男性性と女性性を統合する ― トマスによる福音書より―

2010年12月15日 01:00


トマスによる福音書」をご存知でしょうか?

えっ、トマス? 
トマスって、だれ?
そんな人の福音書は「新約聖書」には載っていないけど…。
と思われたでしょうか?

そうです。
キリスト教公認の新約聖書に「トマス伝」は削除されています。
ですから、聖書に「トマスによる福音書」はありません。
それは、エジプトの洞窟で発見された「ナグ・ハマディ文書」のなかにあった内容なのです。

★「ナグ・ハマディ文書」をご存じない方のために、少し説明をしておきましょう。

ナグ・ハマディ文書」は、1945年12月、エジプト南部に位置するナイル河畔の町ナグ・ハマディ付近で、アラブ人の一農夫によって発見された、13冊のコーデックス(古写本)に含まれる52のパピルス文書のことです。
すべてコプト語(古代末期のエジプト語)で記されていて、そのほとんどがギリシア語からコプト語への翻訳と想定されているということです。
そして、文書の大半は、4世紀以降「正典」としての新約聖書から差別(排除)されていった「外典」に属するものだということです。

文書のなかで、「これは、生けるイエスが語った、隠された言葉である。そして、これをディディモ・ユダ・トマスが書き記した」で始まる「トマスの福音書」は世界中で最も有名でしょう。
今回はその「トマスによる福音書」から感じたことを書きたいと思います。


★ 女性を蔑視したペテロ ★



★「トマスによる福音書」には、次のような一節があります。


シモン・ペテロ彼らに言う。
マリアを我らより離れしめよ。
女は生命の価値なかりければ。
  

                     
★原始キリスト教を創設したペテロは、マリアを自分たちのところ(イエスの弟子たちによる集団)から出ていかせようとしました。
「女性は悪の根本原因」だとして、拒絶したのです。
生命の価値がないという理由で…。

女たちは命に値しない」というのは、ユダヤ教、ユダヤ人キリスト教、初期のカトリシズムに見られる女性蔑視が極端な形で表現されたものです。
現在のカトリック教会においても、女性は聖職位階制から排除されているようで、女性の法王は存在したことがありませんね。
「男性優越主義」が21世紀になっても、相変わらず存在しつづけているというのが、宗教界の実情なのです。


シモン・ペテロが彼らに言ったのです。
マリハムは私たちのもとから去った方がよい。
女たちは命に値しないからである
」と。



マリハムとは、マリアのことです。
そして、このマリアはイエスの生母ではなく、彼の妻のマリア(マグダラのマリア)のことです。
マグダラのマリアは、イエスが初めて心のうちを打ち明けて癒された女性であり、彼が初めて愛した女性でした。

イエスが結婚していたことは、最近(2006年)「ダ・ヴィンチ・コード」が映画化され、ようやく世界中に知らされることとなりましたが、これが事実だと都合が悪いと考える人たちによって、ひた隠しにされてきました。

わたしは、小説「ダ・ヴィンチ・コード」で話題になる20年ほど前から、マグダラのマリアがイエスの伴侶であったことは知っていました。
何の疑問もなく、受容していたのです。
でも、世界中のクリスチャンはどうだったのでしょうか?

ペテロが発した「マリアを我らより離れしめよ。女は生命の価値なかりければ」ということばは、女性蔑視の骨頂とも言うべき暴言ですが、彼がいかにマリアに嫉妬し、嫌厭していたかがうかがえる箇所です。

宗教を創ったのがみな男性だということは大変興味深いところですが、ペテロは別として、世の男性たちが女性を恐れる理由は面白いと思います。
それは何かというと、女性がそばにいると、神や仏の探求よりも、女性の探求のほうが魅力的になるということです。
それでは修行の妨げになるばかりか、面倒なことが発生しかねません。
それゆえに彼らは女性を拒み続けなければならなかったということです。

釈迦(ゴータマ・ブッダ)にしても同様です。
ゴータマ・ブッダは悟りを開いた後に釈迦教団を創りましたが、男性の修行者のなかに女性の修行者を入れることはなかったようです。
彼は最初、女性の修行者自体も受け入れていなかったのですが、志願者が増えたため、しかたなく比丘尼(びくに)となることを認めたのです。
でも、男性修行者とは隔離しなければなりませんでした。
なぜか、もうおわかりでしょう。

ところが、イエス・キリストはちがっていました。
彼はゴータマ・ブッダのように男性指向の人ではなかったのです。
なぜなら、女性を認めたくなくて、まずイエスの妻マリアを離れしめよと言ったペテロに対して、次のように言っているからです。

イエス言いたもう。
見よ。我マリアを導きて、マリアを男となさん。
マリアまた、汝ら男たちのごとく命ある霊となりぬべし。
おのれを男とせし女らみな、天国に入ることを得たればなり。



イエスは毅然として言いました。
見ていなさい。私がマリアを導いて彼女を男性にしよう。
彼女もまたあなたがた男性と同様に生ける精霊となることができるように。
なぜなら、自らを男となす女性はみな天国に入ることができるからである
」と。

これは、ペテロに対する挑戦的ともいうべきことばですね。
イエスが言うこの「自らを男となす女性」とは、いったいどういう意味なのでしょうか?

ちょっと皆さんにも考えていただきたいので、その意味の解明は次回にしたいと思います。(つづく)

精神の男女両性具有となる―天国に入るための必要条件

2010年12月16日 17:00


シモン・ペテロ彼らに言う。
マリアを我らより離れしめよ。
女は生命の価値なかりければ。


ペテロは言った。
「マリアを私たちの間から出てゆかせよう。
女性は〈生〉に値しないのだから」
                       
イエス言いたもう。
見よ。我マリアを導きて、マリアを男となさん。
マリアまた、汝ら男たちのごとく命ある霊となりぬべし。
おのれを男とせし女らみな、天国に入ることを得たればなり。 


イエス、言う。
「見ていなさい。私が彼女を導く。
彼女を男性にし、彼女もまたあなたがた男性と同じように
生ける精霊となることができるように。
なぜなら、自らを男性となす女性はすべて
天国〈王国〉に入るからである」


    グイド・レニ作
    グイド・レニ作『マグダラのマリア』


前回は上記の「トマスによる福音書」の一節をご紹介しました。
皆さん、イエスが「我マリアを導きて、マリアを男となさん」と言った意味を考えてみてくださいましたでしょうか?



★ 自らを男性となす女性とは? ★



わたしはここでスイスの分析学者C・G・ユングの〈アニマ〉〈アニムス〉を思い起します。

ユングは、男性の無意識の中には、感情を補償する永遠の女性のイメージ〈アニマ〉が存在し、女性の無意識の中には思考を補う永遠の男性のイメージ〈アニムス〉ができあがり、それぞれが段階をたどって意識に表われてくるという理論を提唱しました。

★〈アニマ〉は〈魂〉を意味するラテン語で、〈アニムス〉は〈アニマ〉の男性形で、〈精神〉というふうに訳されていますね。
心理学が好きな人であれば、そのあたりのことは十分に知っておられることと思います。

イエスが言うところの「おのれを男とせし女ら」、すなわち「自らを男性となす女性」とは、ユングのことばを借りると、〈アニムスに目覚めた女性〉ということになるでしょうか。

アニムスを十分に意識することによって、女性は「真実に対する勇気ある発言ができるようになる」ということです。
たとえば、アニムスを十分に自覚した妻は、夫に対しても理路整然とした批判や意見を述べることができ、夫のよき相談相手となることができるというようなことです。




★ イエスが言った「女性を男性にする」という意味 ★



一般的に、男性は「思考的・頭脳的」、女性は「感情的・肉体的」だとされていますね。
女性は頭で考えるよりも、直感で、身体で、すべてを感じとります。

イエスは言いました。
私が彼女を導く。彼女を男性にする」と。

つまり、イエスは、マリア(女性)に欠けている男性的な質に目覚めさせて、「女性性と男性性を統合する」ことをほのめかしているのです。


★これは、ひとつの考え方ですが、「女性を男性にする」というのは、暗い「無意識の部分を意識的なものに変える」ということを意味すると考えることができます。

女性の内にある無意識の部分を目覚めさせ、それを意識にまで昇華させると、女性のなかで男と女の両極の統合が起こるのです。
すなわち「精神の男女両性具有」となり、女性は全面的に変容するのです。

そのとき、女は全くの男になってしまったわけではありません。
また、別の第三の存在になったのでもありません。
女と男の対状態を内包した全一となったのです。
それは全く非の打ちどころがない人になったという意味ではありません。
必要なものが、すべてそろっているという意味です。


となると、当然男性にも同様のことが言えますね。
女が「おのれを男」としなければならないなら、男も「おのれを女」としなければ、天国(王国)には入れないはずです。
そうですね?

そうでなければ、完璧に片落ちです。
天国に行くのは男性ばかりなんて、ありえませんから。

イエスが片方だけしか語らなかったのかどうかはわかりません。
トマスによる福音書」には、記録は残っていないからです。
真相はわかりませんが、ここのところは非常に大事だと思うのです。

天国に入るには男性も「女性性」に目覚めなくてはならないはずだからです。
男性は女性のもつ陰の部分、受容することや信頼することに目覚めなければなりません。思考や意識だけでは全体に至ることはできないからです。


イエスさま、「男もおのれを女としなければ天国には入れない」とはっきり断言してほしかったですね。
男性のマインドだけでは、半分にすぎないのです。
男性のマインド+女性のマインド=全体」となるのですから。

人はだれも男性性と女性性が統合され、バランスがとれてはじめて、「命の根源」と同様に統一された状態に入ることができるのです。
霊的存在の究極の姿は、二つの対極を併せ持った存在、すなわち「男女両性具有」なのですから。


★この考えに賛同してくださる人は、心からの拍手を!

純粋無垢となること―天国に入るための必要条件 

2010年12月20日 15:40



イエスは乳を与えられている小さな者たちを見た。
彼は彼の弟子たちに言った。
「乳を与えられているこの小さな者たちは、王国に入る人々のようなものだ」。

彼らは彼に言った、「私たちが小さければ、王国に入るのでしょうか」。

イエスが彼らに言った、「あなたがたが、二つのものを一つにし、内を外のように、外を内のように、上を下のようにするとき、あなたがたが、男と女を一人にして、男を男でないように、女を女でないようにするならば、― そのときにあなたがたは[王国に]入るであろう」。

(荒井献訳 ナグ・ハマディ文書Ⅱ 「トマスによる福音書」22より)


イエス、子たちが乳をふくむのを見て
弟子たちに言う
「乳をふくむこの子らこそ〈王国〉に入る者のようだ」

弟子たち、イエスに言う
「では私たちは子供らであって〈王国〉に入るのですか?」

イエス、彼らに言う
あなたがたが二つを一つとなすとき
内なるものを外なるものと
外なるものを内なるものと
上なるものを下なるものとなすとき
そしてあなたがたが
雄性(おとこ)なるものと雌性(おんな)なるものを
おとこはおとこではなく
おんなはおんなでなくなるように
ひとつ単一なるものとなすとき
そのときに
あなたがたは〈王国〉に入る―」

(和尚ラジニーシ著 マ・アナンド・ナルタン訳 
「愛の錬金術―隠されてきたキリスト(上巻)」より)



これらは、同じ「トマスによる福音書」にあるイエスのことばですが、翻訳者によって受ける印象が違っているのが感じられると思います。

これはイエスの言辞のうちでは最も深いもののひとつで、達成するのがいちばんむつかしいもののひとつ」だと、和尚ラジニーシは言っています。
なぜなら、「もしこれが成就されたら、そのときにはほかに成就すべきものは何もないから」だと言うのです。


★イエスは「幼子のように純真であること」を説きました。
でも、わたしたちはすでにそれを失ってしまっています。
子どもに戻ることは、もはやできないのです。

ひとたび知識の味を覚えたら、後戻りすることはできない」と和尚は言います。
なぜなら、一旦知ってしまったことを失うことなどできないからです。
だから言葉どおりに真似してはいけない。イエスを文字どおりに理解しないこと。それは象徴にすぎない」と和尚は言うのです。

一度知識の味を覚えたわたしたち」は、もう一度もとの子どもに帰ることなどできないのです。
イエスが「子どものようであれ」と言ったからと言って、わたしたちが子どもの真似やふりをしても、それはニセモノだというわけですね。
それは演じているだけで、真の子どもではないからです。
また、演じるということ自体が打算的です。
では、どうすればいいのでしょうか?
つぎに記す和尚のことばが、きっとあなたに気づきをもたらしてくれることでしょう。


★ あなたはもう一度生まれる ★



聖者、賢者は、まったくちがった意味合いで子どものようになる。
彼は超えたのだ。彼はマインドを超えた。その不毛さを理解したからだ。
彼は、この世で成功者であることの無意味さを理解した。
彼は成功への欲望を棄てた、他者に印象づけたいという欲望を棄てた。
偉大になりたい、重要人物になりたいという欲望、自我を満たすための欲望―。
彼はその無意味さを完全に理解するに至った。

そう理解することそれ自体によって、即座にあなたは別な次元のなかに変容する。
と、そのときにはふたたび子供時代がくる。

それは第二の子供時代と呼ばれるものだ。
ヒンドゥーの人たちはこの段階を「二度生まれる」、ドヴィジと呼んできた。

あなたはもう一度生まれる。
が、これはちがった誕生だ。
父親母親からの誕生ではない。
これは、あなた自身の〈自己〉からの誕生だ。
二つの肉体の出会い、あるいは二元性から生まれくる誕生ではない。
あなたはあなたの〈自己〉を通して生まれる。                     

(和尚ラジニーシ著 マ・アナンド・ナルタン訳 
「愛の錬金術―隠されてきたキリスト(下巻)」より)



★イエスが言う「小さな子ども」とは、性別を越えた「男女両性具有」の象徴のことです。
二つのものを一つ」にし、「男は男ではなく、女は女でなくなるように」、「ひとつ単一なるものとなすとき」とは、「統合者」、「単独者」となったときのことを言っているのです。

では、イエスのことばをもう少し読み解いてみましょう。


★ あなたがたが二つを一つとなすとき ★



★「あなたがたが二つを一つとなすとき……」というのは、物事を分離・区別しないということです。

そして、「内なるものを外なるものと、外なるものを内なるものと、上なるものを下なるものとなすとき……」も同様です。
「内なるもの」も「外なるもの」も、「上なるもの」も「下なるもの」も区別に他なりません。
それは分離の考え方から来ています。

もし「内なるもの」が存在しなければ、「外なるもの」も存在しないでしょう。
「外なるもの」がないと思えば、「内なるもの」もありません。両方ともないのです。
自分のなかから「内なるもの」も「外なるもの」も落ちて、分割するものが何もなくなったとき、その人は一つとなったといえるのです。

また、自分のなかの男性と女性が出会ったとき、和尚が言うところの「アルダーナリシュヴァール」、すなわち「男女両性具有」になったとき、王国に入れるとイエスは言っているのです。 

人間の原型が男女両性具有」であるということや、それが「始原の〈一〉なる宇宙創造主の姿」であることが、このイエスのことばからうかがい知ることができますね。


ともかく片方(半分)だけではバランスがとれず、所詮全体を知ることなどできないのです。
前回もお伝えしましたように、「全体なるものは陰陽を併せ持つ男女両性具有」であるからです。
イエスが「男性性と女性性が統合された全一の存在」だったことを、深く知ることのできる一節だと思います。


★人間の頭(マインド)はずる賢く、打算的で利口です。
この世では、ずる賢くあればあるほど成功します。

もしあなたが頭(マインド)ばかりで生きていたなら、
けっして純真にはなれませんね。
その利口さのために、あなたは取り逃がします。
神の王国〉を取り逃がすのです。


     ラッパの天使 
      花のラッパを吹く天使 
             写真撮影 光の仕事人


純真無垢の上にのみ、〈神性〉は降臨するからです。
あなたが純粋であれば、〈神性〉に向かって上昇できるからです。
純真さ…。それが〈神の王国〉へ入るカギなのです。



単独者となること―天国に入るための必要条件 

2010年12月22日 10:00

 

人はたいてい寂しがりやで、常にそばに誰かがいてくれることを望みます。
恋人たちはいつも寄り添っていますが、考えていることは必ずしも同じではありません。
押し黙った男性に耐えられなくなった女性は、彼に尋ねるかもしれません。
「ねえ、何を考えているの? 何か言ってよ……」と。

ふたりでいても、寂しさを感じることはあるものです。
しかし、ひとりになったとき、孤独感はさらに募り、またすぐに会いたくなり、いてもたってもいられなくなります。
そして、互いに安心感を得るために、彼と彼女は両者の合意のもとに結婚という契約を交わすのです。

ところが、一緒になったらなったで、相手に束縛され、しだいに不自由さを感じるようになり、ひとりになりたいと思うようになっていきます。
他者と一緒になりたいという願望と、他者から完全に自由になりたいという相反する願望は、人間の魂の矛盾する衝動です。

愛か、自由か……。
その選択に悩む人も少なくないでしょう。
その人の最も深い魂の欲求が「自由」である場合は、親密な関係性の中にあって十分なスペースを持っていなかったり、自由が感じられないとイライラして、何かまちがっているのではないかと考え始めます。
そういう人たちは、結婚よりは、親密なフレンドリーネスをもとにした人間関係のほうがうまくいくのです。
絆にからめとられるのではなく、自分自身のスペース、真の自由を与えてくれる大きなスペースを持つことが可能な関係であれば、うまくいくからです。


★絶対的な自由は、独りにならなければ獲得できない★



何よりも自由を望み、ひとりでいることの幸せを感じるタイプの人は、他者という存在がトラブルを生み、苦悩を作り出すことを知っています。
そういう人にとっては、「他者こそが地獄」なのです。
絶対的な自由は、独りにならなければ獲得できない」ことを、生まれつき知っているからです。

イエスは次のように言っています。

イエス、言う。
「選ばれて独り立つ者は幸いである。
その人は〈王国〉を見出すだろう。
なぜなら、人はそこから出てきて、ふたたびそこに戻ることになるからだ」       

(マ・アナンド・ナルタン〈中沢藤胡〉訳版「トマスの福音書」より)



★ 独り立つ者、単独者とは? ★



★「独り立つ者」あるいは「単独者」とは、自分自身と共に生き、自分自身で満ち足りている人のことです。
他者を必要とせず、他者からも必要とされることを求めない人であり、自分ひとりで楽しむことのできる人です。
その人は、完全な自由人といえるでしょう。

絶対の自由、究極的な解放が、魂の到達点です。
イエスはそれを〈神の王国〉と呼んでいるのです。
つまり、〈絶対的な自由〉は、〈絶対的な孤独〉でなければならないのです。
中途半端な孤独は、中途半端な自由しか得られないということですね。



世の中には、自分ひとりでいると心が落ち着かないという人が多く存在することを、あなたもご存知のことでしょう。
ひとりで部屋にいると、「どこかに行かなくては…」とか、「誰かに会わなくては…」「何かしなくては…」と、そわそわし、いてもたってもいられなくなる人たちのことです。

彼らにとって独りでいること、独りで生きることは大変困難です。
彼らの存在は、他者に認められ、他者に必要とされることにあるからです。
相互に依存することで満足している限り、自分独りだけで幸福感に満たされることなど、とうてい理解できないでしょう。
彼らは「自分の存在意義は、他者から来る」と思い込んでいて、「自分の存在意義は、自分自身の存在そのものから来る」ということがわからないのです。


★ひとりでいるときに孤独感や不安感が生まれるのは、〈真実の神〉、すなわち〈内なる源泉〉とつながっていないからです。

ほんとうの安心感は、人と一緒にいるときに得られるような質のものではありません。
実際、人は人と一緒にいては、〈内なる源泉〉にたどり着くことはできないのです。
そのことは、おそらく〈内なる源泉〉にたどり着こうとしている人や、すでにたどり着いた人たちだけが知っていることですが。



わたしたちが人と関係を持つことは、自分の内にある「自分が認めていない隠された部分」に気づき、それらを受け入れることを学んでいくためには必要です。
すべての人間関係は、自分の中にある影の部分」だと言ってよいでしょう。
たいていそれは発育不十分(未熟)の部分であって、自分が認めたくない嫌な部分です。
それに目を背けずにしっかりと見つめ、認めるということは、すなわち自分自身を丸ごと受け入れるということです。

光の部分も影の部分も、すべてひっくるめて愛するのです。
それができたら、もう関係性による学びは必要ではなくなります。
もう他人を必要とはしなくなるのです。
それだけではありません。自分が他人に必要とされたいという気持ちも消え失せるのです。

★自分自身の中で、光と影が、善と悪が、男性と女性が出会い、統合されてひとつになったとき、わたしたちは自分が〈内なる源泉〉とつながり、一体となっていることを感じます。
独り立つ者」とは、そのような〈男女両性具有を成した人〉のことなのです。

そうすると、もう孤独を恐れることはないし、ほかの何をも恐れることはなくなります。
そして、ひとりでいることの至福を感じることができるのです。


イエスは言います。
「選ばれて独り立つ者は幸いである。
その人は〈王国〉を見いだすだろう。
なぜなら、人はそこから出てきて、ふたたびそこに戻ることになるからだ」



自分自身であること(独りあること)を選んだ人は、絶対的な自由を獲得し、自分がやってきた〈命の源泉〉に再び戻っていくことができるのです。
       

自分自身を信頼し、愛し、ひとりでいることの喜びを感じられたなら、もう彼や彼女、あるいは悟った人や宗教家たちに依存する必要はありませんね。
人に依存することなしに、自分自身のほんとうの愛を実現することができるのです。

独りあること…。
単独者となることこそが、天国に入るための必要条件なのです。


自分自身を征服すること―天国に入るための必要条件 

2010年12月24日 19:00


イエス、言う。

「人々は、私が世界に平和をもたらすために
やってきたと思っているかもしれない。

彼らは、私が地上に分裂を、
火を、剣を、闘いをもたらすために
来たことは知らない」



今日はクリスマス・イブですね。
明日は、イエス・キリストが生まれた日ということになっていますが、「12月25日がイエスの誕生日ではない」ということくらいは、皆さん、ご存じですよね?

真の誕生日でもないのに、どうして世界中で盛大なお祝いをしているのか、首をかしげたくなりませんか?
クリスマスツリー、クリスマスケーキ、クリスマスプレゼント……。
それにかこつけて、さまざまな業者たちが金儲けをしているくらいのものですね。
真のクリスチャンなら、静かに祈りを捧げるのみでしょう。


           祈り
                    祈り



わたしはクリスチャンではありませんが、ここのところずっとイエス・キリストのことを書いています。
イエスはポジティブで、動きがあり、かがやきを感じます。
彼の情熱と激しさ。
それをすっかり忘れている人たちに、思い起こさせてあげたい…という気持ちが、おそらく今のわたしには強くあるのでしょう。


イエス、言う。

「人々は、私が世界に平和をもたらすために
やってきたと思っているかもしれない。

彼らは、私が地上に分裂を、
火を、剣を、闘いをもたらすために
来たことは知らない」



さて、上記のことばですが、またまたイエスはすごいことを言っていますね。
わたしたちは、一般的に「戦争は最大の悪」であり、「争い」や「憎悪」や「病気」は消え去らなければならないものだと思い込んでいます。
それらが無くなれば、平和になると…。

ところが、イエスは言うのです。
人々は、私が世界に平和をもたらすためにやってきたと思っているかもしれないが、私が地上に分裂を、火を、剣を、闘いをもたらすために来たことは知らない」と。

イエスは「自分は平和をもたらすためにやってきたのではなく、闘いをもたらすためにやってきたのだ」と明確に言っているのです。
いったいこれは、どういう意味なのでしょうか?


★ 偽りのマスターは慰めをもたらす ★



たとえば、あなたに今人間関係での深い悩みがあるとします。
いつも心が落ち着かないため、心の平安を求めて、そのことを誰かに打ち明けるとしましょう。
そのとき、あなたは相手が自分の気持ちをわかってくれて、同情してくれるのを密かに望んでいるのかもしれません。

それで、望んでいた通り、相手があなたに同情し、慰め、あなたの心に平安を与えてくれたとします。
そうしたら、あなたはとてもうれしくなり、「この人はとても善い人だ」という評価をつけるのです。

しかし、今あるあなたのままで、心の平和、平安を得たら、どうなのでしょう?  
ほんとうにそれでよいのでしょうか?

あなたは今の自分の情況をただ慰められただけで、あなた自身を達成できないままで終わってしまうことになるのです。

あなたは変容できないままでいることになるのです。
それに気づかれたでしょうか?

和尚ラジニーシはこう言っています。

偽りのマスターはあなたの慰めとなり、今あるあなたに平和をもたらす。
彼はあなたを変えようとなどしない。
彼は一種の鎮静剤としてある。
偽りのマスターは睡眠薬のようなものだ。
彼のもとに行けば慰めが得られる


では、真のマスターはあなたをどのようにするのでしょうか?


★ 真のマスターはより大きな混乱をもたらす ★



真のマスターは、より大きな混乱を、より大きな葛藤をつくりだす。
彼はあなたを慰めなどしない。
なぜなら、彼はあなたの敵ではないからだ。
慰めはすべて毒だ。
真のマスターはあなたの成長を助ける。
成長することは困難なことだ。
あなたは多くの試練を経ていかなければならない。
幾度となくあなたはこの師から逃げ出したくなる。
だが、できない。
彼はあなたにつきまとって悩ます。
           「和尚ラジニーシ 愛の錬金術」より



★イエスのような人が現われると、人々は必ず分裂を起こします。

彼を受け容れる者と受け容れない者。
彼を肯定する者と否定する者。
彼を愛する者と憎む者。

彼の仲間になるか、敵対する者となるか…。
キリスト派か、反キリスト派か……。

人々は分裂し、混乱し、衝突します。
そして、相反する者同士の闘いがはじまるのです。

イエスが地上に現われた後、世界は平和になったでしょうか?
彼が訪れてから、世界に平和が訪れたことはなかったはずです。


イエス、言う。

「人々は、私が世界に平和をもたらすために
やってきたと思っているかもしれない。

彼らは、私が地上に分裂を、
火を、剣を、闘いをもたらすために
来たことは知らない」



★イエスはいったい何を伝えようとしていたのでしょうか?
彼は「魂の成長は、葛藤を通して達せられる」ということを伝えていたのではないでしょうか?

心の中の光と闇、愛と憎しみ、善と悪……。
分裂したふたつの世界に、日夜わたしたちは生きていますが、
そのふたつの苦しい闘いを通してこそ、内面での統合が起こるのだということです。


★ 火とは何を意味するのか? ★



★「火」は変容するために必要な道具です。

たとえば、冷たい「氷」を思い浮かべてみてください。
今のあなたは「氷」という「個体」状態で生きていますね。
四角四面の頑固な性質というイメージをすることもできます。

この「氷状のもの」に「火」という熱を加えると、どうなるでしょうか?
そう、「水」になりますね。
「水」はさらさらと流れる柔軟性のある性質と見ることもできます。
そして、下へ下へと下降します。

この「水」に対して、さらに熱を加えると、どうなるでしょうか?
そう、水蒸気になって、目に見えなくなりますね。
そして、上へ上へと上昇します。

でも、あなたという存在が消えてしまったわけではありません。
ただ、あなたの心の質、エネルギーが変容しただけです。

化学実験をするときには、火がなければ何もできませんよね。
新しい変化や変異は、火がなければ生じないからです。
よって、エネルギーを変容させるためには「火」というものが必要不可欠であることがおわかりになると思います。

★あなたは心のなかで、その内側で、火を燃やさないと、激しく燃やさないと、変化しないのです。


イエス、言う。

「人々は、私が世界に平和をもたらすために
やってきたと思っているかもしれない。

彼らは、私が地上に分裂を、
火を、剣を、闘いをもたらすために
来たことは知らない」



★戦争や病気……。
外側で起こっていることに目を向けているかぎり、あなたに真の平和、平安は訪れることはありません。

なぜなら、戦争や病気は外側にあるのではなく、ひとりひとりの内側にこそあるからです。
もし自分の内側の世界(心のなか)での闘いを経験していなければ、あなたは外側の世界で戦いをはじめるのです。

★もしあなたが内側での闘いに勝利したなら、もう外側での闘いは必要ではなくなるのです。
つまり、自分自身を克服、征服したなら、他者との闘いは消え去るからです。

自分自身を征服できない人は、自分の心に存在する「恐れ」や「不安」を他者のせいにし、他者にその責任をなすりつけます。
自分の怒りや憎悪を、他者という外側に向けるのです。

怒りを爆発させて、一時的に発散できても、またそれらは溜まっていきます。
そうすれば、また外側に向けて発散しなければならなくなるわけです。
自分のなかに溜まった汚物を外に投げ捨てるために、他者との闘いが必要だという悪循環です。



自分自身を征服した人は、もはや内側に葛藤がありません。
闘いはすでに消失したからです。
その人はもう二つに分裂はしていません。
ただ真ん中にいて、バランスがとれている状態です。 

内側での苦しい闘い」は、必要なのです。
成長は、苦しい闘いを通してしか、もたらされないもの」だからです。

つぎの和尚のことばを噛みしめてみてください。

慰安はゴールではない。
彼はあなたに偽りの平和を与えることはできない。
彼が与えるのはあなたの成長だ。
そして、その成長のなかから、いつの日かあなたは花ひらく。
その開花こそ本物の平和となるだろう、
真の沈黙となるだろう。




両方の極を見ない限り、この世界の真実の姿を見極めることはできない 

2010年12月27日 23:00


カテゴリ「男性性と女性性を統合する」を書き進めてきましたが、「男女両性具有が人間の究極の姿である」ということを、ご理解いただけましたでしょうか?

わたしが述べる男女両性具有は、「男性性と女性性の統合」のみを指しているのではありません。
そこには、「すべてにおける二極性を統合する」という意味が含まれているのです。

この世界には必ず相反するふたつのエネルギーがあり、現象があります。
光と闇、男性と女性、霊と肉といった対立するもの同士は、両極化をたどります。

でも、それらはいつでもどこでも存在しているものであって、電池のプラス極とマイナス極のごとく、どちらが善くてどちらが悪いというものではありません。
両者に優劣はなく、どちらもこの世界になくてはならない必要不可欠なエネルギーなのです。

地球をつつむ銀河系宇宙に、相反する二元性が存在しているのと同様に、人の心にもそれらは内在しています。

優越感と劣等感、自立心と依存心、能動と受動、論理と直感、信頼と懐疑など。幾多の二元性から成り立っていますね。
一般的にはどちらかに偏っていることが多いようですが、それでも二律背反の葛藤に悩んだ経験は、だれにもあると思います。

そんなふうに、「だれにも光の部分と闇の部分が必ず存在している」にもかかわらず、自分はポジティブ志向だからと言って、ネガティブなことには一向に目を向けようとしない人たちがいます。
そういう人たちは自分の心のなかに存在する闇の部分を見るのが恐く、認めたくないために、その行為から逃げているのです。

彼らには、「光は善で、闇は悪」、「プラス志向は善にして優越」、「マイナス志向は悪にして劣等」という激しい思い込みがあります。
これは、道徳にこだわる人や宗教を信仰している人たちに多くみられるようです。
神は光で善なるもの」、「悪魔は闇で悪なるもの」というふうに…。

そういう考えに陥り、自分の内奥に闇の部分があるにもかかわらず、決して目を向けないという行為自体、ポジティブとは言い難く、そういう人こそネガティブ志向なのですが…。


★ 神と悪魔は一個のコインの裏表 ★
 

―両方の極を見ない限り、この世界の真実の姿を見極めることはできない― 


過去記事「宇宙創造主のもくろみ その1」で、最初全体でひとつであった〈大いなる宇宙の意識&意志エネルギー〉が分裂し、〈二〉を生んだことをお話ししました。

〈二〉が、もとは〈一〉なるものであったと考えることで、この宇宙に存在する対立物は、すべて〈大いなる宇宙の意識&意志エネルギー〉の側面であるということがわかります。


つまり、神と悪魔の出所は同じだということですね。
それを一個のコインの裏表と考えることもできます。
コインの表が神なら、裏は悪魔だということです。

表があれば、必ず裏がある。
裏のない表というものはない。
これは、宇宙の秩序であり、法則です。



となると、善にこだわり、ポジティブ志向にこだわる人は、ものの半分しか見ていないということになりますね。
彼らは、この世界にはもう片方の極が存在していて、それもOKなのだということに、全く気づいていないのです。

★両方の極を見ない限り、この世界の真実の姿を見極めることはできません。
何度も繰り返し言ってきたことですが、真理とは全体であり、〈一〉なるものであるからです。

善と悪、神と悪魔は、白と黒のふたつにきっちりと区別されるものではありません。
それを思い起こさせてくれるのが、中国の「二つ巴(ともえ)型太極図」です。


      innyouzu
           太極図


白と黒でできた巴形のなかに、半分の白い部分には黒の点が、
半分の黒い部分には白の点が表されていますね。

黒は陰なるもの(夜、大地、女性、静、受動)などの代表であり、
白は陽なるもの(昼、天、男性、動、能動)などの代表です。

それらの陰陽は、いずれもけっして完璧ではないことを示しています。
なぜなら、それらふたつの巴の中には、互いに互いの対立物が点として混入しているからです。

陰は陽に向かい、陽は陰に向かい、ふたつは限りなく回りつづけています。
どこからどこまでが陰で、どこからどこまでが陽なのか、
陰と陽の境目がどこにあるのか、断定することなどできません。

この未熟なままの陰陽ふたつの巴は、互いに補い合いながら合体し、
一個の統一された円を描いているのです。
見るからに美しい図ですね。

善悪は、陰陽と同じで、相対的なものです。
絶対的な善悪というものはありません。


道徳家は、どこからどこまでが善で、どこからどこまでが悪なのか……
いったいどのようにして見極めるのでしょうか?


★ 善悪は人の立場で簡単に変わりうるもの ★



人は実に自己中心的です。
菜食主義者は肉を食べる人を悪だと思っています。
牛を食べるのが悪だという国があるかと思えば、豚を食べるのが悪だという国があります。
その国では善とされていることが、どこかの国では悪だとされているわけです。

善悪は人の立場で簡単に変わりうるものです。
昨日まで悪とされていたことが、今日から突然善に変わったりもします。
勝てば官軍」とはよく言ったものです。
まちがっていることであっても、すべて正しいとされるのが勝利者に与えられた特権です。
そうやって世界中の歴史が、勝者が変わるたびに摩り替えられ、都合の悪い部分は塗りつぶされ、闇に葬られてきたのです。

思うに、この世に絶対的な悪があるなら、初めからその存在そのものが許されないはずなのです。
存在しているということは、その存在が許容されているということにほかなりません。
宇宙はすべてが許された自由意志の領域として、デザインされているからです。

★〈宇宙の大いなる意識&意志エネルギー〉がすべてを創造した創造主である限り、「悪魔の性質は創造主のなかにも内包されている」ということを、決して忘れてはなりません。
善いとか、悪いとかは、人間の観念です。
宇宙自体には、善も悪も無いというのが真実でしょう。



しかし、世界中にある宗教は善悪を教えています。
キリスト教も然り、仏教も然りです。
物事を「善と悪とに区別」し、「悪を為さず善を行なえ」と教えていますね。
それは道徳であって、宗教ではないとわたしは思っています。
なぜなら、真理を正しく伝えていないからです。


何が善で何が悪かはだれにもわからない。
実際何も善ではないし、何も悪ではない。
存在はひとつだからだ。
いかに二が存在しえよう?
それらはすべてひとつだ。

善は悪に変わり、悪は善に変わる。
何がどうなっているのか人にはまったくわからない。
ものごとは絶えず相互に入れ替わっている。
あなたはそれを見守ることができる。
                    OSHOのことば



何が善で何が悪かわからない人間が、至極簡単に「善いことをして、悪いことはするな」と言えてしまうところに、深い驚きを感じるのは、わたしだけでしょうか?


「男性エネルギー」と「女性エネルギー」をバランスよく使おう!

2011年05月29日 20:00


「男性エネルギー」と「女性エネルギー」のはたらき



まず、「男性エネルギー」と聞いて、あなたはどんなエネルギーを想像されるでしょうか?

数秘リーディング」などで「1のエネルギー」を持っていることを知った人は、ある程度お解りになっていることでしょう。
わたしがおこなっている数秘リーディングでは、「1」はそれ自体で立っていることから「自立」を意味し、「男性エネルギー」を表わすとしています。

★男性エネルギーは「陽のエネルギ-」であり、「行動のエネルギー」です。
エネルギーが自分の外側に出て行く」ということで、「行動」を表わします。
内面的なエネルギーを物資化していくエネルギー」といえるでしょう。


★これをチャクラで説明してみますと、行動を司るのは「第3チャクラ」で、これは男性性のチャクラです。
喉の辺りにあるコミュニケーションと自己表現を司る「第5チャクラ」も同様です。
どちらも外に出していく機能ですね。

しかし、いくら外に出したくても、「表現したい内なるもの」と「インスピレーション」と「決心」がなければ、動きようがありませんね。

(参考資料 過去記事 心の量子力学 その2「決心」が願望を実現するお話) 


\ピンクの玉


では、「女性エネルギー」はどうでしょうか?
2のエネルギー」を思い起こされたでしょうか?
数秘では、「女性性」を「2」で表わしますね。

★女性エネルギーは「陰のエネルギー」であり、「内省的なエネルギー」であり、「直観的なエネルギー」です。
また、「エネルギーが自分の内側に入ってくる」ので、「受容」を表わします。


女性は男性よりも直感力と受容性に優れているように思われますが、「第3の目」と呼ばれる「第6チャクラ」は、女性性のチャクラなのです。
そして、女性が愛と感情を受け容れる子宮の辺りにある「第2チャクラ」も女性性のチャクラです。
(チャクラも、男性性と女性性の機能に分けて考えることができるのです)


★「直観と受容の女性エネルギー」は、そこに「行動の男性エネルギー」が加わらなければ、ただ静かに留まっているだけです。受け取る一方ですから、何も起こりません。

そして、「男性エネルギー」は、そこに「何か表現することができるもの」、すなわち「女性エネルギー」がないと、存在することができません。行動ができないのです。

このように「男性エネルギー」と「女性エネルギー」は、お互いに無ければ成り立たない必要不可欠なものであり、深く結びついているということです。



6月の花
              撮影 光の仕事人



★ 「男性エネルギー」と「女性エネルギー」を
             バランスよく使おう! ★



宇宙はわたしたちに、このふたつのエネルギーを与えてくれました。
このふたつのエネルギーを「バランスのとれた状態で使う」ということが、わたしたち全員の課題なのです。

宇宙からやってきた直観(女性エネルギー)を、実際に表現(男性エネルギー)していくこと。創造していくこと。
これが数秘でいう「3のエネルギー」です。
受けっぱなしでは満杯になってしまいますから、どんどん外へ放射していくということです。

それを力強く実現していくのが「8のエネルギー」です。 
8という数字のかたちは○が上下にあって、真中でつながっていますね。
上の○は女性性で、下の○は男性性です。

3のエネルギー」や「8のエネルギー」が旺盛な人(軌道数が3や8の人)は、「女性性」か「男性性」、あるいは「ネガティブ」か「ポジティブ」の一方に傾きやすいので、「その真中にいることが大切ですよ」と説明しています。

自分の内側で「男性エネルギーと女性エネルギーのバランスがとれているかどうか」は、肉体的な性別とは関係ありません。(中性になるわけではないんですヨ)
外側が男性であろうと女性であろうと、「内側で両者のバランスをとる」ということです。
それが、「男性性と女性性の統合」であって、天国に行ける秘訣であるわけですね。



sea


★最近の記事で、「オリオン文明」と「プレアデス文明」について、お伝えしました。
なぜ、そのふたつを取り上げたかということですが、「ポジティブ」と「ネガティブ」というような「ポラリティを統合させなければならない」ということを再認識していただきたかったからです。

(過去記事 わたしたちの目的は両極を学び、体験し、統合するということ 参照)

当時の「オリオン文明」は「男性原理」がつよい文明であり、「プレアデス文明」は「女性原理」がつよい文明でした。どちらも偏った文明であったために、いろんな問題が生じていたということは、記事でおわかりいただけたと思います。

地球文明」はオリオンの影響を受け、「男性原理」に基づき、「男性エネルギー」が長いあいだ支配してきました。
唯一の神は父(男性)でなければならず、「女性に魂があるかないか」などというバカげた議論を、キリスト教会ではやってきており、男尊女卑の考えは今もなおつづいています。
なぜ、こんな宗教が流行ったのでしょうね? 
イエスさまが泣いていますよ、きっと。でも、もう宗教の時代は終焉を迎えます。


sea



男性原理と女性原理。
この「ふたつの異なった原理を統合すること」は、地球だけではなく銀河系ファミリー全体が抱えている課題でもあるということなのです。
はるかに古い文明をもっているETたちも、陰陽バランスをとることはとても難しかったわけですね。

地球に生きているわたしたちが、「自分自身の内面の男性エネルギーと女性エネルギーの統合を図ること」は、「地球」の「男性エネルギーと女性エネルギーのバランスをとること」につながります。
地球上で起こっていること、生じていることは、わたしたちひとりひとりの内面で起こっていることの反映だからです。
わたしたちの心の中が常に葛藤状態だと、それが地球さんにも及ぶわけです。
わたしたちの心の中が統合されると、地球さんも統合され、アセンションがしやすくなるのです。



★ 内側の感情を外側へ表現していくこと ★



では、「どうしたら統合することができるか?」ということですが、
自分の感情と行動に常に意識の焦点を当てていく」ということでしょうか。

感情は「女性エネルギー」であり、
行動は「男性エネルギー」です。
つまり、「統合する」とは、「内側から湧きあがった感情を外側へ表現する」ということです。
特に数秘で「3のエネルギー」がある人で、ネガティブなほうに傾いている人は、「感情表現をしていくこと」が学びとなります。


わたし自身の《軌道数》は3でも8でもありませんが、インスピレーションで得たことや内側から湧いてきたものを、このブログに書く(表現する)・伝える(広く伝達する)ということで、陰陽両方のエネルギーを使っています。
これが自分の思い通りにうまく文面に表現されると、とてもごきげんなのですが、書く時間が取れなかったり、うまく表現ができなかったりする状況があると、生きる喜びが損なわれたような気がしてくるわけです。
ブログの更新が頻繁におこなわれているときというのは、自分の時間とスペースが十分にあって、とてもごきげんな瞬間(とき)を過ごしているといってよいかもしれません。


      黄冠
            天に向かって花ひらいた牡丹 
                撮影 光の仕事人



地球の女性の皆さん、これからは「女性の時代」です。
自分の中で男性性と女性性がバランスよく統合されたなら、もう地球の男性は必要としなくなるかもしれませんね~。
現在の地球の男性はとても頼りないですから。(笑)

男性性に目覚めたアニムスの女たちを思い起こさせますね。
彼女たちは「内なる女性エネルギー」を表出するためにどんどん行動し、コミュニケーションしていきます。
知的な情報を相手に伝達する能力」は、まさしく「男性エネルギー」です。
男よりも男らしくなっていくかもしれませんね。

男性は内なる女性性を見出し、男性性とのバランスをとっていくことです。

光明を得た人には、受容するという豊かな女性性があります。
人生の旅路では、自らの直観(直感)が唯一のガイドです。
直観できる自分になりましょう。

そして、天国に行きましょう。




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