これからの男性の生き方を考える―武士道における〈仁〉

2011年08月25日 09:45


★ 読者のご希望に応えて ★



アンケートで、今後【 取り上げてほしい内容 】として、「これから 男性の生きる道」と書かれた30代の男性がおられたのを記憶していて、ずっと気になっていました。
このブログは女性の訪問者が圧倒的に多いので、どちらかというと、女性向きになっていると思います。
光の仕事人も、今生では女性として生まれていますし、(時々男性だと思い込む人もいらっしゃるようで、あとで女性と知って驚いたりされていますが。笑)これからは女性の時代だと思っているので、どうしても女性性の方を尊重、重視して書く傾向があるように思います。

それで「これから 男性の生きる道」について、何を書こうかと考えたのですが、日本の男性の象徴と思われる「武士道の精神」をベースとして、何回かに分けて書きたいなと思います。
なぜなら、「武士道」には男性の理想像がたっぷりと内包されているからです。
古きを温(たず)ねて新しきを知る」ということで、わたしは現在の男性には「武士道」の精神を思い起こすことが必要で、その探究をおススメしたいと思っております。


★ 武士道における〈仁〉



運命に任すという平静なる感覚、不可避に対する静かなる服従、危険災禍に直面してのストイックな沈着、生を卑しみ死を親しむ心…。

真に勇敢なる人は常に沈着である。彼は決して驚愕に襲われず、何ものも彼の精神をみださない。激しき戦闘の最中にも彼は冷静であり、大事変の真中にありても彼は心の平静さを保つ。


このような武士道に対して、「これらを寄与したのは仏教である」と、新渡戸稲造氏はその著「武士道」のなかで述べておられます。
もともと日本の武士の思想は神道理念から発祥したもので、儒教思想も取り入れられて徳川時代初期に確立したものだとされていますが、新渡戸氏が言われるように、武士の死生観はおおいに仏教、あるいは「禅」とかかわっているように思います。
おそらく剣の達人、剣の究極を極めた人は、多かれ少なかれ禅的な境地を体験しているはずだからです。

新渡戸氏は「最も剛毅(ごうき)なる者は、最も柔和なる者であり、愛ある者は勇敢なものである」というのは普遍的真理であると述べ、武士の情(なさけ)として、(じん)、惻隠(そくいん)の心が大切だと語っておられます。

〈仁〉とは、愛情を他に及ぼす(思いやり)という意味ですが、儒教では〈仁〉は一切の徳の中心となる美徳となっています。
惻隠(そくいん)は、あわれみという意味です。

「愛、寛容、愛情、同情、憐憫(れんびん)」は、古来最高の徳として、すなわち、人の霊魂がもつあらゆる性質のなかの最高のものとして認められていたということです。
弱者、劣者、敗者に対する〈仁〉は、特に武士にふさわしい徳として称賛されたのです。



新渡戸氏は「武士道」の第五章に「須磨の浦の激戦」での熊谷次郎直実(くまがやのじろうなおざね)と平家の美しい少年敦盛(あつもり)との物語を載せておられます。

この話は「平家物語」に記されており、また謡曲「敦盛」で演じられる内容です。あまりにも有名な場面なので、ご存じの方も多くいらっしゃることと思います。
いつ読んでも直実(なおざね)の優しさと憐憫の情に感動する悲しいと同時に心が暖かくなる物語です。
まだこの「須磨の浦の激戦」の場面をご存じない人のために、新渡戸氏の文面をできるだけわかりやすく訳して載せておきたいと思います。


★ 熊谷直実と敦盛の物語 ★



須磨の浦の激戦(西暦1184年)は我が歴史上最も決定的な合戦のひとつであったが、そのとき熊谷直実は一人の敵を追いかけ、相手をそのたくましい腕に組み伏せていた。
このような場合、組み敷かれた者が高い身分の人であるか、もしくは組み敷いた者に比べて力量が劣らない剛の者でなければ、血を流さないということが戦の作法であったから、直実は自分の組み敷ける人の名を知ろうとした。

しかし相手は名乗りを拒むので、兜(かぶと)を押しあげて見た。
すると、髭(ひげ)もまだない若者の美麗なる顔が現われた。
直実は驚き、手をゆるめて彼を助け出し、父親のごとき声をもってこの少年に「行け」と言った。
「あな美(うるわ)しの若殿や、御母のもとへ落ちさせたまえ。熊谷の刃は和殿の血に染むべきものならず、敵に見咎められぬ間にとくとく逃げのびたまえ」と。
だが、この若き武士は去るのを拒んだ。
そして、双方の名誉のためにその場にて「おのれの首を打たれよ」と、直実に乞うた。

直実の白髪の頭に振りかざしたる白刃(はくじん)は、これまであまたの人の玉の緒(生命の弦)を絶った刃(やいば)であった。
しかし直実の猛き心は砕けた。脳裏に彼の息子の姿が浮かんだからだ。
その息子は同じ日、初陣を果たすために出陣のホラ貝の音とともに駈け出していったのだ。

直実の力強い腕が震えた。
そして、もう一度逃げるように頼んだが、若武者はきかなかった。
やがて味方の軍兵の近づく足音を聞いて、彼は叫んだ。
「今はよも逃し参らせじ、名もなき人の手に亡われたまわんより、同じうは直実が手にかけ奉りて後のご孝養をもつかまつらん。一念弥陀仏、即滅無量罪」
一瞬、白刃が空中に閃き、振り下ろされたときには、その刃は若武者の血で紅く染まっていた。

戦が終わり、直実は凱旋したが、彼はもはや名誉を思わず、弓矢の生涯を捨て、頭をそり、僧衣をまとって、弥陀の浄土を念じ、西方に背を向けないと誓い、その余生を神聖なる行脚に託したのである。



新渡戸氏は、「この物語には作り話めいたところがあって批評家から非難を受けるかもしれないが、優しさ、憐憫、慈愛がサムライのもっとも惨慄(さんりつ)なる武功を美化する特質であることを、この物語が示すことには変わりがない」と述べているのです。

このように、〈〉すなわち〈愛・慈悲の心〉は、世界中で王者の道に必要不可欠な要素であり、サムライや戦士にとっても同様、最高の徳だとされています。
このことからも、男性であろうと女性であろうと、愛と慈悲の心を持つことは、まちがいなく必要で、それが高貴な意識であることがわかりますね。

今もなお無意味な戦いを繰り広げ、多くの弱い女性や子供まで殺害している世界中の兵士たちに聞かせたい話です。

この「武士の情け」については、ヨーロッパ文学のもっとも気高い詩のなかに見出されます。
新渡戸氏は、このよく知られた一節を日本の紳士に見せたら、躊躇なく、このマンチュアの詩人(古代ローマの詩人ウェルギリウスのこと)はわが国の文学を盗んだと非難するだろうと語っています。
下記の詩がそれです。


敗れたる者を安んじ、
たかぶる者を挫き、
平和の道を立つること
―これぞ汝が業(わざ)
   (新渡戸稲造著 矢内原忠雄訳)


敗れたる者を慈しみ、
おごれる者を挫き、
平和の道を立つること
―これぞ汝が業(わざ)
   (新渡戸稲造著 奈良本辰也訳)




うす紫の朝顔
   うす紫の朝顔 撮影 光の仕事人



★つぎのOSHOのことばを併せてお読みになり、愛の根の部分にフォーカスしてみてください。


私たちは愛の根に注目したことがない
そして花についてだけを語ってきた
私たちは人々に言う―
非暴力的でありなさい
慈悲深くありなさい
敵を愛するほど、隣人さえ愛せるほど愛にあふれていなさい―

愛の花については語るが
その根に関心を持っている人はひとりもいない

問題は……
なぜ、私たちは愛にあふれた存在ではないのかということだ
それは
この人、あの人、友人、敵に対して
愛にあふれているかどうかではない
問題は、あなたが愛にあふれているかどうかだ

あなたは自分の肉体を愛しているだろうか?
自分の肉体を気づかい、愛をもって触れたことがあるだろうか?
自分を愛しているだろうか?

あなたはまちがっている―
自分を正さなければならない―
自分が罪人だとすれば、聖人にならなければならない
―どうやって自分を愛せる?
自分自身をも受け容れることができないというのに―
自分自身を受け容れること―それが根だ!

プラスチックの造花は、いつまでも変化しない
プラスチックの愛は変化しない
生ある花は変化しないではいられない
刻一刻と変化してゆく
今日はそこにあり―
風に吹かれ、陽を浴び、雨のなかで舞っている
だが明日はもう見えない
それは
現われたときと同じ神秘さをもって消えてしまった

真の愛は生きた花のようなものだ

                By OSHO  




ユリ
 どこからか来て、自然に根付いて
         庭に咲いたユリの花   撮影 光の仕事人



                  

ハート
〈仁〉、すなわち〈慈愛〉は母のようであり、
女性的な柔和さをもった徳です。

〈義〉や〈勇〉を重んじた武士の精神に、
この〈仁〉が最高の美徳として存在するということを、
男性の方々に覚えておいていただきたいと切に思います。




これからの男性の生き方を考える―武士道における〈礼〉と〈誠〉

2011年08月28日 00:00


最初に、これまでブログの左側に設置していた「アンケートにご協力ください」が、昨日FC2ブログから何の予告もなしに、突然消えていました。
「どういうことか?!」
全くわかりませんが、とにかく元にもどしました。
こういう不本意なことが、この世の中には多く起こるのだということを知りました。
「アンケート」が消えて、「なぜ?」という疑問を持たれた方も少なからずいらっしゃったようなので、とりあえずお伝えしておきます。
「気づきのコース」以来、アンケートがなかなか送信できないという方々が今も尚おられますが、確認ボタンをクリックして「Loading(読み込み中) 」になったら、マウス操作ですぐに上方へと戻せば、記入した内容が確認できるはずです。それでOKなら、送信してください。


★ 武士道における〈礼〉と〈誠〉 ★



前回は「武士道における〈仁〉」について書きました。
今回は〈〉と〈〉について大切だと感じたことを、ほんの少しですが、触れておきたいと思います。

武士道には〈礼義〉が欠かせないものとされていました。

それについて新渡戸氏は、「礼の最高の形態は、ほとんど愛に接近する」、
礼儀は仁愛と謙遜の動機より発し、他人の感じに対するやさしき感情によって動くものであるから、常に同情の優美な表現である」と述べておられます。

つまり、〈〉とは、「他者の気持ちに対する思いやりを表現すること」であり、「最高の姿として愛に近づく」ものであるということです。 


つぎに〈〉についてですが、ここでは「武士の一言」について触れられています。

「偽りの証しを立つることなかれとの積極的なる戒めが存在せざるため、虚言は罪として審かれず、単に弱さとして排斥せられた。それは弱さとして、甚だ不名誉となされた」
とあります。
ウソをついたり、ごまかしたりはではなく、むしろ臆病だとされたというところが面白いですね。
武士は一度約束したことを違(たが)えれば、死をもって罪を償うということがなされていました。
八百万の神にかけて誓うということもおこなわれたようですが、真のサムライは〈〉に対して非常に高い敬意を払っており、誓いをすること自体が自分の名誉を傷つけると考えていたため、やたらに誓うということはしなかったようです。 


       白い朝顔
              純白の朝顔  撮影 光の仕事人



★ 〈礼〉か〈誠〉か ★



あるアメリカの著述家が「もし、普通の日本人に対し虚言を言うのと礼を失するのといずれを取るかと質問すれば、躊躇なく『虚言』と答えるであろう」と述べたとして、新渡戸氏はつぎのように記しています。

日本人に、あるいはいくらか教養あるアメリカ人にでも、彼が君を好まないかどうか、もしくは彼は胃病であるかどうかを質問してみよ。長く躊躇することなくして、「私は君を甚だ好む」とか、「私は大丈夫です、有難う」とか、虚言の答えをするであろう。
これに反し単に礼儀のために真実を犠牲にすることは、「虚礼」であり、「甘言(かんげん)人を欺くもの」であるとなされた。



つまり、日本人は、「ウソをつくこと」と「無作法であること」と、どちらを選ぶかと訊(き)かれたら、躊躇なく「ウソをつくこと」と答えるだろうと、そのアメリカの著述家は言っているわけですね。(あくまでもその著述家の見解であり、それが真実であるかどうかは別です)


これに対して新渡戸氏は、日本人やいくらか教養あるアメリカ人なら、たとえ相手のことが嫌いであっても、面と向かって「私はあなたのことが嫌いです」とは言わず、「好きですよ」と言うであろうし、「病気なんじゃないか?」と訊かれて、たとえ病気であっても「大丈夫、ありがとう」と答えるであろうということを言っているのです。

しかし、礼儀を欠かないために、つまり相手への礼儀を重んじるがために、真実を言わないのは、結局うわべだけの礼儀であって、「人の気に入るような言葉でだましている」と、みなされてしまったというわけですね。

日本人がそんなふうに「虚言」しか言えないというのは、「弱いから」、「臆病だから」ということになります。
特に武士の場合は、「虚言」は「不名誉なこと」ではあるけれども、「罪ではない」ということですから、やはり「礼節」のほうを断然重んじられたということでしょう。歯に衣を着せるのが、美徳だと考えられていたんですね。

新渡戸氏はこの「嘘」という言葉に対して、重みを置きすぎていると、このアメリカの著述家に対して批判的な見方を述べていましたが…。
さて、あなたはどのように思われたでしょうか?


★あなたは相手に失礼のないように、相手を不快にしないために、真実を語らず、礼儀のほうを重んじる人でしょうか?
それとも、相手に真実を語らないことのほうがむしろ失礼だと考えて、ほんとうのことを語る人でしょうか?
〉か〈〉か…。
こうして考えてみると、どちらを選ぶかは、けっこう難しいように思われるかもしれませんね。


★ここで、宇宙人的発想をお教えしておきましょう。(笑)

まずどちらを選ぼうと、相手(他人)の判断は気にしないことです。
どう受け取るかは相手しだいで、相手側の問題です。
だから、相手の反応を恐れないこと。結果を気にしないこと。
そして、とにかく、いつも自分自身でいること。
自分が後々心地よく、ポティティブだと思えるほうを選べばよいのです。

たとえば、「病気なんじゃないか?」と訊かれて、「私は確かに病気だけれど、今は大丈夫ですよ。ありがとう」と言うこともできますね。
また、相手が「自分のこと、好きですか? 嫌いですか?」と訊いてきたら、
感じたままを言えばよいということです。
嫌いなら、「嫌いだ」とはっきり言えばよいのです。
訊かれたから、正直に答えたのです。
ですから、それで相手が不快感を抱いたとしても、「だからどうなの?」ということですね。(笑)

次元が上昇するにつれて、感じていること、考えていることは、お互いに通じ合うようになります。
ウソはお見通しの世界となるのです。
ですから、本音を言うことです。
ただし、いつも愛のある状態で、自分の真実に対して責任をもって、本音を言うことですね。

★参考過去記事 カテゴリ「意識の変容」があなたを幸福へと導く 
「自分自身でいること」のお話   
本音で話すことの大切さ     
真の愛は、自分の真の姿を見せること



どちらか一方を選びたくない人は、〈礼〉と〈誠〉を併せ持った表現を、自分なりに考えてみられたらよいでしょう。
その時々の状況というものが問題なのではありません。
要は自分自身のあり方が問題なだけです。それだけのことなのです。




ききょう
      桔梗   撮影 光の仕事人 



★下記は、OSHOのことばです。


人々が真実について語り
それでも偽りの世界にとどまる理由は明らかだ
彼らのハートには確かに真実への願望がある
人は自分の姿を目の前にして
自分が真実でないことを恥じている
だから真実について語る
だが、それはただの「おはなし」―だ
真実に基づいて生きることはあまりにも危険だ
そのような危険を冒すことはできない

自由についても同じことが言える
話のうえでは、誰もが自由を望んでいる
だが実際に自由な人はひとりもいない
そして誰ひとり真に自由になることを望んでいる人もいない
自由は責任をもたらすからだ
自由はそれだけではやって来ない

また、依存することはたやすい
責任はあなたにではなく
あなたが依存している人にあるからだ

そこで、人々は分裂症的な生き方を作りだした。
真実について語り、自由について語る
そして偽りのなかで生き、隷属状態に甘んじる―
あらゆる種類の隷属に―
ひとつひとつの隷属が何らかの責任を回避させるからだ

真に自由を求める者は
途方もない責任を受け容れなければならない
自らの責任をほかの誰にも押しつけることもできない
何をするにしても、どうなろうとも自分の責任だ

                          by OSHO  



ハート
〈礼〉も〈誠〉も、人として大切な要素。
どちらを選ぶかは、自分しだい。

自分の望まないことをはっきりと知り、望むことを選び、実行していく。
これが、21世紀の「男性の生きる道」であり、
そして、また「女性の生きる道」なのではないでしょうか?




これからの男性の生き方を考える―サムライ・戦士の光と影

2011年08月29日 09:37


★ サムライが身だしなみに気をつけていた理由 ★



サムライがどれほど身だしなみに気をつけていたか、皆さんはあまり気に留められたことはないだろうと思いますが、ほんとうに驚いてしまいます。

山本常朝の「葉隠」には、男のたしなみとして、
写し紅粉を懐中したるがよし。酔い覚めか寝起きなどは顔の色悪しき事あり。斯様(かよう)の時、紅粉を出し、引きたるがよきなり」とあります。
切腹の際にも、死んだ後の顔が見苦しくないように、事前に紅をさしたようです。
顔色が悪くて、人に不快感を与えないために紅をさすというのは、現在の男性は考えもしないことではないでしょうか。
(いつもすっぴんのお姉さん方も、見習わなくてはいけませんね~)

また、武士は登城する前には必ず朝風呂に入り、その身をいつも清潔に保っていました。
毎朝髪を結い、ときには月代(さかやき)も剃り、季節に応じた礼服を着用し、刀や脇差とともに腰に扇(おうぎ)を差し、立ち居ふるまいに気をつけていたのです。(すばらしいですね!)

大道寺友山という人は、「武道初心集」で、
武士という者は、正月元旦の朝、雑煮の餅を祝う箸を手にしてから、その年の大晦日の夜に至るまで、毎日毎夜、常に死を心に覚悟することを心がけの第一とするものである」と述べています。

いつ死ぬかわからないからこそ、いつ死んでも恥ずかしくないように身を美しく保つことが重要とされたのでしょう。身だしなみに気をつけていた大きな理由のひとつが、そこにあると思います。

そして、常に死を意識していれば、いつもこれが最後だという気持ちで人に接することができるし、それだけに人を大切にもできます。(まさに一期一会の精神ですね)
死の自覚ゆえに貪欲もうすくなり、人品がよくなるというわけです。(一石二鳥!)
心身ともに健康な人が、毎日今日が最後だと思い、よい死に方を考えて生きるというようなことは、現代社会ではなかなか無いことでしょう。(そうありたいものですね)

武士の死生観が、彼らの心身や生活を厳しく律していたことは、残された過去のさまざまな文献から知ることができます。
サムライは、自分自身の精神と肉体を常にコントロールし、心理的にも肉体的にも苦痛に耐える訓練をし、その能力を身につけていったのです。
自己にも他者にも恥じない自分づくりに日夜励んだのです。
まるで僧侶並みにストイックな生活ですね。

文献では、すばらしい精神のもとに日々の生活を送っていたように記されていますが、実際の彼らの生きざまはどうだったのでしょうか? 
(サムライにもピンからキリまであるでしょうからね)
タイムマシンがあれば、見学してみたい気がします。(笑)


★ 恥と名誉 ★



サムライにとって、いわゆる「名」や「面目」、「外聞」というものは、大変重要な位置を占めていたようです。

新渡戸氏はつぎのように述べています。

廉恥心(れんちしん)は少年の教育において養成せらるべき最初の徳の一つであった。「笑われるぞ」「体面を汚すぞ」「恥ずかしくないか」等は、非を犯せる少年に対して正しき行動を促すための最期の訴えであった。
少年の名誉心に訴うることは、あたかも彼が母胎の中から名誉をもって養われていたかのごとく、彼の心情(ハート)の最も敏感なる点に触れたのである。


羞恥の感覚は人類の道徳的自覚の最も早き徴候であると、私は思う」と新渡戸氏は言っています。
そして、「恥はすべての徳、善き風儀ならびに善き道徳の土壌である」と言ったカーライルや、
羞悪(しゅうお)の心は義の端(はじめ)なり」と教えた孟子などの言葉を記しておられます。



花菖蒲2
    武士を思い起こさせる花菖蒲     
                  撮影 光の仕事人





★ 名誉に敏感すぎるサムライたち ★



サムライは、自分に与えられた〈侮辱〉に対しては、とても敏感に反応したようです。
サムライが〈名誉〉を重んじたために、〈名誉〉の名において遂行された争闘や殺害も多くあったということです。

極めてささいな〈侮辱〉によっても、短気な慢心者は腹を立て、たちまち刀に訴えて多くの無用なる争闘を引き起こし、多くの生命を絶ったということを、新渡戸氏は述べられています。
(現代でも、すぐにカーッと頭に血が上って、暴力に及ぶ輩は五万といますね。彼らは、そういう短気なサムライの生まれ変わりなのかもしれませんが)

恥辱に対する恐怖感が、サムライにとってどれほど大きかったかが、うかがえますね。
結局自信がないんですね。真に自信がある人は、何を言われたってびくともしませんから。
(わたしから見ると、侮辱されてすぐに怒って刀を抜くようなサムライは、ほとんど病気、あるいは乱心、とどのつまりは悪霊にとり憑かれているとしか思えません。笑)

よって、ささいな刺激によって立腹することは、〈短気〉として、嘲笑されたということです。(さもありなん!)

ならぬ堪忍するが堪忍」や「己を責めて人を責むるな」といった教訓の言葉があるのも、名誉を重んじるための行きすぎの行動を〈寛大〉と〈忍耐〉、〈我慢〉の教えによって相殺(そうさい)しようとしたわけです。

しかし、寛容、寛大、忍耐などの境地の崇高な高みにまで到達した人は、ごく稀であったと、新渡戸氏は述べています。
名誉は「境遇より生ずる」のではなく、「各人がよく自己の分(役割)を尽くすことにある」と真に気づいていたのは、ただ少数の知徳に秀でたる人々だけだったということなのです。
いつの世も、真に気づいている人というのは、稀少だということですね。


また、名誉を重んずる念は、「自己の生命をも絶つ」十分な理由となったようです。

名誉の失われし時は死こそ救いなれ、
死は恥辱よりの確実なる避け所


このガ―ス(イギリスの詩人)の言葉のように、サムライは名誉の問題や複雑な問題を解決するカギとして、〈死=切腹〉を受け容れたのです。



★ サムライ・戦士の光と影 ★



武士道」は、その文字の通り、〈武士の道〉であり、〈男の行く道〉です。
サムライ、すなわち〈戦士エネルギー〉は、〈男性エネルギー〉そのものです。
その特徴は〈攻撃性〉にあります。
力、技、正確さ、明晰な思考力、死の覚悟などがなければ、戦いに飛び込んでいくことはできません。
いったい何のために飛び込んでいくのでしょうか?

それは、大いなる〈正義〉のため、自己超越的な〈忠誠心〉ゆえにであり、個人的なエゴのためではありません。
これは、会社のために心身を日夜惜しみなく投入している現在の男性たちにも当てはまることではないでしょうか?
肩衣に袴というサムライのスタイルが、背広とネクタイに変わっただけですね。
さすがに刀はもっていませんが、代わりに携帯電話とパソコンをもっています。(笑)
彼らは仕事のために命をかける職業戦士といえるでしょう。


しかし、今現在の男性たちは、必ずしもこのような職業戦士であるとは限らないでしょう。
会社のためというよりは自分のため。かなり個人的なエゴで固まっている人たちも多く存在するように感じます。実際のところ、どうなのでしょう?
 

★「武士道」というのは、サムライのいわゆる光の部分を説いています。
しかし、かがやいて見えるサムライにも影の部分はあるわけで、特に女性側から見れば、こんな男たちを愛した女は悲惨であるといわざるを得ません。
ともかく彼らの愛の対象は〈戦い〉であり、〈仕事〉であって、けっして女性ではないのですから。(笑)



じつは、影の戦士の影響下にある男性は破壊的で、残酷なのです。
そのエネルギーが外に向けられた場合、仕事場では部下を冷遇したり、家庭では女性や子どもに対して暴力をふるったりして、虐待するのです。
そのエネルギーの方向が内に向かうと、臆病な自分自身を虐待することになります。

先ほど述べましたが、サムライは本来ささいな刺激によって腹を立てるのは恥とされ、忍耐づよくあること、堪忍することを強いられていました。
己を責めても人を責めるな」と教えられてきたわけです。
しかし、怒りたいときにも怒れず、泣きたいときにも泣けずでは、素直な感情の表出はできません。
それが爆発すると、ひどく残虐な行為に及ぶのです。
抑圧が最悪の状態を引き起こす」ということは、もう皆さんはおわかりですよね?


悪をくじき、正義のために剣をとる」などと言って、いくらサムライを美化したところで、究極の仕事は「人殺し」です。
自国を守るために、他国の人の命を奪うことは当然あります。
光の戦士であろうと影の戦士であろうと、剣を持って戦えば、結果的には同じです。

人を大根やニンジンのように、バサバサと斬りまくっているサムライというのは、決してカッコよくはありません。
ラストサムライ」という映画がありましたが、合戦の様子などはあまりにも悲惨で、眉をひそめたくなりましたね。
サムライのカッコよさは、あの場面にはありませんでした。

真のサムライは、やたらに人を斬り殺すということはしません。
相手が斬りかかってきたとき、やむなく相手の刀を奪う「無刀取り」という技がありますが、その精神に到達できたサムライこそ、真のサムライと呼べるのではないかとわたしは思っています。
(柳生流『兵法家伝書』〈活人剣〉に「無刀の巻」があります)

JIN-仁-』(村上もとかによる漫画をテレビ化)の主人公である南方仁(みなかた じん)は、戦(いくさ)で傷ついた戦士たちを敵味方なく介抱していました。
さすがに愛深く、「仁」という名前をもっている人だけのことはあるなと思い、感動しました。
敵と言っても、ただ敵側にいるだけのふつうの人たちであって、その人たちに対して恨みがあるわけではないのです。

問題があるのは、いつも戦を企てる大将や側近たちです。
悪者はいつも頂点に立っているだけで、自らの手を汚しません。
多くの人の命を無駄にしないためにも、闘いは大将同士ふたりきりでやってほしいものですね。
そうすれば、すぐにけりがつきます。(笑)

いつも死と向き合っていたサムライたち。
生のプロセスに明確な倫理観や宗教観をもっていなければ、なかなか生きづらかったのではないでしょうか。 (次回につづく)


ハート
戦士のエネルギーは、かつて葛藤の星であったオリオンから来ています。
サムライ・戦士は、オリオン帝国に対して元々「他者への奉仕」を実践していた人たちで、
その後帝国に反旗をひるがえした人たちの魂が転生したものだと思われます。
(これは、直観で得た内容です)

殿様に仕え、忠義を尽くすサムライの姿は、まさに「他者への奉仕」そのものです。
「自己奉仕者」は、まちがいなくサムライにはなれません。
自己にしか奉仕できない者たちは、一時栄華を極めるかもしれませんが、
やがて滅亡していく運命にあるのです。 

太陽系でも銀河系でも、何処も同じ。
これが、宇宙の法則です。




これからの男性の生き方を考える―少年(王子)がおとな(王)になるとは?

2011年08月31日 10:40


皆さんは子どもの頃、ディズニーの「眠りの森の美女」を読んだり、映画を観られたりしたことがあるでしょうか?
そこに登場する王子さまは戦士であり、いわゆるヒーローですね。
勇敢にドラゴンと戦い、勝利を治めたあと、百年間眠りつづけていたお姫さまを目覚めさせ、結婚します。

しかし、そのあと彼らが幸せに暮らせたかどうかは、謎です。
「王子と王女が結ばれてめでたしめでたし」というのは一時的なもので、「その後も一生幸せに暮らしました」なんて、ほぼありえないとわたしは思っております。
なぜなら、戦士である王子は、戦ってお姫さまを手に入れ、結婚することまではできるのですが、そのあとの家庭生活を営むことは、非常に苦手(笑)で、困難であろうと推測できるからです。


★ 王子が王女を幸せにできない理由 ★



なぜ? と、不思議に思ったあなた、なぜ王子は家庭生活が苦手なのだと思いますか?

それは、敵を征服したあとの平和なときをどう過ごしてよいのか、王子は学んできていないからです。
王子は敵と戦うために日夜身体を鍛え、ハードな訓練に耐えてきたのです。
そして、何よりも王子が愛するのは「戦うこと」なのです。(戦うのはひとつのゲームみたいなものなんですね)
特に少年ヒーローともなれば、スタンドプレイが大好きで、常に他人を感心させ、他者をコントロールしようと苦心します。

どうやって名誉を得ようかと、頭の中はそのことでいっぱいなんです。
まだ未成熟な坊やなのです。(そんな政治家や実業家さんたちが、世の中にはわんさか(笑)いますね~)
ですから、女性を一心に愛することなどできっこありません。(笑)

もし、万が一愛しでもしたら、最後です。彼は戦場に行けなくなってしまいます。おそらく他の戦士たちも皆同じでしょう。
こんなことを言うと、お叱りを受けるかもしれませんが、多かれ少なかれ、戦士たちは女性をメイドか娼婦くらいにしか見ていなかったのではないでしょうか。(これは戦士に限ったお話です)

昔のおとぎ話や、ヒーローとお姫さまの物語が、結婚式、あるいは結婚する直前で終わっているのは、無理もない話です。
そのあとを描いても、全然面白くも何ともないからです。(笑)
先ほど述べたとおり、実際に彼らの関係性はそこで終わりになるであろうと推察できます。

それまで王女を獲得するために命をかけて勇ましくドラゴン敵・悪者の象徴)と戦い、それに打ち勝って彼女を手に入れたにもかかわらず、彼は彼女をどう取り扱ってよいかわからず、戸惑っているうちに破局を迎えるのがおちなのです。
王女も、そんな王子にまるで魅力を感じることなく、「なーんだ。こんなにつまらない男だったの?」と失望するのは目に見えています。

男性が何か崇高なる目的に向かって、命をかけて真剣に邁進している姿に、女性は惚れ惚れとし、カッコよさを感じるわけで、毎日何もせずにぶらぶらして、一日中寝ころんでテレビを見ている亭主には、何の魅力も感じません。(笑)
ですから、物語の最後は「王子と王女は、とうとう離婚してしまいました。おしまい」というふうになるわけです。(ゲーム終了!)
非常にネガティブな後味が悪い結末ですね。

では、どうしたら、王子はポジティブな豊かな生産性のある方向へと向かうことができるのでしょうか? 
今回は、それを考えてみたいと思います。


     夏の花1
           可憐なトルコ桔梗  撮影 光の仕事人



★ 少年(王子)がおとな(王)になるとは? ★



王女を真に愛せないこのヒーロー(王子)は、破局を迎えたことで初めて自分自身に限界を感じることでしょう。
それまでは、自分に限界があることなど知らなかったのです。
不死身だと思っているんですね、ヒーローというのは。

一旦死んで、〈少年〉から〈おとな〉へと変容しなければ、彼は王女を真に愛することも、またわが子を愛することもできないのです。
真に成熟した男性は生産的であり、生殖的であり、養育するエネルギーに満ちあふれています。 
でも、王子にはそのエネルギーがありません。
要するに、愛する能力がないということなのです。



★「王子=少年ヒーローが一度死んで、おとなの王になる」とは、どういうことでしょうか?
そして、「死ぬ」とは、どういうことでしょうか?
(ヒーローの最期というのは、必ず「死んで天に召される」というシナリオがあるのです)

☆それは、低次の意識から高次の意識へと変容することです。

真に成熟した「おとな」とは、わたしなりの解釈でいきますと、〈精神的に統合された人〉、すなわち〈男女両性具有〉になり得た人です。
そして、〈本物の愛とは何かを知った人〉と言えるでしょう。

あらゆる面で統合され、自分に対しても他人に対しても愛(慈悲)の心を持ち、義務と責任を果たしていくことができる人。
混沌とした感情や制御できない行動をも安定させ、冷静沈着をもたらすことができる人。
豊かさと歓喜をもたらしてくれる人。


それが「王子=少年ヒーロー」が変容すべき「」の姿なのだと思うわけです。
未熟でダークな暴君ではなく、真の成熟したおとなの「王」です。
それは、肉体を鍛えるだけでは達成できません。
精神的、霊的な学びがおおいに必要なのです。



★ 日本のサムライが培った精神性 ★



日本には「武士の道」という倫理観があり、特に戦乱のさ中にいたサムライたち(戦国時代の武士)は、自らの心に恥じない、また他者の前に恥じない尊敬に値する人として生きなければいけないという自覚を深めてきました。「自敬の精神」があったわけですね。
そして、その「自敬の精神」をもって、儒教を受け容れたのだといえるでしょう。

儒教は人間の一員としての武士のあるべき様を説いており、それはサムライにとって、自分という者を「人間としてのあるべき人間たらしめる道」であったのです。
〉は、人間の本質のみならず、宇宙の本質へとつながります。
〉はそこ(宇宙)から定められてくるものだということです。
〉を重視するサムライたちが「至誠天にあり」と思うに至ったのは、深遠なる真理として、それを捉えていたからだと思います。
〉、〈〉、〈〉、〈〉など、一文字のみを思ってみても、ひとつひとつが深遠で、人によっても感じとるものは千差万別であろうと思います。

江戸時代に多くの学者たちがそれぞれの自説を語っていますが、「いかに人には考え方の相違があるか」ということがわかりますね。
(『南総里見八犬伝』には「仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌」がありましたね~。また、読みたくなってきましたよ。笑)


★ 今いったい何が大切なのか ★



戦う」という最大の目的がなくなった現在の男性は、〈精神性〉と〈霊性〉をしっかりと取り戻す必要性があるのではないかとつよく感じます。
(残念ながら、現在の男性には、崇高な精神性と霊性を感じることができないのです)
男性たちは、早くそれに気づかなければ、次元上昇は果たせないと思います。

★今いったい何が大切なのか―

これは男性だけでなく、女性にも伝えたいことですが。
アセンションがらみの外側に関する知識や、天変地異のネガティブなニュースにばかりに気をとられていないで、日常生活で人としてやる必要のあること、自分自身が今生でやろうとしていること(クリアする必要がある課題)に取り組み、それをしっかりとやってくださいよということです。

マインドばかりでスピリチュアルを理解しようなんて思ってもムダなことです。
実際に頭ばかりで考えている人は、わかったようなふりをしていても、ほんとうはわかっていないのです。
その人の言動をみれば、会得できているかどうかはすぐにわかってしまいます。
スピリチュアルは、ハートでしか理解できないことだからです。

今「武士道」シリーズを載せておりますが、少人数ながらワクワク感と共にとても賛同してくださっている方々がいらっしゃるのと、わたし自身がとても楽しんで書いているため、なかなか終わりそうにありません。(笑)

「大和魂」といわれた日本人らしさが消えた現在、この精神はほんとうに大切です。
随分昔に天河神社を訪れ、宮司さんとお話をしたとき、「今、真の武士の姿を描きたくて、時代小説を書いています」と言ったら、「武士道こそが、今真に必要な精神です!」とおおいに賛同してくださったのを思い出します。
もし、皆さんが、本体や分霊を含めて過去生で日本に生まれていたのなら、特に戦乱の世に生きていたのなら、「日本人独特の死生観」というものを持っておられたことと思います。
当時の人々は死を前にして、死を見つめることで、今いかに生きていくかを考えたのです。
次回はサムライの「覚悟」と、仏教でいう「悟り」について、フォーカスしてみたいと思います。お楽しみに。


ハート
自己中心に陥った王子や王女が多い世の中、
ひとりひとりが真の王となり、
真の王女となっていただきたいと願います。



これからの男性の生き方を考える―サムライの「覚悟」と仏教者の「悟り」

2011年09月02日 19:25


★ サムライの「覚悟」とは? ★



武士道と云うは、死ぬ事と見付けたり

この有名な言葉を残したのは、鍋島藩の武士であった山本常朝です。

過去記事「これからの男性の生き方を考える」シリーズの「サムライ・戦士の光と影」のなかで、
武士という者は、正月元旦の朝、雑煮の餅を祝う箸を手にしてから、その年の大晦日の夜に至るまで、毎日毎夜、常に〈死を心に覚悟すること〉を心がけの第一とするものである
という「武道初心集」に書かれた大道寺友山の文を紹介しましたね。
両者とも、サムライは毎朝毎夕、精神的に「死に死に」すること、「生きながら死と一枚になるよう努める」、つまり「死に切っておくこと」をススメているのです。

覚悟〉という漢字は〈〉と〈〉からできていて、どちらも〈悟り〉を意味しています。
けれども、サムライの〈覚悟〉というのは、仏教で言うところの〈悟り〉とはまるで別のものです。
では、サムライの〈覚悟〉と仏教者の〈悟り〉とのちがいとは、何でしょうか?

それは「悲壮感を伴うかどうか」ということのようです。

さとりが悲壮感を残さないのに対して、武士の覚悟が悲壮感をともなうことである。
悲壮なさとりとは言わないが、悲壮な覚悟とは言われる。死の覚悟はもっとも悲壮なものである


当時(1980年代)東京大学名誉教授(日本倫理思想史専攻)であった相良亨氏が、そのように述べておられたことを思い出します。
悲壮」とは、「悲しい中にも雄々しくりっぱなところがあること」という意味です。
つまり、サムライの覚悟には「崇高な悲壮感がある」ということなのです。


★ サムライに悲壮感があるわけ ★



では、「サムライの覚悟」には、なぜ「悲壮感」があるのでしょうか?

はっきり言ってしまえば、サムライには「死にたくない」という気持ちが残っているからなのです。
真にいつ死んでもよいと思って生きているのであれば、当然肉体や現実への執着はないはずです。
ところが、サムライは、そのような執着から完全に解放されてはいないのです。
つまり、「身命へのこだわり」がなお残されているわけですね。
それゆえに「悲壮感がある」ということなのです。

相良氏はつぎのように述べています。

思うに、のこされたこだわりはただ自分の身命に限られたものではあるまい。
たとえば、妻子とのきずなもこだわりとしてのこされていよう。
その妻子との絶対的な別離が悲哀をもたらすであろう。
しかし、死を覚悟した者は、いずれにしても、もはや、単なる現実への執着の次元にとどまるものではない。そこには執着をこえたものがある。
覚悟には、こだわりをのこしつつも、執着をこえたところがある。
したがって悲哀をともなうといっても、それは悲哀にくずれおれるものではなく、悲哀にたえ、悲哀をふまえて立つ悲壮さがある。
                                 相良亨著「日本人の死生観」より



上記は、わたしにはもうひとつピンとこない文章に思えました。
こだわる」という言葉には、「ちょっとしたことを必要以上に気にする。気持ちがとらわれる」、「 つかえたりひっかかったりする」、「 難癖をつける。けちをつける」という意味がありますが、どう考えても「こだわり」は「執着」の範疇に入るだろうと思うからです。
覚悟には、こだわりをのこしつつも、執着をこえたところにある」というのも、わかりづらいです。(笑)

わたしがこれを読んでまず思ったのは、もし「妻子との別離が悲哀をもたらす」ということであるなら、サムライは初めから妻を持つべきではないということです。
執着を残しそうなものは、最初から持たないほうがよいのです。
真の仏教者は、妻子や家を持ちませんね。りっぱなお寺を持ったり、妻子をもっている僧というのは、真の僧と言えるのかどうか、はなはだ疑問です。

サムライも僧も、本来は孤独であるのがベストです。
そうでないと、僧は心おきなく修行ができないし、サムライは心おきなく戦場へ臨めません。
しかし、サムライの誰もが妻を持たずにいると、サムライの子孫は絶えてしまいます。
つまり、サムライにはつぎのサムライを育てる必要があり、家の存続のためには、いやでも妻子を持たなければならない理由があったのです。

そんなふうに家庭を持たねばならないサムライが、常に死を覚悟して生きること自体、最初から無理があるわけです。
妻子を持つということは、けっしてこの世での生を否定しているわけではないからです。
妻子を持つ夫の命は、もはや夫だけのものではなくなっています。夫が死ねば、たちまち妻子の生活(生命)に大きな影響が及ぼされるからです。
ほんとうは生きたいのに、いざというときは死ななければならないのですから、悲壮感があって当然です。

こだわり、執着があり、この世に十分未練があるにもかかわらず、突然ふりかかってくる死に対しては、うろたえることなく、それと立ち向かわなければならないのですから、サムライは大変です。
その心の用意を〈覚悟〉と言っているわけですね。


★ 悟りに至れないサムライたち ★



武士道と云うは、死ぬ事と見付けたり」と、「死ぬこと」を武士のあるべき姿だと心に強く心に刻み込み、克己し、憤然たる意志を持ちつづけていなければ、サムライはとても平常心ではいられないでしょう。
そんな強い信念がベースにあって、大義のために戦うサムライたちは、神のために正義の御旗をふりかざして戦う信仰者たちの心情と何ら変わるところはないと思います。
死ぬことよりも、つい生きることのほうを選択してしまう。(だれもが、どちらかというと、やはり生きたいのだということ)
そんな人間の弱さに、必死で立ち向かうサムライたちの真の目標は、敵に勝つことではなく、己に勝つことではなかったかと思います。

そういう点で、サムライの生きざまは、それなりに評価できます。
しかし、もう一歩と言うところで悟りには至らず、やはり理想の男性像としては、物足りなさを感じてしまうのです。(笑)
やはり、人間には本物の悟りが必要だからです。


じつは、こんな話があるのです。
相良氏の著著には、「戦国の武士は仏教に関心をもつべきであると教えられていた」それと同時に、「あまり仏教に深入りしてはならないとも教えられていた」ということが記された箇所があります。
『碧巌録』は読むべきであるけれども、七巻までにとどめ、十巻全部読んではならないと教えられていたというのです。(「甲陽軍艦」で、武田信玄がそう言ったらしい)
なぜなら、『碧巌録』を十巻全て読むと、出家したくなり、武士を廃業したくなるからだというのです。

相良氏はつぎのように述べています。

武士の覚悟は、いわば、『碧巌録』十巻を読了してうる仏教者のさとりではなく、さとりにつながるものをもちつつも、なおさとりとはことなり、七巻にしてえられるもの、あくまでも現実の中に生きる者としての心のもち方であった。
武士の精神が仏教で養われつつ、武士の精神自体は仏教とはことなるものであるというこの質の転換は、覚悟の問題をはなれても、たとえば芸道などの場合においても、今後追究さるべき日本思想史上の基本問題の一つであるが、覚悟は、まさに端的にこの関係を示すものである。


つまり、最終段階で、サムライは「悟り」には到達しないのだということになります。
宙ぶらりんのままで、死んでいくということです。
これこそ、真の悲壮感を抱かずにはいられませんね。(笑)


★ 仏教者の「悟り」とは? ★



正覚者は、現世の執着から解き放たれたのですから、わざわざ覚悟などしなくても「」は自然に受け容れられます。
特に人生を「」だと感じていたゴータマ・ブッダは、この世の「」から開放されたくてしかたがなかったのですから、彼にとって「」はまさに「涅槃(ニルヴァーナ)」、祝福すべき理想の境地だったわけです。

ブッダに習う仏教者にとっての「この世の生」や、「世間とのさまざまな関わり」は、欲望ばかりで、少しも善なるものではないわけです。
ですから、サムライのように「覚悟」とか「悲壮感」はないのです。
サムライとは全く次元がちがいます。

近代の禅の高僧と言われた人で、死の間際に弟子たちに囲まれて、「何か最後のお言葉を述べてください」と言われ、「死にとうない!」と叫んだという逸話を読んだことがあります。
こういう人は、サムライの域をも超えていないということになるでしょうか?
この言葉を聞いた弟子たちは、実際のところどう感じたのでしょうか?
この師匠は「悟っていないな」と感じたのか、逆に「まさに悟った人だ」と受け取ったのか…。それは、謎です。(笑)



名も知らぬ花
         名も知らぬ花  撮影 光の仕事人


★つぎにOSHOのことばをプレゼントします。
悟り」すなわち、「光明」とは何かを、全身で感じてください。


光明とは、
自らの存在を認識し
自らの存在の永遠性を認識し
これまでも死は存在せず、
これからも二度と死は存在しない―
つまり死は虚構だということを認識することだ


あなたの存在をまったくあからさまに
完璧なまでの美しさのなかに見ること―
その荘厳さ
その沈黙
その至福
その歓喜
それらはすべて<光明>ということばのなかに含まれている

ひとたび、この豊潤さを体験すれば
マインドは、あなたに対する拘束力を失いはじめる
あなたが何か質的に途方もなく高いもの、満足できるもの―
計り知れない満足を見いだしたから
マインドは自分の役割が終わったと感じる

マインドはあなたに惨めさ、不安、心配しか与えなかった
だから醜く見える
マインドがあなたに貢献したものはいったい何だろう?
その拘束力はゆるんでゆく
マインドは影のなかに身を潜め、次第に姿を消してゆく

あなたは生きつづける
だが今やその生は、瞬間から瞬間へと生きることだ
そして無心というその小さな隙間で
あなたが副産物として得たものが成長してゆく
その成長に終わりはない

光明に始まりはあるが終わりはない
 
              
                  by OSHO




ハート

アセンションすることを願い、
どうしたらアセンションできるのかと、
必死でいろんなブログを漁ってきた人たちは、
最近は、もしかしたら、お金(物質)を欲しがるかわりに、
瞑想する時間を欲しがるようになったかもしれません。

宗教は教えてきました。
「この世のものを欲しがってはならない。それはつかの間のものだから。
あの世のものを願いなさい。それは永遠だから…」と。

しかし、これでは何も変わってはいないのです。
むしろ、貪欲さはさらに増しています。(笑)
これが物質次元の「放棄」と言えるでしょうか?
「次元上昇したい」という強欲が、あの世に移されようとしているだけのことです。
それを「精神の物質主義」といいます。

アセンションするという目的のために自己を浄化するのではありません。
日夜浄化していく中で、結果としてアセンションする自分になっていくだけです。
目的はあくまでも、自己の浄化です。

アセンションを求めていること自体、
その欲望が、
アセンションできない自分をつくっていることに
気づきましょう。



これからの男性の生き方を考える―死ぬ覚悟で誠実に生き抜くこと

2011年09月05日 17:20


★ 「葉隠」とは? ★



このところ、武士道や戦士を引き合いに出して、「男性の生き方」について考えてきましたが、このままだと「武士道談義」が延々とつづきそう(笑)なので、今回でとりあえず「武士道シリーズ」は終わりにしたいと思います。

皆さんは、「武士の聖典」とされている「葉隠(はがくれ)」を読まれたことがあるでしょうか?

男性女性にかかわらず、「男性エネルギー」を過去生で学び、体験してきている人は、興味が湧き、読まれているもしれませんね。
(近頃の男性は女性化しているので、別のほうに関心があるのかもしれませんが)
女性であるにもかかわらず、「武士道」精神に魅力を感じる人は、必ずどこか(過去生)で戦士エネルギーをしっかりと体験してきていると言ってよいでしょう。

ある女性がとてもこの「武士道シリーズ」の記事に刺激を受けておられたので、「あなたの分霊で、戦国時代の武将がいますよ」と伝えたら、確かに「もしタイムマシンで過去に行けるのなら、一番行きたいのは戦国時代だと思っていた」という返事がきました。
彼女はほんとうに戦国時代にしか興味がないようでした。(笑)

前回にも書きましたが、「武士道というは、死ぬ事と見つけたり」の言葉は、とても有名ですね。

葉隠」で、きわめて常識的な処世の知恵を披露している山本常朝(やまもと つねとも)という人は、江戸・元禄時代、佐賀の鍋島藩の二代目藩主、光茂(みつしげ)のお側役でした。
藩主が亡くなり、殉死が禁止されていたため、彼は頭を丸めて引退し、山里に隠棲しました。
後に彼の草庵を訪ねてきた田代陣基(たしろ つらもと)という若者が、山本常朝の後述を筆録した語録・回想録が「葉隠」なのです。


葉隠」に記された内容は、現代にも十分通用するので、参考のために彼の言葉をいくつか選び、現代語版(神子 侃 訳)で載せておきたいと思います。



極楽鳥花
         極楽鳥花  撮影 光の仕事人



★ 山本常朝の思想 ★



五、六十年以前までの武士は、毎朝、行水(ぎょうずい)を使い、髪に香をたきしめ、手足の爪を切って軽石でこすったうえ、こがね草でみがくなど、身だしなみをゆるがせにしなかった。とくに武具一式は錆をつけず、ほこりを払い、みがきたてて用意していた。

とりわけ身だしなみを整えるのは、伊達者(だてしゃ)のようであるが、そうした風流のためではない。今日は討ち死にするか、明日は討ち死にするかと必死の覚悟を決めていたからである。たしなみのない姿で討ち死にすれば、平生から覚悟していなかったことを敵に知られ、軽蔑されてしまうから、老若ともに身だしなみを整えたのである。
 
いかにも面倒で時間が無駄なようだが、これが武士のなすべきことである。面倒でも無駄なことでもない。

つねに討死の覚悟をし、死んだ気になって奉公し、また武術の鍛錬にも励むならば、恥をかくようなことにならないはずである。この点を考えようともせず、欲にかられてわがままに日を送り、事にぶつかって恥をかき、しかもそれを恥とも思わず、自分さえ満足すればよいなどといって、でたらめな行ないに堕してゆくのは、かえすがえすも残念である。平生から必死の覚悟をしていれば、どうして賤(いや)しい行動ができるだろうか。このへんのところを、よくよく工夫しなければならない。

三十年このかた、気風が一変し、若侍たちの対話でも、金銭のうわさ、損得の考え、暮らし向きの話、衣装の品定め、色欲の雑談、こういった話題ばかりである。そういう話題でなければ、みんな話に乗ってこないようになってしまった。困った風潮だ。むかしは若い連中でも、もともと賤しい根性がなかったから、そんなことはおくびにも出さなかったのである。年輩の者も、うっかりこのようなことを口にすると、しまったと後悔したものである。

これは、世の中が華美になり、生計にだけ関心を持つようになったからであろう。本来は、身分不相応な贅沢(ぜいたく)さえしなければ、生計などなんとかなるものである。
また、このごろの若い者に倹約心があるのを「世帯持ちがいい」などといってほめるのは、あきれたことである。しまり屋は、とかく義理を欠く。義理を欠く者は賤しいやつである。
                                    (「葉隠」聞書第一より)



★この後述は、常朝の基盤にある思想がよく表れているものであると思います。
彼は、「この世は夢」と言い、「」について、つぎのように語っています。


貴賎にかかわりなく、老若にもかかわりなく、悟っても死に、迷っても死ぬ。とにかく人間はみな死ぬのである。
このようにだれでも、やがては死ぬということを知らないのではない。だが、ここにひとつの逃げ道があるのだ。つまり、必ず死ぬと知ってはいるが、他人がみな死に果ててから、自分は最後に死ぬかのように考えて、さし迫ったことではないと思っているのである。はかない考えではないか。

また「あくせくしても仕方がない、すべて夢の中の遊びだ」などと思って、油断してはならない。死は、すぐ足もとに迫ってくるのだから、精を出して万事を手早くかたづけておかなければならぬ。
                                    (「葉隠」聞書第二より)



★現在は「戦(いくさ)」というよりも、天変地異がもっとも恐れる事象です。
明日大地震が起こり、大津波が押し寄せてくるかもしれないのです。
今回の台風でも、死ぬことなど予期もしていなかった人がたくさん死んでいますね。
浅はかな考えですが、たいていみんな「自分は死ぬかもしれない」とは思っていないんです。
「自分は絶対に死なない」と思っているのです。(笑)
このことを、「はかない考えではないか」と常朝は嘆いています。
常に死ぬ準備をしておく必要性が、このことからもうかがえます。

★武士道は「男の生き方」を示すものであって、女性に関してはあまり語られることはありませんでした。
語られても、不公平な思想で女性たちはがんじがらめになっていたと思います。
ここで、少し「男尊女卑」について触れておきたいと思います。



★ 男尊女卑の思想 ★



日本の武家の女性は、家父長制のもとで虐げられてきた一番の犠牲者であるとわたしは思っています。
特に江戸時代の女性の地位は驚くほど低かったのです。
儒教的色彩が濃かった武家社会では、「幼いときは親に従い、嫁しては夫に従い、老いては子に従うべし」という有名な「三従の教え」が浸透しており、女性に自由など一切ありませんでした。
いわゆる「男尊女卑」の思想ですね。
たとえ生まれの身分が高くても、女性は人として尊重されていなかったのです。
(興味ある人は「女大学」などを参照してください)

これは、キリスト教圏の国やイスラム教圏の国も、たいてい同じです。
男尊女卑の思想は、キリスト教会から発されています。
(この思想はイエス・キリスト本人とは全く関係ありませんから、カン違いしないようにしてくださいね)

もともとキリスト教は、それを提唱した人間たちが、男性優位に創り上げた思想であるので、女性が虐げられていたことに間違いはありません。
日本の場合、女性が男性ともっとも対等であったのは平安時代であり、それ以降武士の世の中に入ってからは、しだいに不平等となっていきました。

欧米では、紳士が淑女を優先して丁重に扱う「レディーファースト」という文化がありました。それ自体が不平等であると批判する人たちもいるようですが。
レディーファースト」の起源は、騎士階級の人々の道徳規範であった「騎士道」にあったといわれています。
その目的が全女性に対してと言うよりは、主に貴婦人に対してであったので、純粋に女性全体に対する「敬の心」から生まれたものであるかどうかは甚だ疑問です。

日本の場合、農民や商人の家に生まれた女性は、どちらかというと男性と対等に近い感じで生活していたように思われますし、武家の女性に比べれば、よほど幸せだったのではないかと感じます。

それを考えると、今現在の女性はあらゆることで恵まれています。
女性ならではの特権も行使できる時代です。
親や夫や息子に対しても、自分の意見をはっきりと言えるのですから、何も戸惑ったり、遠慮することはありません。
今は、逆に男性の方が戸惑い、遠慮しているのかもしれません。(笑)

★現代の男性は「生きる目的」が失われてしまっているような気がします。
仕事に情熱を傾けるというよりは、ただ家族のために稼がなければならないので、毎日仕方がなく働いているだけといった感じです。
ほんとうはもっとちがうことをしたいのに、それができない毎日で、ストレスだらけなのかもしれません。

今まで男性のコメントがなかったために、そのあたりのことがつかめません。
これからの男性の生き方」についての記事を求めておられた男性の方、読んでおられたら、ぜひ感想を送ってくださいね。
男性はもっと積極的に表現する必要があります。

山本常朝も、「四十歳以前は、知恵や分別など無用であって、むしろ積極的すぎるぐらいのがよい。人により、性格にもよることだが、四十歳をすぎても、積極性はやはり必要だ。これがなければ、気の抜けたようになってしまう」と語っていますよ。


★ここで、世の中の男性にお願いしたいことがあります。

それは、もっと正直な自分を表現しなさい!ということです。
世の中の諸悪にながされていてはいけませんよということです。
そして、いつも死ぬ覚悟で生活し、人には自分の誠実さを示すことです。

昔のように「誠実さ」と「責任」を誇りとする男性が少ないように感じるのは、わたしだけでしょうか?


桔梗
     桔梗  撮影 光の仕事人



★最後に常朝の語った「人生の極意」をお伝えしておきましょう。


人間の一生は、まことに短いものだ。
好きなことをして暮らすのがよかろう。
夢の間の世の中で、好かぬことばかりして、
苦しみながら暮らすのはおろかなことだ。

このことは、下手に聞かすと害になるから、
若い連中にはついぞ語ったことのない極意である。

私は寝ることが好きだ。
いまの境遇にふさわしく、
ますます出歩かないようにして、
寝て暮らそうと思う。
               山本常朝 「葉隠」より




ハート
わたしもまったく常朝さんと同じ心境です。
最後の四行は、おかしいくらいぴったしですね。(爆笑) 






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