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ひまわりさんと光のお母さんとの対話 ~第8弾 光/愛を受け取れる人、受け取れない人~

2017年04月16日 17:30


桜が葉桜に変わりつつ、日に日に気温が高くなっていますが、皆さま、お元気でしょうか? 

4月のセミナー後のお花見は、まだつぼみで花を見ることが適わず、とても残念でした。今年は全国的に開花時期が遅かったようで、大根島の桜も一週間ほど遅れました。お花見の10日後の13日にひとりで再度大根島に行ってみたのですが、そのときは満開で、芝生にはすでに散った花びらでピンク色に染まっていました。それでもまだまだ美しくて、有志の皆さんに見せてあげたかったと切に思った次第です。桜に「ありがとう」を言いながら、大塚山公園で写真を撮ってきましたので、どうぞ見てください。


大塚山の桜1
   2017年4月13日大根島大塚山公園にて



ひまわりさんと光のお母さんとの対話
~第8弾 光/愛を受け取れる人、受け取れない人~


<飴玉を受け取ることについて>

ひまわり:「困ったちゃんの心理」のシリーズで、ROM先生、光のお母様からいただく愛と光を飴玉と表現されていた箇所がありました。その表現がとても的確だと思いましたし、なんだかとても好きな表現なので光のお母様とのメールのやり取りなどでよく使わせて頂いています。
さて、つい先日でしたがネガティブな存在を引き寄せてしまった際に、ROM先生、光のお母様から今まで頂いた飴玉を私が受け取れていないとお知らせいただき、あまりのショックに呆然としました。飴玉をたくさん頂いていたことは理解しているのですが、それらを受け取れていなかったことは頭では全く理解できずにおり、ただただ涙が出るばかりでしたので、頭よりも身体の細胞のほうがそうだ、そのとおりだと言っていたように思いました。
初めての対話で「光のお母様からはすでに山のように飴玉をいただいていたことに気づいたら、もっと欲しいとは思わなくなりました。」とお伝えしていたにもかかわらず、ここしばらくの間、すっかり調子を崩してしまって何度も光のお母様のお手を煩わせてしまいました。今まで本当にたくさんの飴玉を頂いていたので、「それが身に付いていたらこんなに調子を崩すことにはならないでしょう」と指摘されて、おっしゃるとおり飴玉を受け取ることが出来ていなかったのだと思いました。ただ、受け取らないと拒絶したつもりはなく、ましてや捨てたりなどしていないのに、受け取れないということがどういうことなのかが頭では分かりにくいので、どういうことなのか教えて頂けませんでしょうか?



大塚公園の桜2
   2017年4月13日大根島大塚山公園にて


<飴玉を受け取るという意味>

光のお母さん:飴玉は本来舐めるものですね。舐めてその美味しさを感じなければ、いくら持っていても意味がないものです。飴玉をしっかりと味わい、自分の胃の中、腸の中に吸収されたなら、それに満足感を覚え、身につくのです。
わたしが皆さんに差し上げている飴玉は、その人に応じて内容が違うので、味もさまざまに異なっていると思いますが、愛がいっぱいつまった光でできた飴玉です。その効果は細胞レベルにまで及びます。それを食べたら、一個で満腹感を覚えるはずなのです。ところが、一個では足らずに、何個も何個もほしがる人がいます。過去生を含め、幼少時からずっと愛に飢えていた人は、ほしくてしかたがないし、もともと欲張りの人は何十個も何百個も限りなくほしがります。ほしがるからその都度あげるのですが、その飴は一体どこにいったと思いますか? ひまわりさんの場合は、どうでしたか?

ひまわり:飴玉はもったいなくて、その場ではすぐに頂かずにとっておいていたような気がします…。また、ときどき自分には飴玉を頂く資格がないような気がしてしまって受け取れなかったのかもしれません。

光のお母さん:「受け取る」と言うよりも「受け容れる」と言ったほうが、わかりやすいかもしれませんね。わたしが言う「受け取る/受け容れる」というのは、飴玉をもらったらすぐに口の中に入れて、しっかりと味わいながら幸福感で満たされ、それを腹にまで落とすことです。その滋養あふれる光/愛が細胞レベルまで浸透して、細胞が喜んではじめて「受け取れた」と言えるわけです。そうなったら、本当に満足できるので、またすぐに飴玉を欲するようなことはありません。細胞がちゃんと記憶しているからです。
あげても、あげても欲しがるような人は、うまく消化吸収できていないか、もらったけれども籠に入れて積んであるだけで実際に口に入れてとことん味わっていないということになります。

さきほどひまわりさんは「ときどき自分には飴玉を頂く資格がないような気がしてしまって受け取れなかったのかもしれない」と言われました。「資格がない」というのは、「自分には価値がない」という観念から来ていますね。「自分には価値がない」と思うと、当然のことながら自分を愛せなくなります。「自分は愛するに値する人間ではない」と思うと、人からは何も受け取ろうとしなくなるのです。
毎回プラーナを補充しても、すぐにエネルギー/プラーナ不足になる人は、真に受け取っていない、受け取れていないからなのではありませんか?
もしあなたがそうだとしたら、わたしがあげた飴玉はもらったふりをしていただけで、真に受け取って、食べてはいなかったということになります。
どうですか? 真の意味で飴玉を一個一個喜んで受け取り、とくと味わってこられたでしょうか?

ひまわり:ものすごくショックなのですが、おっしゃる通りだと思います。受け取る資格がないと思うのは私の課題と直結していると思いますし、飴玉を味わえていなかったのだと思います。最近は毎日のように見えない身体が壊れてしまい、先日光のお母様が「細胞が見えない身体を保護しようという協力体制になっていない」とおっしゃられたことが本当にショックでした。もったいないから飴玉を取っておこうと思ったのは、大いなる間違いでした。飴玉が必要な細胞のためにも、頂いたらすぐに包みを開けて口に入れる必要があるのですね。

光のお母さん:そうですよ。飴玉は、口に入れて味わうことに意味があるのです。とっておいても何の足しにもなりません。
なかには、飴玉をもらっても、その飴玉の価値が全くわからなくて、感謝の気持ちがなく、「なんだ、これだけ?」としか思わないような人もいます。その愛を無下にしてしまっているわけですね。そういう人は、「受け取る能力がない」ということです。そういう人にいくら飴玉をあげても、ほとんど意味がありません。滋養になっていないのですから。だから、同じ過ちを何度も何度もくり返すのです。飴玉を今までたくさんもらっているはずなのに、その人がその後どうなったか、その結果を見れば一目瞭然ですね。

ひまわり:もう本当に耳が痛いです…。今まで頂いた飴玉をかき集めて今すぐ食べて、細胞に喜んでもらい、愛を感じてもらわなくてはと思いますし、受け取る能力を身につけなくてはと思いますが、受け取る能力はどうすれば身につくのでしょうか?



紫モクレン
     紫モクレン  撮影 光のお母さん


<「愛/光を受け取れる能力」は、「自分を愛する能力=他者を愛する能力」>

光のお母さん:そもそも「受け取れる」「受け容れられる」という行為は、自分を愛していないとできないものなのです。自分を真に愛していれば、素直に受け取り、受け容れることができます。ですから、あなたが自分自身をほんとうの意味で愛していれば、飴玉を喜んで受け取り、受け容れられるはずなのです。「愛/光を受け取れる能力」は、「自分を愛する能力=他者を愛する能力」と言ってもよいでしょう。そのことがわかりますか?

ひまわり:今まで飴玉を受け取っていたつもりだったのにできていなかった理由が良くわかりました。自分を愛することを止めてしまっていたと反省しています。辛くて自分の問題を直視できずにいたので、問題と向き合えずに自分を責め続けて時間とエネルギーを無駄にしてしまいました。申し訳ありませんでした。
これからはもっと素直になって、必要なときは光のお母様に「飴玉をください!」と手をあげます。そして頂いたら間髪を入れずに飴玉を口の中に入れて味わいます。

光のお母さん:わたしが差し上げた飴玉を、心から喜んで受け取ることができるのはたいてい個体です。但し、個体の霊格にもよるので、すべてが受け取れる能力があるとは言い難いですが、本体の場合は、まちがいなく愛と感謝の気持ちで受け取り、受け容れて、そして愛と感謝を返してくれます。高次元の存在ほど、受け取る能力は高いということです。
残念ながら、肉体意識でそれができるのは、現在わたしの知る限りではいらっしゃいません。つまり、高次の存在ほど、自分自身を愛し、他者を同じだけ愛することができるということです。
「愛/光を受け取れる能力」は、「自分を愛する能力=他者を愛する能力」であるということを、覚えておいていただきたいと思います。
 
       
白い花
        撮影 光のお母さん


<光の積木崩しについて>

光のお母さん:くり返し「光の積木崩し」をしている人が多々おられますが、そういう人は飴玉を味わうことなくドブに捨てているのです。その人のために費やした労力と時間が無駄になったことを知ると、「その人の選択の自由だから仕方がない」と思いながらも、やはりがっかりしますね。

ひまわり:受け取っていたつもりが受け取れていなかった私は五十歩百歩だと思うのですが、ドブに捨てるということが私には理解しにくいです。ドブに捨てるということは自己探究の大変さや苦しさから、光に向かうことを諦めてしまったということでしょうか?

光のお母さん:して差し上げたこと(飴玉)の価値や意味、その効果がわからなくて、厚意を無下/だいなしにしてしまうということです。わたしのほうからすると、したことが全く無駄となってしまっていて、やった甲斐がないということです。

たとえば、過去にお金に困っている人がけっこうおられたので、電話相談料を無料にしたり、経済的な余裕ができるまで何か月も待ったり、その人がお金の心配をせずに光に向かえるよういろいろと便宜を図ったりしたことがありました。しかし、結果を見ると意味がなかったことがわかるのです。悪霊の力に負けてしまったのか、三次元的思考に堕ちてしまったのか、何の報告もなしに光のコースを止めてしまった人が何人もいらっしゃいます。もらった飴玉をしっかりと味わっていれば、決してそういう結果にはならないのです。
そういう人は、飴玉をいくらもらっても「受け取っていない」「受け取れない」のです。欲しいくせに受け取れない。だからいつまで経っても、光/愛の何たるかがわからないのです。
「天邪鬼」を演じている人や恩を仇で返すような人は、光や愛に満たされることはありませんから、決して幸福にはなれません。自業自得なのですよ。

ひまわり:私も「天邪鬼」の傾向があり、ブログの「困ったちゃんの心理①」を読ませて頂いた後、光のお母様に「あれは私のことだと思いました」とメールさせて頂いたのを覚えています。しかし、何度もブログを読ませて頂き、課題等を進めて行くうちに、「天邪鬼」でいると相手を傷つけるだけではなく、自分の首を絞めるだけだと思いましたので、もう卒業しようと決めて素直であるよう心がけています。むしろ「天邪鬼」よりも「良い子」を演じる方が卒業しにくいように思っております。どちらも本来の自分ではなく仮面をつけて演じているという点でコインの表裏で同じことのようにも思えるのですが、光のお母様はどう思われますか?「天邪鬼」は明らかに損をするけれど、表面的には得になりそうな「良い子」や「善人」を演じることをやめられない人が多いような気がしますし、自分もその傾向が強いのでこのあたりを掘り下げたいです。

光のお母さん:わたしからすると、「天邪鬼」も「良い子」も自己欺瞞なので、本人が苦しいだけで、何の得にもならないと思います。
「良い子」や「善人」を演じても、わかる人にはすぐにわかるものですよ。世の中には、「偽善者」にすっかり騙されてしまっている人たちも多々おられるようですが、人を見る目を養うこと、その人の本質を見抜く力が必要ですね。特にカウンセラーのような仕事を目指しているような人は、透徹した目がないと、できません。自分自身のことをよく知らず、自分自身を欺いているような人、つまり自己欺瞞に陥っているような人は、相手が偽善者かどうかを見極める目を持つことはできないのです。
非難中傷して人を裁いてばかりいるような人がけっこういますが、そういう人というのは、相手の外面、それもほんのわずかな部分だけしか見えていないということです。

ひまわり:私は長い間、自己欺瞞に陥っていたことに気づいていませんでした…。ただただ苦しかったのは確かです。自己欺瞞に陥っている人は他者を見極める目がないというのが理解しにくいのですが、教えて頂けますでしょうか?

光のお母さん:「欺瞞」とは、「だます、あざむく」という意味ですから「自己欺瞞」とは、「自分をだましている状態」です。自分の良心/本心に反しているのをどこかで気づいていながらもそれを正当化している状態、あるいは、自分に問題があることに全く気づいていない状態のことを指しています。
自分自身のことを正しく見て、判断することができない人間が、どうして他人のことを正しく見て、判断することができるのでしょうか? また、自分の良否や真偽、正常か異常かを見極められないような人間が、他人の良否や真偽、正常か異常かを見極めることができるのでしょうか? 
どうですか? これでご理解いただけましたでしょうか?

ひまわり:ご説明いただきありがとうございました。理解できました。もっと内側に向かう必要性を強く感じました。



桜
    大塚山公園の桜  撮影 光のお母さん


<おせっかいについて>

光のお母さん:イエスが言っていますね。「なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう」
(マタイによる福音書7章3節~5節:日本聖書協会 聖書より)

イエスは、「裁いている人の目の中には梁が存在していますよ」と言っているのです。裁いている人自身は、相手のことをよくわかっていると思い込んでいるのですが、目に「梁」があるために、ほんとうのことが隠れてしまって見えなくなっているわけです。こういう人に限って、他人の目にある小さなちりが気にかかって仕方がないんですよね。そして、相手の目にあるちりの存在を指摘して批判や非難中傷をしたり、「そのちりは邪魔だから、私が代わりに取り除いてあげよう」と、自分では善意だと思って、その人のためにおせっかいなことをやろうとしてしまうわけです。そういう人、周囲にいませんでしたか?

ひまわり:はい、たくさんいました。そして自分もその傾向がとても強くあります。善意のつもりでやっていることなのでおせっかいではなくて思いやりのつもりなのです。こちらの善意のつもりで行ったことが、結果として相手にとって良い結果をもたらさなかったとき、自分がしたことはおせっかいだったのではと思ったのですが、それを認めたくない自分がいました。「私の善意に応えない相手が悪いのだ、私は悪くない」と思いましたが、どのような反応をするかは相手の自由ですし、相手が期待通りの行動をしないからといって怒るのは私の主張を押しつけているだけだと気がついたら、今度は相手に申し訳なくなって執拗に自分を責めました。
誰も幸福にならないことに時間とエネルギーを費やしてしまい、つくづくバカバカしいことをしていたと思います。
そして冷静に考えると、相手に対するおせっかいはほんとうは自分自身の問題を相手に投影していただけなのではないかと思っています。
この数ヶ月、おせっかいな自分のせいでかなり愛から遠ざかってしまいました。おせっかいはもう卒業したいと思います。もっと自分の内側に向かって行く必要を感じます。

光のお母さん:そうですね。自分のことを棚に上げて「おせっかい」という「愛の押し売り」をしないことですね。

「なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう」
このイエスの言葉を、ぜひ覚えておいてほしいのですが、ひまわりさんは、この「梁」とは何のことだと思いますか?
「梁」が象徴しているものは、何でしょうか?



モクレン
     紫モクレン  撮影 光のお母さん


<目の中の梁とは何か?>

ひまわり:「梁」は家の屋台骨でもありますので、自分の根幹となるもの、思い込みも含めた信念を象徴しているのではないかと思います。また、「梁」は「チリ」と比較するととてつもなく大きなものだと思うので、その大きな「梁」、信念、思い込みによって目が塞がれている、視界が遮られて狭くなっているということなのかなと思ったのですが、如何でしょうか?

光のお母さん:そうですね、イエスがどんな内容を想定して「梁」と言われたのか、その真相は定かではありませんが、わたしの見解では、『目に梁が入った人』というのは、『間違った思い・勘違い・ズレた受け取り方をしている人』『異常波動を引きつける原因をたくさん持っていて、物事を自己中心的に受け取る人』つまり、『勘違いをしているくせに、自分は間違っていないと思い、自分の間違いを認めたくない人』すなわち『歪みがひどい人』ということになりましょうか。
そういう人は自分の都合のよいものだけを見たり聞いたりしますが、都合の悪いことは見ようとも聞こうともしません。「悪霊に影響されている人は、聞く耳を持たない」と以前から伝えておりますが、「あなた、勘違いしていませんか? その受け取り方は間違っていますよ」と言うと、「間違っているのはおまえのほうだ、正当化しているのはおまえのほうだ」と逆上して悪態をついてくるような人です。『自己愛性人格障害』のある人に多い症状です。すべて『歪んだ自己愛』から生じていることですね。

ひまわり:そのような人と話をしていても堂々巡りとなってしまい、話が通じなくて嫌になって離れたくなってしまいます。ある人物がすごく嫌になってしまい、理由を告げずに離れていったらその人物に執拗に追いかけてこられたという過去生が出てきましたので、「それはおかしい」と伝える必要があると思っていますが、逆恨みされるような気がしてなかなか難しいです。異常波動になって悪霊等のネガティブな存在をたくさん憑けてしまっている人に、おかしいと指摘する際のアドバイスを頂けませんでしょうか?

光のお母さん:逆恨みされるのが嫌なら、言わないことです。相手を大切にしたいのか、自分を大切にしたいのか、どちらも大切にしたいのか、あなたが何を選択したいかです。
相手に悪く思われて、嫌な思いをしたくないのは、自分を大切にしたいだけですから、そこに相手への愛はありません。怖れ自体が愛の欠如です。何かを怖れているとき、そこに愛はないと覚えておいてください。
もし愛をもって、相手に「あなたの状態、言動おかしいよ」と伝えたいなら、相手がどのような反応をしようが、その結果を気にしないことです。毅然として伝えることです。それができないなら、あなた自身にまだ準備ができていないということになります。
あなたに説得する能力があれば、憑いている悪霊だって改心させることができますし、彼らを浄化してあげることも可能となるでしょう。「逆恨み」を懸念しているようなら、最初から近づかないこと。関わりを持たないことです。以前に悪霊の対処法をブログに書いていたと思いますが、思い出していただきたいと思います。

ひまわり:ああ、耳が痛いです…。伝える努力はしているつもりなのですが、相手の反応や結果を気にしすぎるのだと思いました。結果が伴わないと自分の言い方が悪かったのではないかと落ち込んで自分の行動を後悔してしまい、ネガティブ霊の影響を受けてしまうなど、明らかに準備不足でした。説得する能力を身につけて伝える際も、その後も毅然とした対応ができるようになりたいです。私の「梁」は弱い上に歪んでいるようです…。

光のお母さん:実は、このイエスの言葉を思い出したとき、「梁」について調べてみたのですよ。その文字の語源は、「向こうへ渡る」という意味が変化したものだそうです。飛び越えられるくらいの川幅ではないとき、川に丸太や何か渡れそうな「横に掛かる」物を置いたりしますが、そのように「向こうへ渡る」行為によって生まれた「横方向に掛かる部材」が「梁」なのだそうです。建築的に言えば、「梁」は屋根を支えるため両側の支柱に架け渡す横木のことです。建物は、「柱」と「梁」の両方あってこそ成り立つものですから、この横木となる「梁」が弱すぎたり、歪んだりしていると、柱が倒れてしまいますね。そういう重要な役目を担っているものです。

ひまわり:土台、梁、柱、あらゆる部位を歪みなく強固にしていきたいです。そのためにも、まずは自分へ愛を向けます。
愛を受け取ること、受け取れないことについて色々な視点からご説明くださりありがとうございました。このたびの対話で自分自身が如何に自分を愛せていなかったかが良くわかりました。自分を愛せるようになるためにアファメーションをたくさん唱えようかと思ったのですが、光のお母様が「意識が変われば細胞は変化する」とおっしゃったのが心にとても響きました。今まで学んで来て知っていたはずのことが頭でばかり考えていたらするりと抜けてしまったようで、自分を愛することは難しいと思っていましたが、シンプルに無条件にただ自分を愛することに意識を向けて細胞が変化するよう促します。そして、他者の愛を受け容れられる器になっていきたいです。ROM先生、光のお母様からの飴玉以外にも、受け容れることの出来なかった愛が多々あったのではないかと思いました。愛はそこにあったのに、自分が受け容れることができなかった、受け容れることができずに自分は愛されていないと思っていた。これも負の連鎖だと思いますので、今、断ち切ろうと思っています。
このたびも対話をさせていただきありがとうございました。

光のお母さん:どういたしまして。気づきが得られ、内容が深まったのであれば幸いです。




花の贈り物
      贈り物 撮影 光のお母さん


◆光のお母さんからのメッセージ



ひまわりさんと光のお母さんとの対話も第8回目を迎えました。記事に掲載するのは、とりあえず今回で終了したいと思うのですが、対話はまだまだいろんなテーマで続けていきたいので、たくさんできましたら、今度は別のかたちで皆さんにご覧いただけるようにしたいと思っています。

ROMからのメッセージは3記事だけを残し、あとの14記事は削除させていただきました。ROMがもう必要ないと言った(皆さんに本体が入らなくなり、個体すら入っているケースがごく少なくなった)からですが、大切な話も網羅されていましたので、重要な箇所のみピックアップして、またまとめて記載したいと思っています。
これからも、過去記事で必要性を感じなくなった内容はどんどん削除していき、整理していきたいと考えておりますので、どうかご了承ください。




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