正義を唱える戦争に「愛」はない

2010年12月31日 03:00


★ 正義という名の大義名分 ★



アメリカのブッシュ元大統領が「米国とその同盟国は、テロに対する戦争を勝ち抜く」と全米テレビで演説し、「すべての国はわれわれの味方になるのか、テロリストの側につくのか、どちらかを選択しなければならない」と議会で主張したのは、2001年9月11日に世界貿易センターに二機の飛行機が激突してからまもなくのことでした。

彼は多くの人々の命を奪ったテロを決して許さないとして、アフガニスタンへの爆撃を始め、ビンラディン氏を殺害することに日夜明け暮れました。そのために犠牲となった罪なき民は数知れません。

アメリカは「自衛権の行使」「国際テロ組織の撲滅」を謳い、「悪に対する制裁」だと信じて疑わなかったのです。
それは「正義のための戦争なのだ」と…。

目には目を、歯には歯を」ですね。
あなたがたの命の血を流すものには、わたしは必ず報復するであろう」と言った旧約聖書の父神さながらです。
「正義」という名の大義名分の裏にあるのは、まちがいなく「復讐」です。


ブッシュ元大統領は、熱心なキリスト原理主義者だそうですが、「右の頬を打たれたら、左の頬も出しなさい」というイエスの愛の教えはどこへいったのでしょうね。 
無抵抗主義など、すっかり忘却の彼方です。

イエスは「汝の敵を愛せよ」と説きましたが、キリスト教徒は悪と闘い、悪を裁き、悪を討ち滅ぼすべしと、思い込んできました。
悪魔を絶対的な悪とし、善悪二元論を説いているユダヤ教、キリスト教(教会)、イスラム教、ゾロアスター教などの宗教は、自分たちを善だと信じ、相手を悪と決めつけて叩きつぶそうとするのです。

彼らは悪をこの世から排除すれば、平和が訪れるものだと信じ込んでいます。
しかし、悪は外側にあるのではなく、むしろ人々の内側にあるものです。
そのことは過去記事でお話ししましたね。

★過去記事 自分自身を征服すること―天国に入るための必要条件 参照


個々の人間の心が調和に満ちていたら、戦争など起こるはずがないのです。
アメリカにとっては悪の根源のテロ組織ですが、テロ組織の方から見れば、アメリカこそが悪なのです。
互いに相手を悪だとして正義のために相手を滅ぼそうと、競い合っているわけです。

わたしたち第三者から見れば、どちらも極端に走っていて、正邪の判断がつきません。
なぜなら、かけがえのない命を奪うという点では、両者は全く同じ罪を犯しているからです。

人間は、昔から「正義の御旗」を振りかざして戦いを繰り広げ、多くの命を奪ってきました。
正義のために悪を滅ぼすのだ」と言われると、たいていの人は反論できなくなってしまいます。
正義」は「」とイコールだからです。
ですから、人々は神の名において、堂々と殺人を犯してきたのです。


人を一人殺すのは殺人犯で、複数殺すのは極悪犯。何万人も殺すのは英雄で、全て殺すのは神なのです。
神は悪魔よりもひどいことをしますね。

では、人間は神のためであれば、人間を殺してもよいのでしょうか? 
その行為は、彼らの言う「悪」にはならないのでしょうか? 

戦争に駆りだされて死んでいった戦士たちや、まちがって殺された民衆はもう戻ってきません。
その責任はだれがとるのでしょうか? 
神でしょうか? 

神の名において戦争を起こし、多くの人を殺したのなら、その責任は神にあるといってもよいかもしれません。
天にいる父神は、一体これをどう裁くのでしょうか? 

もしかしたら、父神は「そんなことは、おまえたちが勝手にやったことで、わたしは知らない」と言うかもしれません。
それこそ「神の名をみだりに唱えるな」とお怒りになるかもしれませんね。


★イスラム教は聖戦(ジハード)ということばをよく使いますが、罪なき人々まで殺戮して、それが「聖なるもの」であるという根拠がどこにあるというのでしょう。
人々には、殺される義務などはありません。
生きる権利があるのみです。



当時ブッシュ氏は「アメリカの味方になるのか、それとも敵になるのか、どっちだ?」と、世界中の人々に問いかけていました。
イラク攻撃の際にも、やはり同じ問いかけをしていたように思います。

★あれかこれか、どちらかを選ばなければならないというのはアリストテレス的で、西洋の思考形態です。
両極端で、真ん中がありません。
わたしたちはどちらも選ばないことだってできるのです。


★イエスは言っています。

裁くものは裁かれる。汝裁くなかれ」と。



裁くということで思い出しましたが、フランスを救ったことで有名なオルレアンの少女、ジャンヌ・ダルクは魔女だとして火あぶりの刑に処せられましたね。
でも、300年後には「聖女」だったと言い直され、今では〈聖ジャンヌ・ダルク〉となっています。
同じ女性が、魔女になったり、聖女になったり、「だれかさんの都合」で、極端に変わってしまうのです。

そこには、聖職者と呼ばれる人たちの保身と虚偽があるだけだと言っても過言ではないでしょう。
彼らは法衣という隠れ蓑をまとい、政治家同様に絶大な権力を持ち、長い歴史のなかで多くの人々を従えてきました。また、彼らにとって都合の悪い真実は一切公表せず、すべて闇に葬ってきたのです。


★ 宗教には、大きな表と裏がある ★



宗教には、大きな表と裏があります。
光が強ければ、闇もまた深いのです。



宗教的な人間は根本的な弱さを持っている」と和尚(OSHO)は言います。

他人を自分のようにしたい。
これは非常に危険だ。
これは暴力をふるうことだ。
他人を自分と同じようにしようとするのは醜い。
自分の観点をほかの者に説明するだけで充分だ。
それを、他人事に首をつっこんでは、自分の信じることを他人も信じるように強いるのは、
われわれがいうところのいわゆる精神的暴力に等しい
」と。

さきほどのジャンヌ・ダルクの例は、精神的暴力どころではありませんね。
教会は、人を悪魔という理由で、殺すこともできるのです。
神に創成された人間が、神に代わって人間を裁くことなど、傲慢が過ぎるのではないでしょうか。

イエス・キリストに対しても同様です。
彼は父神に裁かれたわけではありません。
同じ父神を信じる人間たちによって裁かれたのです。
「ルカによる福音書」には、十字架につけられたときに言ったイエスのことばが記されています。
父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」と。

(過去記事 死後姿をあらわした聖者たちとアセンションのお話 参照)

霊的に無知な人間たちに対するイエスのことばが、しみじみと伝わってきますね。
その後イエスは復活したという理由で「神の子」として崇められるようになっていきます。
しかし、真理がわからない者たちには、何を言っても、やはりわからないというのが真実でしょう。
教会とキリスト教は、イエス・キリスト本人とはまったく別のものなのです。


真実を見極められない人間が人を裁くことはできない 



★真実を見極めるのは、限りなく難しいことです。
世の中には冤罪(えんざい)が数多あるように思われますが、無実の人を罪に陥れていること自体が、大きな罪です。

目に見えるものしか信じず、真実を見極められない人間たちが、人を裁くことなどできるはずがありません。
「それなら、警察がいらなくなるじゃないか、罪を犯しても罰を受けないのなら、世の中滅茶苦茶になる」と言われそうですが、それはわたしたちが心配することではないと思います。

なぜなら、自分が蒔いた種は、必ず自分自身が刈り取らなければならないからです。
自分のしたことに責任を持つということが、この宇宙のルールだからです。
ともかく、だれが裁かなくても、自分が自分を裁くときが必ず来るということです。 
それが「アセンション」というひとつの大イベントを通して明らかになることでしょう。



★2010年も残りわずかとなりました。
この半年間にこのブログを訪れた人たちとの出会いに心から感謝したいと思います。
ありがとうございました。

今年最後のしめくくりとして、わたしの大好きなマイケル・ジャクソンのことばを、皆さんにお贈りしたいと思います。


  世界に愛を取り戻そう
  愛の大切さを思い出させるんだ

  互いに愛すること
  僕らはひとつだと

  そして地球を大切に

  I love you.



2011年にまたお会いできることを願っています。




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