怒りの本質を見極める

2010年08月15日 18:40


★ 怒りの本質を見極める ★



あなたは「怒りは悪いこと」だと思っていますか?
悪いと思う人は、なぜそう思うのですか?
その理由は何でしょうか?
怒りは悪い」というのは、ほんとうにあなた自身から生まれた考えなのでしょうか?

世の中には、「怒りのような激しい感情はスピリチュアルではない」という誤解が蔓延(まんえん)しています。
宗教の多くが怒りを否定しているのも、その大きな原因のひとつです。
どの宗教(特に仏教)でも、「怒りは悪」と定義しています。

★しかし、イエス・キリストは自分の激しい怒りをあらわに表現した人です。
聖書の中にもそんな場面が多々があります。
下記はその怒りの描写のなかの一例です。


☆ユダヤ人の過越の祭りが近づき、イエスはエルサレムに上られた。
そして、牛や羊や鳩を売る者たちと両替人たちが宮の中にすわり込んでいるのをご覧になり、細なわでむちを作って、羊も牛もみな宮から追い出し、両替人の金を散らし、その台をひっくり返し、また、鳩を売る人々には『これらのものを持って、ここから出て行け。わたしの父の家を商売の家とするな』と言われた。
(ヨハネによる福音書 第2章13~16) 

☆イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。
人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。
イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。
そして人々にこう言われた。
「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」
彼らは黙っていた。
そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。
伸ばすと、手は元どおりになった。
ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。
(マルコによる福音書 第3章1-6)



イエスの怒りは、常に神に背を向けておごり高ぶる人たち、私利私欲に生きる人たちへの怒りであり、弱い人を踏みつけ、差別することに対する激しい怒りです。
また、律法という制限に縛られて生きているファリサイ派の人々に対して、これほどの深い愛の思いが相手に伝わらないことの哀しみに満ちた怒りであることを知ることができます。



怒りのエネルギーは純粋で、良くも悪くもない

 

怒りのエネルギー自体は純粋で、良くも悪くもありません。
ただ、そのエネルギーをどのように使うかによって、その結果が良くなったり、悪くなったりするだけのことです。


★強烈な怒りは、悪政や、まちがった常識を植えつけている指導者や社会全体に対して、変容を促すために必要です。
怒りは社会改革の力強い原動力となるのです。

怒りだけでなく、恐れや攻撃性なども、わたしたちが生きていくうえで必要な要素であるといえます。
なぜなら、もしそれらの感情がなかったなら、自分の身を守ることもできず、生きていくことができないからです。

恐れがあるから、身を守る術を身につけることができるし、
怒りがあるから、敵と闘うことができ、
攻撃性があるから、理不尽な他者の暴力から身を守ることができるのです。


それなのに、なぜ人々はやたらに怒りを捨てようと努力するのでしょうか?

それは世の中の人たちに「怒りは悪」と教え込まれてきたからです。
人々が信仰している教祖サマが「怒りは悪だ」と言うからです。
人々はそれに影響されて「怒りは悪」と思い込んでしまったのです。

もし、宗教が、教祖サマたちが、「怒りの感情を表現することはよいことだ。怒りを抑圧していると病気になる。だから、おおいに怒りなさい」と言っていたら、人々は怒ることをやめようと努力するでしょうか?


★あなたが「怒りは悪いこと」と思うなら、なぜ悪いのかをじっくりと考えてみることです。
★あなたが「怒りは良いこと」と思うのなら、それを実行してみることです。
★怒りそのものになってみなければ、怒りの本質はわかりません。


「だれかがそう言っているから」ではなく、自分で体感して、認識してみることが大切なのです。
何が良いか悪いか見極めのつかないうちから、「怒りは悪」と決めつけないことです。
それで自分の内側からやはり「怒ることは悪い」という結論が出たのであれば、それはあなたにとってそうなのです。
それはホンモノです。

怒りは有害だ」と自分で気づき、知るだけで、あなたは今までのあなたとは異なったあなたへと変容していることでしょう。
もう「怒るのはやめなきゃ」などと思う必要もないし、ガマンする必要もありません。
あなたはだれにも影響されないあなただけの悟りを手に入れたのですから。



相反するもの同士の状態は同じものの両端である

 

怒りや恐れ、憎しみを真に理解することなしに、
寛容や勇気、愛を理解することはありません。

怒りの性質を真に理解したら、寛容が生まれます。
恐れの性質を真に理解したら、勇気が生まれます。
憎しみの性質を真に理解したら、愛が生まれます。

何にも反対の面があります。
相反するもの同士の状態は、じつは同じものの両端にすぎないのです。
反対の状態は同じ線上にあって、そのあいだに、多くの度合いがあるだけです。



今日はメチャクチャ暑いなー。いったい何度あるのかな?
そう思って、あなたは温度計を見ることがあるでしょう。

0度を中心に前後40度くらいまでメモリがありますが、
どこからが暑くて、どこからが寒いというのか、わかりますか? 
どこに寒暖の境界線があるのでしょうか?
同じ温度計の一直線状には、ただ寒暖の度合いがあるだけですね。
明暗」も「陰陽」も同じことです。

精神界でも、同じ原理が働いています。
愛と憎しみ」は正反対の精神状態ですが、その度合いが異なるだけです。

愛と憎しみという両極端のあいだには、愛も感じなければ、憎しみも感じなくなるような点、
愛か憎しみかわからない状態、どちらでもない状態が存在します。

★もし憎しみを感じたら、反対の極であるに集中することです。
同じように、怒りを感じたら、寛容に集中するのです。
恐れを感じたら、勇気に集中するのです。

★ネガティブなことをポジティブに変容させるのは、自分の周波数を上げることで可能となります。


この原理は、わたし自身が自分の人生のなかで実感、体感して知り得たものですが、過去悟りに達した先人たちは皆その原理を知っていました。

何事においても、自分自身でそれを体験してみることです。
自分という人間を、他の人々の目を通して見ているかぎり、あなたは社会の固定観念を強いられ、コントロールされ、制限に縛られて生きることから開放されることはありません。

★あなたはあなた自身の道、あなた独自の道を見つけ出さなければならないのです。
なぜなら、あなたも、イエスと同様、神の子だからです。
神の子は、人の考えや意見に左右されることはありません。


ですから、怒りを感じたときは、怒りになりきってみることです。
深く味わってみることです。
とりあえず、怒りたい相手は抜きにして、枕でも叩きながら思いきり怒り、思いきり泣いてみることです。
そうしたら、ためこんできたものすべてを発散させることができます。
過去の一切の重荷から解放されるかもしれません。


ハート
まず抑圧をすっかり発散させること。
それは洗浄です。浄化です。

怒りは我慢し、ためこむものではないのです。
我慢し、ためこむから病気になるのです。

怒りは、来たら去っていくものです。
それが表にあらわされたなら、もう怒りはなくなります。

感情をせき止めてしまうことなく、
自然の川の流れのように、
いつもさらさらと流れていたいものです。






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