「自分自身でいること」のお話

2010年07月21日 09:25


★ 「自分自身でいること」のお話 ★



イエスマン」ということばがあります。

イエスマンというのは、上司、先輩、先生など自分にとって、影響力のある人や権威のある人に対してご機嫌取りをする人のことで、目上の人から頼まれたことや意見に対して必ず「はい」とか、「いいですねえ」とかいった肯定的な返答しかしない人のことを言います。
イエスマンは、サラリーマンに対してよく使われる用語ですが、そういう傾向にあるのは何もサラリーマンに限った事ではありませんね。 

では、なぜイエスマンが多く存在するのでしょうか? 
今日はそれを考えてみました。




★ 従順な子どもは善い子か? ★



世の多くの親たちは、自分に従順な子どもは善い子で、抵抗する子どもは悪い子というレッテルを貼りたがる傾向にあります。
でも、なぜ従順な子どもは善い子 なのでしょうか? 

実のところ、親のエゴにとっては、いつも「はいはい」と言って自分に従ってくれる子どものほうが、「気分がいいから」というだけのことでしかないのです。

人に好かれ、認められ、受け容れられるような人間にならなければいけないよ」と、常に言い聞かせられてきた子どもは、人に好かれたり、認められたり、受け容れられたりしなければ、自分は無価値なのだということや、人に認められるためには、自分を押し殺して、相手に合わせなければいけないのだということを覚えます。

なぜなら、そのままの自分を、受け容れてもらった試しがないからです。
そうすると、相手に嫌われないために、いつもニコニコと笑顔をふりまき、心で思っていることとは別のことを言い、自分の意に沿わないことでも「はいはい」と承諾して、相手に従う偽善者となってしまうのです。
そして、学問や仕事を、「人に認められるための手段」としておこなうようになるのです。

ところが、「いつも自分自身でありなさい」と言われてきて、自分が一個の自由な人間であることに目覚めている子どもは、人に好かれようが嫌われようが、認められようが認められまいが、受け容れられようが受け容れられまいが、常に自分自身でありつづけようとします。
型にはめられることや精神的な隷属を嫌い、親や教師などの権威者に対して、完全に自由であることを主張し、服従しようとはしないものです。

いつも自分自身でいる子どもは、「いい子ちゃんロボット」や「あやつり人形」には、絶対にならないですよね。
彼らは人に認められるために学問や仕事をするのではありません。その学問や仕事をすること自体に生きがいや喜びを感じ、それを自らが愛するゆえにするのです。

そういう子どもには抑圧がなく、シャドー(影)が少ないため、ネガティブな存在に影響される可能性も断然少ないのです。


★この世の中には、いつも「はい」を言うのではなく、時には断固として「いいえ」と言わなければならないことがあるのです。
「いいえ」を言える人がいないと、バランスが崩れてしまいます。
この「いいえ」というのは、はっきりとした自分の意志をもっていて、自分の真実に対して責任を持ち、断固とした信念のもとに発せられた「いいえ」です。




★ 従順な子どもたちはなぜ問題なのか? ★



問題は、従順な子どもたちのほうです。
親や教師にコントロールされることで、彼らは自分自身に責任を取ることを忘れていきます。
権威ある者に従ってさえいれば、責任は彼らが引き受けてくれるからです。
おとなになっても世間に逆らわず、世間に迎合していれば、世間は認めてくれるわけですから、彼らはほんとうの自分自身を表現しないまま、上面(うわつら)だけの善人となっていきます。

会社などの組織のなかで働いている場合、自己保身が強ければつよいほど、最高権威者に盾突くことができないようになっていくわけですね。
自分自身であろうとすると、みんなから非難され、拒絶され、責任をとらされる恐れがあるからです。
クビになれば、家族を路頭に迷わせることになりますから、その重荷と恐怖ゆえに、多くの人は自己主張することをやめます。
そして、自らが自分自身となることを拒絶して、社会や権威者に隷属する不自由な道を選ぶのです。

これは「閉ざしたマインド」そのものですね。
自らに制限を与えている典型的な例」といえるでしょう。

自分自身の尊厳を無視して、その人が外側で善い人(実際何が善いのか疑問なのですが…)であろうとすればするほど、内側には多くのシャドーが蓄積していきます。
それがネガティブエネルギーを引き寄せるのです。

シャドーは暗くて、邪悪で、陰険で、残酷な観念で、これらを自らの内に抑圧することによって増幅していきます。
ですから、自分の頭で考えた、いわゆる善い人の部分だけで人に接していると、やがて悪の部分が大きなシャドーとなって立ちはだかることになるのです。 



ハート
さて、あなたは「いい子ちゃんロボット」でしょうか?
それとも、「自分自身に責任をもち、常に自分らしく生きている戦士」でしょうか?




本音で話すことの大切さ

2010年07月22日 10:35


★ 本音で話すことの大切さ ★



前回は、自分自身の尊厳(そんげん)を無視して、その人が外側で善い人であろうとすればするほど、内側には多くのシャドーが蓄積していき、それがネガティブエネルギーを引き寄せるということをお話ししました。

では、シャドーをつくらないためには、どうすればよいのでしょうか? 
賢明なあなたには、もうすでにおわかりのことでしょう。


★いつも、どんなときでも、人とは本音でつき合うこと。
本音で話すことです。
全面的に自分自身に責任を負いながら、自分の真実を相手に誠実に話すことです。 

本音を言うことの美しさを知っている人は少ない」と、長女の守護霊は語っていました。
本音を隠して、いつも相手の喜びそうな善人でいる必要はないということです。

相手に好かれるための偽善者はやめることです。
自分の正直な気持ちを隠さずに相手に伝え、納得できないことに対しては我慢することなく意見を述べ、後々鬱憤(うっぷん)を残さないようにしなければなりません。



世の中には「もしこれを言ったらみんなに嫌われ、孤独になりはしないか?」とか、
本音を言うと、相手が傷つくのではないか?」とか、
その結果ばかりを気にして、本当の気持ちを伝えることができない「事なかれ主義」や「現実回避の臆病者」、「弱々しい善人」たちが大勢います。
お互いに傷つけあうくらいなら言わないほうがよいとして、外側だけのニセの和を保とうとするのです。
そんな表面的な和を保っていて、いったい何になるのでしょうか?



★ 傷つくことはポジティブなこと ★ 



ちょっと考えてみてください。
あなたは自分が傷ついたり、人を傷つけたりすることを、なぜそんなに恐れるのでしょうか?
もしかしたら、「傷つくことはいけないこと」とカン違いをしているからではありませんか?


★傷つくことは、そんなにいけないことなのでしょうか? 
傷つくことは、とてもポジティブなことなのです。


*オリン(サネヤ・ロウマンがチャネリングする光の存在)は言っています。

勇気をもって、賢く、最も愛情深く、思いやり深く、ハートを開き、傷つきやすい人になってください」と。

逆に「傷つかない」「愛さない」「信じない」「本音を言わない」というように、「○○しない」というのは、すべて否定的で消極的な方向性をもっているといえるでしょう。


★ すべてを肯定的にとらえる ★



ダイヤモンドは磨くことで輝きますね。
すべての宝石は研磨(けんま)する=傷をつけるという行為があってこそ光るわけで、磨かれたダイヤモンドほど美しいかがやきを放つのです。

真珠も同じです。
あこや貝は自分の体内に入った異物の痛みを和らげるために、それを包む成分を出し、あのようにみごとな珠を創りだします。

人間も同様です。
心にいろんな苦痛を感じながら、困難なことを前向きに解決しようと努力するなかで、智恵が生まれ、勇気が生まれ、強さやたくましさが培(つちか)われていくのです。

そんなふうに、傷つくということを、否定的にとらえるのではなく、その傷があなたをより一層成長させてくれる肯定的なものとしてとらえてみてはいかがでしょうか。

たとえば、相手があなたに本音で「善意のアドバイス」をしたとしましょう。
それであなたがひどく攻撃されたと感じたなら、それはまさしくあなたにとって「必要な学び」であり、「自分を見つめ直すチャンス」だと、とらえてみるのです。

実際あなたの内側に苦痛があるからこそ、相手はそれを引き出す役割をしてくれたのです。
その学びを引き寄せたのは、あなた自身なのです。

他人があなたに苦痛を与えるのは、あなたのハートがまだ開かれていない領域があることを知らせてくれているのです。
ですから、本当はとてもありがたい贈り物なのです。 
もし、あなたにその学びがまったく必要でないのであれば、まず攻撃されたとは感じないし、傷つくこともないはずです。
その助言が自分に当てはまらないと思ったなら、とりあえず受容して、あとで「それはちがうよ」と言えばよいのです。

ですから、お互いに相手を怒らせたり、拒絶されたりするのを恐れるあまりに、本音や助言を控えようとするのは、お互いの魂が成長する絶好のチャンスを奪うことにもなるのです。




ハート
自分や相手の成長を考えないところの愛は
けっして真の愛ではない
ということですね。

本音を言わず、長いあいだ我慢していた人ほど病気になりやすく、
ネガティブな存在にも取り憑かれやすくなります。

自分の意に沿わないことに直面して、恐れを抱いたり、内側で抵抗したりしていると、胃が悪くなります。
相手にムカつくと、ほんとうに吐き気をもよおしてきます。
意=胃に沿わないから、消化できなくなるのです。

抑圧されたエネルギーは毒素となって、精神も肉体も蝕(むしば)んでいき、
異常波動となるからです。

いつも自分のハートの声に従って
愛を内に秘めた本音で語りたいものですね。




真の愛は自分の真の姿を見せること

2010年07月23日 09:40


真の愛は自分の真の姿を見せること



あなたは、親しい相手にあなたのほんとうの姿を見せているでしょうか?


★相手を愛するには、まずその人に自分自身のほんとうの姿を見せることから始まります。

人によっては多くの勇気が必要となるかもしれませんが、自分のポジティブな部分も、ネガティブな部分も、光の部分も、陰の部分も、正直にあからさまに見せることが必要です。

★なぜなら、あなたの真実は両極を同時に含んでいるからです。
真実は全体であって、片方だけ、半分だけではありえないからです。


人の思考は、振り子の動きを目で追うように、ひとつの極しか見ることができません。
そのためもうひとつの極が必ず同時に存在することに気づかず、たいてい偽善に騙(だま)されてしまうのです。

愛には必ず憎しみの部分が潜んでいるということ、
光のあるところには必ず影があるということに気づかないのです。

地球上に住んでいるだれもがこの両面を持っているということ、
人類を創造した神自体がこの両面を内包しているということでさえ、気づいていないのです。

表面的に善い面だけで相手に接していると、しだいに不自然さを感じるようになります。
悪い面が現れないように努力するよりも、自分にはこんなネガティブな面があるということをあらかじめ相手に知っておいてもらったほうが、断然気が楽なのではないでしょうか。



★*★*★*★*★*★*★*★*★★*★*★*★*★*★*★*★*★



あなたは自分自身に帰るために、
勇気をかき集めなければならない。

社会全体があなたを阻むだろう。
あなたは非難を受けることになる。

が、惨めで、偽善者で、いんちきのまま、
だれかほかの人としての生を生きるよりは、
全世界に非難されるほうがはるかにいい。

あなたは至福に満ちた生を生きることができる。
そして、そこにふたつの道は存在しない。
ただひとつの道――それは、ただただ自分自身でいることだ。

和尚ラジニーシ 『反逆のスピリット』より



★*★*★*★*★*★*★*★*★★*★*★*★*★*★*★*★*★



ハート
ハートをひらいて、お互いにありのままの自分で話すとき、
相手の気持ちが初めて理解しあえ、
真実を覆(おお)い隠していたベールを取り去ることができます。

ほんとうの自分を見せることができない限り、
心に真の平安が訪れることはありません。

もしあなたが、今まで恐くて本音を素直に言えなかったのなら、
まず自分の内に宿る権威者(ハイアーセルフ)を信じてください。

そして、自らかえりみて「正しい」と確信したならば、
たとえ敵対者や反対者が何万人いようとも、
自分の信ずる道を歩むという気構えで臨んでください。 

守護の神霊やハイアーセルフがいつも味方についてくれていることを意識し、
今が「自分の恐れと向き合う絶好のチャンスだ!」と思って、
勇気をもってありのままの自分を見せてください。



「鉄輪」に登場する悲劇の女主人公のお話

2010年07月24日 14:40


★あなたは、自分が他人に対して抱く肯定的な思いや否定的な思いが、相手にどのように影響するのか考えてみたことがありますか? 

もし、自分が激しい怒りに襲われていたり、憎しみのために相手を陥(おとしい)れようとしていたり、相手の不幸を望んでいたりして、深い敵意をこめた低い波動(振動数)をだれかに投射したとしたら、相手の人はどうなるでしょうか? 

ここでは、個人が発する「ネガティブな想念」について考えてみましょう。



「鉄輪」に登場する悲劇の女主人公のお話



昔から憎む相手を呪(のろ)い殺す方法として、「丑の刻参り(うしのこくまいり)」がありました。

丑の刻(午前二時頃)にひそかに参籠(さんろう)して祈願することで、呪う相手の人形(ひとがた)を釘で刺し、神木に打ちつけながら、自分の想念を集中して相手に送りつける行為です。

能楽の世界でも*「鉄輪(かなわ)」という物語で取り上げられています。

(*能の曲目。四番目物、また五番目物にも扱う。作者不明。出典は、男を恨んで鬼となった貴族の女、『平家物語』「剣巻」に登場する「宇治の橋姫」によるものとされている)


それは現在でも通用する女性の心理を描いた作品です。
暑い夏の夜にこの物語を聞くと、ちょっと涼しくなるかもしれませんよ。
   

★鉄輪は火鉢(ひばち)に入った灰に立てて、やかんや鉄瓶(てつびん)などを乗せる輪型の三脚のことで、「五徳(ごとく)」とも呼ばれていました。
若い人はご存じないと思うので、理科の実験で、フラスコに入った液体をアルコールランプで熱するときに使う丸型の三脚を思い浮かべてみてください。

★「能楽―鉄輪」では、自分を捨てて後妻を迎えた前の夫をうらみ、毎夜丑の刻参りに通っている都の女が登場します。

こんな浮気な男と夫婦になったのは、結局自分の心の至らなさの報いとは思うけれども、それではあまりに口惜しい。来世とはいわず、今この世で罰が当たるように貴船(きぶね)神社に願をかけよう

そう言って、女がうらみと嫉妬に駆られて「呪いの願かけ」をした場所は、京都の鞍馬(くらま)にある貴船神社の奥の宮でした。

ある夜、女がいつも通りに神社に行くと、貴船明神からご神託(お告げ)を受けた社人(神主)に出会います。

赤い衣を着て、顔には赤い*丹(に)を塗り、髪には鉄輪を乗せ、三つの足に火をともし、怒りの心を持てば、願いどおり鬼になれるであろう」 
(*丹は赤色の顔料のこと)

社人がそんなご神託を伝えると、女はそれを実行しようと決心して家に帰ります。


★さて、女の前夫のほうですが、最近どうも夢見が悪いので、原因を占ってもらおうと、陰陽師(おんみょうじ)の安部清明(あべのせいめい)のところへでかけます。

すると、前妻の深いうらみで、命が今晩限りであると告げられるのです。

驚いた男は、呪いを除き、悪行に打ち勝つための祈祷(きとう)を依頼します。
清明は男と後妻の身代わりになる人形=形代(かたしろ)を作って供物を整え、あらゆる神仏を呼び出して祈祷を始めます。

雨が降り、稲妻が走り、雷鳴がとどろくと、そこへ先妻が鬼(生霊)となってあらわれるのです。(★とても恐いシーンですよネ!)



あなたと夫婦になったときはいつまでも変わらないと思っていたのに、捨てられてうらめしい。でも恋しいとも思ってしまう。こんな苦しい思いをさせたあなたの命も、今宵(こよい)限り。お気の毒なこと

女には祈祷の祭壇が夫妻の寝床として見えていて、男の形代(かたしろ)の烏帽子(えぼし)に向かってうらみ事を口走ると、後妻の形代の髪を手にからめとり、「思い知れ!」と一撃のうちに打ち殺してしまいます。


鉄輪


憎むべきは断然男のほうなのですが、鬼となった女はまず後妻に対して怒りをぶつけ、殺してしまうのです。
そして、今度は男の命をも奪おうとして男の形代につめ寄ります。

そこで女の心に葛藤が生じます。

この憎い男の命をとっていこうか……。
それとも男を連れ去ろうか……。 
もしかしたら、また男の気持ちが自分のほうに向いてくれるのではないだろうか……。


そんな微かな期待感と未練。憎いけれども殺せないでいる悲しい女心が見え隠れします。

結局、清明の祈祷で守護の神々が守りを固めていたため、女は男を殺すことも、連れ去ることもできませんでした。
最後にこんな捨てせりふを残し、女は退散します。

時節を待つべしや、まずこのたびは帰るべし
今日のところはひとまず帰りますが、またうらみを晴らしにいつか来ますよ」ということですね。

この複雑怪奇な女の本音はどこにあるのでしょうか?

(★この続きはまた明日…) 


悪想念を受ける人、受けない人

2010年07月25日 06:40


★ 悪想念を受ける人、受けない人 ★



前回ご紹介した能楽「鉄輪」は、陰陽師の安部清明が登場する平安時代の物語ですが、現在でもその方法が密かにおこなわれていて、実際に目撃した人の話を聞いたことがあります。
この方法で相手の人が望み通り死ぬこともあるし、自分にはね返って自ら死ぬこともあるといわれます。

このような現象はいったいどうして起こるのでしょうか? 
そして、これは何を意味しているのでしょうか?

今回は能楽「鉄輪」をもとにして、悪想念を受ける人と受けない人について考えてみたいと思います。


★丑の刻参りのような呪詛(じゅそ)……
端的にいえば、これらは共鳴・非共鳴の法則によって生じる現象です。

相手に悪い想念を送ったとき、その想念と共鳴するものが相手のオーラ(アストラル体やメンタル体)のなかにあれば、相手に影響を及ぼすことができるし、そのオーラのなかに共鳴するものが全くなければ、影響を及ぼすことはできないということです。


★有害な意図をもって相手に悪想念を投射したとき、その相手が送り手と同じような資質を持った粗悪なオーラの持ち主であれば攻撃を受けます。

でも、そうでない清らかなオーラの持ち主であれば、攻撃されることはありません。

それどころか、清浄なオーラにぶつかった場合、その敵意をもった攻撃的なエネルギーは、応じられずにそのままブーメランのように逆戻りしてしまいます。
しかも、ぶつけたエネルギーと同等のパワーを伴ってはね返り、その悪想念を発した当事者に打撃を与えるのです。

また、守護霊や守護神の守りが固い相手には、害を与えることはできません。


★悪い想念でも善い想念でも、相手にそれと共鳴するものがなければ、必ず自分に戻ってくるのだということを知っておくのはとても重要です!



★ つよく思うと引き寄せる ★



鉄輪」に登場した後妻は、あっけなく亡くなってしまいました。
共鳴・非共鳴の法則」からいくと、後妻には前妻の悪想念を受けるものを持っていたということになりますね。

あるいは、後妻の心のどこかに前妻に対する恐れがあったのではないでしょうか。
「前の奥さんがわたしをうらんでいるのではないかしら」などと心配し、恐怖を抱いていたとしたら、その「ネガティブな波動が不幸を引き寄せる」ということがあるからです。

★つよく思ったことは、善くも悪くも引き寄せます。
人は自分の心の内に苦痛があるとき、その苦痛に相手が引き金を引くのです。


おそらく男のほうも、女のうらみを受けるだけのものをもっていて、陰陽師の助けがなければ、きっと命を取られていたことでしょう。
この場合、安部清明の祈祷の威力が鬼=生霊のパワーを阻止し、退けたということになるでしょうか。

でも、後妻にはなぜ陰陽師の守護がなかったのでしょう?
守護の神々にも守られず、男の身勝手さの犠牲となってしまった後妻はお気の毒ですね。



ハート
あなたが悪意からの害を受けたくなければ、
自分のオーラを常に明るく、美しく、
透明で、かがやきのあるパーフェクトなものにしておくことが必要です。

意識を崇高なものに向けて常に高く持ち、
自分のどのような感情をも愛し、
シャドーを蓄積しないようにすることです。
そして、他人には常に「愛と祝福の波動」を送ることですね。

もし相手があなたの波動を受け取らなくても、
その「愛と祝福」はあなたのほうへ戻ってきますから、
どちらにしてもベストなのです。





人を呪わば穴ふたつ―因果応報の法則

2010年07月25日 08:00


★ 人を呪わば穴ふたつ―因果応報の法則 ★



人を呪わば穴ふたつ」ということばがあります。

平安時代、加持祈祷をおこなっていた陰陽師は、人を呪い殺すこともあったようです。
そのとき、呪い返しに遭うことを覚悟して、相手と自分のふたつ分の墓穴を用意させたというのです。
他人を呪って殺そうとすれば、自分もその報いで殺されることになるので、墓穴が二つ必要になるというわけです。

人を陥(おとしい)れ、不幸にするような悪い思いがその人の内にあるということは、その人は自分に対して悪い感情を持っている人たちからの攻撃に自らを明け渡しているということになります。

つまり、「同種のものを引き寄せる」ということですね。
ですから、自分にも悪いことが起こるということで、「人を呪うにはそれなりの覚悟が必要」だというわけです。

「憎しみの上に憎しみを重ねたり、憎しみに対して憎しみで応えたりすることは、相手の敵意を増大させるばかりでなく、自分自身の悪意によって、自分の心や体を害することになります」
と、パラマハンサ・ヨガナンダも言っています。 

(『人間の永遠の探求』(森北出版)に記載)
 


★仏教では悪行の報いを「自業自得(じごうじとく)」といいます。
また、過去の行為の報いとして、それなりの結果がもたらされることを「因果応報(いんがおうほう)」といいます。


因果応報には「善いこと」と「悪いこと」の両方があります。

悪いことをすれば悪い結果が生じる。これを「悪因悪果」といいます。
善いことをすれば善い結果が生じる。これを「善因善果」といいます。

だから昔の人は「善いことをして、悪いことはするな」と教えたわけです。
世の中には、何が善いことで、何が悪いことなのかがわからない場合も多く、この教えは簡単なことのようで、なかなか難しいですね。

ほかにも「自分で播いた種は、自分で刈り取らねばならない」ということばがあります。
すべて「自分が創ったものや発したものは自分が受け取る」という意味です。


とてもシンプルでわかりやすい法則です。
その法則を信じる人には、そのような結果が必ず現れてくることを知るでしょう。



ハート
人を呪わば穴ふたつ……。

これは、「陰陽師」であろうが、
「鉄輪の女」であろうが、
人をうらんで、相手に悪影響を及ぼすことを戒めたことばだということです。



「汝の敵」はだれ?

2010年07月26日 07:30


★ 「汝の敵」はだれ? ★



皆さんはイエス・キリストの「汝の敵を愛せよ」ということばをご存じでしょう。
この「汝の敵」というのは、いったいだれのことを指していると思いますか?

子どもの頃、わたしは思ったものです。
「相手をだとみなすこと自体がおかしいのではないか。相手をだと思っている以上、愛することなど不可能ではないか」と。
でも、「敵といえども同じ命の源からやってきた魂の兄弟姉妹なのだから、相手の命を自分と同様に無条件で愛さなければならないのだろう」と、考え直しました。
ところが、それから数十年経って、ようやく「汝の敵を愛せよ」という真の意味が理解できたような気がするのです。

★人はお互いに自分の意にそぐわない者、自分が認めたくない者、無礼であったり、不快であったり、有害であったりする相手をとして憎み、嫌い、闘おうとします。

悪魔にとっては、神や天使が敵となります。
悪霊たちのほうからすると、天使が悪魔に見えるのです。
周波数のちがいが大きければ大きいほど、相容れられなくなるのです。


太古の昔より、「天使と悪魔の戦い」がつづいているといわれるのも、納得ができますね。


★異常波動を帯びた悪魔でなくても、わたしたちは往々にして自分の非を素直に認めることをせず、相手のせいにしがちです。
ともかく自分自身のものの見方や受け取り方の悪さを棚にあげて、そのときに生じる怒りにまかせて錯乱し、相手を攻撃するのです。

けれども、落ち着いて考えてみたとき、ほんとうは自分のほうにも原因や非があったことに気づくことがあるはずです。
敵だと思っていたのは相手ではなく、ほんとうは自分の心のうちにあったのだと。

敵が自分自身であったことに気づいたなら、その自分自身を第一に愛し、赦(ゆる)してあげなければなりません。
自分を赦して、イヤな自分を解放してあげれば、敵は存在しなくなります。

よって、「汝の敵を愛しなさい」というのは、結局「自分自身のなかに存在する敵(あなた)を愛しなさい」ということだったのではないかと思うのです。




★ 鉄輪の女主人公は復讐タイプ ★



これまで語ってきた「鉄輪」の女主人公は、夫と後妻を呪い殺すことで、うらみを晴らす典型的な「復讐タイプ」の女性でした。

こんな浮気な男と夫婦になったのは、結局自分の心の至らなさの報いとは思うけれども…」と言いながらも、「それではあまりに口惜しい。来世とはいわず、今この世で罰が当たるように」と願うのですから、自分の至らなさを反省するよりも、自分をみじめにした相手を「裁(さば)こう」とする欲求のほうが強いわけですね。

もしかしたら、心やさしいあなたがたには、理解できにくいタイプかもしれませんが、こういう女性は、今も昔も相変わらず存在するのではないでしょうか? 
だから、そういうドラマがやたら多くて、共感を得ているのです。


★「裁き」は、本来なら自分が悪かったと罪悪感を覚えるところを、その罪悪感を包み隠して逆に相手を非難してしまうことです。

ほんとうに責めているのは自分自身であって、相手ではないのです。
けれども、自分の罪悪感を相手に投影することで、自分のほうが正しいのだと優位に立とうとします。
自分をこんな不幸な目に合わせた者には罰を与えるのが当然だと思い込んでしまうのです。
このような「思い込み」は恐ろしいですね。




ハート
復讐」は、両刃の剣(もろはのつるぎ)さながらです。
相手だけでなく、自分をも傷つけ、
苦痛を味わうことになってしまいます。

夫を裁き、復讐することで、
ほんとうは自分自身を裁き、復讐していることに、
女は気づいていないのです。

では、この女主人公は、どうしたら「復讐」から解放され、
自由になれるのでしょう?
彼女のほんとうの敵は、だれなのでしょう? 
あなたには、もうおわかりですね。



汝自身を知れ

2010年07月27日 15:00


★ 汝自身を知れ ★



前回の続きです。
(読んでおられない方は、「能楽『鉄輪』の女主人公のお話」を最初からお読みになってください)

あなたは「鉄輪の女主人公」が、前夫のことを真に愛していると思いますか?

残念ながら、愛してはいないようですね。
真に愛しているのなら、夫の幸せを踏みにじるような行為には走らないはずですから。

彼女はただ夫という他者から何かをもらいたいだけなのです。
何かがほしいのに夫から拒絶されたから、ほしいものを得られなかったから、傷ついたのです。
それは愛とは別のもので、欲望ですね。

相手が自分から遠ざかっていくとき、もし心がひどく傷ついたなら、「自分がその人から何を得ようとしていたのか」ということを見てみることです。

相手にいつまでもしがみつき、執着しているということ自体、自分の欲求を満たしたいという「自己中心の思い」が非常に強いということを証明しているのです。

「こんな浮気な男と夫婦になったのは、結局自分の心の至らなさの報いとは思うけれども…」と本気で思うのであれば、夫が浮気者であるとうすうす気づいていながら、軽率に夫婦になった自分自身を素直に反省してみることが必要でしょう。
また、自分は前夫に愛され続けるだけの価値があったかどうかを顧みることも必要でしょう。

自分が後妻よりも人柄がすばらしく、魅力的だったかどうか。
後妻よりも料理が上手だったかどうか。
後妻よりも掃除、洗濯が好きだったかどうか。
後妻よりも裁縫が上手だったかどうか。
そして、後妻よりも前夫を愛していたかどうか……等々です。

それらのすべてにおいて、後妻よりも自分のほうが勝っていると思えるのなら、前夫の目は節穴(ふしあな)にちがいないから、そんな男のことはさっさと忘れて、新しい男を見つければいいのです。
そんなにイイ女なら、きっと前夫よりもステキな男が見つかるでしょう。
自分に大いなる自信を持って生きていけばよいわけです。

「魅力的だったかどうかですって? モチロンよ。でも、後妻はアタシよりもずっと年下なのよ。若いのよ!それに比べてアタシは年々容姿が衰えてきてる…。これには勝てないんだから。くやしいっ!」

逆にどう考えても後妻よりも劣っていて、太刀打ちできないと思えるのなら、潔(いさぎよ)くあきらめることです。


★ 原因は自分の中にある ★



問題がすべて自分の外にある」と思っていたら大マチガイです。
そうなった原因は、「必ず自分の中にある」のです。


すべては起こるべくして起こっている。
そう思ったほうが賢明ですね。


ところが、未練というものが、邪魔をします。
しがみつけばしがみつくほど、男はうんざりして、ますます遠ざかっていくのに、それにも気づかず、カーッとなって怒り狂うわけです。

私がこんな目にあったのはあなたのせいだ。私をこんなに怒らせたのはあなたのせいだ!
と、自分の至らなさなどはすっかり忘れ去るか、押し隠してしまい、自分を被害者に仕立て上げるのです。
そして、自分のみじめな境遇を相手のせいにすることで、感情を爆発させ、自ら相手に罰を下そうとします。

女は自分の憤りを発散させる方法として「丑の刻参り」を実行しました。

丑の刻参り」は、おどろおどろしいイメージがありますが、元々はそのようなものではなかったようです。
丑の刻にお参りをすると、願いをひとつ叶えてもらえるという言い伝えがあったのです。
(★古くは祈願成就のため、丑の刻に神仏に参拝することを言ったのヨ)

鉄輪の女の場合は、自分をみじめにさせた前夫と後妻に罰を与えたいため、「」になりたいと願っていたのかもしれません。
もっていきようのない感情を一身に神に向けて祈ることで、彼女は自分の憤りを徹底的に発散させ、自分自身を救済していたとも考えられます。
これは、ある意味では積極的な行為だといえるでしょう。


★世の中には、自分の感情の処理方法がわからなくて、ただ感情を抑え続けている人たちがたくさんいます。
何も感じないふりをしたり、無関心なふりをしたりしているときは、その人のなかに隠された「恐れ」が存在するのです。
自分がほんとうはどのように感じているのかをじっくりと見つめたり、口に出して言ったり、怒りを顕わにしたりすることを恐れ、自分の感情を素直に表現することから逃げているのです。
こういう人は必ず重い病気になります。



★病気のことを英語で「disease」といいますが、「自分が安心(リラックス)している状態ではない」という意味です。
リラックスができないということは、「本来の自然な状態の自分に抵抗している」ということです。
自分自身に抵抗しているときは、本来の自分とは異なった非常にネガティブで低い波動となっていますから、そこに摩擦が生じます。
その摩擦が病気や災難を引き起こしたりするのです。


鉄輪の女の場合は、神仏に祈るという感情のはけ口を見つけました。
彼女の必死の思い(願い)は、貴船の神様からのご神託が社人に伝えられたことからもわかりますね。
貴船明神は女に「鬼になる方法」を伝えたのですから。

ただ、その願いが他人の不幸を願うところから発していて、すこぶるネガティブなものであったために、被害者から今度は加害者となったわけです。


ハート
ネガティブ思考からポジティブ思考へ、
あなたならどのように意識を変換しますか? 

とにもかくにも自分自身を知ることが肝心です。
すべては、自分自身を知ることから始まるのです。

汝自身を知れ!」
その言葉に尽きると思います。



汝自身を知れ―自分を愛すること

2010年07月28日 19:00


★ 汝自身を知れ―自分を愛すること ★



昨日に続いて「鉄輪の女のお話」です。

あなたは、この女性に圧倒的に足りないものは何だと思いますか?

そう、「」と「赦し」ですね。

今日は「鉄輪の女が幸福になれる道」として「自分を愛すること」について考えたいと思います。


★高い意識の自己愛というものは、低い意識の利己愛とは別のものです。
高次の意識を内に宿した自分を愛する」ということほど大切なものは、
この世界にはないといってもよいでしょう。


★自分を真に愛せない人に、他者を真に愛することはできません。
なぜなら、自分のなかに他者のすべてが含まれているからです。
自分と森羅万象はすべてつながっているからです。



ここで、ゴータマ・ブッダ(釈迦のこと)が生きていた時代にコーサラという国があり、そこの王であったパセーナディと妃であったマッリカーに関して説かれたお経があるので、ご紹介しましょう。


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あるとき、王は王妃に尋ねた。
「マッリカーよ。汝には、自分自身よりも、もっと大事なもの、もっと愛しいものがあるだろうか?」
 
王妃はさらりと答えた。
「大王よ、わたしには、自分よりももっと愛しいと思うようなものは考えられません。大王よ、あなたには、なおご自身よりも愛しいものがおありでございましょうか?」
 
王はよく考えてみたが、自分以外に大切なものや、自分よりもさらに愛しいと思えるものなど、何も考えつかなかった。
王と王妃の考えは同じだったのだ。ふたりは、ほんとうにこのような結論でよいのかどうか不安になり、ブッダに尋ねてみることにした。

二人の質問を聞いたブッダは深くうなずかれ、やがてつぎのようなことばをつけ加えられた。

人の思いは、いずこへも赴くことができる。
されど、いずこに赴こうとも、おのれより更に愛しいものを見出すことはできない。
それとおなじく、他の人々にも自己はこのうえもなく愛しい。
されば、おのれの愛しさを知るものは、他のものを害してはならない
」 

(相応部経典 三、八、「末利」より要約) 


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おのれの愛しさを知るものは、他のものを害してはならない」ということ。
それが、いわゆるアヒムサー(不害・不刹)という意味です。


あなたがあなた自身のことを何ものにも代えがたいほど愛しいと思っているのなら、同じように他の人もその人自身のことを愛しいと思っているはずです。
それなら、他者を害してはならないと、ブッダは教えられたのです。

つまり、他者を害しようと企む者は、たとえきっかけは自分可愛さのためであったとしても、それは真の自己愛にはつながりません。
他者に悪意を向けて害すれば、その報いは自分に戻ってくるわけですから、結局自分自身を愛していないことになるわけですね。
(★過去記事「人を呪わば穴ふたつ―因果応報の法則」をもう一度読んでみてネ)



ハート
出発点は自分です。
ですから、「まず自分を愛すること」です。

愛は自分自身の内側から来るものであって、
人が与えてくれるものではありません。

わたしたちが深く自分を愛するとき、
悩んだり、いらついたり、悲しんだりすることはありません。

自己受容自己愛を決して失わないこと。
そうすれば、平和の波動がわたしたちを包んでくれます。


(次回に続く)


汝自身を知れ―自分を赦すこと

2010年07月29日 14:00


★ 汝自身を知れ―自分を赦すこと ★



前回は「自己受容」と「自己愛」の大切さをお話ししました。
今回は「自分自身を赦(ゆる)すこと」について考えてみたいと思います。


★まず自分自身を完全に赦すことができれば、他者を赦すことができます。


でも、これはそう簡単にできることではないかもしれません。
表面的には赦していると思っていても、内側ではなかなか頑強に赦していない自分があったりします。


★人は自分の内にある「罪悪感」や「裁き」や「恐れ」を手放すことで、癒されます。
真の癒し」は「」と同様、自分自身の内側からやって来ます。
人が与えてくれるものではないのです。

癒しは、「鉄輪の女主人公」のように「怒り狂った自分」、「悲しい自分」、「かわいそうな自分」など、ありのままに見つめ、認めることから始まります。
そして、相手を「憎んでいる自分」、「恨んでいる自分」、「責めている自分」、「裁いている自分」、「執着している自分」、「期待している自分」を赦し、手放すのです。

執着」がなくなれば、本来の自然な波動にもどることができます。
そして、「自分の夢を生きること」、「自分の可能性を信じること」、「自信を持って何かをやってみること」、ボランティア活動のような「人のために役立つ、人に喜ばれることをやってみること」です。



キンバリー・マルーニーは、つぎのように言っています。
希望とは、自分の願いは叶うと信じる気持であり、善なるものを願うこと



とにかく「希望をもつこと」ですね。
鉄輪の女主人公」のような強靭(きょうじん)な意志と信念をもった足腰の丈夫な人なら、何だってやれるはずです。
何しろ、毎晩丑の刻参りをするために、京の都から貴船までのおそろしく長い道のりを歩いて通っていたのですから。
鉄輪の女」にはホントかなわないです。脱帽です。

このような女性は、人を殺すほうではなく、活かすほうに使うことにフォーカスすれば、きっとスゴイことができるはずです。
それこそ、かなわないものなど何もないでしょう。
彼女のこれまでの苦悩も、彼女の魂の変化や成長のために必要であったのだと捉えれば、明るい光が射してきますね。

★「苦悩」は、自分がほんとうに進みたいと望んでいる方向とズレてしまったときに起こります。

もしもーし、あなた、どこか見直すべきことがあるんじゃないですか?
と教えてくれているのです。

そこで自分自身をよく見つめ、探究してみれば、自分が播いた種がどこでどう間違ったのか、おかしな方向に生長してしまったり、枯れかけてしまったりしていることに気づくでしょう。

★選択をまちがえたことに気づいたなら、ほかの選択肢を探せばよいのです。



ハート
この世の中は、
光と闇、男性性と女性性、
愛と憎しみ、喜びと悲しみ、
ポジティブとネガティブなど、
たくさんの対極(二元性)で成り立っています。

突如、愛が憎しみに変わったり、
信頼が不信に変わったり、
幸せが苦悩に変わったりします。
そのたびにそれぞれの方向を体験させられるわけです。

人生の目的はこれらふたつのバランスを学ぶことです。
ですから、どちらを体験することも恐れず、嫌わないことです。

鉄輪の女」は貴船明神に「鬼になりたい」と祈願しましたが、
わたしの心に平安がもたらされる道を示してください」と
お願いするという選択肢もあったはずです。

ただ、気づかなかっただけです。
赦す選択もあるのだということを。




貴船神社にまつわる不思議なお話

2010年07月30日 13:20


★ 貴船神社にまつわる不思議なお話 ★



今回は「鉄輪の女主人公のお話」の総まとめとして、能楽「鉄輪」の背景となった貴船神社について少し触れておきたいと思います。


京都に住んでいた頃、わたしはよく鞍馬寺に詣(もう)でることがあり、鞍馬の奥の院からの帰りに貴船神社の奥の宮に何度か立ち寄ったことがありました。

奥の宮に祀(まつ)られている神はクラオカミノカミと、タカオカミノカミと記されています。
オカミは水の神、または雨雪を司る竜神で、タカオカミノカミは山上を司る竜神です。
もとは山の神だった貴船は、平安京以来、都の水源に当たるとして水の神としても尊ばれたのです。

丑の刻参り」というのは、この貴船神社の祭神タカオカミノカミが、国土豊潤のため、丑年丑月丑日丑刻に降臨されたと伝える古事によるものです。
また、人々のあらゆる心願成就に霊験あらたかであることを示すもので、単に「呪い」にのみとどまるものではないのですが、やはりそこには、「神的なもの」と「魔的なもの」が同時に存在しているように感じられました。

その暗く陰湿な空気のなかで、わたしは「鉄輪の物語」を思い起こし、早々に奥の宮から貴船神社の本殿に赴いた記憶があります。

あるとき、貴船神社の本殿で祈ったあと、大きな神木(樹齢四百年の桂)の前にたたずんでいると、不思議な現象が起こりました。
足元にポトンポトンと雨のしずくが落ちてくるのです。
思わず空を見上げましたが、快晴で雨を降らす雲もありません。
不思議に思って石段を少し降りたところに移動すると、またそこでもしずくが落ちてくるのです。
他の場所にしずくの形跡はなく、わたしの立っているところだけが濡れて、いくつものしずくの跡が残っていたのです。

それは、その神木から落ちてきているようでした。
そのしずくが「鉄輪の女主人公」や、彼女によって殺された女と同様、実際に人を呪ったり、呪われたりして不幸になっていった多くの女性たちの悲しみの涙だったと知ったのは、それから随分あとになってからでした。

その重苦しい苦悩と悲哀を味わった女たちの心情を、神木が伝えたかったのでしょうか。
つくづくと考えさせられる深いメッセージであったと、今になって思います。


★ 自分を害する者に向けて、愛の波動を送る ★



★もし、「鉄輪の女主人公」さながらに、だれかがあなたに対して強い否定的な波動を送ってきた場合、あるいは実際に言動で害を与えてきた場合、あなたならどうしますか?

★あなたが相手に対して嫌悪や脅威を感じることなく、愛を持って、常に肯定的な波動を送り続けるのであれば、相手の心はいつしか落ち着き、やわらぎ、あなたに対して誤解をしていたことや、悪意をもったことを反省するようになるでしょう。

自分を害する者に向けて、愛の波動を送ることは、とても難しいかもしれません。
けれども「相手のなかに自分を見ること」ができれば、慈悲のエネルギーを送ることはたやすくなります。
そして、これを成し遂げたなら、自分がよりパワフルになったのを感じられるはずです。



鉄輪の女主人公」のような人が幸福になれる方法や、そのキーワードはたくさんあることでしょう。
この物語を読まれた人によっても、感じ方や考え方、対処法は千差万別であるはずです。
いつも述べている通り、真実はその人の意識レベルによって異なるからです。

★わたしが特に大切な要素と考えてお伝えしたのは「」と「赦し」です。
能楽「鉄輪」をひとつの例え話として、七回にわたってお話をしてきましたが、そこでもたらされた気づきを大切にしていただけましたら、幸いです。



ハート
愛されるために愛するのが人間であり、
愛するために愛するのが天使である。

(アルフォンス・ドゥ・ラマルティーンヌ) 

人間のあいだで広がる感情は恐れであり、
天使たちのあいだで広がる感情は神の愛であるといわれます。
人間から天使の感情になりたいものですね。






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