支援する人、される人―その1 災害時に備えての心がまえ

2011年03月16日 18:50


★ 支援はケースバイケースでおこなう ★



このたびのような東日本の広い範囲にわたっての震災の場合は、多数の被災者が生きるために必要な水と食べ物と生活物資の支給が何よりも必要です。
しかし、今なお余震がつづいている状況では、救援活動をしている人たちにも被害が及ぶ可能性が高く、状況は非常に厳しいものとなっています。

3月16日(水)14時55分配信の「時事通信」には、つぎのような内容が載せられていました。

東日本大震災の救援で被災地に入った兵庫県警の第1次広域緊急援助隊約140人のうち約70人が16日、兵庫県に戻った。
1995年の阪神大震災の経験を生かして活動したが、播磨弘隆大隊長(52)は「津波警報が何度も出るたびに避難し、活動を中断した」と救助の難しさを語った。



★緊急援助隊でさえ活動を中断して、結局被災地をあとにしたわけですから、他府県からのボランティアなどはまだ行くべき時期ではないと思われます。
ありがたいはずのボランティアが、現地の人からすると、とても迷惑な存在になってしまう場合があるというのも、事実のようです。
日刊サイゾー」には、「災害現場の困ったちゃん!? ボランティアに求められる自己責任の大原則 」という過去記事が再掲載されていました。
ボランティア志願者への参考のため、その一部を紹介しておきます。


災害ボランティアの大原則は「自己責任」だ。
現地への交通費や宿泊費、食費などの必要経費は、いうまでもなく自分負担。
ところが現実には、「フラっとやってきて、『寝る場所はどこですか』とあたりまえに聞いてくる人が多い」(中部地方の某町役場職員)のも現実だ。
災害対策本部(市町村役場の総務課などに設置される場合が多い)に電話をかけてきて、「安い民宿を紹介してくれ」と宿の斡旋を求める人もいる。
徹夜で業務に追われることもある現地の役場職員が、全国からの宿の斡旋に対応していたらそれだけで業務はパンクしてしまう。
各自で確保するように説明する職員に「手伝いに行ってやるのになんという冷たい対応だ! だから役人はダメなんだ!」と逆ギレして周囲を呆れさせる例も少なくない。

(中略)

支援物資も大きな問題。
実は「救援物資は第二の災害」といわれるほど、現地にとっては厄介な存在なのだ。
全国から怒涛の如く送られてくる物資の整理は自治体職員らが人海戦術で行うしかなく、しかも利用価値がない物も大量に含まれている。
1993年北海道南西沖地震の被災地・奥尻島では、救援物資 5,000トンの保管のために1000平米の仮設倉庫を3,700万円かけて建築。
さらに仕分の結果、衣類を中心とする1200トンが不要と判断され、カビや腐敗など衛生面の問題から焼却処分となり、これに560万円の予算が投入された。

「とりあえず何か送ろう」という安易な支援ほど現地にとって迷惑なことはなく、実際に京都府災害ボランティアセンターのように「救援物資は現地の復旧作業の妨げになる場合があるので送らないように」とサイトではっきりと呼びかけている例もあるほどだ。

(中略)

まずはネットや電話で被災地の情報を収集し、危険度や必要な経費も考慮に入れながら行くかどうかを判断したい。
自己管理が原理原則の大切さを理解したうえで、その時自分ができると思う範囲で参加することが、災害ボランティアのあるべき姿といえるだろう。
(文=浮島さとし/「日刊サイゾー」2009年10月8日掲載)



★現在支援物資が被災地にながれたために、被災地ではない別のところで不足が生じ、生活用品などがなくなって困っている人たちが続出し始めています。
また、東京都内では買い占めの問題も指摘されていて、被災者ではない人たちがムダに多くの物を買いあさるという現象が起こっているようです。
一方に偏ると一方に不足が生じる。この両者のバランスをとるのが大変むずかしいですね。

ただ、頭の片隅に置いていただきたいのは、今は日本全体が非常時だといえるということです。
東日本だけでなく、西日本でも震災が起こる可能性はあります。
ですから、日本国中の人たちが個々に意識的になって、非常時に備えた生活を送ることが大切だと思うわけです。
すなわち、物質面はさておき、精神面に重きをおいて生きるということです。


「死ぬ前の意識レベル」がつぎの行き先を決める★ 



このブログを初めから読んでくださっている人たちは、「死に対する恐怖感」というものは、既にもっておられないのではないかと思います。
「肉体の死」はあっても、「意識は永遠に存在すること」をご存じのはずだからです。
ですから、肉体の維持ばかりに意識を向けるのをやめて、精神を鍛えることに専念していただきたいと思うのです。

たとえば、わたしたちが天変地変をはじめ、病気や怪我で死ぬときがやってきた場合、「どんな心の状態で死を迎えるか」ということがとても大切となります。

最期のときには、さまざまな思いが脳裏を駆け巡ることでしょう。
もし何か心に引っかかることがあって、そのまま死んだなら、その引っかかったことで、つぎのその人の行き先(誕生するところ)が決まるのです。

その人の人生がたとえ素晴らしいものであったとしても、死ぬ前の意識状態がひどくネガティブであれば、クリーンゾーンに行くとは限らないし、何か悪いことをした人生であっても、かならずしもダストゾーンに行くとは限らないということなのです。
死ぬ前に執着や囚われを捨てて清浄なる意識になれば、その清浄なる状態にふさわしい領域に行くのだということを忘れないでおいてください。


その人の「死に方」や「死ぬ前の意識レベル」が、その人のつぎの行き先を自ら決めるのだという詳細は、過去記事に記していますので、再度お読みいただきたいと思います。

★ 参考過去記事 ★

★「死ぬ前の意識レベル」が「あの世」の行き先を決める 
★「成仏」は死ぬ前にしておくもの―この世で悟っておくことが大切



★ 冷静で穏やかで、かつ強い精神をもつ ★



心というものは、環境からの影響を受けると、すぐに変化してしまいます。
常日頃やさしかった人が、突然よくない環境に入ると、その途端にやさしくない人になることだってあるのです。

わたしたちの現在の課題は、いつ環境が変化しても、どんな環境になっても、「冷静で穏やかな心の状態を保つこと」、「環境によって左右されない強い精神状態を保ちつづけること」ではないかと思います。

そして、いつも自分の肉体の死を覚悟して生きること。
それは、日本の古い武士道に見られた精神ですね。


運命に任すという平静なる感覚、
不可避に対する静かなる服従、
危険災禍に直面してのストイック的なる沈着、
生を卑しみ死を親しむ心……。

真に勇敢なる人は常に沈着である。
彼は決して驚愕に襲われず、何ものも彼の精神をみださない。
激しき戦闘の最中にも彼は冷静であり、大事変の真中にありても彼は心の平静さを保つ。



上記は新渡戸稲造著の「武士道」の一文ですが、このように「いつ肉体の死を迎えてもOK」だという冷静で穏やかな精神状態を保ちつづけることが大切です。
かつて日本人が持っていたこの強いサムライの精神を、男女を問わず思い出すことが必要なのではないかと思います。


支援する人、される人―その2 相手の力を弱めてしまわない支援を考える

2011年03月19日 11:20


★ 支援する前に考えること ★



まず支援しようとする人は、つぎのことをよく考えてみることが必要だと思います。
ひとつには、自分が相手に対して共感を得て、何かしてあげたいと思ったとき、「相手を真に助けるための最善の方法とは何だろうか?」と深く考えてみるということです。
それが、まずは食べ物であったり、生活に必要な物資であったり、ときにはお金であったりする場合もあります。
世界的におこなわれている支援、特に災害時の支援は、こういった物質的な支援が主ですね。しかし、これには限界があります。

たとえば、飢餓国に限って毎日どんどん子どもが生まれていますが、この人たちがおとなになるまで、またおとなになってからもずっと支援しつづけることなど、不可能です。
震災などの緊急時には、当面の食物と生活物資が不可欠ですが、長年にわたって難民生活を送っている人びとの場合などは、ただ物資を与えるのでは、何の学びもありません。
彼らには自立することを教える必要があるのです。
最大の援助は、相手が自分の足で立てるようにすることだからです。

たとえばアフリカなど、水がない地域なら、井戸を掘ることを教えたり、食物がないなら、農作物を作ることを教えたり、日本人はけっこうそういう支援をおこなってきていますね。
それらは当地の人びとが支援物資をあてにせず、自分たちで生きていくために必要なポジティブな支援です。

★相手を助ける最善の方法は、支援者側の意識レベルによっても変わり得るものです

ときには、難民たちが自分で自分のとるべき道を選び、自分の足で立ちあがり、しっかりと歩いてもらうことも必要でしょう。
そういうときには、わたしたちは何も介入しない(援助をしない)ということも大切です。
場合によっては、「放っておいてあげることが最高の贈り物となる」ということもあるということですね。
とにかく支援者は、相手に「自分のことは自分でする力をつけてもらうためにはどうしたらよいか?」を常に念頭に置いておくことが大切です。もちろん寝たきりの高齢者や重度の障害者に対しては別ですが。


★支援者のなかには、自分の人生で「だれかを助ける約束」をしてきている場合があります。
特定の相手に対して支援をしているような人は、たいてい生まれる前に相手と契約を交わしてきている場合が多いのです。
それは、両者の過去生の関係性を調べれば、わかることです。
たとえば、ヘレン・ケラーをサリバンが支援したように、また、ゴッホを弟が支援したように…。

ただ、どんな場合であっても、相手を甘やかさず、相手が自立していけるような方法で、最善の支援策を考えるということが大切です。


★ 相手の力を弱めてしまう支援とは? ★

 

『神との対話』という本に、つぎのような興味深い質問が載っていました。

★どんなときに支援の手を差しのべると、相手の力を弱めることになるんでしょうか? 
相手の成長をうながすどころか、じゃまになるのは、どんなときですか?


それに対して、「神と名のる存在」はつぎのように答えています。

あなたの助けが、自立ではなく、「ひとをあてにする気持ち」を助長するときだ。
相手が自立するのではなくあなたに依存しようとするのを、同情のつもりで許したときだ。
それは同情ではなく強迫観念だ。
その種の手助けとは、ほんとうは権力欲なのだ。
そのちがいは非常に微妙で、自分でも権力欲だと気づかないことがある。
相手を助けようとベストをつくしているのだと本気で思う……
だが、ほんとうは自尊心を満たしているだけではないかと、つねに自分を振り返りなさい。
相手に対する責任を引き受ければ引き受けるほど、あなたは相手に対して権力をもつことになる。
もちろん、あなたは良い気分になるだろう。
だが、そんな援助は、弱者をまどわす媚薬だ。

(二―ル・ドナルド・ウォルシュ著 『神との対話』 サンマーク社 参照)



★「ひとをあてにする気持ち」というのは、だれにでもあることです。
特に災害に遭ったとき、「何で私がこんな目に遭わなければならないのよ!」とまでは思わないにしても、
「緊急に救援活動をお願いします」から始まって、
「水が足りない。食物が足りない。物資が足りない。だれか何とかお願いしますよ」とか、
「物資はまだなの? なぜここには来ないの? 政府はいったい何をしているの?」となり、
最初は生きているだけでもありがたいと思っていたのが、しだいに「あれがほしい、これがほしい」と要求がエスカレートしていき、それが叶えられないと、どんどん不安と不満が募っていくわけです。
救援、支援されて当たり前、それに依存する…というようなことは、「カルマの法則」や「引き寄せの法則」を知らない、あるいは信じない人だからこそできることです。

「神との対話」で「神と名のる存在」が言っている通り、「ひとをあてにする気持ち」を助長したり、相手が自立するのではなく支援者に依存しようとするのを、同情のつもりで許すことは、けっして相手のためにはならないということです。
ですから、相手のいいなりになって、何でもしてあげなければならない(~すべき・~せねばならない)という思いは捨てることです。


★大変冷たい言い方になるかもしれませんが、その人たちを幸せにする義務など、だれにもないのです。
真の幸福は、自分の困窮した状態をほかのだれかに頼って解決しようとすることから来るのではなく、自分自身の内なる豊かさを育むことからやってくるからです。
 

このようなピンチに陥ったのは、自分の底力を試すチャンスだととらえれば、不平不満は絶対に生じないはずです。1個のおにぎりと少量の水がもらえたら、ただただ、ありがたいという感謝の気持ちが湧き起こるのみでしょう。

私事で恐縮ですが、わたしは旅先ではあまり食事をとりません。
特に一人旅の場合は、それこそコンビニのおにぎり1個と少量の水だけで一日中歩き回りますし、食べないときもあります。それで、元気が出ないかというと、逆に身軽で元気なのです。
小食に慣れていると、基本的につよいです。
だから、皆さんにも小食をおススメしています。
(過去記事「小食は地球を救う―その1 一日二食のススメ」を読んでくださいネ)

また、若いころ、自らを試すつもりで7日間断食をしたことがありました。
それも、家族の食事を作りながら、自分だけは食べないという厳しいものでした。
さすがに7日目には目から光が飛び散るような状態でしたが、死にませんでした。

人間は水さえ飲んでいたら、そう簡単には死なないものです。
光と水(プラーナ)だけで生きている人たちも存在するのです。
「食べ物を食べないと死んでしまう」と思い込んでいる人たちは、その通り食べないと死にます。
思いを制限していると、その通りになってしまうのです。

わたしたちは自らが思うところのもの」だからです。
心ひとつですべてを創る」からです。
すべてのものごとは自らの思いによってたちあらわれる」からです。 

思いの制限をひらいてください。

あなたが恐れと不安で震えていたら、心がネガティブエネルギーでいっぱいであれば、たとえおにぎりを3個与えられたとしても死んでしまうでしょう。
要するに、意識をどこに持っていくかのちがいです。
思いの方向をポジティブかネガティブか、どちらに持っていくかで、生と死が決まるのです。
まったく真逆の方向になるということです。


★ わたしたちにできること ★



★わたしたちが不運な人たちに何をしてあげられるか? と考えたとき、唯一できることがあります。

それは、自分自身が何者かを思い出させてあげることです。

あなたはだれなのですか?」と。

そして、どこから来たのかを、思い出させてあげることです。

あなたはどこからやってきたのですか?」と。

最後に、何をするためにここにいるのかを尋ねることです。

あなたはいったい何をするために生まれてきたのですか? 
ただ何もせずに人から与えられたものを食し、死んでいくのを待っているだけですか?
」と。

あなたは自分がだれであるのかを緊急に思い出す必要があります。それを思い出してください」と投げかけることです。

あとは、その人たちに任せればよいでしょう。
彼らの選択の自由を認めてあげればよいでしょう。

★わたしたちは、いつも自分の思考を現実化している創造者です。


わたしたちが災難に遭った人たちを、不運な人、可哀そうな人と思えば、彼らは不運な人、可哀そうな人たちになってしまいます。
わたしたちが自己満足のためや、だれかに認めてもらうために援助をするのであれば、援助を必要とし、それに依存するような不幸な人たちをどんどん創造していくことになります。

不幸な人を援助することで、さらに相手を不幸にしているのだとは、だれも思わないでしょう。
でも、そういう「逆の現実を創っている」という事実も、おおいにあるということなのです。
わたしたちはそういうことに気づいている必要があるということです。


どうか「相手の力を弱めてしまわない支援」をお願いしたいと思う次第です。




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