数秘で見るマザー・テレサの生涯 

2011年03月01日 13:50


あなたは*「マザー・テレサ」と呼ばれて、世界中に名を知らしめたひとりの修道女のことをご存じのことと思います。
1997年9月5日に亡くなりましたが、昨年にはマザー・テレサの生誕100年際も行われたようです。

(*マザー・テレサは1910年8月26日、アルバニアに生まれ、1997年9月5日に没するまで、カトリック修道女として、「神の愛の宣教者会(1950年設立)」を通じ、貧しい人、病める人、命の灯が消えかけている人に献身することに生涯を捧げた。1979年にはノーベル平和賞を、1980年にはインド最高の国民栄誉賞にあたるバーラット・ラトナを受賞。また没後の2003年10月19日、ローマ法王庁による列福と「福者カルカッタのテレサ」という称号が与えられている)



★ 手紙からわかったマザー・テレサの心の闇 ★



さて、マザー・テレサの生前の*書簡、すなわち、彼女が懺悔(ざんげ)聴聞司祭たちに送った手紙の内容が2007年に本として出版され、彼女の「心の闇」が明らかになりました。
そのために、彼女を批判する人たちが続出しましたね。(もちろん、彼女が生きているときにも、批判者は多くいたであろうと思われますが)書簡が発表された後は、彼女を信奉していたシスターやクリスチャンたち、また一般の人たちのショックはあまりにも大きく、世界中に大きな反響を巻き起こしたのです。

*書簡について……「神の愛の宣教者会」の司祭であったブライアン・コロディエチェク神父によって、テレサの書簡が一冊の本として出版された。
テレサがカトリックの神父たちとの間で交わした40通以上もの手紙には、生前は世間に一切知られることのなかった彼女の内面が赤裸々に綴られていた。
*2007年・DOUBLEDAY RELIGION発行 “Come Be My Light”  日本語版は「マザー・テレサ書簡集 平和をもたらすために」 片柳弘史訳 ドン・ボスコ社 絶版



★では、なぜ世界中に大きな衝撃と反響が起こったのでしょうか?

それは、手紙に綴られた彼女の心の内面と、常日頃人々に見せていた外側の彼女の言動とが、あまりにもかけ離れていたからです。
人々が、彼女を理想的なキリスト教信仰者・揺るぎない不動の信仰者と思い込んでいたからにほかなりません。
マザー・テレサが世の中(外側の世界)で見せていた姿は、そう思い込ませるのに十分だったのでしょう。
次のようなマザー・テレサの手紙があります。

「私の心の中に恐ろしい闇があるために、まるですべてが死んでしまったかのようです。私がこの仕事を始めるようになって間もないときから、このような状態がずっと続いています。」
(1953年 テレサ43歳のとき ペリエール大司教への告白)

「私の魂の中には、あまりにも多くの矛盾があります。神への深い思慕の情――神との触れ合いを渇望するその思いが、繰り返し私に苦しみを与えるのです。私は神から求められてはいません。神から拒絶され、虚しく、信仰もなく、愛もなく、熱意もありません。私の魂には何ひとつ魅力あるものがありません。天国は何の意味もありません。それは私には空虚な場所のようにしか感じられません。」
(1957年 テレサ47歳のとき ペリエール大司教への告白)

「主よ、あなたが見捨てなければならない私は、いったい誰なのでしょうか? あなたの愛する子供は今、最も嫌われ者になっています。あなたから求められず、愛されず、私はあなたから捨てられてしまいました。私はあなたを呼び求め、すがりつきますが、あなたは応えてくれません。闇はあまりにも暗く、私は孤独です。求められず、見捨てられて、私は独りぼっちです。愛を求める心の寂しさに耐えられません。
(1959年 テレサ49歳のとき ピカシー神父への告白)



★テレサは、「私がこの仕事(インド貧民街での奉仕の仕事)を始めるようになって間もないときから、このような状態がずっと続いています」と書いていますが、この「恐ろしい闇」は彼女がノーベル平和賞を貰った時も、そののちも、彼女が息を引き取る前までつづき、結局テレサはその闇を克服できないままで亡くなってしまったのです。
神の存在に対する確信が得られず、「イエスが自分から去ってしまった、もはやイエスに愛されていない」と感じ、孤独に悩みつづけたテレサ。どうしてこのような結果となったかを、わたしなりに考えてみました。


★ 軌道数9を生きたマザー・テレサ ★



1910年8月26日生まれのテレサは、数秘では《軌道数9》の人です。

9というエネルギーは主に「慈悲」や「人類愛」を表しますが、このエネルギーは基本的にはすべてのエネルギーを含んでいるので、現実的には非常に難しい数字だとされています。
9の学びは「信頼すること」と「手放す」ことにあります。

テレサ自身も、これらを学ぶために9というエネルギーのもとに生まれてきたはずです。
でも、結果的には「神を信頼すること」と「神を手放す」ことができず、その狭間で悶々と悩みつづけて生涯を終えたという感じで、結局そのエネルギーを完璧に学び、体験し、卒業するところまではいかなかったと思われます。

また、テレサの感情のなかには、学校の先生がいて、「このようにわたしは感じるべきだ」とか、「あなたはこうやるべきよ」とか、「正しい、正しくない」を常に感じている人であったことが数秘から読み取れます。(感情面が6)
また、彼女のチャレンジは、27歳~死ぬまで「6」という数字が続いていました。
これは「自分自身の真実に責任を取っていく」という非常に大変な課題が与えられていたということです。
テレサはその課題に押しつぶされそうになっていたのではないでしょうか?

ほほえみは仮面」だと告白していたテレサは、自分の外側での言動(人前では堂々と神の愛を語るテレサ)と内側での真実(神に見放され、愛を失っているテレサ)とのあまりのギャップに罪悪感を抱いていたであろうと思うのです。

テレサは、そういう自分自身を真に愛することができたでしょうか?
神にまで見放されたと思っている自分を、とても愛せませんよね。
そのように自分自身を愛せない人が、貧しい人たちをほんとうに愛することができると思いますか?

彼女はひたすらイエスのために、イエスを愛するがゆえに、貧しい人たちに奉仕をしてきました。それは厳密に言えば、イエスを愛するがためであって、貧しい人たち個々のためではなかったということです。

テレサは、つぎのように言っています。

もし貧しい人々が飢え死にするとしたら、それは神がその人たちを愛していないからではなく、あなたが、そして私が、与えなかったからです。
神の愛の手の道具となって、パンを、服を、その人たちに差し出さなかったからです。
キリストが、飢えた人、寂しい人、家のない子、住まいを探し求める人などのいたましい姿に身をやつして、もう一度来られたのに、私たちがキリストだと気づかなかったからなのです。

貧しい人々の中で最も貧しい人々をキリストご自身の姿として助けてゆきます。

私のもとへ来たシスターたちの仕事は、人の理解を超えています。
その仕事ができるのは、手を触れる相手が、神の子だからです。
つまり、貧しさにあえぐ人は、姿を変えたイエスなのです。

貧しい人々の中で最も貧しい人々は、人間の苦しみを負ったキリストにほかなりません。

私は、自分がふれるすべての人の中にキリストを見ます。
なぜなら、キリストが「私は空腹と渇きを感じ、私は裸で病気に苦しめられた。私は家がなく、あなたは私を受け入れた」と言っているからです。
ただそれだけのことです。
自分が一切れのパンを与える度毎に、実はキリストにパンを与えているのです。
私たちが飢えた人や裸の人を見つけなければなければならないのは、そのためです。
貧しい人々と完全に結びついているのはそのためです。



★このテレサの言葉を読んで、あなたはどうお感じになったでしょうか?

彼女は「貧しい人をキリストとみなすこと」で、奉仕ができたということですね。
そう思い込まなければ、彼女はとても奉仕などできなかったということになります。
(何度も修道院に戻りたい思っていたことからもうかがえます)


この世の最大の不幸は、貧しさでも病気でもありません。
自分が誰からも必要とされないと感じることです。
そして、今日の世界における最悪の病は、そういう人に対する愛が足りないことです。
この世で一番大きな苦しみは一人ぼっちで、だれからも必要とされず、愛されていない人々の苦しみです。



★「この世で一番大きな苦しみは一人ぼっちで、だれからも必要とされず、愛されていない人々の苦しみです」というテレサのこの言葉は、おそらく彼女が自分自身の体験から生じた思いを語っているのだと思います。
「ひとりぼっち」と感じていたのは、彼女が独りあることに喜びを感じる自信のある7ではなくて、自信のない孤独な7を表現数としてもっていたからです。

数十年前、わたしはテレビでマザー・テレサのドキュメンタリ―を見たことがありましたが、彼女はいつも共に働いていたシスターたちには厳しすぎるほど厳しく、とても頑固で意地悪な人としか思えず、多くの人が思っておられるような「聖女」や「天使」のような印象は持ちませんでした。
それこそ9のエネルギーのネガティブなニ面性が表れていた気がします。

イエス・キリストに愛されたくて仕方がなかったテレサが、そのイエスから愛されていないことを生涯感じつづけていたために、彼女の人生は非常に暗く悲惨なものになってしまったのです。
若い頃は希望と光に満ち満ちていたのに。イエスの姿を見たばかりに…。

次回は彼女がインドへ行く途中で見たイエスの幻影と幻聴について、フォーカスしてみたいと思います。



マザーテレサの生涯―彼女に起きた神秘体験とは?

2011年03月04日 00:10

マザー・テレサは18歳のときに、マケドニアを離れてイエズス会のロレット女子修道会に入り、そしてインドのカルカッタ(現コルカタ)で修道院生活を始めました。
それから18年経ち、テレサが36歳のときに大転機が訪れます。
それが“イエスを見、イエスの声を聞く”という神秘体験でした。

それはダージリンへ向かう列車の旅の最中に起きました。
そのときテレサは、イエスから「修道院を出て貧民街に行き、もっとも貧しい人に仕えなさい」との召命(しょうめい)を受けたといいます。
それが発端となり、38歳のときに修道院を出て、院外居住者としての生活を始めるようになり、その2年後に「神の愛の宣教者会」を開設したのです。

テレサの人生を大きく決定した神秘体験については、彼女自身も生前少しは語っていたようです。
しかし、テレサの死後に出版された書籍や “Come Be My Light”によって、さらに詳しい内容が明らかになりました。
では、どのような神秘体験をしたのか、数冊の文献に載せられたテレサの証言を参考にして見ていきましょう。


★ テレサの神秘体験とは? ★



インドのカルカッタ(現コルカタ)で修道院生活を送っていたテレサは、結核の兆候が見られたので、空気のきれいなダージリンに行って静養するようにと命じられ、1946年9月10日、ダージリンへと向かいます。
その列車のなかで、テレサが祈っていると、眼前に突如十字架につけられたイエスの姿が現れたのです。そのとき、イエスは “I THIRST” 「私は渇く」と叫ぶのです。
十字架につけられたイエスのそばには、母マリアや使徒ヨハネやマグダラのマリアの姿も見えたといいます。思いがけない光景に遭遇し、テレサはひどく混乱しました。

列車の中での神秘体験をどのように考え受け止めてよいのかわからず、一心に祈っていると、聖母マリアが現れて「イエスの言われることに“はい”と言って従いなさい。今はわからなくてもその言葉に従いなさい」と語りかけます。

それでも決心が固まらないテレサに対して、イエスは再び現れて呼びかけます。
イエスの声は、早く修道院を出て貧民街に移るようにと催促しました。
下記はイエスがテレサに語ったという内容の一部です。

「私はインドの修道女がほしい。マリアやマルタになることのできる、私の愛の犠牲者がほしい。人々に私の愛を輝かせるほどに、私と一体になるような者がほしい。十字架の私の貧しさに包まれた自由な修道女がほしい。十字架の私の従順に包まれた素直な修道女がほしい。十字架の私の愛に包まれた思いやりにあふれた修道女がほしい。
おまえは私のために、このことをなすことを拒むのか」

「おまえは、私のように人々のために死んではいないではないか。だから、彼らに何が起こっても気にならないのだ。
おまえの心は、私の母の心のように、悲しみにおぼれたこともない。私も私の母も、人々のためにすべてを与えたが、おまえはどうだ。おまえは私の呼びかけを、自分の召命を失うこと、世俗的になること、また辛抱強さを失うことのように考えているではないか。
何を恐れているのだ。おまえの召命は人々を愛し、苦しみ、彼らを救うことだ。そしてこの一歩を踏み出すことは、私の願いを満たすことになるということを知るがよい。それがおまえの召命なのだ。

おまえは粗末なインドの着物、私の母が着ていたような質素で貧しい服をまといなさい。
今のおまえの修道服は私の象徴であり、聖なるものである。
しかし、今度のサリーはいっそう私の象徴であり、聖なるものとなるであろう」


(五十嵐薫著『マザー・テレサの真実』PHP文庫参照)

このようなイエスの言葉に対して、「ロレット修道会でこれまで通りあなたのために努めていきたい」とテレサが述べると、イエスは次のように語ります。

「私は、インド人の神の愛の宣教者たちがほしいのだ。最も貧しい人々の中にあって、病気の人や死に行く人々、小さなストリート・チルドレンの中にあって、私の愛の炎となりうる修道女になってくれるような神の愛の宣教者たちがほしい。おまえに貧しい人々を私のもとへ連れてきてほしいのだ。そうしたら自らの命を私の愛の犠牲として捧げる修道女たちは、貧しい人々の魂を私のもとへ連れてきてくれるだろう。
私はおまえが最も無能で、弱く、罪に汚れていることを知っている。しかし、私はそういうおまえだからこそ、私の栄光のために使いたいのだ。
それでもおまえはこれを断ると言うのか」


(五十嵐薫著『マザー・テレサの真実』PHP文庫参照)

テレサは恐くなって、イエスが求める使命を自分から取り除いてくれるようイエスに頼んでほしいと、聖母マリアに懇願します。
しかし祈れば祈るほど、イエスの声はますます鮮明なものになっていき、駄目押しするかのように、テレサに語りかけるのです。まるで脅迫しているかのようにです。

テレサはイエスの言葉を記した手紙をペリエール大司教に送った後、ダージリンからアサンソールに移動します。そして徐々に、イエスの召命に従って生きていくことを決意するようになるのです。
そして、アサンソールで瞑想の日々を過ごし、そこでイエスとのさらなる神秘体験を続けていくことになります。

テレサは「アサンソールでは、まるで主(イエス)が私に自分を丸ごとくださったようでした。しかし甘美で慰めに満ち、主と固く結ばれた6カ月はあっという間に過ぎてしまいました」と述べています。


★ テレサに現れたイエスとは? ★



★さて、ここで重要な点は、テレサが見たり聞いたりしたイエスの姿や声が、本物だったかどうかということです。
あなたはこのイエスの言葉を読んでどう感じられましたか?
本物と思いましたか? それとも偽物と感じましたか?
これは、あなたの直観的知覚力を試すのによい材料になるかもしれません。

テレサは最初の頃はイエスのことを「だれかが」と言っています。
何者かわからないものが自分に対して「インドで貧しい者のために働け」と言っていると、恐怖さえ感じていたのです。これは、正常な感覚だったとわたしは思います。
しかし、度重なるその声をイエスと信じるようになっていったのです。

★では、実際その声はだれのものだったのでしょうか?

わたしはその真実をハイアーセルフに尋ねてみました。
その声は本物の「イエス」でしたか? 
答えはノーでした。
洒落ではありませんが、答えはイエスではなかったのです。
実際には、それはイエス本人のものではなかったということです。
では、だれの仕業かということですが、「かつてインドで生きていた貧しい霊人の集団」とだけ言っておきましょう。(これは、あくまでもわたしの意識レベルでの調査なので、鵜呑みにはしないで、自分で判断してくださいね)

テレサは「イエスとの合体」という体験をしたと言っています。
これは昔から「神との合一体験」や「接神体験」として知られてきたものです。
これは、神と一体になったかのような感覚のなかで、霊的エクスタシーを体験する神秘現象です。
このエクスタシーの世界を一度体験すると、魂にその強烈な刺激が刻印されて、再び最高の歓喜、幸福感を味わいたいと渇望するようになるようです。

わたしもそれらしき体験をした記憶がありますが、一度で十分満足感がありました。
ただ、私の場合は、神やイエス・キリストではなく、ハイアーセルフとの一体、男性性と女性性の合体というものでしたが。

テレサはこの体験をしたために、病みつきになってしまったというのが実情でしょう。
とにかくその至福の体験がそれ以降得られなくなったことで、彼女の「心の闇」が始まり、深くなっていったのですから。
ただし、その相手は本物のイエスではなかったということです。
(テレサから相談を受けていた5人の司祭、神父たちは、テレサが言っている「イエス」が本物か偽物かという判断ができなかったのでしょうか?)

テレサはイエスその人につぎのように言っています。

主よ(イエス様)、あなたは幼少期より私を召命され、あなた自身のものとしてこられました。
私たちは共に同じ道を歩んできましたが、今、私はそれに背いて別の道を行こうとしています。
地獄にいる者は、神を見失ったために永遠の苦しみを味わうようになると言われていますが、そうした彼らでも“神がいる”というわずかな希望があるならば、あらゆる苦しみを耐え忍ぶことができます。
しかし私の魂は神を見失い、神が私を必要としていない、神が存在していないという魂の激痛に苛(さいな)まれています。
主よ、どうか私の不敬をお許しください。
私は「すべてを語るように」と言われました――私をすっぽりと取り囲んでいる闇の中で、私は自分の魂をあなたに向けて高めることができません。
光もインスピレーションも私の魂に入ってきません。
私は人々の魂に向けて、神の慈愛を語っていますのに……。

私は、いったい何のために働いているのでしょうか? 
もし神が存在しないとするなら、魂は存在できません。
もし魂がないのなら、主よ(イエス様)、あなたも真実ではありません。
 

私の心には信仰がありません。愛も信頼もありません。
あまりにもひどい苦痛があるだけです。

あなたと私との間には、恐ろしいほどに高い垣根(分離)があります。
私はもうこれ以上、祈ることはできません。
あなたと私を結びつける祈りは、もはや存在しません。
私はもう祈りません。私の魂はあなたと一つではありません。

私はあなたが、大きな愛と力をもって私を今の仕事に召命された事実を疑ってはいません。
私を呼び寄せられたのがあなたであったことを、私は知っています。
この仕事は、あなた自身がなすべきものであるからです。
しかし私には信仰がありません。
私は信じていません。
イエス様、私の魂を惑わせないでください。
 
(“Come Be My Light”より)


★ 霊能力の危険性 ★



★テレサには霊能力があったと言う人もいますが、霊能力というものは、あっても災いをきたすだけだとわたしは思っています。
記事にも度々書いていますが、実際のところ、霊視や霊聴が可能だったとしても、それが本物であるかどうかの証拠などはどこにもないからです。
霊界の人たちは、光輝いてイエスのように本物らしく装うことなど、朝飯前なのです。
そのようなものを信じることによって、とんでもない方向に行ってしまうことは少なくありません。ですから、霊視や霊聴ができるようになりたいと思っている人に多大の危険性を感じるのです。

わたしがかつて過去生で可能だった透視能力や透聴能力を止め、今生では「見えない存在」に対して、直観と超感覚知覚力のみでとらえるようにしているのはそのためです。
その直観と超感覚が正しいかどうかを確認するために「クリスタルのペンジュラム」というツールを常に使っていますが、これも「ハイア―セルフとのつながり」と「守護神たちの守り」、そして「クリスタルとの深い信頼関係」がないと危険性が伴うために、一般の人にはお勧めすることができません。これについては、またいつか別の記事に記載する予定です。


★霊的な存在の意識レベルを判断する上で大切なことは、高級霊であればあるほど、「~せねばならない」とか、「~するべき」とか、指図や命令するようなことはけっして言わないということです。(守護霊はときどき希望を示すこともありますが、あくまでも希望であり、強制はしません)
まして神に対する服従を強いたり、マインド・コントロールしたりなど、するはずがありません。もともと自由意志を与えたのは神なのですから、相手の選択の自由を認めるのがほんとうです。
そして、意識レベルが高くなるにつれ、集合意識化して、個々人に対する望みなどはなくなり、「だれが何をしようとすべてはOKである。あなたの人生なのだから、お好きなように」というふうになっていきます。


テレサに「おまえは私のために、このことをなすことを拒むのか」とか、「私の栄光のために使いたいのだ。それでもおまえはこれを断ると言うのか」というような脅しのような言葉を繰り返し投げかけてくる者が、意識の高い存在でないことぐらい判断できるはずですね。

★もうひとつ、大切なことをお伝えしておきたいと思います。
それは、そういうものが見えたり聞こえたりしても、マザー・テレサのように執着してはいけないということです。
もし何かが見えたとしても、それは所詮は仮相なのだと知ることです。
決して本質を見ているわけではないということです。
本質は「空」以外の何ものでもありません。
「空」は目に見えません。
ですから、だれの目にも「本質」が見えるはずがないのです。
この世で起こっていることはすべて幻想なのだということです。
そして、意識レベルが異なれば、同じものがちがって見えたり、感じられたりするということです。


ということで、今回は「マザー・テレサの神秘体験」について触れましたが、次回は彼女が生涯つづけた「奉仕活動」というものにフォーカスしてみたいと思います。

マザー・テレサの生涯―彼女の奉仕とは?

2011年03月06日 17:15


★ 奉仕とは何だろう? ★



奉仕」ということばを調べると、「報酬を求めず、また他の見返りを要求するでもなく、無私の労働を行うことをいう」とあります。

その根拠となる土台には、宗教的な信念や、宗教的な意味合いの神奉仕のかたちとして、神ではないもののその代わりとしての、困難な場面におかれている隣人に手を差し伸べ、できる限りの援助を与えるというケースがある」とし、その場合の隣人というのは、「同じ信仰、たとえばキリスト教の信仰をもつ信徒仲間に限られることもあるし、また十字架を背負わされてゴルゴダの丘に向かう途中のイエスの額の汗をぬぐったナザレ人のように、同じ信仰を持たない人をも含めていわれることもある」とあります。

英語では serviceですが、一般的な「勤め、業務」の他に、狭義で「神奉仕」の意味を持っており、隣人や困窮者への援助、奉仕がそのまま神奉仕につながるという意味合いで用いられるということです。(ウィキペディア参照)


★ 「奉仕」と「ボランティア」はどう違うのか? ★



似たようなことを表す言葉として「ボランティア」がありますね。

★「ボランティア」は、自発的な社会貢献(自分の意思でおこなう慈善行為)であり、何ものにも拘束されない自由な活動であって、無償であること。この「自発的に限る」のが、ボランティアの特徴だといわれています。

それに対して、「奉仕」は、ボランティア同様に他人や社会のために尽くすことではありますが、ボランティアのような「自発性」を問わないようです。
つまり、自分の意思でおこなう場合もあるけれども、神や教会などの要請によってやらされる慈善行為をも内包しているということなのです。

前回からお話ししているマザー・テレサというひとりの修道女が長年つづけてきた慈善行為は、あくまでもイエスからの要請を受けてやっていた行為なので、完全に「奉仕」ということになるでしょう。
このマザー・テレサの「奉仕」についてですが、そこにいくつかの問題点を感じるのです。

★第一に、「神の要請」だからと言って、慈善行為を押しつけていた可能性が大いにあったのではないかということです。
たとえば、今にも死にそうな人が道端に倒れている場合、その人の意志を確認もしないうちから、勝手に病院やテレサが作った「死を待つ人の家」に運んで手当をするといったことです。
その人は、このまま静かに死なせてほしいと思っていたかもしれません。現に「大きなお世話だ」と、非難していたインド人は数多くいたと思われます。

なぜなら、インド人には「カルマの思想」、つまり「因果応報の思想」が強く根づいているからです。
道端に倒れている人たちというのは、その人たちそれぞれのカルマによる結果であり、前世からのおこないの報いでもあるのだから、然るべきであるという考え方ですね。
これに対する興味深い話があるので、参考として記しておきたいと思います。


★ カルマの法則の観点から考える ★



これは、現在、国際的な直観医療の第一人者として活動されているキャロライン・メイスという神学博士が書いておられた内容の概要です。
彼女がインドのサティア・サイババのアシュラムを尋ねたとき、長年そこで暮らしているある男性からつぎのような話を聞いたそうです。

手足の不自由な子どもたちがサイババのところに連れてこられたとき、サイババはその子たちを癒さず、その男性が見たところ、その子たちよりも優先されるべきとは思えない人たちを癒しているのを見て、「なぜなのか?」と疑問を抱き、尋ねたのだそうです。
すると、サイババはその男性に「あなたには、子どもたちのカルマが見えますか?」と聞かれたのです。

男性が「見えない」と言うと、サイババはこう言ったそうです。
「私には見えます。あなたには純真に見えているあの手足の不自由な男の子は、かつて、罪なき人びとに残忍な刑を科して楽しんでいる裁判官でした。今、母親となっているあの女性は、その残忍な刑に手を貸していたのです。それでもまだ、あなたはあの子がかわいそうだと思いますか」

男性は言いました。「いいえ。あの子は、自分のしたことの報いを受けて当然です」と。
「あなたの心は、まだ人びとのカルマが見えないので、人びとに深い同情を寄せるのです」
サイババはそう言ったということです。


★ カルマを信じるインド人に対する奉仕 ★



★「カルマの法則」には、「公平性」があり、「バランス」があります。
なぜ、生まれたときに、人はこうも違うのか?」という答えがここにあります。
たとえ、同じ両親から生まれた兄弟姉妹であっても、生まれつきの不平等は生じています。
しかし、それは表面的な不平等であって、内側では過去生でのおこないのバランスをとるために今生で生じていることだと理解すれば、何の不思議もありませんね。


貧困や病気や苦痛を、とても否定的にとらえてしまって、「あー、可哀そうに! 何とかしてあげられないものか。神はどうして、この人たちがこのように苦しむことをお許しなっているのか? この世に神も仏もいないんじゃないか!」と嘆くのは、無知の骨頂だということです。

それは、なるべくしてなっているわけで、神は「それはわたしのせいではない。苦しむのは彼らが望んでそうしているのだから、わたしの知ったことではない」とおっしゃるかもしれません。
仏なら尚更「因果応報、自業自得。そんなの、ほっとけ、ほっとけ」と言われるのではないでしょうか?
神がそれを許しているということは、神がそういう状態を選んでいるということでもあるのです。

もし、あなたが毎回地上に生まれるたびに、王様やお姫様の役ばかり演じていたとしたら、どうでしょうか?
貧しい人たちの気持ちは理解できにくいですよね。
やっぱり自ら貧しい人になって、飢えで死にそうになるという体験をしなければ、本当の苦しみはわからないのです。人を殺した人は、自ら殺されてみなければ、わからないということです。

ですから、王様になることも必要だし、聖人になることも必要だし、貧しい人や悪人になることも必要だということです。ポジティブもネガティブも 光に部分も闇の部分も両方体験してみなければ、全体はわからないのですから。

だから、子どもがだれかに殺されたからと言って、親が大騒ぎをしたり、殺した相手を憎んだり、恨んだりするのではなく、その子は殺される体験をする必要があったのだと、そういう役割を今生では演じたのだと考え直してみることもできますよということです。

★すべては自分自身の選択によって起こっていると考えるのであれば、「貧困も善し、病気も善し、苦しんで死ぬのもまた善し」と肯定的に見ていけばよいということになります。 
何もネガティブにばかり考える必要はないということですね。
そこに学びと体験の重要性が隠されているわけですから。

どんな状況にいようとも、人生のすべては贈り物であり、すべてが完璧なのだということを理解できるかどうかが、カギとなるでしょう。 
あるいは、すべては幻想だと知った上で、自分の幻想を自由にコントロールしていくこともできます。



そうすると、道端で倒れている人たちを「死を待つ家」に無理やり運んで、ただ看取る(薬も使わず、効果的な治療というものはほとんどしていなかったのが実状)という行為をしつづけてきたテレサの「奉仕」というものは、何だったのかということになりますね。

「わたしは貧しい人のなかのイエスを愛し、イエスのなかで貧しい人を愛します」と言っていたテレサ。
「あくまでも、貧しい人のなかのイエスを救うのだ」と言っていたテレサ。
病気や貧困のうちに死に瀕する人たちに対して、「われ渇く」と言ったイエスの渇きを癒すために、その道具として身を捧げたテレサ。

そこには、イエスばかりがあまりにも強調されて存在していて、インドの人たちの存在が感じられないのです。(少なくともわたしには感じられないのです)彼らもイエスと同じ「神の子」であるのに。

実際のところ、本物のイエスは「私だけが神の子なのではない。全ての人が神の子なのだ」と言っています。
また、イエスは自分自身の最終イニシエーション(内なる錬金術)を通過するために十字架上の死を遂げたのであって、これは宗教とは何の関わりもないことでした。(マグダラのマリアも、「マグダラの書」のなかでそのことを語っています)

ですから、「十字架上のイエスの渇きを癒すために貧しい人に全身全霊を捧げる」というのは、ちょっと考え違いなのではないかな? ということです。

★結局のところ、その慈善行為はインド人には受け入れられ難いものだったというのは、否定できません。
それなら、テレサの奉仕はイエスを愛するあまりの自己犠牲的行為にすぎなかったということになるでしょうか?
それが、のちに彼女の心臓のトラブルとなって表れたわけです。

次回はマザー・テレサの「心臓のトラブルが伝えていたこと」について、お話ししたいと思います。


マザー・テレサの生涯―慈悲とは何か?

2011年03月08日 14:50

マザー・テレサが心臓発作を起こしたのは1983年のことでした。
1991年にはペースメーカーをつけたと記録されています。
1997年には転倒して首の骨にひびが入り、同年の夏にはマラリアにかかっています。
心臓の状態は悪化し、彼女はその年の9月に87歳でこの世を去りました。

★心臓のトラブルは、テレサの心の状態をそのまま映し出していたのだと感じます。
リズ・ブルボー著「自分を愛して」に書かれた「心臓のトラブル」に関する内容は、まさにそれを明確に伝えていると思いました。
みなさんの参考にもなるかと考えますので、彼女の文面をつぎに紹介しておきましょう。


★ 心臓のトラブルが伝えていること ★



★感情的なレベル★
自分の中心で生きている人というのは、自分のハートで物事を決める人です。
つまり、調和、喜び、愛の中で生きている人のことなのです。
一方、心臓にトラブルのある人は、それとはまったく反対の生き方をしています。
つまり、限界を超えて無理な努力をし、肉体を酷使しているのです。
そんな時、心臓は次のようなメッセージを送ってきています。
「お願いだから、自分を愛して!」
心臓にトラブルを抱えている人は、自分自身のニーズを無視して、他の人たちから愛されるためにすごく無理をしているのです。
自分自身を愛していないので、何かをすることによって、他の人たちから愛されようとするわけです。

★精神的なレベル★
心臓のトラブルを抱えている人は、早急に、物事の見方を変える必要があります。
愛は他人からしかやって来ない、と考えるのではなく、自分で自分に愛を与えるようにする必要があるのです。
愛は常にあなたの中に存在しています。
愛を外部に探す必要などないのです。
他人に依存している人は、いつまでも、愛を他人からもらうという行為をくり返さなければなりません。
でも、あなたが自分を愛し、自分を大切にするならば、愛は常に自分の中心にあるということがわかるでしょう。
愛を他人からもらう必要などまったくないのです。



上記の内容をふまえて、1962年マザー・テレサが52歳のときの、ピカシー神父への告白を読んでみてください。
彼女が外側で表現している「光の部分」と内側で表現している「闇の部分」を感じてみてほしいと思います。

「神はこのような状態にある私から、いったい何を得ることができるのでしょうか。
私には信仰もなく、愛もないのです。
先日来、私の心がどれほど暗く落ち込んでいたか、語ることさえできません」

「闇はあまりにも暗く、痛みはあまりにも辛いのです。
人々は、私の信仰を見て、神のもとへ引き寄せられると言います。
これは人々を偽っていることにならないでしょうか? 
私は、本当のことを言いたいのです。“私には信仰はありません”と伝えたいのです。
しかし、その言葉を口にすることはできません」



1979年テレサは“ノーベル賞”受賞のスピーチの中で、次のような言葉を述べています。

「私は、いただいたノーベル平和賞の賞金で、家がない多くの人々のためにホームをつくろうと思います。なぜなら“愛”は家庭から始まると信じているからです。
もし貧しい人々のために家をつくることができたなら、もっともっと愛が広がっていくと思います。
そして愛を理解することによって私たちは平和をもたらし、“貧しい人々”――家庭の中の、国家の中の、世界の中の貧しい人々に福音をもたらすことができるでしょう。
(中略)
私たちの心に、イエスを愛する喜びを持ち続けましょう。
出会うすべての人々に喜びを分け与えましょう。喜びを放つものは本物です。
私たちはキリストと共にいないかぎり、幸せにはなれません。
キリストは私たちの心の中にいます。
キリストは私たちが出会う貧しい人々の中にいます。
(中略)
私たちにはイエスがいます。イエスは私たちを愛しています。
もし私たちが、神(イエス)が私たちを愛しているということを忘れさえしなければ、イエスが私たちを愛するように、私たちもお互いに愛し合うことができるのです」



しかし、1979年ノーベル賞受賞の3ヶ月前(テレサ69歳のとき)彼女はピート神父へつぎのような告白をしていたのです。

「イエスは、あなた(ピート神父)を非常に愛しておられます。(中略)しかし私はといえば、沈黙と虚しさがあまりにもひどく、見ようとしても何も見えず、聞こうとしても何も聞こえません。祈りで舌は動きますが、何も話せません……。(中略)どうか私のために祈っていただきたいのです。」


★このカテゴリ「マザー・テレサを語る」についての記事は、今回で4回目となりますが、その真実を知って驚かれた人もいらっしゃるようです。

人は外側では栄光に満ちているように見えても、内側では暗く悶々としている場合もあるのだということ。
何事も外側だけで判断してはいけないということ。
表面だけをとらえていては、全体を知ったことにはならないということ。
だから、見かけだけで人や事象を判断してはいけないのだということを、知っていただきたかったからです。
そして、自分の狭いものの見方に気づき、「思いの制限をひらく」ことの重要性に気づいてほしかったからにほかなりません。


★「奉仕」や「ボランティア活動」をするとき、相手が喜んでくれるのを感じると、自分もうれしくなるから、ただ自分がそれをすることが大好きで、楽しいからこそするのだということであれば、何の問題もありません。それはすばらしい働きです。
でも、だれかさん(神やイエス?)から愛をもらうため、天国(死後、高い階層)に行くため、あるいは自分が愛されるべき人間であるということを証明するために慈善行為をするのだとしたら、それは「~のため」という条件つきの愛(欲)?になってしまいます。

「こんなにあなたのために尽くしているのに、あなたがそうしろと言ったから奉仕をしているのに、イエスよ、あなたはちっとも私のことを愛してくれない」と落ち込むのは、何かちがうんじゃないかということです。
そんな恨みつらみを毎日のように思うくらいなら、インドから脱出して、修道女もやめて、結婚をして家庭を築けばよかったのではないかと思います。「もっとも大切なのは家族です」「“愛”は家庭から始まると信じているからです」と言っていたテレサですから、きっとよい奥さん、母親になったことでしょう。

ほんとうの愛とは、内側からひとりでに湧き上がってくる喜びであり、その分かち合いです。ただそれを分かち合う喜び、それ以外には、どのような理由も動機もいらないはずです。
《軌道数9》は、「慈悲」を表しますが、自分に対しては慈しみを与えない人がけっこういるのです。
テレサは自分という神を慈しむことをすっかり忘れていたのです。


★ 慈悲とは何か? ★



慈悲というのは、「あわれみ、いつくしむこと」と一般的には解釈されています。
慈は積極的に利益と安楽を増すこと」で、「悲は不利益と苦を除去すること」と定義している学者さん方もおられます。

★この「慈悲」という仏教用語はとても解釈が難しいのです。

一般的には「慈しむ」ということをキリスト教的に「愛する」というふうにとらえがちですが、仏教では「愛」は煩悩のひとつとして見ているので、「慈悲」を「愛」の同意語だとしてしまうと、語弊を招いてしまう可能性があります。

慈悲の主体となる者」は、「衆生=生きとし生けるもの」のなかの一人ではあるのですが、その者は「すでに苦を越えた境地にいる者」、「苦悩から自由になった者」、すなわち「ブッダ(悟りを得た人 )」であるということです。

その苦を越えた一人のブッダが、未だ苦の中で呻吟している「生きとし生けるもの」を、あわれみ悲しみ、苦から救いだして、楽を与えようとするのが、「慈悲の思想」だということです。
ですから、基本的に苦を越えていない人が、苦しんでいる人を救い出すことはできないということになります。

「哀れむ」というなかには、「同情する」という意味や「自分は可哀そうな人たちにいいことをしているのだと悦に入る」という上から目線の少々傲慢なニュアンスが含まれている場合もあります。
キリスト教の場合の「あわれむ」は、「共に苦しむ」、「いっしょに受難を受ける」という意味合いが強いように思います。

★慈悲(コンパッション)それ自体は、とてもクールなエネルギーであるとわたしは感じています。
そこにたどり着くまでには、情熱、激しい感情(パッション)という熱いもののなかを通り抜けていかなければなりません。
そういう情熱や感情というもののなかを通り抜けてはじめて、慈悲に至るわけですね。
そう簡単に「慈悲」というものを持てるわけではないということです。


わたしが数秘術で言うところの《軌道数9》の人は、この「慈悲」というものの本質を体験し、学んでいくコースを選ばれたということです。
ぜひ悟りをひらいて、ブッダとなって「大いなる慈悲」を衆生に与えてほしいですね。
その前に、まず自分を慈しむことから始めてください。


人生の中で、自己への愛よりも偉大な愛はない。
それ以上に偉大な愛はないのである。
なぜなら、自己を抱き容れてはじめて、自由というものが存在するからだ。
そして、喜びが生まれてくるのはその自由からなのだ。

そして、喜びが生まれてはじめて、神を見ること、知ること、抱き容れることが可能となる。
最も偉大で深く、意味のある愛とは、体という壁の中に宿りながら、動き、思いめぐらし、創造し、許し、そしてただ在るこの素晴らしい生き物である純粋で無垢な自己への愛だ。
そして、あなたが自分であるものを愛するとき、
(つまり、どんな自分であろうとそれを愛するとき)、
あなたもこの素晴らしい本質を知ることだろう。

(昔、アトランティスに生きて、アセンションしたというレムリア人のマスターのことばより)



マザー・テレサの生涯―「奉仕者」という役割を担っていたテレサ

2013年12月22日 14:45


★ 人間を洞察する目を養うこと ★



マザー・テレサについては、過去記事(2011年3月)に4回ほど掲載したことがありましたが、その内容を読んで、その真偽を疑う人がけっこうおられたように思います。
ある人は、その内容を別のサイトの管理人に質問した人もおられたようですが、他者にすぐに意見を求めるのではなく、自分の直感や感覚をもっと大切にして、人間を深く洞察する目を養っていただきたいなと思いました。

要するに、誰が何と言おうと、自分がマザー・テレサを素晴らしい人だと信じたいなら、そのように信じればよいということです。信じるということは、それなりの理由があるからでしょう。
もし後でそれが自分の勝手な思い込みや間違いだったことにはっきりと気づいたなら、自分の感性が鈍っていたのだなと、素直にそれを認めればよいのです。ただ、それだけのことです。

過去記事にも書いたと思いますが、わたしはマザー・テレサがまだ生きておられた頃に、ドキュメンタリーを見て、その映像から「深い陰を持った人」という印象を持ちました。

洗濯機を寄贈されても、それらは一切使わず、シスターたちには、毎日素手でシーツを何枚も洗わせていたという話や、シスターたちが寒さに耐えきれずにお願いしても「私は使っていないのだから、あなたたちも我慢しなさい」と、ストーブを与えなかったという話は、今も記憶に残っております。

何よりもマザー・テレサと共に働くシスターたちの生の声が、彼女がどういう性格の持ち主で、どういう信念を持っていたかを教えてくれていたのです。
また、当時の彼女の意識レベルや振動数、オーラの様子などは、生前の彼女の写真から判断できますし、死後どんな領域に行かれたかの調査をして、それを知れば、彼女の真相は一目瞭然なのです。
そこまで調べれば、「信じる」とか「信じられない」とかいう問題ではないことがわかりますね。


先日、長女が珍しくマザー・テレサのことを話していました。
今年(2013年)の3月2日、インドの日刊インターネット新聞に、「Mother Teresa 'saint of the media', controversial study says」というタイトルで、「マザー・テレサのこれまでのイメージがメディアによって作られたものであるという研究結果が出た」という記事が掲載されていたという内容でした。

それについては、次のようなサイトで詳細に語られておりますので、マザー・テレサに関心がある人はじっくりお読みくださればと思います。

★参考サイト:ハピズム 聖女ではなかったマザー・テレサ 「洗脳看護」「カルト施設」、その実態とは!?  

下記は、そこに記載されていた文面の一部です。
皆さんの参考になるかと思いましたので、一部抜粋をして載せさせていただきます。


ノスタルジック・ライン


マザー・テレサといえば、貧困や病気にあえぐ弱い人たちの救済活動に生涯を捧げた、カトリック教会の修道女。修道会「神の愛の宣教者会」の創立者でもある彼女は、"無償の愛"の代名詞のように伝えられており、今なお、世界中の人々から崇め、慕われている。しかし、カナダの宗教学専門誌「Religieuses」最新号で大学の研究者が発表した論文によると、マザー・テレサの美談や名声は、カトリック教会の誇大宣伝のためにデッチあげられたものであり、聖人には程遠い人物だったというのだ。
(中略)
1971年に、教皇・パウロ6世から勲章「ヨハネ23世教皇平和賞」を授章されたのを皮切りに、ノーベル平和賞など数多くの賞が贈られた。1997年に、87歳で亡くなった時には、インド政府が国葬を行い、死後5年目にはヨハネ・パウロ2世が「彼女は福者である」と宣言した。そして、なにかと問題の多いカトリック教会において、清く正しく、いつまでも輝き続ける聖人のような存在として、マザー・テレサは人々の記憶に残ることとなった。


◆明らかになりつつある、マザー・テレサの素顔!

しかし、実像は異なるのではないか、と疑問を投げかける者が現れた。
今回「Religieuses」に論文を寄稿したのは、モントリオール大学とオタワ大学の研究員たちである。
彼らは、マザー・テレサに関する文献資料、約300件を調査し、「マザー・テレサが世界中に開設した517もの『死を待つ人々の家』ホスピスは、衛生状態が悪く、医薬品も慢性的に足りず、満足な治療が施せなかったと報告されている。しかし、彼女の修道会『神の愛の宣教者会』は何百万ドルもの多額の寄付金を受けており、金銭的に困っているわけではなかった」という事実を突き止めたと発表。
そして、「マザー・テレサは、患者の痛みを和らげることはせず、痛みに耐えることを賛美して癒やすという、怪しげなことをしていた。多くの病人が、彼女の元を訪れれば、医師が治療をしてくれると思っていたにもかかわらず、彼女は、イエス・キリストの受難のように、痛みに耐えることは尊いことだと繰り返し言うだけだった」「人気が低迷しつつあったバチカンは、劣悪な環境で痛みに苦しむ人たちに『あなたは素晴らしい人間なのよ』と優しく接している、マザー・テレサのことをまさに“生きる聖女”だと大げさに宣伝することで、カトリックのイメージアップを図ろうとした」と指摘した。

また、「バチカンは異例の早さで彼女を福者だと宣言したが、“痛みに耐えろ”という、怪しげな看護方法、問題点の多い政治家とのコネ(ハイチやアルバニアの独裁者を支持し多額の寄付金を得たという説がある)、多額の寄付金の管理に関する疑問点、そして、中絶、避妊、離婚に関して過度に批判していた点などは、一切、問題としなかった」とも綴っており、事実を知れば知るほど、マザー・テレサの神話はでたらめだということが明確になるとしている。

なお、マザー・テレサは晩年心臓病を患い、ペースメーカーを入れる手術などを受けていたが、自身は衛生的で設備が整った近代的なアメリカの病院で、痛みを和らげる麻酔薬を投与されながらの治療を受けていた。まさしく、聖人からは程遠い人間だったというのである。

マザー・テレサは聖人ではない、うさんくさい人間だという意見は、実は昔から出ていた。
2年前に62歳の若さで食道がんでこの世を去った無神論者のジャーナリスト、クリストファー・ヒッチンズは、長年、マザー・テレサはとんでもない食わせ者だと主張し続け、それに関する本まで発行。「彼女が世界中から集めた寄付金を使えば、ベンガルにファーストクラスの病院を建てることだってたやすいことだった。しかし、彼女はそうせず、衛生状態の悪い、あまりにもひどい施設に患者を収容し、ろくに治療を施さなかった。痛みを和らげるなど嘘だ。死ぬこと、痛みに耐えることを賛美する、まさしくカルトのような施設だったのだ」「信仰する宗教に関係なく看病したというが、それも嘘。朦朧とした患者に、痛みに耐えれば天国へ行けると、繰り返し言い、洗脳した」と厳しく批判している。

今回発表された論文だが、「聖人的なイメージを持つマザー・テレサの創られた神話が、貧困にあえぐ人々の救済を目指す人道活動家たちを励ますことになっているのは確かだ」「しかし、マザー・テレサに関するメディア報道は、もっと慎重に、事実に基づいたことを伝えるべきだ」という言葉で締めくくられている。

衝撃的な論文であるが、マザー・テレサの人気は不動のものだとされており、カトリック教会への打撃はさほどないだろうと、米メディアは見解を示している。今から10年前、2003年にローマ教皇庁はマザー・テレサの列福式を行ったが、世界中から25万人を超える人々が集まり祝福。実像がどうであれ、カトリックが全力を注ぎ創り上げたマザー・テレサの"聖人としての神話"は、揺らぐことのない、不動のものなのである。



ノスタルジック・ライン


★マザー・テレサを「聖女」と奉っていた多くの人々は、カトリック教会に騙されているなんて、思いもしなかったでしょうね。
しかし、2011年10月22日の記事『アンフェアなのは誰か?―表があれば裏がある』の「キリスト教が産児制限に反対する理由」に書きましたように、多かれ少なかれカトリック教会というところはそういうところなのですよ。

★参考過去記事:『アンフェアなのは誰か?―表があれば裏がある


下記は、「シスターの暴露で明らかになったマザー・テレサの実態」というタイトルで書かれていた文章です。
★参考サイト:ハピズム http://happism.cyzowoman.com/2013/06/post_2483_2.html


ドイツの人気週刊誌「Stern」は、200を超えるチャリティー団体がコルカタで活動をしているが、現地スラム住民たちに取材したところ、「マザーの施設は大したことをしていない」「金はたんまりあるはずなのに、助けてくれない」と証言。マザーの施設全てを合わせても、キリスト教プロテスタントのペンテコステ派世界最大の一派、アッセンブリーズ・オブ・ゴッドが配っている食料の方が、はるかに多いと指摘した。
そして、150を超える国と地域にあるマザーの施設で働く4,000人のシスターと30万人を超えるボランティアは、給与など一切受け取っておらず、一体、何に金は使われているのかと疑問を投げかけた。

この雑誌が発売される少し前にも、1979年末にマザーの「神の愛の宣教者会」に入り、9年半に渡り、ブロンクス、ローマ、サンフランシスコの施設で働いた、スーザン・シールドという元シスターが、米ヒューマニスト誌『Free Inquiry Magazine』に、宣教者会の酷い実態を暴露している。
ニューヨーク支部に送られた寄付金を、銀行口座に振り込み、寄付してくれた人たちに礼状を送るという仕事を担当していたという彼女は、「一度に500万円以上の寄付金を送ってくる人が沢山いた。貧しい人たちからも、寄付金が寄せられた」「みな、貧困や病に苦しんでいる人たちに使って欲しいと送ってくれるのに、会は貯金にまわし、現場で使うことはほとんどなかった」と明かした。

スーザンは、「シスターに与えられた服は3セットだけ。継ぎはぎも出来ないくらい、ボロボロになるまで着た。服は手洗いで、ホームレス用のシーツも手洗いした。沐浴はバケツ1杯の水だけで行い、歯科検診や健康診断は「贅沢」だとして受けさせてもらえなかった」「シスターたちは、商店をまわり、食べ物を寄付して欲しいと頼みこまなければならなかった。飛行機に乗るときは、ただで乗せて欲しいとお願いした。病院で治療を受けるときも、キリスト系の病院を選び、ただで受けさせてもらった」
「必要以上に欲しがってはいけない、必要なものだけを譲って欲しいとお願いするようにと言われていたが、銀行口座にたんまりお金があるというのに、なぜ、ここまでしなければならないのか。シスターたちも、ボランティアの人たちも、長時間働かなくてはならず、疲労困憊していた」とも暴露。

「マザーは、とにかく、貧困の精神を保つことに強いこだわりを持っていた。貧困を保つために、寄付金を使わなかったのだ。ハイチの施設では金を使いたくないからと、注射針を繰り返し使っていたほどだった。まるで貧困を、聖なるもののツールとして使っているようだった」と言い放った。

マザーは、妊娠中絶だけでなく、避妊にも強く反対していた。しかし、貧困層が避妊せずに数多くの赤ん坊を出産するため、いつまで経っても恵まれない子供たちが減らないのだという意見もある。現地で活動していたマザーも、そのことは良く知っていたはず。それでも、避妊を反対し続けたのは、貧困をなくさないため、「貧困がなくなれば自分を崇める人が減ってしまう」という偽善的な考えからという説を唱える者もいる。


◆聖人ではなかったマザー・テレサ 本人も自覚

今から6年前の2007年8月、米大手誌「タイム」が、マザーが親友の牧師に宛てた手紙の一部を発表した。66年の間に書かれた40通以上の手紙には、神の存在を確認できず苦しい気持ちを抱えていたことが記されており、「ほほえみは仮面である」と明かしたこともあった。また、「神が存在しないのであれば、魂の存在はあり得ない」とし、「もし魂が真実でないのならば、イエス、あなたも真実ではない」とイエスを否定するような言葉まで記載されていた。 

この手紙は、『Mother Teresa: Come Be My Light』というマザーの自叙伝にまとめられ、通して読むと、信仰の深さゆえ苦悩し、このような言葉が出てきたとも捉えることができる。しかし、マザーは生前、手紙のうちのいくつかを破棄して欲しいと頼んでいたと「タイム」は伝えており、世間に公表されるとマズイと認識していたのは、間違いないと見なされている。この件で、彼女はアンチたちから、「やっぱり、計算高い偽善者だ」「神さえも信じていなかったとは」と叩かれるハメになった。



ダイアナ妃との話は、同サイトの「マザー・テレサは“王室かぶれの偽善者”だった!? ダイアナ妃との癒着も」のほうに記載されております。
http://happism.cyzowoman.com/2013/06/post_2483.html 

★このような記事は、探せば多々出てきます。
今回は世界各国で公の情報として出されているものを取り上げましたが、彼女の名誉のためにこの辺りに留めておきたいと思います。

マイケルの「魂のチャート」には、役割として「奉仕者の有名人」の箇所に彼女の名前が書かれていますね。本を買われた方は、ご覧になったことと思います。
わたしの調査では、彼女の「魂の年代」は〈幼児期の魂〉で、「魂の段階」は〈第6段階〉です。
この時期は、「カルマの影響が大きく、人は権威に従うべきだと確信している」と表(4-3)にも書かれていますね。
彼女の「目標」は〈服従〉で、「モード」は〈忍耐〉。「主特性」は〈頑固〉で、「主義」は多様性があってひとつに絞れない感がありましたが、「実用主義」の陰極が優勢だと感じました。

マイケルは「奉仕者」のことを「奴隷」と呼んでいたそうですが、彼女は「神の奴隷」というよりは、「教会の奴隷」となっていたのかもしれません。「幼児期の魂」の箇所に「キリスト教」のことが書かれていますので、関心がある方はお読みになってください。

今回は、マザー・テレサのことをまた書いてほしいという読者さんのご希望で書きましたが、マザー・テレサについての記載は、これで終了させていただきたいと思います。
彼女が次回の誕生で「奉仕者」という役割の「幼児期―第7段階」を迎えられ、見事にクリアされることを祈ります。



     ツリー


信仰とは、ただ自分を欺くための策略にすぎない



OSHOは「信仰とは、ただ自分を欺くための策略にすぎない」と言っています。
今回は、つぎのOSHOの言葉を皆さんにお届けします。


人は、求め、探究し、発見する道を歩み続けたくはない。
それは骨の折れることだ。
なぜなら、たくさんの迷信を捨て、真理を知り、
自分自身を知ることを妨げている過去からのたくさんの条件づけから、
自分を外さなくてはならなくなるからだ。

どんな信心も助けにはならない。
そしてあらゆる宗教は、信心に基づいている。
それゆえに「信仰」と呼ばれている。

真理は探究だ、信仰ではない。
それは問いかけだ。
信心ではない。
それは問いだ。探索だ。
この探究を避けることで、人はたやすく騙される。
人は、たやすく誰でも食いものにしようと、
手ぐすねを引いている者の犠牲者になってしまう。

そして当然、群衆のなかは、居心地がいい。
六億のカトリック教徒がいる。
それは、居心地がいい。
そして、六億の人びとが間違うはずはないように感じられる。
自分なら間違うかもしれないが、六億の人間が間違うはずはない。
だが、それこそ彼らのひとりひとりが考えていることだ。

四億のヒンドゥー教徒たちは、自分たちは正しいと思っているし、
同じことがイスラム教徒や仏教徒や、そのほかの宗教についても言える。
宗教は死んだ組織ではなく、全存在に対するある種の宗教性、
愛情深いハート、親しみ深さであるべきだ。
そういうもののためには、どんな聖典もいらない。




ふたつのハート

この数年間、光の仕事人がこのブログで伝え続けてきたことを、
再度思い起こしてください。
あなたがたが「独り立つ者」になったとき、
そんなさまざまな思いを理解していただけることでしょう。

何度も「ブログを書くのはもういいかな?」と思う時期がありました。
また、そういう時期が来ているように思います。
基本がわかれば、あとはすべて応用です。
どうか応用力のある人となってください。
そのためにも、自己の探究と自己確立に全力で臨んでいただきたいと願うしだいです。


今日もたくさんの愛を皆さんにお届けしたいと思います。


花束


2013年12月22日  カヴィーシャ・光の仕事人 






最新記事