猫にちなんで―禅問答

2011年12月21日 03:30


★ 読者さんからのご質問 ★



~ 猫にもカルマがあるのですか? ~ 

以前に飼っていた猫の霊が、今飼っている猫に取り憑いている気がしてなりません。亡くなった猫の2回目の命日にやってきました。行動が同じです。寝るところ、お気に入りの鉢もおなじ、亡くなった猫の妹はまだ一緒に住んでいますが、その猫に飛びつくのも同じ。ただ、大嫌い同士です。 何から何まで同じ様な気がします。 私はその猫が亡くなってからいつも一緒にいてねと祈っていました。 今ではその祈りが大変な間違えだったのではないかと思ってならないのです。 猫にもカルマがあるのですか。

~ お答え ~


猫にもカルマはあると思いますよ。人間も動物も同じです。良いカルマであろうが悪いカルマであろうが、カルマがなければ、この世界に生まれ出ることはできないと、わたしは思っています。
その猫が亡くなってからいつも一緒にいてねと祈っていました」と書かれていますが、あなたの祈りはちゃんと聞かれていますよ。
あなたの亡くなった猫は、今もあなたのそば近くにいます。そして、新しく来た猫をコントロールして、あなたに気づかせようとしています。
つまり、同じ行動をあなたに見せているのは「ほら、ここにいるよ。気づいてね」と、あなたに知らせているのです。
あなたは、これからもずっとこの亡くなった猫ちゃんに自分の側にいてもらいたいですか?
そうでないなら、「わかったよ、ありがとう。また生まれ変わったら、わたしのところに来てね」と言って、その猫ちゃんが行くべきところに送りだしてあげてください。いつまでもそこにいるのは、ほかの猫のためにもよくないでしょう。
これで、お答えになりましたか?


★ 猫も人間も同じ ★



猫に限らず動物は、みんな意識を持っています。性質も違います。

うちにいるピャーラは思い癖が悪く、いつも悶々としているストレスの多い性質です。
ユニコがいつもわたしの膝に乗って、頭をなででもらい、気持ちよさそうにしているのを、ピャーラは嫉妬に満ちた眼差しを向け、物陰から半分体を隠した状態で、じっと見ています。(そこはわたしが座っているのが一番よく見える場所なのです)まるで「家政婦は見た」状態です。(笑)
それは台所でのことが多いので、いつのまにかピャーラには「家政婦」というあだ名がついてしまいました。

ミッチェルがたまにピャーラと同じところにいると、「坊ちゃんは見た」と冗談を言います。ただ、坊ちゃんの場合は自分が乗りたければ、ユニコが膝に乗っていようがおかまいなしに乗ってくるというずうずうしさがあります。ミッチェルはユニコの次に甘えん坊さんです。しかし、ピャーラにはそれができません。
猫の毛は愛情をもってなででやるほど、毛が柔らかくなり、つやが出ます。ユニコの毛はつやつやで輝いており、ミッチェルの毛は柔らかく光っています。でも、ピャーラの毛は元々柔らかいにもかかわらず、がさついているのです。

ピャーラがわたしの膝に乗ってくるのは、周囲に誰もいないときだけです。(子猫の頃からずっとそうでした)
そうしたいのに、みんなの前では素直にできないのです。ただし、わたしの前ではそうなのですが、猫同士となると、かなりわがままなのです。
ピャーラが寝そべっているところへミッチェルやリーラがやって来ると、必ずフーッと音を出し、不快感を露わにします。自己主張は誰よりも強いのです。
ユニコの場合は小さい子たちが来ても、そこを譲ってあげるだけの余裕がありますし、ピャーラのように怒ってその場を去ったりはしません。一緒に並んで眠っていることが多いのです。

猫はもっとも自分が気に入った場所で寝たがりますが、ピャーラは特にそれが強いようです。誰かが自分のお気にいりの場所で寝ていたりすると、すぐにのかせようとし、自分がその場所を奪ってしまうのです。ユニコがいつも寝ている場所でさえ、強引にのかせようとするので、ユニコがそれに対して断固として抗議をすることがあります。
ニャア、ニャア盛んにユニコが鳴いていると思ったら、いつも場所取り争いです。ユニコは仰向けになったピャーラのおなかを押さえつけ、ものすごい眼つきで、ピャーラの喉に向かって飛びつきます。それで、とうとうピャーラは起き上がり、そこから逃げ出すのです。そのピャーラをユニコはなぜか追いかけます。

戻って来た二匹はお互いに「もういいのでは?」と思うほど丁寧になめあって、さっきのケンカは何だったの?と首をかしげるくらいです。彼女たちのあいだでは、すでにケンカは終わっているんですね。
毎晩のように、それが儀式さながらにおこなわれており、しかもその場所はわたしの布団の上なのですから、ほどほどにしてほしいと思っていますが。

こんなふうに、猫も人間と同じようにいろんな性質をもっているのです。


      気持ちいいな 
       気持ちよさそうなユニコ  撮影 光の仕事人 




★ ある猫のあの世への旅立ち ★



このお話は、次女が中学生の頃に体験したことで、瞬時に猫の情報を読みとった貴重な内容です。
次女はあるメス猫が車にはねられた瞬間を目撃したことがあったのです。

その瞬間、次女はその猫になっていました。
はねられて、しばらくは意識があったのですが、「もうだめだ」と思ったとき、目の前が真っ暗になったと言います。
気がついたら、猫は自分の身体から抜け出たあとで、歩いても、フワフワと足が地に着いていない感じだったようです。
猫は地に横たわった自分の姿を見て一瞬「えっ?」と驚き、今の自分に起こっている状況に納得がいかないようでした。それで、そのあたりをしばらく行ったり来たりしていたと言います。
そのとき、猫は人間(次女)たちが「猫がひかれた!」と言って騒いでいるのを見ていたのです。

彼女には子どもがいたので、心配になり、子猫のところへ行きました。
次女が言うには、彼女は旦那のところにも行ったのだそうです。しかし、そのオス猫は、死後の世界がまるでわからない猫だったようで、メス猫はその旦那が言ったことにムカついて、キレたらしいです。
(何を言ったんでしょうね?このオス猫は。猫も人間も、わからないヤツっているんですよね)
キレたメス猫は再度子どものところに行き、「さようなら」を言ったのだそうです。子どもはそれを理解したようですが。

その後のことは、もうわからないと次女は言います。しかし、次女は自信を持って言っています。「猫も人間も同じなんだ」と。
肉体を脱いだ後は、猫であろうと犬であろうと、人間であろうとまったく変わりないということなのです。
このメス猫は、最初は状況がつかめなかったけれども、自分の死をちゃんと受け容れて、それを子どもに伝え、あの世へと旅立っていったのです。
賢いお母さんだったんですね。



★ 猫に仏性があるや否や ★



無門関 《南泉斬猫》のお話より


ある日、南泉(なんぜん)禅師の門下の雲水(修行者)たちが、二派に分かれ、一匹の猫について「仏性が有るか無いか」と言いながら論争していた。
そこに、南泉が左手に猫をつまみ上げ、右手に刀を持って、その場に現われた。


南泉斬猫
      「無門関」 南泉斬猫 より


さあ、誰でもよい、おれの前ではっきり言ってみよ。適当なことが立派に言えたら、この猫を放してやるが、言えなければこの猫を真っ二つに斬ってしまうぞ。さあ言え、さあ言え」と彼らに迫った。

師匠のいないところでは大きな声で法論を戦わしていた雲水たちも、このように問い詰められると答えが出ない。
誰も答えないから、とうとう南泉は猫の首をちょん切ってしまった。

趙州(じょうしゅう)が夕方帰ってきて、そのことを聞いた。
ひとりの学僧が趙州に尋ねた。
「趙州さまなら、そのようなときにはどうなさいますか」
趙州は門の外に出ると、履物を脱いでそれを頭の上に載せて出て行ってしまった。

ひとりの学僧が南泉のところに行って、趙州がこんな行動をしたと告げた。
すると南泉は、「さっきあの場に趙州がいたなら、猫の命は助かったのだが」と言った。




猫に仏性があるのか? ないのか?

皆さんなら、もうおわかりですよね?

ゴータマ・ブッダはこう言っています。
一切の衆生は悉く仏性を有す、如来は常住にして変易(へんやく)あることなし」と。

一切の衆生には、ことごとく仏性がありますよ、仏の本質というものは常住で、変わることがありませんよということですね。
衆生というのは「もろもろの生物(生類)」のことですから、「すべての存在が仏性である」とブッダは言っているのです。
衆生本来仏なり」です。(ただし、「本来は」ということで、「衆生=仏」なのではありません。そこには水と氷ほどの違いがあるということです)

一切の衆生は悉く仏性を有す。
だったら、猫に仏性があるかどうかなどと議論していること自体が、とても馬鹿馬鹿しいことですね。
こういうことを、昔から僧侶たちがやっていたのです。今も、こういうチョーお暇な御仁が数多いらっしゃいますが。


★南泉禅師は、なぜ猫の首をちょん切ってしまったのでしょうか?

南泉はこの雲水たちが自分の知っている世界にこだわり、その世界を主張し合っていたことに対して、彼らの頭を切り落とすという意味で猫の首をちょん切ったのです。

★「猫」とは何のことでしょうか?

思想、概念、認識、信仰などのもろもろの分別妄想のことです。思い込みの世界のことですね。
こういう分別妄想の出てくるもとは、頭(マインド)です。
またまた「」です。「マインド」が邪魔をしているんですね。

南泉は「なぜおまえたちは、そんなくだらない論議に溺れているのか? おまえたちの頭を斬り落とすことこそが先決だ」と言っているのです。
南泉は猫ではなく、ぼんくら雲水どもの頭を斬り落としたかったんですね。

趙州さんはと言えば、履物を頭に載せて出て行ってしまいました。
足に履く物を、頭に載せるなんて、気でも狂ったのでしょうか?
それって、何を表しているのでしょうか?

趙州さんは南泉禅師と同じ気持ちだったのです。

おまえらは、なぜ、「頭」で仏性のあるなしを論じているのか。おまえらが論争している「頭」というヤツは足の裏よりも劣る。いや、靴にも劣るぞ。おまえらが論じている世界は「頭」の上に靴を履いているようなものだ。

そんなことを表現しながら、趙州さんはそのくだらない「観念」と「知識」と「主張」の世界からさっさと出て行ってしまったというわけです。


★奇跡を見たら信じると言う者は奇跡を見ても信じない★



このブログの読者さんのなかには、見えない世界を自分の目で見て確かめないと信じられないという人もおられるかと思いますが、常に頭でものを考えている人にとっては、たとえ見えない世界を見たとしても、それが果たして本物なのだろうかと、またまた疑惑が生まれ、ぐるぐると回りつづけ、いつまで経っても出口が見つかりません。


29歳で光明を得たという韓国の素空慈氏はつぎのように語っています。

奇跡を見たら信じると言う者は、奇跡を見ても信じません。
見ないで信じる者は、奇跡を見て理解するでしょう。
そういう人は自ら奇跡を起こすことだってできるはずです。
奇跡は信じることによって生まれるものだからです。


見ないで信じる者は幸いなり」と、わたしも思います。
このブログの最初の時期(2010.6.22)に、こんな内容を書いていましたね。

★「見えることは信じられること」なのではなく、「信じられることは見えること」だということです。
また、今まで知らなかった新しい情報を得ることで、実際に認識できるようになるということです。
現実というのは、その人が信じているものが現われてきたものだからです。
「あなたがあなたの現実を創っている」といわれているのは、そういうことなのです。


過去記事 「信じる」と見えてくる不思議なお話 参照

つまり、あなたが信じれば、それは「ある」し、あなたが信じなければ、それは「ない」というごく単純なことなのです。


一休禅師はこう言っています。

ありと言えばありとや人の思うらん
答えてもなき山彦の声

なしと言えばなしとや人の思うらん
答えもぞする山彦の声



知ることなしに、どうして「霊的な世界は存在している」と言えるでしょうか?
知ることなしに、どうして「霊的な世界は存在していない」と言えるでしょうか?

霊的世界のすべてを感知できないわたしたちは、「わたしにはわかりません」「わたしは知りません」としか言いようがないのです。
それが真正で、真実で、正直な答えではないでしょうか。
わたしたちは「自分は知らない」という、そこから始めていくことしかできないのです。


ハート
頭(マインド)に翻弄されているのは男性ばかりが目立ちます。
南泉禅師の弟子ばかりではなく、悟りを得られなかった者たちはみな頭人間だったんですね。

ほんとうに今も昔も変わらないですね。
論理ばかりが先に立つ。
光の仕事人の剣で、頭をバシッと斬ってあげたいです。

誰かさんの頭をちょん切る代わりに、うちの猫の頭でもちょん切っておきましょうか? 
論理、観念、知識、主張……。
さあ、どの猫にしましょうか?






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