「真実」はその人の「意識レベル」によって異なる その1

2010年06月13日 08:56


★ あなたにとっての真実とは? ★



今、あなたはどんなことを信じていますか? 
どんなことを「ほんとうのこと」だと思っているでしょうか?
何が、あなたにとっての「真実」でしょうか?



★「精神世界」や「自己啓発」に関する本は、現在たくさん出版されています。
このブログを見つけたあなたなら、すでに多くの本を読んでこられたことでしょう。
それぞれの著者はそれぞれ自分が得た「真実」を語っています。
でも、「それがすべての人たちに認識できる真実か?」というと、必ずしもそうではないことがわかります。
どういうことなのか、説明してみましょう。

* * * * * * * * * * * * * * * * * * 

あなたは、鳥舎の巣箱のなかで生まれた一羽の小鳥です。


そこには、おとうさんやおかあさん、兄弟姉妹たちも一緒にいました。
とても気が合う鳥もいましたが、何となく気が合わない鳥も、近寄りたくない鳥もいました。
鳥舎のなかには大きな木があって、そこからはたくさんの枝が伸びています。
どの鳥もたいていその「止まり木」に並んで乗っかり、たわいもないおしゃべりをして毎日を送っていました。

あなたはいつも自分の両足を乗せている「止まり木」という一本の〈直線〉が、唯一の「現実」だと思って生きてきました。

鳥舎は網で囲まれています。
そのあいだから外をのぞくと、まばゆい太陽の光のなかで、空をきって自由自在に飛び交う野鳥たちの姿が目に映りました。

耳を澄ませば、風にそよぐ木々の葉のざわめきや、野鳥や動物や人間の子どもたちの声が聞こえてきます。
ときおり風は、どこか遠いところから芳(かぐわ)しい草花や木の実の甘い匂いを、あなたのところへ運んできてくれました。
さまざまな香りが、季節の移り変わりを教えてくれたのです。

みんな何だかとても楽しそうです。
そこにはまだ見たこともない自分の知らない世界が、どこまでも、どこまでも、果てしなく広がっているように思えました。
大空を優雅に旋回している大きな鳥の姿も、ときどき見かけました。
彼らはほとんど羽ばたくこともなく、空中に浮かんでいました。

「どうして、あんなふうに浮かんでいられるんだろう?」

あなたは自分にも彼らと同じ翼があることは知っていました。
お気に入りの止まり木から巣箱までパタパタと飛び移ることくらいはできます。
でも、羽を動かさずに空中に浮いていられることなどできっこありません。

「信じられない!」「ありえない!」

あなたはいつもそう思い直していました。
あなたにとって、それらの映像は「おとぎ話」や「空想の世界」の産物にすぎなかったのです。

* * * * * * * * * * * * * * * * * *

ある日のこと。
あなたがいつものように「止まり木」に乗っかって、網のあいだから外の景色を眺めていると、あなたを見つけた一羽の野の鳥が、「こっちへおいでよ」と呼びかけ、あなたを誘います。
あなたは首をかしげます。どうしたら、外の世界に行けるのかわからなかったのです。

「そんな窮屈(きゅうくつ)なところにいて、毎日楽しいの? ほら、出ておいでよ。扉はあいているのだから」
「えっ? 扉があいているの?」 

とまどっているあなたを見て、野の鳥はいいます。
「よく見てごらん。扉なんか閉じてもいないし、最初からついてもいないよ。きみが自分で扉をつくって、勝手に閉じているだけじゃないの?」

あなたは驚きます。
鳥舎の扉が開いているなんて、今まで気づきもしなかったからです。
目をこらして見ると、たしかに鳥舎には扉など、どこにもついていません。
柵という制限は、自分で創っていただけのことだったのです。
でも、見知らぬ世界への不安と恐れのために、あなたはまだ「止まり木」にしがみついたままです。

野の鳥は語りました。
ありとあらゆるものには「自由意志」と「自由選択」が与えられていて、だれでも自分の思い通りに生きることができるのだということ。
心配はいっさい無用だということ。

不安や恐れは、すべて自分が自分の思いを制限しているところから起こっているということ。

「へえーっ、そうなんだ!」

* * * * * * * * * * * * * * * * * * 

未知なる冒険を体験するという勇気を与えられたあなたは、ようやく翼を広げ、大きく羽ばたきます。
生まれ育った場所や親しい者たちへの執着を捨てて、あなたは「止まり木」から飛び立ち、そして野の鳥の後を追って空高く舞い上がったのです。


      空飛ぶわし


あなたは海の上で羽ばたくことなくじっと浮いている鳥をみつけました。
あんなふうに自分も浮いてみたい……。
あなたは自分もできると信じて、思い切って羽ばたくことをやめてみました。

「すごい! ほんとうに浮いているわ!」
あなたは羽ばたきをやめても、落ちていかないことがわかりました。
風が自分のからだを支えてくれることを知ったのです。

鳥は上昇気流に乗ることができます。
それに乗って宙に浮くことができる真実をあなたは体験したのです。

そして、「信じられない」、「ありえない」は、「信じられる」「ありえる」に変わったのでした。


上昇気流に乗り、輪を描きながら、あなたはどんどん空高く昇っていきました。
「えーっ? どうして! 世界はまっすぐにつづいているのではないの?」
下方に見える地平線や水平線を見て、あなたは衝撃(しょうげき)を受けます。

なぜなら、現実は〈直線〉ではなくて、〈曲線〉だったからです。


あなたは野の鳥にたずねます。
「この海の上をずっとずっとまっすぐに飛んで行くと、どこにたどりつくの?」
「また、ここに戻ってくるよ」
「えっ? それって、どういうこと? 世界に『果て』なんか、ないはずなのに」

「昔、この大海原をまっすぐにずっと進みつづけるとどうなるだろうって、考えた先輩たちがいてね、実際に旅に出かけていった」
「それで彼らはどうなったの?」
「彼らはまたもとの場所に戻ってきたんだよ。それで世界は直線ではなくて、曲線で、しかもまるいってことを知ったんだ。
世界が平らで果てがないと信じていたやつらは、途中であきらめてやめてしまった。だから、真実を知らないままなんだ」

「どうして途中であきらめたの?」
「そりゃあ、絶対に果てがないと思い込んでいたからさ」

あなたがこれまで絶対にこうだと信じてきたことが、一瞬にして変わってしまいました。

あなたは〈曲線〉だと思っていた世界が〈円〉だということを知りました。
海の上をずっとまっすぐに進みつづければ、いつかまた同じところに戻ってくるということ、世界は平らなんかではなく、〈まるい〉ということを認識したわけですね。

これまでのあなたは、直線的なものを現実だと思い込んできました。
それがあなた(小鳥)の真実だったのです。
ところが、すべての直線はとてつもなく大きな円の一部分であるにすぎず、世界が一直線上にあるというのは幻想であったことに気づいたのです。


天空へと舞い上がったあなたは、やがて〈円〉がサイクルとなっていることを知ります。
電子は原子核の周りを、月は地球の周りを、地球は太陽の周りを、ある一定の軌道を描いて飛びまわっています。

自然界では、植物の光合成とすべての生物の呼吸のはたらきによって物質が循環しています。
雲から落ちてきた雨粒も、地表から水蒸気となって上昇し、雲となってまた地上に落ちてきます。
生まれたものは滅し、滅したものはまた生まれます。
生物の「生き死に」も「輪廻(りんね)」という輪をめぐり、円環しています。

このように、ミクロの「素粒子(そりゅうし)」からマクロの「宇宙」に至るまで、あらゆるものがぐるぐると輪になってまわっていることをあなたは知るのです。

でも、このように現実が〈円〉を描いて周期的に動いているのだとしたら、同じことを何度も何度も繰り返していることになってしまいます。

「みんな、永遠に堂々めぐりをしているってこと? それじゃあ、いつまで経っても先に進めないじゃないの?」
そんな疑問を持ったあなたは、さらに高いところへと上昇します。
そこであなたはもっと驚く光景を目にするのです。

あなたは、〈円〉だと思っていたものが、じつは〈螺旋(らせん)〉だったということに気がつきました。

〈螺旋〉というのは、円を描きながら移行しますね。
〈円〉のように同じところをぐるぐるまわっているのではありません。
ひとつのサイクルを越えたらつぎのサイクルへと入り、そのサイクルを越えたらまたつぎのサイクルへと、つぎつぎと進化のレベルが高いところへと移行、上昇していくのです。

あなたは、すべてのものが同じ繰り返しをしているのではなく、螺旋状に進化していることを知るに到ります。
「そうだったのか! 宇宙の仕組みって、何てミステリアスなんだろう!」

この時点で、ようやく〈現実のほんとうの性質〉というものを真に理解できるところに、あなたは到達したのです。
でも、「進化の旅」はまだまだつづきます。


* * * * * * * * * * * * * * * * * * 

★おつかれさまでした。
「小鳥のお話」はいかがでしたか?
この「小鳥のたとえ話」のように、それぞれが持っている「意識」や「観念」、「固有の周波数」によって、見えてくるものや感じられるものはちがってくるし、現実も真実もそれぞれ異なってくるということなのです。



★真実は、それぞれの人にとって真実と見える(思える)ことでしかありません。

★〈真理〉や〈真実〉が探求者の数だけあるといわれるのは、そういうことなのです。



「真実」はその人の「意識レベル」によって異なる その2

2010年06月14日 16:15


★ 神や正義はひとつではない ★



★世界には「」を信仰している人たちが大勢いますね。
一神教の神」、「多神教の神々」さまざまです。
ユダヤ教」と「キリスト教」と「イスラム教」では、「神は唯一の存在である」とされていますが、それぞれ「神の名」は異なり、「真実」も異なります。

これらの信仰者たちは、それぞれがつけた「神の名」のもとに、それぞれの「正義」という旗をひるがえし、それぞれの「思い込みの真実」のために戦争を繰り返してきました。
彼らは自分たちとちがう人たちを決して受け容れようとはしないのです。

神がひとつであるのなら、その神から創造された人間同士が戦う必要などまったくないはずですね。
けれども、「自分の真実だけが唯一正しい」とお互いが思い込み、非常に限られた理解しか持てないでいるため、未だに歩み寄ることができずにいるのです。
多様性のなかにあってお互いを受け入れ合うのが教会だ」とイエスの弟子パウロは言っているのですが……。

キリスト教では、動物などは人間の食べ物として神から与えられ、何を食べてもけがれないとされていますが、ユダヤ教では、ラクダ、ウサギ、タヌキ、鳥の中の猛禽類、爬虫類、羽のある昆虫、死んだ動物、貝や甲殻類、ウナギ、クジラなどの水性動物は、けがれた生き物として一切禁止されています。

イスラム教では豚を食べてはならないことになっています。
ですから、ハムやソーセージも食べません。ヒンドゥー教では神聖とする牛を食べてはならず、ジャイナ教では牛、豚、鳥の殺生を禁じていて、ほとんどがベジタリアンであるといわれています。

宗教によって、食べ物の常識が全くちがっているのです。
なぜなら、それぞれの神が禁じているからです。

このことからも、「神や正義はひとつではない」こと、
そして、「真実はひとつではなく、数限りなくある」ということがわかります。


★それは宗教だけではありません。
法律や医学や現代科学も同様です。

今まで認められていた真実よりもさらに最新の異なった真実が発見されて、それに賛同する学者が多いと、今度はそれが真実として認められます。
以前の真実は「真実ではなかった」ということになるわけです。
「相対性理論」で有名なアルバート・アインシュタインも、今では「まちがっていた」といわれていますね。


★ 真実は探求者の数だけある ★



真実は探求者の数だけあるのですから、どれが「正しい」と断定することはできません。
思い込みの度合いは千差万別ですが、それぞれがその人の真実なのです。
また、探求者たちも日々成長し、進化していきますから、それぞれの成長に応じて真実も変化していくのです。

 

★人によって異なる真実、それがつぎつぎと変わっていくような真実、条件が変わると容易に変わってしまう真実を、仏教では「世俗締―世俗の真理」と言っています。一般的には「常識」と呼ばれている内容で、「制限された通念」、「思い込み」といってもよいでしょう。


★「常識」は同じ国の中であっても、地域によって随分異なります。


秘密のケンミンSHOW 」というテレビ番組を見られたことがあるでしょうか?
各県で通用している「常識」が、日本のどこででも通用するとは限らないことをつよく気づかされる番組ですね。
すぐ隣の県であっても、習慣や食物の食べ方は驚くほど異なっています。
日本という一国でさえそうなのですから、世界の国々の「常識」が異なるのは当たり前だということです。

このように、人や国、宗教によって好き勝手に制限されている真実は、究極かつ普遍の真実とはいえませんね。


★わかっていることは 、「真実は各人の意識レベルによって異なる」ということ。
意識レベルが上昇すればするほど、さらに深遠な真実に出会える」ということ。
つまり、より「偉大な真実に出会うことができる」ということです。

人は毎日「自分が発している周波数に見合ったものを引きつけ、その人に見合った真実と遭遇(そうぐう)している」のです。




★さて、現在ただ今のあなたの「真実」は、どのあたりにあるでしょうか?

小鳥のたとえで言うと、「直線」でしょうか? 

現実を「直線」だと信じて生きている人たちは、「過去」があって「現在」があって「未来」があるというふうに、一直線上でのモノの見方をしています。
「過去」も「未来」も「今」のこの瞬間にあって、同時進行しているというふうに立体的に見ることはできません。

「えっ? 過去と未来が同時進行しているって、いったいどういうことなの?」
そんな疑問をもったあなたは、まさしく「直線思考型」の小鳥さんだということになりますね。

先人たちが伝えてきたように、あなたの一瞬一瞬の思いが、あなたの現実を創っているのです。
そして、思いが変われば、現実も変わります。
あなたが毎日このブログをひらき、エピローグまですべて読み終えられたとき、もう一度このページに戻って、この質問に答えてみてください。


今のあなたが「信じているもの」とは、何でしょうか? 
どんなことを「ほんとうのこと」だと思っているのでしょう?
何が、今のあなたにとっての「真実」でしょうか?




ハスの花


★ 来て、見よ。それはここにある ★



★仏陀(ブッダ=釈迦)はいいました。
来て、見よ」と。



★究極の真実はすでに存在しています。
あなたの外側にも内側にも、至るところに存在しています。
それは、あなたの眼前にあるのです。
ですから、「まずは、それを見なければならない」と仏陀はいいます。

★あなたはただハートをひらいて、幼子のように「素直」に「純粋な気持ち」で、ものごとを見ていけばよいのです。
一切の思い込み、先入観を取りはらい、自分勝手な判断などはせずに、ただ「ありのままを感じること」です。
「小鳥のお話」のように、あなたが体験し、理解すれば、それは「信」ではなく、「知」となります。



★仏陀はわたしたちを招き、こう言っています。
来て、見よ。それはここにある」と。



★わたしたちの「進化の旅」とは、「意識がめざめていく旅」です。
さあ、これからご一緒に「意識の進化の旅」にでかけましょう。



「正しさ」はその人の意識レベルによって異なる

2013年03月14日 13:10


「正しさ」はその人の意識レベルによって異なる



『「真実」はその人の「意識レベル」によって異なる その2』
            を読まれたT.Sさんの拍手コメントから



人によって「真実」…正しいと思うことが違う。そのことは仕事を通じて毎日のように感じることでもあります。
私は人によってその人の正しいは違うと思うので、私が思うことは伝えますが、押し付けることはしません。
ですが、人の「正しい」を振りかざす姿勢に相手を思う気持ちのない時にはそのことが本当に正しいのか?と、考えてしまうこともあります。
私は人を傷つけるとか、人そのものを大事にしない言動や思想が正しいとは感じられないです。
これも、偏った考え方なのでしょうか?



水色のバラのライン


ごもっともなご質問であると思います。
人の「正しい」を振りかざす姿勢に相手を思う気持ちのない時にはそのことが本当に正しいのか?と、考えてしまうこともあります』ということ、わたしもさまざまなことに思いを巡らしてみました。
今回は、そこから発展した内容を少しお伝えしたいと思います。

過去記事のなかの『真実は探求者の数だけある』という箇所で、わたしはつぎのように書いております。

★真実は探求者の数だけあるのですから、どれが「正しい」と断定することはできません。
思い込みの度合いは千差万別ですが、それぞれがその人の真実なのです。
また、探求者たちも日々成長し、進化していきますから、それぞれの成長に応じて真実も変化していくのです。


上記の「真実」を「正しさ」に置き換えてみていただくとおわかりになると思いますが、「正しさ」も人の数だけあるわけですね。思い込みの度合いは千差万別ですが、それぞれがその人の「正しさ」なのです。そして、それぞれの成長に応じて「正しさ」も変化していくのです。

自分から見て、たとえ相手が自己中心的な「正しさ」を主張していると思っても、現在の意識レベルではそれが相手の「正しさ」なのですから、「今のあなたにとっては、それが正しいことなのね」と認めるしかないのです。「あなたの正しさはまちがっているよ」と言ったとしても、わからない人にはいくら説明したところでわからないし、言えば言うほど気分を害されるだけですね。

低い意識レベルから生じている「稚拙な正しさ」に対して、一時的に腹が立つことはあっても、結局、意識の高い者が許容してあげるしかないということです。
人の魂のレベルには、赤ちゃん・幼少時期から老年期まであるので、そういう「正しさ」しか認識できない段階があっても、不思議はないということを知っておくことですね。

人を傷つけるとか、人そのものを大事にしない言動や思想が正しいとは感じられない」ということについてですが、それらを正しいと感じるか感じないかは、もちろんあなたの自由です。
それを正しくないと感じるのは、あなたの意識レベルでの判断です。ですから、あなたと同じ意識レベルで考える人は、あなたに同感の意を示されるでしょう。

この世の中の「正しい」と「正しくない」の境目がどこにあるのか? と言いますと、そんな境目など「ない」と言うしかありません。
「人を傷つける」と言っても、同じ言葉で傷つく人と傷つかない人が、現にいるのです。それも意識レベルの違いでそういうことが生じるので、結局「正否」の判断はつけられないのです。

自分にそのつもりが全然なくても、相手を傷つけている場合もありますしね。
勝手に相手が悪く受けとって、傷ついている場合です。

自分が相手を傷つけようなどと微塵も思っていないのに、なにげなく言ったことが、相手に悪く受け取られてしまった場合、それで相手がひどく傷ついたとしたら、それはどういうことになるのでしょうか?
現に相手は傷ついてしまったのだから、「正しくないことをした」ということになるのでしょうか?
それとも、それは相手の受け取り方の問題だから、言ったほうには責任がないということになるのでしょうか?

それがほんとうに人を傷つけたいと思って表した言動なのかどうか? を考えたとき、自分自身のことならわかりますが、他者の気持ちまではわからないので、相手がどういう意図でその言動に至ったかを判断することは大変難しくなってきますね。



    水仙


★ 人そのものを大事にしない思想とは? ★



「人そのものを大事にしない言動や思想」というのは、世の中のいわゆる悪い人間、気に入らない人間、言うことを聞かない人間、有害な人間は殺してもよいという理念が基盤にあるいわゆる「戦争」とか、「死刑」とか、そういうもののことを指しているのでしょうか?
確かにそれは命というものを軽視した意識の低い段階での考え方であり、行為であると思います。

ひとつたとえ話をしましょう。
今ここに極悪非道の人がいて、そのために大勢の人たちが苦しんでいるとしましょう。その悪人を捕えて死罪にすることはどうでしょう? 正しいことでしょうか?

天下の将軍や副将軍に対して刃向かった人たちや、民衆を苦しめているような悪党と呼ばれる輩を「成敗!」と言って、つぎつぎと倒すのを得意とする時代劇が日本にはありますね。成敗中は、必ず軽快な音楽がながれていますが。(笑)
このように、悪玉は最後には滅び、善玉が栄えるという筋書きで、「勧善懲悪の思想」にハマった作品が多々あるのを、皆さんも十分にご存じのことでしょう。

最後に悪者が懲らしめられ、滅びなければ、何だか気持ちが落ち着かないのでしょうね。ですから、必ず善玉のほうが悪玉を成敗して、「めでたし、めでたし」で終わることになっています。そういうパターンに自らハマって、気分良く見ている人たちがいるからこそ、そういう番組が長期にわたって存続するわけですね。

善いことを勧め、悪いことを懲らしめること。これは、道徳的な見解ですが、仏教でも「善いことをして悪いことはするな」という教えがあります。
そういう単純な教えを目にするとき、「では、何が善いことで、何が悪いことなのか?」、「善いことと悪いことの境目はどこ?」と考えることがあります。

結論から言いますと、愛と憎しみが同じ線上にあるように、善いことと悪いことも、同じ線上にあります。どちらかの割合が多いか少ないかだけのことです。

先ほど極悪人を死罪にすることについて書きましたが、その結果みんなが平和で幸せになって「めでたし、めでたし」となったとしても、極悪人の命を奪うという行為は「人そのものを大事にしない」行為であることにちがいはありません。極悪人からすれば、「天下の将軍ほど極悪なやつはいない」と思っているかもしれませんしね。
宇宙から見れば、どっちもどっちということになりましょうか。

そこで、「罪を憎んで人を憎まず」というような言葉が生まれてくるのです。



菜の花



★ 「罪を憎んで人を憎まず」について ★



罪を憎んで人を憎まず」というのは、「罪を起こす人間にも、それなりの理由や覚悟があるわけだから、その罪を犯した人間を憎むのではなく、その人を犯行に及ぼした種や理由を憎みなさい」という意味に使われているようです。ことば辞典を調べると、そのように書かれています。

罪を犯す人々が多いのは、社会が悪いからだという人たちはたくさんいます。支配者の政治が劣悪で酷いから、そういう人たちがたくさん出現するのだということです。
生きるためにはパンが必要。でも、仕事にありつけず、お金がない。勤労意欲はあるのに、誰も雇ってくれない。政府は何もしてくれない。それなら、パンを盗んでもいいじゃないか、泥棒をしても致し方ないじゃないかということになるわけです。

それが、彼らにとって悪を犯した「正しい動機」であるとしたら、それに基づいて犯した罪は憎むべきではないということになりましょうか。
その悪人を死罪にするのではなく、仕事を与えてまともな生き方ができるように懇切丁寧に指導することこそが、緊急に必要なのではないかと、わたしなんかは思うのですが…。

「悪いやつは懲らしめるべきだ」とか、「悪いやつは地獄に堕ちて当然だ」とか思っている人が、かなり多いように感じるのですが、その人とその人が行なった罪を別々に考えることがなかなかできにくいように思います。
皆さんがどのように思っておられるのか、正直なところを知りたいです。



ume


★ 裁かないこと ★



ヨハネの福音書」の8章1節~11節を読まれたことがあるでしょうか?
おそらくこのお話を知っている人は多いのではないでしょうか? 

これは、オリーブ山に行かれたイエスが朝早く宮に入ったとき、民衆が寄って来たので、教えを説いておられたときに起こったお話です。

イエスが人々に教えていると、律法学者やパリサイ人たちが、姦淫の場で捕えられたひとりの女をひっぱってきて、女を中に立たせて、イエスにこう言いました。
「先生、この女は姦淫の現場でつかまえられました。モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」と。

彼らがそう言ったのは、イエスをためして、告発する理由を得るためであったと、聖書には書かれています。
ユダヤ人は、モーセが語ったことは神の言葉だと信じていたので、もしイエスがこの女を赦したなら、イエスは神の使者ではないと判断することができましたし、モーセの律法通り、「石を投げなさい」とイエスが言ったとしたら、死刑執行の権利は当時ローマ人にあり、ユダヤ人はその権利を持っていなかったので、それに違反することになります。どちらにしても、イエスを告発することができるように企んだわけですね。

しかし、イエスはただ身をかがめて、指で地面に何か書いているだけでした。それでも彼らが問い続けるので、イエスは身を起こして彼らに言います。
あなたがたのうちで罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」と。
そして、また身をかがめて、地面に何かを書き続けます。

それを聞くと、彼らは年寄り(年長者)から始めて、ひとりひとり出て行き、ついにイエスだけになり、女はそのまま残されます。イエスはその女に尋ねます。
「婦人よ、あの人たちは今どこにいますか? あなたを罰する者はいなかったのですか?」

彼女は言いました。「主よ、だれもいません。」

そこで、イエスは言うのです。
「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」


\ピンクの玉


あなたがたのうちで罪のない者が、まず石を投げつけるがよい」とイエスは言っています。 イエスは「石を投げてはならない」とは言わず、「投げつけるがよい」と言っているのです。「モーセの戒めを実行してもよい」と言っているのです。
「姦淫するな」という戒めは、モーセの十戒のうちのひとつです。死罪をもって罰せられる重大な罪のひとつで、姦淫の罪を犯した男女は共に死に定められていました。(レビ記第20章10に記載)
イエスがその罪をけっして軽く見ているわけではないことがわかりますね。

但し、「罪のない者がこの女を裁きなさい」と言っているのです。
もし律法学者やパリサイ人たちに同じ罪があるのなら、彼らも石打ちの刑を受けなければいけないわけです。ですから、「罪のない者だけがこの石打ちの刑を執行する資格がありますよ」と言ったのです。
だいたい女だけ連れてくることにも問題がありますね。女の相手はどうしたのでしょうか?

これは、唯一石を投げる資格を持っていたイエスでさえ、罪として定めず、罰しなかったというすばらしいお話ですが、イエスを嵌めようとした律法学者やパリサイ人たちに対して、気持ちよいほど上手に言い交わしていますね。さすがです。イエスのすばらしさをここで感じますね。

よくよく考えてみるに、わたしたちはエゴに支配された存在であり、罪だらけの人間です。生まれてから何ひとつ罪を犯したことがないと言い切れる人間が存在するでしょうか?
その「罪だらけの人間」が「罪を犯した人間」を裁くことなどできるわけがありません。もちろん、裁判官であってもです。この地球に生まれてきている者たちは、だれも人を裁くことなどできないのです。

しかし、この世では、罪を犯した人は当然のことながら、罪を犯していない人までを罪に陥れ、死刑執行をするようなことが多々行なわれております。皆さんは、冤罪がいかに多いか、その真相をご存じでしょうか? 

この物理次元では、いくら悪行をしたところでお金を積めば容易に釈放が適いますし、ないことを勝手にでっちあげられて無実の人のほうが逆に罰せられるような、そんなおかしなことがまかり通っている世界なのです。
低い意識レベルによって都合よく作られた法律に照らし合わせ、人間を裁くことがどんなに罪深いことなのかに気づいている人は、さほど多くはいないように思います。
この世は、権力によって人殺しが平気でできる世界なのです。
このような世界に「正しさ」などある筈がありません。


\ピンクの玉


マタイによる福音書第7章に、イエスの言葉が書かれています。

人を裁くな。自分が裁かれないためである。
あなたがたが裁くその裁きで、自分も裁かれ、あなたがたの量るそのはかりで、
自分にも量り与えられるであろう。

なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁(はり)を認めないのか。
自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。

偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。
そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。



       アネモネ


わたしたちは、皆これまでに身についてしまった考え方や尺度、また、魂の成長度、意識レベルのちがいによって、人の「善し・悪し」や「正しい・正しくない」を判断しています。
これが「目の中の梁」なんですね。

★最近の過去記事に、わたしのハイアーセルフから「神の眼で見ることの必要性」を教えられたと記しました。

もしイエス・キリストならどう考えるだろう? 
神の眼から見たら、どうなのだろう?
宇宙から見たら、どうなのだろう? 

と、考えてみることで、皆さんもさらに意識が広がり、上昇するのを感じられることでしょう。

汝の敵を愛しなさい」、「汝の隣人を自分のように愛しなさい」というイエスの言葉の深さを考えるとき、素直に「然り」とうなずき、頭が下がりますね。
なぜなら、それ以上の愛はないからです。

自分のことや相手のことが好きだから愛する、嫌いだから憎む、愛さない。それは、多くの人がやっていることですが、たとえ好きになれない自分であっても、自分のことを大切にすることが必要だし、どうしても好きになれない相手であっても、やはり人として大切にしなければならないということです。

わたしたちは「すべての人を大切にし、また大切にされなければならない存在」だと、イエスは語っているのです。
これ以上の愛の言葉があるでしょうか?



ふたつのハート
「正しさ」はその人の意識レベルによって異なる……。

よって、だれが何を思っても自由ですが、
その思いに責任をとるということだけは忘れないようにしていただきたいと思うのです。

自分が責任を取ることができないような言動は慎む。
それは必要であると思うのです。

ものごとを二元で考えないこと。
どんなことでも、どんなものでも、
すべては同じところから、ひとつのところから生まれている。


それを忘れなければ、他者に対しても批判することなく、
愛を持って接することができるのではないかと思います。


これは、あくまでも今現在のカヴィーシャの意識レベルでの見解なので、
さらに進化したものの見方があるかもしれません。
また何か気づきがあったときには、お伝えできればいいなと思います。

とても長くなってしまいましたが、
Tさん、これでお答えになりましたでしょうか?





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