わが家はどこにある?―自己への探究

2012年10月01日 18:40


★今の時代に生まれているのは、魂の本体部分が多い★



人間の魂が「本体」と「分身」で構成されていることは、2010年7月15日の記事「あなたの分身たち」に書いておりますが、今のこの地球の過渡期に生まれてきている人間の80%が、その魂の本体部分であるといってもよいでしょう。
それくらい多いということです。

もちろん、本体部分が遠い別の銀河系などに行ってしまっている場合は、分霊が代わりに出ることもあります。
今ここで生きている皆さんは、けっこう責任重大なのです。だからこそ、今の自分の有様を見て、ほかの分霊たちの足を引っ張らないよう切磋琢磨していただきたいと思うしだいです。

今は過去生から引き継いできたカルマの解消のために、個々のいろんな問題が一気に噴き出してきている状態です。あまりにもその重みに耐えられずに、ダウンしかけている人、発狂寸前の人、あきらめの境地の人など、みなネガティブな泥沼に足を取られ、四苦八苦している様子がうかがえます。

皆さんはこう思っているかもしれません。

宇宙の長い周期のなかで、今ひとつの終わりがきて、新しいはじまりを迎えるという千載一遇のチャンスが訪れているというのに、このままでいいのか? 
いや、だめだ。このままでいるなんて、とても耐えられない。何とか自分の波動を上げて、この泥の中から出て、アセンションしなくては…。
そう思いながらも日々は刻々と過ぎてゆき、カレンダーを見つめながら、溜息をつく。だからと言ってこれといったことは何もできず、泥に浸かったまま思案ばかりしているにっちもさっちもいかない状態。

だれか、ここから出しておくれよ~! kaeru1

叫んでみても、だれも助けてはくれない。
なぜって、だれも、泥の中にいるのだから。
             

OSHOが、あるカエルの話をしておられました。以下はその話です。

そのカエルは村のぬかるみ道路のわだちの泥にはまりこんだ。
彼はわだちを渡ろうとしたのだが、そこから抜け出せなくなってしまった。
それはたいへんなことだった。いくら一生懸命やってみても、どうにもならない。
彼の友人たちも手伝った。彼らはできるだけのことをやってみた。
そのうち夜になったが、事態はまったく悪く絶望的だった。
そこで友人たちは彼を運命にまかせて家に帰っていった。

次の日、友人たちは彼が今頃死んでいるのではないかと思っていた。
なにしろ道路のわだちの上に残されていたのだから…。
そう思いながら彼らが行ってみると、なんと彼はあちこち跳びはねまわっているではないか! 

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彼らは訊いた。
「どうしたんだ! どうやってあのわだちから抜け出せたんだい。とても絶望的だったのに。これは奇蹟だよ! どうやったんだ?」

と、そのカエルは言った。
「何でもないさ! トラックが来たから脱け出なけりゃならなかったんだよ。むこうからトラックが走ってきたもんで、どうしたって脱けださなきゃならなかったのさ!」


危険がないときには、努力のすべてを注ぎつくすことはない。
もし死が見えたら、トラックがやってくるのが見えたら、あなたは自分の存在のもつあらゆる努力をそれに注ぐ。
そうしたら、あなたはわだちから脱け出せる。
あなたが今まで取り逃がしてきたのは、すべてを出さずに差し控えてきたからだ。

あなたはさまざまなことをする。
あなたは心半ばで瞑想する。それはぬるま湯的努力だ。
あなたはそれを通じて蒸発することはできない。
一定の温度にまで至らなければならないという法則がある。
至ってはじめて蒸発が起こる。

あなたはあれやこれやとやるが、自分でもそのなかに半分しか入っていないことを知っている。
半分しか入っていないとしたら、何ひとつ起こり得ない。トラックはまだやってきていないのだ。
あなたはわだちにはまっている。あなたの存在の半分は脱け出したがっているが、残りの半分は脱け出したくない。
あなたは自由になりたい。が、わだちはまたあなたに一種の保護をもたらす。保障をもたらす。
それは家のような感じがする。そこから出てゆくことはあまりに多大な努力を要し過ぎるようだ。



イエスは言っています。
探し求める人をして見いだすまでその探求を終わらせてはならない」と。
見いだすまで求めつづけなさい」と。

努力をつづけること。その努力をクライマックスまでもってゆくこと。
最高潮にまで…。


しゅうかいどう



★ 育ての母に感謝の気持ちを! ★



わたしの長女、次女の過去世を知れば知るほど、それぞれ大きなカルマを引きずってきており、「ホント大変だね」と思います。
彼女たちのような深いネガティブ系の魂が誕生するときは、なかなか親として受け入れる者がいないそうで、次女に言わせると、唯一ウエルカム精神があって、大手を広げて受け容れてくれたのが、わたしだったのだそうです。つまり、手がつけられないような変わり者の魂をもった子どもを産み、育てられるのは、それ以上の変わり者でないと不可能である(笑)ということなのです。
ですから、自分がおおいに変人で問題児であると自覚している人は、それでもあなたを受け容れてくれた母親の大変さを理解し、おおいに感謝することですね。そして、逆にあなたが大変な問題児を抱えている母親だとしたら、そういう子どもを受け容れたのは、それに対応できるほどの器をもった魂なのだと自信を持つことです。
そういう子どもたちによって、自分の魂がさらに練磨されていくと思えば、問題児もじつにありがたい贈り物なのです。

先日、長女の過去生の問題をよりクリアにするために、カードリーディングをしました。
現われた「問題となっているカード」について、なぜそれが問題となっているのかをさらに深く追求していったのですが、質問を変えても出てくるカードというのは、同じなのです。いくらかき混ぜようが、カードを切ろうが、いつも数枚の同じカードを引いてしまいます。そのカードが示す的確な意味と洞察力に長女は驚き、おおいに得心していたようです。
そして、その問題の根底には何があったのかという究極的な原因を突き詰めたとき、長女は非常に納得をし、これまでにない深い理解を示しました。その根の深さは、やはり過去世の環境や生き方にあったということです。

過去世は過去世、今生は今生で頑張ればいいと思っていても、過去世のカルマがあってこそ、今生生まれてきているわけですから、すっかり忘れてしまっていてはいけないわけです。現在の問題は、それを思い起こさせるために起きているといってもよいので、何事もそれに直面することから逃げずに、真剣に取り組むことが大切なのです。
無責任に遊び呆けて、カルマをクリアすることの努力もせずにいた人は、あちらの世界に還ったとき、「君は一体何をしに地球に生まれたんだね?」と皆から叱られることになるでしょう。
この時期にあなたが地球に生まれていることの重大さを知れば、毎日の生き方も自ずと変化してくるはずですね。

生まれる前に決意したことを思い出してください。
そのときは、とてもポジティブな気持ちだったはずです。
やる気満々だったということですね。
そうでなければ、こんな大変困難な人生を選ぶはずがありませんから。


これは、「気づきのコース」を受講された人にも言えることです。
皆さん、最初はものすごく前向きに「自己探究をしよう!」と思っていたはずですね。
受付終了日ぎりぎりになってから申し込んで来られる人もいました。そのときはもう最後だと思うあせりもあって、必死の想いだったはずです。だから、OKを出すとものすごく喜ばれて、「頑張ります!」という情熱とひたむきさがありました。
これは、今生に生まれてくる前に決意したときと同様の心境だったのではないかと思います。

ところが、レポートを書くか書かないうちに、くじけてしまう人というのが必ず存在するのです。誕生したとたんに「あ~、もういやだ。生きるのって、とても面倒だ!」ってことですね。
その日を忙しく生きるほうが優先されて、自己の探究が後回しになってしまった人、最初から書けないと投げ出した人、プライドが邪魔をして続けられなくなった人、さまざまです。

もちろん、コツコツと自己探究を続け、途中はサボっていたとしても、約束の月末にはきちんと最後のレポートを送り、「レポート終了」の宣言をされた律儀な人たちもおられました。
こういう人たちは、自分の人生にきちんとけじめをつけて終われるのだろうなと感じました。尻切れトンボではなく、「終わりよければすべて良し」ですね。
これがポジティブな生き方です。

この「気づきのコース」は、その人の人生そのものを、パノラマのようにズバリ見せてくれました。
いつも言っていることですが、すばらしい学びと気づきが生まれた人の文面から逆にいろんなことを学ぶことができ、わたし自身もとても貴重な時間をいただきました。その人の顔や肉体は見えませんが、その人の気持ちや魂の要求は、文面からものすごく伝わってくるので、逢って話すよりもむしろリアルに感じられたのだと思います。
魂の年齢は、肉体年齢とは、まるでちがいましたね。10代の少女のように若々しく思えた人の肉体年齢が40~50代であったり、まるで生徒と接しているような気分になることもありました。

魂の楽しい交流の機会を得られて、ほんとうにありがとうございました。
心から感謝です。



★ 必要なときに必要な人生の師がやってくる ★



ネガティブであってもポジティブであっても、自分に何らかの学びや気づきを与えてくれた人は、「すべてあなたの先生である」という話を、以前に記事でお伝えしましたが、覚えておられるでしょうか?

あなたが出会って大なり小なり学びや気づきを与えてくれた人、たとえそれがあなたを苛めていたネガティブな人であったとしてもです。それはそのとき、まちがいなくあなたに必要な人であり、ネガティブを通して最適の学びを与えてくれた人なのです。ですから、心から感謝することが大切です。

そのときは「この人こそ、自分の先生だ!」と思っていたけれど、あとになってから、「やっぱりちがっていた」と思ったりするのは大きなカン違いだと思ってください。そのとき、その人はあなたの最高の師であったことにまちがいはないのです。

なぜなら、その師をあなた自身が選び、引き寄せたからです。必要のないものが来ることはありません。偶然はないのです。すべて気づきと学びのための道具です。人生の内でひとつでも深く学んだことがあったなら、それを教えてくれた人はまちがいなく「あなたの先生」なのです。たとえ一時的であったとしても、そのときあなたに必要なことを提供してくれた人なのですから、丁重に敬意を表して立ち去るのが礼儀です。

人生のその時々において、その人に必要な師は現われます。学びが終了すれば、当然のことながらその師は必要なくなります。ですから、その人はその師から去っていくこととなります。そして、また必要であれば、つぎの意識の段階の師と出会うのです。


★ 本物の師とは? ★



かつて転々と「本物の師」を求めて彷徨っている年老いた知人がいました。
彼女は熱しやすく冷めやすい人で、すぐにその教祖の言うことを真に受けて熱烈に信仰しはじめ、その教祖が創った宗教団体に所属するのです。でも、またすぐに「やっぱり求めているのはここではなかった」と思い、まるで要らなくなったゴミくずをゴミ箱に捨てるような感じでその教祖から離れ、つぎに満足を与えてくれる教祖を探すのです。
そして、新しい師が見つかると、「今度こそは本物だ!」と言い、友人まで勧誘するのですが、やがて、「やっぱりちがっていた…」と言って、自分ひとりさっさと離れるのです。
次々次々…。

彼女は常に幻想を追い求める迷える羊でした。
本物の師に出会いたかった彼女の気持ちはわからなくもないのですが、本物って何なのでしょうか?
彼女の思う本物がどんなであったかはわからずじまいですが、自分の眼が外側にばかり向かっているあいだは、本物がどれなのかさえ見えなくなっていたのではないでしょうか。
内側に向かわなければ、本物が何であるか、わかりようがないのです。

もし彼女の眼が開いて本物の師を見いだしたなら、彼女は逆に逃げ出したかもしれません。
なぜって、本物の師の前では、自分を隠すことができないからです。
師の前では、彼女は一冊のひらかれた本のように見透されて、これまで偽りの生を生きてきたことがばればれだからです。だから、近寄ることが怖くて逃げるのです。

だれであろうと、本物の師から逃げようとしているときは、自分自身の真実からも逃げようとしているということを認識することです。

そして、本物の師であれば、自分の所を去って行く人を追うようなことはしないし、寂しいとも思わないでしょう。つぎとつぎとまた新たな必要性を感じる人たちがその師を訪れるからです。師は常に忙しいのです。
長年の弟子や信者たちがいつまでも師の元を立ち去らないことのほうが問題です。師の目的は、訪れた人たちがしっかりと自分自身をマスターして、早く卒業してくれることだからです。

もし、多くの信者や弟子たちを、いつまでも自分のところに残しておきたいと思う師がいたなら、それは真のマスターではありません。太古の昔に地球にやって来た執着心いっぱいの「自分だけが神になりたがりやさん」のETと同じです。
宗教の教祖はたいていそうですね。いつもいつも自分のほうを見て敬っていてほしいから、自分を信じて頼っていてほしいから、依存していてほしいから、あまり多くのことを教えないのです。
すべてを教えてしまったら、それこそすぐにお払い箱になるからですね。
いつまでも繋ぎとめておきたい。それは、自分の愛する子どもが、いつまでも子どものままでいてほしいと思い、自分自身のために子どもを手放せない「子ども依存症になった母親」に似ています。

弟子を持たないマスター。
そして、かつてOSHOが言っていたような「慰めではなく、葛藤をもたらすマスター」こそ、本物のマスターなのではないかと思います。イエスのような…。 

そして、わたしの勧める究極の真のマスターとは、じつは自分自身のハイアーセルフのことなのです。
ハイアーセルフに出会えたら、もう鬼に金棒です。
師は外側にではなく、自分の内側に存在していることを知ってください。



りんどう



★ 苦しい時の神頼みはもうやめましょう ★



人間はなぜ神を頼るのでしょうか?
人間を創造したのは神だから、ほんとうの意味の親だから、何でも知っている存在だからでしょうか?
ここで言っている神というのは、神社に祀られているような人格神のことであり、宇宙の根源エネルギーのことではありません。
日本には、親に依存している若者がたくさんいますが、親は真に依存する対象でしょうか?
いくら自分を産んでくれたとしても、成長すれば、親から離れるのが自然です。動物の母親は、子に狩りの方法を教え、生きてゆける術を授ければ、自ら子を切り離します。そうでなければ、一人前になれないからです。一人で狩りができない子どもには、死があるのみです。

わたしのブログを読んで、真に理解をした人は、もう外側の師を求めることの儚さを十分に知られたと思います。
神を求めない、師を求めない。だれにも依存しない。
信頼するのは、わが心のなかに臨在する宇宙の源としっかりとつながったハイアーセルフのみです。

OSHOは言います。
自分がなぜ師を求めているかその理由を探しなさいと。

彼はつぎのように言っています。

あなたはなぜマスター(導師)のところに行くね?
あなたのほんとうの理由は何だね?
あなたは真理を求めているのかね?

真理を、真実を求めている人はごくごく稀だ!
あなたは幸福を求めてはいるかもしれないが、真理を求めてはいない。
幸福は真理が達せられたときに起こるものだ。

もしあなたが幸福を求めているのだったら、あなたは真理を成就することはできない。
幸福は副産物だ。あなたはダイレクトにそれに至ることはできない。
それは真理経由でやってくる。
しかしもしあなたが幸福を求めたら、そのときには幸福は不可能になり、
真理は取り逃がされる。

100人の探求者のうち、99人は幸福を求めている。
彼らは苦痛を味わい苦しんできた。生はみじめだった。
彼らは解毒剤を探している、反対のものを探している。

幸福を求めて、イエスあるいは仏陀と共にあることは、
ふたたび彼を取り逃がすということだ。
あなたの眼は閉ざされている!



ハート
幸福と言う名のわが家を探さないことです。
そんなものはどこにもないからです。

それよりも自分自身を探しましょう。
それは、ほら、ここに、ひとつあるでしょう。





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