蛇神がもたらしたもの 

2010年12月01日 19:00


★ 蛇には母のイメージがある ★



蛇神というのは、父というよりは、母としてのイメージがとても強いですね。
蛇の古名にハハというのがあります。
昔、日本では大蛇(おろち)を羽羽(はは)と呼んでいたようですし、沖縄・奄美に生息するハブは、ハハとヘビの中間語だと考えられます。

脱皮するヘビ」は、「子どもを産むハハ」という神秘的な生命力と重なって、関係づけられます。
縄文時代には、妊婦を象った土偶が多く見られますね。
縄文時代は、蛇を表す縄目模様を貴重とする時代でもあったのです。
当時の人々にとって、蛇と母は重なり、また、同様ともいえる存在だったのではないでしょうか? 

アイヌ語で神を表す語は「カムイ」です。
それは、日本語の「カミ」に共通する祖形であるようです。
縄文語で、「ムイ」という語があり、それは「」を意味するからです。

アイヌの長老たちは「カムイの真の姿は長もの(蛇)」だと言っていたことや、縄文中期の土器がほとんどマムシを表現していることや、とぐろを巻く蛇を頭に乗せた女神像の土偶が多く出土されていることから、蛇は大地母神のシンボル的存在だったと言ってもよいのではないでしょうか。



★ 二匹の蛇が絡んだ姿は
     DNAの二重螺旋構造を示している ★




出雲大社 しめ縄
出雲大社 しめ縄


神社のしめ縄は、やはり蛇を連想させますね。
蛇が縄へと転化し、それが縄文式土器の縄目の文様になったのだとしたら、そこまで縄文人の精神的象徴となった蛇は、やはりタダモノではなさそうです。

しめ縄に象徴された「二匹の蛇が絡んだ姿」は「DNAの二重螺旋構造」を示していて、『生命の樹』を暗示しているようにも思えます。

先日紹介した理学博士の戸来優次氏は、その著『複製された神の遺伝子』の中で、
二匹の絡んだ蛇が生命の樹に見立てられたのは、生命の樹が生命科学、生命操作技術を示しており、生命操作に必要不可欠な物質がDNAで、その姿が二匹の絡み合った蛇の姿とうり二つだったからに他ならない
と述べていますが、その記述は、エンキにつけられたあだ名を思い出させられますね。

また、中国の蛇神である伏羲(ふっき)と女媧(じょか)の絡み合った姿や、天の御柱を廻って国生みをしたイザナギとイザナミを彷彿させます。

天の御柱の廻りは、蛇がとぐろを巻く姿と関係しているように思いますし、イザナギイザナミにつけられたナギナミは、やはり蛇を表すことばだと考えられます。
とすれば、人類は蛇によって生み出されたというほかないのではないでしょうか?


    中国の神  中国の蛇神 伏羲と女媧


「神と悪魔」に象徴されるニ極同士の戦い ★



旧約聖書では、蛇は邪悪なものの代表で、悪魔として取り扱われています。
でも、この悪魔の貢献によって地球文明は開化したといっても過言ではないのです。
(教会が説く)が、権威と権力と支配そのものなら、悪魔は、知恵と知性と自由そのものであるからです。

太古の昔から、世界中で神に逆らってきたのは、知性にほかなりませんでした。
神に逆らうこと自体が、無能・無知ではないという証拠です。

しかし、神(教会)に逆らうものはいつも悪魔(魔女)とののしられ、神の名のもとに罰せられてきたのです。
ただし、それは常に神が正当であるという前提においてです。
神が正当だとするなら、悪魔も正当なのです。
二極性で成り立つ世界に存在する限り、どちらも同等だからです。
優劣は、その時々の数の多さで決められているだけで、状況が変われば逆転します。

世界中に存在する「神と悪魔の物語」に象徴されている「相反する者同士の戦い」は、
この世界には必ず二極があり、未だ両極統合の解決がなされてはいないのだという真実を、わたしたちに教えてくれています。


神々は自分たちの欲望のために気に入らない者たちを殺そうとしたり、所有地や創造した地球人種をめぐって対立し、争ってばかりいたのです。
シュメール文献、エジプト神話、旧約聖書、ギリシャ神話、インド神話、日本神話、その他種々さまざまな神話には、神々の争いが記されていますね。

同様に、わたしたち人間も、世界の至るところで戦いを繰り広げてきました。
世界の歴史がすべて「闘争」の歴史であるのは、人間たちが神の遺伝子を受け継いだからと言ってもよいでしょう。

「カガミ(鏡)」の「ガ=我」を取ったら「カミ」になりますが、我(エゴ)があるのは、神自身だったのではないでしょうか?
まず反省しなければならないのは、長いあいだ地球に君臨してきた父神をはじめとする男性性のつよい神々だったのです。

これらの神々の争いが記載された多くの神話は、もともと男女両性具有を理想として造られたわたしたち人間に与えられた教訓です。
同じ過ちをこれ以上繰り返さないことが、わたしたちに課せられた使命であり、任務なのです。

未だ世界のどこかで日夜人が殺され、自らも死んでいます。
これでもかこれでもかと、殺戮はつづいています。
イラクでの自爆テロや、世界で起きている無差別テロの無意味さを皆が伝えなければなりません。
何のための殺し合いなのか、今そんなことをしている時なのか、わたしたちがするべきことは一体何なのかと……。

地球人同士で争い、殺戮するのをやめ、皆一丸となって地球の調和を目指す。
そのことに、個々人が真に気づいてもよい時期なのではないでしょうか。

わたしたちは今、自分たちの親(神=異星人)が本当はどのような存在であったのか、その真実に直面しなければならない時期を迎えています。

また、彼ら異星人が苦労して生み出したはずの地球の子どもたちに対して、なぜ抹殺しようとしたり、非情にも見捨てるようなふるまいをしたのかを知る必要があるのです。

その結果わたしたちがどのような人間になってしまったのか、今の人類のありようや状況は、自分たちの親(神=異星人)の影響であることをしかと認め、受け容れなければならないのです。
個々の人間の心の内に存在する葛藤の原因が、遥かなる太古に地球にやってきたわたしたちの両親にあったということを認めること。それが今こそ必要なのです。

ジャーメインのような宇宙の集合意識が、わたしたちの起源を克明に教えてくれているのは、わたしたちの自己証明を新たに確立することを可能とするためです。
そうすれば、個々の人間の心の葛藤はなくなり、自ずと争いはなくなり、真の平安が生まれてくるであろうからです。


旧約聖書に記された「神」という存在は、もはや役に立ちません。
そろそろ「神と悪魔を統合する21世紀の新しいバイブル」が生まれてもよいのではないでしょうか?
 
それは、わたしたち自身が創り上げるのです。
なぜなら、わたしたちは神から造られた神の子どもたちであるからです。
そして、「神々」というのは、元をただせば「わたしたち自身」でもあったからなのです。


宇宙創造主のもくろみ その1

2010年12月06日 13:15


今日は「宇宙創造主のもくろみ」についてお話ししたいと思います。
これまで、旧約聖書に記されている神々について触れてきましたが、これからお話しするわたしたちの宇宙を創った生命の源 〈大いなる唯一の意識&意志エネルギー〉は、そのようなちっぽけな人格神などではありません。 
宇宙の創造については、古来より伝えられてきた世界中の神話の内容を参考にすることはできますが、旧約聖書と同様比喩的要素が多すぎてわかりにくく、わたしの魂には響いてきません。

宇宙創造の真相」は、当然のことながら「宇宙創造主」にしかわかりません。
ですから、それを詮索するのはおこがましく、恐れ多いことかもしれません。
しかしながら、わたしたちがこうしてここに生きている目的を知るためには、避けてはいられないテーマでもあると思うのです。
今のところ、わたしは「限界のある人間智」でしか、皆さんに語ることはできませんが、参考としての文献や文面を提供することはできますので、皆さんが「自分の生きている目的」を考える際の参考資料として、お伝えしておきたいと思います。


★ わたしたちの銀河系宇宙創造の目的 ★



わたしたちの銀河宇宙の創造は、何のためにおこなわれたのでしょうか?
プリズム・オブ・リラ」には、つぎのように書かれています。

あらゆる意識とエネルギーは、元々、「大いなるすべて」の一部であった。

「大いなる源」からの分離が起こる以前、「大いなるすべて」は、別な波動で振動する別の次元に存在していた。
統合状態にあった「大いなるすべて」の一部に、「分裂して一時的に統合の状態を忘れたらどうなるだろう」という考えが生まれた。
この思念は次第に広がり、強力なパワーを持つようになった。
実はこの「思念」そのものが、「分裂」を生み出す原動力となった。
さて、いざ「分裂」が始まると、それは「忘却」という幻想を生み出した。
個別意識が自己の内にある神聖な起源に目覚め、再び統合することを思い出すまで、意識にヴェールをかけておくことが、この「忘却」の役目である。

一般に「宇宙の創造」と呼ばれている現象は、実はこの分裂、より正確に言えば「次元の分裂」のことである。
分裂状態とはどのようなものか?」という「大いなるすべて」の好奇心、すなわち波動と焦点が変わることで、この宇宙そのものが創造されたのである。

地球が属する銀河系ファミリーは、この「大いなるすべて」の一部である。
そして、この銀河系ファミリーの一側面が、我々の銀河系宇宙における進化の青写真を創り出した。
 
(リサ・ロイヤル&キース・プリースト共著「 THE PRISM OF LYRA」より)


★ 対立するもの同士は二極化をたどる ★



★「プリズム・オブ・リラ」によりますと、「大いなるすべて」は「分裂状態」を体験したいがために宇宙を創造したということですね。
分離し、対立しあう〈二〉は、新たな結合をして多数を生み出し、それらを分散します。
分散された対立するもの同士は、やがて二極化をたどります。
男と女、あるいはオスとメスは明確に区別され、分離したものとなって、はじめて合一することが可能となり、新たな生命を生み出すことができるようになるわけですね。
別々の固体となる前は、男女両性を具有したひとつの存在だったということです。

★わたしたちの魂(本質)のエネルギーは、もともとは唯一の意識と意志をもった〈大いなる創造エネルギー〉から来ています。
そして、だれもが「本質」という「意識」と「意志」を持っているのです。
 

そのことに関する裏づけが、以前ご紹介した足立育郎氏の著書『波動の法則』にあります。
足立氏は、見えるものにも見えないものにもすべてに「意識」と「意志」があるとし、人間の「意志」は中性子、「意志」は陽子だったと述べておられるのです。   


   中性子=意識=調和
   陽子=意志=愛



つまり、宇宙の存在物すべて(空気、炭酸ガス、窒素、アルゴンなど)に分子があり、原子があり、原子核(中性子&陽子)があり、その原子核の周りを電子が回っているのだから、空気のある空間は、「意識」と「意志」でびっしりと詰まっているというわけですね。
(類似過去記事 宇宙のあらゆるものに「意識」と「意志」が働いている 参照)

★また、過去記事「神秘の世界を究明する―空の正体」の箇所では、「色即是空・空即是色」の「」というのは、「何ものにもなり得る可能性を秘めた回転するエネルギー」なのだというお話をしました。

宇宙の仕組みは、物質が回転運動をしてエネルギーを生み、エネルギーが回転運動をして物質になるという繰り返しで成り立っているわけで、このことから「不可視のエネルギーの渦が、すべての物質をつくる源となっている」ことがわかってきます。
この「不可視のエネルギーの渦」が「宇宙創造主」のエネルギーなのです。

ということで、わたしたちの魂(本質)のエネルギーも、〈大いなる宇宙の意識&意志エネルギー〉から生まれたことがわかります。
いくらE・Tが地球に来て、人間を創成したのだと言っても、結局のところは同じ源からやってきているわけです。


★わたしたちは宇宙という名のジグソーパズルの断片★



あなたの目の前に、「宇宙のジグソーパズル」を思い浮かべてみてください。
わたしたちの魂は、たとえてみれば「膨大な宇宙図を描くジグソーパズルの断片」のようなものです。
(ジャーメインはよくこのたとえを使いますが、わたしもこのたとえが一番わかりやすくて、好きです)

大いなる宇宙の意識&意志エネルギー〉は、「分裂したい」という強い願望をもち、そのエネルギーを原動力として、初めから完成されていたジグソーパズルをバラバラの状態にしたのです。
でも、どんなに小さな断片に分離されても、わたしたちが〈大いなる宇宙の意識&意志エネルギー〉であることに変わりはありません。

鏡はどんなに細かく砕け散っても、そのかけらで物を写し出すことができますね。
その小さなかけらで、太陽も月も星も映すことができるのです。
そんな鏡のように、わたしたちは依然として〈大いなる宇宙の意識&意志エネルギー〉の要素を持ちつづけているということです。

もともと統合された存在であった個々の魂たちは、それゆえに元の状態をなつかしく思い、再び一体となりたいという願望を心のどこかに秘めているわけです。

分裂が起こった後、肉体をまとうようになった断片たちは、さまざまな体験をし、「自己探究する」という使命と役割を果たすために、分裂した状態に留まりました。
そして長い時間この物理次元で生きていくにつれて、元の状態に戻るということを忘れ去っていったのです。

しかし、忘れてしまったといっても、「元の統一された状態に戻りたい」、「全ての断片たちと一体になりたい」という願望は、個々の魂に深く刻み込まれているはずです。
その「元の統一された状態に戻りたいという願望」と、「分裂したままで独自に自己探究しようという意志」が同時に存在していて、それ自体が相反し、分裂しているのです。
分離と結合の葛藤ですね。

★この地球上で、新たな生命を誕生させるためには、男性と女性、オスとメスという二極の存在が不可欠となっていますが、これは、両極の統合の必要性、重要性を、わたしたちに思い起こさせてくれているわけです。光と闇、肉体と精神、物質と霊魂、収縮と拡散、ネガティブとポジティブも同様です。
ここに大いなる「宇宙創造主のもくろみ」が秘められているのだと、わたしは感じています。


★ わたしたちが生まれた意味 ★



自分が宇宙と一体になった状態を「悟った」とか「光明を得た」とかいうのであろうと思いますが、この三次元では、肉体をまとった人間が〈大いなる宇宙の意識&意志エネルギー〉と一体となることは、とてもむずかしいです。というより、この物理次元では〈大いなる宇宙の意識&意志エネルギー〉とわざわざ一体となる必要はないと思うのです。

なぜなら、分裂した状態を味わうために、わたしたちは生まれてきているからです。
自分の力で何かを成したいがために生まれてきたのだから、それをこの地球という場所を借りて、素直に実行すればよいのです。

わたしたち個々の魂が独自性をもって試みることは、イコール〈大いなる宇宙の意識&意志エネルギー〉が試み、表現することでもあるのだから、自信を持ってそれを成し遂げればよいわけですね。
これをしてはいけないとか、あれをしてはいけないという制限などは一切ありません。
何をしてもすべてOKで、許されているはずです。
すべての魂には、自分の意志が自由に行使できるという選択権が与えられているからです。
もちろん、選択した結果には、必ず責任が伴うということが原則です。

ともかく、〈大いなる宇宙の意識&意志エネルギー〉は何でもやってみたいのです。
好奇心旺盛な子どもさながらに、終わりのない遊戯を繰り返しているのです。(つづく)


★ お知らせ ★

今後訪れる読者がわかりやすいように、最近のカテゴリを変更し、更新し直した記事がありますので、お知らせします。
★神VS悪魔(蛇神) ★宇宙創造主のもくろみ

最近は、いろいろと「この世の雑用」が多く、なかなかお便り(ご質問)のお返事ができないことがあります。
また機会があれば取り上げさせていただく内容もあるかと思いますので、その点どうかお許しください。

宇宙創造主のもくろみ その2 宇宙の創造主が創造しつづけるその理由

2010年12月07日 19:30



   はじめに神は天と地を創造された。
   地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、
   神の霊が水の面をおおっていた。
   
   神は「光あれ」と言われた。すると光があった。
   神はその光を見て、良しとされた。
   神はその光とやみとを分けられた。
   神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。
   夕となり、また朝となった。第一日である。


   (旧約聖書 創世記第1章1~5)


これは、「旧約聖書」の一番初めに出てくる「創世記」の冒頭の部分です。
神が初めに創られたのは「天と地」ですが、これは、相対するふたつの力、すなわち「」と「」に分極したことを表しています。
また、この記述より、原初から存在していたのは「やみ」であったということがわかります。
そうすると、「光の世界は闇の世界から生まれた」ということになりますね。
    
    闇は陰で、光は陽。
    つまり、「陰は陽を生じた」のです。


闇の世界は光の世界より広大で、限界がありません。
どこまでも限りなき暗黒の空間であり、全く反応のない空間です。
そんな闇の世界から光が生まれ、光の世界から地球を含む多くの惑星や恒星が生まれたというわけです。

地球は光の世界が引っ張る「求心力」と闇の世界が引っ張る「遠心力」で回転していますが、そういう仕組みを創った存在を、旧約聖書ではおなじみの「神=GOD」という名称で表しているわけですね。


神というと、いかにも人格のあるちっぽけな存在(gods)を連想してしまうので、前回は〈大いなる唯一の意識&意志エネルギー〉と名づけました。

ここで、ある「光の存在からメッセージを受けた」という医師の山下弘道氏が、その著『遥かなる大地・ムーからの予言』(たま出版)で、とても興味深いことを述べておられたのを思い出しましたので、少しご紹介したいと思います。



★ ソロバンの珠のような宇宙のしくみ ★



そろばんその「光のメッセンジャー」によると、
この宇宙を創造した存在は、△と▽を合わせた一個のソロバンの珠のような宇宙の仕組みを創った」のだというのです。
そして、そんなソロバンの珠のような宇宙は、他にもたくさんあるのだそうです。
但し、隣の宇宙を創造したのは、わたしたちの宇宙を創った者とは違う存在かもしれないというわけです。

また、宇宙というのは浄化されたところで、「浄土」という空間に存在しており、そこにはがあり、その浄土の陰の部分、つまり「空間が闇」なのだそうです。
そして、その浄土を創ったのは、わたしたちの宇宙を創った存在ではないまた別の創造者であるらしいのです。
ともかく、創造者という存在は、さまざまな次元において数多存在するということなんですね。

山下氏は、
宇宙の創造者は、爆発&収束、爆発&収束を永久に繰り返すことで
エネルギーを永久に取り出すことができるよう、円錐形ピラミッドを二つ上下に合わせた永久機関の形を創った。
それが、創造者が宇宙を創造した真の目的だ

と、述べています。 


               円錐
           
               逆 円錐

この「円錐形ピラミッドを二つ上下に合わせた永久機関の形」というのが、「光のメッセンジャー」が述べた「ソロバンの珠のような宇宙のしくみ」です。

ピラミッドは、エネルギーを集めて増幅する回路で、それをソロバンの珠のように上下に合わせると、増幅したものがまた増幅され、永遠に増幅を繰り返すというわけです。
そうやってエネルギーを発生し、増幅し、放出し、再び発生させて、宇宙の創造主は生きているのだというわけです。


★ 成長こそが永遠につづく創造主の意志 ★



宇宙の創造主が創造しつづけるその理由は、「自分自身が永久に存続するため」なのだと、山下氏は言います。
確かにそうかもしれないと、わたしも思います。

それに付け加えさせてもらえるなら、「爆発&収束」という呼吸をつづけて生きている創造主も、完璧なようでいて、実は未だ進化の過程にあり、無限に進歩しなければならない存在なのだということです。

そう考えると、創造主の一部であるわたしたちの目的も、自分自身を生かすために常に進化を目指し、創造しつづけることにあるということがわかってきますね。

つまり、この惑星での生活をつづけながら、自分の魂を発達進化させること。
それが、わたしたちの目的だということです。

創造主のエネルギーを分け与えられたわたしたちが進化すれば、創造主も同時に進化するというわけです。
成長こそが永遠につづく創造主の意志」なのです。



解脱願望のブッダたち その1

2010年12月10日 15:00


前回は、この惑星での生活をつづけながら、自分の魂を発達進化させること。それがわたしたちの目的であるということをお話ししました。

ところが、人類のなかには、独自に何かをやっていくことに素晴らしさを見出せず、「この世の苦」から逃れたいという激しい切望から解脱を試みようとする人たちもいます。
紀元前に生まれたインドのゴータマ・シッダールタをはじめ、多くの魂たちが、この世からの解脱を切望して、修行に励んできました。
こういう人たちは、世間から離れ、ひとり深い山の奥で瞑想をしているだけです。
もちろん、それもOKです。

でも、そんなに「この世」が嫌ならば、生まれてこなくてもいいのにと、つい思ってしまいます。
この世界に生まれ出たのは、自分自身の願望だったはずなのになぁ…と。
なぜって、わたしたち自身が、「意識」と「意志」をもった大いなる宇宙エネルギーなのですから。

逆に、ひとりでは寂しいから、「他の断片たちとつながりたい」、「合一したい」と願う人たちもいます。
それは、実際に「命の根源」まで戻らなくても、この地上の人間関係を通じて達成することができます。
分離した個々の断片同士、すなわち人間同士の関係を通して、その合一は可能となるからです。

現に断片のひとつひとつが出会うと、「一体となりたい」、「合一の状態になりたい」という意識が自然に芽生えてくるようです。
それがこの世界に生まれてきたわたしたちの基本的な魂の欲求であるからです。


★ ブッダは無神論者? ★


ブッダはほんとうに霊魂の存在を否定したのか


ゴータマ・ブッダは、この地上に生まれたことや、生きていること自体が「」であるとし、インドの伝統的なバラモン思想が信じていた「アートマン」、つまり人間の内奥に存在する「死んだあとも永遠に残る本質」だとされる「霊魂の存在」を否定したといわれています。



ゴータマ・ブッダは、弟子のひとりのソーナにこんな質問をしています。

ブッダ  ソーナよ、なんじはいかに思うか? 
     色(物質)は常(変化なきもの)であろうか?
     無常(変化するもの)であろうか。

ソーナ  大徳よ、それは無常(変化するもの)であります。

ブッダ  もし、無常ならば、苦であろうか、楽であろうか。
     (変わるものは快くないものだろうか、それとも快いものだろうか?

ソーナ  大徳よ、それは苦であります。

ブッダ  もし、(肉体が)無常にして、苦であって、変わるものであるならば、
     それを観察して、これは我所(わがもの)である、
     これは我(われ)である、
     これは我体(わが本質)であると言えるだろうか。

ソーナ  大徳よ、それは否(NO)です。
    
    
     (「相応部経典、22、49、輪屢那」より)


★ブッダは、常に変化し、苦である「自分」というものを、これが「自分」で、これが「自分の本質」で、これが「永遠に不滅の魂」だというのは、おかしいと主張したのです。


へーっ、ソーナんだ! って、思われたでしょうか?
ソ-ナんです。

★「一切が無常である世界」においては、「自分」などというものは「ない」と言ったのです。
(ここの解釈が重要ですよ!) 

ブッダが「この世に一定不変のものは存在しない」と説いているため、以前からあったバラモン教の「魂の輪廻転生説」や「永遠の魂」、「神の存在」などを、徹底して否定した人だと思いこんでいる人はたくさんいます。
ブッダは無神論者」というふうに、学者さんたちは思いこんでしまったのです。

でも、実際はそうではなかったと、わたしは思います。
彼はもともとバラモン教を信じていたがゆえに、「輪廻転生の輪から脱出したい」と思い、修行に励んだのですから。

それに、彼は悪魔や善神、神の子たちと話をしています。
原始仏教の聖典のひとつ『サンユッタ・ニカーヤ』には、「詩句をともなった集」があり、その第一集には『神々とブッダとの対話』、『悪魔とブッダの対話』などが載せられていますから、興味のある人は読んでみてください。(岩波文庫から『ブッダ 神々との対話』『ブッダ 悪魔との対話』が出ていますよ)

仏教においては、ありとあらゆるものは、「因縁」、つまり「無数の因果関係によって形成される」と説き、宇宙創造主としての神(GOD)は認めていません。
しかし、人間よりも優れた存在として、天にも地にも至るところに多くの神々(gods)が存在することは、認めていたのです。
(神の言語はdevaで、本来「輝く」という意味の語源に由来するようです。
神を意味するギリシア語のtheos、ラテン語のdeusと語源的にも同一起源だといわれています)


★ 無常なきものを通して永遠なるものを見る ★



ここで、「バッカリ」という年老いた修行僧の話をしましょう。

バッカリは、自分が死ぬ前に一度ブッダに会いたいと願っていました。
ブッダが彼の臨終の床に見舞ったとき、彼は涙を流してこう言ったのです。

「尊いお方様、私はあなたにお目にかかりたいと長い間希望しておりました。
しかし、私はもうあなたにお目にかかりに行くだけの体力がありません。
ここに来てくださって、ほんとうに有り難い」

ブッダはつぎのように返しました。
「バッカリよ、もうそのようなことは言いなさるな。
やがては朽ちていく私のこの肉身を見たところで、何になるでしょう。
物事の理法(ダルマ)を見る人は、私を見ているのです。
また、私を見る人は、物事の理法を見ているのです」

★「無常なきものを通して、永遠なるものを見る」ということを、ブッダは言っているのです。
ここには、「肉体のブッダ」に依存するのではなく、永遠なる「法(宇宙の理)」を見極めることが最も重要であることが語られているのです。
法(宇宙の理)」によって自己を確立するとき、人は初めて真に依るべきものを見出すことができるのであると。


法句経の名で知られる「ダンマパダ=真理のことば」には、
つぎのようなブッダの句があります。

   
   自己のよりどころは自己のみである。
   自己のほかにいかなるよりどころがあろうか
   自己のよく調御せられたるとき
   人は得がたいよりどころを得るのである
   
  (「ダンマパダ」 第12章 160より)



★「自分」などというものは「ない」と言いながら、ここでは、その「自分」のよりどころは「自分」しかないと言っていますね。

我思う。ゆえに我あり」とは、デカルトのことばですが、
「我」の目があるからこそ、目の前の風景を美しいと感じ、
「我」の口があるからこそ、目の前の食べ物をおいしいと感じ、
「我」の耳があるからこそ、風にゆれる木の葉の音にここちよさを感じるのですから、
「我」がなければ、すべてが「ない」に等しいということになってしまいますね。



★ 輪廻転生している存在はだれ? ★



以前に「色即是空・空即是色」の話をしました。
自分という存在」は、不可視の何にでもなりうる「」から生まれ来たものです。
「宇宙エネルギー」のひとつの表現体としての「自分」となって、この世界に現れたということですね。

しかし、自分の肉体は「無常」で、いつかは朽ちていき、消滅します。
このような「無常なるもの」は「主体」ではありません。

でも、「意識」は、肉体を離れても存在します。
この「意識」を「霊魂」と同義とするなら、これらを「主体」と言ってもよいのではないでしょうか。 「主体」は連綿として生きつづけます。
もしこの「主体」さえ「ない」と言うのであれば、いったい「だれ」が、いったい「何」が、輪廻転生しているというのでしょうか? 


霊魂の存在に対して「無記」としたため、ブッダはそれを否定したことになっていますが、彼は「有る」とも「無い」とも言っていないのです。
むしろ、有ることを表現している句が、けっこうあります。
ただ、言うと「ややこしい」ことになるから、言わなかっただけです。


★ ブッダはどこへ行った? ★



ブッダが真に解脱して、浄土に入ったかどうかはわかりません。
なにしろ西方浄土というところは、多々ある宇宙の外側にある世界だという人もいるからです。

前回ご紹介した山下弘道氏によると、「浄土とは宇宙を入れることのできる空間―容れ物としての空間で、その空間は24次元」なのだそうです。
わたしには、ブッダがそんなところにまで行ったとは思えないのですが…。

ゴ―タマ・ブッダは、くやしかったのではないでしょうか?
たとえ「輪廻転生」という枠組みから外れられたとしても、〈大宇宙の意識&意志エネルギー〉が生んだ「マトリックス」からは、逃れることができないからです。
いくら「悟った人」であっても、それは「宇宙の法則」に気づいただけのことであって、結局のところは宇宙創造者の被造物にしかすぎないからです。

孫悟空がきんとん雲に乗って、得意げに飛び回っていても、所詮はお釈迦さまの立てた一本の指のまわりをまわっていたというようなものです。

大宇宙の意識&意志エネルギー〉の前では、お釈迦さまも孫悟空と、さほど変わらないということです。
そんなことを言ったら、「罰当たりめ!」なんて、お釈迦さまに叱られるでしょうか? 

相反した神の性質

2010年12月12日 08:00


★過去記事11/24「男性優越思想はどこから来た?」で、地球に「男性優越の思想がはびこった原因」をお話ししました。
その記事の中で、わたしが子どもの頃から旧約聖書に登場する『エホバ』をどうしても好きになれなかった理由を述べましたね。(まだ読まれていない人は、読んでくださいネ)
今回は、そのつづきを、忘れないうちに記しておこうと思います。

エホバ』については、リサ・ロイヤルさんがチャネリングされているお馴染みのジャーメインによって、大変興味深い真実が述べられています。


★ エホバの性格 ★



★ジャーメインは、『エホバ』という存在が、シュメール文明と深い関わりを持っていたこと、彼が支配権を与えられて、「暴走」してしまった宇宙人の一人だということ、二面性をもっていたことなどを、つぎのように語っています。


私たちの視点では、エホバは琴座の王家とシリウスの王家を統一する試みの中で生まれました。
彼の父はエンリルで、母はエンキの親類でした。
エホバの誕生には、二つの王家の関係を安定させる試みが反映されています。
彼は統治する土地と人を与えられました。
これについては、皆さんすでにご存知でしょう。

しかし、二つの王家を統一するためにエホバを擁立したことは、誤りだったという認識が生まれました。
その振る舞いによって、エホバは両王家にとって不名誉な存在と見なされるようになり、孤立無援となりました。
古代文献に見られるエホバは、まるで精神病を患っているかのように常軌を逸した行動をとりました。
ときに人民に慈悲深い態度で接したかと思うと、(この場合、「ヤーウェ」と呼ばれます)別の場面では、怒り狂って暴力的に振舞う存在として描かれています。
彼の性格には、明らかに二面性が見られます。

「エホバ」と呼ばれた存在のエネルギーは、地球上のさまざまな時代に表れてきました。
肉体を持って生まれた最初のエホバは、いわゆる「多重人格症」でした。
ときには慈愛に満ちあふれ、ときには烈火のごとく怒り狂うといった態度には、彼の二面性が表れています。
エホバはエネルギー的には、シリウス王家とつながっていましたが、血統的にはシリウスと琴座の王家のハーフでした。
「ヤーウェ」と呼ばれたエネルギーは、主にエホバの子孫を通して表れました。
最初のエホバと比べると、そのエネルギーは温厚でした。
「ヤーウェ」は、エホバが慈愛に満ちているときの呼び名でもありました


(ネオデルフィ・星名一美編訳 リサ・ロイヤル・チャネリング・セッション冊子「隠された神々」に記載)


このことから、幼いながらもわたしが感じていたことが、満更まちがってはいなかったということがわかり、「やっぱりね」と納得できたのです。


★ 相反した神の性質 ★



神々といっても、「ネガティブ指向」の神も存在するし、「ポジティブ指向」の神も存在します。

ネガティブ指向の神たち」は、自己中心的な目的を持ち、人間を無知な状態に留めて、コントロールすることを望んできました。
でも、「ポジティブ指向の神たち」は、人間に知恵を与え、神に依存したり、隷属したりするのではなく、自ら自立していくことを望んできたのです。

人間は「怒る神」「罰を与える神」を怖れ、「愛深い神」「願いを聞き届けてくれる神」にすがってきました。

恐い神やさしい神…。

この「相反した神の性質」は、「エホバの二面性」ととらえることもできますが、「ネガティブ指向」と「ポジティブ指向」の神たちの性質が、そのまま人間たちの心に刻み込まれ、伝えられていったのだろうとわたしは思うのです。


地球人に「ネガティブ指向の人」と「ポジティブ指向の人」がいて、「善人」や「悪人」が存在しているように、異星人だっていろんなタイプが存在するのです。
たとえ「同じ星の種族」であっても、性質はさまざまだということですね。
「神」にも、二極性が存在するということです。

わたしたちは「ポジティブとネガティブ」、「肯定的と否定的」というような相反する性質を考えるとき、「ポジティブ」や「肯定的」のほうが、「ネガティブ」や「否定的」よりも「よい」と思いがちです。

でも、電池に「プラス」と「マイナス」があるように、両方にはそれぞれの性質があって、どちらがよくて、どちらが悪いと判断することはできないものだと思うのです。

「陰と陽」や「光と陰」も同様です。
光のなかに陰があり、陰のなかに光があるわけで、両方とも、相手がなければ存在することができません。

このふたつがお互いに反目すると、不快感が生まれるのです。
ですから、神々も分裂して敵対するのではなく、統合していく必要があるということです。

なぜなら、そんな神々の両極性は、彼らを創造した創造主、〈大いなる意識&意志エネルギー〉の側面なのですから。


男性性と女性性を統合する ― トマスによる福音書より―

2010年12月15日 01:00


トマスによる福音書」をご存知でしょうか?

えっ、トマス? 
トマスって、だれ?
そんな人の福音書は「新約聖書」には載っていないけど…。
と思われたでしょうか?

そうです。
キリスト教公認の新約聖書に「トマス伝」は削除されています。
ですから、聖書に「トマスによる福音書」はありません。
それは、エジプトの洞窟で発見された「ナグ・ハマディ文書」のなかにあった内容なのです。

★「ナグ・ハマディ文書」をご存じない方のために、少し説明をしておきましょう。

ナグ・ハマディ文書」は、1945年12月、エジプト南部に位置するナイル河畔の町ナグ・ハマディ付近で、アラブ人の一農夫によって発見された、13冊のコーデックス(古写本)に含まれる52のパピルス文書のことです。
すべてコプト語(古代末期のエジプト語)で記されていて、そのほとんどがギリシア語からコプト語への翻訳と想定されているということです。
そして、文書の大半は、4世紀以降「正典」としての新約聖書から差別(排除)されていった「外典」に属するものだということです。

文書のなかで、「これは、生けるイエスが語った、隠された言葉である。そして、これをディディモ・ユダ・トマスが書き記した」で始まる「トマスの福音書」は世界中で最も有名でしょう。
今回はその「トマスによる福音書」から感じたことを書きたいと思います。


★ 女性を蔑視したペテロ ★



★「トマスによる福音書」には、次のような一節があります。


シモン・ペテロ彼らに言う。
マリアを我らより離れしめよ。
女は生命の価値なかりければ。
  

                     
★原始キリスト教を創設したペテロは、マリアを自分たちのところ(イエスの弟子たちによる集団)から出ていかせようとしました。
「女性は悪の根本原因」だとして、拒絶したのです。
生命の価値がないという理由で…。

女たちは命に値しない」というのは、ユダヤ教、ユダヤ人キリスト教、初期のカトリシズムに見られる女性蔑視が極端な形で表現されたものです。
現在のカトリック教会においても、女性は聖職位階制から排除されているようで、女性の法王は存在したことがありませんね。
「男性優越主義」が21世紀になっても、相変わらず存在しつづけているというのが、宗教界の実情なのです。


シモン・ペテロが彼らに言ったのです。
マリハムは私たちのもとから去った方がよい。
女たちは命に値しないからである
」と。



マリハムとは、マリアのことです。
そして、このマリアはイエスの生母ではなく、彼の妻のマリア(マグダラのマリア)のことです。
マグダラのマリアは、イエスが初めて心のうちを打ち明けて癒された女性であり、彼が初めて愛した女性でした。

イエスが結婚していたことは、最近(2006年)「ダ・ヴィンチ・コード」が映画化され、ようやく世界中に知らされることとなりましたが、これが事実だと都合が悪いと考える人たちによって、ひた隠しにされてきました。

わたしは、小説「ダ・ヴィンチ・コード」で話題になる20年ほど前から、マグダラのマリアがイエスの伴侶であったことは知っていました。
何の疑問もなく、受容していたのです。
でも、世界中のクリスチャンはどうだったのでしょうか?

ペテロが発した「マリアを我らより離れしめよ。女は生命の価値なかりければ」ということばは、女性蔑視の骨頂とも言うべき暴言ですが、彼がいかにマリアに嫉妬し、嫌厭していたかがうかがえる箇所です。

宗教を創ったのがみな男性だということは大変興味深いところですが、ペテロは別として、世の男性たちが女性を恐れる理由は面白いと思います。
それは何かというと、女性がそばにいると、神や仏の探求よりも、女性の探求のほうが魅力的になるということです。
それでは修行の妨げになるばかりか、面倒なことが発生しかねません。
それゆえに彼らは女性を拒み続けなければならなかったということです。

釈迦(ゴータマ・ブッダ)にしても同様です。
ゴータマ・ブッダは悟りを開いた後に釈迦教団を創りましたが、男性の修行者のなかに女性の修行者を入れることはなかったようです。
彼は最初、女性の修行者自体も受け入れていなかったのですが、志願者が増えたため、しかたなく比丘尼(びくに)となることを認めたのです。
でも、男性修行者とは隔離しなければなりませんでした。
なぜか、もうおわかりでしょう。

ところが、イエス・キリストはちがっていました。
彼はゴータマ・ブッダのように男性指向の人ではなかったのです。
なぜなら、女性を認めたくなくて、まずイエスの妻マリアを離れしめよと言ったペテロに対して、次のように言っているからです。

イエス言いたもう。
見よ。我マリアを導きて、マリアを男となさん。
マリアまた、汝ら男たちのごとく命ある霊となりぬべし。
おのれを男とせし女らみな、天国に入ることを得たればなり。



イエスは毅然として言いました。
見ていなさい。私がマリアを導いて彼女を男性にしよう。
彼女もまたあなたがた男性と同様に生ける精霊となることができるように。
なぜなら、自らを男となす女性はみな天国に入ることができるからである
」と。

これは、ペテロに対する挑戦的ともいうべきことばですね。
イエスが言うこの「自らを男となす女性」とは、いったいどういう意味なのでしょうか?

ちょっと皆さんにも考えていただきたいので、その意味の解明は次回にしたいと思います。(つづく)

精神の男女両性具有となる―天国に入るための必要条件

2010年12月16日 17:00


シモン・ペテロ彼らに言う。
マリアを我らより離れしめよ。
女は生命の価値なかりければ。


ペテロは言った。
「マリアを私たちの間から出てゆかせよう。
女性は〈生〉に値しないのだから」
                       
イエス言いたもう。
見よ。我マリアを導きて、マリアを男となさん。
マリアまた、汝ら男たちのごとく命ある霊となりぬべし。
おのれを男とせし女らみな、天国に入ることを得たればなり。 


イエス、言う。
「見ていなさい。私が彼女を導く。
彼女を男性にし、彼女もまたあなたがた男性と同じように
生ける精霊となることができるように。
なぜなら、自らを男性となす女性はすべて
天国〈王国〉に入るからである」


    グイド・レニ作
    グイド・レニ作『マグダラのマリア』


前回は上記の「トマスによる福音書」の一節をご紹介しました。
皆さん、イエスが「我マリアを導きて、マリアを男となさん」と言った意味を考えてみてくださいましたでしょうか?



★ 自らを男性となす女性とは? ★



わたしはここでスイスの分析学者C・G・ユングの〈アニマ〉〈アニムス〉を思い起します。

ユングは、男性の無意識の中には、感情を補償する永遠の女性のイメージ〈アニマ〉が存在し、女性の無意識の中には思考を補う永遠の男性のイメージ〈アニムス〉ができあがり、それぞれが段階をたどって意識に表われてくるという理論を提唱しました。

★〈アニマ〉は〈魂〉を意味するラテン語で、〈アニムス〉は〈アニマ〉の男性形で、〈精神〉というふうに訳されていますね。
心理学が好きな人であれば、そのあたりのことは十分に知っておられることと思います。

イエスが言うところの「おのれを男とせし女ら」、すなわち「自らを男性となす女性」とは、ユングのことばを借りると、〈アニムスに目覚めた女性〉ということになるでしょうか。

アニムスを十分に意識することによって、女性は「真実に対する勇気ある発言ができるようになる」ということです。
たとえば、アニムスを十分に自覚した妻は、夫に対しても理路整然とした批判や意見を述べることができ、夫のよき相談相手となることができるというようなことです。




★ イエスが言った「女性を男性にする」という意味 ★



一般的に、男性は「思考的・頭脳的」、女性は「感情的・肉体的」だとされていますね。
女性は頭で考えるよりも、直感で、身体で、すべてを感じとります。

イエスは言いました。
私が彼女を導く。彼女を男性にする」と。

つまり、イエスは、マリア(女性)に欠けている男性的な質に目覚めさせて、「女性性と男性性を統合する」ことをほのめかしているのです。


★これは、ひとつの考え方ですが、「女性を男性にする」というのは、暗い「無意識の部分を意識的なものに変える」ということを意味すると考えることができます。

女性の内にある無意識の部分を目覚めさせ、それを意識にまで昇華させると、女性のなかで男と女の両極の統合が起こるのです。
すなわち「精神の男女両性具有」となり、女性は全面的に変容するのです。

そのとき、女は全くの男になってしまったわけではありません。
また、別の第三の存在になったのでもありません。
女と男の対状態を内包した全一となったのです。
それは全く非の打ちどころがない人になったという意味ではありません。
必要なものが、すべてそろっているという意味です。


となると、当然男性にも同様のことが言えますね。
女が「おのれを男」としなければならないなら、男も「おのれを女」としなければ、天国(王国)には入れないはずです。
そうですね?

そうでなければ、完璧に片落ちです。
天国に行くのは男性ばかりなんて、ありえませんから。

イエスが片方だけしか語らなかったのかどうかはわかりません。
トマスによる福音書」には、記録は残っていないからです。
真相はわかりませんが、ここのところは非常に大事だと思うのです。

天国に入るには男性も「女性性」に目覚めなくてはならないはずだからです。
男性は女性のもつ陰の部分、受容することや信頼することに目覚めなければなりません。思考や意識だけでは全体に至ることはできないからです。


イエスさま、「男もおのれを女としなければ天国には入れない」とはっきり断言してほしかったですね。
男性のマインドだけでは、半分にすぎないのです。
男性のマインド+女性のマインド=全体」となるのですから。

人はだれも男性性と女性性が統合され、バランスがとれてはじめて、「命の根源」と同様に統一された状態に入ることができるのです。
霊的存在の究極の姿は、二つの対極を併せ持った存在、すなわち「男女両性具有」なのですから。


★この考えに賛同してくださる人は、心からの拍手を!

純粋無垢となること―天国に入るための必要条件 

2010年12月20日 15:40



イエスは乳を与えられている小さな者たちを見た。
彼は彼の弟子たちに言った。
「乳を与えられているこの小さな者たちは、王国に入る人々のようなものだ」。

彼らは彼に言った、「私たちが小さければ、王国に入るのでしょうか」。

イエスが彼らに言った、「あなたがたが、二つのものを一つにし、内を外のように、外を内のように、上を下のようにするとき、あなたがたが、男と女を一人にして、男を男でないように、女を女でないようにするならば、― そのときにあなたがたは[王国に]入るであろう」。

(荒井献訳 ナグ・ハマディ文書Ⅱ 「トマスによる福音書」22より)


イエス、子たちが乳をふくむのを見て
弟子たちに言う
「乳をふくむこの子らこそ〈王国〉に入る者のようだ」

弟子たち、イエスに言う
「では私たちは子供らであって〈王国〉に入るのですか?」

イエス、彼らに言う
あなたがたが二つを一つとなすとき
内なるものを外なるものと
外なるものを内なるものと
上なるものを下なるものとなすとき
そしてあなたがたが
雄性(おとこ)なるものと雌性(おんな)なるものを
おとこはおとこではなく
おんなはおんなでなくなるように
ひとつ単一なるものとなすとき
そのときに
あなたがたは〈王国〉に入る―」

(和尚ラジニーシ著 マ・アナンド・ナルタン訳 
「愛の錬金術―隠されてきたキリスト(上巻)」より)



これらは、同じ「トマスによる福音書」にあるイエスのことばですが、翻訳者によって受ける印象が違っているのが感じられると思います。

これはイエスの言辞のうちでは最も深いもののひとつで、達成するのがいちばんむつかしいもののひとつ」だと、和尚ラジニーシは言っています。
なぜなら、「もしこれが成就されたら、そのときにはほかに成就すべきものは何もないから」だと言うのです。


★イエスは「幼子のように純真であること」を説きました。
でも、わたしたちはすでにそれを失ってしまっています。
子どもに戻ることは、もはやできないのです。

ひとたび知識の味を覚えたら、後戻りすることはできない」と和尚は言います。
なぜなら、一旦知ってしまったことを失うことなどできないからです。
だから言葉どおりに真似してはいけない。イエスを文字どおりに理解しないこと。それは象徴にすぎない」と和尚は言うのです。

一度知識の味を覚えたわたしたち」は、もう一度もとの子どもに帰ることなどできないのです。
イエスが「子どものようであれ」と言ったからと言って、わたしたちが子どもの真似やふりをしても、それはニセモノだというわけですね。
それは演じているだけで、真の子どもではないからです。
また、演じるということ自体が打算的です。
では、どうすればいいのでしょうか?
つぎに記す和尚のことばが、きっとあなたに気づきをもたらしてくれることでしょう。


★ あなたはもう一度生まれる ★



聖者、賢者は、まったくちがった意味合いで子どものようになる。
彼は超えたのだ。彼はマインドを超えた。その不毛さを理解したからだ。
彼は、この世で成功者であることの無意味さを理解した。
彼は成功への欲望を棄てた、他者に印象づけたいという欲望を棄てた。
偉大になりたい、重要人物になりたいという欲望、自我を満たすための欲望―。
彼はその無意味さを完全に理解するに至った。

そう理解することそれ自体によって、即座にあなたは別な次元のなかに変容する。
と、そのときにはふたたび子供時代がくる。

それは第二の子供時代と呼ばれるものだ。
ヒンドゥーの人たちはこの段階を「二度生まれる」、ドヴィジと呼んできた。

あなたはもう一度生まれる。
が、これはちがった誕生だ。
父親母親からの誕生ではない。
これは、あなた自身の〈自己〉からの誕生だ。
二つの肉体の出会い、あるいは二元性から生まれくる誕生ではない。
あなたはあなたの〈自己〉を通して生まれる。                     

(和尚ラジニーシ著 マ・アナンド・ナルタン訳 
「愛の錬金術―隠されてきたキリスト(下巻)」より)



★イエスが言う「小さな子ども」とは、性別を越えた「男女両性具有」の象徴のことです。
二つのものを一つ」にし、「男は男ではなく、女は女でなくなるように」、「ひとつ単一なるものとなすとき」とは、「統合者」、「単独者」となったときのことを言っているのです。

では、イエスのことばをもう少し読み解いてみましょう。


★ あなたがたが二つを一つとなすとき ★



★「あなたがたが二つを一つとなすとき……」というのは、物事を分離・区別しないということです。

そして、「内なるものを外なるものと、外なるものを内なるものと、上なるものを下なるものとなすとき……」も同様です。
「内なるもの」も「外なるもの」も、「上なるもの」も「下なるもの」も区別に他なりません。
それは分離の考え方から来ています。

もし「内なるもの」が存在しなければ、「外なるもの」も存在しないでしょう。
「外なるもの」がないと思えば、「内なるもの」もありません。両方ともないのです。
自分のなかから「内なるもの」も「外なるもの」も落ちて、分割するものが何もなくなったとき、その人は一つとなったといえるのです。

また、自分のなかの男性と女性が出会ったとき、和尚が言うところの「アルダーナリシュヴァール」、すなわち「男女両性具有」になったとき、王国に入れるとイエスは言っているのです。 

人間の原型が男女両性具有」であるということや、それが「始原の〈一〉なる宇宙創造主の姿」であることが、このイエスのことばからうかがい知ることができますね。


ともかく片方(半分)だけではバランスがとれず、所詮全体を知ることなどできないのです。
前回もお伝えしましたように、「全体なるものは陰陽を併せ持つ男女両性具有」であるからです。
イエスが「男性性と女性性が統合された全一の存在」だったことを、深く知ることのできる一節だと思います。


★人間の頭(マインド)はずる賢く、打算的で利口です。
この世では、ずる賢くあればあるほど成功します。

もしあなたが頭(マインド)ばかりで生きていたなら、
けっして純真にはなれませんね。
その利口さのために、あなたは取り逃がします。
神の王国〉を取り逃がすのです。


     ラッパの天使 
      花のラッパを吹く天使 
             写真撮影 光の仕事人


純真無垢の上にのみ、〈神性〉は降臨するからです。
あなたが純粋であれば、〈神性〉に向かって上昇できるからです。
純真さ…。それが〈神の王国〉へ入るカギなのです。



単独者となること―天国に入るための必要条件 

2010年12月22日 10:00

 

人はたいてい寂しがりやで、常にそばに誰かがいてくれることを望みます。
恋人たちはいつも寄り添っていますが、考えていることは必ずしも同じではありません。
押し黙った男性に耐えられなくなった女性は、彼に尋ねるかもしれません。
「ねえ、何を考えているの? 何か言ってよ……」と。

ふたりでいても、寂しさを感じることはあるものです。
しかし、ひとりになったとき、孤独感はさらに募り、またすぐに会いたくなり、いてもたってもいられなくなります。
そして、互いに安心感を得るために、彼と彼女は両者の合意のもとに結婚という契約を交わすのです。

ところが、一緒になったらなったで、相手に束縛され、しだいに不自由さを感じるようになり、ひとりになりたいと思うようになっていきます。
他者と一緒になりたいという願望と、他者から完全に自由になりたいという相反する願望は、人間の魂の矛盾する衝動です。

愛か、自由か……。
その選択に悩む人も少なくないでしょう。
その人の最も深い魂の欲求が「自由」である場合は、親密な関係性の中にあって十分なスペースを持っていなかったり、自由が感じられないとイライラして、何かまちがっているのではないかと考え始めます。
そういう人たちは、結婚よりは、親密なフレンドリーネスをもとにした人間関係のほうがうまくいくのです。
絆にからめとられるのではなく、自分自身のスペース、真の自由を与えてくれる大きなスペースを持つことが可能な関係であれば、うまくいくからです。


★絶対的な自由は、独りにならなければ獲得できない★



何よりも自由を望み、ひとりでいることの幸せを感じるタイプの人は、他者という存在がトラブルを生み、苦悩を作り出すことを知っています。
そういう人にとっては、「他者こそが地獄」なのです。
絶対的な自由は、独りにならなければ獲得できない」ことを、生まれつき知っているからです。

イエスは次のように言っています。

イエス、言う。
「選ばれて独り立つ者は幸いである。
その人は〈王国〉を見出すだろう。
なぜなら、人はそこから出てきて、ふたたびそこに戻ることになるからだ」       

(マ・アナンド・ナルタン〈中沢藤胡〉訳版「トマスの福音書」より)



★ 独り立つ者、単独者とは? ★



★「独り立つ者」あるいは「単独者」とは、自分自身と共に生き、自分自身で満ち足りている人のことです。
他者を必要とせず、他者からも必要とされることを求めない人であり、自分ひとりで楽しむことのできる人です。
その人は、完全な自由人といえるでしょう。

絶対の自由、究極的な解放が、魂の到達点です。
イエスはそれを〈神の王国〉と呼んでいるのです。
つまり、〈絶対的な自由〉は、〈絶対的な孤独〉でなければならないのです。
中途半端な孤独は、中途半端な自由しか得られないということですね。



世の中には、自分ひとりでいると心が落ち着かないという人が多く存在することを、あなたもご存知のことでしょう。
ひとりで部屋にいると、「どこかに行かなくては…」とか、「誰かに会わなくては…」「何かしなくては…」と、そわそわし、いてもたってもいられなくなる人たちのことです。

彼らにとって独りでいること、独りで生きることは大変困難です。
彼らの存在は、他者に認められ、他者に必要とされることにあるからです。
相互に依存することで満足している限り、自分独りだけで幸福感に満たされることなど、とうてい理解できないでしょう。
彼らは「自分の存在意義は、他者から来る」と思い込んでいて、「自分の存在意義は、自分自身の存在そのものから来る」ということがわからないのです。


★ひとりでいるときに孤独感や不安感が生まれるのは、〈真実の神〉、すなわち〈内なる源泉〉とつながっていないからです。

ほんとうの安心感は、人と一緒にいるときに得られるような質のものではありません。
実際、人は人と一緒にいては、〈内なる源泉〉にたどり着くことはできないのです。
そのことは、おそらく〈内なる源泉〉にたどり着こうとしている人や、すでにたどり着いた人たちだけが知っていることですが。



わたしたちが人と関係を持つことは、自分の内にある「自分が認めていない隠された部分」に気づき、それらを受け入れることを学んでいくためには必要です。
すべての人間関係は、自分の中にある影の部分」だと言ってよいでしょう。
たいていそれは発育不十分(未熟)の部分であって、自分が認めたくない嫌な部分です。
それに目を背けずにしっかりと見つめ、認めるということは、すなわち自分自身を丸ごと受け入れるということです。

光の部分も影の部分も、すべてひっくるめて愛するのです。
それができたら、もう関係性による学びは必要ではなくなります。
もう他人を必要とはしなくなるのです。
それだけではありません。自分が他人に必要とされたいという気持ちも消え失せるのです。

★自分自身の中で、光と影が、善と悪が、男性と女性が出会い、統合されてひとつになったとき、わたしたちは自分が〈内なる源泉〉とつながり、一体となっていることを感じます。
独り立つ者」とは、そのような〈男女両性具有を成した人〉のことなのです。

そうすると、もう孤独を恐れることはないし、ほかの何をも恐れることはなくなります。
そして、ひとりでいることの至福を感じることができるのです。


イエスは言います。
「選ばれて独り立つ者は幸いである。
その人は〈王国〉を見いだすだろう。
なぜなら、人はそこから出てきて、ふたたびそこに戻ることになるからだ」



自分自身であること(独りあること)を選んだ人は、絶対的な自由を獲得し、自分がやってきた〈命の源泉〉に再び戻っていくことができるのです。
       

自分自身を信頼し、愛し、ひとりでいることの喜びを感じられたなら、もう彼や彼女、あるいは悟った人や宗教家たちに依存する必要はありませんね。
人に依存することなしに、自分自身のほんとうの愛を実現することができるのです。

独りあること…。
単独者となることこそが、天国に入るための必要条件なのです。


自分自身を征服すること―天国に入るための必要条件 

2010年12月24日 19:00


イエス、言う。

「人々は、私が世界に平和をもたらすために
やってきたと思っているかもしれない。

彼らは、私が地上に分裂を、
火を、剣を、闘いをもたらすために
来たことは知らない」



今日はクリスマス・イブですね。
明日は、イエス・キリストが生まれた日ということになっていますが、「12月25日がイエスの誕生日ではない」ということくらいは、皆さん、ご存じですよね?

真の誕生日でもないのに、どうして世界中で盛大なお祝いをしているのか、首をかしげたくなりませんか?
クリスマスツリー、クリスマスケーキ、クリスマスプレゼント……。
それにかこつけて、さまざまな業者たちが金儲けをしているくらいのものですね。
真のクリスチャンなら、静かに祈りを捧げるのみでしょう。


           祈り
                    祈り



わたしはクリスチャンではありませんが、ここのところずっとイエス・キリストのことを書いています。
イエスはポジティブで、動きがあり、かがやきを感じます。
彼の情熱と激しさ。
それをすっかり忘れている人たちに、思い起こさせてあげたい…という気持ちが、おそらく今のわたしには強くあるのでしょう。


イエス、言う。

「人々は、私が世界に平和をもたらすために
やってきたと思っているかもしれない。

彼らは、私が地上に分裂を、
火を、剣を、闘いをもたらすために
来たことは知らない」



さて、上記のことばですが、またまたイエスはすごいことを言っていますね。
わたしたちは、一般的に「戦争は最大の悪」であり、「争い」や「憎悪」や「病気」は消え去らなければならないものだと思い込んでいます。
それらが無くなれば、平和になると…。

ところが、イエスは言うのです。
人々は、私が世界に平和をもたらすためにやってきたと思っているかもしれないが、私が地上に分裂を、火を、剣を、闘いをもたらすために来たことは知らない」と。

イエスは「自分は平和をもたらすためにやってきたのではなく、闘いをもたらすためにやってきたのだ」と明確に言っているのです。
いったいこれは、どういう意味なのでしょうか?


★ 偽りのマスターは慰めをもたらす ★



たとえば、あなたに今人間関係での深い悩みがあるとします。
いつも心が落ち着かないため、心の平安を求めて、そのことを誰かに打ち明けるとしましょう。
そのとき、あなたは相手が自分の気持ちをわかってくれて、同情してくれるのを密かに望んでいるのかもしれません。

それで、望んでいた通り、相手があなたに同情し、慰め、あなたの心に平安を与えてくれたとします。
そうしたら、あなたはとてもうれしくなり、「この人はとても善い人だ」という評価をつけるのです。

しかし、今あるあなたのままで、心の平和、平安を得たら、どうなのでしょう?  
ほんとうにそれでよいのでしょうか?

あなたは今の自分の情況をただ慰められただけで、あなた自身を達成できないままで終わってしまうことになるのです。

あなたは変容できないままでいることになるのです。
それに気づかれたでしょうか?

和尚ラジニーシはこう言っています。

偽りのマスターはあなたの慰めとなり、今あるあなたに平和をもたらす。
彼はあなたを変えようとなどしない。
彼は一種の鎮静剤としてある。
偽りのマスターは睡眠薬のようなものだ。
彼のもとに行けば慰めが得られる


では、真のマスターはあなたをどのようにするのでしょうか?


★ 真のマスターはより大きな混乱をもたらす ★



真のマスターは、より大きな混乱を、より大きな葛藤をつくりだす。
彼はあなたを慰めなどしない。
なぜなら、彼はあなたの敵ではないからだ。
慰めはすべて毒だ。
真のマスターはあなたの成長を助ける。
成長することは困難なことだ。
あなたは多くの試練を経ていかなければならない。
幾度となくあなたはこの師から逃げ出したくなる。
だが、できない。
彼はあなたにつきまとって悩ます。
           「和尚ラジニーシ 愛の錬金術」より



★イエスのような人が現われると、人々は必ず分裂を起こします。

彼を受け容れる者と受け容れない者。
彼を肯定する者と否定する者。
彼を愛する者と憎む者。

彼の仲間になるか、敵対する者となるか…。
キリスト派か、反キリスト派か……。

人々は分裂し、混乱し、衝突します。
そして、相反する者同士の闘いがはじまるのです。

イエスが地上に現われた後、世界は平和になったでしょうか?
彼が訪れてから、世界に平和が訪れたことはなかったはずです。


イエス、言う。

「人々は、私が世界に平和をもたらすために
やってきたと思っているかもしれない。

彼らは、私が地上に分裂を、
火を、剣を、闘いをもたらすために
来たことは知らない」



★イエスはいったい何を伝えようとしていたのでしょうか?
彼は「魂の成長は、葛藤を通して達せられる」ということを伝えていたのではないでしょうか?

心の中の光と闇、愛と憎しみ、善と悪……。
分裂したふたつの世界に、日夜わたしたちは生きていますが、
そのふたつの苦しい闘いを通してこそ、内面での統合が起こるのだということです。


★ 火とは何を意味するのか? ★



★「火」は変容するために必要な道具です。

たとえば、冷たい「氷」を思い浮かべてみてください。
今のあなたは「氷」という「個体」状態で生きていますね。
四角四面の頑固な性質というイメージをすることもできます。

この「氷状のもの」に「火」という熱を加えると、どうなるでしょうか?
そう、「水」になりますね。
「水」はさらさらと流れる柔軟性のある性質と見ることもできます。
そして、下へ下へと下降します。

この「水」に対して、さらに熱を加えると、どうなるでしょうか?
そう、水蒸気になって、目に見えなくなりますね。
そして、上へ上へと上昇します。

でも、あなたという存在が消えてしまったわけではありません。
ただ、あなたの心の質、エネルギーが変容しただけです。

化学実験をするときには、火がなければ何もできませんよね。
新しい変化や変異は、火がなければ生じないからです。
よって、エネルギーを変容させるためには「火」というものが必要不可欠であることがおわかりになると思います。

★あなたは心のなかで、その内側で、火を燃やさないと、激しく燃やさないと、変化しないのです。


イエス、言う。

「人々は、私が世界に平和をもたらすために
やってきたと思っているかもしれない。

彼らは、私が地上に分裂を、
火を、剣を、闘いをもたらすために
来たことは知らない」



★戦争や病気……。
外側で起こっていることに目を向けているかぎり、あなたに真の平和、平安は訪れることはありません。

なぜなら、戦争や病気は外側にあるのではなく、ひとりひとりの内側にこそあるからです。
もし自分の内側の世界(心のなか)での闘いを経験していなければ、あなたは外側の世界で戦いをはじめるのです。

★もしあなたが内側での闘いに勝利したなら、もう外側での闘いは必要ではなくなるのです。
つまり、自分自身を克服、征服したなら、他者との闘いは消え去るからです。

自分自身を征服できない人は、自分の心に存在する「恐れ」や「不安」を他者のせいにし、他者にその責任をなすりつけます。
自分の怒りや憎悪を、他者という外側に向けるのです。

怒りを爆発させて、一時的に発散できても、またそれらは溜まっていきます。
そうすれば、また外側に向けて発散しなければならなくなるわけです。
自分のなかに溜まった汚物を外に投げ捨てるために、他者との闘いが必要だという悪循環です。



自分自身を征服した人は、もはや内側に葛藤がありません。
闘いはすでに消失したからです。
その人はもう二つに分裂はしていません。
ただ真ん中にいて、バランスがとれている状態です。 

内側での苦しい闘い」は、必要なのです。
成長は、苦しい闘いを通してしか、もたらされないもの」だからです。

つぎの和尚のことばを噛みしめてみてください。

慰安はゴールではない。
彼はあなたに偽りの平和を与えることはできない。
彼が与えるのはあなたの成長だ。
そして、その成長のなかから、いつの日かあなたは花ひらく。
その開花こそ本物の平和となるだろう、
真の沈黙となるだろう。




両方の極を見ない限り、この世界の真実の姿を見極めることはできない 

2010年12月27日 23:00


カテゴリ「男性性と女性性を統合する」を書き進めてきましたが、「男女両性具有が人間の究極の姿である」ということを、ご理解いただけましたでしょうか?

わたしが述べる男女両性具有は、「男性性と女性性の統合」のみを指しているのではありません。
そこには、「すべてにおける二極性を統合する」という意味が含まれているのです。

この世界には必ず相反するふたつのエネルギーがあり、現象があります。
光と闇、男性と女性、霊と肉といった対立するもの同士は、両極化をたどります。

でも、それらはいつでもどこでも存在しているものであって、電池のプラス極とマイナス極のごとく、どちらが善くてどちらが悪いというものではありません。
両者に優劣はなく、どちらもこの世界になくてはならない必要不可欠なエネルギーなのです。

地球をつつむ銀河系宇宙に、相反する二元性が存在しているのと同様に、人の心にもそれらは内在しています。

優越感と劣等感、自立心と依存心、能動と受動、論理と直感、信頼と懐疑など。幾多の二元性から成り立っていますね。
一般的にはどちらかに偏っていることが多いようですが、それでも二律背反の葛藤に悩んだ経験は、だれにもあると思います。

そんなふうに、「だれにも光の部分と闇の部分が必ず存在している」にもかかわらず、自分はポジティブ志向だからと言って、ネガティブなことには一向に目を向けようとしない人たちがいます。
そういう人たちは自分の心のなかに存在する闇の部分を見るのが恐く、認めたくないために、その行為から逃げているのです。

彼らには、「光は善で、闇は悪」、「プラス志向は善にして優越」、「マイナス志向は悪にして劣等」という激しい思い込みがあります。
これは、道徳にこだわる人や宗教を信仰している人たちに多くみられるようです。
神は光で善なるもの」、「悪魔は闇で悪なるもの」というふうに…。

そういう考えに陥り、自分の内奥に闇の部分があるにもかかわらず、決して目を向けないという行為自体、ポジティブとは言い難く、そういう人こそネガティブ志向なのですが…。


★ 神と悪魔は一個のコインの裏表 ★
 

―両方の極を見ない限り、この世界の真実の姿を見極めることはできない― 


過去記事「宇宙創造主のもくろみ その1」で、最初全体でひとつであった〈大いなる宇宙の意識&意志エネルギー〉が分裂し、〈二〉を生んだことをお話ししました。

〈二〉が、もとは〈一〉なるものであったと考えることで、この宇宙に存在する対立物は、すべて〈大いなる宇宙の意識&意志エネルギー〉の側面であるということがわかります。


つまり、神と悪魔の出所は同じだということですね。
それを一個のコインの裏表と考えることもできます。
コインの表が神なら、裏は悪魔だということです。

表があれば、必ず裏がある。
裏のない表というものはない。
これは、宇宙の秩序であり、法則です。



となると、善にこだわり、ポジティブ志向にこだわる人は、ものの半分しか見ていないということになりますね。
彼らは、この世界にはもう片方の極が存在していて、それもOKなのだということに、全く気づいていないのです。

★両方の極を見ない限り、この世界の真実の姿を見極めることはできません。
何度も繰り返し言ってきたことですが、真理とは全体であり、〈一〉なるものであるからです。

善と悪、神と悪魔は、白と黒のふたつにきっちりと区別されるものではありません。
それを思い起こさせてくれるのが、中国の「二つ巴(ともえ)型太極図」です。


      innyouzu
           太極図


白と黒でできた巴形のなかに、半分の白い部分には黒の点が、
半分の黒い部分には白の点が表されていますね。

黒は陰なるもの(夜、大地、女性、静、受動)などの代表であり、
白は陽なるもの(昼、天、男性、動、能動)などの代表です。

それらの陰陽は、いずれもけっして完璧ではないことを示しています。
なぜなら、それらふたつの巴の中には、互いに互いの対立物が点として混入しているからです。

陰は陽に向かい、陽は陰に向かい、ふたつは限りなく回りつづけています。
どこからどこまでが陰で、どこからどこまでが陽なのか、
陰と陽の境目がどこにあるのか、断定することなどできません。

この未熟なままの陰陽ふたつの巴は、互いに補い合いながら合体し、
一個の統一された円を描いているのです。
見るからに美しい図ですね。

善悪は、陰陽と同じで、相対的なものです。
絶対的な善悪というものはありません。


道徳家は、どこからどこまでが善で、どこからどこまでが悪なのか……
いったいどのようにして見極めるのでしょうか?


★ 善悪は人の立場で簡単に変わりうるもの ★



人は実に自己中心的です。
菜食主義者は肉を食べる人を悪だと思っています。
牛を食べるのが悪だという国があるかと思えば、豚を食べるのが悪だという国があります。
その国では善とされていることが、どこかの国では悪だとされているわけです。

善悪は人の立場で簡単に変わりうるものです。
昨日まで悪とされていたことが、今日から突然善に変わったりもします。
勝てば官軍」とはよく言ったものです。
まちがっていることであっても、すべて正しいとされるのが勝利者に与えられた特権です。
そうやって世界中の歴史が、勝者が変わるたびに摩り替えられ、都合の悪い部分は塗りつぶされ、闇に葬られてきたのです。

思うに、この世に絶対的な悪があるなら、初めからその存在そのものが許されないはずなのです。
存在しているということは、その存在が許容されているということにほかなりません。
宇宙はすべてが許された自由意志の領域として、デザインされているからです。

★〈宇宙の大いなる意識&意志エネルギー〉がすべてを創造した創造主である限り、「悪魔の性質は創造主のなかにも内包されている」ということを、決して忘れてはなりません。
善いとか、悪いとかは、人間の観念です。
宇宙自体には、善も悪も無いというのが真実でしょう。



しかし、世界中にある宗教は善悪を教えています。
キリスト教も然り、仏教も然りです。
物事を「善と悪とに区別」し、「悪を為さず善を行なえ」と教えていますね。
それは道徳であって、宗教ではないとわたしは思っています。
なぜなら、真理を正しく伝えていないからです。


何が善で何が悪かはだれにもわからない。
実際何も善ではないし、何も悪ではない。
存在はひとつだからだ。
いかに二が存在しえよう?
それらはすべてひとつだ。

善は悪に変わり、悪は善に変わる。
何がどうなっているのか人にはまったくわからない。
ものごとは絶えず相互に入れ替わっている。
あなたはそれを見守ることができる。
                    OSHOのことば



何が善で何が悪かわからない人間が、至極簡単に「善いことをして、悪いことはするな」と言えてしまうところに、深い驚きを感じるのは、わたしだけでしょうか?


正義を唱える戦争に「愛」はない

2010年12月31日 03:00


★ 正義という名の大義名分 ★



アメリカのブッシュ元大統領が「米国とその同盟国は、テロに対する戦争を勝ち抜く」と全米テレビで演説し、「すべての国はわれわれの味方になるのか、テロリストの側につくのか、どちらかを選択しなければならない」と議会で主張したのは、2001年9月11日に世界貿易センターに二機の飛行機が激突してからまもなくのことでした。

彼は多くの人々の命を奪ったテロを決して許さないとして、アフガニスタンへの爆撃を始め、ビンラディン氏を殺害することに日夜明け暮れました。そのために犠牲となった罪なき民は数知れません。

アメリカは「自衛権の行使」「国際テロ組織の撲滅」を謳い、「悪に対する制裁」だと信じて疑わなかったのです。
それは「正義のための戦争なのだ」と…。

目には目を、歯には歯を」ですね。
あなたがたの命の血を流すものには、わたしは必ず報復するであろう」と言った旧約聖書の父神さながらです。
「正義」という名の大義名分の裏にあるのは、まちがいなく「復讐」です。


ブッシュ元大統領は、熱心なキリスト原理主義者だそうですが、「右の頬を打たれたら、左の頬も出しなさい」というイエスの愛の教えはどこへいったのでしょうね。 
無抵抗主義など、すっかり忘却の彼方です。

イエスは「汝の敵を愛せよ」と説きましたが、キリスト教徒は悪と闘い、悪を裁き、悪を討ち滅ぼすべしと、思い込んできました。
悪魔を絶対的な悪とし、善悪二元論を説いているユダヤ教、キリスト教(教会)、イスラム教、ゾロアスター教などの宗教は、自分たちを善だと信じ、相手を悪と決めつけて叩きつぶそうとするのです。

彼らは悪をこの世から排除すれば、平和が訪れるものだと信じ込んでいます。
しかし、悪は外側にあるのではなく、むしろ人々の内側にあるものです。
そのことは過去記事でお話ししましたね。

★過去記事 自分自身を征服すること―天国に入るための必要条件 参照


個々の人間の心が調和に満ちていたら、戦争など起こるはずがないのです。
アメリカにとっては悪の根源のテロ組織ですが、テロ組織の方から見れば、アメリカこそが悪なのです。
互いに相手を悪だとして正義のために相手を滅ぼそうと、競い合っているわけです。

わたしたち第三者から見れば、どちらも極端に走っていて、正邪の判断がつきません。
なぜなら、かけがえのない命を奪うという点では、両者は全く同じ罪を犯しているからです。

人間は、昔から「正義の御旗」を振りかざして戦いを繰り広げ、多くの命を奪ってきました。
正義のために悪を滅ぼすのだ」と言われると、たいていの人は反論できなくなってしまいます。
正義」は「」とイコールだからです。
ですから、人々は神の名において、堂々と殺人を犯してきたのです。


人を一人殺すのは殺人犯で、複数殺すのは極悪犯。何万人も殺すのは英雄で、全て殺すのは神なのです。
神は悪魔よりもひどいことをしますね。

では、人間は神のためであれば、人間を殺してもよいのでしょうか? 
その行為は、彼らの言う「悪」にはならないのでしょうか? 

戦争に駆りだされて死んでいった戦士たちや、まちがって殺された民衆はもう戻ってきません。
その責任はだれがとるのでしょうか? 
神でしょうか? 

神の名において戦争を起こし、多くの人を殺したのなら、その責任は神にあるといってもよいかもしれません。
天にいる父神は、一体これをどう裁くのでしょうか? 

もしかしたら、父神は「そんなことは、おまえたちが勝手にやったことで、わたしは知らない」と言うかもしれません。
それこそ「神の名をみだりに唱えるな」とお怒りになるかもしれませんね。


★イスラム教は聖戦(ジハード)ということばをよく使いますが、罪なき人々まで殺戮して、それが「聖なるもの」であるという根拠がどこにあるというのでしょう。
人々には、殺される義務などはありません。
生きる権利があるのみです。



当時ブッシュ氏は「アメリカの味方になるのか、それとも敵になるのか、どっちだ?」と、世界中の人々に問いかけていました。
イラク攻撃の際にも、やはり同じ問いかけをしていたように思います。

★あれかこれか、どちらかを選ばなければならないというのはアリストテレス的で、西洋の思考形態です。
両極端で、真ん中がありません。
わたしたちはどちらも選ばないことだってできるのです。


★イエスは言っています。

裁くものは裁かれる。汝裁くなかれ」と。



裁くということで思い出しましたが、フランスを救ったことで有名なオルレアンの少女、ジャンヌ・ダルクは魔女だとして火あぶりの刑に処せられましたね。
でも、300年後には「聖女」だったと言い直され、今では〈聖ジャンヌ・ダルク〉となっています。
同じ女性が、魔女になったり、聖女になったり、「だれかさんの都合」で、極端に変わってしまうのです。

そこには、聖職者と呼ばれる人たちの保身と虚偽があるだけだと言っても過言ではないでしょう。
彼らは法衣という隠れ蓑をまとい、政治家同様に絶大な権力を持ち、長い歴史のなかで多くの人々を従えてきました。また、彼らにとって都合の悪い真実は一切公表せず、すべて闇に葬ってきたのです。


★ 宗教には、大きな表と裏がある ★



宗教には、大きな表と裏があります。
光が強ければ、闇もまた深いのです。



宗教的な人間は根本的な弱さを持っている」と和尚(OSHO)は言います。

他人を自分のようにしたい。
これは非常に危険だ。
これは暴力をふるうことだ。
他人を自分と同じようにしようとするのは醜い。
自分の観点をほかの者に説明するだけで充分だ。
それを、他人事に首をつっこんでは、自分の信じることを他人も信じるように強いるのは、
われわれがいうところのいわゆる精神的暴力に等しい
」と。

さきほどのジャンヌ・ダルクの例は、精神的暴力どころではありませんね。
教会は、人を悪魔という理由で、殺すこともできるのです。
神に創成された人間が、神に代わって人間を裁くことなど、傲慢が過ぎるのではないでしょうか。

イエス・キリストに対しても同様です。
彼は父神に裁かれたわけではありません。
同じ父神を信じる人間たちによって裁かれたのです。
「ルカによる福音書」には、十字架につけられたときに言ったイエスのことばが記されています。
父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」と。

(過去記事 死後姿をあらわした聖者たちとアセンションのお話 参照)

霊的に無知な人間たちに対するイエスのことばが、しみじみと伝わってきますね。
その後イエスは復活したという理由で「神の子」として崇められるようになっていきます。
しかし、真理がわからない者たちには、何を言っても、やはりわからないというのが真実でしょう。
教会とキリスト教は、イエス・キリスト本人とはまったく別のものなのです。


真実を見極められない人間が人を裁くことはできない 



★真実を見極めるのは、限りなく難しいことです。
世の中には冤罪(えんざい)が数多あるように思われますが、無実の人を罪に陥れていること自体が、大きな罪です。

目に見えるものしか信じず、真実を見極められない人間たちが、人を裁くことなどできるはずがありません。
「それなら、警察がいらなくなるじゃないか、罪を犯しても罰を受けないのなら、世の中滅茶苦茶になる」と言われそうですが、それはわたしたちが心配することではないと思います。

なぜなら、自分が蒔いた種は、必ず自分自身が刈り取らなければならないからです。
自分のしたことに責任を持つということが、この宇宙のルールだからです。
ともかく、だれが裁かなくても、自分が自分を裁くときが必ず来るということです。 
それが「アセンション」というひとつの大イベントを通して明らかになることでしょう。



★2010年も残りわずかとなりました。
この半年間にこのブログを訪れた人たちとの出会いに心から感謝したいと思います。
ありがとうございました。

今年最後のしめくくりとして、わたしの大好きなマイケル・ジャクソンのことばを、皆さんにお贈りしたいと思います。


  世界に愛を取り戻そう
  愛の大切さを思い出させるんだ

  互いに愛すること
  僕らはひとつだと

  そして地球を大切に

  I love you.



2011年にまたお会いできることを願っています。




最新記事