さんは、たいてい「知りたがり屋さん」です。
だから、訪問されているわけです。そして、質問もされます。
とにかくわたしのブログ内容を全部読んでください。それでも、わからないようなら、ご質問をどうぞ」と言っております。
記事のどこかにその人が求めている答えがあるかもしれないからです。
読まれていても、まだ気づいていないことがあるかもしれません。
ですから、繰り返し読み返してみてくださいとお願いしています。

また、質問をされても、すぐに答えが得られるとは思わないでほしいのです。
答えないのは管理人の自由ですし、相手にもう少し自分自身で考えてもらいたいと思うときには、あえて答えないようにしています。相手によっても、答え方は変わるのです。
「自分だけ無視されている」なんて、つまらない考えだけは起こさないでくださいね。
答えが返ってきたら「ラッキー!」くらいに思っておいてください。


★「真の教育とは?」
そう訊かれたら、わたしはつぎの和尚のことばを伝えたいと思います。


真の教育は
あなたの中に隠れているものを
―神があなたの宝として入れておいたものを―
取り出し 発見し 明らかにし
あなたを輝かせるためのものだ

Educationは
Educareという言葉からきている
それは、あなたたちを
闇の中から光へ導く、という意味だ
途方もなく深い意味だ
あなたを、闇から光へと導く

ウパニシャッドは
「神よ、我らを、虚偽から真実へと導きたまえ」という
「神よ、我らを、死から不死へと導きたまえ」
「神よ、我らを、闇から光へ導きたまえ」

これこそ、まさに「教育」の意味だ
         
          OSHO「ニューチャイルド」より



教育とは―その3 親が唯一子どもにできること

2011年01月18日 16:35


子どものとき、あなたは両親のことをどう思っていたでしょうか?
お父さんやお母さんが大好きでしたか?
それとも、大嫌いでしたか?
今も同じ気持ちですか?

だれにも両親に対する思いというものが、根深く残っていると思います。
子ども時代に両親から愛をもらったか、もらわなかったかで、その後の人生(ものの見方・考え方・感じ方)は大きく変わっていきます。

おとなになっても、自分を愛せない人は、たいていは両親(家族)から愛をもらえなかった人です。
過去生からひきずってきている場合もあります。
自分を愛せない人は、他者を愛することができません。
これは利己的な低次元の愛を言っているのではありません。
自分さえよかったらいい、自己保身のためなら何をしてもいいと考えている人は、自分を愛せていない人です。
わかりますよね?
このことは、過去記事でも繰り返し言っていますが、それはまちがいのない真実だからです。

生まれて初めて出会った人、すなわち母親からの愛をもらえなかった子どもの生涯は悲惨です。彼らは愛されたことがないために、自分や他者をどうやって愛したらよいかわからないのです。

両親から愛をもらえなかった子でも、祖父母や先生など、他者に愛されたことがあるなら、またちがってきます。要するに相手がだれであろうと、愛を感じたその体験、その記憶が大切なのです。

彼らは愛をもらうために、いろんなことをしでかします。
たとえ叱られるというマイナスのストロークであっても、何か返ってくるものを求めるのです。
無視は最悪です。自分のほうを見てほしいばっかりに、殺人だって犯すのです。
世の中にはそういう人がたくさんいます。


★ 子どもの愛し方をまちがえている親たち ★



親は(いろんな親がいますが)、たいてい子どもたちに対して残酷です。
彼らは子どもたちに愛を与えるのではなく、自分の野心、願望を与えるからです。


たとえば、父親が医者なら、息子も同じ医者になってほしいとか、自分は政治家になれなかったから、息子は政治家になってほしいとか、娘は有名人か、裕福な家に嫁いでもらいたいとか…。

多くの親は世間体をとても気にします。
いい学校、いい就職先。何がいいのか、どこがいいのか、わたしにはさっぱりわからないのですが、そういうことを気にする人たちがたくさんいることを知っています。

どんな仕事であっても、他者のために大いに役立つなら、立派な仕事なのですが、仕事について偏見を持っている親(特に父親)が数多存在するのです。
世間のほうではたいして気にもしていない(他人のことなど、どうでもよい)のに、外面ばかり体裁ばかりを気にします。

そういう親は、息子や娘を愛していると思い込んでいます。
しかし、彼らが愛しているのは自分のエゴです。
塾や習い事、親が選んだ学校…。
ほんとうにそれが楽しくてたまらなくて通っている子どもは、どれほどいるでしょうか?
子どもたちは親に条件づけられ、それが親の願望や満足の手段であることさえ知らずに育てられていくのです。

子どもには子どもの人生があるはずなのに。
ブランドものの洋服を着せられた子どもたち。
子どもは親の好みに叶うように生まれてきたのではないのです。

自分の願望を子どもに押しつける親たちの多くは、真の幸せとは何かを知りません。
彼らは、お金を持っていたら、社会的な地位や名誉を持っていたら、幸せだと思っているのです。
彼ら自身が、現にお金のために、お金持ちになるために、また、社会的な地位や名誉のために働いている人たちだからです。

★もし、そうでないのなら、彼らは自分の子どもたちを最初から尊重し、自由にしておくでしょう。
そして、きっとこう言い聞かせるにちがいありません。

「おまえたちは好きなことをしていいんだよ。大きくなったら、おまえたちの大好きなことを仕事にしなさい」
「人を頼らず、自分の足で立ちなさい。失敗してもいいんだ。まちがってもいいんだよ。そうしたら、多くのことが学べるから」
「だけど、同じまちがいを繰り返してはいけないよ。それは愚か者になるだけだから」


それで、子どもが将来愚か者になったとしても、それは子どもが自分自身で選んだことです。
親ができることは、子どもがどこでどんなまちがいを犯したのか、その子自身が気づき、理解できるように、その子が望む方法で、サポートしてあげるだけです。



★ その子のなかにある特質を引き出す ★



★子どもは、あるひとつのエネルギーを体験するために地上に生まれてきます。
前の生ではできなかったことを、今回やってみたいからです。
そのエネルギーの質がわかれば、子どもの生きる方向性に陰ながら援助を与えることができるのです。

親が子どもに対して唯一できること。
それは、「その子のなかにある特質を引き出してあげること」です。 
子どもたちが「内に秘めているエネルギーを十分に体験させてあげること」です。

もし、その子のエネルギーの質がわからないのなら、その子がその子自身になれるように、その子が自ら望むことに対して、あたたかい眼で見守ればよいのです。
それだけです。あとは自然に成長していきます。
過干渉と過保護は、子どもを破壊し、愚か者にするだけです。



★自分が子どもの頃に親に対して腹を立て、親に憎悪を抱いていた人は、それを自分の子どもに対して繰り返さないことですね。
もし今現在、親子のミゾが深いと感じている人は、自分の子どもの頃を思い出すことです。きっと何か気づくことがあるはずです。
自分が自由に育てられてよかったと思える人は、親に心から感謝してくださいね。


現在、あなたが、まだ幼い子どもの親ならば、小中学生を持つ親ならば、また、たとえ子どもが社会人となっていようとも、遅くはありません。今日から実行してください。
子どもたちが、他人と同じようになるのではなく、ほかのだれでもない自分自身になるように。
ほんとうの自分になれるように支援してください。

そのとき、あなたは気づくでしょう。
支援をするためには、あなたがほんとうの自分を生きていなければならないということに。


教育とは―その4 批判家ではなく、行動家となることを促す

2011年01月20日 19:45



わたしが住んでいる地方では、今年に入って毎日のように雪が降り、道路事情が悪いために外に出られない日々がつづいています。
全国的に見ても、世界的に見ても、雪の多い地域の方々は、ほんとうに大変だろうなと、身をもって感じている今日この頃です。


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外出ができないこともあって、読書する時間が増えました。
人の声が聞こえてこないという、いつにない静かな日々のなかで、読書三昧ができるというのは、幸いなことかもしれません。
そのなかで、久しぶりに感動を覚えた作品があったので、そのうちのひとつをご紹介したいと思います。


世界は飢餓や憎しみ合いや偏見や
戦争やテロ行為や自然破壊の
最後の脅威に支配されている。

だからこそ、手遅れになる前に、
私たちに残されたものを守るために、
すべての人々に共通するヴィジョンを
探していかなければならない。

役に立たない方法にはもう飽き飽きしているのだ。

私たちは富や快楽や名声など、
人間的な欲望を満たす偽りの神を
追い求める虚しさを見てきたし、
未来の子どもたちが無味乾燥な破壊を嘆いて
泣いている声も聞こえている。

ほかのすべてを試して失敗してきたのだから、
スピリチュアルな道こそ
最後に残された答えなのだ。



これは、トム・ブラウン・ジュニア著の「ヴィジョン」の冒頭の部分に載せられていることばです。

著者のトムは、7歳のときに、彼がのちに「グランドファーザー」と呼ぶアパッチ族の古老スト―キング・ウルフと出会います。
そして、10年間、サバイバルやトラッキングやアウェアネスの技術を学んだのです。

「ヴィジョン」には、彼が子どもの頃に「グランドファーザー」から学んだ教えの数々が、珠玉のように綴られています。
読まれた人も、再度思い出してみてくださいね。


★ 怒る前に、必ずほかにできることがある ★



★トムはつぎのように語ります。

何かに腹を立てたり、物事をネガティブに捉えたりしていると、グランドファーザーはいつでも、「どうして、おまえはそのような気持ちでいる方を選んだのだ?」とたずねた。

その度に、私は自分の内面を省みた。
すると、物事の見方が変わり、自分の考え方や態度を変化させることができた。
このように、「自分の現実を創り出す」という最初の訓練は、いかに柔軟な頭を持ち、必要に応じて考え方を改めることができるかということだった。
自然界においては、この柔軟性と変化が種の絶滅を防いでいる。

私は何かネガティブな状態に陥ると、どうしてそう感じるのか、自分自身に問いかけるようになった。
すると、そのような気持ちを自分の意志で変えることができるようになり、マインドと感情をコントロールすることができるようになったのだ。
 



★あるとき、トムは二人の男がピックアップ・トラックから砂の道沿いにゴミを捨てているのを見ます。
涙がこみ上げ、その男たちを殴ってやりたい衝動に駆られますが、グランドファーザーのあることばを聞いて、考え込むのです。
怒りをなくして、物事を違う角度から見たり、理解したりするにはどうしたらよいのか?」と。
そこで彼はグランドファーザーが何度も言っていた「怒る前に、必ずほかにできることがある」ということばを理解します。

トムは男たちに近づいて、こう言ったのです。
「ここはぼくの大好きな場所だから、どうかゴミを捨てないでください」
「ガソリン代を払いますから、無料のゴミ捨て場までゴミを持っていってください。必要なら、ぼくもいっしょに行って手伝います」
そう言って、ポケットにあった25セント玉を差し出したのです。

さて、その男たちはどうしたと思いますか?

彼らは少年のことばやその真剣さに驚き、ショックを受けていたというのです。
男たちはすまなかったと何度も言い、ゴミを集めて数キロ先のゴミ捨て場まで持っていくことを約束してくれただけでなく、自分たちが捨てたのではない別に投棄されたゴミまで、トラックに積んで行ったというのです。

トムをずっと観察していたグランドファーザーは、こう言っています。
「怒りはこの問題を解決しなかったであろう。同情し、教えてやることが唯一の答えなのだ。もし、おまえが心に怒りを感じたままだったら、男たちは何も学ぶことはなかった。しかし、違う方法を模索し、どうすればよいか自分自身で考えついたのだ……」

トムにとって、グランドファーザーは、「自分にとっての現実を創り出しなさい」と教えてくれた人でした。
自分の目の前に起きてくるものごとや状況、かかわってくる人たちをどう受け止めるかは、自分自身の心構えによって決まります。どのような心構えをもって、自分たちの現実を創り出せばよいのかを、彼は学んでいったのです。


★ 批判家と行動家 ★



世界には、批判家と行動家という二つのタイプの人間しかいない
と、グランドファーザーは言っています。

批判家は座ったまますべてを批判し、何かを変えようとするわけでもなく、生きるのにも無気力な人たちだ」というのです。

批判家たちは何もしないでいて、実際に行動を起こしている人を批判するのです。

行動家こそ、変化をもたらす人たちです。
ほんとうの意味での行動家は、ほんの一握り」だと、グランドファーザーは言います。



わたしはグランドファーザーに深く共鳴し、トムに深い共感を覚えました。
批判家は、左脳だけを働かせている非創造的な人たちですが、
行動家は、常に右脳が働いている独創的な人たちです。
そこには詩があり、音楽があります。
あらゆるものから気づきを得て、何かを創造しつづけるのです。

学校は、主に脳の左側を活性化させているところです。
右脳を閉ざし、左脳だけを支援するような教育は、緊急に破壊すべきなのですが。

真の教育とは、子どもたちを「批判家」にするのではなく、「行動家」にさせることではないでしょうか。


今、あなたは左脳派ですか? 右脳派ですか?

批判家でしょうか? それとも…。
変化をもたらす一握りの行動家でしょうか?




教育とは―その5 今何をしたらよいかわからないあなたへ ヴィジョン・クエストのススメ

2011年01月22日 20:30



前回「行動家こそ、変化をもたらす人たちである」という記事を書きました。
すると、「僕に決定的に足りないのは、本当に行動力だと思います。光の仕事人さん、どうやれば真の行動はできるでしょうか?」という高校生のインディゴさんからの質問がありました。一部紹介させてくださいね。


僕は「旅をしよう」と思っても、「やっぱ高校生だし無理か」とか「道具もないし、金もないしな~」なんていう考えが現れ「じゃあ、またいずれ」と思って結局行動できずじまいで終わってしまうのです。
でも結局それも、僕自身の甘えもありますが、「高校生は大人の言うことを聞けばいい」だとか「何をするにも親の許可が要る」なんていう社会体制に問題があると思います。
でもそんな社会の何を一人の高校生の力で変えられるのでしょうか? 
(全文は、「教育とは―その4 批判家ではなく行動家となることを促す」のコメント欄をお読みください)


★この問いに対して唯一答えられることは、自分の「思いの制限をひらいてください」「思いの制限を取り外してください」ということです。

自分勝手に「これはできない」と思い込んでいる幻想を破壊すること、そんな自分を一度無くしてしまう(ゼロの状態にする)ことです。
その行為自体に、親や先生の許可など要りませんよね。
自分さえそれを許せば、精神的な修養(瞑想や読書)など、今できることは無数にあるはずです。

★また、「行動するということ」は、何もポジティブな方向へと前進させることだけを言っているのではありません。
全く行動しないこと」、「意識して、何もおこなわない」ということも、「行動」のひとつだと考えてみてはどうでしょうか?

まだそのときが来ていないときには、何をやってもうまくいかないし、できません。
その人にまったく準備ができていないうちから、事が成就するということはないのです。
ですから、事がスムーズに進まないときには、まだその時期ではないと、自粛することも大切です。
期が熟せば、おのずから実は生り、その実は大地へと落ちるのです。



今回は、前回紹介した「ヴィジョン」の著者トム・ブラウン・ジュニアが、人生やスピリットに関する偉大な知恵を授かるために、自己が「小さな死」をもって臨んだ「ヴィジョン・クエスト」についてお伝えしましょう。


★ ヴィジョン・クエストとは?
 ★



ヴィジョン・クエストとは、「グレートスピリット(造物主)のヴィジョンを求める儀式」のことを指します。

ヴィジョン・クエストは、一生に一度だけおこなうものなのではなく、人生の一大事に至ったときに何度でもおこなうものだとされています。
苦痛の中で、肉体は浄化され、マインドは破壊されます。
すると、現実世界を越えた超自然の世界、グレートスピリットが示してくれる大自然の声が聞こえ、精神(スピリット)の世界が見えてくるというものです。

ヴィジョン・クエストに始まりはあっても、終わりはありません。

特に人生最初のヴィジョン・クエストは、インディアンたちにとっては、子どもからおとなになるための重要な通過儀礼となっています。
食事を断ち、日頃の快適な生活をあきらめ、理性的な考え方を捨てるための、いわば「自己否定の最終的な方法」と言えるでしょう。

ヴィジョン・クエストとは、苦行生活や孤独でいること以上のもので、「原野を一人でさまよう苦行よりもはるかにパワフル」だとして、グランドファーザーはつぎのように語るのです。

一度その献身を決意して、限られた円の中に入ったら、それが4日でも40日でも、おまえたちは自己に対して、また、造物主に対して、すべてをかけてヴィジョン・クエストをまっとうすることを誓わなければならない。
自己を否定し、すべての快適さや気晴らしを犠牲にすることで、自分がヴィジョン・クエストに値する人間であることを証明するのだ
」と。

そして、トムも語っています。
外的な影響を受けずにスピリチュアルな知恵を授かるためには、ヴィジョン・クエストをおこなう以外に考えられない」と。


★ ヴィジョン・クエストに取り組んだ少年 ★



気が散漫する外側のできごとから孤立することによって、自分の心の中を知ることができるということをグランドファーザーから教えられた幼いトムは、ヴィジョン・クエストがしたくてたまらなくなり、夏の終わりに自らこっそりとおこなおうと、心に決めるのです。

ところが、その心を読まれたかのように、トムは何の前触れもなく、グランドファーザーに「明日、おまえは小さな死を体験する。今夜中にクエストを行う場所を決め、準備をしなさい」と告げられ、恐怖感を覚えます。

トムは人がだれもいない森のやぶの中で、服を脱ぎ、水の入ったボトル以外は何も持たず、横になることもできないほどの小さなスペースで、4日のあいだ、眠気と闘います。
恐怖と不安が募る暗闇のなかで、「今なぜここにいるのか?」を問いつづけながら、毎朝太陽が昇るのを待ったのです。

しかし、高く空に昇った太陽の光は、少年の頭にズキズキとした痛みをもたらし、容赦なく肌を焼き焦がしました。
幼いトムは体力の消耗で身体が震え出し、しだいに正気ではなくなり、自信喪失に襲われ、パニック状態に陥ります。
眠ってはいけないと思いながらも、彼はしばしば眠り、悪夢を見ました。
その場を去るべきたくさんの言い訳と理由を考えながらも、少年は最後の日までがんばろうと決意するのです。

そのあたりのトムの苦悩の描写は、「ヴィジョン・クエストー造物主は私たちそれぞれに違う方法で語りかける」に詳細に書かれています。

そして、これ以上我慢ができなくなり、肉体的に崩壊し、精神的に分別を失い、感情的に死んでしまったと感じる瞬間がやってきます。
トムはとうとう自分自身に負け、降参したのです。

★そのとき、少年に変容が訪れます。
突然彼は知るのです。
自分がだれで、どこに向かっているのか、ほんとうにやりたいことが何なのか……。

トムは気づきます。
恐怖は自分自身が作り出したもので、すべての出来事も自分が選んだ結果なのだということを。
自分の道は、たくさんある選択の中から自分が選ぶものなのだということを。
空っぽで行き止まりの世俗的な社会ではなく、自分は自然と自然の法則に近いスピリチュアルな人生を歩んでいきたいのだと。

ほかのみんなが選ぶ快適さや安全や退屈ではなく、至上の歓喜に満ちた人生を選びたい…。
トムはそうつよく思ったのです。
そして、おとなたちの批判や他人のために「するべきこと」に、まっこうから反抗していこう、少なくとも反抗することをあきらめずに死のうと思ったのです。 


★彼はその章の最後にこう綴っています。

4日目の朝、太陽が昇ると、私はやぶの中から出て、
振り返ることなく歩き出した。
その墓場で私の一部、恐怖に怯え、
心ではなく外部の「するべきこと」に従っていた私が死んだのだった。




ヴィジョン・クエストは自己を知るだけのものではない。
真の自己に到達するということは、
魂がスピリットの世界を理解し、
コミュニケーションを
はかることができるようになるということである。
そうして、創造の世界の声や造物主の知恵を
知ることができるようになるのだ。
そこで初めて、造物主からの使命であり、
人生の遠大な目的である
ヴィジョンというものが与えられる。 
              「ヴィジョン」より




★ ヴィジョン・クエストのススメ ★



★ヴィジョン・クエストには、何もありません。
グランドファーザー曰く、
すべては単調なので、マインドは弱まり、やがて眠りに落ちるだけなのです。
しかし、これが重要かつ必要なのです。

グランドファーザーはつぎのようにつづけます。

すると、心によって導かれた本当の自己が現われる。
論理的なマインドが眠り、
あれをしろ、それはやめろとやかましく急き立てる声が消えて初めて、
自分の現実は純粋なものになるのだ。



★もし、あなたが「何かしなきゃ!」と急き立てられ、常に心が落ち着かずに、あちらこちらに揺れ動いているのなら、
そして、それでいながら、実際に何をしたらよいのか、さっぱりわからないと思っているのなら、
ぜひヴィジョン・クエストをおこなうことをお勧めします。


ハート
そんなこと、どうやってやればいいの?
近くに森もないし、指導者もいないし…。
ほんとうに死ぬかもしれないじゃないの。
そんな危なっかしいこと、できるもんじゃない。

と、またまた考え始めているあなた、
まず「思いの制限」を取り払いましょう。
そして、そのやかましい猿(マインド)を、
あなたの心の中から追い出しましょう。

やろうと思えば、どこでだってできます。
たとえ都会の真ん中であっても、小さなマンションの一室でも、
同じような状況を創り出すことはできます。
4日のあいだ断食してみることは可能ですね。
「ヴィジョン・クエスト」は、
マインドでがんじがらめになったあなたを開放し、
ほんとうにやりたいことを教えてくれるでしょう。



教育とは―その6 すべての生き物を尊ぶ教育 

2011年01月26日 19:30



2回にわたって、トム・ブラウン・ジュニア著の「ヴィジョン」をご紹介しましたが、今回でとりあえず終わりにしようと思います。
なぜなら、高校生のインディゴさんのように、すでに「ヴィジョン」の本を買った方もおられるからです。あとは、自分で楽しみ、感動していただきたい! と、切に思うからです。

「自分が読みたい!」と思ったら、すぐに買って読む。
これは、まちがいなく「真の行動」です。
こういう人は、自分に素直で、気づきが早いです。

わたしは、読みたい本がつぎつぎと現われてくるときは、それが「わたしにとって有益な本であるかどうか」をハイアーセルフに尋ね、「YES」の場合は、インターネットで即注文することにしています。
その時期によって、自分に必要な内容があるので、「読みたいけど、今お金がないしなぁー」なんて考えて放置していると、大切なものが得られないままになってしまうからです。
結果的には、「やはり買ってよかった!」と納得ができます。

ハイアーセルフが「NO 」と言う場合は、「それは有益ではないから、読む必要はないよ」と言っているわけですから、わざわざ買いませんが、「読んでも読まなくても、どちらでもいいよ」という場合は、半分くらいは試しに買っています。でも、満足度は、「今いち」というのが真実です。

本を読むというのは、アクティブなことです。
外側に向かって行動できないときは、じっくりと本を読んで、内側を充実させ、自分に豊かさを与えることです。

内側が十分に充電されると、また外側に働きかけたくなってきます。
わたしの人生は、これが交互に来て成り立っています。
今までは充電期間でしたが、そろそろ外側に向かいかけているところです。
雪の下でじっとその瞬間を待っている新芽さながらです。

この「ヴィジョン」に登場するグランドファーザーの教えのすばらしさは、至る所にちりばめられていますが、特にわたしが感動した箇所を要約してご紹介します。


★ すべてが先生 ★



12歳になったトムは、グランドファーザーから初めて狩りを経験するときが来たことを告げられます。
先祖の儀式に従って、近距離から自分の手で大きな動物を狩るというのは、一人前の男となるために必要だったからです。

トムはたびたび断食をおこない、祈りの時間を持ち、スエット・ロッジによる浄化をし、動物をしとめるための槍を作る作業に何時間も費やします。
秋におこなう狩りを、彼は早春の頃から準備したのです。

しとめる動物はシカでした。
自然の法則に合わせ、弱いものや病気のもの、冬を越せそうにないシカを探したのです。

トムが選んだのは、その年の春に生まれた小さなオスのシカでした。
その小ジカはケガを負い、脚を引きずっていて、走ることができなかったのです。

初秋を迎えるまで、トムはその小ジカの後を追い、観察しつづけます。
彼はその小ジカと母親のシカといっしょに暮らしているといってもよいほど、接近していたのです。
そのうち彼らはトムの存在に恐怖心を抱かなくなっていき、トムを受け入れるようになっていきます。

狩りは自分の中の「動物」と「本来のマインド」によっておこなうのだと、トムは言います。
彼はマツの木の上から小ジカがやってくるのを待ち、木の下に来たら飛び降りて、槍で首の動脈を切ることを何度もシミュレーションするのです。

そして、とうとう狩りをおこなう瞬間がやってきます。
そのようすを、つぎのようにトムは記しています。


やぶから出てきた小ジカが、マツの木から数メートルのところで立ち止まり、木の上にいる私のことをじっと見つめていた。
小ジカはとても弱々しく見えた。
人間の存在に当惑してしばらくがたがたと震えていたが、それが私だとわかると、これまでのように信用して、ためらうことなく私の方へと歩き出した。
私はそれまで一切攻撃的なことも脅すようなこともしなかったので、よろよろ歩くシカの足取りには恐怖を感じているようすはなかった。

私は何も考えず、シカが進んでくるのをじっと眺めていた。
分析も、時間や場所の観念も存在しなかった。
私と小ジカと、そして狩りだけだった。



トムは木の上から飛び降りて、小ジカを地面へと押しつぶし、首の後ろあたりを槍で切りつけます。その激しい動作によって、槍は折れてしまうのです。
つぎの描写には、そのときの凄まじさがうかがえます。


小ジカは痛みのために激しくのたうち回った。
その瞳にはものすごい虚不信が宿っていて、私の魂へと訴えかけるようだった。
にもかかわらず、私の中の「動物」はシカの首をつかみ、窒息死させようと力を込めた。
動脈から噴き出した血が、地面や私の顔や体を真っ赤に染めていった。
さらに、唸り声を上げながら、私は小ジカの頭を地面に激しく叩きつけた。
私の体は恐ろしい興奮状態に震え、噴き出す汗やシカの血がどろどろと身体から流れ落ちていった。

シカはそれでもなお必死に抵抗を続けた。
だが、やがて、動かなくなった。
そのとき、私の指の間からシカのスピリット、シカの命がすり抜けていった。
その目には恐怖だけが浮かんでいた。
死に絶えたシカは目を閉じた。



★シカの頭から手を離した瞬間にトムのなかの激しさは消え、突然感情が押し寄せます。
自分の手によって死んだ小ジカを見て涙があふれ、殺すという行為がもっとも残酷な破壊だと知るのです。
そして、小ジカと友だちのように仲良く一緒に過ごしてきたことを思い出します。

「一人前の男になるための儀式」のために、自分を信用してくれた友だち(小ジカ)の人生を奪ってしまった。そんな自分を軽蔑し、トムは激しい怒りを覚えるのです。
そして、この狩りを讃美し、トムにシカを殺すことを命じたグランドファーザーを、それ以上に軽蔑し、憎んだのです。

トムは決意します。
グランドファーザーの足元に小ジカを置いたら、永遠に森を去ろうと…。
もうグランドファーザーと関わりをもつのは、まっぴらごめんだと、彼は思ったのです。

キャンプ地でトムを待っていたグランドファーザーは、トムが言葉を発する前に、こぶだらけの指をトムに向けて、こう言います。


グランドサン、
その小さなシカに対する今のおまえの気持ちを、
地面から抜いた草の葉一枚に対しても
同じように感じることができたら、
そのとき初めて、
そうして初めて、
おまえはすべての存在と《一つ》になることができるであろう。

  

        こじか
              ソザイング提供 「振り向いた小鹿」より



★その瞬間、トムは気づくのです。

自分が、シカや一部の大きな動物だけを大切だと思っていて、他の小動物や植物の叫び声や痛みにまったく気づいていなかったことを…。

植物や小動物だって、シカと同じように大切だということを…。

彼らだって、ほかの生き物と同様に生きる権利があるということを…。

たとえどんな体に宿っていようと、命は命、スピリットはスピリットであり、自分たちと同じように痛いと感じるということを…。 

岩や水や土のスピリットは植物のスピリットよりも低く、植物のスピリットは動物のスピリットより低いと考え、知らず知らずのうちに、スピリットの階級を作り上げていたトムは、それがネイティブ・アメリカンの教えに反するものだったことにはっきりと気づくのです。



雑草
            雑草

         
★私事ですが、もう20数年前のこと、庭の雑草が生い茂り、かなりひどい有様になっていたので、しかたなく草むしりをしようと思ったことがありました。(草取りは夫が担当だったのですが)

「人間って勝手なんだよね。きれいな花を咲かせている植物は残しておいて、その他の雑草は全部抜いてしまおうなんて、ホント勝手だよ。ごめんね、悪いね」

そんなふうに心のなかで思いながらも、抜き始めたのですが、ある草に手を触れた瞬間、わたしはその草から発している悲痛な叫び声を聞いたのでした。
「わかった、もうしない!」
それ以来、どんなにむさ苦しい庭になろうとも、草むしりはできなくなりました。
部屋の観葉植物の黄色くなった葉っぱをとるときも、必ず「ごめん、とらせてね」と言ってからにしています。


グランドサン、
その小さなシカに対する今のおまえの気持ちを、
地面から抜いた草の葉一枚に対しても
同じように感じることができたら、
そのとき初めて、
そうして初めて、
おまえはすべての存在と《一つ》になることができるであろう。



このグランドファーザーのことばは、トムだけでなく、読む者の心にも大きな打撃を与えます。
一人前の男となるためにシカを殺す儀式」と「すべての生き物の生命を尊ぶ教育」とは、まるで逆説であるかのように思えます。しかし、そのパラドックスは、グランドファーザーの一言によってみごとにつながり、統合されるのです。


(人間は)宇宙の法則に従って生きるのではなく、
自分とほかのすべてを切り離し、
その一番上に立っていると感じている。

人間は本当のものを見失ってしまい、
自分の現実に対して無知だから、
自分が間違っていることもわからないのだ。

人間は自分と違う姿をしているものは劣っていると見なすので、
痛みを知ることもない。
血を流したり、音を発することがない存在には、
スピリットなど存在しないし
痛みも感じないと思っているのだ。


子どもたちよ、
その経験の有無にかかわらず、
すべての人や物事は先生なのだ。
もし、私たちが耳を傾けることができたら、
それぞれ何かを教えてくれるはずである。




ハート
グランドファーザーが、子どもたちに教えてきたこと。
それこそが「真の教育」と呼べると、わたしは思います。

ネイティブ・アメリカンやアボリジニ(先住民)と呼ばれる人たちは、
今もなお、このようなすばらしい教育方法を受け継いでいるのだということを、
わたしたちは真剣に思い返してみる必要があるのでは? と思います。

さて、あなたは、どう感じられたでしょうか?

この記事や、トム・ブラウン・ジュニア著の「ヴィジョン」から気づかれたこと、
感動された箇所などがあれば、ぜひコメントください。




小食は地球を救う―その1 一日二食のススメ

2011年01月28日 01:00


あなたは一日に何回食事をとっていますか?
一回ですか? 二回ですか? 三回ですか?

「朝・昼・晩と、一日三食が当たり前でしょう」
と言われそうですが、では、その一日三回というのは、いったいだれが決めたのでしょうか?

生まれて育って気がついたらそうだったし…という人がほとんどだと思いますが、なぜ三回食事をするのが当たり前なのかと、考えてみられたことがあるでしょうか?

世界中の人が、一日に三回食べているなんて思っていたら大まちがいですね。
日本の歴史を調べても、武士階級が朝・昼・晩の三食を摂るようになったのは江戸時代中期以降のことで、その習慣が、一般人に全国的に普及するに至ったのは、明治維新になってからのことだそうです。

今では、栄養学者や西洋医学の医者をはじめとして、「一日三食を摂らなければいけない」とか、「朝ぬきは絶対にいけない」とか、言っている人たちがけっこう多くいますね。
「一日に○○カロリー摂取しなければならない」と、強迫観念に駆られて摂ろうと心がけている人さえいます。

一日三食」や「一日の摂取カロリー」は、何の根拠があって定められたのでしょうか? 
もし、あるとするなら、それはまちがった根拠だと、わたしは思うのですが。


今回から「小食のすばらしさ」をあらゆる角度からお伝えし、これまでの思い込みを取り払っていただきたいと考えています。
今回は「一日二食のススメ」です。


★ 身体が食べ物を要求しているときだけ食べる ★



わたしの場合、いつから朝食を摂らない生活をし始めたのか、もはや記憶にないほどの長い年月が経っています。
今では、朝起きてすぐに食事を摂るということができない身体となっていて、夜8時~9時頃に夕食を摂ったら、翌日の14時~15時まではほとんどおなかがすかないのです。

けれども、昼(12時~13時)に食事をしに帰ってくる人が家族にいるので、それに合わせて食事の支度をし、ついでに一緒に食べるようになってしまっていたのです。
でも、最近は自分のおなかのすき具合によって、食事の時間を自由に変化させています。

★ほんとうは、自分の身体が食べ物を要求しているときに摂るのが、一番効率がよいのです。

ところが、集団生活をしている人の場合は、たとえおなかがすいていなくても決まった時間に食べないといけないし、自分の身体の要求に合わせることができなくなっています。
これは、まったく自然ではありません。
食事の時間を全員同じにするのは、人間の身体を完全に無視した方法です。

学校では給食があって、肉体的にいろんな状態の子どもたちがいるにもかかわらず、全員に同じものを同じ時間に食べさせています。
義務教育以外でも、食事をする時間というのは定められていますね。
学校という所は、何につけても時間を制限し、子どもたちを同化し、コントロールしようとするのです。
個性などは、学校では認められないのです。まるで、鶏小屋の鶏みたいです。

自然の大地で生きている動物たちを観察してください。
彼らは常に過酷な状況の中で生きています。
おなかがすいても、獲物がなければ何日もガマンしなければならないし、雨がふりつづいても、じっと雨に打たれてガマンしなければならないのです。
地球の先住民たちも、同様の生活をしてきました。一日に一食でもありつくことができれば幸いだったのです。

ライオンはおなかがいっぱいのときには、たとえ獲物が目の前にいても殺すことはないといわれていますね。
おなかがすかないのに食事をしたり、たとえおなかがいっぱいであっても、多くを獲得し、摂取しようとするのは、欲で固まった口いやしい無知な人間だけです。

肉食をはじめ、あらゆるものを大食する先進国の人ほど病気の種類も多く、死亡率が高いのです。
病気になっている意味がわからないから、治らないまま死んでいくわけです。それは自業自得なのですが、何とも哀れな気がします。


★ 健康を守るには小食しかない ★



健康を守るには小食しかない」と提唱された人のなかで、(故)*甲田光雄氏は、わたしが尊敬する医師のひとりです。
出会ったことはありませんでしたが、著書の内容からどのような人であったのかはわかります。

(*甲田氏は生前、甲田医院院長、日本綜合医学会名誉会長を務め、現代医学に限界を感じ、薬や手術に頼らない自然治癒を50数年間実践研究された人です)

甲田氏は著書「最強の健康術」のなかで、つぎのように語っておられます。

健康を守るには小食しかないというのが、長年の経験から得た結論で、それが真理であると、確信しています。試しに、体調が悪いと思ったら、食べる量を減らしてみてください。他の悪い習慣はつづけたままでかまいません。
食事の量を減らすだけで体調がよくなり、血液検査の数値が改善するはずです。
食べ過ぎがいかに体調不良の原因になっているか、実感できるでしょう。
理想は腹六分目ですが、それは難しいでしょうから、せめて腹八分目を心がけてみてください



★甲田氏は「長生きをしたければ、朝食を抜きなさい」と、「まず朝食を抜くこと」を勧めておられます。

なぜなら、朝食を摂ると、血液が胃腸のほうに回り、腎臓はお留守となり、その分老廃物を排泄できなくなり、さらには宿便をためこむことになるからです。

★ネズミやサルの小食実験でも明白です。
たとえば、米国立衛生研究所にある加齢研究所では、こんな実験をしたそうです。
サル30匹にはエサを腹いっぱい食べさせ、もう30匹には腹七分目の小食にして実験を開始し、15年後の結果を見たのです。
小食のサルは、腹いっぱいのサルに比べて、死亡率は2分の1、すなわち半分だったそうです。
ネズミの実験でも、腹いっぱい食べさせたネズミのグループよりも、腹六分目のグループのほうが平均寿命が2倍近く延びたといいます。

一日三食摂った上に、おやつを食べるなどの間食をしている人は、一生内臓を休ませることがないのですから、サルやネズミと同様、寿命に大きく影響することでしょう。


★ いかに少なく食べるか ★



甲田氏の食養生の方法は、とにかく今までの思い込みを捨てて、「摂取することをやめる」ということです。
いかに少なく食べるか」ということですね。
少なく食べて、老廃物を完全に排泄することを重視するマイナスの栄養学」なのです。

★たくさん食べて得をしたと思ったら、大まちがいなのです。
美味しそうなものを見ると、つい必要でないものまで食べてしまうことがありますが、そんなときは得をしたというよりも、損をしたと思った方が正解なのです。

もし「なるほど、そうだ」と思われたなら、まず間食や夜食をやめることから始めてください。
そして、一度にではなく、朝食の量を少しずつ減らすことから始めてみられてはいかがでしょうか? (つづく)


小食は地球を救う―その2 病気のときは食事を断つ

2011年01月29日 03:00


★最近次女が風邪にかかりました。
高熱が出て、症状がインフルエンザと大変よく似ていましたが、病院に行くことなく、「葛根湯エキス」と「梅肉エキス」、「りんごがゆ療法」ですっかり治りました。
(インフルエンザの予防注射をして死亡する人が後を絶たないので、安易に予防接種はしないことです)

次女はそんな症状が起こったのは、「自分の怒り」が原因だったと強調していました。
怒りをガマンしていたり、ストレスが多いと、ほんとうに病気になるということを実感したというのです。
(★過去記事「怒りの毒素にはものすごいパワーがある」参照)
 
とにかく、ウイルス性であろうとなかろうと、そういう病気を呼び寄せたのは自分だと、気づくことが大切です。
そして、病気になったら、できるだけ小食をすることです。
風邪の場合は、水分補給をしっかりして、何も食べずに暖かくしているのが一番よいかもしれません。

「それじゃあ、栄養不足で、回復が遅れるんじゃないの? 薬は食事の前(後の場合もある)に飲めって書いてあるし、食事をしなきゃ薬も飲めないじゃないの」
なんて、言わないでくださいね。

薬を飲むために食事をしないといけないなんて、変じゃありませんか? 
食事を断ったら衰弱すると、だれが決めたのでしょうか?
動物は体調が悪くなったら、当たり前のように食事を断ちます。


★ 病気のときは食事を断つ ★



★うちの猫たちが病気になったとき、獣医が勧めた大変高価な「療法食」を一切食べませんでした。
それを食べないと絶対に治らない」、「ほかのものは一切食べさせないように」と強く言われたので、ようすを見ていたのですが、1週間経っても10日経っても食べないのです。
与えた療法食は一切食べずに、毛で作ったおもちゃのシッポなどをしゃぶっているのです。まったく頑固一徹です。

それで、どうしたものかと考え、獣医に連絡をしたのですが、獣医も頑固一徹です。
それを食べさせないと死にます」とまで言うのです。
ちゃんと食べさせてください」と言われても、口に入れようとしても食べないのですから、どうしようもありません。


★だいたい猫が食べないような療法食自体に問題があるし、それを強制的に勧めて買わせる獣医にも問題があります。


それで、わたしは「ペットの自然療法事典」を買って読み、インターネットで別の天然由来原料を使用した療法食を調べ、彼女たちの嗜好に合った内容のものを見つけることに成功しました。

★どの療法食が一番好きか。どれを食べるか。
それを選ぶのは、獣医ではなく、当の猫たちなのです。


もちろん、わたしが見つけた食事療法食を、猫たちはとても喜んでくれましたし、数ヵ月後、他の病院で検査を受けた結果、病気は完璧に治っていました。

その後は、徐々に準療法食に切り変えていきました。
今は、うちの猫たちの状態にもっとも合うと思われる内容の食事を与えています。
すべて獣医に相談することもなく、わたしの独断でおこないましたが、まったく問題は生じていません。

うちの猫は肉類を中心としたフードは好まず、米などの穀類を主としたものを好むので、そういう療法食を探すのはなかなか大変でした。
猫は味に敏感で、グルメです。わたし自身もよく味見をしてみるのですが、わたしが食べてもなかなかいけると思ったものは、やはり猫たちも好きみたいです。(ちなみに、わたしは肉類を好みません)

「これしか方法がない」、「これを食べさせないと死にます」と言った獣医のところには、もう二度と行くことはないでしょう。
その獣医は「思いの制限」があり過ぎたということですね。
自分の判断だけが正しいと思っていたら、それはちがいますよということです。

たいていの人は、ペットが病気になったとき、あわてて獣医師のところへ行きます。
それは動物の病気に対する専門的知識がないからですが、ある程度学習すれば、獣医の手助けが必要かどうかを見極めることができ、どんなときでも落ち着いて行動することができるようになってきます。

人間の病気もペットの病気も、メカニズムは同じです。
病気になることで、何かを伝えているからです。
それがわかれば、その問題点をなくせばよいということになります。
(★過去記事「自分がつくった病気は自分で癒すことができる」参照)



★ 食事を断つと生命力が復活する ★



★動物たちは獣医よりも、自分たちの身体のことをよく知っているのです。
ですから、食べたくないときは食べませんし、食べたくないものは絶対に食べません。


甲田光雄氏は言っておられます。
「生命が誕生して40億年あまりの歴史のなかで、
食事を断つと生命力が復活する』という情報が遺伝子にインプットされています。
だから、本来ならば、『体調が悪くなったら食事を断つ』という生き方を自然にするはずです」
と。


        ねんね
              
           食事を絶って、ネンネして、
              あとは回復を待つのみニャ zzz 
                    (うちの猫 撮影 光の仕事人)
 

自分の身体を、すぐに簡単に医師という名の他人に預けてしまう人間よりも、食事を断ち、じっと自分のなかにある自然治癒力を信じて治癒の時期を待っている動物のほうが、断然賢いと思うのは、わたしだけでしょうか?


小食は地球を救う―その3 肉食を半減させよう!

2011年01月30日 15:00


★ 前兆・しるしに気づきなさい! ★



最近また鳥インフルエンザが発生していますね。
農水省は、愛知・豊橋市で発生した鳥インフルエンザウイルスは「強毒タイプ」で、宮崎県や鹿児島県で検出されたウイルス(高病原性鳥インフルエンザウイルス)と99%以上一致したと発表しました。

宮崎県の川南町の養鶏農場の鶏は、9万2000羽が殺処分されることになり、派遣された自衛隊員などによって、29日朝から殺処分にあたり、延岡市の農場でも、市の職員など約200人が鶏6600羽の殺処分をおこなったということです。
宮崎県では、昨年(2010年)の3月頃から牛、豚、水牛の口蹄疫病が発生して、同年の7月4日の終息確認までに、28万8643頭を殺処分するという悲しい出来事があったばかりです。

牛、豚、鳥の被害ばかりではありません。
今年(2011年)1月26日の新燃岳の噴火の影響で、宮崎県では29日も火山灰が降り続き、火山灰による深刻な被害を受けています。 新燃岳のふもとにある宮崎県高原町では、噴火の影響で火山灰が町全体を覆っているということですが、作物にもかなりの被害がありそうです。

「泣き面に蜂」というのは、このことですね。
「なぜ、こんなに宮崎県に集中して不幸が重なるのだろう?」と不思議に思っている人たちがいるかもしれませんが、これは大きな「しるし」なのです。
あまりにも県民の意識が低いために、自然は「これでもか、これでもか」と気づかせるために現象を見せているのです。でも、まだ気づかないのです。

★たとえば口蹄疫が流行した際、彼らが牛や豚たちにおこなったことを考えてみてください。
病気にかかっていない牛や種牛までワクチン接種をして、そのワクチン接種をした牛をすべて殺処分しましたね。
国の要請があったと言えども、それを最終的に承諾したのは当事者たちです。


★ 人が食べても大丈夫な牛をなぜ殺すのか? ★
  ―口蹄疫に感染した牛を殺処分する理由



★口蹄疫にかかった牛肉や豚肉を食べても、牛乳を飲んでも、人が口蹄疫にかかることはないといわれています。それなら、なぜ殺さないといけないのでしょうか? 
そんな疑問を抱いた人は、きっと少なくないと思います。

口蹄疫はインフルエンザと同様に「伝染性ウイルス」なので、接触や空気感染などで広がってしまいます。
それで感染拡大を抑えるために、他の牛にも口蹄疫のワクチンを接種します。
しかし、ワクチンを接種された牛も、最終的には殺処分されるのです。
「もし全頭処分しなかったら、口蹄疫の感染は確実に拡大する」というのが、専門家の主張です。

まだ感染していない牛にワクチン接種をした上で、殺すというのは酷すぎるんじゃないかと思いますね。
当時わたしはそのことに大きな疑問を感じていました。
これを人間に当てはめたら、どうだろうかと思いました。
インフルエンザに罹った人やその周囲にいた人たちは、すべて隔離され、インフルエンザのワクチンを接種し、その後全て殺されるとしたら?
これと同じことを牛や豚におこなっているということです。

同じ部屋にいても、インフルエンザに罹る人とそうでない人がいるのは、だれでも知っていますね。
ウイルスが体内に入ったからといって、インフルエンザにかかるとは限らないわけです。
つまり、ウイルスだけが病気をおこすわけではないということですね。

過去記事「 病気を起こす原因―ふたつの論争 」に、パスツールの「外部病原説」とクロード・ベルナールの「内部環境説」について書いていますので、お読みください)
病気を起こす原因―ふたつの論争

専門家によると、感染した牛はワクチンを接種しても、ウイルスが残ったままの「キャリアー牛」となるということ、また、ワクチンは、ウイルスを死滅させたり、感染を完全に防ぐものではないので、最終的には殺処分が必要なのだというわけです。
口蹄疫に感染した種牛を殺処分する理由は「精液にもウイルスが含まれるため」だそうで、結局感染していない種牛まで殺してしまいました。

全頭処分にした理由は、日本が口蹄疫ウイルスのない「口蹄疫清浄国」であり、「ブランド和牛」など高品質の畜産物の産出国であるからのようです。 
口蹄疫が発生すると、感染した牛や豚による畜産物の品質が低下する(商品価値が下がる)だけでなく、(口蹄疫は感染力が強いため)発生国の畜産物には、厳しい制限のある輸出規制をかけられてしまうというのです。
国内の畜産物市場や輸出に至るまで、経済的な大打撃が生じることから、畜産業を守るために厳しい対策が酪農家に義務づけられているということなのです。


★ 口蹄疫で殺された牛の嘆き ★



これは、牛や豚の命のことよりも、経済的に損をするという非常に打算的な考えに基づいているということにほかなりません。
大切に育てた牛を、つぎつぎと殺さなければならなかった畜産農家の人たちの悲しみは、わからないでもありません。でも、結局のところは、遅かれ早かれ、その牛たちは死ぬ運命にあったのではないですか? と、わたしは言いたいのです。
かわいそうなのは、そういう目的のために飼われていた牛たちです。
畜産家が何のために牛を飼っているのかといえば、その牛の肉を売るためです。
美味しく食べてもらい、商品価値が上がるように、手をかけてブランドの牛を育てていたのにすぎません。
つまり、お金のためです。
もし、真に牛を愛していると言うのなら、牛でお金儲けをするのは、もうやめたらどうですか? と言いたいのです。
処分されることが決まった牛が連れて行かれる日の朝には、牛は涙をためて鳴くといわれていますね。
いつかは殺される運命にある牛を、手塩にかけて育てるということ自体が、その神経が、わたしには理解できないのです。

★畜産家たちは、殺した牛たちを、そのあとなぜ食べてあげなかったのでしょうか? 
人間には感染しないのだから、自ら率先して食べてもよかったのではないか」と、わたしの長女は言っていました。
涙を流しながら、ありがたくその肉をいただくのです。
また、ブランド牛を安価で提供すれば、肉好きの人たちは喜んで食べたでしょう。
そうすれば、牛たちも無駄死にをしなくてすんで、人間を許してくれたかもしれません。

人間に食べられたのならまだしも、健康な牛までむやみに殺処分されたのです。
土のなかに埋められた牛たちの怒りと悲しみ、人間に対する恨みと嘆きを、畜産家は感じなかったのでしょうか?

経済的な打算ばかりが目の前にちらついて、牛たち(豚や鳥なども含む)の命の尊さ・重さを考えてみることのできない国々や人々…。
もうそろそろ気づいてもよいのではないかな? と思います。

日本には、日本の風土に適した食の歴史があります。
日本人は仏教の影響で、長い間動物の肉を食べませんでした。
本来、肉食は日本人には向かないのです。

ところが、戦後欧米化が進行して、日本人の食生活は穀類中心の食事から肉類中心の食事へと急速に変化しました。
その結果、腸内バランスを崩し、それまで日本人にはほとんど見られなかった大腸ガンや乳ガン、前立腺ガンなど、欧米に多いガンが増加するようになったのです。

(過去記事 ★アセンションに向けて―浄化と周波数を高める方法 ★ガンになる原因―さまざまな見解 参照)


肉食を半減させれば環境問題が解決される



アメリカと日本の「狂牛病騒動」を契機に、「肉食半減のキャンペーン」を世界各地で実行することを提案し、公演活動を続けた人がいました。前回ご紹介した(故)甲田光雄氏です。

甲田氏は、
いま、世界で生産されるトウモロコシの量は年間6億トンで、そのうちの4億トンが牛などのエサに使われています。
もし、肉食半減のキャンペーンが成功すれば、4億トンの半分、つまり2億トンのトウモロコシが節約できることになります。
肉食の半減が、将来の食料問題解決策にもなります。
また、牛が呼吸で排出するメタンガスも地球の大気温度を上昇させる元凶になっていますが、牛の数を減らせばメタンガスも減り、環境問題の改善にも役立ちます

と、訴えられたのです。

どんな理由からでもよいのです。
皆さんも、肉を食べるのを半減してみませんか?
それは、まずあなたから…。 (つづく)


小食は地球を救う―その4 食品をムダにせずゴミを減らそう!

2011年01月31日 13:30


★ 毎日の食料をムダにしていませんか? ★



あなたの家の冷蔵庫には、何が入っていますか?
消費期限や賞味期限が過ぎたもの、いつのまにか忘れられてしまった食品はないでしょうか?
もし期限切れとなった食品があることに気づいたとき、あなたはどうしますか?
捨てますか? それとも、食べますか?


母がまだ元気だった頃、実家に戻るたびに、わたしは冷蔵庫のなかや、食品貯蔵庫の扉をあけて、よく整理をしたのを思い出します。

母は、たくさん買ってきては食べ忘れるのです。
冷凍庫にも、期限切れのものがたくさんつまっていました。
母は、冷凍にさえしておけば、いつまでも新鮮さが保てると思い込んでいたようですが、魚の切り身などは、数カ月も経つと冷凍庫臭などが移ってしまったり、表面が冷凍焼けしたりして、かなりまずくなるものです。数年も経てば、まず食べられないでしょう。
そんな食品が、長い年月保管され、結局だれの口に入ることもなく捨てられていったのです。

★高価なものであっても、それを美味しく食べたり、満足感を味わったりしたのであれば、それは生かされたのですから、問題はありませんが、その存在が忘れられていたり、捨てられたりするというのが一番もったいないですね。食品に対して申し訳ない気がします。

世界の開発途上国では、食料が不足し、分刻みに飢餓で死んでいく人々がいるというのに、(飢餓が原因で1日に4~5万人、1年間に1500万人以上の人が亡くなっており、そのうち7割以上が子どもたちだといいます)日本では飽食状態になっていて、毎日大量の食糧が廃棄されているのです。
この現状を、どれだけの人が把握できているでしょうか?



★ 輸入した食料の3分の1を捨てている日本 ★



日本の食品の約7割は世界から輸入したもので、年間 5800万トンの食糧を輸入しながら、その3分の1(1900万トン)を食品廃棄物として排出しているといわれています。
このなかには、食べられるにもかかわらず捨てられているもの、いわゆる「食品ロス」が約500~900万トン(事業者から300万~500万トン・家庭から200万~400万トン)含まれると推計されているのです。
つまり、輸入までしているにもかかわらず、その食料は食べ残しや食べ忘れ、売れ残りなどでムダに捨てられているというわけです。
(平成21年3月 農林水産省「食品ロスの削減に向けて」参照)

NPOネットワーク「地球村」の記事によりますと、廃棄量は世界の食料援助総量740万トンをはるかに上回り、3000万人分(途上国の5000万人分)の年間食料に匹敵するのだそうです。(食糧の廃棄率では、世界一の消費大国アメリカを上回っている)
また、日本の食品廃棄の半分以上にあたる1000万トンが家庭から捨てられており、家庭から出される残飯の総額は、日本全体で年間11兆円にもなるということ。
これは日本の農水産業の生産額とほぼ同額で、さらにその処理費用で、2兆円が使われているというのです。

また、「日本のゴミ焼却場数はダントツで世界一」で、「これほど多くのゴミを出し、燃やしている国はない」ということです。
一人1キログラムのゴミを毎日出しており、年間で一家庭から1~2トンのゴミが出ていて、ごみ焼却量は、ヨーロッパの環境先進国の10倍以上で、ダイオキシン排出量も世界一」だというのです。


★ マグロの絶滅の危機は日本人のせい? ★



マグロの消費量世界一の国が日本」だということを、皆さんはご存知でしたか?
世界で取れるマグロのおよそ4分の1、あるいは3分の1、また2分の1ともいわれていますが、日本で消費されているのです。(エビの消費量も世界一ですよ!)

日本人はマグロのさしみや寿司が好きなようですが、わたしにはその美味しさがよくわかりません。血なまぐさくて食べる気がしないのです。
ペットフードにもマグロはふんだんに使われています。ほとんどが輸入ものですが。
他の国では食べたくても食べられない人がいるのに、日本の猫ちゃんは幸せですね。

このマグロ漁を減らさない限り、 20年後には絶滅するといわれています。
好きだから、美味しいから、絶滅なんて考えもしないで食べているのでしょうが、日本人はもっと世界や地球や生き物たちに関心をもつべきではないでしょうか。

日本という国があまりにも物質的に豊かであるために、国民は食べたいときに食べたいものを食べることができ、それが普通だと思っています。
しかし、その普通が、普通でなくなるときがやってきたとき、わたしたちはいったいどうするのでしょうか?

★日本の皆さん、毎日のムダ使いに気づきましょう。

買い物に行く前に、冷蔵庫の中に残っている食材の量を確認したり、賞味期限や消費期限を常に点検して、食べきれなかったものは他の料理に作り変えたりして、食材をムダなく使い切りましょう。
そして、多くを買わず、小食を実行して、その分ゴミを減らしましょう。 
気をつけていても、やっぱり食べ忘れていて、結局ゴミ箱に…ということはよくあることです。
でも、捨てる前にもう一度食品を観察してみてください。

皆さんご存じのように、賞味期限は「美味しく食べることができる期限」のことです。
ですから、少々賞味期限が過ぎていても、食べられなくなるわけではありません。
もったいない!」と思ったら、自分の感覚でしっかりと判断して食べることが大切ですね。


わたしも食品に限らず、ゴミをできるだけ出さないことを肝に銘じ、さらに実践していこうと思います。


★下記は、「世界の食料事情」や「私たちの食」について、参考になるおすすめサイトです。 
ハンガー・フリー・ワールド(HFW)




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