教育とは―その1 よく遊び、よく学ぶ

2011年01月17日 01:00



さて、つぎはどんな記事を書こうかと考えていたとき、急にわたしの脳裏に、多くの子どもたちと接していた若かりし頃の思い出が甦ってきました。
それがあまりにもなつかしくて、ブログに書いてみようかという気になりました。
いつもとは趣向は異なりますが、よかったらお読みください。

過去ブログ「インディゴは、母の愛を求めている」の「教えることと学ぶこと」の箇所にも少し書きましたが、わたしの人生の中で、世間では「教育者」と呼ばれる仕事に就いていた時期がありました。
結婚と長女の誕生が、その道を継続することを断念させましたが、8年という歳月、その大好きだった仕事にいそしむことができました。


★ 変わり者の教師 ★



おそらく当時、(1970年~80年代)教師のあいだでは、わたしは相当変わっていたというか、特殊であったのではないかと思います。

当時の公立学校では、当然のことのように相対評価が実施されていましたが、それにとらわれず、絶対評価をしていたことも、そのひとつです。
子どもたちの成績を5段階の相対評価でつけるなら、40人のクラスで、1と5をつけるのは、1~2割程度です。つまり、4~8人ほどなんですね。
たとえ優秀な子どもがたくさん育っても、いつでも5をあげられる子どもは決まってくるのです。

だいたい教師というものは、その時期に児童が学ばなければならない内容を、全員に理解させるために授業をするのであって、テストで5段階に振り分けて、その成績を通知表に記入するために教壇に立っているわけではないはずです。

子どもたちはとても正直で、素直に反応してくれます。
一生懸命になって教えれば、テストをしてもそれに相応した点数を獲得してくれるものです。
先生の教え方と子どもたちの成績とは、比例するのです。

わたしは常々、クラスの子どもたちが授業内容を完璧に理解して、ひとり残らず満点をとることを目標にして、親がびっくりするほど懇切丁寧に教えていました。
ですから、テストをするごとに満点をとった子どもたちに対して、絶対評価として5をつけるのは当然のことだったのです。

だからといって、わたしの採点はけっして甘くはありませんでした。
特に低学年における文字(漢字)に関しては、どの教師よりも厳しかったと思います。

小学生のあいだでは、特に漢字などの文字を正しく丁寧に書くように訓練しておく必要があります。
いいかげんなまま覚えてしまうと、そのいいかげんさはそのまま引き継がれ、おとなになってからでは決して直せないからです。
正しく書けるようになるまで、自ら放課後に残って、練習にいそしんだ子どもたちは、今きっと漢字で苦労することはないでしょう。

もうひとつ、わたしは他の教師があまりしないことをしていました。
暑くてみんなが気だるそうな日などは、授業を早く終わらせて、運動場で遊んだのです。
また、お化け話をしたり、面白い本の読み聞かせをしたりしました。
学校ではおそらく教えないであろうことを伝えたりもしていました。

たとえば、日頃子どもたちが買って食べているお菓子の袋や、家にあるお惣菜の袋などをたくさん持ってきてもらい、そこに記されている保存料や着色料などの表記の説明をしたりしたのです。

化学物質が食品にどれだけ入れられているのか、それらがどれほど人間の身体に有害であるのか、表示をよく見て安全な品を買おうということなどを、子どもたちに伝えました。
社会科で、まちがった歴史などを教えるより、ずっと重要だと考えていたのです。

国語で詩を創る際は、教室ではなく、戸外に出ました。
学校によっては、近くに野原があったり、堤防があったりしたので、そこを散策しながら詩を創作したのです。
みんな素敵な詩人になっていました。
どの学年でも、たくさんの詩集ができ、今でも手元に残っています。

つくし つくし


二学期の終業式には、ひとりひとりに向けてメッセージを書いた手作りのクリスマスカードを渡すのが楽しみでした。
成績表に所見を書くよりも、そっちのほうに熱が入って、徹夜で書いたことがなつかしく思い出されます。


★ よく遊び、よく学ぶ ★



子どもたちとは、実によく遊びました。
休憩時間、放課後と、職員会議などがない限りは、職員室に戻ることはめったにありませんでした、

自分のクラスの子どもたちだけでなく、他のクラスや他の学年の子どもたちも仲間に入ってきたので、いつのまにか全校児童と顔見知りになっていました。

低学年や中学年の子どもたちは、一度家にカバンを置いてから、また学校に来て遊ぶのが楽しみだったようで、たまに職員室にいても「先生、遊ぼう!」と呼びにくるので、いつもその声に駆り出されていたのです。

自慢ではないのですが、わたしが受け持ったクラスは、必ずと言ってよいほど、スポーツ大会で優勝していました。日頃遊びながら鍛えていたので、それに向けてわざわざ練習をしなくてもよかったし、チームワークも抜群だったので、勝つことができたのです。

幅跳び、跳び箱、すもう、ドッジボール、サッカー、なわとびなど、随分やりました。
小学1年生でありながら、ほとんどの男子が8段積んだ跳び箱を跳んでいたのですから、驚いてしまいますね。
それくらいになるまで遊んだということです。

子どもたちは、学校だけでなく、わが家にもつぎつぎと遊びにやってきました。
夏休みには、グループで泊まりにも来ました。
クラス全員に近い子どもたちが実家に押し寄せ、家に入りきれなくて、近くの山に散策に出かけたこともありました。
他府県から母親と一緒に会いに来てくれた子どもたちもいました。
なんでそんなにわたしの家に来たかったのか、今でも、もうひとつよくわからないのです。

保護者には毎回学級通信を出していました。
自分が書きたいことを、ただ書いていただけですが、それがけっこう好評だったのです。

※な~んだ、これって、光の仕事人さんの自慢話じゃないの~。 と思われたでしょうか?
それでもかまいませんよ。自慢ができるって、ある意味幸せなことですから。



★ われを何とも言わば言え ★



なぜそんなに親や子どもたちにサービスをするのか?
サービスしすぎじゃないか
と思っている教師は、少なくはなかったように思います。

そういう人たちは、決して自ら学級通信を書こうとしなかったし、子どもたちと休み時間に遊ぶこともしませんでした。
そして、時々わたしを職員室に戻らせるための、驚くような作戦を考えたりするのでした。

たとえば、放送で「○○先生、今すぐ職員室にお戻りください」とわたしを呼ぶのです。
何かと思って急いで戻ると、「たまには、主任にコーヒーでも淹れてあげてよ」と言うのです。

? ? ?マークがいっぱいでしたね~。

休憩時間に子どもに遊びのサービスをするのではなく、主任にコーヒーのサービスをしなさいというわけです。
教師というのは、この程度の意識レベルでもやっていけるのです。

当時、わたしは同僚のつながり云々よりも、まず何よりも子どもたちを主体に置き、大切にしていました。
ですから、そういうイジメっぽいことをされても、けっこう平気だったのです。
というよりも、学校でやりたいことが多すぎて、また校外でも組合の委員などの仕事があって、つまらない教師同士のことで悩んでいる暇などなかったのです。

一番心が安らいだのは、どの学校へ行っても、管理職たちが陰ながらわたしを応援してくれたことかもしれません。
「一生懸命やっていて、変わり者って言われることはいいことだよ」と。


われを何とも言わば言え
わがなすことは
われのみぞ知る


これは昨年「龍馬伝」の最後のあたりで、福山雅治さんが演じた龍馬が言っていたことばです。(福山さんのセリフは、ちょっと異なっていたかもしれません…)


世の人は
われを何とも言わば言え
わがなすことは
われのみぞ知る


自分のことを、何とでも言いたいヤツは言えばいいさ。
自分がすることは…その意義は…自分だけが知っているのだから…。
20代の頃のわたしは、そんな龍馬のことばを知りませんでしたが、当時、彼と同じことを思いながら勤務していたように思います。


★ 子どもたちの瞳のきらめき ★



わたしが子どもたちと遊ぶ理由はいろいろありました。

授業中では見られない子どもたちの側面を知ることができるからでもあり、いつもイジメられている子どもを入れて、一緒に仲良く遊ぶためでもありました。
そして、何よりも思い切り遊んだあとの「子どもたちのかがやく瞳」を見たかったからかもしれません。

何しろ、休憩時間に楽しく遊んだあとは、子どもたちのつぎの授業での取り組み(姿勢)が全然ちがうのです。
目が生き生きと躍動しているのです。
子どもたちの瞳のきらめきがちがうのです。 

ある日、つぎの授業を始めようと教壇に立ったとき、わたしはひとりの男の子の瞳と出会いました。
わたしを見つめるその瞳は澄みきって、きらきらと星のようなかがやきを放っていました。
そのとき、他の子どもたちも、全員が一斉に、わたしを見つめていることに気づいたのです。
その瞬間、熱いものが胸にどっとこみあげてきたのです。

子どもたちは、こんなに真剣なまなざしを向けて、わたしの声を聞こうとしている!
そのことに、言い知れない感動を覚えたのです。
それは、教育者としてというよりは、人間としての最高の喜びでした。



わたしが子どもたちと遊ぶ理由…。
それは、わたしが子どもたちと一緒にいることに喜びを感じていたからにほかなりません。
今から思うと、わたしはほんとうに大好きなことを仕事にしていたのだと思います。
そして、子どもたちからは、たくさんの愛をもらいました。


彼らはわたしの誕生日を覚えていて、クラス全員が手作りの品やお小遣いで買ったかわいらしい品をプレゼントしてくれました。
その愛のこもった品々は、大きな段ボール箱にあふれるほどだったのです。

日頃、手がつけられないほどのやんちゃ坊主たちが自宅に来て、照れくさそうにプレゼントを置いていったこともありました。
当時、わたしは教師という職にあって、若い多くの魂たちと親密な交流をおこなっていたのです。


★どんなことがあっても、めげずに教師をやっていられたのは、そんな子どもたちに支えられていたからです。




          木と光
                     木の間から射す陽光


まだわたしが大学生の頃、教生で通っていた学校で研究授業を行なった際、5年生のクラスを提供してくださったある先生が、わたしに言われたことばがあります。
それは、今でも忘れられず、なつかしく響いてくるのです。

そのことばは、わたしに大きな勇気と喜びを与えてくれました。
そして、その後教師になってからも、ずっとそのことばの状態を維持することになったのです。

彼はこう言ってくれたのです。

子どもたちが味方だね




教育とは ― その2 真の教育はあなたの中にある潜在能力を現実にすること

2011年01月17日 20:00


★ 教育とは何かを考え直すのは今 ★



わたしの教師時代を思い出したので、前記事で思いのままに綴りましたが、なぜ今「教育」を思い起こさなければならなかったのかを考えてみました。

「教育改革」が、今緊急に必要だからです。
国の政策のなかでもっとも顧みられていないのが、「教育」です。
いつの時代も未来をつくる子どもたちの一番重要な「教育内容」が置き去りにされてきたのです。

今の学校は、「物質世界」や「物質世界で生きるための方法」を教えているだけです。
しかし、もうこのような時代は終焉を迎えつつあります。
これまでの学校が、教師が、子どもたちに教え込んできたことは、もはや何の役にも立たないのだということを知るときが、刻々と近づいてきているからです。
そのときに気づいても遅いのです。今気づく必要があるのです。
教育とは何か?」を根本から考え直すべきときは、まさに今なのです。

このブログの読者さんの年齢層には幅があり、高校生から50~60代の主婦まで老若男女千差万別です。
スピリチュアルなことに関心を持たれている方が、子育てをすでに終えた40~50代に多く、小中学生のお子さんを持たれている若い人は、意外に少ないと言えるかもしれません。

また、一番「子どもの教育」について関心を持ってほしい20代~40代の親たちが、まったく「教育」に関心を持っていないのでは? と感じるのですが、いかがでしょうか?
子どもの教育は、本来その子の両親がおこなうものであって、学校に全面的に依存するものではありません。
現在、親になっている人たちが親になっていない。つまり、彼ら自体が精神的には子どもなので、教育などできない状態なのかもしれませんが、そのつけは彼らの子どもにいくのです。
まあ、その子どもたちも、そういう親を選んで生まれたのですから、何か学びがあるのでしょうけれど。

とにかく、「教育」に関して、緊急に皆さんにお伝えする必要性があるようです。

(今現在、わたしの周りにはおとなしかいません。ですから、今の子どもたちが現場でどのような教育を受けているのか、その実態を知りません。もし昔と比べて激変したところがあったら、ぜひ詳細に教えてください)



★ 日本の学校の問題点 ★



近年、「相対評価」は「絶対評価」へと移行したかもしれません。
でも、基本的なことは、昔からさほど変わっていないのではないかと思うのです。
たとえば、記憶や暗記力にたよる学習が主で、質問に対する答えはたいていひとつしかないというやり方は、どうでしょうか?

テストでは、先生の言ったことをオウム返しに答え、教科書に書かれた内容をそっくりそのまま正確に答えると、成績優秀になるという実に摩訶不思議なやり方です。

多数の答えが出せるようなテスト問題や、自分自身の考えを入れないと合格しないようなテスト問題は、この日本の小中学校に存在しているでしょうか?

しかし、アメリカではいくつかの答えが出せるようなテスト問題が多いと聞いたことがあります。(もう20年ほど前のことです)
なぜなら、ひとつの問題に対して、たくさんの答えを認める社会だからです。
アメリカにはさまざまな人種が住んでいますから、当然いろんな考え方があるし、それを尊重しようという考えがあるわけですね。
だから、思いもよらない変わった答えが出ることを教師は待っているし、それが出たときには大いに誉めるのです。

イギリスでは、同じ教室であっても、子どもたちの進度に合わせた教科書を選んで学習させていると、何かの本で読んだことがあります。(それも20年ほど前のこと)
イギリスでは、同じ年齢の子どもたちであっても、異なった教科書を使って学習しており、教科書を丸覚えさせるのではなく、子どもたちの持っている能力を引き出すことに重点を置いていたのです。すばらしいですね。


★教育とは、子どもたちの中にあるものを引き出すこと、彼らの潜在能力を現実にすることにほかなりません。

日本の教育者は、はじめから答えを与え過ぎているように思います。
言い換えれば、子どもたちが一人ひとりでじっくりと考える機会を与えてはいないのです。

もし、子どもたちの考えを尊重するという建前で、最初に彼らの考えを聞いてみるとしても、結局は、最後には、教師は正解と思われる答えを発表するにちがいないのです。

たとえば、こんな具合です……。

先生: この詩を書いた人は、どんな気持ちでこれを書いたのだろうか? 
    みんなどう思う? 

子どもたちがいろいろと自分の感じたことを発表します。

先生: うん、うん。君たちの考えはわかったよ。
    でも、先生はこう思うんだ……。

そして、教師の説明がつづきます。
それが唯一の正解なのだといわんばかりに。

そして、テストの際、自分の感じたままを書いた子は×で、先生の考えを書いた子は○なのです。 
詩人がどんな気持ちで書いたかなんて、ほんとうのところはその詩人にしかわからないことです。
どう受け取ろうが、読み手しだいで変わってきますから、答えなんて無数にあって当然です。正しい解答も、まちがった解答もないはずです。

もし詩人自身が採点をするとしたら、いったいどうするでしょうね。
「そう簡単に他人の気持ちなんて、わかるもんじゃないよ~」
なーんて言って、全員に×をつけるかもしれませんし、
「でも、いろんな感じ方や意見があるんだねー。驚いたよ~」
と言って、全員に○をつけるかもしれません。


★わたしの次女は、幼い頃からよく質問をしました。
漢字の読み方、ことばの意味……。
次女はわたしのことを、聞いたらすぐに答えが得られる「生き字引」と思っていたようですが、あるとき国語辞典と漢字辞典を与え、すぐに人に尋ねないで、自分で調べるように促しました。

自分で調べたことは、忘れにくいし、ある程度納得もできるし、検証もできます。
ですから、辞書は座右のひとつとして貴重です。
しかし、辞書を引っ張ってみても、まだそのことばの意味がよくわからないときがあります。

たとえば、その意味を表すことば自体が釈然としないから、そのことばをさらに調べると、そこには元のことばが書かれているといった具合です。辞書の中でぐるぐると回っているだけですね。
辞書というのは、このような「ふざけた仕組み」になっているのです。
となると、自分で考え、理解するしか方法がありません。


★ 何にでも疑うことは必要 ★



何でも鵜呑みにせずに疑うことは大切だ」と過去記事にも繰り返し書きました。
疑いは、生きていくために必要なことです。
なぜなら、疑わない限り、発見することはないからです。
自分で何かを発見したなら、そこには大きな歓びがもたらされるでしょう。


「見えない世界」を感知することに関しても同様です。
たとえば、あなたには「見えない世界」を認知することができず、理解できないとします。
それで、少しはわかりたいと考え、「見えない世界」を語るさまざまな人の本を読むとします。それで、あなたは「そうなんだ」と思います。
あなたは、その本に書かれていること自体は何とか頭では理解できるかもしれません。でも、それがほんとうなのかどうかはわかりません。
だれの言っていることがほんとうで、まちがっているのかなんて、想像もつかないはずです。確証がないからです。

たとえ、アカシックレコードを読んだからって、未来のことなど、ほんとうのところはわかりません。
人類の意識も、瞬間瞬間に変化していくのです。それに応じて、現象も変化するからです。

結局その都度自分で感知しなければ、わかりようがないのです。
あなたが彼らと同じ体験をすれば、ようやくその人が言っていたことが腑に落ちるのです。

だから、今わからないからと言って、むやみやたらにすぐに答えを求めないことです。
自ら行動を起こそうともしない間から、安易に質問したり、批判したりする者は、愚か者だということです。

ブログの読者さんは、たいてい「知りたがり屋さん」です。
だから、訪問されているわけです。そして、質問もされます。
とにかくわたしのブログ内容を全部読んでください。それでも、わからないようなら、ご質問をどうぞ」と言っております。
記事のどこかにその人が求めている答えがあるかもしれないからです。
読まれていても、まだ気づいていないことがあるかもしれません。
ですから、繰り返し読み返してみてくださいとお願いしています。

また、質問をされても、すぐに答えが得られるとは思わないでほしいのです。
答えないのは管理人の自由ですし、相手にもう少し自分自身で考えてもらいたいと思うときには、あえて答えないようにしています。相手によっても、答え方は変わるのです。
「自分だけ無視されている」なんて、つまらない考えだけは起こさないでくださいね。
答えが返ってきたら「ラッキー!」くらいに思っておいてください。


★「真の教育とは?」
そう訊かれたら、わたしはつぎの和尚のことばを伝えたいと思います。


真の教育は
あなたの中に隠れているものを
―神があなたの宝として入れておいたものを―
取り出し 発見し 明らかにし
あなたを輝かせるためのものだ

Educationは
Educareという言葉からきている
それは、あなたたちを
闇の中から光へ導く、という意味だ
途方もなく深い意味だ
あなたを、闇から光へと導く

ウパニシャッドは
「神よ、我らを、虚偽から真実へと導きたまえ」という
「神よ、我らを、死から不死へと導きたまえ」
「神よ、我らを、闇から光へ導きたまえ」

これこそ、まさに「教育」の意味だ
         
          OSHO「ニューチャイルド」より



教育とは―その3 親が唯一子どもにできること

2011年01月18日 16:35


子どものとき、あなたは両親のことをどう思っていたでしょうか?
お父さんやお母さんが大好きでしたか?
それとも、大嫌いでしたか?
今も同じ気持ちですか?

だれにも両親に対する思いというものが、根深く残っていると思います。
子ども時代に両親から愛をもらったか、もらわなかったかで、その後の人生(ものの見方・考え方・感じ方)は大きく変わっていきます。

おとなになっても、自分を愛せない人は、たいていは両親(家族)から愛をもらえなかった人です。
過去生からひきずってきている場合もあります。
自分を愛せない人は、他者を愛することができません。
これは利己的な低次元の愛を言っているのではありません。
自分さえよかったらいい、自己保身のためなら何をしてもいいと考えている人は、自分を愛せていない人です。
わかりますよね?
このことは、過去記事でも繰り返し言っていますが、それはまちがいのない真実だからです。

生まれて初めて出会った人、すなわち母親からの愛をもらえなかった子どもの生涯は悲惨です。彼らは愛されたことがないために、自分や他者をどうやって愛したらよいかわからないのです。

両親から愛をもらえなかった子でも、祖父母や先生など、他者に愛されたことがあるなら、またちがってきます。要するに相手がだれであろうと、愛を感じたその体験、その記憶が大切なのです。

彼らは愛をもらうために、いろんなことをしでかします。
たとえ叱られるというマイナスのストロークであっても、何か返ってくるものを求めるのです。
無視は最悪です。自分のほうを見てほしいばっかりに、殺人だって犯すのです。
世の中にはそういう人がたくさんいます。


★ 子どもの愛し方をまちがえている親たち ★



親は(いろんな親がいますが)、たいてい子どもたちに対して残酷です。
彼らは子どもたちに愛を与えるのではなく、自分の野心、願望を与えるからです。


たとえば、父親が医者なら、息子も同じ医者になってほしいとか、自分は政治家になれなかったから、息子は政治家になってほしいとか、娘は有名人か、裕福な家に嫁いでもらいたいとか…。

多くの親は世間体をとても気にします。
いい学校、いい就職先。何がいいのか、どこがいいのか、わたしにはさっぱりわからないのですが、そういうことを気にする人たちがたくさんいることを知っています。

どんな仕事であっても、他者のために大いに役立つなら、立派な仕事なのですが、仕事について偏見を持っている親(特に父親)が数多存在するのです。
世間のほうではたいして気にもしていない(他人のことなど、どうでもよい)のに、外面ばかり体裁ばかりを気にします。

そういう親は、息子や娘を愛していると思い込んでいます。
しかし、彼らが愛しているのは自分のエゴです。
塾や習い事、親が選んだ学校…。
ほんとうにそれが楽しくてたまらなくて通っている子どもは、どれほどいるでしょうか?
子どもたちは親に条件づけられ、それが親の願望や満足の手段であることさえ知らずに育てられていくのです。

子どもには子どもの人生があるはずなのに。
ブランドものの洋服を着せられた子どもたち。
子どもは親の好みに叶うように生まれてきたのではないのです。

自分の願望を子どもに押しつける親たちの多くは、真の幸せとは何かを知りません。
彼らは、お金を持っていたら、社会的な地位や名誉を持っていたら、幸せだと思っているのです。
彼ら自身が、現にお金のために、お金持ちになるために、また、社会的な地位や名誉のために働いている人たちだからです。

★もし、そうでないのなら、彼らは自分の子どもたちを最初から尊重し、自由にしておくでしょう。
そして、きっとこう言い聞かせるにちがいありません。

「おまえたちは好きなことをしていいんだよ。大きくなったら、おまえたちの大好きなことを仕事にしなさい」
「人を頼らず、自分の足で立ちなさい。失敗してもいいんだ。まちがってもいいんだよ。そうしたら、多くのことが学べるから」
「だけど、同じまちがいを繰り返してはいけないよ。それは愚か者になるだけだから」


それで、子どもが将来愚か者になったとしても、それは子どもが自分自身で選んだことです。
親ができることは、子どもがどこでどんなまちがいを犯したのか、その子自身が気づき、理解できるように、その子が望む方法で、サポートしてあげるだけです。



★ その子のなかにある特質を引き出す ★



★子どもは、あるひとつのエネルギーを体験するために地上に生まれてきます。
前の生ではできなかったことを、今回やってみたいからです。
そのエネルギーの質がわかれば、子どもの生きる方向性に陰ながら援助を与えることができるのです。

親が子どもに対して唯一できること。
それは、「その子のなかにある特質を引き出してあげること」です。 
子どもたちが「内に秘めているエネルギーを十分に体験させてあげること」です。

もし、その子のエネルギーの質がわからないのなら、その子がその子自身になれるように、その子が自ら望むことに対して、あたたかい眼で見守ればよいのです。
それだけです。あとは自然に成長していきます。
過干渉と過保護は、子どもを破壊し、愚か者にするだけです。



★自分が子どもの頃に親に対して腹を立て、親に憎悪を抱いていた人は、それを自分の子どもに対して繰り返さないことですね。
もし今現在、親子のミゾが深いと感じている人は、自分の子どもの頃を思い出すことです。きっと何か気づくことがあるはずです。
自分が自由に育てられてよかったと思える人は、親に心から感謝してくださいね。


現在、あなたが、まだ幼い子どもの親ならば、小中学生を持つ親ならば、また、たとえ子どもが社会人となっていようとも、遅くはありません。今日から実行してください。
子どもたちが、他人と同じようになるのではなく、ほかのだれでもない自分自身になるように。
ほんとうの自分になれるように支援してください。

そのとき、あなたは気づくでしょう。
支援をするためには、あなたがほんとうの自分を生きていなければならないということに。


教育とは―その4 批判家ではなく、行動家となることを促す

2011年01月20日 19:45



わたしが住んでいる地方では、今年に入って毎日のように雪が降り、道路事情が悪いために外に出られない日々がつづいています。
全国的に見ても、世界的に見ても、雪の多い地域の方々は、ほんとうに大変だろうなと、身をもって感じている今日この頃です。


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外出ができないこともあって、読書する時間が増えました。
人の声が聞こえてこないという、いつにない静かな日々のなかで、読書三昧ができるというのは、幸いなことかもしれません。
そのなかで、久しぶりに感動を覚えた作品があったので、そのうちのひとつをご紹介したいと思います。


世界は飢餓や憎しみ合いや偏見や
戦争やテロ行為や自然破壊の
最後の脅威に支配されている。

だからこそ、手遅れになる前に、
私たちに残されたものを守るために、
すべての人々に共通するヴィジョンを
探していかなければならない。

役に立たない方法にはもう飽き飽きしているのだ。

私たちは富や快楽や名声など、
人間的な欲望を満たす偽りの神を
追い求める虚しさを見てきたし、
未来の子どもたちが無味乾燥な破壊を嘆いて
泣いている声も聞こえている。

ほかのすべてを試して失敗してきたのだから、
スピリチュアルな道こそ
最後に残された答えなのだ。



これは、トム・ブラウン・ジュニア著の「ヴィジョン」の冒頭の部分に載せられていることばです。

著者のトムは、7歳のときに、彼がのちに「グランドファーザー」と呼ぶアパッチ族の古老スト―キング・ウルフと出会います。
そして、10年間、サバイバルやトラッキングやアウェアネスの技術を学んだのです。

「ヴィジョン」には、彼が子どもの頃に「グランドファーザー」から学んだ教えの数々が、珠玉のように綴られています。
読まれた人も、再度思い出してみてくださいね。


★ 怒る前に、必ずほかにできることがある ★



★トムはつぎのように語ります。

何かに腹を立てたり、物事をネガティブに捉えたりしていると、グランドファーザーはいつでも、「どうして、おまえはそのような気持ちでいる方を選んだのだ?」とたずねた。

その度に、私は自分の内面を省みた。
すると、物事の見方が変わり、自分の考え方や態度を変化させることができた。
このように、「自分の現実を創り出す」という最初の訓練は、いかに柔軟な頭を持ち、必要に応じて考え方を改めることができるかということだった。
自然界においては、この柔軟性と変化が種の絶滅を防いでいる。

私は何かネガティブな状態に陥ると、どうしてそう感じるのか、自分自身に問いかけるようになった。
すると、そのような気持ちを自分の意志で変えることができるようになり、マインドと感情をコントロールすることができるようになったのだ。
 



★あるとき、トムは二人の男がピックアップ・トラックから砂の道沿いにゴミを捨てているのを見ます。
涙がこみ上げ、その男たちを殴ってやりたい衝動に駆られますが、グランドファーザーのあることばを聞いて、考え込むのです。
怒りをなくして、物事を違う角度から見たり、理解したりするにはどうしたらよいのか?」と。
そこで彼はグランドファーザーが何度も言っていた「怒る前に、必ずほかにできることがある」ということばを理解します。

トムは男たちに近づいて、こう言ったのです。
「ここはぼくの大好きな場所だから、どうかゴミを捨てないでください」
「ガソリン代を払いますから、無料のゴミ捨て場までゴミを持っていってください。必要なら、ぼくもいっしょに行って手伝います」
そう言って、ポケットにあった25セント玉を差し出したのです。

さて、その男たちはどうしたと思いますか?

彼らは少年のことばやその真剣さに驚き、ショックを受けていたというのです。
男たちはすまなかったと何度も言い、ゴミを集めて数キロ先のゴミ捨て場まで持っていくことを約束してくれただけでなく、自分たちが捨てたのではない別に投棄されたゴミまで、トラックに積んで行ったというのです。

トムをずっと観察していたグランドファーザーは、こう言っています。
「怒りはこの問題を解決しなかったであろう。同情し、教えてやることが唯一の答えなのだ。もし、おまえが心に怒りを感じたままだったら、男たちは何も学ぶことはなかった。しかし、違う方法を模索し、どうすればよいか自分自身で考えついたのだ……」

トムにとって、グランドファーザーは、「自分にとっての現実を創り出しなさい」と教えてくれた人でした。
自分の目の前に起きてくるものごとや状況、かかわってくる人たちをどう受け止めるかは、自分自身の心構えによって決まります。どのような心構えをもって、自分たちの現実を創り出せばよいのかを、彼は学んでいったのです。


★ 批判家と行動家 ★



世界には、批判家と行動家という二つのタイプの人間しかいない
と、グランドファーザーは言っています。

批判家は座ったまますべてを批判し、何かを変えようとするわけでもなく、生きるのにも無気力な人たちだ」というのです。

批判家たちは何もしないでいて、実際に行動を起こしている人を批判するのです。

行動家こそ、変化をもたらす人たちです。
ほんとうの意味での行動家は、ほんの一握り」だと、グランドファーザーは言います。



わたしはグランドファーザーに深く共鳴し、トムに深い共感を覚えました。
批判家は、左脳だけを働かせている非創造的な人たちですが、
行動家は、常に右脳が働いている独創的な人たちです。
そこには詩があり、音楽があります。
あらゆるものから気づきを得て、何かを創造しつづけるのです。

学校は、主に脳の左側を活性化させているところです。
右脳を閉ざし、左脳だけを支援するような教育は、緊急に破壊すべきなのですが。

真の教育とは、子どもたちを「批判家」にするのではなく、「行動家」にさせることではないでしょうか。


今、あなたは左脳派ですか? 右脳派ですか?

批判家でしょうか? それとも…。
変化をもたらす一握りの行動家でしょうか?




教育とは―その5 今何をしたらよいかわからないあなたへ ヴィジョン・クエストのススメ

2011年01月22日 20:30



前回「行動家こそ、変化をもたらす人たちである」という記事を書きました。
すると、「僕に決定的に足りないのは、本当に行動力だと思います。光の仕事人さん、どうやれば真の行動はできるでしょうか?」という高校生のインディゴさんからの質問がありました。一部紹介させてくださいね。


僕は「旅をしよう」と思っても、「やっぱ高校生だし無理か」とか「道具もないし、金もないしな~」なんていう考えが現れ「じゃあ、またいずれ」と思って結局行動できずじまいで終わってしまうのです。
でも結局それも、僕自身の甘えもありますが、「高校生は大人の言うことを聞けばいい」だとか「何をするにも親の許可が要る」なんていう社会体制に問題があると思います。
でもそんな社会の何を一人の高校生の力で変えられるのでしょうか? 
(全文は、「教育とは―その4 批判家ではなく行動家となることを促す」のコメント欄をお読みください)


★この問いに対して唯一答えられることは、自分の「思いの制限をひらいてください」「思いの制限を取り外してください」ということです。

自分勝手に「これはできない」と思い込んでいる幻想を破壊すること、そんな自分を一度無くしてしまう(ゼロの状態にする)ことです。
その行為自体に、親や先生の許可など要りませんよね。
自分さえそれを許せば、精神的な修養(瞑想や読書)など、今できることは無数にあるはずです。

★また、「行動するということ」は、何もポジティブな方向へと前進させることだけを言っているのではありません。
全く行動しないこと」、「意識して、何もおこなわない」ということも、「行動」のひとつだと考えてみてはどうでしょうか?

まだそのときが来ていないときには、何をやってもうまくいかないし、できません。
その人にまったく準備ができていないうちから、事が成就するということはないのです。
ですから、事がスムーズに進まないときには、まだその時期ではないと、自粛することも大切です。
期が熟せば、おのずから実は生り、その実は大地へと落ちるのです。



今回は、前回紹介した「ヴィジョン」の著者トム・ブラウン・ジュニアが、人生やスピリットに関する偉大な知恵を授かるために、自己が「小さな死」をもって臨んだ「ヴィジョン・クエスト」についてお伝えしましょう。


★ ヴィジョン・クエストとは?
 ★



ヴィジョン・クエストとは、「グレートスピリット(造物主)のヴィジョンを求める儀式」のことを指します。

ヴィジョン・クエストは、一生に一度だけおこなうものなのではなく、人生の一大事に至ったときに何度でもおこなうものだとされています。
苦痛の中で、肉体は浄化され、マインドは破壊されます。
すると、現実世界を越えた超自然の世界、グレートスピリットが示してくれる大自然の声が聞こえ、精神(スピリット)の世界が見えてくるというものです。

ヴィジョン・クエストに始まりはあっても、終わりはありません。

特に人生最初のヴィジョン・クエストは、インディアンたちにとっては、子どもからおとなになるための重要な通過儀礼となっています。
食事を断ち、日頃の快適な生活をあきらめ、理性的な考え方を捨てるための、いわば「自己否定の最終的な方法」と言えるでしょう。

ヴィジョン・クエストとは、苦行生活や孤独でいること以上のもので、「原野を一人でさまよう苦行よりもはるかにパワフル」だとして、グランドファーザーはつぎのように語るのです。

一度その献身を決意して、限られた円の中に入ったら、それが4日でも40日でも、おまえたちは自己に対して、また、造物主に対して、すべてをかけてヴィジョン・クエストをまっとうすることを誓わなければならない。
自己を否定し、すべての快適さや気晴らしを犠牲にすることで、自分がヴィジョン・クエストに値する人間であることを証明するのだ
」と。

そして、トムも語っています。
外的な影響を受けずにスピリチュアルな知恵を授かるためには、ヴィジョン・クエストをおこなう以外に考えられない」と。


★ ヴィジョン・クエストに取り組んだ少年 ★



気が散漫する外側のできごとから孤立することによって、自分の心の中を知ることができるということをグランドファーザーから教えられた幼いトムは、ヴィジョン・クエストがしたくてたまらなくなり、夏の終わりに自らこっそりとおこなおうと、心に決めるのです。

ところが、その心を読まれたかのように、トムは何の前触れもなく、グランドファーザーに「明日、おまえは小さな死を体験する。今夜中にクエストを行う場所を決め、準備をしなさい」と告げられ、恐怖感を覚えます。

トムは人がだれもいない森のやぶの中で、服を脱ぎ、水の入ったボトル以外は何も持たず、横になることもできないほどの小さなスペースで、4日のあいだ、眠気と闘います。
恐怖と不安が募る暗闇のなかで、「今なぜここにいるのか?」を問いつづけながら、毎朝太陽が昇るのを待ったのです。

しかし、高く空に昇った太陽の光は、少年の頭にズキズキとした痛みをもたらし、容赦なく肌を焼き焦がしました。
幼いトムは体力の消耗で身体が震え出し、しだいに正気ではなくなり、自信喪失に襲われ、パニック状態に陥ります。
眠ってはいけないと思いながらも、彼はしばしば眠り、悪夢を見ました。
その場を去るべきたくさんの言い訳と理由を考えながらも、少年は最後の日までがんばろうと決意するのです。

そのあたりのトムの苦悩の描写は、「ヴィジョン・クエストー造物主は私たちそれぞれに違う方法で語りかける」に詳細に書かれています。

そして、これ以上我慢ができなくなり、肉体的に崩壊し、精神的に分別を失い、感情的に死んでしまったと感じる瞬間がやってきます。
トムはとうとう自分自身に負け、降参したのです。

★そのとき、少年に変容が訪れます。
突然彼は知るのです。
自分がだれで、どこに向かっているのか、ほんとうにやりたいことが何なのか……。

トムは気づきます。
恐怖は自分自身が作り出したもので、すべての出来事も自分が選んだ結果なのだということを。
自分の道は、たくさんある選択の中から自分が選ぶものなのだということを。
空っぽで行き止まりの世俗的な社会ではなく、自分は自然と自然の法則に近いスピリチュアルな人生を歩んでいきたいのだと。

ほかのみんなが選ぶ快適さや安全や退屈ではなく、至上の歓喜に満ちた人生を選びたい…。
トムはそうつよく思ったのです。
そして、おとなたちの批判や他人のために「するべきこと」に、まっこうから反抗していこう、少なくとも反抗することをあきらめずに死のうと思ったのです。 


★彼はその章の最後にこう綴っています。

4日目の朝、太陽が昇ると、私はやぶの中から出て、
振り返ることなく歩き出した。
その墓場で私の一部、恐怖に怯え、
心ではなく外部の「するべきこと」に従っていた私が死んだのだった。




ヴィジョン・クエストは自己を知るだけのものではない。
真の自己に到達するということは、
魂がスピリットの世界を理解し、
コミュニケーションを
はかることができるようになるということである。
そうして、創造の世界の声や造物主の知恵を
知ることができるようになるのだ。
そこで初めて、造物主からの使命であり、
人生の遠大な目的である
ヴィジョンというものが与えられる。 
              「ヴィジョン」より




★ ヴィジョン・クエストのススメ ★



★ヴィジョン・クエストには、何もありません。
グランドファーザー曰く、
すべては単調なので、マインドは弱まり、やがて眠りに落ちるだけなのです。
しかし、これが重要かつ必要なのです。

グランドファーザーはつぎのようにつづけます。

すると、心によって導かれた本当の自己が現われる。
論理的なマインドが眠り、
あれをしろ、それはやめろとやかましく急き立てる声が消えて初めて、
自分の現実は純粋なものになるのだ。



★もし、あなたが「何かしなきゃ!」と急き立てられ、常に心が落ち着かずに、あちらこちらに揺れ動いているのなら、
そして、それでいながら、実際に何をしたらよいのか、さっぱりわからないと思っているのなら、
ぜひヴィジョン・クエストをおこなうことをお勧めします。


ハート
そんなこと、どうやってやればいいの?
近くに森もないし、指導者もいないし…。
ほんとうに死ぬかもしれないじゃないの。
そんな危なっかしいこと、できるもんじゃない。

と、またまた考え始めているあなた、
まず「思いの制限」を取り払いましょう。
そして、そのやかましい猿(マインド)を、
あなたの心の中から追い出しましょう。

やろうと思えば、どこでだってできます。
たとえ都会の真ん中であっても、小さなマンションの一室でも、
同じような状況を創り出すことはできます。
4日のあいだ断食してみることは可能ですね。
「ヴィジョン・クエスト」は、
マインドでがんじがらめになったあなたを開放し、
ほんとうにやりたいことを教えてくれるでしょう。



教育とは―その6 すべての生き物を尊ぶ教育 

2011年01月26日 19:30



2回にわたって、トム・ブラウン・ジュニア著の「ヴィジョン」をご紹介しましたが、今回でとりあえず終わりにしようと思います。
なぜなら、高校生のインディゴさんのように、すでに「ヴィジョン」の本を買った方もおられるからです。あとは、自分で楽しみ、感動していただきたい! と、切に思うからです。

「自分が読みたい!」と思ったら、すぐに買って読む。
これは、まちがいなく「真の行動」です。
こういう人は、自分に素直で、気づきが早いです。

わたしは、読みたい本がつぎつぎと現われてくるときは、それが「わたしにとって有益な本であるかどうか」をハイアーセルフに尋ね、「YES」の場合は、インターネットで即注文することにしています。
その時期によって、自分に必要な内容があるので、「読みたいけど、今お金がないしなぁー」なんて考えて放置していると、大切なものが得られないままになってしまうからです。
結果的には、「やはり買ってよかった!」と納得ができます。

ハイアーセルフが「NO 」と言う場合は、「それは有益ではないから、読む必要はないよ」と言っているわけですから、わざわざ買いませんが、「読んでも読まなくても、どちらでもいいよ」という場合は、半分くらいは試しに買っています。でも、満足度は、「今いち」というのが真実です。

本を読むというのは、アクティブなことです。
外側に向かって行動できないときは、じっくりと本を読んで、内側を充実させ、自分に豊かさを与えることです。

内側が十分に充電されると、また外側に働きかけたくなってきます。
わたしの人生は、これが交互に来て成り立っています。
今までは充電期間でしたが、そろそろ外側に向かいかけているところです。
雪の下でじっとその瞬間を待っている新芽さながらです。

この「ヴィジョン」に登場するグランドファーザーの教えのすばらしさは、至る所にちりばめられていますが、特にわたしが感動した箇所を要約してご紹介します。


★ すべてが先生 ★



12歳になったトムは、グランドファーザーから初めて狩りを経験するときが来たことを告げられます。
先祖の儀式に従って、近距離から自分の手で大きな動物を狩るというのは、一人前の男となるために必要だったからです。

トムはたびたび断食をおこない、祈りの時間を持ち、スエット・ロッジによる浄化をし、動物をしとめるための槍を作る作業に何時間も費やします。
秋におこなう狩りを、彼は早春の頃から準備したのです。

しとめる動物はシカでした。
自然の法則に合わせ、弱いものや病気のもの、冬を越せそうにないシカを探したのです。

トムが選んだのは、その年の春に生まれた小さなオスのシカでした。
その小ジカはケガを負い、脚を引きずっていて、走ることができなかったのです。

初秋を迎えるまで、トムはその小ジカの後を追い、観察しつづけます。
彼はその小ジカと母親のシカといっしょに暮らしているといってもよいほど、接近していたのです。
そのうち彼らはトムの存在に恐怖心を抱かなくなっていき、トムを受け入れるようになっていきます。

狩りは自分の中の「動物」と「本来のマインド」によっておこなうのだと、トムは言います。
彼はマツの木の上から小ジカがやってくるのを待ち、木の下に来たら飛び降りて、槍で首の動脈を切ることを何度もシミュレーションするのです。

そして、とうとう狩りをおこなう瞬間がやってきます。
そのようすを、つぎのようにトムは記しています。


やぶから出てきた小ジカが、マツの木から数メートルのところで立ち止まり、木の上にいる私のことをじっと見つめていた。
小ジカはとても弱々しく見えた。
人間の存在に当惑してしばらくがたがたと震えていたが、それが私だとわかると、これまでのように信用して、ためらうことなく私の方へと歩き出した。
私はそれまで一切攻撃的なことも脅すようなこともしなかったので、よろよろ歩くシカの足取りには恐怖を感じているようすはなかった。

私は何も考えず、シカが進んでくるのをじっと眺めていた。
分析も、時間や場所の観念も存在しなかった。
私と小ジカと、そして狩りだけだった。



トムは木の上から飛び降りて、小ジカを地面へと押しつぶし、首の後ろあたりを槍で切りつけます。その激しい動作によって、槍は折れてしまうのです。
つぎの描写には、そのときの凄まじさがうかがえます。


小ジカは痛みのために激しくのたうち回った。
その瞳にはものすごい虚不信が宿っていて、私の魂へと訴えかけるようだった。
にもかかわらず、私の中の「動物」はシカの首をつかみ、窒息死させようと力を込めた。
動脈から噴き出した血が、地面や私の顔や体を真っ赤に染めていった。
さらに、唸り声を上げながら、私は小ジカの頭を地面に激しく叩きつけた。
私の体は恐ろしい興奮状態に震え、噴き出す汗やシカの血がどろどろと身体から流れ落ちていった。

シカはそれでもなお必死に抵抗を続けた。
だが、やがて、動かなくなった。
そのとき、私の指の間からシカのスピリット、シカの命がすり抜けていった。
その目には恐怖だけが浮かんでいた。
死に絶えたシカは目を閉じた。



★シカの頭から手を離した瞬間にトムのなかの激しさは消え、突然感情が押し寄せます。
自分の手によって死んだ小ジカを見て涙があふれ、殺すという行為がもっとも残酷な破壊だと知るのです。
そして、小ジカと友だちのように仲良く一緒に過ごしてきたことを思い出します。

「一人前の男になるための儀式」のために、自分を信用してくれた友だち(小ジカ)の人生を奪ってしまった。そんな自分を軽蔑し、トムは激しい怒りを覚えるのです。
そして、この狩りを讃美し、トムにシカを殺すことを命じたグランドファーザーを、それ以上に軽蔑し、憎んだのです。

トムは決意します。
グランドファーザーの足元に小ジカを置いたら、永遠に森を去ろうと…。
もうグランドファーザーと関わりをもつのは、まっぴらごめんだと、彼は思ったのです。

キャンプ地でトムを待っていたグランドファーザーは、トムが言葉を発する前に、こぶだらけの指をトムに向けて、こう言います。


グランドサン、
その小さなシカに対する今のおまえの気持ちを、
地面から抜いた草の葉一枚に対しても
同じように感じることができたら、
そのとき初めて、
そうして初めて、
おまえはすべての存在と《一つ》になることができるであろう。

  

        こじか
              ソザイング提供 「振り向いた小鹿」より



★その瞬間、トムは気づくのです。

自分が、シカや一部の大きな動物だけを大切だと思っていて、他の小動物や植物の叫び声や痛みにまったく気づいていなかったことを…。

植物や小動物だって、シカと同じように大切だということを…。

彼らだって、ほかの生き物と同様に生きる権利があるということを…。

たとえどんな体に宿っていようと、命は命、スピリットはスピリットであり、自分たちと同じように痛いと感じるということを…。 

岩や水や土のスピリットは植物のスピリットよりも低く、植物のスピリットは動物のスピリットより低いと考え、知らず知らずのうちに、スピリットの階級を作り上げていたトムは、それがネイティブ・アメリカンの教えに反するものだったことにはっきりと気づくのです。



雑草
            雑草

         
★私事ですが、もう20数年前のこと、庭の雑草が生い茂り、かなりひどい有様になっていたので、しかたなく草むしりをしようと思ったことがありました。(草取りは夫が担当だったのですが)

「人間って勝手なんだよね。きれいな花を咲かせている植物は残しておいて、その他の雑草は全部抜いてしまおうなんて、ホント勝手だよ。ごめんね、悪いね」

そんなふうに心のなかで思いながらも、抜き始めたのですが、ある草に手を触れた瞬間、わたしはその草から発している悲痛な叫び声を聞いたのでした。
「わかった、もうしない!」
それ以来、どんなにむさ苦しい庭になろうとも、草むしりはできなくなりました。
部屋の観葉植物の黄色くなった葉っぱをとるときも、必ず「ごめん、とらせてね」と言ってからにしています。


グランドサン、
その小さなシカに対する今のおまえの気持ちを、
地面から抜いた草の葉一枚に対しても
同じように感じることができたら、
そのとき初めて、
そうして初めて、
おまえはすべての存在と《一つ》になることができるであろう。



このグランドファーザーのことばは、トムだけでなく、読む者の心にも大きな打撃を与えます。
一人前の男となるためにシカを殺す儀式」と「すべての生き物の生命を尊ぶ教育」とは、まるで逆説であるかのように思えます。しかし、そのパラドックスは、グランドファーザーの一言によってみごとにつながり、統合されるのです。


(人間は)宇宙の法則に従って生きるのではなく、
自分とほかのすべてを切り離し、
その一番上に立っていると感じている。

人間は本当のものを見失ってしまい、
自分の現実に対して無知だから、
自分が間違っていることもわからないのだ。

人間は自分と違う姿をしているものは劣っていると見なすので、
痛みを知ることもない。
血を流したり、音を発することがない存在には、
スピリットなど存在しないし
痛みも感じないと思っているのだ。


子どもたちよ、
その経験の有無にかかわらず、
すべての人や物事は先生なのだ。
もし、私たちが耳を傾けることができたら、
それぞれ何かを教えてくれるはずである。




ハート
グランドファーザーが、子どもたちに教えてきたこと。
それこそが「真の教育」と呼べると、わたしは思います。

ネイティブ・アメリカンやアボリジニ(先住民)と呼ばれる人たちは、
今もなお、このようなすばらしい教育方法を受け継いでいるのだということを、
わたしたちは真剣に思い返してみる必要があるのでは? と思います。

さて、あなたは、どう感じられたでしょうか?

この記事や、トム・ブラウン・ジュニア著の「ヴィジョン」から気づかれたこと、
感動された箇所などがあれば、ぜひコメントください。






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